雪上鮮やかに
急ぐ過程であればこそ、落ち着いて行動しなければならない。何か見逃していないか、と己の中で疑いの視線を投げ、周囲にも細心の注意を払う。逸る気持ちを抑えに抑え、ユストは己の剣霊であるイルサーシャを抱きかかえたままリストメクへ向けて旧街道を一定の速度で歩んでいた。
人間の気配が感じられない旧街道とは危険と隣り合わせでもある。何時何処で不意打ちを喰らおうともおかしくない状況と言えよう。それは土着の賊か、あるいは追剥ぎ稼業の輩か。まだそれなら対処出来る。彼らは一対の男と女の組み合わせが単なる物好きな旅行者ではなく、剣霊とその使い手と判った時点で少なからずとも怯む。怯んだ隙を見計らって逃走するなり、イルサーシャを剣体にして斬撃なり刺突撃を繰り出せば事は済む。剣霊使いの一撃を見た者は口を封じられるのが常である。技を見た者、知り得た者を生かしておいては後々の仇となるのは剣を携える者であれば尤もな考え方であり、その定石に反するつもりもない。
だが、人間以外にはその手段は通じない。魔物と呼ばれる存在は剣霊であろうと関係無しに獲物へ全力で襲い掛かる。そして邪剣霊も然り。怯むという概念を持ち合わせていない敵に対し、調子が芳しくないイルサーシャで迎え撃てるのか、と不安が過ぎる。そして不安を自覚した時点で良くて辛勝、それ以外は敗北、つまり死という言葉が重く圧し掛かり、脳裏にこびり付き始める。
ユストの思惑に同調しているのか、旧街道の景色も更に寂れた雰囲気を醸し出していた。体の良い表現を用いるのであれば、人工的なものを感じられない、大自然が織り成す景色である。結氷間際の小川は心和ませるせせらぎを奏でていない。広葉樹たちは葉を着けていない代わりに枝の上辺に雪を乗せて化粧を施している。その雪が溶けては凍り、滑らかな光沢を放つ氷柱を作り出している。
さえずる鳥たちは冬の寒さに耐えられないのか、静かに体を膨らませているのであろう。辺りは静寂を保ち続けているとユストは認めつつ視線を己の胸許へ落とした。抱きかかえられたイルサーシャは大自然の様相に呼応しているか、相変わらず寝ている様に静かにしている。剣霊は眠らない。だが、今の彼女はまるで人間であった頃を髣髴させる様に健やかな表情を湛えている。勝気で気丈夫な彼女が懐かしく思える。意思の強さを表す奥深い緑色の瞳が闇から開放されるのは、生気とは無縁の唇の奥から響く程好い低さの声を再び耳にするのは、何時の日だろうか。いや、その時を決めるのは自らであり、早急を要するとユストは歩む両脚に力を込めた。今は余計な考えを巡らせたり在りし日を懐かしむ時間ではない。しゃくりしゃくり、と積もる雪を踏み締める音が一人の男と剣霊の体に纏わり付く。人間が大自然の景色を眺めるのではなく、大自然が一人の人間と一振りの剣を傍観していた。
旧街道と新道の分岐点に到達した。馬車の轍と蹄の跡が鮮明に見て取れる。左右には旅行者や行商の者たちの憩いの場となる出店らしき建造物が点在している。らしきとは店の主と思われる人物が見当たらない為である。燭台の火は灯されていないものの、風雨に晒された蝋に埃や塵が付着していない。つい最近まで使用されていたものだと容易に想像が付く。また遥か過去の産物とは思えない要因の一つに石造りの建屋の横には雪かきの名残りが見て取れた。
ユストは出店の椅子の背もたれに右手を掛け、手前に引いた。革張りが施されていない簡素な座面に冬の化粧も縁遠い様子が判る。使い込まれた艶が柔らかな日差しに呼応していた。まるでこの椅子が己の役目をつい最近まで粛々とこなしていたと控え目に語っている様にも思える。ならばその役目を再び果たして貰うべく、抱きかかえるイルサーシャを降ろす。彼女が選んだ赤紫色のケープに折り皺が寄らない様に丁寧に、少しでも自然体でいられる様に白銀の長い髪に手櫛を入れた。そして大人しく座る彼女が意識があればやるであろう手癖をユストは行った。彼女のしなやかな左右の横髪をそれぞれの耳に掛ける。現れた二匹の黒蛇のピアスの表情は安息の場を提供してくれる者の具合など関係無しに普段と変わらずの睥睨を撒き散らしていた。
一時の小休止である。両腕を垂らしたユストはさながら左右の肩甲骨の先端が触れんばかりに胸を張るり、深く息を吐いた。彼の呼吸が音を発さずとも、彼の男らしさの一翼を担う筋の通った鼻から色濃い息が長く漏れたのを見れば誰もがその様に理解するであろう。
ユストは喉の渇きを癒す為に口に含ませておいた小石を何気なく吐き捨て、久々の煙草を左の口角に銜えた。羽織る黒いコートのポケットからマッチを取り出し、慣れた手つきで火を灯せば久しく吟味していなかった香りと煙が立ち昇る。
