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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第三章 エジュ・エジェ城塞編
50/75

激情に駆られた蛇の如く

 久々に外気に身を晒した。煙草をくゆらせずとも鼻から漏れる息が白い事をユストは改めて実感していた。風が強い。今は星々が瞬いているが、急に吹雪くのをこの北部王立国家の臣民たちは熟知している。また、夜分に行動して憲兵に睨まれては日々の生活に支障をきたすと警戒しているのであろう。故に星空の下で儚き瞬きを鑑賞しようとする者は見当たらない。吹く風に羽織る黒いコートをなびかせる男と濃淡のある赤い髪を揺らす女、そしてそれぞれが契約を交わした剣霊たちのみが夜の世界に迎い入れられていた。

「ねぇユラン、どうしても戦わないと駄目なの?」

 ユストとイルサーシャから数メートル遅れて歩むクラウディアの声が風に運ばれる。夜の世界であろうと澄み渡る空色の瞳に滲ませた困惑の眼差しと共に契約者を見上げている様子がユストには容易く想像出来る声色だった。

「売られた勝負だ。クラウディアはわたしがあの様なやさ男に負けるとでも思っているのか?」

 悠然と答えるユラン・エレエがクラウディアに微笑を見せようとも既に彼女の視線は戦いに挑む剣士そのものなのであろう。げんにユスト自身もざわつく心を鎮めようと両手をズボンのポケットに入れたまま歩む脚を動かしていた。

「思っていない。でも、油断は禁物だよ?ユランがいなくなったらたちは…。」

「無用な心配はするな。わたしの剣が端からそれでは満足に戦えないぞ?」

「判ったよ。終わったらまた元の様に一緒に過ごせるんだよね?」

「そうだな。わたしもそうしたいと願って止まないよ。」

 憂慮に満たされた剣霊の細い肩を抱き寄せる契約者の姿がユストには判る。共に剣霊協会のしきたり、いわゆる協会に所属する者同士の手合わせは厳禁である事を念頭に置いた上での結果に違いはない。

 クラウディアと相対的に落ち着きを払っているラファエラはユラン・エレエの袖を掴み、何か小声で囁いていた。先読みを得意とする彼女は対戦時のユストの行動について予測を述べているのであろう。剣霊の髪型は剣体に準ずる。ならば彼女たちより前を歩くイルサーシャの白銀の長い髪を見れば、ラファエラにとってその攻撃方法を計り、回避方法を練り、反撃方法を導くのは容易である。

 イルサーシャとしては契約者の無謀な我が儘をどうにか回避できないものかと模索していた。しかし、ユストの腕に己の手をあてがい、諌めようとも彼は応えない。ただ一度だけ、けじめを付けなければならないと静かに語ったのみである。

 けじめとは何か。イルサーシャの中で様々な思いが交差しては混ざり合い、重く圧し掛かる。ユラン・エレエという、両腕に刺青を入れた女剣士を討ち、亡き祖国、そして祖国を守る側であった者たちの雪辱をすすぐつもりなのは判る。だが、討ったところで次に何が待ち受けているかも否応にも判る。この場にいる誰もが望む結末を迎えられない。

 また、理由や動機はどうあれ、ユラン・エレエは中央王立国家の滅亡を導き、ユストの人生という道程に転機を与えた者である。当時の彼にとって選択の余地が残されていなかったであろうその道程の中にはイルサーシャとの出会いが含まれている。間違っても声にして言えないが、イルサーシャとしてはユストという契約者、唯一剣体の扱いを許せる存在と廻り合う要因を導いたユラン・エレエには密かに感謝している己も否めないでいた。そして彼女を頼る双子の若き剣霊たちの可憐さと愛くるしさが同居している姿がその思いを助長させている事にも気付いていた。同じ剣霊である。契約者と共に過ごす時間とはなにものにも代え難いからだ。

