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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第四章 ゲルハルステン望郷編
55/75

先駆者とは時として悲しき者

 寝耳に水。実に巧い表現だ。

 グスタフ・ヴェネシュは手にする装飾とは無縁の安価なフォークとその先に突き刺した鶏肉のソテーの一片をそのままにして、なるほどと頷いた。

 彼が少々遅くなった昼食を摂るべく、休み時間無しで営業しているレストランの出入り口を潜ったのは三十分ほど前である。コノリギス市街地にて創業九十年を謳う老舗であり、建屋及び調度品は当時から変わらずに使用されていた。木製のそれらは言うまでもなく、石や鉄、土を素材とした空間は乾いた色彩の中に時の流れの重みを感じさせ、実はそれが食事の隠し味でもある。雰囲気もまた美味の一端と知るグスタフ・ヴェネシュはほど良い厚みと使い込まれた傷が歴史を物語るカウンター席に独り腰を降ろしていた。

 数少ない昼用のメニューの中で一番上に記されているものをグスタフ・ヴェネシュは注文した。いや、彼よりも十歳は年上と思われる『看板娘』ミレーヌがこれで良いかと、一方的にではあるが慣れ親しんだ素振りに抗えなかっただけである。

 家業に精を出し過ぎて婚期を逃したのか、理由はともあれ人知れず後家として戻ってきたのか憶測は如何様にも考えられるが、その様な彼女が毎朝捏ねる手作りのパンはグスタフ・ヴェネシュのお気に入りの一つである。故に思い付けばこの店に通う。主菜にはそこまで拘らなかった。

 味わい深い店内には五名ほど先客がいる。彼ら彼女らには既に食事が提供されている。隣の椅子の背もたれに投げたコートのポケットをまさぐり、食後の予定を記したメモ紙に今一度目を通しておくべきか思い立つと同時に『看板娘』ミレーヌが注文の品を運んできた。

「グスタフ、近頃はどうだい?」

 慣れた手つきで配膳を行う『看板娘』が求める回答は仕事に関する件か、それとも浮世についてか。問い掛けられた男は唇の端を歪めた後に彼女へ一瞥と共に答えた。

「まぁまぁだな。」

「へぇ。このまま巧く事が運んで欲しいものだねぇ。」

 言葉とは裏腹に『看板娘』ミレーヌは関心の様子を表情に描いていない。二人の取り留めのない会話の間を縫って二頭の馬によるそれぞれの嘶きが耳に届いた。

「さては新たなお客さんじゃないか?」

 馬たちの主人、グスタフ・ベネシュはナイフとフォークをそれぞれの手にした。

「その様ね。今日は忙しくなって欲しいわ。」

「お互いにそうありたいものだ。」

 使い込まれた木製のトレーを小脇に抱え、空いている側の手をグスタフ・ヴェネシュの肩に添えた後、『看板娘』ミレーヌは履き慣れたスカートの裾を翻した。

 主菜である鶏肉のソテーを五等分に切り、その後に己の拳ほどの大きさのパンをかじる。味は普段と変わらない。満足気に独り頷くグスタフ・ヴェネシュの耳に『看板娘』ミレーヌの声が届いた。

「外はお寒うございましたか。中でごゆっくりどうぞ。」

 多少の事ではびくともしない女だと思っていたが、声が僅かに上ずっている。普段であれば、適当に空いている席に座りな、と良い意味で気さくな雰囲気を纏い、それを誰もに受け入れさせる女にここまで言わせるとは。この庶民的なレストランでは弄ぶほどの良い男、もしくは高貴な身分の御仁だろうか、とグスタフ・ヴェネシュは勘繰った。だが、自分には関係ないことだ、と切り揃えた鶏肉のソテーの左端から二番目にフォークを突き刺した。

 長い年月と共にざらつきとは無縁となった石貼りの床がこつりこつりと靴音を響かせている。客人は空いている席へ向かっているのだろう。その軽快な音がこちらに近付いている。歩調からして女か。

「グスタフ、こちらにいらしたのですね。」

 『看板娘』ミレーヌの声を僅かに上ずらせた客人、エルスノアの姿にグスタフ・ヴェネシュは目を見開いた。確かにこの場所に似つかわしくない人物であり、コノリギス市街地においては高貴な身分に変わりなかった。だがしかし。グスタフ・ヴェネシュは四股のあらゆる動きを停止させ、口だけを動かした。

「協会長様が何故この様なところに?」

「あなたを探していました。」

 エルスノアは至極まっとうな疑問に対し、端的に受け答えた。グスタフ・ベネシュは顔が火照るのを感じつつ、まだ何も口に入れていないにもかかわらず、ごくりと喉を鳴らした。

「自分は協会長様に食事でも一緒に、とお誘いしましたが、まさか今日のこの時とは…。」

「その件ではありません。わたしからお願いがあってこちらに足を運んだのです。」

 息を切らす、までは達していないものの、普段より大きめの声で語るエルスノアの面持ちは決意と焦慮が表面に浮き出ている。その後ろで彼女の従者ばりに立つ『看板娘』ミレーヌは腕に掛けた預かりもののケープをそのままに、二人の男女へ視線を行き来させていた。

「判りました。ご用件をお伺いしますが、どうして自分がここにいるとお判りになったのですか?」

 グスタフ・ヴェネシュは立ち上がると隣の椅子の背もたれに投げた己のコートを奪う様に掴み取り、エルスノアに着座されては、と手を差し伸べた。それに対し彼女は首を横に振って応えた。