さてどうしたものか、とユストは改めて周囲を見渡した後に内心で呟いた。今ある場所、旧街道と新道の分岐点が不自然な様相に包まれた経緯に思いを巡らす。先に出会ったルケリヤの言葉が記憶の中で蘇り、アウルス・ボーンが身に纏う白銀の鎧が負った凄惨な傷跡が脳裏を掠める。人間以外の部外者によるもの、と結論付けるのは容易いが、狂乱惨劇の爪痕は少なくとも今ある場所では全く感じられない。つまり部外者は今ある場所にて稼ぎを得る者たちが住まうリストメク市街地内で仕留めた。では何故、今ある場所にて稼ぎを得る者たちが仕留められなければならないのか。もしや、邪剣霊によるもの、リストメク市街地は屍の山ではないか、とユストは銜え煙草のまま右の親指の腹を顎の先端に添え、眉間に憂慮の皺を走らせた。
煙草の煙が吹く風に任せて消えていった方角から蹄の音が鳴り響いた。走る速度はかなり速い。雪が残る大地を蹴る音量で判る。軽快よりも切迫した雰囲気が感じ取れた。伝令の早馬か。銜え煙草のユストは椅子に座らせたイルサーシャの右肩に剣の柄を握る側の手、即ち左手を添えた。身を潜めて様子を窺うのも是ではあるが、ふかした煙草の匂いが閑散とした景色の中に少なからずとも漂っている。不自然な環境の中、嫌疑を掛けられる行動は控えるべきである。単なる番の旅行者を演じていれば馬を駆る者も特に気に掛ける事はなかろう。静かにしている剣霊に視線を落とした契約者は、ふと何かに気付いたかの様に双眸に表情を与えた。彼女の肩に置いた左手が汚れなき項へ伸び、白銀の長い髪を一つに握り締める。自慢の髪を束ねずに垂らしたままでは北部の者たちに怪しまれるからだ。
(少し我慢しろ。)
ユストが心の声で語り掛けたのは良心の呵責の一端か。また、普段のイルサーシャであれば間髪入れずに文句の一つや二つを垂れるであろう。だが、今の彼女は返事はおろか、刀身の象徴である髪を握り締められても嫌がる素振りすら見せない。心無き者は剣霊を人形と侮蔑する。その揶揄に甘んじているかの様にイルサーシャは微動だにしなかった。
聞き耳を立てずとも駆ける蹄の音が近付いていた。馬上にあるのは男である。歳の頃は青年という響きが似合い始めた程度か。身形は質素ながらも清潔感、俗に言う小奇麗な雰囲気が漂っていた。懸命に馬を駆る表情は気力を保とうと歯を食い縛り、血眼という表現が似合っている。まるで藁にも縋らんと言わんばかりである。
追われているのか、と音無き声で呟いたユストは銜える煙草の先端に輝きを与えた。右の二本の指が短くなった煙草を摘み上げる。そして新道の隅を陣取る残雪に向けて投げた。一連の動作が目に留まったのか、馬を駆る小奇麗な身形の男は手綱を巧く捌いてユストへ近寄った。
お願いです、助けてください、と彼は言いたかったのかもしれない。えも言われぬ恐怖と募る疲労を同時に味わった者に声を出す余力は残されていなかった。ならば行動で示すしかない。額に浮かぶ憔悴の汗を拭わずにユストの右腕にしがみ付こうとした。しかし、これも出来なかった。しがみ付こうとした右腕の反対側で大人しくしている存在を知ったためである。哀願を装っていた目許はイルサーシャの姿を知るなり驚愕を表現し、次には光明を見出したものへ変化した。
「ま、まさか、あなたは剣霊使いですか?」
乾きに乾いた喉から発する声は寝起きの老人のそれ並みに枯れていた。ごくりと唾を飲み込む音を閑散とした景色に一回響かせ、小奇麗な身形の男は本来の声で立て続けに口を開いた。
「わたしは今は中央行政府の者ですが、コノリギスの出身です。賊がこちらに迫ってきます。」
自らの出身地を語ったのは剣霊に対して嫌悪や不審は皆無であり、身近で慣れ親しんでいる存在だと遠回しに表現しているのだとユストは読み取った。何故、賊に追われなければならないのか、とユストが何かしらの手段を用いて問うよりも早く、賊と言われた者たちが姿を表した。こちらも馬を駆り、数にして二名。小奇麗な身形の男よりも歳を重ねている。強いて言えばユストと同じ世代、若しくは少々上と思われた。腰に佩く剣の鞘は冬の淡い陽光を跳ね返していない。使い込まれて手垢にまみれているのか、単に輝く事を失ってしまったのか。
「おい旦那、その若いのをこっちに寄こして貰えんかね?」
右側の賊はユストに近付くなり馬上から威圧的に声を掛けた。賊と言われた男たちは髭を剃るのを数年来忘れてしまったらしい。剣の鞘に倣っている訳ではないのであろうが、その顔には獲物を嬲る卑しさが滲み出ている。なるほど、追い剥ぎの類か、とユストは平静を装わせていた双眸へ僅かに力を込めた。
旦那は得物を持たず、しかも女連れか、と賊と言われた男たちは高を括った。あからさまな冷笑が揺るがぬ証といえよう。並みの者であれば己の前に立つ鼻息が荒い馬の勇ましい姿に恐怖を覚える。しかしユストは生死の狭間を潜り抜けた者であった。
「その若いのは見てはいけないものを見たんだよ。」
左側の賊も馬上にある。彼の視線はユストからイルサーシャへ移り、本人が思っているよりも大きく鼻の穴を膨らませて口を開いた。
「こりゃあ、たまげた。なかなかの上玉じゃないか。」
