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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第四章 ゲルハルステン望郷編
53/75

ナーソヴィム、ユスト

 冬の早朝とは空気が最も清らかな一時いっときと思わせてくれる。

 それは冷たく、晒された肌を撫でずに刺す。迸る刺激は五感に鋭さを漲らせ、深い呼吸の度に脈打つ鼓動の響きを際立たせる。大自然はこれから刃を交えんとする二人の男の為のささやかな手向け、または凝った演出の舞台を用意したつもりなのかもしれない。

 共に旧街道の中央を歩んでいた。イルサーシャを抱きかかえるユストと女を脇に従えた白銀の鎧を身に纏う男についてである。二人の男は歩調を変えずに前へ進み、距離が縮まる。ユストの視線は相手の行動をいち早く捉えんと幾分細めた目尻をそのままに平静を保ち続けていた。

 幸いな事にユストは朝日を背にしていた。相手は逆光によりユストの行動をいち早く察知するには時間を要する。加えて言うなれば、対する男が身に纏う白銀の鎧の表面に艶が見受けられない。つまり陽光の反射による眩惑にユストが留意しなくても良い好条件でもあった。

 距離が縮まるにつれて男が纏う白銀の鎧の様子が鮮明となる。使い込まれたのか、手入れを怠ったのかは知る由もないが、陽光はおろか、冬の主たる化粧である足許に広がる積雪の煌きを映し出していなかった。艶の有無どころではなかった。汚れは無論のこと、傷が至る箇所に見受けられる。斬撃による傷だと剣を携える者であれば直ぐに理解出来る。胸許に刻まれた北部王立国家の国章も例外ではなかった。剣と槍を掲げた龍がその身に傷を負いながらも白銀の長い髪の剣霊とその契約者へ厳つい表情を崩さずに睨み続けている。国章たる龍の勇ましき姿は身に纏う男の不屈の闘志を表現しているのか。この時点でユストは相対するであろう男は単なる騎士にあらず、実戦を潜り抜けた猛者だと己の中で囁く直感を無碍に出来なくなっていた。

 ユストの二の腕に添えられているイルサーシャの手が僅かに動く。握り締める為である。そして生気とは程遠い唇から弱々しい言葉が漏れた。

「ナーソヴィム、ユスト、ナーソヴィム…。」

 またこの言葉か、とユストは眉間に力を込めた後、抱きかかえるイルサーシャを己の体に密着させた。垂れる白銀の長い髪が緩やかに踊る。積もる雪の輝きと似たうら寂しさを見せてくれた。

 剣霊が契約者に何かを訴え掛けているのは明らかである。しかし、その言葉の意味が判らなければ最善となる行動へは移せない。やはり古代言語を少しでも習得しておくべきであったのか、と今更悔いても道は開けない。ならば言葉の意味するところを予測するしかない。進め、戦え、隠れろ、そして逃げろという単語がユストの脳裏を最後に掠めた。

 逃げろか、と反芻する。剣霊が敵に背を見せるとはこれまでに聞いた事がない。実際にどの様な敵であろうともイルサーシャを始め、剣霊たちは己の持つ力の全てを出し惜しまずに戦いに挑み続けている。人間が及ぶ所ではない孤高の矜持を抱く剣霊が万全ではないが為に逃げろと言い、目前に迫る者たちはその様な剣霊に逃げろと言わしめるほどの実力の持ち主なのだろうか。

 距離が目測で五メートルとなった時、ついにユストは脚の動きを止めた。緩やかになびいていた羽織る黒いコートの裾が静かになる。ユストは己の肩幅と同等の間隔で脚を広げていた。一発触発の際に直ぐに動く為に他ならない。白銀の鎧を身に纏う男もユストとほぼ同時に立ち止まった。旧街道に積もる雪を踏み締める男たちの靴音と具足の響きが鳴り止む。白銀の鎧を身に纏う男が脇に従えている女の様相がユストの視界に映る。彼女もユストを一瞥すると世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳を元の位置、つまり男を見上げる為の位置に戻す。横顔は涼しさと女の艶やかさを思わせる彫刻そのものであり、麗しい唇が虚ろに開き、男に何か囁いている。その唇の色合いはイルサーシャと同じであると知ったユストは己の目を疑った。何故なら、剣霊と共にしている男が白銀の鎧越しの左の腰に剣をぶら提げていた為であった。

 剣霊は自らの契約者が己以外の刃を手にする事を極端に嫌う。契約者としては剣霊の機嫌を損ねさせるのは避けるべきである。斬れるものも斬れなくなり、戦いの場において敗北を甘んじる度合いが跳ね上がるからだ。

「おい、そこのお前。」

 ユストの中で生じた疑問を一蹴するかの如く言葉を発したのは白銀の鎧を身に纏う男であった。低く、何事にも動じない落ち着きを思わせる響きであり、体格から想像させられる声の質を裏切らなかった。