「簡単です。あなたの馬たちが外に繋がれていましたから。」

「ご尤もです。して、自分は協会長様にどの様に役に立てと?」

「わたしは今からメツァールントへ赴きます。グスタフ、あなたにわたしを運んで貰いたいのです。」

「今からとは…今すぐにでも、という事でしょうか?」

「言葉の意味をそのまま受け止めて頂いても構いません。」

「なんとも、自分は協会長様にいつも驚かされっぱなしです。」

「運送を生業としているあなたなら道も詳しいでしょうし、最短最速でメツァールントに到着すると信じています。」

 エルスノアの言葉はグスタフ・ヴェネシュに少々困った表情を作り出させていた。

「実のところ、自分は最短最速よりも安全第一の馬の捌き方をしているので、協会長様が思っている様な怒涛の速さにはお応え出来るかどうか…。」

「そうですか。」

「はい。」

「そこを曲げてお願いは出来ませんか?」

 仕事の信条を包み隠さず伝えるグスタフ・ヴェネシュは一流と言えるかもしれない。だが、彼の意見は目の前に立つ女二人が求めるものではなかった。視線を落として残念がるエルスノアの後ろでは呆れた様に首を横に振る『看板娘』ミレーヌが手近に置かれたポットを掴み、細かなひび割れ模様が施されたグラスに水を注いでいた。

「協会長様、お水を飲まれますか?」

「有難う。でも、わたしは早々に立ち去る予定ですから。」

「そう遠慮せずに。少し落ち着きますよ。」

 半ば無理やりな勢いで『看板娘』ミレーヌは水を八分目まで注いだグラスをエルスノアに手渡す。彼女は両手で受け取り、適度に薄い淵に麗らかな唇を添える。顔を斜め上に向け、白い喉を晒して飲み干した。手渡した者の言葉通り、落ち着きを要していたのかもしれない。深い紺色の立ち襟の奥で上下に動く喉が気になる。グスタフ・ヴェネシュは誰にも触れさせた事が無いであろう喉が潤いを求め、渇きを癒す音色を聞き入っていた。

「ミレーヌ、あなたの言葉通りでした。わたしは大きな声を出し過ぎて少し興奮していたのかもしれませんね。」

 まるで旧知の仲の様な台詞にグスタフ・ヴェネシュは眉をひそめた。この街のあらゆる者が協会長たる人物を知るが、その逆も然りなものであろうか。

「お気になさらないで。幼い時に一緒に遊んだ仲じゃないの。それに…女の切な願いに二の足を踏む石頭に少し考え直す時間を与えただけよ。」

 中年を迎えた女性特有の笑みをたたえる『看板娘』ミレーヌの目尻に複数の皺が走り、細めた瞼の奥にある瞳は侮蔑と憫然を表現していた。無論、その瞳を向けられた対象が誰であるかもグスタフ・ヴェネシュは痛いほど理解していた。

「一方的に急なお願いをしたわたしの方こそ考え直さなければなりませんね。ついつい日頃のよしみに甘えてしまいました。」

 一時の沈黙を置いて、エルスノアは両手で包む様に持つ細かなひび割れ模様が施されたグラスの表面を弄ぶ仕種を見せる。年頃の女性の恥らう姿を目の当たりにしたグスタフ・ヴェネシュは弛緩しきった唇を結び直す。そして咳払いを一つ、放った。

「いやぁ、普段は穏やかな協会長様が珍しくもはきはきと喋られるものですから、実は驚いていたのです。」

 場を取り繕うような台詞を吐いたグスタフ・ヴェネシュの前で恥らう姿を見せる年頃の女性は期待の色を滲ませていた。

「で、御出立の用意は既にお済ですか?」

 ようやくその気になったか、と『看板娘』ミレーヌはふんと鼻を鳴らしながら顎を僅かに上へ向ける。嫌味は感じられず、満足のであった。

「そうですね。すぐにでも鞄の用意を済ませなければなりませんね。」

「かしこまりました。」

 グスタフ・ヴェネシュはちらりと食卓に置かれた皿へ視線を送る。

「これらを食べ終わった後に協会本部へお伺いする、という段取りでも宜しいですか?」

「勿論ですとも。わたしは一足先に戻っていますから、焦らずにお召し上がり下さい。」

 エルスノアは満足げに軽く会釈すると小走り、とはいかないものの、やや早めの歩調でレストランを後にした。普段と変わらず物腰柔らかな雰囲気を彼女は取り戻したとグスタフ・ヴェネシュは満足を覚えたが、少々の違和感も同時に芽生えていた。

 彼女が軽く会釈をした際、胸許に輝く存在を知った。人間であれば誰もが魅惑を覚える煌きを放つ黄金の指輪を同素材と思われる華奢な鎖を用いてペンダント状にしてぶら下げていた。彼女が装飾品を身に纏う姿をグスタフ・ヴェネシュはこれまで見た覚えがない。

「何ぼうっとしているのさ?焦らずにとは言ったけど、のんびりしろとまでは協会長様は言っていないよ。」

 小突かんばかりの勢いの口調にグスタフ・ヴェネシュは我に返る。あぁ、とそっけない返事と共に引き出した椅子に腰を下ろし、冷め掛けている鶏肉のソテーの一片にフォークを突き刺した。店内を見回す。己以外の客たちは何事もなかったかのように食事を愉しんでいた。

