過去を捨て去れ
深い闇の底から這いずり出てはもがき苦しみ、腕を伸ばした僅かな隙間の先は己が有るべき世界であった、とは余程の悪夢にうなされた際の話である。通常の目覚めとは単純であり、ささやかなきっかけがあれば事は足りる。絶え間なく働き続ける五感が周囲の温度の変化を測り、目許を覆う明暗の移り変わりに気付き、弛緩した肉体に何かが触れた感触を知らせ、そして脳裏を掠めたふとした疑問がそれらに当て嵌まる。今、何をしているのかと己の存在に気付いたユストは閉じていた目を開いた。
視界に映るのは見覚えのある光景であった。剣霊使いに身を委ねるよりも前、つまり中央行政府と国家の名称が変わる以前のバレンタイン家の自室である。牝牛の革を用いた座り心地が感慨深い、使い込まれた肘掛け付きの椅子に項垂れる様に身を預けていた。この椅子に腰掛けると一日の始まりと終わりを実感していたあの頃が懐かしい。果たして顔を上げれば過ぎし日々と更に巡り会えるのだろうか。だが、新たな疑問が生じ、行動に移せないでいた。この場に常に横に立つイルサーシャはいない。自室にいるとは五年前に契約を交わした白銀の長い髪を持つ剣霊とはまだ出会っておらず、国家の名称も今とは異なる。現実から目を逸らしたい訳ではない。北部王立国家のエジュ・エジェ城塞にて蒼き騎士の団長たるテウヌス・イーハンと差し向かっていたのだが、と角度を付けたままの顎に手を添える。ユストの目前で何かが蠢いていた。そこにはベッドがあるのを鮮明に覚えている。定期的な衣が擦れあう音はシーツが皺を走らせ、耳障りな呻きと喘ぎは柔らかな毛布が二つの肉体を包み込んでいると教えてくれる。ユストは過去と現実の記憶の糸を紡がせている顔を上にした。
「ほぉ。ようやくのお目覚めか。」
「目を覚ますにはちょっと時間が掛かったわね。」
若かりし頃の両親は動くのを止めずに眠りから覚めた我が子へ温かな眼差しを送る。その姿は毛布の下では何も身に着けていないのが容易に判る。父母のあられもない有様に一人息子であるユストは驚愕の表情を作る以外に何が出来ようか。上になるアウグスト・バレンタインが口を開けば下となったマリア・バレンタインがすぐに言葉を添える。以前にも同じ様な情景に出くわしているのをユストは思い出し、深く重い溜息を漏らした。呆れと安堵が均等に練り合わさった音が自室にひっそりと響き、ユストは新たな発見に気を取られた。既に新月の日は過ぎ去っている。次のその機会に恵まれるまで、それなりの日数を要する筈である。だが、震える喉は音を発していた。
「ユスト、ここはお前自身の内側だ。」
「そうよ、ユスト。ここはあなたの魂と言えば判るかしら。」
「声ぐらい出せてもおかしくない。」
「遠慮せずに言いたい事はきちんと言うべきよ。」
ユストの脳裏を読み取る両親は柔らかな毛布の下で依然として互いの蠢きを止めていない。荒ぶる鼻息と漏れる吐息がユストの耳に纏わり付く。
「まずは何故あなたたちはその様な姿で愚生の前に現れたのか教えて欲しいのですが。」
正視に耐えないと言葉通りにユストの視線が横へずれる。視界に飛び込む窓の向こうの景色はくすんで見えない。二十年以上眺めてきた景色が朦朧として思い浮かばない。やはり目の前の存在たちが語る様にここは己の魂なのだろうか。広くもなく狭くもなく、漠然としているものの、幾ばくかではあるが心地が良い空間に思えた。
「ユストよ、イルセリアがお前を案じたのだ。」
「ユスト、あなたの魂が消えてしまうのかとイルセリアは心配していたのよ。」
「目覚めぬお前の魂の為に起きるまで見守れとイルセリアは我々に指示を下した。」
「でも見守るにしてはあなたがなかなか目覚めない。」
「暇と退屈、この言葉が我々の中で生じた。」
「それならばと、あなたが目覚める様に二人で仕向けることにしたのよ。」
「以前、この大地に生を受けた者たちの大半は腹を満たす事と子孫の繁栄に喜びを得るとイルセリアが教えてくれたのだ。」
「ならば喜ぶ姿を見せ付ければそれに惹かれたあなたの魂が目覚めると思い、行動に移したの。」
得意気に語るアウグスト・バレンタインと我ながら妙案を思いついたと嬉々とするマリア・バレンタインは互いの両肩を抱き締め合う。ユストは顎に添えていた手をそのままに苦い表情を作り出しているのを己の事ながら判っていた。やはり正視に耐えかねる有様を見せつけられているのだから仕方がない。
「御二方の凡その考えは理解しましたが、腹を満たす方を選ばなかったのは?」
ゆったりと一定の調子で変化をもたらしていた毛布の波打つ皺が静かになる。共にユストへ動かした両親の顔は汗に塗れておらず、最後に見た時よりも若々しさが感じられた。強いて言うなれば息子であるユストよりも片手で足りる程度の歳上と思われる。
「我々は人間が喰らうものは喰らわん。つまり何が喜びなのかさっぱり理解出来ない。」
「そうなると残るのはこちらよね。どう、存分に喜んで貰えたかしら?」
両親から羞恥心の欠片もなければ悪びれた様子すら感じられない。だが彼らは両親を模した仮の姿に他ならない。真の姿をユストは幾度となく目の当たりにしている。彼らは威圧と恐怖を備えた睥睨を撒き散らす二匹の黒蛇である。
「正直申し上げるのならば…両親のその様な姿を目前にして喜ぶ子はそうそういないと愚生は断言出来ますが…。」
「おぉ、それは予想外な回答だ。」
「困ったわね。これでもあなたと巫女の見よう見まねでわたしたちは頑張ったのよ?」