右側の賊は太い首を左右に倒しながらイルサーシャの容貌と様子を窺っている。はたと気付いたのか、鼻の穴が膨らんだままの左側の賊に聞こえる様に舌打ちをした。
「おい、この別嬪は剣霊だ。」
「何だと?」
「単に色白な女を通り過ぎて血の気が全く感じられねぇ。」
「つまりこの旦那は…剣霊使いって事か?」
「あぁそうだ。」
「こいつはやべぇな…。」
賊と言われた男たちは手綱を握る両手に自ずと無駄な力が込み上がり、それに支配されつつある事を認めざるをえなかった。遭遇してはならない存在に出くわしてしまった後悔もあるが、戦いを前にした高揚感に身を任せていると言えようか。何よりも剣霊の様子がおかしい。気を失っているかの様に静かにしている。そしてその使い手たる男も何も語ろうとしない。剣霊が万全ではない場合、武器として機能しないのか、と幽かな憶測と淡い希望が彼らの中で交差した。そして剣霊使いを倒せば己に箔が付き、捕らえた剣霊は玩具と成り下がる。鑑賞するもよし、己の血を舐めさせ、生涯触れる機会に恵まれないであろう肌を堪能する己の姿を思い描く。目の前の剣霊のあられもない姿と苦悩と羞恥を伴う雌の声を想像する。
自らの勝利の先を描くとは、その欲望と同じくして殺気が勝手に漏れる。相手が殺気を漏らした以上、戦わなければならない。白黒が鮮明に分かれる境地に差し掛かったら微かな予測や躊躇は愚の極みである。ユストは小奇麗な身形の男へ視線を投げると音無き口を開いた。
『君が中央の者ならば愚生の唇が読める筈だ。今直ぐに背を向けて目を閉じろ。』
落ち着きを保つ無駄の無い言葉に小奇麗な身形の男は疑いも無く従った。頭を抱えるようにして背を丸めて縮こまる。その姿を一瞥した右側の賊は口許を歪めた。
「旦那。先程の話はチャラだ。」
生える髭がわさわさと音を立てているのが耳に届きそうなほど、不自然な笑みと共に言葉を続ける。
「ただ物事の筋という奴はそうそう変えられなくてな。旦那はこの若いのが見た事を間接的に知ってしまったという事だ。文句はあるまい?」
顎をやや上にする右側の賊に対し、左側の賊は威嚇のつもりか、腰を僅かに捻り、腰に下げる剣の柄に自然体の右手を近付けていつでも鞘走りを奏でさせる素振りを見せている。
「おいおい、何か喋ったらどうだ、剣霊使いさんよ?」
左右の視線を全身に受けようともユストの表情は微動だにしなかった。緊張で強張っている様子も無ければ己が置かれた身を悔やんで茫然としている雰囲気も漂わせていない。鼻から深い溜息を漏らしただけである。冬の大気に晒された小鼻がやや膨らんで、ゆっくりと元の形に戻った。
「まぁいい。つまり旦那も見てはいけないものを見た。その代償は、判るな?」
吐く言葉の終わりとは賊と言われた男たちの殺気が頂点に到達する頃合でもある。馬上にある者が至近距離で仕掛ける攻撃とは如何なるものか。手綱を握るそれぞれの両手に力が込め、思いきり手前に引かれた。馬が放つ荒々しい嘶きと持ち上がった強靭な前脚が宙を二三回掻き、剣霊使いを蹄に掛けんと襲い掛かる。
しかし、それは実際に行われなかった。馬たちは目の前の剣霊使いと同じ様に鼻で息を漏らしては鼻腔を低く鳴らしただけである。賊と言われた男たちが幾度となく手綱を手前に引こうともそれぞれの馬たちは従わなかった。背を預けた者の意思などそっちのけで何かを見入っている様に、何かに恐れ戦いているかの様に動かない。
「どうした、言う事を聞け、この駄馬が!」
たまらず左側の賊が馬に罵声を浴びせた。活を入れるべく横腹を蹴る。使い込まれて地の色が剥き出しの鐙が当たろうとも彼の馬は静かにしていた。
賊と言われた男たちは予想外の出来事に狼狽するしかなかった。追い剥ぎを生業とする者として馬の扱いに多少の一家言は持ち合わせていたが、この様な事態に陥るとは予想だにしていない。これが剣霊使い、そして剣霊と対峙する恐怖なのか、と憔悴に似た戦慄を伴う双眸を食い入る様に正面に向ける。依然として白銀の長い髪を持つ剣霊は静かにしていた。まるで剣霊を護るかの如く彼女の両耳からぶら下がる二匹の黒蛇のピアスが睥睨を放っている。この世のものではない、まるで異界から持ち込まれたと思わせる悲愴と苦痛の権化を視界に入れまいと抗おうとも己の意思とは関係無しに眼が動く。賊と言われた男たちは人間ならざる者の凄まじき殺気に当てられたかの様に、背中にこの上ない悪寒が走るのを否めなくさせていた。
人馬共に平常心を取り戻さんと、食い縛る歯を剥き出しにして馬の腹を再び蹴る。馬は強靭な前脚を持ち上げずに、座り込むように折った。再びの予想外の出来事に賊と言われた男たちは平衡を崩し、手綱を握る手に持てる全ての力が込められる。背中を預ける者の意向は尽く反故の呻きを喰らった。