 何はともあれ、手合わせを止めさせなければと逸るものの、打開策が思い浮かばないイルサーシャをよそにユストは歩む脚の動きを止めた。胸のポケットから煙草を取り出し、手際良くマッチを擦る。夜の静けさの中で煙草の先端が赤く灯り、鼻から出した色濃い煙が大気へと掻き消された。

「ユスト・バレンタインって言ったよね?ユランと戦うのは避けられないの?」

 振り返るユストに向けてクラウディアはユラン・エレエに身を寄せたまま口を開く。イルサーシャより短い薄紫色の髪が掻き消えた煙草の煙を追ってなびいている。彼女はこれから起こるであろう一撃必殺の戦いに懸念を示しているのか、なびく髪をそのままに冬の空色を思わせる瞳をユストから離さないでいた。クラウディアの特殊能力は彼女を見た相対する者の戦意を和らげる。ユストはこの能力を知らないが、ブリスタンと同じく目を見てはならないと知らず知らずの直感が囁いていると気付いた。勝つ為の能力、生き抜く為の手段に忠実に従う。疑問など生じてはならず、すぐさま行動に移すべきである。剣士の視線のみを横にずらしたユストは左斜め前に立つイルサーシャの腰に手を添えた。

「そなたたちには申し訳ないが、かつての中央の者同士の因縁だ。」

「知ってるよ。ユランが中央の追っ手から逃げているところをとラファエラで助けたんだ。ユスト・バレンタインも追っ手の一人なの?」

「追っ手ほど生優しい者ではない。亡霊だと言っておる。」

「なんで亡霊なんて言うの?」

 目を合わせていなくともクラウディアは純朴と悲哀が折り重なった眼差しを向けているのをユストは肌で理解していた。彼女は剣霊となる以前からその様な眼差しをありとあらゆる全てに向けていたのであろう。だが今は他の剣霊の過去を勘繰る時間ではない。

「亡霊というのは目的を達成すれば自ずと消える。ユストと戦えばユラン・エレエも今後はその中央の亡霊に苛む必要が無かろう?」

 イルサーシャは腰に手を当てているユストを見上げてはクラウディアに眼差しを動かす。そしてもう一つの澄み渡る空色の瞳の持ち主が口を開いた。

「亡霊が消えようとも契約者たちは体に傷を負う。加えてたち剣霊のどちらかは心に深い傷を刻まなければならないのをユスト・バレンタインは判っているのか?」

 クラウディアと比べて確固とした声色と短い髪がそう助長させているのか、利発さを滲ませるラファエラの様相はユストに横にずらしていた視線を元の位置に戻させた。

とクラウディアはやっとの思いで契約者にふさわしい人物を見つけた。はユランが傷付く姿を見たくなければ、傷付いた彼女の前で何も出来ない剣霊の姿を晒したくない。イルサーシャも同じ思いの筈だ。」

 普段のユストであればラファエラの言葉を理解し、同情を寄せていたであろう。だが、彼は彼女の訴えに耳を貸さないとばかりに首を横に振ると、吸い掛けの煙草を口に含むと足許に落とした。

「それでも付き合って貰う。だが…?」

 イルサーシャは言葉を詰まらせた。ユストの内なる声の意図が読めないからである。それでも目の前に立つ双子の若き剣霊とその契約者に話を持ちかけたユストの意思を伝える義務は変わらない。再び鼻から漏れた煙草の煙を目で追った後、イルサーシャは口を開いた。

「剣をかざそうと寸止めが条件だ。協会の規定に触らない様にすれば何も問題有るまい。戦いが終わり次第、そなたたちの剣体を見た件、ユラン・エレエの両腕の刺青の件は金輪際忘れるとしよう、とユストは言っておるが…。」