発した言葉に違わず、両親の表情に困惑の色が差し込み始めている。彼らなりに良かれと信じて演じた出し物を真っ向から否定されたのだから、それも仕方ない。
「御二人に尋ねますが、愚生が気を失ってから如何ほどの時間が経過したのでしょうか。」
ユストは逸らしていた視線を再び正面へ戻す。自然体を装っていた脚を組み、顎に添えていた手を肘掛けの上に投げる。手の脂の染み込み具合といい、不慮に付けてしまった引っかき傷までもがこの不思議な世界では忠実に再現されていた。
「陽は昇って沈むのを三回は繰り返したと思うが。」
「あら、それを言うなら五回よ。」
「ならば間を取って四回でどうだ?」
「そうね。そうしましょう。」
「悠久に身を置く我々にとって一日とは微々たる時の流れなのだよ、ユスト。」
「いちいち気に掛けていられないわ。ユスト、あなたは細かいのね。」
半分はでたらめであり、半分は真なのであろう。両親を模した二匹の黒蛇の回答に対し、彼らに人間としての見解を期待した己が過ちであったとユストは失念と自嘲が折り重なった笑みを零す。鼻腔から二回息が漏れ、音を発した。
「あと、イルサーシャは何処でしょうか?」
肘掛けに載せた手をそのままにユストは部屋を見渡していた。空気が澱んでいるのか、時が流れるのを怠っているのかと思わせる空間にイルサーシャの姿は見当たらない。およそ五年前にユストの生き方に変化を与え、命尽きるまで共に過ごさなければならない存在に気を掛ける息子に両親は互いの肩を抱き締めている手を緩めずに口を開いた。
「マナエグナの巫女は依然元気にしている。だが、彼女がここにはいないのは何故だ?」
「彼女なら相変わらずよ。でも、あの子がここにいないのはどうしてかしら?」
またしても謎掛けの時間かとユストが思う中、アウグスト・バレンタインとマリア・バレンタインの両肩の感触を確かめ合う手に力が抜け落ちた。彼らはベッドから身を乗り出そうとしている。すかさずユストは剣を握る為の左の掌を前に突き出し、動かない様にと二人に抑制の意思を示した。ユストの言葉を用いるのであれば、息子は父母の裸体を見たくないのであろう。
「どうぞそのままで話を続けませんか。」
低く男らしい息子の声に両親は内心で首を傾げていると表情で語り、彼の意思に従って身を乗り出そうとする動きを止める。そして息子が普段する様に共に鼻から溜息を漏らした。
「先程語った様に、ここはお前の魂なのだよ。」
「あなたの魂の奥底に佇む世界にわたしたちはお邪魔しているのよ。」
「聞け、ユスト。魂の奥底とは己の中で最も落ち着く場所だ。」
「いいですか、ユスト。最も落ち着く場所とはあなたにとって苦しみや憎しみとは無縁の場所。」
「そこに我が求める苦痛は見当たらない。」
「わたしの好きな悲愴もこれっぽちすらないわ。」
ユストを凝視するアウグスト・バレンタインとマリア・バレンタインは再び溜息を漏らす。先程のものよりも重く、深いそれをユストは感じ取っていた。
「つまり、お前の魂の奥底はマナエグナの巫女を描かなかった。」
「あなたにとってマナエグナの巫女は落ち着く場所ではなかった様ね。」
「常にお前に真摯な彼女が哀れではないか。」
「いつもあなたに一途なあの子が可哀想よ。」
「彼女を悲しませるのなら、やはりお前を喰らうべきか。」
「あの子の胸の裡が涙で満たされるのなら、あなたを頭から呑み込むまでよ。」
御二人の意見は判りましたとユストは軽く頷くと立ち上がろうとした。しかし、牝牛の革を用いた座り心地が感慨深い使い込まれた椅子から背中が離れない。手足の自由は利くが腰に力は入らず、椅子と同化してしまったかの様な錯覚が拭えない。驚きと不審を僅かに目許で表現し、ユストは組む脚を入れ替えた。
眠りから覚めたと思うものの、そこはまだ夢の一部であった、と信じたい。夢の中とは己が描くにも拘らず、概ね己の思う様に進まないものである。目の前のあられもない姿を晒す父母を模した存在たちは魂の奥底という表現を用いたが、肉体が消滅し、死んだ覚えもない。これも常軌を逸した黒蛇たちに怖れを心知らずに抱いている結果なのだろうかと思われる。室内だけに普段身に纏う黒いコートは身に着けていない。ぶ厚い雲に覆われた澱んだ空模様を思わせる色合いのシャツにもイルサーシャが好む百年香の移り香は存在する。だが、今はそれを感じ取れず、マナエグナの巫女を描かなかったと残念がる父母の言葉が脳裏を過ぎった。
「ユスト、目を閉じろ。」
「目を閉じなさい、ユスト。」
当て無き思慮に耽るユストにアウグスト・バレンタインとマリア・バレンタインは何かしらの展開を示唆しているのだろうか。疑問すら感じず、ここは彼らの考えに従うべきだと恭順の意思を覚える事無く、言われるがままにユストは目を閉じた。左右の肩に異なる感触の手が置かれた。片方は堅く頼り甲斐のある大きさをし、もう一方は柔らかで慎ましやかな小ささが伝わる。父母の手と判っていても人肌の温かさは感じられず、剣霊の冷たさも走らなかった。無味乾燥という言葉が思い浮かび、この場所に安息を見出すのはまだ早いと感じ得ない思いがふつふつと湧き上がる。目を閉じたユストが口を開こうとする中、両肩に置かれた手のそれぞれの指が動いた。それはとても優しく、力強く感じられた。
「そうだ。マナエグナの巫女がお前を待っている。彼女に応えるのがユスト、お前の役目だ。」