ユストが羽織る黒のコートが宙に翻った。脱ぎ捨てられたそれは賊と言われた男たちの視力に闇を与える為ではない。小奇麗な身形の男を包み込む。そして静かにしている剣霊の姿は見当たらず、剣霊使いの左手には白銀に輝く鍔無しの直剣が握られていた。これが剣霊の真の姿か、と瞳孔を広げようようとも賊と言われた男たちの時は既に満ちていた。絶命の時である。左から右へ薙いだ白銀の切先は前脚を折った馬の頭上で空を切り裂き、賊と言われた男たちの胸部に一条の剣蹟を刻んだ。太くもなく細くもなく、ただ深々と鮮明に走る剣蹟は致命傷となるには充分であった。
まるで斬られた事実を体が把握していないのか、数秒の遅れを以て鮮血が溢れんとする。両腕の筋肉は機能を停止し、重石の様な強ばりと重量と化し、脈打つ鼓動は絶命の序章を示唆する痙攣に成り果てる。
「俺たちは死ぬのか、剣霊使いの旦那。」
右側の賊が遠退く意識を無理にでも繋ぎ止めながら口を開く。左側の賊は仰向けに落馬し、馬の荒い鼻息は背を預ける者が既に事切れていたと知らせてくれた。
『見てはならないものを見た。その代償だ。』
ユストの音無き声は聞こえない。ただ彼の凛々しさの一翼を担う唇がその様に語った。
「剣霊使いの技というやつか、それは。」
ユストはさも知れた事と言わんばかりに頷くと白銀の刀身の上を流れる血糊を払った。北部の残雪に新たな色が加わる。鮮やかであり、目を逸らす色は冬の景色に不思議なほど映える。
『終わりだ。』
音無き決別の台詞だと知ると共に手綱を握る両手から力が抜け始めていた。斬られた激痛は剣蹟より流れ始めた鮮血の温かさを取り戻さんと足掻いているのか。
極上の一閃は斬られた事を理解出来ないという。脳は勿論のこと、体も理解するのに時間を要した。脂で汚れて黒ずんだ服に無二の色彩が見る見るうちに広がるのと同様に、体温が急激に低下する。これまで体感した事の無い感覚であり、二度と味わう機会に恵まれない。
遂に右側の賊も馬上から転げ落ちた。霞む眼差しが最後に捉えたのは淡い雲が流れる穏やかな冬の空か、或いは白銀の刀身の中央に施された血抜きに頭を這わす二匹の黒蛇の姿を象った精巧な彫刻か。
小奇麗な身形の男はカミル・ヴェネシュと名乗った。無論、頭から被せられた黒いコートを持ち主が取り払い、安心しろと肩を二回叩いた後の事である。脱ぎ捨てたコートが偶然にも己の体を覆ったのではないとカミル・ヴェネシュは理解していた。見せたくない姿、聞かせたくない音から己を守る為である。声を発さない剣霊使いを再び視界に入れた時、彼は脱ぎ捨てた黒いコートに袖を通し、大人しくしていた剣霊が肩に掛けていた赤紫色のケープを用いて大事な何かを包み、左の小脇に抱えていた。
「わたしは中央行政府にて不動産鑑定士をしておりまして…。」
背を預ける者を失った二頭の馬が勢い良く鼻を鳴らし、カミル・ヴェネシュの言葉を遮った。まだ追われていた恐怖を完全に克服していない彼はびくりと肩を上下させる。命の遣り取りとは無縁の職業だけに無理も無い、とユストは口角を僅かに持ち上げていた。
剣霊は何処へ、とカミル・ヴェネシュは尋ねない。そうしたくても、してはならないと己の中で生命に関わる制動が強く働いている。小脇に抱える赤紫色のケープの下に間違いなく剣霊は存在する。しかも契約者以外に見せてはならない剣体という本来の姿に違いない。細長い棒状の物体が包まれているのはどう見ても明らかである。
『質問に答えて欲しい。君は何時から中央の人間になった?』
音無き声の持ち主はその様に唇を動かした。その様な事を知って回答が変わるのだろうか、とカミル・ヴェネシュは内心で首を傾げたが、素直に答えた。
「三年と半年前です。そこで妻と出会い、家庭を築く事となったのです。」
ユストは満足と安堵を練り合わせた溜息を静かに漏らすと、イルサーシャを座らせていた木製の椅子に腰を下ろして脚を組んだ。
『彼女は暇を見つけては愚生に言い聞かせていた。剣の姿を見せるとは人間の婦女が無闇に裸体を晒すようなものだと。だからこうして服を着させている。』
小脇に抱える赤紫色のケープに視線を落とすユストの唇が動きを止めた時、カミル・ヴェネシュは背中に汗が流れるのを知った。己の中で生じた疑問と興味を目の前の剣霊使いは把握していた。命の遣り取りに身を置いた者が習得した鋭くも的確な洞察力なのか、それとも日々遭遇する場面に応じた台詞を先回りして吐いたのかは判らない。
「失礼して、あなたのお名前は?」
賊と言われた男たち二名を斬り捨てた剣霊使いの首が僅かに傾き、静かに二回横へ振られた。名乗るほどではないと言いたいのか。その根元がカミル・ヴェネシュの視界に映る。よくよく眼を凝らせば巻き付けている黒地のスカーフに黒の刺繍が走っていた。中央行政府へ移る以前、コノリギス市街地内であればあらゆる場所で見受けられた紋章らしき姿が淡く浮かんでいる。カミル・ヴェネシュは目の前の剣霊使いの素性を知りたかった。稀有な存在と遭遇した興味が半分、命の恩人の名前ぐらい知っておかなければという務めが半分。剣霊使いの識別としてスカーフに個別の番号が施されていると聞いた覚えがある。七という数字は判った。だが、残りは重なる布地の下に隠れてしまっている。