「一つ教えてくれ。」

「何さ。勿体ぶらずに早くお言いよ。」

「ミレーヌ、君は協会長様とは旧知の仲、なのか?」

 手にするパンを半分にちぎり、『看板娘』ミレーヌに差し出す。この店の従業員らしく彼女は首を横に振った。

「あたしが幼かった頃、協会長様は少し歳上のお姉ちゃんって感じだったよ。彼女が暇な時はわたしの手を取ってこの街の中を探索したのも良い思い出だね。それが今では逆もいいところ、母と娘みたいな見た目になってしまったのさ。」

「母と娘、か。他の連中も同じ様な思いなのだろうな。」

「協会長様は剣霊帝様に選ばれた唯一の人間。歳を取らなくても不思議な事ではないんじゃないのかい?」

 使い古されたカウンターに腰を預け、過去の懐かしい日々に想い耽る『看板娘』ミレーヌは感慨深そうな眼差しを天井へ向ける。薄暗い世界に経年の劣化は見当たらない。過度な装飾品が奢られている訳でもないが、寂れた雰囲気を漂わせていない光景は四十路を迎えて久しいであろう女性の記憶に呼応しているかの様である。

「旧知の仲なんて聞くのは何か思うところがあるんだろう?」

 鶏肉のソテーを食べ終え、皿の上に残る甘辛いソースをちぎったパンで丁寧に拭き、口に運ぶ。グスタフ・ヴェネシュは喉を上下させた。年増の女性らしい一面を見せる『看板娘』ミレーヌに誰が本心を隠せようものか。彼はささやかな美味を提供してくれた食事と共に己の中で芽生えていた疑問を飲み込んだ。

「自分は協会長様が装飾品を纏う姿を初めて見たんだ。」

「あの方がそんなもの、していたかい?」

「高価そうな指輪をペンダントの様にしてぶら下げていた。あれは紛れもなく黄金製だ。気付かなかったのか?」

 あぁそんな事か、と言いたげな『看板娘』ミレーヌは呆れたように鼻から息を漏らした。手入れを怠っていない小鼻が膨らんだのが何よりの証拠である。

「協会長様とて女だからねぇ。他国へ出掛けるんだ。多少のお洒落ぐらいに目くじら立てるんじゃないよ。ところで、そのメツァーなんとか、て街は何処にあるんだい?」

 中央だ、とグスタフ・ヴェネシュが答えると『看板娘』ミレーヌの表情は驚きと歓喜が入り交じったものと変わった。

「中央なら尚更さ。北や西の田舎とは違うんだからね。大陸中のありとあらゆる物が揃う洗練された国って話じゃないか。」

 まるで自分がメツァールントへ赴かんばかりに興奮している『看板娘』ミレーヌを尻目にグスタフ・ヴェネシュは食事を終えた。

「そうだが…。あの指輪、誰かにプレゼントされたものだろうか?」

 なるほど、話の核心を自ら晒すか。『看板娘』ミレーヌは使い込まれたカウンターに預けている腰をそのままに、暇にしている両手の内側を腰に倣ってそれぞれの脇に添えた。

「そんなの自分で聞きなさいな。」

「協会長様は恋愛とは無関係だ、としか言わん。しかも苦笑を伴いながらだ。この場合、第三者の意見を知る方が真実味がある。」

「ふうん。苦笑ってあんた、眼中にないって事じゃない?」

「いいから答えろよ。」

「どうだろうねぇ?女から譲り受けた、とか?」

「それにしては高価過ぎる。」

「じゃあ、亡くなった御両親の形見、とか?」

 思いついた事を適当に述べる『看板娘』ミレーヌに辟易を覚えたのか、グスタフ・ヴェネシュは立ち上がるとハンガーフックに預けてある自らのコートを奪う様に取り外す。薄茶色の表面が波を打って、静かになる。ざわつく持ち主の心境を表現していた。

「確かに高価で秀逸な品だが、それ以上に協会長様があの指輪を見る眼差しが自分は気に食わないんだよ。」

「だったらグスタフ、あんたがあの指輪以上の魅力を協会長様に植え付けるしかないね。」

「意地でもそうするさ。」

「へぇ…?知っているとは思うけど、協会長様の実年齢はうちらよりずっと上だよ。それを承知の上でかい?」

「あぁ。」

「自信家だね、あんた。」

「剣霊とその契約者だって実際の歳は離れている。むしろ離れ過ぎている。男に比べて女はその十倍近く生きている様なものだ。それと比べたらどちらが()()()なのか、大抵の者なら判るだろう?」

 グスタフ・ヴェネシュはコートの脇に掛けてあった帽子の頂点を摘み上げ、そのまま己の頭の上に乗せた。そろそろ行かないとな、とぶっきら棒な言葉と共に南西自治国家にて造幣されている銀貨を一枚、『看板娘』ミレーヌのエプロンの前ポケットに潜り込ませた。彼の昼食となった鶏肉のソテーの代金にしては多い。釣りはいらないと言わず、お釣りは、とも聞かない。顔馴染みのよしなと言えようか。

 先のエルスノアが足早であったのとは正反対に、ゆったりとした足取りのグスタフ・ベネシュの後ろ姿が遠ざかり、店の出入り口がぎこちない音を二回響かせた。外に繋がれた馬たちの嘶きが客人の出立を教えてくれる。