「物分りがいい子ね、ユストは。マナエグナの巫女との時間をよく噛み締めて理解するのがあなたの務めなのよ。」
「つまり今のお前は彼女と共にする以前の過去を捨てねばならんのだよ。」
「それまでの一切合切を捨て去るの。」
「出来ないのであればお前は今後の道を歩めなくなる。」
「あなたの命は終わってしまう、と言えば良いのかしら。」
目を開いたユストの肩を擦る父母は衣服を身に着けていた。生まれた時から、幼少期から、成人を迎えて国家の軍属となった時から、そして最後にその姿を見た時と変わらずに二人は小奇麗で無駄な装飾を省いた装いを身に纏っている。
「何をすれば良いのか、イルセリアに助けられたお前なら判る筈だ。」
「イルセリアが認めたわたしの息子ですもの、判って当然よね。」
「そもそも人間の魂とは美味いものではない。様々な感情が入り混じって奇妙な味がするのだ。」
「恐らくユスト、あなたの魂も奇妙な味でしょうね。」
「先にマナエグナの巫女の命に従い、我々はエジュ・エジェ城塞なるものにこびり付いた人間の魂を喰らいに喰らった。」
「正直なところ、わたしたちは人間の魂には飽きたの。」
「次に会う時、お前の魂がマナエグナの巫女を迎い入れるのを楽しみにしている。」
「ごきげんよう、ユスト。マナエグナの巫女とよしなにしなさい。」
一方的に口を開いていた父母は別れの時が来たと告げている。ユストは両肩を擦る手に己のそれを重ねようとするものの、意識が遠退き、額に冷たい感触がじわりと広がりつつあった。まだ聞きたい事がごまんとあるにも関わらず、目の前の光景が霞み始める。彼らの言う魂の奥底から開放されるのか、単に夢から覚めんとしているのか。身体が宙に浮く感覚と重力に押し潰されそうな違和感が同時にユストを覆い、遂に彼は繋ぎ留めていた意識という手綱を手放した。
未だに額に冷たい感触が残っていると気付いたのはどれくらいの時の経過を以て知り得たのかは判らない。ただ、その冷たさの中に女の肌特有の柔らかさが混ざり、それが誰によるものなのかが徐々に判り始める。額に置いているであろう掌は右であり、大きさ、関節の長さ、不規則な孤を描く人差し指の腹の感触はおよそ五年前に契約を交わした剣霊だと教えてくれる。
イルサーシャ、君か。
現実の世界では喉が震えようとも音として発せない。だがその現実が妙に安堵を与えてくれるのをユストは改めて実感していた。
「ユスト、心配したぞ。」
耳に慣れ親しんだイルサーシャの声はユストの口許に柔らかな微笑の形を作らせたが、その中に疑問の形も含まれていた。
(あぁ。君には常々感謝しているよ。ただ君を霊体に戻した覚えが愚生にはないのだが…。)
さも不思議な事を言うとイルサーシャの僅かに持ち上がった細い眉が教えてくれる。彼女にとって温かな額の上で不規則な孤を描く人差し指が動きを止めた。
「何を呑気な事を。我を霊体になれと指示を出したのはユスト自身ではないか。それよりもだな、一大事だ…。」
だからその様な覚えはない、とユストが音無き声を発するよりも早くイルサーシャは口を開いた。契約者の疑問を解消させるよりもまずは己の中で蟠る訴えを言葉にしたいとする剣霊の不規則な孤を描いていた人差し指が離れる。右の横髪、そして左の横髪を交互に耳に掛けた。形の整った白い耳が露になるものの、ユストにとって普段目にしていた光景と比べて違和感が生じるのに時間は要さなかった。
「我の従者たちがいないのだ。エジュ・エジェ城塞の内部から姿を消してしまった。そなた、あやつらの行方を知らないか?」
イルサーシャの奥深い緑色の瞳は動揺と憔悴を湛えている。相対する者へ見せつける険しさと冷たさ、誰にも抗わせない孤高の刃を思わせる眼光は消え失せ、剣霊らしさは微塵も感じられない。感じ取ろうとするのであれば、しなやかな横髪が耳に掛けられた際に発した百年香の爽やかな香りぐらいか。視界はイルサーシャから天井へと移り、首から上を持ち上げて周囲の様子からここは何処かと探る。ル・ゾルゾアが無断で間借りした空き家の居間であり、エジュ・エジェ市街地の潜伏先であった。薄汚れた窓から伺える星の瞬き加減と欠けた月の角度からして日没を過ぎてそれなりの時間が流れていると思われる。長い年月の間そのまま使い込まれた板貼りの床とユストの体の間には気休め程度の柔らかさを提供してくれる質素な敷物が用意され、掛ける毛布の代わりに己が羽織る黒いコートが胸から下を覆っている。持ち上げた首を元の位置へ戻したユストは左の人差し指を二回動かし、顔を近付けろとイルサーシャを促す。白銀の長い髪が揺れ、そこに先程動かした左の人差し指を絡み付かせた。
(その前に、愚生はいつからこの状態であったのか教えて欲しいのだが。)
絡まる人差し指に親指を添え、普段と変わらずに詰る。果たしてこの普段の仕草は何時以来の事だろうか。
「八日前だ。」
イルサーシャの返事は詰る指を潤滑油が切れた機械の様に固まらせる。数秒の沈黙の後に現実を受け入れた詰る指は元の様にのんびりと動き始めた。
(テウヌス・イーハンはどうした?)
「そなたが深手を負わせたのであろう?その後、姫君自らが引導を渡そうとしたが、逃走したらしい。エジュ・エジェ城塞内の数箇所にあの者の血痕が確認されておる。ただ、亡骸は見当たらず、身に着けていた鎧と兜が異形の有様で発見されたが…些か不可解な点がいくつかあるものの、既に息絶えたと見て間違いはなかろうな。」
(して、ル・ゾルゾアの具合は?)
