二人が描く時間
厳かな礼拝堂を思わせる中で若き女の麗らかな声が響いていた。声の質は麗らかであろうとも、その端々に感じられる年齢以上の落ち着き具合に彼女は聡明な頭脳の持ち主と聞く者は思わせられるに違いない。
若き女は数枚からなる手紙を主に読み上げていた。記された内容から奏していた、との表現が正しいだろうか。色とりどりなステンドグラスを経た陽光は床の上で無数の渦を巻く主の髪を七色に染め上げている。若き女は幻想的な光景を常に目の当たりにしているのか、七色の煌きに視線を奪われずに、手紙に記された言葉を淡々と一字一句違わぬ様に一定の調子で声を発していた。彼女は深い紺色の立ち襟のドレスに同色の布を頭から被り、年相応の豊かで艶のある髪を隠している。本来ならば彼女の髪も七色の恵みを浴び、趣き深い景色の一端を織り成していたのであろう。
水晶を削り出した豪奢な椅子に腰を降ろす主は肘掛けに肘を乗せ、頬杖を突いていた。必要以上の装飾を省き、清楚な雰囲気を醸し出している最高級の絹製の袖から複数の腕輪が顔を覗かせている。精巧な筋彫りが施された黄金の輝き、色とりどりの宝石を散りばめた白金の煌き、丹念に磨かれた天然木の艶やかさが主の女性的な魅力を一層引き出していた。左右の細長い五指の全てにも指輪が嵌められている。並みの者であればこれらは過度の装飾であり、単に権力を見せ付けているだけと眉をひそめるが、稀代の彫刻家が生涯を掛けて作り上げたと言わんばかりの主の容貌を前にすれば誰もが呆然とし、言葉を失うのは目に見えて明らかであった。
主は若き女が語る手紙の内容を精査しているのか、若き女の声の調子を堪能しているのか、髪と同色の長い睫毛を伏せて微動だにさせていない。若き女は手紙の最後に記された署名、第七十二剣霊使いユスト・バレンタインと読み上げた後、紙面に落としていた視線を主へ向けた。
「剣霊帝様、以上がこの度、エジュ・エジェ城塞都市にて任務を遂行した七十二の者による報告で御座います。」
まるで夢心地の世界に足を踏み入れているかの様に目を閉じていた剣霊帝は頬杖を突いていない側、左の瞼のみ動かした。黄と茶の重瞳が現れようとも若き女は驚きや感動を表情にせず、静寂を装っていた。
「余は報告よりも陳情の類と汲んだが。エルスノア、そなたの意見を聞こうか。」
大地の意思を語る神剣霊であり、始まりの剣霊と言われるだけに剣霊帝の声は威厳と品位を兼ね備えた女性を思わせる。その音は小さくともエルスノアの聴覚はもとより毛穴から浸入したかの様に全身に駆け巡り、目を逸らす事を許されない錯覚を感じずにはいられない。だが、彼女は長い年月を剣霊帝に仕え、既に慣れてしまったと言わんばかりに平然とした面持ちを保っていた。
「剣霊帝様の仰せの通りに御座います。」
エルスノアは手にする数枚の手紙を元から付いていた折り目に添って畳むなり深々と頭を下げた。
「ならば話は早い。件において、余は七十二の者の意見を取り入れようと考えている。」
「つきましてはユスト・バレンタインなる者が任務を完全履行せずとも不問に付すと?」
下げていた頭を元に戻したエルスノアの表情は言葉に違わず疑問を僅かながらにも漂わせていた。
「完全履行か。エルスノアは七十二の者がヴェルリンクの王女を為留めなかった点が気に触るのか?」
「いえ、その様な結末をわたしは期待していた訳ではありません。ただ、過去に己を押し殺し、任務に殉じた者たちに何と言い訳をするべきか、わたしには判りかねます。」
「なるほど。そなたは大義名分が必要だと余に助言するか。」
面白いと短く鼻を鳴らした剣霊帝は揃えていた脚を組む。髪と同じく最高級の絹による純白色のドレスが心地良さげ衣擦れを発しつつ波を打つ。まるで小川のせせらぎの様に形を作ってはすぐに消えるのをエルスノアは目で追っていた。
「余は七十の者ル・ゾルゾアに北部の王位後継者が余と余の許に集う下々に楯突く者と判断した場合直ちに抹殺せよと命じた。だがあの者は任務に疑問を生じ、己の剣を振るうのを躊躇い、結果として横に立たせておかなければならないブリスタンを一時ではあるが失った。次に七十二の者ユスト・バレンタインにはブリスタンと王位後継者の守護を役目とする七十四の者ユラン・エレエのうら若き双子の剣霊たちを救出し、余に禍根となる者を排除しろと命じた。禍根となる者とは王位を頂くであろう者と同義語であると彼の者は気付き、同じく疑問を生じさせた…。」
剣霊帝の頬杖を突く右の人差し指が動き、その先端が汚れなき頬へ添えられていた。嵌める黄金の指輪に刻まれた文様が剣霊帝は深き思慮の世界へ足を踏み入れていると囁いている様に、そして深き思慮の狭間から解決の糸口をちらつかせている様にエルスノアには映った。黄金の指輪の斜め上では黄と茶の重瞳が瞬きをせずに一点を捉えている。正視しては引き擦り込まれて元に戻れない魅力と一切の虚偽を見破る眼力を前にエルスノアは億さず、口を開いた。
「七十四の者を含めれば三名の剣霊使いが北部の王位後継者は守るべき存在と認識し、彼ら三名と共にある剣霊たちも契約者の意向に同意したと解釈するべきでしょうか。」
「いかにも。しかも今亡き特殊番号保持者の剣霊であったハガンも首を縦に振り、更にもう一つの存在もヴェルリンクの王女を生かすべきと判断したようだな。」
ハガンについてはともかく、もう一つの存在とは誰の事であるかエルスノアには理解出来なかった。その者と思しき名前は数枚に及ぶ手紙の中に記されていないからである。剣霊帝はその様なエルスノアの心の裡を読んだのか、開いていた左目の睫毛を再び伏すと組む脚を入れ替えた。
「エルスノア、余に仕えて如何ほどになる?」
「先代様からお継ぎして二ヶ月前に五十年を過ぎたところです。」