「お前が抱えているのは剣霊だろう?ちと、そのつらを見せてみろ。」

 言葉を発する者が顎をやや上にして見下す様な視線を送ろうともイルサーシャはおろか、ユストも眉一つ動かさない。ただユストは羽織るコートの中で肩幅に広げている両脚の筋肉を外側から内側へ絞り込む様に力を込め、意識の幾ばくかをそちらへ注いでいた。間髪入れずに左右に動かざるを得ない状況を想定しなければならない。だが、それも杞憂に過ぎないか。何故なら白銀の鎧を身に纏う男の右腕には従えている女、いや剣霊が身を寄せている。イルサーシャの顔を見るなり腰に佩く剣を抜くとは考え難い。また剣霊が斬撃を繰り出すにはユストに警戒心を与えた時点で時機を逃している。剣霊もその点については百も承知と言わんばかりに平静を保っている。ならば波立たぬ水面が暴れる要素をあえて作り出す必要はない。白銀の鎧を纏う男に向けてユストは頷く。剣霊と視線を合わさない様に体の向きを変え、一方的な要求に応えた。

「ほぉ、こいつはなかなか芋くさい嬢ちゃんだな。」

 予想を遥かに超えた言葉を放った白銀の鎧を身に纏う男は立て続けに口を開いた。

「しかも人間には到底有り得ない不細工具合だ。それがしの剣霊もそうだが、お前のはまた異なる種類の不細工と言えるな。」

 暇にしていた左手を無精髭が数本見受けられる顎に添えながら白銀の鎧を身に纏う男は得意気に、思った事を包み隠さずに吐き散らす。馬鹿にされたと怒りを露にするよりも想定外の台詞にユストの眉がぴくりと動く。イルサーシャについてはともかく、己の剣霊に於いても芳しくない表現を用いるこの男は何を考えているのか、そしてその言葉を横で聞いている当の剣霊は涼しげな表情に変化を与えていない。連れ合う日々の経過は辟易するのも大儀とさせたのだろうか。

「へぇ?北部にたち以外に協会の手の者が足を踏み入れていたとはねぇ…。」

 敵意を曝け出さずに物静かに語る剣霊の声は華やかさとは異なる甘い響きを有していた。端的に表現するならば、男を魅了する声色である。白銀の鎧を身に纏う男の腕に頬を付けたまま、彼女は世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳をイルサーシャからユストへ舐める様に動かす。そして魅力的な厚みを見る者に思わせる唇に生々しい微笑を与えた。

「それにしてもあなた、遠くからでも紳士だと判ったわ。しかも近くで見ると結構な二枚目なのね?この気の強そうなお嬢さんの好みなのかしら?」

 目を閉じたままのイルサーシャの眉間が震えている。同じ立場の者が吐く台詞に抗うかの様に小刻みな震えであった。

「あなたたち、とてもお似合いよ。あと…少し妬けるわ?」

 貶された次は褒めちぎられる。相対する者の心理を揺さぶり、虚を突いて出端を挫くのが目的なのかとユストが勘繰るのは当然と言えた。

「警戒しないで。はルケリヤよ。」

それがしはアウルス・ボーン、第六十九番の剣霊使いだ。それがしはお前より遥かに体格が良い。戦えばどうなるか心しろ。」

 アウルス・ボーンの鼻から漏れる白い息が冬の大気に掻き消える。尊大に語るその内容にユストは内心で舌打ちをせざるをえなかった。

「ねぇ、ここで出会ったのも何かの縁よね?二枚目なあなたと気の強そうなお嬢さんのお名前をは是非とも知りたいのだけれども…?」

 六十九の番号を与えられた剣霊とその使い手にユストは剣霊障の為に名乗れない。筆記具を用いるには抱きかかえるイルサーシャを降ろさなければならないが、今はその気にはなれなかった。冬の化粧が施された地に彼女を降ろす訳にはいかない。ただでさえ冷たい肌を持つ剣霊にこれ以上冷ややかな思いをさせたくないからである。しかし、相手が名乗った以上、こちらもそれに応えるべきである。ルケリヤとアウルス・ボーンから殺気は未だに感じられないが、名乗るのを拒めば無益な戦いの幕が切られる可能性が生じる。だが、見るからに気性の荒そうな大男と何処となく裏が有りそうな危険な香りを発する艶やかな剣霊は所属先である剣霊協会が剣霊使い同士の争いを強く禁じている件を知らない訳がない。

 ユストの男らしく尖った顎先が天を仰いだ。北国らしい早朝の柔らかく頼りない陽光は彼が首許に巻き付けている剣霊協会支給の黒地のスカーフに黒の刺繍が走っている事を陰影を以って教えてくれる。ユストの見せ付ける様な仕種を目の当たりにしたルケリヤとアウルス・ボーンは互いに異なる表情を露にした。

「そこに彼女の食痕があるのかしら?」

 目尻を細め、唇の両端を緩めるルケリヤは甘美な思いに震える体を包み込まんと言わんばかりに組んだ腕の先にある手を自らの腰に添えている。ユストの首許を晒した返礼のつもりなのだろうか、女性らしい胸許が幾分強調されているのがケープ越しでも判る。

「いや、そういう意味ではないだろう。やっこさんは喋れない理由を示したのだとそれがしは見たが?」

 やや首を傾げて訝しそうに眉間に皺を寄せているアウルス・ボーンの言葉にユストは頷いて応える。黒の刺繍が走る黒地のスカーフにアウルス・ボーンの眉間とは種の異なる皺が形成されては直ぐに消えた。