「上等だ。わたしもイルサーシャの剣体を口外するのは剣士の矜持にかけて控えると約束しよう。」

 クラウディアとラファエラのそれぞれの肩に手を置いて語るユラン・エレエに向けてユストは鼻で笑う様な仕種をして見せた。

「ユストがそなたは剣士ではなく暗殺者の間違いであろう、と…。」

 気まずそうにするしかないイルサーシャは相対する剣霊とその契約者からあらぬ方向へ緑色の瞳を投げた。ユストの本音にクラウディアは不満げな表情を作り出し、ラファエラは肩に置かれた手に己のそれを重ね、挑発に乗るなとユラン・エレエを見上げながら首を横に振った。

「どちらでも構わない。貴様の敗北に変わりは無いからな。」

 既に結果は判っていると同じく鼻で笑ってユラン・エレエは応える。言葉で相手の心理を読み取るせめぎ合いもそろそろ頃合かと感じたユストは剣士の眼差しを変えずに周囲を見渡した。くすんだ煉瓦作りの塀が左右に立ち並び、黒鉄色の細い鋼材で組み上げられた門の隙間から伺うに、中にある建屋は貯蔵庫もしくは保管庫の類と思われる。何故なら星明りを映し出せないほどに汚れている窓は小さく、高い位置にある。また足下に目を向ければ不揃いの敷石を用いた石畳はこれまでの往来によるものか、風雨に磨かれたのか、表面は適度にならされていた。そして住まう者の気配も感じられない。ならばこの場で行うかとユストは独り頷くとイルサーシャを剣体へと戻した。

 悲愴と苦痛を喰らう黒蛇が絡み付く柄を左の順手で握り締め、二匹の尾の先端を右肩付近へ持ち上げる。勝負を挑んだ側が先に構えるのは作法の一つとも言えた。

「ユラン、の見立てに間違いはなかった。やはりユスト・バレンタインは直剣ならではの刺突撃で挑む。放つ一撃が狙うのはユランの顎先だ。」

 白銀の刀身が星空の瞬きを撥ね返そうともラファエラは魅入られずに淡々と役目を果たそうとしていた。一方のクラウディアは首を傾けながら己の刀身よりも長く、鍔を持たないイルサーシャの剣体をまじまじと見つめていた。

「ねぇユラン、本当に平気なの?イルサーシャは見るからに別格の剣だってでも判るよ?」

「だが、お前たちも負けず劣らずの別格だとわたしは信じている。」

 ユラン・エレエは獲物を前にした高揚感を表す不気味な笑みを見せ、淡く柔らかな月の光が彼女の勝利を掴み取らんとする顔に陰影を与えていた。戦いの前に気後れしては敗北に直結する。いわば彼女の不気味な笑みはその様なものは一切持ち合わせていないと月の光がユストに教えてくれたのであろうか。

「ならばわたしはあやつの喉を狙うとするか。クラウディアにラファエラ、頼んだぞ。」

 北部王立国家に身を落ち着かせた女らしく、外出時に纏う質素なケープをそのままにユラン・エレエもクラウディアとラファエラそれぞれの肩に置いた手を腰へ移し、剣体になる様に指示を下す。ユストの順手に対し、ユラン・エレエは長さの異なる剣を共に逆手で握り締めた。