「案ずるな。命に別状はない。」
そうか、と音無き声を発する口を動かしたユストは普段の仕草を続けた。
間借りしている空き家の居間の暖炉は焚かれていない。以前、焚けば昇る煙が人目に付くとル・ゾルゾアの提言をイルサーシャは覚えていたのであろう。風雨に耐える頑丈な壁に囲まれていようとも肌寒さは北部王立国家の冬の風物詩とも言える。剣霊の肌は冷たくとも、契約者の安否を見届ける心をその冷たさと比較するものではない。板貼りの床に楽な姿勢で腰を降ろしているイルサーシャが語る八日間の出来事にユストは耳を傾けた。
イルサーシャが剣体から霊体へ戻ったのは晴れた夜であり、彼女に指示を出せるユスト自身は公共広場の古めかしいベンチに腰を降ろしていた。声を掛けても反応を示さず、肩の辺りを揺すっても目を開かなければ声を出そうとする素振りも見せない。イルサーシャの貧弱な力を嘲笑うかの様に首に巻き付けたスカーフに皺が走るだけである。気を失っているとも眠りに就いているとも表現がそぐわない様子と言えた。この場にいては埒が明かないと思うものの、実体である剣の重量しかないイルサーシャにとってユストを抱えて移動するのは不可能である。しかも白銀の長い髪は垂らしたままであった。通り掛かりの者に助力を求めようにも成人を迎えた女は公の場では髪を束ねるが嗜みとする北部王立国家だけに剣霊と怪しまれる可能性も否めない。かと言え、髪を纏めて苦痛の表情を作るのは御免被りたい。さてどうしたものか、と夜空を見上げるしか出来ないイルサーシャに星々の瞬きが新たな展開を用意してくれた。
一頭の馬の嘶きが夜空に目を細める剣霊の耳に届いた。その嘶きは牝馬によるものであり、イルサーシャに感嘆の言葉を吐かせた北部王立国家屈指の名馬に他ならない。つまり名馬の上で手綱を操る人物は唯一の者であり、このエジュ・エジェの地にて最も頼りになる者でもある。首に一重に巻き付けた白金の束ねた髪が揺れては淡い月光を撥ね返し、纏う黒いケープの端が波を打つ。跨る名馬の目許を覆うたてがみは踊り、強靭な脚が奏でる力強い響きの前にイルサーシャは止まれと両腕を広げて立ち塞がった。
イゼリアーシェ・ヴェルリンクはその日最後の公務の一つである孤児院の慰問を終えていた。また、エジュ・エジェ城塞へ赴き、己の剣霊の奪還に成功したユラン・エレエより報告を受けると同時に単騎でル・ゾルゾアが無断で間借りしている空き家へ彼女は向かっていた。飛び出したイルサーシャに気付いたイゼリアーシェ・ヴェルリンクは手綱を引き、豊かなたてがみのぺべの前脚が持ち上がる。愛馬を自在に操る勇ましい姿の王女殿下は弾む息を白く吐き、王者の涙相を表す目尻の黒子とは対となる目の付け根から涙を惜しみもなく流していた。ル・ゾルゾアが斬られた事を知っての涙だと察したイルサーシャは下唇を噛んで同情の表情を夜空の許で見せたが、騎乗したイゼリアーシェ・ヴェルリンクには暗くて読み取れなかったかもしれない。
ユストを姫君の前か後ろに乗せてくれないか、ぺべなら強く優しいからユストを振り落とさずに問題なく走れる、とイルサーシャが一気にまくしたてて懇願する。拒否する理由など見当たらなく、また剣霊の真摯な姿に胸を響かせたイゼリアーシェ・ヴェルリンクは迷わずに首を縦に振った。古ぼけたベンチに力無く座るユストを前にイルサーシャの言葉を読み取ったぺべが膝を折り、イゼリアーシェ・ヴェルリンクがユストの後ろから両肩を押す。この際に彼女は何か思い当たる節があったのか、両肩を押した己の手を見つめていたのをイルサーシャは記憶の片隅に残していた。前のめりに倒れ込むユストをぺべの毛並みの良い頼もしい背中が受け止めた。一足お先に、と王女殿下は簡潔な言葉を残して再び愛馬に跨り、鐙で腹を軽く蹴られた牝馬は先程と同じく力強い響きをエジュ・エジェの静かな夜に木霊させた。
独り残されたイルサーシャは徒歩で運び込まれたユストの許へ向かうしか手立てはない。剣霊は契約者以外の生ける者に触れられず、豊かなたてがみのぺべがいくら力強かろうとも例外ではない。
剣霊使いであるユストの姿を大衆に晒される様子を指を銜えて見ている状況からは逃れられた。さしあたりの問題から開放されたイルサーシャは安堵を覚えたのか、横髪を耳に掛ける。そこに二匹の黒蛇である従者たちの姿は見当たらない。エジュ・エジェ城塞深部の壁に彼らを貼り付かせたままであるとイルサーシャは思い出したが、今はまずユストの許へ行くべきだと歩める爪先の向きを変えずに前へ進む。同時に己のピアスのみならず、幾つかの違和感がふつふつと生じている事に彼女は気付いた。
王女殿下は騎士の証である祖父から贈られた細身の剣を佩いていなかった。また、必ず手の届く位置に佇ませていた愛玩の毛皮を用いた帽子を被っていなかった。彼女の憧憬の対象であり、心臓を心地好く締め付ける存在であるル・ゾルゾアの負傷に気が動転して一目散に駆け出した結果なのか、あるいは己が剣体となっている間に様々な進展が繰り広げられたのか。組む腕をそのままに歩けば、時折吹く風に垂らした白銀の長い髪がなびき、黒い幾何学模様を描くドレスの端が畝を作っては消える。ただ確実に判るのは対峙していたテウヌス・イーハンをユストが撃退した事だろうか。目を開かないものの、ユストが外傷を負わずに無事であるのが何よりの証拠である。歩む脚を止めずにイルサーシャは天を仰いだ。瞬く星々は次なる道を示さない。剣霊の思惑を気にせずに、独りであるのが寂しくならない様にと柔らかに儚げな光を届けてくれるだけであった。
(で、君と王女殿下の二人で愚生を引き摺ってここまで運んだ、と?)