「七十二の番号とは驚きね。ちょっとした有名人じゃない、あなた?」

 一切の音を発さずに相手を屠る剣霊の使い手について風の噂で耳にした、とルケリヤは言葉を続けた。初めて発する音はその身を斬り刻まれた敗者の断末魔のみとも言われ、誰もが恐怖に慄いているとも付け加えられた。

 当の七十二の番号を付与された者からしてみれば、少々の世辞が加わっている感が否めない。剣霊や女よりも雌に近いルケリヤの眼差しから判断するに、おべんちゃらという表現がしっくりする。そもそも斬り刻むという言葉を発する時点で信憑性が全く感じられない。イルサーシャが放つ一撃は斬撃ではない。刺突撃である。彼女の剣体を操るユスト自身もこの刺突撃に一撃必殺の信条を委ねている。単なる風評に憶測という名の尾ひれが付いて広まり、彼女はそれを鵜呑みにしているのであろう。しかし、風の噂通りの表現を用いるならば、誰もが恐怖に慄いている存在に目の当たりにしようともルケリヤとアウルス・ボーンの殺気は依然と漏れず、警戒心を漂わす雰囲気は皆無であった。

 剣霊とは自身が至上と信じて疑わない存在である。つまり全てが己よりも劣ると見下す。ルケリヤにとってイルサーシャの状態を窺い知ればその様になるのもごく当たり前か。ならばあからさまに戦意や対抗心を見せ付ける必要もなかろう。

「ところで、有名人とは立ち話が好きなのか?それがしはどうもいかんな。」

 白銀の鎧の一部である篭手の先端が路傍を示す。低く尊大な声の主は道を逸れろと示唆している。これから戦いが行われないのはユストは肌で理解していた。斬り伏せるのにわざわざ相手の名前を聞くのは戦いを知らない者の行動である。名前を聞けば無駄な時間が生じる。その無駄な時間は相手に身構える猶予を与え、己の勝利が飛躍的に遠退く。

「お前、先程からそれがしの左が気になるか?」

 左とは左腰の事である。アウルス・ボーンの路傍を示した篭手の先端が腰に携える剣の鞘を軽く弾いた。軽やかな響きからして、鞘の中は空洞と思われた。

「飾りだよ、飾り。こうすればこの国では剣霊使いと怪しまれんからな。」

 ユストは北部王立国家で新たに出会った剣霊とその契約者から視線を逸らさずに頷いた。


 旧街道の道端には在りし日の生活用具が散見された。

 破棄されたと思われる木製の押し車の荷台に降り積もった雪をアウルス・ボーンは手早く払い除ける。経年により木目が詰まりに詰まった表面は雪であろうと水分を受け付けていない。彼は白銀の鎧が奏でる重々しい音と共にそこに腰を下ろした。男らしく股を割り広げ、彼の太腿の上にルケリヤが引き締まった尻を乗せる。剣霊らしいか細い指を持つ両手はアウルス・ボーンの首に廻っていた。

 ひとまず戦いを回避したと判断して間違いではなかろう。ユストも出店の残骸と思われる崩壊した煉瓦積みの一部に背中を預けた。寂寥という響きが板についた旧街道を挟んで二人の男と二振りの剣霊が距離を保ち続けている。相手が単なる人間ではないと知ったとしてもユストはイルサーシャを両腕で抱えた姿勢を崩さなかった。

「あなたたち、何処へ行くの?」

 ルケリヤはアウルスボーンの肩に撫で付ける様に頬を密着させながらユストの真意を探ろうとしていた。特段、隠す必要はないと判断したユストは目指す目的地へ向けて視線を投げる。そこはルケリヤとアウルス・ボーンが歩んできた方向でもあった。

「リストメクの事かしら?残念だけど、あそこは行くだけ無駄よ。」

 どういう意味だ、と言いたげなユストは双眸を細めながら首を傾げて己の意図を表現するしかない。寄り掛かる壁面に剣霊であるイルサーシャの指を使って文字を刻んでも良いが、項垂れる彼女の霊体から手を離す訳にもいかない。そもそも寄掛かる壁に形跡を残したくない。また視線と意識を僅かな間ですら他へ移すのも控えるべきである。イルサーシャが語った古代言語の意味が彼をその様にさせていた。

それがしとこの不細工は邪険霊に追っかけられていてな。」

「いやね、たちが追っているのよ。」

 事の成り行きをルケリアとアウルス・ボーンは語り始めた。男の言葉に女は否定と注釈を加える。女が口を開けば男が遮る。果たしてどちらが真意を語っているのか、虚偽を繕っているかは聞かされる側にあるユストが精査するしか手段が残されていない。