中央の者となって何年だ、とユストが尋ねた件は単に会話の切り出しの為の常套句と判断出来るが、実のところ、それが答えを導く鍵でもあった。中央行政府と国名が変わって以来、その国に所属する軍属の一人称に於いて『愚生』とは禁忌たる事をカミル・ヴェネシュは知らなかった。
『愚生は声が出ないが、耳は聞こえる。』
小脇に抱える赤紫色のケープを椅子の背に立て掛けたユストは音無き唇を動かした後、羽織る黒いコートの内ポケットから筆記具を取り出した。
『中央の不動産屋である君が何故、北部にいる?』
剣を銜えた鳩の透かしが中央に施された上質な紙片の上に綴られた文字はその様に伝えていた。カミル・ヴェネシュの出で立ちはどちらかと言えば軽装であり、観光旅行中というのは少々苦しい回答となる。聞き慣れない一人称を用いる剣霊使いの意見は正鵠を得ていた。
「ある御方より中央から北部へ移住の話を持ち掛けられました。その下見と調査をしていたのですが、信じて貰えますでしょうか?」
『独りで、か?』
これは音無き唇が放った。
「えぇ。下見の対象は公共事業の様な巨大な建造物ではなく、お独りで住まわれる様な小さな家ですし、そもそもわたしは個人経営ですから。」
なるほど、と相槌を打ったユストはカミル・ヴェネシュの面前に晒した紙片を手許に戻した。ミミズクの風切り羽根を用いた羽根ペンが再び一定の速度で横に移動し、そして止まった。
『この者たちが言っていた、見てはならないものとは?』
カミル・ヴェネシュは首を恐る恐る廻し、ユストの文字が示すこの者たちを見下ろした。一閃による傷から溢れる血潮は彼らが纏う衣服を染め抜き、新道の湿った地面に鮮やかであり、深い色を与え始めていた。
マッチを擦る音がカミル・ヴェネシュの首を元の位置へ戻させる。銜えた煙草の先端が明るくなり、煙を吐いたユストは唇を動かした。
『追われる様な事を君はしたのか?』
カミル・ヴェネシュが纏う仕立ての良さそうなこげ茶色のマントの下、左腰には質素な短剣が括り付けてある。その刀身の長さと太さからして道具の域であり、場合によっては護身用ともなる、気持ちの上では心強い武器なのであろう。そう、あくまでも気持ちの上で、である。げんにカミル・ヴェネシュは鞘から抜かずに逃走を計った。
「順を追って話すと少し長くなりますが、宜しいですか?」
ユストの首に巻き付けた剣霊協会支給のスカーフに皺が走り、すぐに消えた。彼は鼻から煙を出し、新たな一本を不動産鑑定士へ差し出す。話が長いなら共に一服つけながらどうだ、と無言の差し入れに対してカミル・ヴェネシュは首を横に振った。
「妻と結婚の際に煙草を吸わないと約束したものですから。」
ユストは差し出した手を引っ込めると再び剣霊協会支給のスカーフに皺を走らせ、脇に立て掛けた赤紫色のケープを一瞥した。
「あの、何か言われましたか?」
ユストの一挙一動をまじまじと眺めていたカミル・ヴェネシュは彼の唇の僅かな動きを捉えていた。気にしないで話をしてくれ、とユストは自嘲めいた表情を見せる。差し入れを拒否した件で機嫌を損ねたわけではなさそうだ、と読み取ったカミル・ヴェネシュは石造りの壁に寄り掛かり、溜息を漏らした。
リストメク市街地に到着したのは今からちょうど二時間前とカミル・ヴェネシュは胸ポケットから懐中時計を取り出し、文字盤の上で微細に動く針を確かめながら口を動かした。これまで見てきた懐中時計より更に小型であり、南中を過ぎた陽光が細かな彫金が施されているのをユストに教えてくれる。おそらく最新のそれであり、手間の掛かる彫金の具合からして四カ国の中で最も経済力がある中央で暮らす者らしい所有物とも言えよう。
「リストメクの住人が消えた、と言って、あなたは信じますか?」
顔を斜めに傾けたユストの眉間にはうっすらと皺が寄っている。確かに突拍子も無い展開ではあるが、先に出会ったアウルス・ボーンとルケリヤの姿と言葉が脳裏を掠めた。生死の遣り取りをする者にとって想定に重きを置くべきではないとも脳と体に刷り込まれている。如何に事実を受け入れるか。
「反乱か騒乱が勃発したのかと怪しみましたが、遺体は一つも見かけませんでした。勿論、市街地内をくまなく調査した結果ではありませんが…。」
カミル・ヴェネシュは神妙な面持ちで俯き、余念を振り払う様に顎を上にした。
「少なくとも目抜き通りは閑散として…いや、人影は見当たりませんでした。」
木製の椅子に腰を下ろしているユストは組む脚を入れ替えた。短くなった煙草を足許に投げる。積雪と共にある冬の大地は陽光に晒されようとも黒く湿り、すぐさま煙草の先端を同じ色に染め上げた。
「目抜き通りに誰もいないものですから、わたしは店舗を覗きました。一軒二軒と廻り、三軒目だったと思います、彼らと遭遇したのは。彼らは誰もいないのを幸いとばかりに窃盗を働いていました。」
