ゲルハルステン望郷編 序章
吹く風とはいつも同じではない。心地良い弱さもあれば肌を刺す強さもあり、温かくもあれば冷たくもある。それらを幾度も体験した人間の表情とは如何なるものか。
磨耗して艶光りする荷馬車の御者台の上でグスタフ・ヴェネシュはある人物を思い描いていた。日に焼けた健康的な肌を持つ彼はこげ茶色をした革製の鍔の広い帽子を被り、薄い茶色の外套に身を包んでいる。帽子とは異なり、柔らかい革により仕立て上げられている。身の丈は百八十センチに僅かに満たないが、彼自身としては特段気にしてはいなかった。それよりも出立前に髭を剃り忘れた事が心残りなのか、左右の頬を交互に触っては喉を震わせ、低い呻き声らしきものを荷馬車の軋み音の中に紛れ込ませていた。
荷を曳く二頭の馬たちは物思いに耽る彼を邪魔してはならないと静かに規律正しく脚を動かしている。幸いにして荷はそこまで多くない。どちらかといえば軽い部類になる。天候もすこぶるとは言い切れないものの、霧や靄もなく澄み渡る空気からして良好といえよう。手綱に意識を集中しなくても事は足りる。昨晩まで振り続いた雪の名残りが彼の祖国であるコノリギス市街地の物静かな目抜き通りに彩りを添えている。その上に蹄鉄の跡と轍を残しながら目的地へ進む。
グスタフ・ヴェネシュは物心付いた頃、周りから少年とみなされる頃に一人の女性の姿を見るなり頬が熱くなる感覚を初めて体験した。その時から既に二十五年は経過している。少年は身長が伸び、声が低くなり、体の線も逞しくなった。仕事も家業を継いで四ヶ国間を行き来可能な貨物取り扱い業者の看板を守り続け、そこそこの収入を得ている。今が肉体的にも精神的にも輝ける時期であるとグスタフ・ヴェネシュは自負していた。
そして少年の頬を熱くした女性の姿は依然と変わっていなかった。幼き頃に追い掛けたり追い掛け回されたりして遊んだ同い年の女性たちが己の経年の変化に気を使い始めている中、彼女は目尻にほんの僅かな装いを浮かべた程度であろうか。
この世に於いて、経年による装いとは無縁である存在について誰もが知っている。剣霊と呼ばれている。剣霊たちは華麗な女性の姿をしてはいるものの、実際は鋭利な刃を持つ剣そのものであると幼き頃に親から、そして成人を迎えるまで、あらゆる大人たちから聞かされ続けた。剣とは暴力の為の道具に過ぎない。故に剣霊の視線は見る者に、向けられた者に冷たさを思わせる。曇りなき刃を突き付けられた様な錯覚を感じずにはいられないと言われている。
剣霊の都と呼ばれるコノリギス市街地にて育ったグスタフ・ヴェネシュはこれまでに何度か剣霊を目の当たりにした。彫刻の様に整った顔立ちと女性の妙を前面に押し出した、無駄を削ぎ取った体の線を見せ付けられては男は言うまでもなく、女であろうと見入るのは無理もない。その度に興味本位で近づくのは勿論、間違っても肌に触れてはならないと何度も自制自戒の念を働かせていたのを今となっても鮮明に覚えている。だから今もこうして生きている。
無論、グスタフ・ヴェネシュの頬を熱くした女性は人間である。視線は温かく、汚れを知らない瞳の奥底に人間らしい感情が通っていた。そして不意に手と手が触れた事が何回かある。その時に怪我はしなかったのが彼女は剣霊ではないという何よりの証と言えよう。
剣霊ではないにも関わらず、グスタフ・ヴェネシュの頬を熱くした女性が歳月を重ねようとも見た目に変化をきたさない理由は判らない。聞き出すのも気が引け、例えそうしても彼女は困惑の表情を浮かべるだけであろう。ただ一つ、その謎を解く鍵として彼女の立場が考えられた。
彼が住むコノリギス市街地の中央に廟堂がある。敬虔の顕れと表現するよりも豪奢という言葉が当て嵌まり、堅牢な雰囲気を漂わせている。許可なくして廟堂の中に人間は入れない。だが、彼女はその廟堂の内外を自由に行き来可能な唯一の人間である。その名をエルスノアという。コノリギス市街地の住人たちはおろか、大陸に住まう全ての人間が彼女を剣霊協会のエルスノア協会長と呼んだ。