 イルサーシャを抱きかかえたままユストは彼らの言葉に耳を傾け、この様に捉えた。

 北部王立国家と中央行政府の国境に隣接するリストメクは人口千人程度の平凡な規模の市街地である。ただ、異なる国家間の玄関となる場所は自ずと反映し、独自の文化を形成する。接する国同士が交戦中であれば最前線の市街地として兵と物資が集まり、防護壁や幹線道路の区画整備など市街地の構造が飛躍的に向上する。また友好国であれば盛んな交易により人々が集まり、経済基盤がゆるぎないものとなる。幸いにして北部王立国家と中央行政府は友好条約を締結している。実際リストメク市街地とは北部で暮らす者からは中央という都会の文化を取り入れた憧れの街として、中央に住まう者からは北部の広大な大自然へ誘う玄関口と認識されていた。

 剣霊協会よりアウルス・ボーンは邪険霊の討伐を命じられた。依頼主は北部の資産家であり、その孫が凶刃の餌食になったという。その仇討ちと今後の安寧を期して自国の軍隊ではなく他国であり忌むべき剣霊協会へ依頼した。

 なるほど、とユストは相槌を打った。邪険霊の討伐に失敗は許されないものである。この場合の失敗とは生命の喪失に直結している。いくら悪運が強い者であろうともかすり傷で済む話ではない。剣霊を忌み嫌う急先鋒であり、剣霊との対峙の無敗を誇っていた蒼き騎士団は団長の不可解な失踪により解体となった件は既に北部王立国家に広く知れ渡っていた。その様な状況の中、自国の誉れ高き騎士を邪険霊の討伐に充てる事に躊躇いを伴ったのか。ならば他国の、とりわけ邪険霊の討伐を生業とする者たちが所属する組織に依頼するのは妥当と判断出来る。仮に遣わされた者が芳しくない結果となろうとも損害を被るのは依頼主にあらず、剣霊協会である。所属する者を失うとは実行力を削がれる事を意味する。また、これまで培った名誉と信頼に汚点をつけてしまう。また北部王立国家の時期王位後継者であるイゼリアーシェ・ヴェルリンクの発心による両国間が友好的になりつつある雰囲気を水泡に帰す訳にもいかない。

 剣霊協会は無碍に出来ない依頼に対し、アウルス・ボーンとその剣霊であるルケリヤに白羽の矢を立てた。剣霊協会から与えられる通常番号は昇順となる。ユストとイルサーシャはもとより、ル・ゾルゾアとブリスタンよりも彼らは早く協会に所属している。そして今も存命している。纏うケープのフードを被ったままのルケリヤの髪の形は判らず、またどの様な特殊能力を備えているのか初対面のユストには判りかねるが、筋骨隆々としたアウルス・ボーンの頼もしい姿といい、彼らはいわゆる手練れと見て間違いではなかろう。

 己は南西自治国家の出身と語るアウルス・ボーンは依頼先で怪しまれずに行動する為に、まずは盗みを働いた。北部王立国家の騎士が纏う白銀の鎧一式である。兵站と思われる倉庫に忍び込み、難なく事を済ませた。剣霊であるルケリヤにはフード付きのケープをあてがい、剣霊の特徴でもある垂らしたままの長い髪を隠して行動を共にさせた。

「これ、なかなか窮屈なのよね。気の強そうな美人さんもケープを身に着けているけど、と同じ様な事を言っていなかったかしら?」

「いやぁ、単なる偶然だろう。お前と同じでこの国では不細工具合を隠すにはもってこいだからな。」

 どうもこの組み合わせの会話には眉をひそめさせられる。このまま延々と居心地の悪い会話に時間を費やすのか、と思う反面、今後の道程について何か情報を得られる可能性も大いに有り得る。果たしてアウルス・ボーンとルケリヤは支離滅裂な会話を四六時中行っているのか、この様なお互いの意見が噛み合わないまま愚生たちよりも長く共にしているのか、と鮮明な疑問と曖昧な勘繰りが混ざり合わさろうとしている。その様な感情が脳裏の片隅にじわじわと広がりつつあるのをユストは否めずに耳を傾けていた。

 普段のユストであれば煙草の煙をくゆらせながら、としたいところだが、やはりイルサーシャを後々は残雪となろう北部王立国家の風物詩の上に降ろすのは忍びない。羽織るコート越しの腕を力なく掴んだままのイルサーシャを抱きかかえ直したユストは彼女の横顔を己の胸に押し付け、器用にも白銀の長い髪に五指のうちの数本を絡ませた。

 剣霊使いは任務を完遂しなければならない。その理に則るべく、潜入先の地に住まう者へと偽装したアウルス・ボーンとその連れ合いであるルケリヤは白昼に堂々と行動し、討つべき邪剣霊と遭遇した。この人気を感じられない旧街道沿いでの出来事である。手段や技はどうあれ、彼らは定石通りに邪険霊を一撃で仕留めたのだろうとユストは過去の経験や知識を基に想定していた。だからこそ、今ここに彼らは立っている。しかし、細めた目尻をそのままにしているルケリヤの言葉はユストの経験と知識を否定するかの様に全く予想だに出来ないものであった。