ユストは寝そべる体の角度を変えず、また起き上がろうともしない。手入れが行き届いていない空き家だけに視界に飛び込む天井の模様とは薄暗く、奇妙なしみが広がり、今のユストには不思議な事に落ち着く模様に思えた。
「いや、遅れて来たユラン・エレエがル・ゾルゾアを助けた時と同じくそなたを担いだ。無論、姫君の命令で渋々といったところだがな。」
白銀の横髪を詰る二本の指が徐々に動きを鈍くさせている。この場に運んだと表現するよりも、この場に投げ捨てられたのだろうとユストがその時の様子を脳裏で描いているのをイルサーシャは目を細めて眺めていた。それよりも、とイルサーシャが言葉を続けんとする中、横髪を詰る二本の指が離れ、胸ポケットへ移る。意識を失っていた八日間分の出来事を聞くにあたり、まずは一服つけさせてくれ、とユストの見上げる視線が訴えている。煙草を嗜まない剣霊に許可を得ようとする訳でもなく、シャツの胸ポケットの中に指が消えた。盾の紋章を中央に鎮座させている黄ばんだ紙箱を取り出す。銜え煙草のユストはマッチを求めて今度はズボンの右ポケットに手を入れる。そして再びイルサーシャを見上げた。
ズボンの右ポケットにはユストが欲するものではなく、イルサーシャが探し求めていた存在が忍んでいた。掌に乗せた一対の黒蛇のピアスは北国特有の寒空に華を添える星明りによって薄暗い室内に晒された。剣霊と契約者、差し出した側と差し出された側は黒蛇のピアスが撒き散らす睥睨に対抗するつもりでは無いが、共に訝しげな表情を露にした。
「おいユスト、そなたがこやつらを操ったのか?」
ユストは身に覚えが無いと首を横に振った。
「こやつらをエジュ・エジェ城塞の壁に貼り付かせたのは我だ。そなたが戻れと言ってもそ知らぬふりをすると思うのだが…。」
深まりつつある謎を明かすにはイルサーシャが言うところのこやつらから聞き出せば良い。ユストの掌の上にある黒蛇のピアスをイルサーシャは奪う様に受け取ると交互に耳に着けた。だが、これまでに何があったと訊ねようとも彼女の従者たちは静観を保っている。何かしら都合が悪いと彼らはだんまりを決め込むのは五百余年を経て重々承知している。左右それぞれ形の異なるピアスをイルサーシャは弾き、鼻を鳴らした。
「ユストといい、姫君といい、こやつらといい、どうにもこうにも釈然としない事が多過ぎて判らんな。」
溜まるばかりの鬱憤を吐き出したイルサーシャの深い緑色の瞳が居間の端にある質素な扉へ向けられた。ぎこちない音が彼女の動いた視線より僅かに遅れて奏でられ、勝利を至上の矜持と抱く剣霊が姿を現す。楽よりも怠惰さを滲ませる姿勢のユストは上半身を起こし、イルサーシャは彼の肩に手を添えた。
「あら、意識が戻ったのね。水入らずの時間を邪魔してしまったかしら?」
ブリスタンの甘く艶やかな声は相変わらずだが、その表情は契約者であるル・ゾルゾアの安否を祈り、それまで費やした時間と代償が見え隠れしている。人間であろうと剣であろうと、心を痛めた女の姿とは掛ける言葉に躊躇を伴わせる。ユストは彼女の黄金色の瞳を一瞥してからゆっくりと首を横に振った。
「ルが休んでいる中、何処かのいびつなじゃじゃ馬がお構いなく騒いでいるものだから、たしなめようと思っていたけれど…目を覚ましたあなたを見て納得したわ。」
流麗な目尻を細めるブリスタンは腕を組み、首を僅かに傾げた。豊かな黄金の髪が重力に添って揺れ動く。数ヶ月前に互いの任地にて遭遇し共に戦った剣霊は閉めた扉に背中を寄り掛けさせた。
「あなたに聞かれる前に言っておくけど、ルは深手を負ったわ。幸いな事に彼を担ぎ込んでくれたユラン・エレエが応急処置を施してくれたお蔭でようやく少し落ち着いたところよ。ただ、以前の様に剣体となった我を存分に振り回すのは難しいかもしれないわね。」
剣を振るとは肉体の全てを用いるとユストは理解している。ブリスタンの言葉が意味するところを突き詰めるのであれば、背中を斬られたル・ゾルゾアは一命を取り留めたものの、何かしらの障害を背負う事となった、と解釈出来る。彼は剣霊の使い手としての生命を終えてしまうのだろうかとユストの中でぶつけ様のない憤りが湧き上がるものの、当のブリスタンはユストが自我を喪失した時間を過ごしている間に幾度となく同じ憤りを味わい、現実を噛み締めていたに違いない。ようやく少し落ち着いたとは、一対の男女の体と心を示していた。
「いろいろあったのよ、あなたが意識を戻すまで。」
視線を伏すブリスタンは口角を優しく持ち上げる。ユストは肩に置くイルサーシャの手に己のそれを重ね、ブリスタンの話に耳を傾けた。
ル・ゾルゾアの許へ愛馬の疾走と共に駆けつけたイゼリアーシェ・ヴェルリンクは彼の傍らに立つブリスタンの存在など気にせずに横たわる男の上に泣き崩れた。微弱に震えながら上下するか細い両肩と胸を締め付ける嗚咽が響く中、ブリスタンは静かに白金の束ねられた髪の先端を眺めていた。この髪の内側にある顔を出会い頭に見た瞬間に、この者こそが探し求めていた王女殿下であると王者の涙相が教えてくれた。八百年前に人間であった頃、恋する女であった記憶と感情、そしてうっすらと残る肌と肌が触れ合っていた感触がブリスタンの中で一気に蘇る。顔を上げろとも泣くなとも言えず、また愛情を込めて頭を撫でる事は不可能である。剣霊であるブリスタンに出来るのは唯一つであり、彼女は躊躇いを見せずに行動に移した。
八百年前の想いと共に耳に心地良い旋律が奏でられた。もの悲しくも柔らかであり、傷付いた心を包み込む調は震える肩に落ち着きを取り戻させ、嗚咽を鳴り止ませた。その歌は、と顔を上げるイゼリアーシェ・ヴェルリンクにブリスタンは人前では滅多に見せない自然な笑みで応えた。
『今から凡そ八百年前、とある男が恋に盲目になった女へ捧げた贈り物よ。あなたにはどう聴こえたかしら。』
『何故あなたがその歌をご存知なのですか?私の母方の祖父が代々聞かされていたその歌を何故…?』