 順手で挑む男の剣士と逆手で応じる女の暗殺者、謂れ無き孤高の輝きを放つ白銀の鍔無しの直剣と呪縛の称号を頂く妖しき薄紫色の長さが異なる双剣が対峙した。時折強く吹く風は滑らかな黒髪を掬い、脳天近くで束ねた濃淡のある赤い髪の先端を詰る。ユストの刺突撃の構えに対し、ユラン・エレエは緩やかに腕を伸ばし、食痕が刻まれているであろう胸の前で手首を重ねた。防御の姿勢と見る者に思わせつつも実は攻撃を確実に打ち込む構えである。ユラン・エレエは喉を狙うと語り、それに偽りは無かろう。しかし次なる疑問が生じた。どちらの剣で自らの喉を狙うのかとユストは細めていた目をそのままに眉間に皺を寄せた。彼女は交差利きである。僅かな期間しか共にしていないが、知りうる限りでは腕力を最大限発揮出来る右側を用いるのか、もしくは素早く懐に潜り込みつつ技巧に優れた左側で決める算段か。踏み込む足に目を向けても確証を得るには不安が残る。だが、双方共に一撃で決め打つのであれば相手の手の内を予測しておかなければならない。ユラン・エレエは既にユストの手の内をラファエラの助言にて知り得た。そしてユストは恐らく後者であろうと読んだ。前者ではイルサーシャの刀身に妨げられる可能性が極めて高いとユラン・エレエも判断している筈である。ならばその様に仕向けるのは策の一つでもある。ユストは刺突撃の構えを取る腕をわざと低くし、急所である喉許を更に晒す。羽織る黒いコートの裾が無情の恣意に反応して揺れ、履く黒のスカートの折りひだの先端は漲る闘志を漏らさんとひたむきに隠し続けていた。

 始まりの合図は必要ない。互いの殺気が最大限に膨れ上がった瞬間がその時である。気味悪い程の静けさを纏うエジュ・エジェの夜に再び強い風がそれぞれの頬を掠める。同時に二人は一蹴りで距離を詰めた。己にとって心残りとは無縁の一撃を繰り出すべく吐いた白い息を糸筋の様にして外気に描く。激突した剣士と暗殺者の周囲には無粋な演出とも言える土埃は立ち上がらず、激しい剣戟が響く事もない。

 剣霊使いの勝負は刹那と共に終わる。この二人の戦いも例外ではなかった。

 ユラン・エレエはラファエラの剣体で最も切れ味が鋭い部分、つまり先端から数センチの箇所をユストの喉許に突き付けていた。寸止めではあるが、彼の首に巻き付けている協会支給のスカーフには切れ込みが鮮明に走っている。一方のユストは繰り出すべき刺突撃を取りやめ、クラウディアの剣体を二匹の黒蛇の尾が交差する柄頭で受け止めている。そして残る右手はユラン・エレエの顔の前で広げられていた。

 ラファエラの先読みは外れた。何故ならユストが僅かばかりの殺気すら漏らさず、無心の状態で動いたからである。無心とは字の如く心が空虚な状態と言える。この場合、ユストは生の固執を排除し、死の覚悟を受け入れていた。白い息の糸筋が二つ、揺らめきながら消え去った後に協会支給のスカーフの一部がはらりとめくれれ落ちると共にユストの喉が動いた。

 君の一撃で過去の愚生は死んだ。

 顔の前にある指と指の隙間から見えるユストの動く唇からユラン・エレエはその様に読み取った。

「ユスト・バレンタイン、貴様…。」

 瞬く星空の下で歯軋りの惨い音が響く。脳天付近で纏めた濃淡のある赤い髪の先端が細かく震えているのは激しい怒りが込み上げていた副産物に過ぎない。剣士とは剣による戦いを行使する者である。だが、ユストは握る白銀の鍔無しの剣の切先をあらぬ方向に向けていた。ユストは勝負を挑んだにも関わらず己の技を繰り出さずにユラン・エレエの技に身を晒している。顔の前に突き出した右手は初めて遭遇した際に繰り出した拳の返礼という事か。

 誰が見てもユラン・エレエが勝者と思うであろう。しかし当の勝者は多大な屈辱を味わわされたと信じてやまなかった。端からこの様にすべく仕組んでいたのだろうか、そしてわたしは利用されたのか、と憤る思いがユラン・エレエの中で膨れ上がるのも当然と言えた。このまま勢いに任せて彼の喉許に添えたラファエラの剣体に更に奥へと力を込めるのも可能である。しかし、それでは所属する剣霊協会の規律に背いてしまう。二振りの薄紫色の刀身を持つ剣の柄にあしらわれている女の立像は白銀の刀身に絡み付く二匹の黒蛇が放つ眼光に恐れをなしているのか、表情を変えずに微動だにしない。あるいは二匹の黒蛇が女の立像の清廉な姿に魅入られてしまったのか。