「男って本当にどうしようもないわね。張った意地の相手には気付いて貰えず、傍から見たら三流芝居にすら遠く及ばないのにね。」

 『看板娘』ミレーヌは綺麗に平らげた皿に視線を落としながら誰に聞かせる訳でもなくその様に語ると頭に巻き付けている布を解いた。店内の薄暗い照明の中でも黒髪に紛れて白い筋が数箇所に亘り走っているのが判る。老いの象徴であるその一つを摘み上げた『看板娘』ミレーヌは嫌悪や忌々しさよりも諦めに近い眼差しを向けた。

「歳を取らないって、どういう気分かしら…。」


 出立に必要な消耗品は雑貨屋にて購入した。携帯用の食料と飲料を鞍に括り付けてある皮製の鞄の中に放り込む。

 右側の鞄の中身を確認する。気付けに用いる酒については半分以上残っている。消毒に使用しても差し支えのない純度の高い酒である。これだけ残っていればおよそ一週間の行程に支障をきたす場面には遭遇しないだろうと思いつつも、最も華やかな年頃の姿をした協会長がざる(・・)であったら、と詮無き予想を描く。我ながら馬鹿な事を思いつくものだ、と苦笑を漏らすグスタフ・ヴェネシュの口許は清々しさを纏っていた。

「お前たち。これから運ぶのはいつもの様な荷物とは訳が違う。我らが協会長様だ。細心の注意を払えよ。」

 左右二頭の馬たちは鼻を鳴らした。グスタフ・ヴェネシュの檄らしき言葉に呼応したのか、単に偶然なのか、それとも小馬鹿にしているのか。一人の男にとってそれはどうでも良かった。いわば彼は人生の中で最も舞い上がっていたのかもしれない。

 御者台に普段と変わらずに腰を下ろし、馬たちに闊歩する様に手綱を一度打って指示を与える。エルスノア、いや、剣霊帝が鎮座する廟堂まで五分と掛からない。街を歩く者たちは平然と己のすべき事に勤しんでおり、グスタフ・ヴェネシュと空荷の馬車に一瞥を与えるだけである。これっぽっちの関心すら垣間見せようとしない。いわば平凡な日常であり、平穏な一日だと判る。しかし、エルスノアのあの切迫した雰囲気は何を示唆していたのであろうか、と勘繰りながらグスタフ・ヴェネシュは御者台の上で体を揺らしていた。

 このコノリギスを統治する存在、剣霊帝の側近であり代弁者とも言われている剣霊協会の協会長がわざわざ他国に赴く。メツァールントとなれば中央行政府との間に何かしらの衝突、もしくは捩れが生じた可能性が考えられる。会談の場に首都ゲルハルステンではなく地方都市に白羽の矢を立てたのは剣霊が納める地の代理人であるという事情を推して知るべきか。

 今ある四ヶ国の均衡に亀裂が生じてしまうのだろうか、とグスタフ・ヴェネシュは最悪の事態も脳裏に過ぎらせた。過去に於いて幾度となく続いた戦乱の世への序曲を奏でる事となるには、些細な出来事があれば事は足りると聞いている。冬の山頂から転がり落ちた小さな雪の塊りが周囲を巻き込んではそこにあるべき木々を薙ぎ倒し、無残な軌跡を残したのを幼い頃に見た覚えがある。とても衝撃的であり、今でもあの光景は目の裏に焼き付いている。それと同じだと誰に見せる訳でもなく頷く。

 小さな雪の塊りが大きくなりながらひたすら前へ転がるのと同じく、人間は心にあらゆる感情をいだいて前へ進む。戦乱の世となれば悲鳴と怒号、不安と憔悴、偽善と欺瞞をこびり付かせながら生き長らえようとするしかない。その様な者たちは経済の価値を忘れ、文明と倫理を遠ざける。人間の命は最も軽んじられ、貨幣は幾ばくかの価値を留めるが、最も重用されるのは現物であろう。果たしてその様な潮流が渦を巻こうとしているのか、その勢いを止めるべくエルスノアはいているのであろうか。

 考え過ぎであろう、ともグスタフ・ヴェネシュは内心で首を横に振った。そもそも歴史の一頁に残るほどの火急な場面に自分が巡り合うとは思えない。もし今回のメツァールントへ赴く理由が政治的な背景をはらんでいるのであれば剣霊使いの一組乃至(ないし)二組が協会長の護衛役として従うであろう。一介の運送屋に全てを任せるには、それこそ()が重過ぎるというものだ。

 物思いに耽るグスタフ・ヴェネシュは手綱を握る両手の力が何処となく緩ませ、脚を動かす二頭の馬の蹄の響きを漫然と耳にしていた。目的地である廟堂の正門の前に辿り着く。陽の傾き具合は雑貨屋を後にした時と然程変わりない。

「協会長様におかれましては未だ出立のご準備に勤しんであられます、か。」

 見慣れた場所に望むべき人物の姿は見当たらない。故にグスタフ・ヴェネシュはその様にわざと使い慣れない嘯きと共に御者台から普段と変わらずに降りた。

 踏み入れてはならないと境界のきわに立ち、羽織るコートの襟を数回(はた)いてエルスノアが姿を現すのを待つ。この様な時、煙草を嗜む者であれば迷わずに一服つけるのだろう。だが、グスタフ・ヴェネシュにその習慣は無縁である。彼は暇にしている腕をゆったりと組み、境界のきわに沿って歩き始めた。