なるほど、それが見てはならない理由か、とユストは頷く。しかし、剣霊使いとしてまだ引っ掛かる何かが払拭されない。新たな上質な紙片を取り出し、ミミズクの風切り羽根の頂点が細かに揺れ動いた。
『この者たちは二人だけか?』
「恐らく。仲間と思われる者には遭遇していません。」
『何か喋っていなかっただろうか?』
そういえば、とカミル・ヴェネシュは顎の先端に数本の指を添えて記憶の糸を手繰り寄せる仕種を見せる。土地鑑定士という職業柄なのか、ユストは新たな二本目の煙草を取り出そうとせずに聡明さを思わせる横顔へ一瞥を与えた。
「ムルドの奴、邪剣霊がどうだこうだ、と二人で語っていたのを覚えていますが…あなたの参考になる内容でしょうか?」
相分かった、とユストは立ち上がるとカミル・ヴェネシュの剣の扱いとはこれまで無縁であったと思われる肩に右手を添える。ムルドという人物はさておき、邪剣霊という単語が姿を現した以上、剣霊使いとして黙殺を決め込む訳にはいかない。
『愚生はリストメクへ行く。君は北部の街へ行き、リストメクの状況を憲兵に知らせて欲しい。』
「わたしがその様な大役を?信じて貰えるでしょうか?」
『中央の査証を見せれば話は早い。君の様な聡明な人物の言葉を聞き流す様な愚か者が愛国心に溢れた北部の騎士の中にいるとは思えないが。』
「それは…買いかぶりすぎですよ。」
『ならば憲兵に伝えた上でこれをある人物に届く様に手配して欲しい。』
ユストは更に新たな上質な紙片に素早く文字を走らせる。そこには『親愛なるイゼリアーシェ王女殿下』と記されていた。宛先が思わぬ人物の名だと知って眼を丸くするカミル・ヴェネシュを尻目にユストはコートのポケットから黄色のリボンを取り出した。以前、自らの剣霊が王女殿下に化けた際に利用したものとはカミル・ヴェネシュは知るまい。円筒状にした書状の中央に鮮やかな色が添えられた。
『君は今しがた見たと思うが、宛先はこの国の王女殿下だ。』
「あなたはいったい…。」
『剣霊の使い手は北部では殊更良い顔をされないのでね。』
カミル・ヴェネシュの疑問を気にも留めず、ユストは背を預ける者を失ってもなお静かにしている二頭の馬の手綱を解いた。引き綱にする為である。そして唖然と立つカミル・ヴェネシュに二頭の引き綱を握らせた。馬は任せる、と言う事か。毛並みからしてまだ若い。生活の足しとするならばそこそこの額面は期待出来る。
「この馬を、二頭ともわたしに?」
ユストは頷いて応えた。
「リストメクへ行くなら馬を駆った方が楽ではありませんか?」
尤もな意見ではあるがユストは首を縦に振らなかった。
『馬を殺めてしまう場面に遭遇するかもしれない。その場合、彼女が悲しむ。』
木製の椅子の背もたれに立て掛けた赤紫色のケープに包まれた剣へ向けてユストは目尻に感慨深い皺を作る。彼女とは剣霊を指してであろう、とカミル・ヴェネシュはユストの視線の先を追った。ただ、常軌を逸脱した意見に何と応じれば良いものか判らず、必要以上に踏み込んではならないとも心の奥底で己に言い聞かせていた。
「判りました。あなたの指示に従いましょう。ただ、わたしも仕事を持つ身であり、職務を果たさなければなりません。わたしがこれより先の北部の地を踏み締めるとなれば依頼主への報告が遅くなります。つきましてはあなたにわたしの代わりに依頼主へ報告して頂きたいのです。」
カミル・ヴェネシュの意見は筋が通っている。尤も、ユスト自身も中央行政府に足を運ぶつもりであるから断る理由も見当たらない。構わない、何処の誰を訪ねるべきか教えてくれ、とユストの唇が動き、そう読み取ったカミル・ヴェネシュは安堵の表情を見せた。
「リストメクへの移住は今一度再考されたし、とお伝え下さい。この様な事態に陥りましたから。」
新たに加えられた二頭の引き綱を自らの馬の背から伸びる様に結びながらカミル・ヴェネシュは言葉を続けた。
「依頼主の御名前はバレンタイン夫人。御主人を三年前に失い、中央に未練はないと仰っていました。住所は中央の首都ゲルハルステンの碧緑の孔雀通り五十四です。」
もしカミル・ヴェネシュが出立の用意に悪戦苦闘していないのであれば、生命の遣り取りを潜り抜けた剣霊使いが刹那ではあるが愕然とした表情を惜しみなく晒していたのを目の当たりにしていたであろう。
「わたしも紙に記した方が宜しいかと。筆記具をお貸し願います。」
カミル・ヴェネシュは引き綱の結び目の具合を念入りに確かめた後にユストに同意を求めた。平然とした面持ちのユストが差し出した筆記具を持つ手が心なしか震えを帯びていたのは気のせいか。持ち主が変わろうともミミズクの風切り羽根を用いた羽根ペンは底知れぬ動揺を表さずに滑らかに動く。ユストより若いと思われるだけに彼の文字は軟らかく、誰もが読み易いものであった。
筆記具と依頼主の詳細が記された紙片を受け取るなり、そそくさと仕舞い込むユストを気遣ってなのか、馬上のカミル・ヴェネシュは簡略的な一礼をした。