を見るなり邪険霊は逃げ出したわ。」

 ルケリヤの世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳がユストを貫かんとしていた。

「一閃も繰り出さずに一目散に逃げるなんて、がそんなに怖いのかしら?」

 ルケリヤは天賦の才であろう妖しさと悪戯好きな雰囲気を惜しまずに晒しながら他の剣霊と契約した男の動向を窺っている。当のユストは感情を表に出すまいとしたが、鼻腔から強く息を漏らしてしまった。冬の大気の中に驚愕の表現の一端である白い息が尾を引いて消える。

 ユストが驚愕するのも無理なかった。イルサーシャと共にしてからこれまでの間に命を賭して知り得た知識と経験に一石を投じられてしまったからである。剣霊に於いては戦いを前にして逃走という選択肢はない。相手が己より凄まじき殺気を放とうとも気後れせずに挑み、相手が如何に強大な力を有していると判っていようとも己の力を信じて渾身の一撃を繰り出す。それが己の矜持が至上と信じて疑わない存在と言われる剣霊たる所以でもある。

 予想通りの反応であったのか、ルケリヤは流麗な目尻を細め具合に変化を与えていない。そしてアウルス・ボーンは腕を組み、尊大で威圧的な雰囲気を崩さずに短く笑った。

「お前、何を驚いている。それがしたちにとっては常々の事だ。」

「そうなの。誰もと戦おうとしないのよ。」

 嬉々と語るルケリヤは剣霊らしいか細い手をアウルス・ボーンの肩に添え、その上に頬を乗せて密着させた。さしずめ、申し分のない番いがのろけ具合を見せ付けている有様とも、あるいは剣霊がこの場を制する手段の一つとしての挑発とも受け止められる。普段であればユストの制止を振り切ったイルサーシャが感情の趣くままに口を開いて目の前の番いに何かしら応えているであろう。しかし、今は違う。彼女はユストの両腕に体を預け、覇気を漲らせている目許は力を失い、意志の強さを垣間見せていた唇の両端は弛緩しきっていた。

逃げた邪剣霊を追わなかったのか、と次なる疑問が生じるのはごく自然である。ユストは顔をリストメクへ向けると視線だけ動かしてルケリヤとアウルス・ボーンを見つめる。そして男らしく尖った顎をしゃくった。

「彼、何が言いたいのか、あなた判る?」

 興味本位から困惑へと表情を変えたルケリヤは助けを求める様にアウルス・ボーンを見上げた。その横顔が放つ雰囲気はイルサーシャと同じ趣きがある。やはり彼女も剣霊であるとユストは眺めていた。

「何故追わない、とでも言いたいのではないか?」

 ユストは頷いて答えた。

「北部に逃げた、という考えはないの?」

 ルケリヤの問いに対してユストは何も思うところなく首を横に振る。何故なら狩られる者にとって狩る者が現れた方角へ逃走を図るのは血迷い事のなにものでもない。戦意を失った邪剣霊とて自らの命を大事にするならば動物的本能に衝き動かされるままになるであろう。つまりユストが立つ場所より、リストメクより更に奥へと逃走したと判断出来た。

「どうやら本物の七十二番の様ね。」

 ルケリヤもユストが逡巡せずに頷いた理由を見抜いたのであろう。僅かに感心した様子を浮かべては剣霊らしい双眸に更なる妖しさを湛えていた。

「リストメクより先は一つしかない。メツァールントだ。つまりこの格好では流石のそれがしとて踏み込むには二の足を踏むってものだ。」

 アウルス・ボーンは篭手越しの人差し指で天を指した。そしてリストメクへ続く旧街道の奥へ人差し指の先端を動かす。彼が示したのはリストメクより更なる先の市街地である事をユストは理解している。確かにアウルス・ボーンの言葉通り、北部王立国家の白銀の鎧を纏って中央行政府の領地であるメツァールントに出入りするには愚考の類と言えよう。

「一度戻って身支度を整え直すところだったが、この際、手柄はお前に譲ってもいいぞ?」

 ユストの腕の中でイルサーシャの表情を一瞥したアウルス・ボーンはにやりと卑屈な笑みを零す。今の彼女は普段の様な気の強さは見受けられない。抗いという言葉を忘れて全てを甘受してしまいそうな、素朴であり弱々しい女の様相に他ならなかった。 

 卑猥と卑下が織り成す視線から守ろうとユストはイルサーシャを抱きかかえ直す。彼女の特徴でもある白銀の長い髪に絡めていた手袋越しのユストの指が離れた。せめてもの慰めなのか、刀身を表す彼女の髪はしなやかで弾力に富んだ弧を描いた後に静かに垂れ下がった。

「あなたの剣霊、綺麗な髪ね。」

 ルケリヤは何か腹に一物ありそうな眼差しをイルサーシャに送りながら言葉を続けた。

「彼女もを見たら逃げるのかしら?」

 ルケリヤの問いにどの様に返事をするべきかユストは悩んだ。このままだんまりを決め込むのもばつが悪い。ならば、とユストは震えない喉仏を上下させ、ある言葉を無音で発した。吹く風が男たちの髪を掬い、剣霊たちが纏うスカートの裾を弄ぶ。細めていた目尻をそのままにルケリヤは口角を僅かに持ち上げた。