左様かと剣霊帝は頷き、ステンドグラスを経た陽光は動いた長い髪の一部に他とは異なる色を差し込んだ。
「先代には話したが、そなたにも人間が想い描く神と呼ばれる存在について何時の日か話をしてやろう。だが、まず余はヴェルリンクの王女に会ってみたい。若年の人間、しかも女にして年老いた龍と同等の胆力を持つとは千年を知る余とて興味を湧かずにはいられないではないか。つまるところ、彼の者たちはヴェルリンクの王女に大地の意思たる余との会談を設けた。これを以て大義名分とすれば今も過去も納得しよう。」
「剣霊帝様の優しき御計らい、彼の者たちに代わりまして感謝申し上げます。」
剣霊帝は頬杖を突いていない側の手をエルスノアに差し出した。深い紺色の立ち襟のドレスを纏うエルスノアは一歩進むと膝を着く。肌理細かな白い指の先にエルスノアは両手を添え、滑らかに磨き上げられたと見る誰もが思わせられる手の甲に唇を付けた。
剣霊の肌に触れられるのは契約者のみである。始まりの剣霊である剣霊帝とて例外ではない。だがエルスノアは穢れなき手に唇を付け、傷を負わなかった。これは彼女が協会長という特殊な立場である故の特権なのであろうか。
一時間後、エルスノアは剣霊帝の指示に従った。コノリギス市街地内で待機していたシェス・ロウを引き連れて礼拝堂内の深部へ通じる厳かな鉄製の扉を開いた。
差し込む陽光は変わらず、正面の壁に掲げられた様々な形をした十二本の剣が互いに切先を付き合わせた円形のレリーフは冷たい輝きを保ち続けている。
シェス・ロウは何度もこの厳かな鉄製の扉の内側に足を伸ばしているが、その度に一瞬の躊躇いを感じずにはいられなかった。人知を超えた雰囲気を漂わせている空間もさる事ながら、果たしてこの場に足を踏み入れても良いものかと自衛本能が働いていた事に本人はまだ気付いていない。その事に気付くよりも前に、数段高くなっている最奥で水晶を削り出した椅子に腰を降ろして笑みを湛える存在が剣霊障により閉ざされた目に映らなくても判る。
剣霊帝のあまりにも長い髪は出入り口の扉のすぐ手前までしなやかに伸びていた。しかし何処を歩けば良いのか彼は熟知している。若き剣霊使いシェス・ロウは逸る気持ちを抑えつつ剣霊帝の許へ確固とした足取りで歩み寄った。
「第六十五剣霊使いシェス・ロウです。お呼びでしょうか、剣霊帝様。」
かしこまって膝を着くシェス・ロウを見下ろす表情に僅かな動きを与えた剣霊帝は肘掛けの上にある右手を外に投げた。視界を遮られている事はもとより、俯いているシェス・ロウにはこの手の動きは見えない。ただ、何かしらの意図で最上級の絹製の袖が心地良い音を奏でたのは判る。
投げた右手は重厚な鉄製の扉の前に立つエルスノアに向けてであり、席を外せとの示唆である。寸分違わずに右手の意味するところを知ったエルスノアは丁寧に会釈し、扉が開く音と閉まる音を順番に礼拝堂内に木霊させた。
「シェス、余の足許まで来るが良い。」
言葉と共に顔を上げれば剣霊障により視力が閉ざされていようとも手招きする剣霊帝の姿が迎え入れてくれる。躊躇いを見せずに近寄るシェス・ロウに剣霊帝は腕を伸ばし、抱き寄せた。
「余はそなたに剣霊帝様と言われるのが些かこそばゆいのだが?」
「お言葉ですが、協会長様にその様にお呼びしなさいと指示を受けました。」
「だが今この場にエルスノアはいない。ならば以前の様に余を名前で呼んでも良かろうに。」
「判りました。サリシオン様、僕としてもその方がしっくり来ます。」
抱き寄せたシェス・ロウの顔は剣霊帝の左肩の付け根にある。女の魅惑を彩る肩へあどげなさが完全に抜けきっていない横顔が誘われるままに密着した。冷たかろうとも彼にとってそこはは生まれた時から慣れ親しんだ名付け親の優しさと包容力を感じ得る心地良い部位であった。
「シェスよ、余の許に呼んだのは近々、余の愛する妹と共に北部王立国家に赴いて貰いたいからだ。」
母親が幼き我が子へ言い聞かせる様に語る剣霊帝の細く高い鼻はシェス・ロウの柔らかな栗色の毛を持つ頭部にある。少年特有の柔らかな匂いを嗅いでいるのだろう。ただ判るのは数年経過すれば否応無しに彼は少年とは言い難い年齢となる。それを惜しむかの様な仕種と言えた。
「北部王立国家は剣霊を嫌う国と教わりました。何故僕とミゼレレがその様な国へ行かなければならないのですか?」
「その剣霊を嫌う国が変わろうとしている。まずは招待する前にこちらから出向くのが筋であろう。シェスと余の愛する妹であれば協会の全権大使として見劣りしないと思ってな。」
シェス・ロウを抱き寄せた剣霊帝のそれぞれの手は会話の途中であろうと次なる行動へ移っていた。右手は後頭部へ添えられ、左の二本の指は眉間から鼻筋の先端を往復する様にゆっくりと撫でている。嵌める装飾品たちがぶつかり合う硬質な響きは厳かな礼拝堂の空気をひっそりと震わせていた。
「北部の誰に会うのでしょうか?」
「王女だ。彼女は先日、王位後継者として身を立てた。」
剣霊の手とは冴え渡る刃と同義語であり、一言で表現するならば冷たい。その得も言えぬ感触に対してシェス・ロウは全身を強張らせず、嫌がる素振りを見せずに口許に安堵の表情を浮かべていた。冷たく血の通わない指は温かくその下で脈動を奏でる肌を堪能している。これは剣霊と契約者の時間、ましてや男女の時間ではない。母子の時間の真っ只中であった。
「王女様を訪ねて会えたとしても、初対面の方に何の話をしたら良いのか僕には判りません。」
相手は北部王立国家において貴なる血統の人物である。シェス・ロウは閉ざしている瞼を彩る睫毛の先端に不安の思いを募らせている。その様子に剣霊帝はエルスノアの前では滅多に見せる事の無い目尻を柔らかにした表情を誘われていた。
「シェスの懸念が尤もなのは余も判る。ところが都合が良い事にトウラドオクの城の名残りにてシェスが出会った男たちを彼女は知っている。」