 荘厳な廟堂の外壁にばかり気を取られる毎日であったが、この時は違った。葉を落とした冬の茂みの中に石碑がある。これまで気付かなかったのが不思議と思うグスタフ・ベネシュは、気だるそうに歩んでいた歩調を止め、首を捻る。彼は間近で見ようと羽織るコートの裾を僅かにはためかせた。

 風化と共にところどころに苔()す石碑の中央には文字が刻まれていた。…ここに眠る、とある。醒める事のない眠りに就いた人物の名前は擦れて読めないが、コノリギス市街地に伝承される人物に係わる石碑と気付いたグスタフ・ヴェネシュは興奮のあまり己の二頭の馬にも引けを取らないほど大きく鼻息を漏らした。

 伝承の発端は今から八十年前に遡る。

 テオドル・バッシなる少年がこの物語の主人公であり、伝承は彼の手記を許に誰かしらの脚色された内容が今も語り継がれている。コノリギス市街地のごく一般の家庭で生まれた彼は極めて優秀でもなければ、目に余る悪行とも無縁な平凡な少年であった。ただ彼が他より抜きん出た存在として認めるのであれば、それは好奇心と行動力と言えた。成人を迎える頃に彼が目指した道は何であったのだろうか。冒険家、科学者、歴史家、と想像の翼は如何様にも羽ばたく。しかし、その眩いほどの未来はあっけなく幕を閉じてしまった。

 当時十五歳であったテオドル・バッシは、秋晴れが清々しいある日の午後、街で剣霊を見掛けた。コノリギス市街地に住まう女性は公の場では髪を隠すのが慣習であり、その慣わしに則らない者は外部の者、もしくは剣霊と見る。磨き込まれた様な肌と精巧という言葉を連想させる通る鼻筋、そして見る者に鋭利な刃を思わせる眼差しは後者で間違いないと彼は確信した。

 もっと近くで見たいという純粋な欲求はテオドル・バッシの脚を無意識のうちに動かす。僅かな間、視線が交差した。心臓に鋭利な切先を向けられた様な錯覚は骨の髄が凍るほどの恐怖と鼓動が否応にも高鳴る興奮を与えた。少年は茫然と開いた口をそのままに、初めて目の当たりにした剣霊が長い髪を揺らして視界から消え去るまで微動だに出来ずにいたと言われている。

 彼は過去に剣霊帝の妹と称する剣霊にも遭遇していた。薄緑色を纏う豊かな髪は畝を成し、あらゆる感情を表現していると見る者に思わせる。その表情は優しさと悲しさの全てを知る者だけが許された、母なる趣きを携えていた。

『あなたの生涯に悔いなき事を。』

 テオドル・バッシを見下ろす剣霊帝の妹はそう語ると深い緑色の瞳に闇を与え、麗しい唇を横に結んだ。言葉を掛けられた本人は剣霊の都と称される街で最も高位となる存在の目に留まった事に感激と今後の気概を見出した。しかし、彼女の言葉の意味するところを充分に理解出来ずにもいた。また理解するには若過ぎたのかもしれない。

 母なる大地の限りない慈愛を思わせる剣霊。触れようものなら怪我だけでは済まないであろう冴え渡る刃を思わせる剣霊。いわば両極を目の当たりにしたテオドル・バッシは次なる欲求に駆り立てられるのも時間の問題であった。

 剣霊の頂点、常人は見てはならないと教え込まれている剣霊帝の姿を是非ともこの目で見てみたい。

 数日の間、テオドル・バッシは悩んだ。鉄の掟を破ろうとしている己を鼓舞するか、諌めるか。食事は喉を通るが味気ない。眠りに就けるが深い睡眠には至らない。飽くなき欲求が、誰も成しえていない願望がその様にさせているのは若年であろうともテオドル・バッシは理解していた。ならば解決する方法はただ一つ。月明かりが最も煌びやかに映える時間、あらゆる者たちが安らかに寝息を響かせる頃に彼は自室の窓から身を潜らせ、静まりかえるコノリギス市街地の石畳の上に自らの影を映した。

 剣霊帝が住まう廟堂の周囲も他と変わりなく静寂を保っていた。テオドル・バッシは荘厳な造りの廟堂を見上げた。その上で瞬く星々は開かれている廟堂の正門を潜れと導いているのか、囃し立てているのかと思うほどの静けさである。時折、吹く風が彼の髪を掬い上げ、何かを囁いていたが、意を決めて一歩を繰り出す。

 これ以上立ち入ってはならないと広く知られている境界を跨ぐ。何の変化も生じず、ただ時が流れている。テオドル・バッシは着慣れたシャツのよれ具合を確かめ、裾を掴むと伸ばす。彼なりに身だしなみを整えた、と言えようか。

「テオドル・バッシへのお祈りですか?」

 寂れた石碑の前で屈むグスタフ・ヴェネシュの背後で旅装姿のエルスノアが声を掛けた。振り向きざまに立ち上がろうとする運送屋の右肩に協会長は同じ側の手を置いた。見た目の年齢よりも感慨深い温度を有した掌は彼の動作を制していた。

「グスタフ、あなたはこの少年についてどこまでご存知でしょうか?」

「剣霊帝様にお会いして、その後僅かにして不治の病に侵されて死んだ、としか。」

「不治の病、ですか。」

「止め処なく血を吐いてこの世を発ったと聞かされています。」

「まさに…その通りだったのでしょうね。」

 右肩に置かれたままの手に僅かばかりの力が加わった。何かを噛み締めている様な掴み方はグスタフ・ベネシュの首を再び動かす。午後の斜陽に晒されたエルスノアの横顔は過去を哀れむ一人の女を表現していた。