深い紺色が印象深い立ち襟のドレスを纏い、同じ色の布で髪を隠すエルスノアの面影を想像していれば目的地に到着した。荷を曳く二頭の馬たちが同時に鼻を鳴らし、白い息を吐いてそれを教えてくれる。この日もコノリギスの廟堂の門扉が鈍い音を伴って一日の始まりを奏でようとしていた。透かし彫りが所狭しと施された鋼鉄製の門扉の奥には独りの若い女が佇んでいる。言わずもがなエルスノアその人である。
「お早うございます、協会長様。今月の荷を届けに参りました。」
この台詞を幾度となく吐いただろうか。グスタフ・ヴェネシュは御者台から軽やかに降りると片手で被る帽子を摘み脱ぎ、己の胸に添えて一礼をする。頭を元の位置に戻し終え、彼なりの自然な笑顔を作る。
「グスタフ、朝早くからご苦労様。荷はそこに置いて下さいな。」
対するエルスノアの台詞も毎回同じである。彼女が語ったそこ、とは鋼鉄製の門扉の内側に入ってすぐの場所である。エルスノアは体の前で重ねていた両手のうち、上となる右手を僅かに動かしてそこといわれた場所を指差して示していた。
彼女は幼い時にとある剣霊に出会ったという。その剣霊の品行方正な佇まいに惹かれ、体の前で両手を重ねるのを真似ているのだとグスタフ・ヴェネシュは本人から聞かされた事があった。この謂れを知る者は極めて少ないと思われる。つまり彼にとって口外出来ない自慢話のたねであり、エルスノアと関わりのある人間の中で己は他よりも一歩抜きん出た存在であると自己満足に浸れる内容でもあった。
荷台上にある木製の梱包箱には出荷元の市街地名が黒い顔料にて縦一列に記載され、天板となる部分には剣を咥えた鳩の紋章の焼印にて封緘されていた。今回は二箱だけであり、指示を受けた場所に並べて置くのに時間は要さなかった。木箱を抱える中、グスタフ・ヴェネシュはエルスノアの様子を横目で見ていた。果たして品行方正な剣霊もそうであったのか、エルスノアの表情は暗くなければ明るくもない。疲れたと表現するのが正しいのか判りかねるが、何処となく虚しさを漂わせた趣きが感じられた。剣霊と人間の間に挟まれて実務をこなす剣霊協会の長という立場が起因しているのかもしれないと彼は思った。少しでも楽に過ごしいて欲しい、心の負荷を取り除いて貰いたい。グスタフ・ヴェネシュに出来るのは会話の中で彼女にそれを実感して貰うのみであり、その手段を遠慮なく行使する事にした。
「聞いてください、協会長様。昨晩、中央に移住した自分の弟から手紙が届きました。」
難なく荷を置き終えたグスタフ・ヴェネシュは大人しくしている馬たちと同様に鼻から緩やかに白い息を漏らす。
「あなたの弟…確か二つ年下で名前はカミルでしたか。歌が上手な子だと剣霊帝様が褒めていたのを覚えています。」
体の前で重ねる両手をそのままにエルスノアは視線を斜め上にして記憶の糸を辿る様な仕種をする。その表情はグスタフ・ヴェネシュに更なる笑顔を作らせた。
「えぇ。そのカミルです。彼は中央でも首都のゲルハルステンで暮らしています。手紙には三年前に嫁を貰って、昨年の初春の朝に子供が産まれたと記されていました。」
「新たな生命の誕生とは喜ばしい事ですね。今から二時間後に剣霊帝様に定例のご挨拶をします。その際にご報告差し上げましょう。」
「恐れ入ります。畏れ多き剣霊帝様の耳にお前の事が伝わったぞ、と弟への返事に書かせて頂きます。彼もきっと喜びますよ。」
「ところで、グスタフ。あなた自身には何か喜ばしいお話はないのですか?」
「え、自分ですか?」
ちょっとした不意打ちであった。しかも不意打ちを放った本人はその自覚が皆無であるのが常であり、今回も例外ではない。冬の寒空の許であろうとも額から汗が流れ始めようとしているではないかとグスタフ・ヴェネシュは感じずにはいられなかった。
「弟に先を越された、と言ってしまっては失礼に当たりますが、あなたにその様な出来事があればカミルへの手紙の内容がにぎやかになるでしょう?」
上辺のつもりなのか本心からなのか、エルスノアは僅かに口角を持ち上げていた。
「いやぁ、自分もそうありたいと願っているのですが、こればかりは願ってどうこうなるものではありませんから…。」
「あなたは己の仕事をきちんとこなしていますし、真面目な性格の殿方とわたしは見ていますが?」
「協会長様に褒められると恥ずかしい限りですよ。」
「グスタフ、わたしではなく他の女性に褒められてそうならないと。」