「トウラドオク…もしかしてユスト・バレンタインとル・ゾルゾアの事ですか?」
剣霊帝のか細い肩に頬を沈ませていたシェス・ロウの顎先が上を向いた。彼はトウラドオク城址にて剣霊障から開放される新月の日に二人の姿を目の当たりにしている。今は閉じられていようとその奥の瞳が憧憬の対象となる二人の男の面影を思い描いているのを剣霊帝は彼に触れる指で感じ取っていた。
「人間にとって共通の縁故とは初対面の会話の際に極めて有効と余は聞かされている。加えてノエミリオでそなたが共にしたハガンは暫く王女の横に身を置く事に決めたそうだ。ここまで配役が決まっている以上、シェスが最適であろうと余は信じてやまないが、どうであろう?」
「あのハガンまでもが心を許すとは、その方はいったい…?」
「統べる者として今の世に生を受けたのであろうな。だが臆せずとも良い。統べる者とは優しい心の持ち主であるのが常だ。」
己の言葉に誘われて遠い過去を思い返した剣霊帝は短い微笑を漏らした。鼻筋を撫でる指が動きを止めた事により、されるがままのシェス・ロウも剣霊帝が過去に足を踏み入れて懐かしんでいるのだと幼心ながらに理解していた。
「判りました。ただ…。」
「ただ、どうした?」
剣霊帝は僅かに顔を傾けた。長い髪の一部が動き、放つ七色の輝きがシェス・ロウの顔に陰影を与える。それは果たして言葉にして良いのかと己の中で思慮を巡らせている面持ちであった。
「僕も早く大人になってユスト・バレンタインやル・ゾルゾアの様にサリシオン様と剣霊協会の御役に立ちたいです。」
シェス・ロウの葛藤と羨望が織り成した吐露は純朴さが滲み出ている後頭部を撫でる手を止めさせた。
「しかし余はシェスの働きに不満を感じた覚えは一度も無いが?」
「ユスト・バレンタインとル・ゾルゾアは邪険霊や剣霊協会にとって敵となる者たちを倒しています。僕も彼らに認められるほどの剣霊の使い手になりたいのです。」
「左様か。」
顔を傾けたままの剣霊帝は思い詰めた表情をしているシェス・ロウの鼻筋を一回なぞり、あどけなさが残る横顔を優しき左肩から離した。
「シェスは彼の者二名が常に何を心掛けているか知っているか?」
「契約を結んだ剣霊の心と体を守る為に生涯を掛けるとミゼレレから教えて貰いました。」
「いかにも。人間にとって剣とは単なる道具に過ぎん。だが剣霊の契約者はその道具の為に生きる。大半の人間にとって何とも奇想天外な在り方であり、受け入れ難いのも事実であろう。その様な中、彼の二名は周囲の視線など気にせずに己を押し殺し、戦いに身を晒して日々を過ごしている。」
「戦い…僕もその戦いに加わってサリシオン様とミゼレレの喜ぶ姿を実感したい。だけど僕はまだ十二歳で剣を満足に扱えない。早く一人前に剣を扱える男に…。」
それ以上喋るな、と剣霊帝はシェス・ロウの鼻筋をなぞった指を動く上唇の頂点に押し当てた。得も言えぬ冷たさにシェス・ロウは呆然とするしかない。厳かな礼拝堂の静寂を破らんと嵌める腕輪たちがそれまでよりも大きな音を奏でた。シェス・ロウの頬と剣霊帝のそれが密着する。男らしいとはまだ言い切れない両肩を剣霊の絶巓たる細長く高潔な左右の五指が包み込む様に抱き締めていた。
「シェスよ、一つ覚えておいて欲しい。己と戦うと言うが、己と争うとは言わん。その時々に剣を振るうとは戦いなのか争いなのか、シェスが見極められるのを余は期待しているぞ。」
両目を開いて語る剣霊帝の姿をシェス・ロウは視力を一時的に失っている事もあるが、その位置では見えない。しかし剣霊使いとしての在り方について重要な心掛け、あるいは剣霊が望む契約者の姿を語っているのは判る。シェス・ロウは魅入った様に口を半開きにし、投げ掛けられた言葉を理解しようと、自らの心に刻み込もうとしていた。無論、真意を悟るには彼はまだ若い。
剣霊帝は誰に聞かせる訳でもなく時間だ、と短く嘯いた。何事にも動じない冷たき頬と咄嗟の出来事に火照る頬が離れる。少年の体温を堪能していた剣霊帝の両手は水晶による肘掛けの上に置かれた。細い手首を彩る装飾品たちがぶつかり合っては短い金属音を厳かな礼拝堂内に響かせ、七色の光とは異なる煌きを放った。
「さて、余の愛する妹を呼んで貰えないか?その際、余と余の愛する妹のみで今後について話をさせて欲しい。構わないか?」
利発さを醸し出す、長く整った睫毛を持つシェス・ロウは躊躇う事なく頷く。厳かな礼拝堂内に快活な靴音を響かせる彼の後ろ姿を剣霊帝は遠い眼差しと共に見守っていた。エルスノアの時と同じく、重厚な鉄製の扉の開く音と閉じる音を耳にした剣霊帝は肘掛けに両手を乗せ、僅かに天を仰いだ。
「少年は男に憧れ、時を経て男となった際、次は何を求めるのか。なぁノイ、そなたはどう思う?」
遥か彼方に死を迎えた男の声は響かない。剣霊帝は短い微笑をたたえた後に再び左右の睫毛を伏せた。
まさかエジュ・エジェの地にここまで詳しくなるとは、とイゼリアーシェ・ヴェルリンクは思いも寄らなかった。市街地の規模を比べてはならないが、自らの居城を構える王都の大通りよりもエジュ・エジェの目抜き通りに構える商店の取り扱う品を端から順に語れるかもしれない。次の公務までの暇を見つけては豊かなたてがみのぺべの背に乗り、エジュ・エジェへ繰り出す。この日は冬の北部王立国家として珍しく快晴であり、吹く風もさほど強くない。髪の纏まり具合も、紅の注し具合もすこぶる満足している。髪といえば、御披露の式典を終えてから街を歩く女たちの中でイゼリアーシェ・ヴェルリンクと同じ髪型をする者が日を追う毎に増えていた。首に一重に巻き付けてはいるものの、垂らした先端が短い者がいれば、少々長過ぎる者もいる。髪の色合いも黒や金、こげ茶や栗色と多様に富んでいた。その様な中で真の王女殿下は黒いケープのフードを被らなくても人目を気にせずに目抜き通りの商店や市場の快活な雰囲気に直に触れられた。臣民たちの豊かな表情の変化を眺めては羨ましいと彼女は思う。貴なる血統の娘である己を不憫に思った事はこれまで一度も無い。だが、年頃の男女が手を繋ぎ、とりわけ女が己を真似たと言われている髪の結い方と共に笑顔を振り撒いていれば、誰にも言えない羨望の眼差しが強くなるのを実感していた。