「テオドル・バッシと剣霊帝様の会話についてはどうでしょうか?」

 眉間に皺を寄せて考え込むような表情を僅かに見せたグスタフ・ヴェネシュは動かした首をゆっくりと倒した。

「その内容は誰も知らない筈です。げんに剣霊帝様と会話をしたテオドル・バッシは我々の目の前でこうしています。」

「ですが、剣霊帝様におかれましてはお変わりなくご健在です。」

「…今、なんと?」

「あなたの胸にしまい込んだままにしていただけるのであれば、お話しましょう。」

 グスタフ・ヴェネシュは倒したままの頭を数秒の時間を経て今度は縦に動かした。

「二ヶ月前の末でしたか。テオドル・バッシの命日に剣霊帝様は過去を懐かしみ、わたしにお話しして下さったのです。」

 エルスノアはグスタフ・ヴェネシュの反応を待たず言葉を続けた。

 廟堂内へ入る門扉に鍵は掛けられていなかった。無用心だなと訝しむか、己の幸運に小躍りしたのかはテオドル・バッシ本人しか知らない。ただ、未知の恐怖と興味に駆られた者の足取りとは慎重そのものであり、彼も例外ではなかった。石造りの廊下の左右には一定の間隔で燭台が設置されている。時間の経過をどれだけ体験したのだろうか、と思わざるを得ないほどに使い込まれた燭台の上で燈る火はテオドル・バッシの進むべき道程を示していた。彼自身もその様に信じ込んでいた。静寂に包まれた薄闇を歩く心細さは目的地を遠くさせる。十分程度の距離の移動も彼にしてみれば一日の出来事の様に感じられた。

 廟堂の最奥に佇む威厳を体現した鋼鉄の扉を前にした時、彼は肩で息をしていた。不安定な精神状態による疲労とまだ見ぬ剣霊帝の姿、並みの者ではそうそう相見あいまみえない剣霊の頂点たる存在をこの目に焼き付けんとする興奮がそうしていると彼は確信していた。

 威厳を体現した鋼鉄の扉を再び見上げる。テオドル・バッシは唾を飲み込んだ。ようやく隆起し始めた喉仏が上下する様子を絡まる蔦を幾多にも表現した精緻な筋彫りが見守る。

 静寂が破られた。思わず後ずさりするほどの軋みを奏でながら威厳を体現した鋼鉄の扉は左右に開き始めた。ただ茫然と眺める事しか出来ないテオドル・バッシの意識は女の声を聞いた。

『暗かろうに。』

 その声色は沈着冷静でありながらも感情がこもっていると思えば、何事にも動じない鉄の冷たさも備えている。

『だ、誰だ?』

 侵入者としての後ろめたさが彼にその様な台詞を吐かせたと思われる。だが、声の主は短い苦笑を侵入者の意識にひっそりと響かせ、追求を強いる事はなかった。

『そなたの脇にある燭台を手明かりにすると良かろう。』

 目を逸らす事が許されない声、これこそ剣霊帝の声だ、とテオドル・バッシは直感した。気だるさを伴わせていた背中に緊張の汗が筋を引く。それを拭わずに声の主の提案に従う。

『気は楽に、だが足取りは確かに、余の許に参れ。』

 脳を震わす声に是非を示さずにテオドル・バッシは行動する。開かれた威厳を体現した鋼鉄の扉は知識と欲に駆られた少年を迎い入れた。手明かりにした燭台の灯火は広大な廟堂の最深部をおぼろげに照らし始める。足許が頼りない明かりに反応して輝いている。

『余たる剣霊帝と言われる存在の髪だ。僅かにも触れようものならどうなるかは言うまでもない。そのまま真直ぐに進めば踏まずに済む。』

 声の主、剣霊帝は最後に短く笑った。どれほどの長さを有した髪なのか。テオドル・バッシは手明かりにした燭台を周囲を見渡せる様に左から右へ動かした。ただ広いという事だけしか判らず、天井は限りを知らない。

 前に進めば階段が現れる。鮮やかとも古めかしいとも言い切れない、普遍の色合いをした蒼い敷物が薄闇の中でも階段の中央を彩っていた。この最上部で剣霊帝が待ち構えているとテオドル・バッシに必然的に思わせるには十分な状況でもある。

『剣霊帝様、前へ進んでも宜しいですか?』

 階段の最上部と思われる場所から高価な生地によると思われる衣擦れの音が降り注いだ。

『余の許可を得んとするのはこの場に侵入した後ろめたさか?』

 威厳を体現した鋼鉄の扉の近くにいた時よりも確実に剣霊帝に近付いている。しかし剣霊帝の声の大きさは変わっていない。そして脳に響く具合も変化をきたしていない。

『判りません。今ここで許可を得なければならないと思いました。』

 己の声が廟堂内に響き、手明かりにした燭台の炎が微かに揺らめく。少しの間を置いて、かつかつと金属同士がぶつかり合う音をテオドル・バッシの耳は捉えた。

『そなたはここまで来たのだ。遠慮はいらん。余の許へ。』

 テオドル・バッシは若年ながらもこの階段の中央を歩く権利を持つ者は唯一であると感じ取っていた。故に敷物のすぐ脇を靴音を立てずに上る。長くもなく短くもなく最上部に辿り着いた時、彼は水晶を削り出したと思われる椅子に腰を下ろす剣霊帝の姿を目の当たりにした。