感情に支配された者の言葉を終えたイゼリアーシェ・ヴェルリンクは我に返ると豊かな黄金色の髪と絶妙な曲線のみで構成された勝利の剣霊の立ち姿に数秒ほど茫然と見とれ、気恥ずかしそうに俯いた。
『ごめんなさい。ゾルゾアさんと契約した剣霊の方ですよね?見苦しいところを見せてしまいました。』
『構わないわ。我の分まで泣いてくれれば、だけど。』
顔を俯かせたまま怖いもの見たさに似た濁りとは無縁の灰色の瞳が見上げ、懐かしさに心躍らせた見下ろす黄金色の瞳が交差した。
『最も大切な贈り物は己の中に仕舞い込まないで次の世代に継がせるものなの。その教えが代々守られていて我は嬉しく思うわ。』
『それはつまり、あなたが私の先祖とでも?』
『えぇ。我は子を宿せなかったからあなたと血の繋がりは無いけど、巡り巡った我の教えがなによりの証拠よ。さしずめあなたは我の雲孫ってところかしらね?』
剣霊特有の細い人差し指が腹を上にして王女殿下に向けられた。立ちはだかる全てを屈服させ、蹂躙する斬撃を放つ指であると向けられた者は知らない。少なくともそこに命の遣り取りを繰り広げてきた殺伐とした雰囲気を漂わせていないのだから、知る由もない。
『ならばあなたは私の遥か先の…お婆様なのですか?』
『お婆さん呼ばわりはちょっと、ねぇ。あなたの可愛らしい双子のお友達に小母さんと自ら言ったのを後悔している真っ最中だというのに。』
彼女の契約者が行う様に肩をすくめて見せる剣霊に王女殿下は短い微笑を誘われた。横たわるル・ゾルゾアの力無く垂らしている手が濁りとは無縁の灰色の瞳に映る。王女殿下は両手を使って握り締めようとするものの、躊躇いの色を滲ませた。腹を上にした人差し指が半回転し、今度はル・ゾルゾアの垂らしている手に向けて握り締めてあげなさいと二三度動かした。
『有難う御座います。私の名前は…。』
ル・ゾルゾアの垂らしている手に向けられていた人差し指が持ち上がり、イゼリアーシェ・ヴェルリンクの顔の前で五指が広がりを見せる。剣霊らしく汚れや傷もなく、すらりと伸びた手は喋らなくとも良いとその場の空気を制した。
『えぇ知っているわ、イゼリー。あなたは今の世にあの人と同じ王者の涙相を持って生まれた者ですもの。』
イゼリーと愛称で呼ばれたのもさることながら、この剣霊も王者の涙相について、そして過去に王者の涙相を持つ者の詳細を知ると仄めかしている。ル・ゾルゾアの手をそのまま握り締めながらイゼリアーシェ・ヴェルリンクは身を乗り出した。
『お婆様の御名前は、もしかしてブリスタン・トリスティア、ですか?』
『あら、我の人間であった時の名前を知っているなんて。』
『過去に王者の涙相を持つ者が愛した女とは、お婆様の事だったのですか?』
ブリスタンはすぐには答えない。身を乗り出したイゼリアーシェ・ヴェルリンクの晒された耳許に麗しい唇を近付けると、彼女は王者の涙相の秘密について囁いた。剣霊の唇が半開きの状態で動きを止め、王女殿下は顔を火照らせる。予想通りの表情であったのか、ブリスタンは両目尻の切れをさらに伸ばした。
「何だ、その秘密とやらは?もったいぶらずに教えろ。」
ブリスタンの話を退屈そうに聞いていたイルサーシャが口を開く。話している間、彼女は左右のピアスを弾いていた。ユストの勘定に間違いがなければ、左右それぞれ三回ずつであった。
「知りたいのかしら、知識欲旺盛な割には無知でいびつなじゃじゃ馬さん?」
「我ではない、ユストが是非とも知りたいと言っておるのだ、お婆様。」
剣霊同士が卑屈な笑みを見せ付け合う中でユストが出来るのは呆れた表情で鼻から溜息を漏らす事しか残されていない。ブリスタンはユストの願いなら、と前置きをしてから再び口を開く。王者の涙相とは左右の目尻の下の黒子を指して今日に伝えられている。だが実はもう一つの特徴がある。へその左右にも同じ様に黒子があると公では知られざる事実を明らかにした。
「イゼリーのもう一つの王者の涙相をじっくり鑑賞出来る人は誰なのかしら、と囁いたのよ。」
「ふうん、黒子か。確かに姫君たる者がおいそれとへそを晒す訳にはいかんな。」
「ところであなた、ユスト・バレンタインの黒子の数と位置を正確に答えられる?」
「当り前であろう?数は…そうだな、二十八だ。」
「へぇ?じゃあ何処にどうあるのかしら?」
餌を付けていない釣り針に魚が喰らいついたと言わんばかりにブリスタンはほくそ笑んだ。
「腕に九、脚に六、背中も同じく六、腹と胸に五、顔は三…だ。」
勇ましい口調がしどろもどろとなり、ユストの肩に添える手の先端が不規則な孤を描き始めている。即答した二十八に対し、各部位の合計が合致していない。ふとした挑発に対抗心が織り成した咄嗟のでたらめに当のイルサーシャは苦い表情を作り、腕を組むブリスタンは首を傾げて勝ち誇った微笑をさらりと零す。この場にル・ゾルゾアがいればトウラドオク城址にて出会った頃と同じなのだが、とユストは数ヶ月前の一時を懐かしんだ。ル・ゾルゾアの生命に別状はないと聞いているが、剣を振るえるかどうかは判らないと聞かされた。それは剣霊使いとしての生命を絶たれたと解釈するべきなのか。また己が同じ状況を甘受せざるを得なくなった場合、イルサーシャと己は互いをどう扱うのだろうかと暗い想像が駆け巡る。
「ところでユスト。その後なのだが…。」
嘲笑の対象になるのを拒みたいのか、沈んだ面持ちのユストに気遣ってなのか、この場の雰囲気を変えたいイルサーシャはとある一点を指差した。ル・ゾルゾアが安静にしている寝室へ通じる扉の脇である。飾り気のない壁に一条の亀裂が斜めに走っている。彼女に言われて初めて気付いたが、経年劣化によるものではないともユストは理解している。言うなれば何かしらの衝撃、恐らくは剣霊が繰り出した斬撃がもたらした結果としか思えない。
ハガンによるものだ、とイルサーシャは簡潔に答えた。彼女はユストの肩に置く手を離し、使い込まれた食卓に体よく潜り込ませている木製の質素な椅子の背もたれに寄り掛かり、事の次第を語り始めた。