この日は独りであった。身辺を世話するユラン・エレエと若き双子の剣霊には街の様子を堪能する様にと態の良い休暇を与えている。いざとなれば剣体となったハガンを手許に置いてある。無論、黒い布に包まれている彼女の柄を握る事はまず無かろうとイゼリアーシェ・ヴェルリンクは信じている。何故なら向かっている目的地はある剣霊使いが勝手に間借りしている空き家だからだ。
豊かなたてがみのぺべは庭を彩る広葉樹に手綱を括り付けなくても静かに座り込む。遠慮がちに鼻を鳴らすのは背を預ける主がお忍びでこの場に来ているのを察知しているからだろうか。四股を楽にしている牝馬の横顔を軽く撫でたイゼリアーシェ・ヴェルリンクは経年劣化が著しい扉を二回叩いた後に中の者の許可を待たずに取っ手を手前に引く。幾ら古かろうと破損が各所に見られようとも掃除が行き届き、充分な換気をした家とは清々しいものを感じる。
無口な剣霊使いと白銀の長い髪を持つ剣霊が姿を消してから一週間は経過した頃であろうか。このまま無断で間借りしていてはばつが悪かろうとイゼリアーシェ・ヴェルリンクは空き家の持ち主を探し、三か月分の借家代を支払った。あとは掃除をすれば居所としてそれらしい姿となる。王女殿下と呼ばれる身分とは言え、幼き頃に母方の祖父母の許で掃除のいろはを教え込まれたのが役に立った。前掛けをし、動き易い様に髪を普段よりも少々雑に纏めて掃除に挑む。無用な埃が取り除かれ、薄汚れた窓が輝きを放つまで変化した。額に浮かぶ心地良い汗を拭えば背中に傷を負ったル・ゾルゾアが質素な木製の椅子の上で笑みを見せ、その横では腕組みをしたブリスタンがにやついた表情を晒している。我も人間であった頃は毎日掃除に明け暮れていた、と彼女は言うものの、腕組みの先端にある細長く傷一つない指を見る限り、生じる疑問を払拭出来ない。床を水拭きする手を休め、まじまじと見上げる王女殿下に気付いたブリスタンはそれこそばつの悪い態を晒していた。剣霊は水を嫌い、実体である剣の重量しかない身で水の入ったバケツを持つのは以ての外、と言い訳じみた説明を語るブリスタンにル・ゾルゾアは苦笑を送っていた。それがつい昨日の様にイゼリアーシェ・ヴェルリンクは思い返していた。
居間にあるテーブルは端に寄せられ、二脚の椅子が距離を置いて向かい合わせに並べられていた。採光が行き届いた側は空いており、少し薄暗い側には彼女の鼓動を僅かに早くさせる剣霊使いが画材を広げて座っていた。
「さ、王女殿下。陽光が充分なうちに始めようか。」
ル・ゾルゾアはそう語るなり、それまで顎鬚を詰っていた指で空いている椅子を示す。首をやや傾げて微笑を見せて応えたイゼリアーシェ・ヴェルリンクは黒いケープを外し、同じく黒い布に包まれたハガンの剣体を壁に立てかけた。これまでル・ゾルゾアは王女殿下のお召し物をいくつか見てきたが、この日は黒字に青い小さな花を散りばめた立ち襟のドレスであった。彼女はこれが大のお気に入りなのかと思う中、初めて出会った時と同じ恰好をしてきました、と注釈を受けたル・ゾルゾアも短い微笑を誘われた。
「ゾルゾアさん、お婆様は?」
用意された椅子に両脚を揃えて腰を降ろしたイゼリアーシェ・ヴェルリンクは空き家の中を見渡していた。
「彼女ならそこら辺をほっつき歩いていると思うが。」
「あの、お独りで大丈夫でしょうか?」
大丈夫かとは剣霊とばれないかという意味であるのをル・ゾルゾアは理解している。早速下書きを始めている手と王女殿下と画布を交互に行き来する視線を止めずに彼は口を動かす。
「外出時に彼女の髪の先端を束ねて協会支給のスカーフで即席のリボンを結んであげたのだが、これまで見せた事のない苦い表情には思わず吹き出したよ。」
その時の光景を思い返したのか、ル・ゾルゾアは鼻で短く笑い、その様な彼を見つめるイゼリアーシェ・ヴェルリンクはブリスタンが作ったであろう表情とは真逆の柔らかなものを作った。
「君は先日、孤児院を慰問した際に剣霊について語ったそうではないか。良き剣霊と悪しき剣霊がいる。人間にも善行を積む者と悪行を重ねる者がいる。良き剣霊は人間の言葉を理解し、耳を傾けようとする。良き者同士が耳を傾け合えば世界は今よりも少しだけ幸福になれるかもしれない。理想論と言ってしまえばそれまでだが、心の在り方としては素晴らしいと俺は思うよ。」
ル・ゾルゾアは己が契約を交わした剣霊と同じ様に首を傾げてイゼリアーシェ・ヴェルリンクを見つめた。彼は描く対象を見つめて肖像画の仕上がり具合を想像しているのだと判っていようとも、先日の談話の内容を持ち出された気恥ずかしさも手伝ってなのか、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは頬が火照るのを感じていた。
「孤児院の件は何処で知ったのですか?」
「ユラン・エレエからだよ。二回目か三回目か忘れたが、君たちが俺を見舞ってくれた際に彼女は君のお婆様に話し、俺はその翌日に又聞きしただけだ。恐らく変な脚色は加えられていないと思うが、間違いないかね?」
火照る頬をそのままにイゼリアーシェ・ヴェルリンクは頷いた。
「ところで一つ気になっていたのだが、クラウディアとラファエラだったかな、彼女たちはどうして蒼き騎士たちに捕まったんだ?」