『テオドル・バッシと言ったか。余はそなたを歓迎しよう。』

 頬杖を突いた剣霊帝は双眸を閉じている。この市街地の統治者が不満げでないのは彼女の口許が微笑を湛えているのを僅かな明かりが教えてくれた。

『剣霊帝様ともあろう御方がどうして僕なんかの名前を知っているのですか。』

『余はこの街に住まう人間の一人一人を存じておる。そしてその中の誰がこうして余の許に現れるのか密かに待ち望んでいたのだ。』

 剣霊帝が何を遠まわしに表現しているのかテオドル・バッシには少々難しかったのかもしれない。だが悪い気はしない。むしろ賞賛の響きを感じずにはいられないと彼の輝ける眼差しは語っていた。

『僕は剣霊帝様が望んでいた事を行ったのですね?だから褒美として呼んでくださったのですね?』

『褒美、か。』

 さらさらと上質な絹による微かな衣擦れを添え、剣霊帝の頬杖を突いていない側の手がテオドル・バッシの肩に向けて伸びた。生ある全てを切り裂くと知られている剣霊の手から彼が纏う普段着が身体を守っている。肩を通して身体の芯に凍て付く感覚が走り、同時に不思議と安堵も覚えた。

『そなたは死ぬのだ。』

 肩に触れる手が愛しき者を愛撫する様に動く。

『断りなく余の前に立つ者は三日以内に吐血と共に死を迎える。そなたはそれを存じていながらも行動に移したのか?』

『いいえ、知りません。学校の先生や両親、誰もその様に教えてくれませんでした。』

『ならば先駆者となったそなたが教え示せ。』

『先駆者?』

『初めて断りなく余の前に立った先駆者だ。』

 テオドル・バッシに触れている剣霊帝の手が肩から胸へ滑り落ちる。誰も触れられない掌は命の鼓動を聞き入る様に静止した。

『剣霊帝様が認めてくれても…大人たちがまだ子供の僕の言う事に真面目に耳を傾けるとは思えません。』

『言葉は必要ない。そなたの死が今を生きるあらゆる者たちの記憶に留まる。その記憶は後の者たちに語り継がれ、やがては犯してはならぬ鉄の掟となろう。』

『鉄の掟…剣霊帝様を許可なく見てはならない…。』

『そうだ。』

 闇を与えられていた双眸が開いた。手明かりにしていた燭台の灯火が頼りなかろうとも類稀な重瞳ちょうどうが鮮明に映し出される。左右四つの瞳は揃って生命の黎明と終焉を常々眺めてきたと物語っているのか。死を宣告された者の恐怖と不安は驚愕と三嘆さんたんに塗り替えられた。

『こうして会話を続けている間、そなたの身体を形成する細胞は徐々に破壊され、死の道程を確実に歩んでいる。』

『判りません。そんなの実感がありません。』

『直に判る。』

 何かしらの心残りを思わせながら剣霊帝の手がテオドル・バッシの胸から離れた。これまで体感した事がない気だるさと脱力感が全身を迸り、呻き声と共に彼は剣霊帝の前で膝から崩れ落ちた。

『僕はどうしても死ななければならないのですか?』

 苦痛に悶える少年を見下ろす剣霊帝の四つの瞳に優しさは感じられない。ただ哀れみを添えているだけであった。

『僕は死んでしまうのに、いつも剣霊帝様のお傍にいる協会長様はどうして無事なのですか?』

『あれはあれで、死とはまた別の苦しみを背負っておる。』

『何ですか、死とはまた別の苦しみとは…?』

 咳込むとほぼ同時にテオドル・バッシは剣霊帝の前で鮮やかな色の広がりを見せた。その勢いは手明かりにした燭台の炎を消し去り、蝋の煤けた臭いが微かに鼻をつく。

『そなたたち人間が剣霊帝と崇める余は絶望の剣霊ともいう。テオドル・バッシよ、そなたが三日も苦しみの狭間に身を置かないよう、そなたの基幹となる組織の活動を残り六時間と早めた。せめてもの手向けだ。最期は余ではなく育ててくれた両親に看取られよ。』

 そう言い残して剣霊帝は再び双眸に闇を与えたという。

 冬らしく頬を刺す様に鋭い風はエルスノアの話を聞き入るグスタフ・ヴェネシュの身体を縮込ませた。一方のエルスノアははためく髪を覆う深い紺色の布を手で押さえながら寂れた石碑へ視線を落としていた。

「その後のテオドル・バッシについては広く知られている通りです。」

 無言のまま締まりのない口の両端を晒しているグスタフ・ヴェネシュに対してエルスノアは優しげに両目を細める。唖然とする者にとって、その微笑は救いの手を差し伸べている様に思えた。

「彼の死は剣霊帝様がおわすこの廟堂に足を踏み入れる常人の末路を示しました。」

「まぁそうですが…。あまりにも悲し過ぎる事実に他なりませんな。」

「あなたの考えに否定するつもりはありません。剣霊帝様も仰っていました、先駆者とは時として悲しき者であると。」

「…悲しき者ですか。」

「テオドル・バッシの死は無闇にこの廟堂に立ち入ろうとする者たちに再考を促す事となりました。そして悲しき者を哀れむ剣霊帝様は彼の亡骸をこの廟堂の敷地に埋葬するように先代様に命じられたのです。」