「それはなんとも…。」
「まったく世の中の年頃の女性の目とは節穴なのでしょうか。」
三十路の中間に手が届こうとしているグスタフ・ヴェネシュと比べて誰がどう見ても年齢が若いと思われる容姿のエルスノアが年長者の小言を弄した。これには当のグスタフ・ヴェネシュもあっけに取られるしかない。
「あなたが宜しければお見合いの席に参加されては如何でしょう?」
「実は自分には意中の女性がいますので…。」
「おや、わたしの知っている方でしょうか?」
「知っているも何も…いやはや協会長様には困りましたな。」
「困ったとは?」
「いやいや、単なる独り言です。御気になさらずに。」
落ち着かない様子であり、まごつくグスタフ・ヴェネシュから明確な答えを待つつもりであったのか、エルスノアは幾分の活気を伴わせている口許をそのままに届いたばかりの木箱へ視線を投げる。記された文字列の一部が彼女の口許を元の形に戻させ、一抹の不安が過ぎったと言わんばかりに眉間に数本の皺を寄せていた。
「どうされましたか、協会長様?」
動揺を露にしていようともグスタフ・ヴェネシュはエルスノアの一挙一動に敏感であった。
「メツァールントからの荷物があるのですか?」
体の前で重ねていた手が動いた。か細い指が心なしか震え、メツァールントと打たれた文字を示している。普段から平静を装っている声も震えていた。愕然とした恐怖を思わせる雰囲気を感じ取ったグスタフ・ヴェネシュはここまで入っても良いと許可を得ている境界線のぎりぎりに歩む。エルスノアの隣に並び、荷役に従事して逞しくなった両手でか細い指を包み込んだ。
「自分が荷物の中身を確認したところ、一通の手紙でした。差出人は書かれていませんが、市章旗の図柄が入った封緘がされていました。恐らくメツァールント市街地の代表から剣霊協会へ依頼の類ではありませんか?」
「いえ、それは有り得ません…。メツァールントは祝福の地ですから。」
祝福の地と聞かされたグスタフ・ヴェネシュは内心で首を傾げた。同時にか細い指を包み込んでいた両手からするりと力が抜ける。何もなかったかの様にエルスノアは両手を元の位置に戻す。それまで静かにしていた馬たちが続けて鼻を鳴らした。
「祝福の地とはこのコノリギス以外で剣霊帝様の加護を約束された地を指します。その様な場所から差出人が不明の手紙が届くとは悲しいお知らせに他なりません。」
剣霊帝の加護を約束された地。それは協会長たるエルスノアの出生の地として世間では周知されている。剣霊協会の取り纏め役であり剣霊帝の傍に仕える人間として、適合すると思われる者を大陸全土から集められる。その中の唯一一人だけがエルスノアの名を襲う。その栄誉を受けた者は祖国を離れ、次の襲名者に引き継ぐまでコノリギス市街地、厳密には剣霊帝の住まう廟堂内にて生活を強いられる。
羽をもがれた鳥ではないが、祖国へ自由に帰れる身でないエルスノアに対する慰みなのであろう、彼女の出世の地一帯は剣霊帝の力が及び、邪剣霊との遭遇は一切無縁になるという。
始まりの剣霊と称される絶巓の存在の前にあらゆる剣霊は頭を垂れざるを得ないと人間たちは思い込み、また剣霊帝の絶大なる威厳と底知れぬ力を認めるしかない。その事を思い出したグスタフ・ヴェネシュは刹那に視線を落とした後、エルスノアの顔を見つめ直した。
「もしや協会長様の身内の方に不幸があったのでしょうか?」
「グスタフ、わたしが二歳の時に両親は邪険霊の手に掛かりました。たまたまそこを通りかかった剣霊の使い手にわたしは助けられたのです。」
「あぁ、余計な事を思い出させてしまって申し訳ございません。自分の失態です。」
グスタフ・ヴェネシュは後頭部に右手を廻して首を二三回横に振った。彼の失態を責めずに、再び木箱の刻印を眺めていたエルスノアは携帯するナイフを貸して欲しいと願い出た。木箱の開梱に用いると彼女は言う。ならば自分が、と失態の巻き返しではないが、グスタフ・ヴェネシュは後頭部に廻していた右手を羽織るコートの内側の腰へ移動させた。