王女殿下の後を追った世話役と若き双子の剣霊、そして刹那の剣霊がこの間借りしている空き家に到着したのはイルサーシャが徒歩で辿り着いてから三十分が経過した頃合だったという。気配はもとより、ユラン・エレエの息を切らす音に気付いたブリスタンは来訪者を迎えるべくル・ゾルゾアを看取る寝室の扉を開けた。彼女にとってエジュ・エジェ城塞の深部にて遭遇した面々の中に知らない存在が混ざっている。烏の濡れ羽色を思わせる髪を無造作に結い上げ、見慣れない衣服に身を包ませている。過去に滅び去った民族の装いかと勘繰るのと同時に彼女も剣霊であると答えが導かれる。ブリスタンが普段と変わらずに首を傾げ、黄金色の豊かな髪が揺れる。悲哀と不安に満ち溢れる空き家の中で黄金色の煌きが放たれたその刹那、凄まじい殺気が迸った。
右腕を斬り上げた姿のハガンをその場に居合わせた誰もが見つめていた。剣霊の眼差しと剣士の視線が緊迫した空気を成し、その流れに変化を与えられるのはハガンのみに他ならない。結い上げた髪の先端に彩りを添える亡き恋人からの贈り物が角度を変え、薄汚れた窓から僅かに差し込む月明かりに反応する。僅かに遅れてブリスタンが纏う黒の薄絹に新たなスリットが刻まれ、背後の壁に深い亀裂が走った。
『あなた、はじめましての挨拶にしてはがさつ過ぎないかしら?』
剣霊同士が剣蹟を刻み合わなければならないのか。緊迫の空気に染まろうとする中、余裕の笑みを見せ付けるブリスタンに対し、ハガンは斬り上げていた右腕を降ろすと体の前に両手を重ね、軽く会釈した。
『今無きエタウィからの挨拶と受け取って頂いても構いませんわ。』
八百年前に滅び、記録にも残されていないエタウィという響きはブリスタンの細い眉を動かし、黄金色の瞳に表情を与える。あなたの契約者を大事になさい、と言葉を残してハガンは踵を返した。イルサーシャは彼女を追い掛けようとしたが、その行動を妨げるかの様にイゼリアーシェ・ヴェルリンクが姿を現した。充分過ぎるほど潤った濁りとは無縁の灰色の瞳を一同に向け、独り居間から退出しようとしているハガンが映る。ハガンは毅然を保っているつもりだろうが、その後ろ姿は居た堪れないものが自然と滲み出ていた。
お辛いでしょうね、と王女殿下は独り囁いたのをイルサーシャは聞いたという。
「ま、流石のお婆様とてハガンの斬撃の前では微動だに出来なかったという訳だな。」
「あの民族衣装のちんちくりん、わざと狙いを外していたから動く必要がなかったのよ。その程度の事もこのいびつなじゃじゃ馬は判らないのかしら?」
「ほぉ。では更に風通しが良くなったそれはどう説明するつもりだ?」
イルサーシャは侮蔑の眼差しを伴ってブリスタンの体を包む黒い薄絹に新たに刻まれたスリットを指差した。
「我の魅力に磨きが掛かって良いじゃない?あなたもあのちんちくりんにお願いして真似してみたら?でも貧相な体を見せられてもねぇ。」
「なんだと!これでも我はなぁ…。」
あとは姦しい水掛け論が始まるだけであると悟ったユストは立ち上がるなり、燭台の脇に置かれたマッチに手を伸ばす。久々に灯した煙草がくゆらす煙に混じって呆れの溜息を無音で吐く。足許がややふらつくのは八日ぶりに筋肉を動かした為なのか、八日ぶりの喫煙による立ちくらみがもたらしたのか、と我ながら新たな発見でもあった。ユストはその様な脚を動かし、書斎へ通じる扉の表面を軽く叩く。この空き家に於いて書斎はハガンが利用すると割り当てられた。彼女はこの奥で独り佇んでいるのだろう。気休めにもならないが、声を掛けるのも剣霊の契約者の義務とユストは脳裏に描いていたが、返事は得られなかった。
「ユスト、ハガンなら姫君一行と共にエジュ・エジェを去ったぞ。」
扉を叩いた手をそのままにユストの眼差しはイルサーシャへ動く。王女殿下は刹那の剣霊の剣体を目撃し、更に手にした事を正直に明かしたとイルサーシャは語った。人間の観点では他愛のない事でも剣霊からしてみれば大いに異なる。契約者でない者に剣体を見られ手にしたとなれば、剣霊は無情な一閃にてその者を害さなければならない定めがある。だがハガンは剣霊の定めを押し殺してイゼリアーシェ・ヴェルリンクの横に立つ事を心に決めた。
王女殿下とその一行がエジュ・エジェ市街地を去ったのはル・ゾルゾアが負傷した翌々日である。無論、イルサーシャとブリスタンは北部王立国家に於ける剣霊に対する視線を鑑み、見送りを控える事となった。蒼色ではなく銀色の鎧を装着した騎士たちに囲まれた二頭立ての馬車に王女殿下は乗り込んでいた。彼女の後ろ髪を引かれる思いに駆られている姿は容易に想像がつく。一行は間借りしている空き家の脇を通った。騎士たちが騎乗する馬は一定の調子を崩さずに蹄の音を石畳に奏で、続く徒歩の騎士が具足の重い響きを添える。馬車の車輪から発する軋み音が近付いては遠ざかった。イルサーシャとブリスタンは共に腕を組んで間借りしている空き家の壁に並んで寄り掛かり、何も言葉を交わさずに過ぎ去る音に耳を傾けていた。朝日がようやく顔を覗かせ、街が動き始める前の出来事であった。
ユストに課せられた今回の主たる任務は七十及び七十四の番号を与えられた者の剣霊の救出であった。一方のル・ゾルゾアは王位後継者たる王女殿下を為留めよと指示が明記され、ユストにも組織の壊滅という表現ではあるが同様の指示が仄めかされていた。結果として剣霊を忌み嫌う急先鋒である蒼き騎士の長たる者は倒れたが、代償としてル・ゾルゾアが負傷し、契約者を既に失っているハガンは彼女の事情により王女殿下と行動を共にすると判断した。そして王女殿下は公務を粛々とまっとうすべく次なる地へ去った。果たして任務を成し遂げたと見て良いのだろうか。疑問と釈然としない気持ちを抱くユストは食卓の椅子を手前に引き出し、そこに腰を降ろした。先程まで毛布代わりとなっていた黒いコートへ手を伸ばし、剣を銜えた鳩の透かしが施された上質な紙と携帯用の羽根ペンを取り出す。
今回の任務についてコノリギスの協会長宛に状況報告と陳情書を認める。君に依存はあるか?