その件について私はユランから聞いたのですが、と前置きをしたイゼリアーシェ・ヴェルリンクは姿勢を変えずに軽い溜息を漏らした。王女殿下一行は御披露目の式典の七日前にエジュ・エジェの地に入った。王都とは異なる雰囲気を持つこの城塞都市に胸を高鳴らせたクラウディアが見物に出掛けようとラファエラを誘った。ユランの許可が無ければ駄目だとラファエラは一度は断ったものの、たまには二人きりで見知らぬ街を探索したい衝動を抑えきるのは難儀であった。クラウディアはラファエラの手を引き、ラファエラはクラウディアの嬉々とした横顔を眺めながらエジュ・エジェの中央広場まで辿り着いた。
「二人は髪を結わかずに飛び出した、と言う事か?」
「えぇ。ただ、あの子たちは剣霊として百五十年を過ごそうとも、見た目は十五歳の未成年ですから髪を纏めずに外に出ても誰も怪しまないと思います。」
「なるほど。髪に関しては成人してからの嗜みだったな。」
「加えて申し上げますと、クラウディアは別としてラファエラは髪が短か過ぎます。顔立ちや雰囲気も北部の女性とは微妙に異なりますから国外から来た女の子、と見られるでしょうね。」
ではどうして剣霊と知られたのか。クラウディアとラファエラが中央広場を後にして路地に差し掛かった時、何人かの青年に声を掛けられた。元来男嫌いの二人は無視を決め込んだが、それが青年たちには気に触ったらしい。勢いに任せて青年の一人がクラウディアと比べて大人しそうな外見をしているラファエラの腕を鷲掴みした。袖の上からとは言え、想像していた少女の柔らかな腕とは無縁の硬さと冷たさが走り、掌にはうっすらと血が滲んだ。この少女たちは忌々しき剣霊だと知った青年たちは一目散に逃げ出したが、その場をたまたま蒼き騎士の三名が通り掛ったという。
「それで押さえ込まれてしまった、という訳か。」
ル・ゾルゾアは頷くイゼリアーシェ・ヴェルリンクを一瞥し、手にする筆を毛先が少々太いものへ変える。下書きがそろそろ終わる頃合であった。
「まぁ彼女たちは剣霊であるのはさておき、なかなか可愛らしい見た目をしているからな。声を掛けられてもおかしくないと俺は思うよ。」
「それでしたらお婆様の場合、エジュ・エジェの殿方全員が虜になると私は思いますが…やはりお独りだと何か問題に巻き込まれる気がしてならないのですが?」
両手を揃えた脚の膝に乗せたままイゼリアーシェ・ヴェルリンクは言葉に違わず懸念の表情をル・ゾルゾアに見せた。だが、ル・ゾルゾアは動かす筆を刹那に止めただけですぐに描写に集中していた。
「あれは言葉遊びが趣味でな。」
「言葉遊び、ですか?」
「あぁ。目に映った者の自尊心を踏み躙るのが彼女のちょっとした趣味だ。意気揚々と近付いて声を掛けても結局は両肩を落としてすごすご帰るしかない。間違っても腕を掴む気力も残されていないだろうな。」
「ですがお婆様は私には…。」
「彼女にとって君は特別な存在だと俺は思うぞ?」
では、あなたにとって特別な存在は、と喉まで出掛かった言葉をイゼリアーシェ・ヴェルリンクは目の前の画伯に気付かれない様に飲み込んだ。膝の上にある両手が強張り、心臓が暴れて息苦しい。
「どうした?疲れたのなら小休止をいれるか?」
「平気です。続けてください。」
そうか、と短い返事をしたル・ゾルゾアは使い古しの木製パレットの上で色の調合に頭を悩ませていた。色合いからして王女殿下の髪に使う色と思われる。平面の世界で白金の輝きを表現するのは難しいと細かに動く絵筆の先端が語っていた。このまま沈黙に身を委ねていても良いのかとイゼリアーシェ・ヴェルリンクは自問した。答えは否である。こうして共にする時間は限られ、二人でいられるのは稀と見るべきであろう。永遠に眺めていたい思慮深い画伯の横顔が少々煮詰まった様子を醸し出し始めている。彼の方こそ小休止が必要なのではと疑問に想うものの、時間が惜しいのは共に同じであり、絵筆を握る右手の事を気に掛けているのが判る。背中に負った傷はまだ完治していない。肩より上に手を上げると激痛が走るらしい。それでも彼は当初の約束通りに肖像画を描いてくれる。ならば女に出来るのは会話をし、少しでも彼の背中に走る激痛を忘れさせる時間を設けるしかなかった。
「先日の出来事をお話ししても構いませんか?」
「あぁ。」
ル・ゾルゾアは顔を動かさずに率直な返事をする。外では昼を知らせる鐘が城塞都市らしく固く低い響きを奏でていた。
前回エジュ・エジェ城塞都市を訪れた際にイゼリアーシェ・ヴェルリンクはハガンを伴ってレストランに足を運んだという。石造の古い店構えではあったが、小奇麗な内装と良い意味で古臭いところに共感が持てた。奥から二番目のテーブルにて使い込まれて艶光りしている木製の椅子に腰を降ろす。外食とは楽しい。しかも世話役であるユラン・エレエには申し訳ないが、ハガンは普段と異なる空間を作り上げてくれる。白金の髪とは対極となる烏の濡れ羽色を思わせる髪は薄暗い室内では落ち着いた色合いであり、ささやかな休息を見る者に実感させる。心弾ませている王女殿下を見つめる剣霊は我はここでは食事が出来ないので、と口にすると淡い褐色の瞳に我が子を見つめるような柔らかさを保っていた。ハガンの言葉の意味は以前よりクラウディアとラファエラから聞かされている。ただ大人しく座っているだけであろうと雰囲気を味わうのはやぶさかではないらしい。
それでは何を頼もうかと手馴れた手書きのメニューに目を通す間もなく、テーブルの片隅に置かれた可愛らしい呼び鈴を鳴らす事なく、二人の前に飲み物が用意された。銅製の器に注がれた茶と黒が融合した色合いの飲み物は湯気を立てていない。
『その節は我らが殿下と気付かずにご無礼な対応をしてしまい、申し訳御座いませんでした。』