 グスタフ・ヴェネシュは被る帽子のつまみ部分を片手で持ち上げると内側を胸に当てて僅かな間、目を閉じた。悲しき者の冥福を祈り終え、後世を生きる彼は立ち上がると踵を返した。目の前にそびえ立つ廟堂の下から上へと仰ぐ。

「ところで死とはまた別の苦しみ、これは何でしょうか?」

 敢えてエルスノアの顔を見ずにグスタフ・ヴェネシュは己の中で蟠る疑問を口にした。彼女が苦いとも気まずいとも言い切れない複雑な表情をしているのが何処となく判る。無為な沈黙が流れる。この様な時、種類は問わず小鳥たちの囀りがあれば少しは間が持つのだが、とグスタフ・ヴェネシュは己の発言を僅かにも後悔した。

「これから赴くメツァールントは先代様の出生地であり、永い眠りに就かれた地です。亡き先代様の御姿があなたの疑問に答えて下さるでしょう。」

 己の口では答えられないという意味か。僅かにもの後悔が多大なものへ変化した瞬間でもあった。

 沈黙という重たい空気が横たわろうとしている。それを両手を用いて取り除くのではなく、蹴飛ばすかの様にエルスノアが口を開いた。

「時間が有りません。早く行きましょう。」

 エルスノアを包む深い紺色の裾が翻り、普段であれば身に着けていない装飾品、首から下げられた黄金でこさえられた指輪が揺れる。冬の昼下がりの陽光を浴びた輝きを目で追っていたグスタフ・ヴェネシュは廟堂の出入り口の中央に佇む古びたトランクケースに手を掛けた。重さは感じられない。装飾とは無縁の無骨な革製のそれはところどころが痛み、骨董品を通り越してかび臭さを思わせる。

「始めてここに訪れて以来、このトランクケースがまた陽の目を見るとは思わなかったものです。」

 唯一の所有物に奇異な眼差しを送る運送屋に持ち主はそう補足した。

「まるでわたし自身の有様を物語っている様です。」

 グスタフ・ヴェネシュは不自然な笑みを零すエルスノアに掛ける言葉を見つけられなかった。

 荷台を占領するのはトランクケースのみである。エルスノアは御者台に腰を降ろした。無論、二頭の馬を操るのはグスタフ・ヴェネシュであり、彼女はその脇で大人しくしている。廟堂へ迎えに行く前に彼女用にと雑貨屋で購入した敷物をエルスノアは気に入ってくれた。硬過ぎず、また腰が沈ま過ぎずの絶妙な座り具合の敷物の上で彼女は普段よりも高い位置で流れる街並みを揃えた膝の上に両手を乗せたまま眺めていた。

 先駆者とは時として悲しき者、という言葉をグスタフ・ヴェネシュは己の中で反芻していた。テオドル・バッシはしてはならないという事象に対し、実際に自らの目で確かめるべく理を追求したのかもしれない。勇敢であり、自虐的であり、確かに悲しき者、という言葉が当て嵌まる。

 では己はどうだろうか、と自問の時間が自ずと訪れる。剣霊帝に選ばれし人間、協会長という立場の女性に胸の内を明かした男はこれまでいない。あまりにも畏れ多いと表現するよりも、剣霊にあらずとも長い年月を生き、その姿に変化がきたさない稀有な存在の前では誰もが萎縮してしまうのだろう。だが、己に常々正直でありたい、いやあるべきだとグスタフ・ヴェネシュは下唇を噛み締めた。

 エルスノアは何故、テオドル・バッシと剣霊帝の一連の遣り取りを聞かせたのだろうか。いわゆる今回の旅程に於ける報酬の様なもの、或いは己の胸の内を明かすなと遠回しの警告だったのか。正直なところ、考えれば考えるほど、頭を抱えてしまう。更に剣霊帝は信頼を置く傍の女が一人の男に口外するのを見越して過去の出来事について口を開いたのか、とも捉えられる。剣霊帝がテオドル・バッシについて表現した言葉。先駆者とは時として悲しき者とはまさか己の事か、とグスタフ・ヴェネシュは驚愕した。

「グスタフ、この調子だとメツァールントに到着するのに結構な日数が掛かってしまうのではありませんか?」

 男の中で蟠る推考などよそに女は遠慮せずに口を開く。ごくありふれた光景と言ってしまえば、それまでかもしれない。

「流石に市街地内で飛ばす訳にもいきません。それに協会長様は荷馬車の揺れというものにまだお慣れになっておりません。」

「あら、そんなに荒い手綱捌きをするのですか?」

 驚きよりも興味をちらつかせている感が否めない語気は一刻も早く目的地に辿り着きたい願望によるものか。

「昔、幼い自分が親父の横に初めて乗った時、あまりの荒さに胃がむかむかしましたし、なによりもここが痛くなったのを今でも覚えています。」

 グスタフ・ヴェネシュはエルスノアに近い側の手を手綱から離し、己のここなる場所を叩いた。尻に他ならない。

「この敷物はその様なわたしの為に用意して下さったのですね?」

「まぁその、そうとも言えますな。」

「有難う。」

「いや、お気になさらずに。」

 騒ぐ心を落ち着かせる為にもグスタフ・ヴェネシュは首を僅かに動かして横に座るエルスノアの様子を垣間見ようとした。()()()()()()()()は凛々しい顔をそのままに未だに流れる景色に夢中でいた。

 

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