鞘から抜かれたナイフは刃渡り二十センチ程である。使い込まれた道具よろしく、細かい傷が柄と握りの所々に走っているが、刀身は薄暗さが否めない冬の早朝の中でも冴えていた。木箱の蓋となる上部の部分の隙間に刀身を差込む。冬の大気に晒されて乾燥した木材の間に鋼鉄の刃が半分以上姿を消し、グスタフ・ヴェネシュはてこの原理を用いて開梱を始めた。ぎこちない苦しげな音が数回、不規則に響く。打たれた釘が木材と擦れる響きであり、加えられる力に抵抗出来ずにいびつに曲がる鋼材が放つ断末魔の様にも聞こえる。
グスタフ・ヴェネシュは開梱を終えた木箱の中身を覗き込んだ。中にはいかにも柔らかそうな布にくるまれた数点の品が整然と並び、その上を申し訳なさそうに一通の手紙が置かれている。自分が確認した時と変わりない。梱包材の中で荷崩れは発生していなかったと知った彼は密かに胸を撫で下ろした。
「有難う、グスタフ。あとはわたし独りで行いますので…。」
「左様でございますか。」
役目を終えたナイフを鞘へ戻しながらグスタフ・ヴェネシュは折っていた膝を元の位置に戻した。降雪により濡れた土が膝に付着していようとも、彼はエルスノアの前で叩こうとしなかった。
「あの、協会長様。その御手にした手紙の内容について、差支えがなければ自分も知りたいのですが。」
「あなたはわたしの両親について訊ねられましたが、この手紙に記されている人物はわたしの両親よりも掛け替えのない御方なのです。」
エルスノアは両手で大事そうに持つ一通の手紙を己の胸に押し当てて物憂げな表情を作り出していた。
「それはもしや…協会長様の恋人、でしょうか?」
エルスノアの顔と彼女の胸に押し付けられた手紙へ視線を交互に向けながらグスタフ・ヴェネシュは思い切った様子で言葉を音にして出す。待機を命じられてから久しくしている馬たちも鼻から漏らす息を強く吐き、勇ましげな音を奏でた。
「二歳で両親を失ったわたしは翌年に剣霊帝様にお仕えする身としてコノリギスの地に参りました。そして今に至ります。恋人とはどの様なものなのか、わたしには判りかねます。」
毅然としつつも何処となく寂寥感を匂わせているエルスノアの面持ちを前にグスタフ・ヴェネシュは目尻を細める。彼は先程までナイフの柄を握り締めていた右手で拳を作った。冬の乾燥した空気に晒されている唇に当てて咳払いをする為である。そして彼は見せつける様に、幾分の恥じらいを伴いながら咳払いを一回のみ行った。
「宜しければ協会長様、今晩、自分と一緒に食事を摂るのは如何でしょうか…?」
「再び申し上げますが、わたしは剣霊帝様にお仕えする身ですよ?」
「それを知って誘っていると解釈して頂いて結構です。」
「剣霊帝様の御許可無しにこの廟堂の外には出れませんし、あなたを中にお通しするのも無理な話です。恐らく今晩は急務に追われると思います…。」
「急務、ですか。」
グスタフ・ヴェネシュの視線は自然と彼女が手にする一通の手紙へ向ける。再びエルスノアの顔へ動かした時、彼女は首を二回、ゆっくりと横へ振った。
「えぇ。わたしはあなたの意向に添えられないのです。」
「それは残念です。」
細めた目尻をそのままにグスタフ・ヴェネシュは自嘲めいた笑みを口許に表す。彼に次なる言葉を掛けられないエルスノアは自らの胸に押し付けている手紙を更に奥へ沈ませた。彼女が纏う深い紺色の立ち襟のドレスの一部に不規則な皺が走る。その有様を目の当たりにしたグスタフ・ヴェネシュは鼻から深い溜息を漏らした。
急務とは手紙に記されているであろう人物に対し、彼女は剣霊協会として何かしらの行動を起こすと語っているのであろう。広き四カ国の中から唯一選ばれた協会長たるエルスノアは職務をまっとうしようとしている。その職務の邪魔をしてはならないと知ったグスタフ・ヴェネシュは初めて膝についた濡れた土を手短に二三回叩くと荷馬車の御者台へ身を預けた。使い込まれて所々が変色している皮製の手袋を嵌め、手綱を引けば静かにしていた馬たちがその場で前脚を動かす。
「協会長様、食事の件はともかく、何かお悩みであれば是非とも自分に相談下さい。」
エルスノアは何も語らずにただ頷いて答えた。引かれた手綱が緩み、馬たちは前へ進む。同時に空となった荷台の車輪が新たな轍を作り始めた。
何も急ぐ必要はない。いつでもエルスノア協会長様に会える、とグスタフ・ヴェネシュは己の中で呟いた。そして反芻する。いつでも、とは永遠に続くのであろうか、と。