中央の綴りでさらりと書いた文章をブリスタンに見せた。喉が震えないのであれば文字で意思を伝えるのは常套であるが、彼女が今の世の文字を解読できるのか不安が伴っていたのも事実である。だが、ブリスタンはユストの期待を裏切らなかった。
「無いわよ。ルが起きたらそう伝えておくわ。」
有難う、とユストは頷いて謝意を述べた。筋彫りが施された真鍮製の細い筒が廻しながら引き抜かれ、羽根ペンの先端が紙面に触れる。親愛なるエルスノア協会長、と記された後、程好い間隔を置いて本文が文字として走り始めた。古代文字しか読めないイルサーシャにとってユストが記す内容は解読出来ない。ただ判るのは今日という日がこのまま終わろうとしており、今回の任務も終焉へ差し向かっているという事か。ブリスタンもイルサーシャと同様に考えているのであろう。黄金色の豊かな髪に掻き上げる様に手櫛を一回入れた彼女は契約者が安静にしている寝室へ戻ろうと足先の向きを変えた。
一歩進んだところで彼女は振り返り、窓の外へ視線を飛ばした。ユストの横に立つイルサーシャも何かの気配に勘付いたのか、微動だにしない。敵か味方かは彼女たちにしてみれば漏れる殺気で容易に判断出来る。しかし、今回は違う。訝しむよりも有りえないとそれぞれ色の異なる瞳がそう教えてくれる。ユストの耳に複数の馬の蹄が石畳を蹴る音が聞こえ始めた。こちらに近付ている。そして空き家の前で馬たちの嘶きと共に石畳を蹴る音は止んだ。
「お婆様、預かり物を返しに参りました。」
空き家の玄関を開けるなり、黒いケープを纏ったイゼリアーシェ・ヴェルリンクはそう口にし、体の前に両手を広げて見せた。真鍮製の懐中時計が夜明かりに反応し、白金の髪とはまた違った趣の鈍い光を帯びている。懐中時計はあくまでも態の良い口実であるのは一目瞭然である。形振り構わぬ女心が勇み立った結果と判ろうとも剣霊たちは呆気にとられた表情をイゼリアーシェ・ヴェルリンクに晒していた。
次の公務まで数日間の猶予があるとイゼリアーシェ・ヴェルリンクは語り、返事に窮する剣霊たちを横目にユストは短くなった煙草を燭台の上で揉み消すと軽く頭を下げた。
「バレンタインさん、意識が戻られて安心しました。そう、あなたにもお返しする品がございます。」
王女殿下はユストとイルサーシャを交互に見ては優しげであり安堵の笑顔を振り撒く。彼女に何か渡した覚えはないのだが、とユストが己の顎に親指を添えようとする中、一つの足音が聞こえた。厳密には独りの足音と二振りの剣霊の気配である。
「ユスト・バレンタイン、何故イゼリアーシェ様の御部屋にこれがあったのか解せないが、貴様に返すぞ。」
クラウディアとラファエラを前に立たせているユラン・エレエは食卓の上に王女殿下が語ったお返しする品を投げた。濃淡のある赤い髪が僅かに揺れ動き、食卓の味わい深い天板の中央に落下したのはユストが日々使っていたマッチ箱であった。煙草を嗜むのはもとより、マッチ箱の表面に綴られている文字の語尾が中央独特の言い回しである点からして本来の持ち主がユストだとユラン・エレエは確証を得たのであろう。しかし、ユストとしては王女殿下が利用していた国営ホテルの貴賓室にわざわざマッチ箱を置いた覚えは皆目見当たらない。何かの弾みで落としたのだろうか。
些細な出来事の検証を始めても時間の無駄であり、言い訳をするつもりもない。むしろ因果の巡り合わせによるまたとない好機とユストは心のざわつきを感じ始めていた。任務は終焉を迎えようともやるべき事は残されていた。祖国の仇がわざわざこちらに舞い戻ったのである。マッチ箱を右手で掴んだユストは立ち上がり、ズボンのポケットに潜り込ませた。すでに王女殿下は負傷した剣霊使いが横になる寝室へ通じる扉を潜る事にしか頭にない。ユストの左手はイルサーシャの肩にある。
「ユラン・エレエ、意識を失った体をここまで運んでくれて感謝しているとユストが言っておる。」
男に謝意を述べられようとも女らしい表情を見せるユラン・エレエではないのを重々承知している。彼女は当時の様子を思い返しては毛嫌いするように鼻を鳴らした。
「イゼリアーシェ様がそうしろと指示したからだ。あとは貴様の剣霊が契約者を動かせずにまごついていたのもあったがな。」
「そこでついでではないが、一緒に外に出て欲しいそうだ。」
「ほぉ。仲良く寒空の下に出てどうする?」
ユストの内なる声にイルサーシャは困惑の色を差した。肩に置かれた左の指が鷲掴みの形をとり、彼女が纏う絹製のドレスに走る幾何学模様が不自然に歪み、深い緑色の瞳は物憂い色を注し始めていた。
「姫君がル・ゾルゾアを見舞われている間、そなたと星空の下で祖国の話をしながら踊りたい、との事だ。」
「なるほど。祖国を想う、か。」
「積もる話が山ほどあるそうだ。」
イルサーシャに語らせている言葉を補足しているかの様にユストは左の人差し指でユラン・エレエの体の一部を交互に指差した。そこはカエデの葉を模した透かしが施されている両腕に他ならない。
「踊るには相手が必要だからな。体を動かしたいと思っていた頃合だ。付き合ってやろう。」
この踊るとは紳士淑女の嗜みを指しての言葉ではない。剣士として剣を交える事を意味している。ゆっくりと大きく相槌を打つユラン・エレエも前に立つクラウディアとラファエラの肩に手を添えた。見上げる空色の瞳たちに女流剣士は言葉を投げず、肩に添えた手を緩やかに動かして擦る。若き双子の剣霊に戦いが始まりを示唆する動作であった。
王女殿下は踊る事の真の意味を理解していない。それ故に男嫌いを垣間見せていたユランにしては稀な応対をすると捉えていた。同郷の話とは二人の出身地である中央についてであろうと思われる。北部王立国家とは違う環境、異なる空気をお互いにその人柄と会話で懐かしむのも悪くない、と彼女は何も知らずに前向きに思い込んでいた。
一方のブリスタンは数多の戦いを潜り抜けた者らしく、これから始まるであろう一閃で決着がつく死闘を予測していた。だが、剣霊協会に所属する者同士が刃を交えるのは禁じられている事を彼女にとって初耳であったとは言い難い。組んでいた腕を解いたブリスタンは寝室へ通じる扉を開き、ル・ゾルゾアの様子をいち早く知りたい王女殿下へ手招きをして早くこちらに来る様にと促す。心の赴くまま駆け出したい中、いそいそと足を動かす王女殿下の姿が扉の向こうへ消えた時、ブリスタンはユストとユラン・エレエに向けて静かに答えた。
「我は何も聞かなかった事にするわ。好きにしなさいな。」
扉が閉まるぎこちない音が同国出身の剣霊使い二人の前に遅れて鳴り響いた。