「知らないわ、そんな言葉。」

 そうか、とユストは素早くもなければ遅くもない速度で頷いた。

 ルケリヤはユストの唇の動きを読んだ。それが言葉であり、ある単語であると理解した。そして知らないと嘘を吐いたとユストの勘がその様に囁いている。だが今はその嘘を追及する場面ではないと重々承知している。一刻も早くイルサーシャの為に百年香を手に入れなければならない。

 その数だけ人間に個性がある様に、剣霊も同じと言える。ルケリヤという剣霊は刃を重ねて戦う事よりも相手が逃走する姿を目の当たりにするのが至上の喜びなのだろうとユストは見ていた。嬉々と語るルケリアの面持ちはその様に思わせるのに十分と言えよう。ならば彼女の期待通りに逃走すべきである。臆せずにゆったりとした歩調で堂々と逃走する。背を見せても剣霊協会に属する者であれば不意打ちはしまい。仮に仕留めるのであればイルサーシャの状態を知った時点で行っているものである。鼻から短い溜息を漏らしたユストは寄り掛かる壁面から背中を離した。

「リストメクへ向かっても無駄と()が言ったのを覚えてらして?」

 剣霊とは己の視線に映った者の行動をある程度は把握可能な存在でもある。無論、彼女は先読みの能力を備えているのかもしれないが、それは実戦の場にならないと判別がつかない。ルケリヤはユストの爪先の向きからその様に判断したのであろう。

「無駄と判っていてもだなぁ、男ってのは向けた足先をそうそうに変えられんものなんだよ、この不細工が。」

 諭す様に語るアウルス・ボーンの眼差しは柔らかくない。ユストとイルサーシャを交互に見ては何か企んでいるかの様な趣きを見る者に思わせる雰囲気を漂わせていた。

「そうだとしたらとても素敵じゃない?益々興味を掻き立てられるわね。そこの気の強そうなお嬢さんが羨ましいわ。」

 己の契約者と同じくルケリヤの世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳もユストとイルサーシャの間を行き来している。二つの眼差しが舐める様に向けられようともユストは特に警戒する様子を見せずに軽く頭を下げた。この場を失礼するという意図であるのは誰の目から見ても明らかである。

「もう少しあなたとはお話がしたかったわ。」

 発した言葉に違わず、ルケリヤは鼻で溜息を漏らした様な表情を作ると腰を下ろしているアウルス・ボーンの膝から立ち上がった。剣霊らしく積もる雪の上を歩こうとも足音は立てず、そして纏うドレスの裾が心地良い衣擦れを発する。

「次の新月の時、是非ともあなたの声をに聞かせて。約束よ?」

 ルケリヤの右手がユストの横顔へ向けて伸びる。三十路の男らしい頬から僅か数ミリのところで右手は止まった。やはり剣霊らしく、手から発する熱をユストは感じなかった。

 動かないイルサーシャを見下ろすルケリヤの視線が何かを見つけた。次の瞬間、彼女はそれまで魅惑の象徴たらんとしていた女の表情に曇りを与えていた。イルサーシャの耳からぶら下がる黒蛇のピアスが凄まじき睥睨を撒き散らしていたからである。鎌首をもたげた左側と自らの尾を咥え込む右側の黒蛇たちは安泰の場を与えてくれるイルサーシャを妖しき剣霊から守らんとしている。

「気味悪いわ。」

 苦々しい面持ちのルケリヤがユストの前から数歩退く。ユストは再び軽く頭を下げると羽織る黒いコートの裾に弧を描かせた後に止めていた脚を前へ動かし始めた。

「おい、お前、後ろががら空きじゃあないか。」

 ユストの靴底が奏でている新雪が踏み潰される軽快な音の中にアウルス・ボーンの低い声が混ざった。無視して構わない。ルケリヤはイルサーシャの両耳からぶら下がる存在たちを見て僅かながらにも臆した。今ここで不意打ちを喰らう事もなかろう。仮に振り向いたりすれば戦火を潜り抜けてきた者としての力量を疑われる事にもなる。故にユストは黙々と前へ、リストメクへ向けて歩む。

 アウルス・ボーンとルケリアの視線が届かなくなった頃合にユストは改めて周囲の状況に意識が廻る様になっていた。鳥たちのさえずりが耳に届き、葉を付けていない木々の枝に積もる雪が溶けて定期的に雫が垂れている。のどかで人工物が淘汰されつつある旧街道の冬の景色に変わりない。

 新たに出会った剣霊とその使い手の言葉を信じるならば、リストメクに何があったのか。恐らく剣霊同士の戦いの場となってしまったのであろうとユストは歩む脚を止めずに憶測を立てていた。抱えるイルサーシャに助言を求めて相談したいが今は不可能である。また、邪剣霊はリストメクを経てメツァールントの方向へ逃走したともアウルス・ボーンは語っていた。祖国が危険に晒される。いや、今はもう祖国ではない。百年香を手に入れる為に立ち寄るだけの存在だ、とユストの中で二つの想いが揺らぎに揺らぐ。早くもなく遅くもなく、ユストは前へ進む。気を静める為に抱きかかえているイルサーシャへ視線を落とす。