それにしてもあの手紙の内容、強いて言うなれば彼女の両親よりも掛け替えのない人物の詳細が気になる。恋人ではないのは彼女の口から聞いたが、己の中で相手が誰と判らずとも妬ける想いがふつふつと芽生えているのが判る。
コノリギス市街地から望める山々の間から朝日が顔を出しきろうとしていた。冬の柔らかな陽光は日を追う毎に輝きを増している。
仕事を終えたグスタフ・ヴェネシュは食事を摂る為に、少し回り道をする事にした。体が疲れれば、普段と変わらずの料理も旨いだろう。しかも早朝である。食事を提供する店が開くにはまだ早い。それが今の己にとって唯一の慰みであると理解しているグスタフ・ヴェネシュは街道の分岐点に差し掛かるとコノリギス郊外へ馬首を向けた。
グスタフ・ヴェネシュの後ろ姿が目視にて確認出来なくなった後、エルスノアはメツァールント市街地より送られた一通の手紙を大事そうに両手で持ちながら自室へ戻った。端的に言えば、廟堂は広く、静寂の帳を常に下ろしている。彼女の靴の踵が硬質な石造りの廊下に甲高い響きを小刻みに奏でた。残りの荷については後ほど運び込めば事は済む、今はそれどころではない、と言わんばかりに小走りで戻る。エルスノアは自室の木製の簡素な扉を開けた。使い込まれて濃い色となった天板が経年を物語る机の上に一通の手紙を無造作に置くと、誰が訪ねてくる訳でもないのに鍵を内側から掛ける。左右の肩が上下に弾んでいた。小走りによるものが半分であり、残りは一通の手紙の記されているであろう内容が彼女をその様にしているのは明らかであった。
エルスノアは纏う服と同色をした髪を覆う布を解き、一通の手紙の横に置いた。肩より少し下で切り揃えた深い栗色の髪は彼女の容姿に似て若々しく、艶もある。毛先を詰る様に手櫛を一回入れた後に、机の引き出しから銀製のペーパーナイフを取り出した。丁寧に封を切り、折り畳まれた手紙を恐る恐る広げる。
そこには先代の協会長の死が記されていた。他界した日時は判ろうとも、その年齢は誰も判らないという。彼女の生年月日を知る手立てが一切残っておらず、また彼女は何一つ語らずに静かに息を引き取った。老衰によるものと判断するしかないとメツァールント市街地の代表者は記していた。
両手の親指と人差し指で挟む様にして持つ手紙に感情の結晶が一滴、零れ落ちた。二滴三滴と数を増せば、中央で使われる文字を形成しているインクが次々と綴りを滲ませ、手紙を持つ指先が震え始める。
「先代様、如何なる時もわたしに優しかった先代様。ようやくお眠りする事が出来たのですね。さぞかし辛かろうございましたね。」
エルスノアはメツァールント市街地より送られた一通の手紙を机の上に置くと堪らずに泣き崩れた。二歳の時にコノリギスの地に足を踏み入れた彼女にとって、先代の協会長は実の親の様なものであったのかは嗚咽で遠慮無しに上下に弾む両肩が物語っている。
脳裏では過ぎ去りし先代の協会長と過ごした日々の一幕が次々と蘇っていた。共に食卓に並び、温かな食事の有難味を説く優しい笑顔、膝を折って袖を捲くり、掃除の手順について語る真摯な後ろ姿、閉塞的な廟堂内で学校に通わずとも文字の書き方や計算の手順を教えてくれた柔らかな眼差しが自然と湧き上がる。
やがて彼女は十歳を迎え、剣霊について先代の協会長の知識と経験を受け継ぎ、正式に剣霊協会に於ける最高位である協会長の座を譲り受け、エルスノアの名を襲った当日を思い返していた。それは澄んだ空気がもたらす清々しい朝の事である。
先代の協会長は新たな協会長を己の前に呼び寄せた。今は自室として使っているこの部屋での出来事であり、普段使いの木製の椅子も先代の協会長の愛用品を受け継いでいる。コノリギス市街地にてエルスノアを名乗る者だけが着用を許される深い紺色の立ち襟のドレスに身を包み、まだ着慣れていない様子の後任者を目前にした前任者は両腕を伸ばして彼女を抱き寄せる。張りが失われつつある頬を初々しいそれに密着させた。