 ユラン・エレエは誰の耳にも届く様に舌打ちを鳴らした後に左右の腕を楽にさせた。クラウディアの剣体が二匹の黒蛇の尾から離れる。ユストも握る鍔無しの直剣の切先を己の足許へ向け、羽織る黒いコートの裾に半円の軌跡を描かせた。

「貴様、何処へ行くつもりだ?」

 左右それぞれの切先を地に突き刺してユラン・エレエが問い掛ける。ユストは僅かに立ち止まった後に胸のポケットから煙草を取り出し、火を灯しては再び脚を動かす。満天の星に照らされたエジュ・エジェの夜空に音無き吐く息と煙草の煙が同化した。

 ユラン・エレエは別として、大半の剣霊使いとは流離いの身でもある。任務を終えたら次に備えて速やかにその場を去る。言い換えれば、行く当てなどない。仮にあろうと答える義務はない。無論、ユラン・エレエとしてもその場を取り繕う為に吐いた咄嗟の台詞であると認識している。げんに彼女は何も答えないユストを追い掛けず、遠退く背中を静かに見つめていた。

 ユストの後ろ姿が完全に消え去るとユラン・エレエは地に刺さる二振りの剣へ視線を落とした。

「ゲルハルステンの亡霊を斬り、わたしも少し楽になったか…。」

 それぞれの柄に施された女の立像はユラン・エレエの呟きに何も答えない。呪縛の称号を頂く剣霊の新の姿だけに儚くも寂しく、そして生気を失った目許を感じさせる装飾はユラン・エレエを静かに見つめているだけである。柔らかで頼りない月明かりに照らされる中、彼女は二振りの剣を刺さる地から引き抜くと主である王女殿下の許へ脚を動かした。

 祖国を語りながら踊る時間は終わった。それはとても短く、惨たらしいものであったのかもしれない。だが、それぞれの顔は心の奥底にこびり付いた過去から開放された平穏な表情を湛えていた。それを知るのは時折強く吹く風と夜空を彩る月と星々だけであった。


 これで良かったのかと己を苛む必要は微塵にも感じられなかった。むしろ蟠る全てを遠慮無しに吐き出した気がしてならない。ユラン・エレエとの、いや、亡き祖国との因縁を取り除いたユストは意識を失っていたと聞かされた中央広場の古ぼけたベンチに再び腰を降ろしていた。不思議な事にこの場所は落ち着く。普段と変わらずに更なる煙草に火を灯し、剣体のイルサーシャに霊体に戻れと指示を下す。触れてその様に思えば事は足りる。一振りの鍔無しの直剣が一人の白銀の長い髪を持つ女に姿を変えた時、ユストは銜えていた煙草を右の指に挟んだ。

 霊体に戻ったイルサーシャは黙ってユストの左隣りに腰を降ろす。温かな肩に冷たい頬を密着させ、暇にしている剣を握るべき左手は生ける全てを斬り刻む両手に包み込まれた。

(ユスト、そなたの言うけじめは方が付いたのか?)

(あぁ。)

はユラン・エレエの腕に刻まれた刺青を知った時、そなたに伝えてはならないと思った。もし伝えようものならば、そなたは仇への復讐に心を奪われ、もうと共にいなくなるのではと目に見えない恐怖に苛まれてしまった。)

 冷たい頬が温かな肩に食込まんと押し付けられる。ユストは右手にある煙草を離し、白銀の長い髪を持つ頭に添えた。

(淋しい思いをさせたね。)

(言うなそれを。こうしていられるのだから、もう過ぎた話だ。)

 イルサーシャは深い緑色の瞳に闇を与え、ふと笑う。研ぎ澄まされた剣霊らしさよりもか弱い女らしさをユストに認められた満足感がもたらした微笑は煙草の煙と同じく、夜のエジュ・エジェに人知れず消えた。

(で、そなたはユラン・エレエに勝ったのか?)