 やはり彼女の奥深い緑色の瞳は闇を与えられたままであった。


 ユストが視界から消えるとルケリヤは短く鼻を鳴らした後にこの様に呟いた。

「行ってしまったわね。」

 その言葉は彼女の心境を十分に表現していた。物淋しい響きと切なげな女の声色は吹く風の音に掻き消される。北国らしく淡く頼りない陽光、そして人間であれば身を縮こまらせる気温が更にその切なさを助長している。今のルケリヤは剣霊らしい研ぎ澄まされた危険な雰囲気を持ち合わせていない。微塵も男を魅了して離さないであろう剣霊の双眸が細まる様子を見つめていたアウルス・ボーンは短い苦笑を漏らした。

「そうだな。あれが七十二番の男と剣霊か…。」

「どう?あなた、彼に勝てそう?」

「腕力では負ける気はしないが、それ以外は判らん。」

「なんせ音無く一撃で仕留める巧者よ、彼は。」

「あながち嘘でもないだろう。現に彼はそれがしたちの前に現れた。」

「世の中って狭いものなのね。」

「いつかはばったり遭遇するとは思ってはいたがな。」

「しかも彼はあなたと毛色の異なる良い男。」

「ほぉ?」

は少し興味を感じたの。」

「少し?だいぶの間違いだろ?」

「どうかしら?」

 微笑を漏らしたルケリヤは腰掛けていたアウルス・ボーンの膝から立ち上がった。程良く起伏に富み、滑らかな弧のみで構成された剣霊の体が織り成す曲線がドレスの上からでも判る。ただ、少なくとも五年以上前からそのドレスの下を熟知しているであろうアウルス・ボーンは魅惑の曲線に一瞥を与えただけで平静な表情を保っていた。

「ところでお前、あの男と何を話していた?」

「何の事かしら?」

「お前が知らないと嘘を吐いた内容の事だ。」

「あら、お見通しだったのね?」

 振り向きざまにわざとらしく驚いた様子を見せるルケリヤに対して、アウルス・ボーンの表情は変わらない。

「男の勘ってやつだ。」

「彼もその男の勘とやらに気付いていた、とでも?」

「恐らくな。剣霊使いと呼ばれる男は勘を無碍にしない。だから彼は途中でおっぬ事なくここまで来れた。」

 アウルス・ボーンは感心と疑問が入り混じった視線を送るルケリヤを見上げている。そして篭手越しの右の人差し指が己の乾いた薄い唇を指差した。

「やっこさん、何と喋っていた?あの唇の動きは今の言葉ではないな?」

「古代言語よ。ちょうどが人間であった頃の言葉。懐かしいわ。」

「で、何て発音していた?」

「ナーソヴィム。」

「やはり知らん言葉だ。意味は?」

「逃走や回避を意味するナーソムを極めて強調した表現、と言えば良いのかしら?」

「逃走、しろ、か。…なるほど。」

「多分、あの銀髪のさしがねでしょうね。」

 朝靄もなく澄み渡る空気の中でルケリヤは両手を天へ向けて交差させ、伸びをする様な仕種をする。北部の清々しい陽光を浴びるルケリアの剣霊らしくすらりとした細身の体から骨の軋む音は聞こえなかった。

「逃げろとはお前を指してか?それともそれがしか?」

「両方と見るべきね。あの銀髪は何が原因で意識を失い掛けていたのかは知らないけど、自らの責務を全うすべく契約者に身の危険を知らせていたのよ。いじらしいじゃないの?」

「そしてお前はあのいじらしい銀髪の剣霊をへし折るつもりだな?」

「言うまでもないわ。」

 体の伸びが最もとなった時、剣霊の髪を隠していたケープのフードがはらりと捲れ落ちた。落ち着きを有した赤銅色の髪が冬の大気の中で広がりを見せる。長さは彼女の腰まである。うねりやくせが見受けられない真直ぐな髪の中頃を彼女は掴むと己の顔へ近付けた。一本一本が途中から二つもしくは三つに枝分かれして伸びている。俗に言うところの枝毛であり、ルケリヤの髪の全てがその様な形状であった。

が人間であった頃、綺麗な髪をしていたのよ?男は勿論、女からも褒められたわ。でも今はこれ。今後もずっとこれなのよ。」

 ルケリヤのか細い指先が摘み上げた髪を詰り続けている。誰に聞かせる訳でもなく語り終えると共に力が込められ、世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳の中に事実を受け入れる諦めよりも次々と沸き上がる嫌悪の趣きが注がれた。

「ルケリヤ。お前、あの銀髪に嫉妬しているのか?」

 心の奥底を言い当てられようとも剣霊の眉間に数本の皺が走る事はない。口角を妖しく持ち上げたルケリヤは髪を詰る指先を次なる動きへ移した。彼女の剣体を表す枝分かれした長い髪はしなやかに垂れ、指先はアウルス・ボーンの頬に添えられた。