食を提供する仕事に就いて数十年を語る深い皺を顔に走らせている支配人らしき人物は飲み物を二人の前に置いた後に笑みと共に頭を下げた。無礼な対応と言われてもこの人物と接した記憶はなく、不快な気分にさせられた覚えも見当たらない。大抵はした側よりもされた側の方が事細かに覚えているものだが、その定義に当てはまる要素が見つからなかった。
『御身分をお隠しになって懸命に中央の女を演じられていたと後で知って、家の者にたいそう怒られました。息子の家内の親戚が中央出身でありまして、我々と同じく普通の言い回しを喋ると教えられました。』
普通の言い回しとは何であろうか、とイゼリアーシェ・ヴェルリンクは公の顔を崩さずに内心で首を傾げた。げんに中央出身である自身の世話役の言い回しにじれったさを感じてはいない。
『実は殿下が所望した品をメニューに加えましたところ、これがなかなか売れに売れまして、家族ともども全て殿下のおかげと感謝の念に耐えない所存でございます。』
イゼリアーシェ・ヴェルリンクの言葉を待たずして支配人らしき人物は語る。王女殿下を前にして緊張しているのか、再びあいまみえる事のないであろう人物に遭遇した感動がそうしているのか。
『遠慮なく御召し上がり下さい。勿論、磨り潰した赤クルミの実を混ぜて提供はしておりません。あれは特別なものです。御連れ様がなかなか寝付けないと殿下は仰られましたが、実は殿下自身がそうなのであろうとわたしは勘が働きました。言うまでもなく殿下がその様な御悩みに苦しまれているとは誰にも喋っておりませんので御安心下さい。』
エジュ・エジェの地を踏んで以来、確かに寝付けない日もある。何が原因であるかも判っている。だがそれを誰かに打ち明けたり、仄めかす様な行動を取った覚えはさらさら無い。外国の御友人様のお好みに合うか判りませんが、どうぞゆっくりおくつろぎ下さい、と支配人と思われる人物はハガンに笑顔を見せた後に再び頭を下げ、他のテーブルへと向かった。
「外国の友人か。あの形では彼女がそう思われるのも当然だろうな。」
淡い袷のしなやかなであり、凛とした様相を思い浮かべているル・ゾルゾアの右手は木製パレットと画布の間を行き来している。白金の髪を表現する色の調合に納得出来たらしい。
「今は君とこうして二人だから尋ねるが、その昔、ハガンは君のお婆様に間接的ではあるが恋人の命を奪われたそうではないか。」
「私もハガンさんからその様にお伺いしております。」
顔を動かせられないイゼリアーシェ・ヴェルリンクは空き家の壁に立て掛けた黒い布に包まれた一振りの剣を一瞥し、憎しみとは何も生み出せないと八百年を知る剣霊の言葉を口ずさんだ。
「それはハガンによるものか?」
目の前の画伯は流石に剣霊の使い手だけの事はある。一つの簡潔な台詞が剣霊によるものと見抜いている。機知に富んだ顎鬚を蓄えた横顔もハガンの剣体へ動かす手を止めずに一瞥を与えた。
「えぇ。私の今後に対する指針を示してくれたのだと信じて止みません。言葉としては簡単ですが、実践となるとなかなか難しいと感じています。」
「ほぉ?」
「憎しみとは感情の一つです。しかもその感情は何かを行う際のとてつもない原動力となる。生きる上で、この北部王立国家の元首として歩む事を皆様に認めて頂いた私にとって、いつの日か憎しみと向き合い、克服しなければならない場面に遭遇するのではないのでしょうか。その時、私は正しい判断を下す事が出来るのか不安でなりません。」
昼下がりに入ったばかりなだけに空き家に明かりは灯されていない。あくまでも窓から差し込む陽光のみである。雲はなかろうと冬の北国のそれは弱々しく、柔らかい。陰影を与えられた王女殿下の剣霊と見間違う端正な顔には厳かな情調が半分、残りは憂慮の佇まいが同居していた。
「憎しみが原動力といえば、かのテウヌス・イーハンがそうであったな。剣霊に対する憎しみは彼を衝き動かし、蒼き騎士の頂点へ登りつめた。良し悪しは別として彼の信念を俺は認めているよ。」
己を斬った者に対して畏敬の意を送るル・ゾルゾアは眉間に皺を寄せ、歯を噛み締めていた。背中に痛みが生じているのが誰の目に見ても明らかである。席を立とうとする王女殿下にル・ゾルゾアは額に滲んだ汗を拭った左腕をそのまま突き出し、大丈夫だと頷いて見せた。
「だからハガンは君と共にあるのを選択したのだと俺は思う。その様な君を見届け、今の世がどの様に移り変わるのか、あるいは何事も無く過ごすのかを見届けたいのであろう。それに彼女は俺たち剣霊使いの中でも最高位の特殊番号保持者と契約を結んだ剣霊と聞いている。彼女にとって一つの命よりも大局的な行く末を目の当たりにしたいのかもしれないな。どちらにせよ、君は剣霊に愛される人物のようだ。」
「愛されているとは、些か買いかぶりです。」
イゼリアーシェ・ヴェルリンクは両肩をすぼめて見せた。王者の涙相を持つ濁りとは無縁の灰色の瞳は陽光を受けて困惑よりももどかしさを匂わせている。そのもどかしさの行きつく先を酌んだのか、貴なる血統の者の年頃の女らしい仕草に誘われたのか、ル・ゾルゾアは鼻で短く笑う。
「それで、召し上がったのかね、その飲み物を。」
先程の話の続きをしようと誘い掛けている。ル・ゾルゾアは絵筆を握らない側の手で器に注がれた液体を飲む手振りをし、興味津々と言わんばかりに口角を持ち上げていた。
「冷たいコーヒーでした。私にはとても苦かったです。」
「二杯とも?」
「はい。ハガンさんは召し上がれなく、剣霊と共にある者が提供された物を頂戴するのが常であると教わりましたので…。何処の王女殿下の趣向か存じませんが、その日は異様に目が冴えてしまいました。」
「何処の王女殿下か。俺が思うに君も知っているイルサーシャだろうな。」