「雑用をお願いする様で申し訳ありません。」
『構わない。』
音無き唇が端的に答えた後にカミル・ヴェネシュは中央へ赴く目的は、と喉許まで出掛かった言葉を飲み込んだ。相手は剣霊使いである。世間から見て密やかな存在は既に事切れた二つの亡骸の前で膝を折った。器用に柄へ触れずにそれぞれの腰から剣を外し、鞘を掴んでカミル・ヴェネシュに向けて手渡す。二本ともである。道中の身を守る為の武器として所持していろと言いたいのであろう。謂れが不明の剣は切れ味はもとより、強度も判らない。頼りとする一振りが折れたら次なる一降りを抜く。少なくとも赤紫色のケープに包まれた剣霊の真の姿と比べるまでも無いのはその道に疎いカミル・ヴェネシュですら理解していた。
「彼らの遺体はどうされますか?」
素朴であり順当な質問にユストは尤もな回答を音無き声で放った。
『人間以外が綺麗に処分してくれる。』
踵を返した剣霊使いは羽織る黒いコートの裾をなびかせてリストメクへ向かい始めた。剣霊を包む赤紫色のケープの端もそれに同調して不定期な動きをしてはためいている。馬上から見える剣霊使いの後ろ姿は何を思い描いていたのか。戦いを前にした剣士の覚悟、戦いを制す為の熟考の一時か。些か両肩が落ちている様にも見えなくはない影が霞むと共にカミル・ヴェネシュは馬の腹を蹴った。
エルスノアはいつになく緊張していた。左右の指先が僅かに震えているのが何よりの証である。これから剣霊帝に定例の挨拶と報告をする。先代の協会長を弔うべくメツァールントへ単身にて赴く件の許可が得られるのだろうか。もしかしたら難しいお顔をされるかもしれない、と思うが故に指先が震えていたのを彼女は自覚していた。
沐浴を終えた際の艶やかな髪は深い紺色の布の下に隠れ、湯に浸かった女の香る肌は協会長という肩書きの者のみが着用を許される立ち襟の質素であり気品のある服に包まれていた。木彫りと石造りが見事に融合した渡り廊下の中央を独り歩く。五十年以上前、先代の協会長に手を引かれて初めて剣霊帝に謁見した際の緊張感をエルスノアは思い返していた。あの時は確かに緊張しながらこの渡り廊下を歩いていたが、その度合いと同等の期待があった。人間に在らざる者、剣霊の絶巓たる存在をこの眼で、興味と好奇心しか知らなかった純朴な双眸に焼き付けられる喜びが胸裏で膨れ上がっていたからである。
何時になく渡り廊下が長い。感覚的な事だと判っていようとも長い。硬質な石を貼り巡らせた壁面が冷たく光り、陰鬱な空気の流れを助長している。厳かな雰囲気はエルスノアの内心を反映しているのか、薄暗く、湿ったとも乾いたとも言い切れない空間を作り出していた。その様な中、彼女は清廉と品位を伴う靴音を定期的に響かせながら前へ進む。まるで己の中で蟠る不安を忘れんとする音色に耳を傾けるものは誰もいない。
渡り廊下の終着点は威厳を体現した鋼鉄の扉である。絡まる蔦を幾多にも表現した精緻な筋彫りの表面にエルスノアの右の掌が触れた。軽くなぞる様にである。僅かな沈黙が流れ、威厳を体現した鋼鉄の扉はそれらしい響きを轟かせながら左右へ開く。剣霊協会の協会長たるエルスノアを迎い入れる為に、その名を襲う者を認めたかの様に威厳を体現した鋼鉄の扉は人間一人分、強いて言うなれば女性一人が通る程度の通り道を作り出した。
意を決したかの様に俯き気味な顔を正面に戻し、エルスノアは一歩を踏み出す。ここから先は剣霊帝の麗しい姿を拝める領域であり、渡り廊下とは違う。採光と装飾を主としたステンドグラスの微細な煌きの集合体は円を形成する十二本の剣を模したレリーフを虹の色彩で祝福していた。その光景を目にした誰もが開いた口を閉じるのを忘れる。云わば自己忘却の空間である。レリーフの下では水晶を削り出した椅子に腰を下ろした絶巓の剣霊たる剣霊帝が肘掛けを利用して頬杖を突いていた。
「待ちかねたぞ、エルスノア。」
剣霊帝の声は小さく、自己忘却の空間を取り巻く空気は震えない。だが、エルスノアのあらゆる肌を撫で、数多の毛穴から入り込んでは直接脳に訴えている様な感覚が否定出来ない。無視は許されず、抗える者がこの世にいようか。何も答えずに頭を下げたエルスノアは数歩前へ進む。足許には剣霊帝の虹色に輝く長い髪が畝を形成しているが、エルスノアが脚を動かした部分に関しては板貼りの床が露出している。乾きに乾き、擦れに擦れ、剣霊帝と長きに渡り共にしてきた床である。エルスノアはその上で膝を折ると再び頭を垂れた。
「剣霊帝様、今朝は報告と相談の儀がございます。」
エルスノアの声が剣霊帝のそれとは違い、自己忘却の空間に響く。何処となく訥々としてはいるが、幸いなのは声が若く生気が垣間見れる事であろうか。
「詳細は余の髪に櫛入れの最中に聞こう。ただその前に…。」
上質な絹が擦れる音が静かにエルスノアの耳に囁く。剣霊帝が脚を組んだ際に発せられた音であると彼女は理解していた。
「エルスノアよ。六十九の者、アウルス・ボーンがしてやられたぞ。」