「あなたもあの銀髪に好奇の眼差しを向けていたわね?」

「そうか?」

「それこそ女の勘よ。」

ルケリヤのしてやったり感が否めない声色にアウルス・ボーンは鼻で笑うしかなかった。

「男が女を求める欲望の視線だったわ。」

「気に食わんか?」

 頬に添えられた指が下へずれる。胸の中央に居座る剣と槍を掲げた厳つい龍の顔の上で狙いを定める様にぴたりと停止した。

「そんな事無いわよ。お互いの為ですもの。」

 駆け引きを好むと表現するよりも、同意を求めようとする女の妖しい上目遣いをルケリヤは躊躇なく晒す。既に陽光は早朝の淡々しさを失い、生ける者たちが活動を始める時間へ移り変わっている。しかし旧街道に新たな人影が現れる様子は一向に感じられない。まるでルケリヤという剣霊の一挙一動を全てが凝視しているかの様な静寂が保たれていた。

「何時の世でも男と女が織り成す世界は一緒。たまには違う味を求めるのは悪い事かしら?」

 アウルス・ボーンの胸許に留まるルケリヤの指先は北部王立国家の国章を詰り始めていた。

「あぁ。十分に悪い事と世間は言うだろうな。倫理に反する行為と見なされても文句は言えまい。」

「あなた、それは間違った見解だとは思うの。」

「ほぉ?詳しく聞こうか?」

「あなたの言う倫理とは同じ立場の者同士の話よ。立場が違えば倫理なんて簡単に覆るの。」

 詰る指が動きを止め、ルケリヤは見上げるアウルス・ボーンに向けて左側のみ短い瞬きを見せた。

「勝者が敗者を従え、敗者は勝者に甘んじる。はあの銀髪を負かすわ。気の強そうな顔に屈辱の表情がじわじわ広がる様子をとくと堪能し、立ち上がれない彼女の目の前で契約者に刻んだ食痕から血を頂くの。そもそも他人のものにちょっかいを出すのは愉しいものよ?そう、とても愉しいわ。」

「今更だが、お前は本当に性根が捩れに捩れているな?」

 アウルス・ボーンは初めて笑いを浮かべた。とても薄い笑いであった。

が人間であった頃もそう言われたわ。でも仕方ない事。そうしなければあの時代は生きていけなかったから。」

 剣と槍を掲げた厳つい龍の顔付近に添えられてた剣霊の指に力が込められた。か細い指の先端が僅かに沈む。国章を胸にいだく白銀の鎧に亀裂が走った。

はね、髪が綺麗な女、とりわけ剣霊の辱められた姿を高いところから眺めたいの。なによりも大好きなのよ。」

 柔らかな目許を保ち続けるルケリヤの指が更に沈む。剣と槍を掲げた龍は厳つい表情に変化を与えずに迸る亀裂に甘んじていた。

「ねぇ、あの銀髪の食痕を想像していたら食事をしたくなったわ。」

 白銀の鎧はその身を粉砕されずに済んだ。身に纏うアウルス・ボーンが鼻から大きく息を漏らしたのは安堵によるものか、己が契約を交わした剣霊の移り気に対する呆れに誘われたのかは判らない。ただ、右の篭手を外す彼の眼差しは先程遭遇した一対の同業者の後ろ姿を思い描いている様子であった。

「食事が済んだら判っているだろうな。」

「えぇ、勿論。も今はそういう気分よ。」

 アウルス・ボーンはルケリヤの言葉を待っていたかの様に数秒遅れて頷く。そして生々しい食痕が甲に刻まれた右手を彼女の顔へ向けて差し出した。

「アウルス、あなたあの銀髪が気になる?」

 ルケリヤは生気とは無縁の色をした唇を己の食痕に近付け、上目遣いと共にその様に囁いた。

「男であれば彼女の誰も知らない表情をとくと堪能したいと思うのは当然だろう?」

「嫌よ、あの銀髪の事を考えながらに触れるのは。」

「その台詞、きっちりそのままお前に返すよ。」

 食事を前にしたルケリヤの唇に表情が与えられる。男がした様に女も薄い笑いを零した。

「リストメクに辿り着いた時の彼、どんな顔をするかしら?」

「さぁな。そんな事より食事を早く済ませろよ。」

 アウルス・ボーンの篭手を嵌めたままの左手の五指が広げられ、ルケリヤの太腿から腰に掛けて描かれる女の曲線の上を這う。絶妙な弧の描き具合と冷たくも柔らかな感触を堪能するかの如く、逸る己の衝動を遠まわしに表現しているのを伝えるかの如く、ゆっくりと撫で回していた。

「そうね。そうするわ。」

 ルケリアは口許に恥らう様相を見せると己の体に密着した存在を払い退ける。

 赤と緑が不均等に混合された色合いで腫れ上がる食痕に剣霊の唇が密着した。世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳は闇を与えられ、纏うケープの下にある喉が低く不気味な音を響かせる。

 食事の最中の剣霊とは、いや、女の姿とは男にとって愛しいものである。長い髪の下に隠れた端正な面持ちは平静を保ち、己の矜持を誇示せずに従順な様相を見る者は思わせられる。アウルス・ボーンは払い退けられて暇にしていた篭手を嵌めたままの左手をルケリヤの後頭部に添えた。

 旧街道の長閑のどかでありもの寂しげな景色は二人の姿を静かに見守っていた。

 

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