ル・ゾルゾアはイルサーシャと予測した理由として幾つか思い当たる点を述べた。まず、彼女と真の王女殿下と顔立ちが似ている。髪の色は微妙に異なるが、煌き具合は同じであり、人間の記憶の中で視覚に於いては顔と髪の合致でその人物を特定する。独特の言い回しとはやたら古めかしい言葉を使う彼女を指しての表現として当て嵌まる。また更なる裏付けとして中央出身という響きが彼女の契約者の姿がちらつく。しかもその契約者はコーヒーをこよなく愛飲しているという。睡眠作用を催す赤クルミについては用いる場面が想像出来ないが、彼らの間で何かしらの事情があったのであろう。
「そう言われてみると、否定するのが難しいですね…。」
真の王女殿下は白銀の長い髪の剣霊と黒髪の契約者が会話する様子を脳裏に描いていた。片方は横髪を耳に掛けながら、もう片方は両手をズボンのポケットに手をいれたまま壁に寄り掛かり、二人とも同じ口調で遣り取りをしている。いや待て、とイゼリアーシェ・ヴェルリンクは怪訝な表情を露にした。これまで黒髪の契約者が声を発している姿を知らない。だが、剣霊障により音を発せないと言われている彼の男らしい低さと律儀さが滲み出ている声が脳裏に響いていた。単なる想像の域の話なのかと思う最中、彼女は膝の上にある右手を物心付いた時から誰にも触らせていない顎へ何かを確かめる様に添えた。芽生えた疑問は払拭出来ず、解決も不可能としか思えなかった。
「ごめんなさい。動いてしまいましたね。」
腕を止めているル・ゾルゾアの眼差しに気付き、我に返ったイゼリアーシェ・ヴェルリンクは頬を染め、言葉を続けた。
「ところでイルサーシャさんとバレンタインさんはエジュ・エジェにはもう戻られないのでしょうか?」
任務の完遂と共に速やかにその場を去るのは剣霊使いの定石であるが、イゼリアーシェ・ヴェルリンクの知るところではない。十中八九戻らないだろう、と希望が持てない回答をするル・ゾルゾアにイゼリアーシェ・ヴェルリンクはしっとりとした女らしい溜息を漏らす。王女殿下が取ったこの行動の意味を顎鬚の画伯は理解している。女の勘とは男が思うよりも鋭い。ならば今しかないとル・ゾルゾアは張りの無い皺が走るシャツの胸ポケットから折り畳まれた一枚の紙片を取り出した。
「先日、剣霊協会の使いである鳩が俺の許に飛んできてな。次の任務の指示書だ。」
木製のパレットの上に絵筆を置き、立ち上がるなり肩の凝りを解す様に首を左右に傾けたル・ゾルゾアは任務の内容を見せようと指示書をイゼリアーシェ・ヴェルリンクに差し出した。角と角が寸分のずれもなく重ね合わさった紙片を僅かなためらいを伴って受け取る。どの様な内容が記されているのか。逸る気持ちを抑え、事実を知り得てしまう後悔に後ろ髪を引かれながらイゼリアーシェ・ヴェルリンクは指示書を広げた。
「これは…古代文字でしょうか?」
「恐らく。剣霊障で文字が読めない俺の為に協会は君のお婆様が読み易い様にわざわざこしらえたらしい。記述者は剣霊帝様の妹との事だ。」
「私は古代文字に対する造詣はまったくですが、筆跡を見る限り、上品なの中にも優しさが滲み出ておられますね。」
「その様な彼女が君を訪ねて剣霊の都より北部の王都へ足を運ぶそうだ。是非とも会談の場を設けて貰えないだろうか。本来なら王室の侍従なり国の行政機関宛に送るべきなのだろうが、それでは時間が掛かり過ぎると判断したのであろう。」
「鉄は熱いうちに打て、と言う事でしょうか。」
「だろうな。なに、彼女は君が筆跡を見て感じた人物…いや剣霊そのものだ。そう緊張せずとも大丈夫だと俺は思うぞ。」
イゼリアーシェ・ヴェルリンクは渡された指示書を折り目に沿って畳み直した。上質な紙片の中央に施された剣を咥えた鳩の透かしが不可思議な形に変化するのを窓から差し込む陽光が映し出している。持ち主に返すべく手渡そうとするが、ル・ゾルゾアは首を横に振った。王都に持ち帰るなり古代文字が解読可能な学者に読み聞かせて貰い、今伝えた内容の審議の材料として欲しいと語った彼は再び画材の前に腰を下ろすと置かれた絵筆に右の指を添えた。
このまま時が流れて肖像画が完成してしまうのだろうか。無理なお願いと判っていても時間が止まって欲しいとイゼリアーシェ・ヴェルリンクは手渡された指示書を握る手に無駄な力が入るのを実感していた。肖像画を描き終え、背中の傷も癒えれば彼はこのエジュ・エジェの地を去る。そして所属する剣霊協会からの新たな任務をこの場で終えた。これまで高鳴る胸の鼓動に心地良さを感じ、この空き家に赴いていた時間が過去のものへ移り変わろうとしている。
「ゾルゾアさん、もう少しお話をしませんか…?」
どう足掻こうとも場を取り繕う台詞しか出ない。悲愴を伴った俯き気味の王者の涙相を表す両目尻の黒子は今という時間を堪能しようと物静かにしている。
「実はイルサーシャさんから伺ったのですが、私の御披露目の式典の翌日に初めてこの市街地を訪れた際、周囲から私と見間違えられていたそうです。それで事情を知らずにバレンタインさんとどちらが殿下と呼ばれる人物か口論をされたとか。」
「その話は俺も聞かされたよ。君が大衆の前に姿を現すまでは単に殿下と知らされていたからね。誰もが男だと思い込んでいた。ユスト・バレンタインは所々で疑問を感じたらしいが、イルサーシャはあの性格だ。確証が得られない中、無理も無かろう。」
「では、どの様にしてどちらが殿下と言われる者であるか白黒をつけた手段もご存知でしょうか?」
俯いていようともイゼリアーシェ・ヴェルリンクの濁りとは無縁の灰色の瞳はル・ゾルゾアを捉えて離さない。彼は肖像画の仕上げに意識を注ぎながら話に耳を傾けていた。
「知っているとも。即席で結わいた髪をイルサーシャが解いたそうじゃないか。この国で成人を迎えた女が人前で髪を解くのは愛の告白であるとユスト・バレンタインが教えてくれたが、その時の有様はなかなか見ものだったらしいな。その場に居合わせたあらゆる男が目を丸くし、女は感嘆の声を漏らしたそうだ。」