『ユリア、あなたに教えられる事は今日が最後です。これから剣霊帝様のお傍に仕える唯一の人間、エルスノアとなり、大陸に住まう全ての者たちがあなたをその様に呼ぶでしょう。やがて月日を重ねると共にエルスノアと名乗る以前のあなたを知る人間は息絶えてしまいます。最後は誰一人とていなくなるのは遥か遠い先の事ではありません。協会長という立場にある者は剣霊帝様の絶大な力に体を蝕まれない様に特別な処置を施されます。これは時の流れに肉体が抗う処置です。体の成長、そして老化が通常の四分の一になります。ですがあくまでも肉体のみの話です。徐々に記憶は薄れ、食べる物の好みも変化が生じるでしょう。わたしは既に自分が何歳なのか、エルスノアと名乗る以前の本来の名前すら思い出せなくなってしまいました。ユリア、あなたは素直で賢い子です。わたしの言葉を信じて、わたしの悲しみを味わわない様に自分の名前を紙に書き続けなさい。そしてあなたの次となるエルスノアにも同じ事をさせなさい。』
この話を聞かされた時は何の実感すら湧かなかった。今思えば、時の流れに肉体が抗う処置の影響で全身に走る痛みが勝っていた事もあった。抱擁には抱擁で返すと教えられ、その通りにする。小さな手がこれまで頼りとしてきた存在の背中に添えられた。この背中にも同じ処置が施されており、わたしと同じくとても痛かったのだろうな、と幼心ながら同情を寄せていたのも五十年は優に経過している。
嗚咽が収まると共に過去との邂逅は終焉を迎える。エルスノアは机の引き出しから筆記具を取り出した。剣霊協会の紋章である剣を咥えた鳩のすかしが中央に施された紙の束の上に使い込まれた羽根ペンを迷わずに滑らせた。
わたしの名前はユリア・アルーン。
同じ綴りを五回続けた後に彼女は羽根ペンを机の上に置いた。窓の外へ視線をやる。四季の変化はあろうともそこは彼女にとって五十年前と何ら変わらない景色であった。
剣霊協会規定第一条とは協会に所属する剣霊の契約者は協会の意思に則り任務を完遂しなければならないとある。その次にあたる第二条は協会に所属するにあたり、親族及びそれまでの朋友や知己との絶縁を条件とすると掲げられている。
一般であれば酷な規定と思われがちではあるが、当の協会所属者の目線からすれば、それはごく当たり前に過ぎない。剣霊と契約を結んだ時点で己は既に常人の生活とは無縁の存在と自ずと意識するからである。
与えられた任務とはほぼ大半が邪険霊討伐であり、幾ばくかの報酬を受け取る。任務先は大陸全土であり依頼主は各市街地の代表もしくは土地を有する富豪や名士と言ったところか。依頼内容の詳細を知りたく依頼主に会えば、彼らは必ず剣霊使いの前に立つ剣霊の姿に視線を奪われる。次に剣霊使いと言われる者の頭から足先までを眺めては怪訝な表情と卑屈な羨望の眼差しを投げる。淡々と語られる依頼内容の詳細を聞いてしまえば剣霊使いにとってその場に用は無い。剣霊自らに戦わせるのか、あるいは剣体となった剣霊が宿る刃を用いてなのかは状況によるが、ようは邪険霊を討つだけである。余程の失策に陥るか失態を晒す状況でない限り、数日で方が付く。そして任務先の協会の連絡所に邪険霊の亡骸である剣体の一部を納め、誰の賞賛も受けず、また誰かに見送られる事なく、次の任務先へ赴く。
この五年余りに如何ほどの任務をこなしたのか、とユストは脳裏を掠めさせた。単純な任務ではあるが、生きるか死ぬかの中を掻い潜る。数など既に計算せず、記録にも残していない。立ち止まる、もしくは疑問を感じてはならない事柄に彼は気付いてしまった。いや、むしろ気付かなければならない状況に置かれてしまったと表現するべきであろうか。
その昔、雪国に奥深く侵攻した軍隊は敵の反撃よりも大自然の猛威の前に士気を削がれ、絶望を余儀なくされたという。歴史に少なからず関心がある者ならば、その猛威の正体について答えるのが可能である。吹雪けば体温の低下を招き、行動に制限が生じる。また補給路が絶たれ、食糧不足に陥ると原因を述べられる。ユストもこの話は若かりし時に幾度となく書籍で垣間見た。