伏せていた頭を勢い良く持ち上げたエルスノアの表情は強張っていた。
「誠でございますか?」
「余の霊体を支える彼の者の血が死を伝えたのだ。」
「アウルス・ボーンは手練の剣霊使いです。誰がいったい…。彼と契約を結んだルケリアの安否は?」
「そこまで余は判らん。」
左右の瞳に闇を与えたまま剣霊帝は頬杖を突いたまま顎の角度を更に深くする。流れる虹色に輝く髪は滑り落ちる様に色合いに変化を与えられた。
「残念だがアウルス・ボーン共々討たれた、と見るのが妥当であろう。」
エルスノアが予想だにしていなかった別の事案は剣霊帝に難しい顔をさせてしまった。ただ、結果としてエルスノアの中で己の願望を口にして良いのか、と躊躇いが強く生じたのはどのみち変わりなかった。
「故に早く髪に櫛入れをして欲しい。余は気分を少し和らげたいのだ。」
仰せのままに、と手短な返答を発したエルスノアは剣霊帝の許へ近寄る。水晶を削り出した椅子の脇から同素材の櫛を取り出し、虹色に輝く長い髪の一端を掌に乗せる。剣霊帝に仕えて以来、この髪に櫛入れをするのは何回目なのかは既に判らない。覚えているのは初めて櫛入れを要求された際、まだ十歳の幼く柔らかな手で懸命に櫛を上下させると、あらゆる彫刻家が真髄の域として目指すであろう端正な横顔を僅かに柔らかくさせた事であった。そして、今もあの時と同じ横顔を剣霊帝は作り出している。
「そなたが余に相談を持ちかけようとしたのは、先代の件であろう?」
深めていた顎の角度を浅くし始めた剣霊帝の言葉にエルスノアは頷いただけである。櫛を入れる虹色に輝く長い髪と同調しているのか、エルスノアの髪を覆う深い紺色の布が心地良い衣擦れを発した。
「あの者、余の許に別れの挨拶をしに来たぞ。そなたの事を未だに気に掛けていた。」
剣霊帝の言葉は成人を過ぎて間もないと思われる手の動きを止めさせた。その上に熱いものが一滴、零れては音を立てずに自己忘却の空間に煌いた。
「そなたも先代から今ある立場を継いで既に五十年の歳月を経て、やんごとなく責務をまっとうしている。何も憂いずに旅立つのが良かろうと余が声を掛けると、あの者、首を横に振りおったわ。そなたを今ある立場にした自らを悔いていると涙を流して語っておったが、エルスノア、そなた自身はあの者を恨んでいるのか?」
手の動きを止めたままのエルスノアの様子を覗う為か、剣霊帝の閉ざされた左側の目が開いた。黄と茶の重瞳が流麗な目尻へ偏る。
「剣霊帝様、わたしは先代様を敬い、今ある立場、今あるこの体に僅かな不承不服すらございません。ただ、自らを苛ませるのは、天寿をまっとうされた恩ある先代様に手向けの花すら添えられない事です。」
「なるほどな。そなた、一時の暇を出せと余に願いたいのか。」
「仰せの通りでございます。」
「そなたが留守の間、誰がそなたの代役を務めるのか思う節はあるのだろうな?」
「次なるエルスノアと名を襲うであろう者に任せようと考えております。」
「ほぉ。そなたは既に後継者を見出していたのか。」
剣霊帝の左側の瞳たちは刹那ではあるが、細めた瞼の下で表情を纏った。
「レンカ・ヴィルダとソフィー・バグーの二名でございます。」
「七歳と五歳の幼子に果たして務まるのか、余は疑問を抱くが?」
「わたしも初めて剣霊帝様のお顔を拝したのは九つの時でした。かの若き候補者たちはあの頃のわたしよりも上手に剣霊帝様にお仕え出来ると確信しております。」
エルスノアは渇きを感じ始めている唇からひっそりと息を吐いた。緊張による渇きである。己の願望を遠慮せずに口に出した事、それに対し剣霊帝がどの様な裁可を下すか、また裁可を得るまでの空白の時間を耐えなければならないもどかしさ。普段よりも心臓の鼓動が暴れているのが判る。今はただひたすら櫛入れに専念せんとエルスノアは意識を集中しているのか、動く櫛は数多の歯車で構成された機械の如く一定の速さで、滑らかに上下に動く。
「七日だ。本日の午後に出立して七日後の昼には再び余の前に姿を見せるのだ。」
剣霊帝の言葉はその様にエルスノアの脳裏に飛び込んだ。次に貴金属同士がぶつかり合う鈍い音が一人の人間と剣霊の間で木霊した。剣霊帝が頬杖を突いていた右腕を動かしたからに他ならない。決して軽やかではなく、凡百とは程遠い響きが鳴り止むと同時に、剣霊帝はそれまで薬指に嵌めていた黄金の指輪をエルスノアに差し出した。
「そなたの無事をこれが見届けよう。それまで預ける。」
指輪には精緻な模様が刻まれている。その切り欠き部はステンドグラスの彩りを受け止め、常人であれば言葉を失う輝きを放っていた。エルスノアも例に漏れず、僅かに唇を開いたまま茫然となる。
「さて、余はそろそろ右側をお願いしたいのだが。」
組む脚を入れ替えた剣霊帝の言葉はエルスノアに首を縦に振らせた。恐る恐る黄金の指輪を受け取る手が強く握り締められるのを見届けた剣霊帝の左の瞳たちは再び闇を与えられた。