(いや、負けたよ。)

 ユストは男らしく尖った顎を上に向け、黒地に黒の刺繍が施された協会支給のスカーフをイルサーシャに見せた。綺麗に横一文字に切込みが走っている。寸止めとは言え、剣霊が宿る刃である。通常の剣と比べ物にならないほどの凄まじい斬撃に大気ですら道を空ける。三重に巻き付けていようとも食痕に傷が付かずに済んだのは単に運が良かったのかもしれない。

(愚生は端からそうするつもりだった。)

(負けるのがけじめ、とはとしては少々理解に苦しいのだが?)

(祖国の崩壊を導いた者に戦いを挑む。そして過去の因縁を引き摺る愚生は敗北する。つまり愚生は君と出会う以前の過去と決別しなければならない。それがけじめの全容だよ。)

(そうか。それは誰かの入れ知恵か?)

 イルサーシャの頭に添えられたユストの右手が横へずれ、横髪を耳に掛ける。晒された耳からぶら下がる鎌首をもたげた黒蛇のピアスに彼の二本の指が触れた。

(珍しいな。ユストが自らこやつに触れるとは。)

 閉じていた目を開いたイルサーシャはユストの指の動きを追う。彼女の従者から二本の指が離れ、代わりに古ぼけたベンチに置かれたままの煙草を摘み上げた。

(まさに絶妙巧妙な入れ知恵だったと愚生は感じて止まないよ。)

 ユストは口に銜えずに弄ばしていた煙草の灰を落とした。風に煽られた灰は地面の上を転がり、塵と化す。その有り様を見届けたユストの眼差しが空を仰いだ。このエジュ・エジェの地を去るのであれば今しかないと想い描く。確かにル・ゾルゾアの様態の経過は気になる。だが、彼の許に留まれば男の安否に一喜一憂するイゼリアーシェ・ヴェルリンクがおり、その横にはユラン・エレエが立っている。寸止めによる決闘とは言え、お互いに敵意を剥き出しにして刃を交えんとした者に再び相見えるのは気が引ける。ユラン・エレエとしても同じであろう。剣霊使いは任務を終え次第、その場を去るのは定石である。少しひねくれた考えをするのであれば、ル・ゾルゾアはユストがエジュ・エジェの地に佇むのを快く思わないであろう。しかもその理由として己の怪我の回復となれば、殊更に不快を露にするのをユストには容易に想像出来た。同じ境遇であり、同じ敵に立ち向かい、同じ男である。男が男に顔向け出来ない様にするべきではない。

 思慮に耽るユストの横顔を眺めていたイルサーシャは立ち上がるなり、ユストの手を引いた。

「行くぞ。」

 白銀の長い髪を風が掬い、その広がり様は新たな世界へ誘う羽の様な期待を匂わせる。手にする煙草を投げ、ユストはイルサーシャの言葉に無言で従った。何処へ行くのかと訊ねるのは野暮だと判っている。もし、訊ねたとしても彼女は鼻で短く笑った後に何処でも良いではないか、と答えるであろう。

「ユスト、上を見ろ。は月のある夜空は嫌いだ。そなたの声を感じたくても感じられない夜というのが嫌でたまらなかった。だが、今宵はそうと思わない。月とは綺麗なものだな。」

 満天の夜空を見上げながらイルサーシャは両手を腰の後ろに廻してのんびりと前を歩いている。等間隔に設置されたかがり火が彼女の言葉に従ってなのか、風が吹こうとも薪を弾かせず、勢いを増さずに静かに役目をまっとうしている。当てなく歩く先にエジュ・エジェ城塞の入り口が見えた。門は開かれ、警護の兵は左右に立っていない。立ち入りを禁ずと言いたげに一本の細い鎖が月に似た孤を申し訳無さそうに形成している。