歴史とは先人の偉業を称えるものであり、先人の過ちを如実に知らしめるものでもある。故にユストは凍て付く寒さに備え、普段から羽織る黒いコートの裏地に厚手のものをあてがった。北部王立国家のとある市街地の仕立て屋に共通銀貨一枚と引き換えに一両日中に作らせた。また簡素ではあるが食料は二日分を常備している。牛の干し肉とチーズである。共にユストの拳ほどの塊であり、携帯に優れている。そもそも軍隊ではないのだから、時折目に付く名の知れない市街地で調達すれば事は足りた。だが、そこまで用意周到に当たろうとも先に進むのが困難な状況に陥っていた。
何が落ち度であったかユストは思い知らされた。己の剣霊の管理である。厳密には彼女が愛用する百年香を切らしてしまった。北部王立国家は東部帝政国家と交戦状態を続けている。つまり敵国にて生産される物品はこの国にいる以上、入手が極めて困難と判断するべきあり、その物品の一つとして百年香が当てはまるのをユストとイルサーシャは失念していた。訪れた市街地の日用品を取り扱う店にてイルサーシャが百年香の名を出しても店の主たちは怪訝な表情をする。残り少なくなった百年香の香木をユストが彼らに見せるものの、敵国の産物を目の当たりにするのが珍しいのか、関心の面持ちを露にするだけであった。
剣霊協会の使いの鳩が舞い降りては任務を完遂し、百年香を焚く。まるごとではなく、剣霊の指で少量を切り取り、擦ったマッチを落とす。申し訳なさそうに煙が立ち上り、それまで剣霊として任務を終えたイルサーシャは安らかに寛いだ表情を見せていた。この香りがないと我は落ち着かないと教えてくれたイルサーシャの横顔を思い返しつつユストは彼女を抱きかかえ、雪に覆われた薄暗く寂れた旧街道を歩いていた。徒歩による移動は本来ならば新設された街道を選ぶのが定石である。そちらの方が視界が良好であり、ところどころに休息場所となる店が並び、何よりも身に降り掛かる危険が少ないからである。だが、人目につく欠点もある。そして今歩く道に人影は見当たらない。それを期待して寂れた旧街道を選んだ。往来が極めて少ないと磨り減った石畳の上に積もる雪が教えてくれる。数日前に荷を引いた馬が一頭と単騎駆けが一頭。薄くなりつつあるが、轍と蹄の間隔を見れば馬の走る速度の違いが判る。
危険と言えば、この場で邪険霊に遭遇したらどう対処するか。剣霊使いとして戦うしか手段は残されていない。いやでもイルサーシャを剣体に戻し、己が手で相対する邪剣霊を屠るしかなかろう。では、盗賊に出会った場合は、とユストは次なる疑問を脳裏に巡らせた。葉を着けていない広葉樹が立ち並ぶ旧街道ではそれも考えられる。この場合は逃げるに越した事はない。単体で行動する邪剣霊と異なり、盗賊は集団で襲い掛かる。複数の敵を一度で対処するのは身の危険の度合いが高まる。また、相手は土着の者と想定出来る。冬の雪国特有の足場が極めて悪い中、異国で育ったユストにとって分が悪過ぎる。しかし、逃げる最中に罠に追い込まれたら、と更なる疑問が生じた。狩る側が狩られる側に立とうとしている。願わくばその様な状況に陥らないでくれ、とユストは首を左右に振った。その為には一刻も早く百年香を入手しなければならない。
イルサーシャは目を閉じたまま深い眠りに憑いているかの様に動かない。時折り、彼女は力なく口を開いては何か囁く。緑色の瞳は長い睫毛の奥に隠れてどれ程の日数が経過したのか、ユストは既に数えていない。彼女を抱きかかえた姿勢を崩さずにユストは不治の病に犯された者を哀れむ様な眼差しと共に剣霊らしい生気のない色合いの口許に耳を近付ける。最初は剣体に戻りたくないと彼女は口にしていた。今は違う。何を語っているかユストは理解出来なかった。
イルサーシャはナーソヴィムと語った。単なる戯言とは思えないが、ユストにはその意味が判らない。彼女が慣れ親しんだ人間であった頃、つまり五百余年前の言語であろう。哀れみの眼差しを絶やさないユストの腕をイルサーシャの力無き手が掴んだ。気のせいか、普段よりも冷たく感じる。彼女は何かを知らせようとしているのは明白である。敵となる者が現れるのだろうか。左右前後、どちらから現れるのか。ユストの腕を掴むイルサーシャの人差し指が浮き、前方へ向けて二三度動く。そして力尽きた様に静かになった。進む街道の前方に注意しろと彼女は訴えていたとユストは読み取ったが、足を止める訳にもいかず、身を隠す様な場所も見当たらない。ならば進むしかあるまい。
(イルサーシャ、愚生の声が判るか?)