「その光景…ご覧になりたいですか?」
「んん?今なんと言った?」
「むしろ私はあなたに見て頂きたいのです。」
イゼリアーシェ・ヴェルリンクは剣霊協会の指示書を握り締めていた五指を開き、首に一重に巻き付けた髪の先端にある結び目を解いた。絹が擦れる様な音を奏で、白金の長い髪が蟠る感情の全てを開放せんと、他には描けない弧を形成しては物静かとなる。一連の動きを横目で見つめていたル・ゾルゾアはたとえ機知に富んだ横顔を持つ者であろうと、彼女にしか出来ない髪の広がりに魅入られた。口を呆然と開き、握る絵筆を床に落とすしか彼に術は残されていなかった。
想い人の前で結わいた髪を解いた。誰にも見せていない姿を凝視される恥ずかしさが肘を包み込む様に腕組みをする体を萎縮させ、胸の内を曝け出した不安は視線を自然と床へ落とさせる。経年を知る深い色をした板貼りの床に白金の髪を表現する色がしみとなって広がりつつあった。
「王女殿下、君は…。」
ル・ゾルゾアは落ちた絵筆を拾おうとせず、両腕を垂らしたままである。己の喉が上下に動く音が否応にも彼の耳に纏わり付いていた。
「王女殿下なんて呼ばないで下さい…。」
肘を包み込む両手の先端が上質な肌触りを約束してくれる生地に深い皺を走らせていた。
「ここまでさせておいて、私をまだ王女殿下と呼ぶのですか?何故イゼリーと呼んで下さらないのですか?クラウディアとラファエラ、そしてお婆様よりもあなたに一番そう呼んで貰いたいのに、何故お解りになって下さらないのですか?」
溢れ出る感情は言葉として、言葉で表現しきれない想いは麗しき涙として体の外に解き放たれる。あちらには画材のしみ、こちらには感情の一端のしみが広がりを見せる中、ル・ゾルゾアは立ち上がった。腰にぶら下げている黒字に黒の刺繍が施された協会支給のスカーフを解き、イゼリアーシェ・ヴェルリンクの左右の頬と目許を優しく拭う。そして哀れみの眼差しと共に彼は口を開いた。
「冷たい男と思うだろうが、俺はこうして君の涙を拭うしか出来ない。理由は二つ。俺は君の国と交戦状態にある東部帝政国家出身の者だ。そして剣霊と契約を交わした男なのだよ。」
「私はそれでも構いません。」
嗚咽交じりに言葉を発するイゼリアーシェ・ヴェルリンクを見下ろすル・ゾルゾアは協会支給のスカーフの皺を伸ばして二つ折りに畳むと小刻みに震える彼女の膝の上に置いた。
「これで髪を結わき直せ。」
両手を後ろに廻し、踵を返したル・ゾルゾアの背中に先程熱い物を拭ったばかりの頬の感触が伝わった。彼は進めるべき脚を止め、形良く揃えた顎鬚の先端を下へと動かす。
更なる言葉を発しては王女殿下を傷付けるのが明白である。だからと言え、意を決して結わいた髪を解いた彼女を抱き締める訳にはいかなかった。
剣霊は契約者の心身そして流れる血は全て己のものと認識している。それをル・ゾルゾアは契約を交わした剣霊を血縁であると慕う王女殿下に教えられず、仮に教えたとしてもイゼリアーシェ・ヴェルリンクが勢いに任せて更なる一歩を踏み出そうものならブリスタンは眉一つ動かさずに雲孫の体に深い剣蹟を刻むであろう。剣霊とは己が至上であり、その至上を揺るがす存在は排除する。簡潔であり、頑なな矜持に彼女を巻き込む訳にはいかない。背中に頬を伝った熱いものが広がる中、床に対して垂直に降ろしているル・ゾルゾアの左右の手は拳を作り出していた。イゼリアーシェ・ヴェルリンクの嗚咽に共鳴しているかの様に左右の拳は小刻みに震え、爪は肉に食い込み、骨が軋む音が聞こえんばかりである。喰いしばる歯をそのままに窓の外に視線を送る。透き通る窓の端では豊かな黄金色の髪の一部が吹く風になびいていた。気配を察知出来る存在にとって己のそれを消すのは造作も無かろう。彼女はイゼリアーシェ・ヴェルリンクがこの場を訪れた時、つまりこれまでの一部始終を耳にしているとみて間違いない。
風に身を任せている豊かな黄金色の髪の一部は緩やかに、そして昼下がりの陽光を跳ね返しながら何処となく物悲しげに揺れている。果たして彼女はどの様な表情をしているのだろうか。恐らく人間であった時であろうと、誰にも見せていない表情をしているのだとル・ゾルゾアは思い、緩まりつつある左右の拳を握り締め直した。
北部王立国家の伝記にある逸話が残されている。イゼリアーシェ女王陛下の自室には質素でありつつも洗練された額に収められた一枚の絵画が飾られていた。女王陛下自身の若かりし頃の肖像画であり、額縁と同じく清潔感が見て取れる室内で描かれた様子が伺えた、と当時の王城に仕える者たちは語っている。
女王陛下は公務の合間を縫っては数ヶ月に一回、王都の少年少女たち数名を自室に招待した。彼らは肖像画を一目見て綺麗な絵だと素直に褒め称えるものの、女王陛下は首を横に振った。この絵を描いて頂く最中、私は心を痛めていたと女王陛下は少年少女一人ずつの肩に手を置いて当時の心境を吐露した。描いた御方の心が綺麗であり、一度決めた事を曲げずに生きるという強い意志が絵にして顕れ、それをあなたたちは綺麗だと口にしたのです。あなたたちも心を強く持ち、己の道を信じて真直ぐに歩まれるのを私は切として願いやみません、と女王陛下は語った。
招かれた少年少女の誰もが当時の女王陛下について類似した感想を述べていた。それはこうである。
自らの過去の姿を眺めていた女王陛下の眼差しは柔らかさと優しさ、そして哀しさの全てを包括した雰囲気を漂わせ、王者の涙相の所以である両目尻の真下にある黒子がそれを助長していた。故に御心を痛めていた理由を誰一人訊ねられなかった、と。
<エジュ・エジェ城塞編 完>