「エジュ・エジェを去る前にもう一度ここをじっくり眺めてからでも悪くなかろう?」

 夜空を眺めていたイルサーシャは体の正面をユストに向け、袖を掴む。君がそうしたいのなら、とユストが頷く。門番となる兵はおらず、気配の察知に秀でている剣霊が中に入ろうと言うからには誰もいないのであろう。夜だけに人目を憚る心配をせずにユストとイルサーシャはエジュ・エジェ城塞の門を潜り抜けた。数百年を経た螺旋階段を降り、城塞深部へ続く道まで二人は進んだ。やはり人の気配は感じられず、そして酸の雫は滴らず、足下と壁面に光る苔がまばらに生えている。この光景はこれから先も変わらずに保ち続けていられるのだろうか、とユストが辺りを見廻しながら脚を動かす中、前を歩くイルサーシャが立ち止まった。

「なぁ、そろそろは食事を摂りたい。」

 なるほど、彼女の食事の際に夜の街は誰かに遭遇する可能性が少なからずあるが、ここなら人目につく心配は無用であろう。しかも八日もの間、彼女は契約者の血を摂取せずに霊体を保ち続けている。当然の欲求と言えた。ユストは左手を自らの首に巻き付けた黒地に黒の刺繍が施されたスカーフへ伸ばす。結び目を見つけ、解こうとすると背を向けたイルサーシャが彼に寄り掛かった。白く細い女の手がスカーフを解くなと頼れる硬い男の手を掴み、別の場所へ誘う。

「そちらではない。…こちらだ。」

 ユストの手が誘われたのは丸いとは言い切れず、また直線とも表現し難い彼女の下腹部であった。頼れる肩に後頭部をもたれさせた彼女の深い緑色の瞳は夜空を見上げていた時とは違う。剣霊の眼差しは消え、女よりも雌の色香を漂わせていた。

 岩肌に囲まれた地下とは温かい。冬であれば尚更その様に実感する。羽織る黒いコートを脱ぎ捨てようとも、シャツのボタンがイルサーシャの人差し指による下から上への一閃で飛び散ろうとも、ユストは寒さを感じなかった。壁面に背を付けたユストにイルサーシャが覆う様に迫り、互いの唇が重なれば予め示し合わせていたかの様に顔と顔が左右に傾く。鼻の先端同士が擦れ、それぞれの舌はそれぞれの欲望の権化となり絡まっては離れるのを繰り返す。それまで奏でられていた酸の雫が滴る音の代わりに人間と剣霊の舌から零れる互いを求め合う響きがエジュ・エジェ城塞深部の空気を震わせ始めていた。ユストの胸にイルサーシャの手が置かれ、イルサーシャの胸をユストの手が這う。潤う二つの唇が離れた。閉じた片方は音無き鼻息を荒くし、残る一方は虚ろに開いたまま甘い吐息をこらえきれずに漏らした。

 感慨深い白い渦を持つ琥珀のボタンが上から一つずつ外されようともイルサーシャは黙っている。ユストの胸に置いた手で彼の体温を確かめようと、実感しようと、切ない雌の眼差しを伴いながら己のドレスが儚い衣擦れを奏でるのを待ち焦がれている。ユストの顔がイルサーシャの胸に沈めば彼女は身を反らして応えつつ、剣霊と契約者ではなく、単に雄と雌であると認識し始めた。

 壁面に寄り掛かっているユストがそのまま腰を降ろし、その上を体を火照らせているイルサーシャが跨いだ。甘美と恥じらいが折り重なった声を雌が発し、雄は目を細める。二人が蠢こうとも光る苔は反応を示さず、二人の動きを照らすかがり火も焚かれていない。白銀の長い髪が情熱と共に暴れ、二匹の黒蛇のピアスは変わらずの睥睨を保ちながら揺れている。幾度となくイルサーシャがユストの肩を掴む両手にあるだけの力を込めては脱力し、虚ろに開いた口が薄暗き天井を仰いだ後、ユストも顎を上にして眉間に皺を寄せた。