期待はしていなかったが、彼女は返事をする素振りすら見せない。エジュ・エジェ市街地で購入した赤紫色のケープのフードの下で彼女の剣霊らしい顎先は微動だにしていない。
周囲に意識を張り巡らせながら歩く中、鼻から白い息を漏らすユストは道標の前で立ち止まった。装飾を施されていない鈍い色をした安価な鉄製ではあるが、ソノイの樹脂で表面を覆わせているのであろう、錆や腐食は一切見受けられない。イルサーシャの指が示したのはこの道標であったのか。剣霊の策敵能力は人間の比ではないが、その要素として近づく殺気と金属を漏らさず感知すると聞かされている。
彫られている文字を読もうとユストは抱え込むイルサーシャをそのままに道標のところどころに覆い被さる雪を払った。
『東に進めばリストメク、その先はメツァールント。メツァールントより中央王政国家の領土となる。査証無き者は引き返せ。』
ユストは誰に見せる訳でもなく短い苦笑を零した。北部王立国家制定の文字で記されている内容は少なくとも五年以上前から時が止まっているらしい。政治形態が変わり、国名が変わった祖国を懐かしむと同時にユストは音無き声を漏らしそうになり、目を見開いた。メツァールントは中央の首都であるゲルハルステンに規模は及ばないまでも、そこに辿り着けば百年香が手に入る。
(イルサーシャ、もう少しだ。愚生の祖国までの辛抱だ。)
ユストは抱きかかえるイルサーシャの静かにしている頬に己のそれを擦り付けた。既に慣れたと思ってはいたが、剣霊の体は相変わらず冷たい。不安を募らせるのも無理ないほどに冷たい。彼の内なる声は己の剣霊の名を借りているが、自らを鼓舞すべく発した言葉だとも自覚していた。
羽織る黒いコートの裾が風になびき、白地に黒の幾何学模様が走るドレスの裾が揺らめく。前身頃に移った百年香の爽やかな香りは既に微かなものとなり、白銀の長い髪は力無くただ垂れているのみである。
布が奏でる繊細な響きの中に硬質な音が混ざった。まだ柔らかさを保つ雪を踏み潰し、擦れた石畳を穿つ音であり、今のユストにとって最も聞きたくない音でもあった。ユストは剣士としての眼差しをそちらへ動かす。北部王立国家に足を踏み入れて以来、一人の剣士と一振りの剣霊にとって避けてきた存在が映る。白銀の鎧を纏う騎士であり、軍隊という暴力を行使する集団の一員でもある。そして剣霊を忌み嫌う風潮を疑う事無く突き進める存在とユストは認知していた。北部王立国家の時期王位後継者たるイゼリアーシェ・ヴェルリンクがその風潮に異論を唱えようとも、あくまでも一石を投じただけに過ぎず、それが浸透しているとは考え難い。個の意思が数多の概念を覆すには時間が短過ぎる。
やはりイルサーシャが知らせようとしていたのは敵と為り得る存在であった。障害物が見当たらない街道の中、ユストの視力は相手を捉えた。つまり白銀の鎧を纏う騎士も道行く謎の男と抱え込まれた女が視界に映ったと考えるべきである。イルサーシャを剣体に戻せば相手は剣霊とその使い手と白銀の鎧を纏う騎士は確信を得て鞘に収めている剣に鞘走りの音を奏でさせる。またこのままでは筋骨隆々とは思えない体格の男が軽々と女を抱き込んでいる姿に違和感と疑問の視線を差し込むのは容易でもある。さてどうしたものか、と眉間に皺を寄せて解決策を手繰り寄せんとするユストの両脚は依然として動いていた。止めては尚更に怪しまれる。
白銀の鎧を纏う騎士は兜を被らず、その足取りは酒を喰らい過ぎたかの様に覚束なさが伺えた。風貌からして歳はユストと同じくらいか。身長は相手の方が高い。百九十センチ前後と思われる。髭は綺麗に剃り上げ、幾分癖のあるこげ茶色の髪を均一に後ろへ撫で付けている。細からず太からずの体系は騎士として鍛錬に励んでいる証とみて間違いない。またその脇では女が彼の鎧越しの腕に絡み付ける様に己のか細いそれを廻し、肩に頬を密着させて二人の仲を演出していた。北部の女らしく裾の長いケープで身を包み、頭はフードに覆われている。早朝の頼りない陽光の悪戯により容貌は陰影を与えられている為、徐々に近付こうともユストの位置からは判らない。ただ、揺れる裾の隙間からよそ行きらしい模様入りのドレスが垣間見れる。少なくとも貧しい身分とは無縁の存在と思われた。
彼らは俗に言うところの朝帰りの最中、とユストは判断した。軍隊の一員として任務中であれば、単独で行動するのは想定し難い。ここは酩酊の一歩手前の男と昨晩親しくなったばかりの女、若しくは秘密裏の逢瀬と見るべきであろう。ならば彼らとて揉め事は避けたい筈である。揉めれば時間を費やす。この場で時間が経過すれば旧街道とは言え、誰かしらの目に止まる可能性が皆無とは断言しかねる。明るみに晒されたくない存在である剣霊使いと表沙汰になるのを避けたい男女の関係。互いに見て見ぬふりをすれば済む話である。何事もなくやり過ごせるかもしれないとユストは詮無き願望を抱くしかない。
ユストの腕を掴むイルサーシャの手に再び力が込められる。安心しろ、と音無き唇が動く。一人の剣霊使いは雪積もる旧街道に己の足跡を残し始めた。