 二人の蠢きは止まった。うっすらと汗を額と胸に浮かべるユストの音無き呼吸が落ち着きを払い始めると食痕以外から摂取する食事を終えたイルサーシャは彼に抱き付いた。

「嫌だ。離れたくない。」

 雌とは時にして強欲であり、何事も顧みずに己の心の内を吐露する存在でもある。痛々しい食痕が晒されたユストの首に両手を廻したイルサーシャは彼の鎖骨付近に横顔を密着させる。必要以上に温められた百年香は普段の爽やかな香りから艶やかな匂いへ変化していた。

「このままがいい。はまだ欲しいのだ。」

 己が発した言葉は雌の艶やかな感情に支配され、理性の欠片すら失っていると気付かない。甘美と恍惚の喘ぎを発し続けていた彼女の唇は既に閉じる事を忘れてしまい、余韻が残る白い肌を持つ冷たい女体を不随意に震わせている。

 彼女の契約者は八日もの間、言葉を掛けても返事をせず、命絶えるまで共にする剣霊は困惑と不安のどん底に突き落とされた。幸いにして契約者は意識を取り戻そうとも、安堵の時間を堪能せずにすぐさま所属する剣霊協会の規定に反する剣霊使い同士の手合わせを独り歩み始めた。それが嘘の手合わせと知らされていようとも、剣霊が宿る刃を向き合わされるのである。命の保障はもとより少なからずの怪我を負う覚悟は必要と言える。その様な憂慮を跳ね除けて契約者は己の許へ戻ってきた。込み上げる感情に嘘をつけない彼女は自らのたがを外した。剣霊として、女として、そして雌として、ひたむきな想いに応えられ、応えて欲しいと願うのはただ一人。返事はおろか頷きもしないそのただ一人の温かな五指が咽び返るほどの感情が渦巻く彼女の一部に触れた。平然と撫でる様に、柔らかに顎へ添えられ、人差し指だけ触れさせたまま上へと促される。剣霊と契約者は再び唇を重ねた。

 ユストは壁に寄り掛かる背を離し、不気味な模様が走る床に仰向けになる。離れたくないというイルサーシャは跨いだ姿勢を崩さず、重ねた唇を離さず、ユストの肉体に覆い被さる。暇を弄ぶ両手同士が僅かな隙間を作らずに握り締め合い、悦楽に浸る互いを確かめ合う。イルサーシャはぎこちない動きを延々と繰り返し、重ねた唇を離してはならないと苦悩と歓喜が入り混じった様子を晒し始めた。両脚を伸ばしているユストの膝が曲がり、握り締めている両手が離れた。既にイルサーシャの全身は己の意思では制御のしようが無くなりつつある。小刻みに震える両肩を抱き込む様にユストの手が添えられ、助けを求める様にイルサーシャはユストの両肩にしがみ付く。ユストは曲げた膝の角度を更につけ、腰に力を込めて浮かせる。肉厚の花弁を持つ花ががくから地に落ちた様にイルサーシャは動かなくなった。

 今の二人に言葉など要らない。全ては五感が敏感に相手の存在を知ろうと働き掛け、己の存在を判らせようと躍動している。それを端的に言うのであれば本能の赴くままの状態であり、美化するのであれば愛であろうか。

 激情に駆られた蛇の雌雄は互いの体の全てを密着させたまま数日を共にするという。蛇たちに愛が生じているのか人間には判らない。ただ判るのは己の欲求を満たすまで体を離さない事か。ユストとイルサーシャも暗闇の中で重ねられる全てを重ね、互いに目を閉じて心の赴くまま時の流れに身を委ねた。

 その後、エジュ・エジェ城塞都市にて二人を見かけた者は誰もいないと言われている。


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