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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第三章 エジュ・エジェ城塞編
48/75

想念の拠り所

 黄昏時の国営ホテルの廊下は採光用の窓から差し込む斜陽により柔らかさよりも頼りなさへと移行していた。光明が徐々に喪失する空間とは重々しく悲しげな雰囲気に包まれる。これは何時の時代であろうと変わらない。大自然が織り成す景色の中で、変わるのは生物であり、特に人間という生物は生と死の遣り取りを常に繰り広げる。一介の剣霊使いと一人の騎士が距離を置いて廊下の中央に立つのを鹿の親子を模した彫刻が茫然と眺めていた。

「お主、何故我輩の後を追った?」

 一定の歩調で脚を動かすユストの後ろ姿は悠々としている。羽織る黒いコートの裾のゆれ具合がその様に語っている。だが、悠々とした中に隙が僅かにも見当たらないのをテウヌス・イーハンは直ぐに察知していた。故に先に口を開き、会話が可能となったユストの動向を窺う目論見である。二人の男の間を流れる空気も一触即発の闘志に震えんとしていた。

「燃ゆる剣の真贋を確かめに。」

「見ての通り人間には作り出せん代物だが?それよりもホテルの者たちがお主の様な身形を易々と通させるとは思えん。斬り払ってここまで辿り着いたか?」

「いや。」

「では如何様にして?」

「なに、この異教の男、足腰は日頃から鍛えているらしく多少の壁なら飛び越える自信があるそうだ。今回はそうさせて貰ったよ。」

「侵入者は斬られても文句は言えんぞ?」

「そうかもしれん。だが、此方こなたを斬るとはたいした自信だ。」

 歩む脚を止めないユストは厳かな黄金色の額縁の中に納まる絵画に顔を向けながら答えた。目を細めているが芸術をで、関心を示した様子は垣間見れない。眉間に走らせていた数本の皺が深くなった。俗に言うしかめっ面である。苦い思いを顔に表したと判断するよりも視力が著しく低下した者が視覚で物事を捉えようとする為の行動に似ているとテウヌス・イーハンは捉えていた。黒髪の剣霊使いは視力が悪いのかと、しかめっ面の横顔を惜しみなく晒すユストを注視する。あるいは絵画という心の具象抽象に注ぐ興味よりも、社会秩序から隔離して育てられた者が初めて絵画を目の当たりにする様な光景にも思えた。

「あとは匂いだよ。」

 ユストは歩む脚を止め、体の正面をテウヌス・イーハンへと向ける。貴賓室からおよそ百歩は進んだか。

「血と怒りの匂いに此方こなたはちと敏感でな。汝とその燃ゆる剣からだだ漏れだ。」

 手にする鍔無しの直剣を肩に担ぎ、鼻で笑いながら簡潔に答えた黒髪の剣霊使いに蒼き騎士の団長は憮然とした面持ちを晒した。

「お主は誰だ?あの男は喋れん。長い銀髪の剣霊が乗り移ったにしては雰囲気が少々異なる。」

「異教の子に此方こなたの名を語るつもりはさらさらないが。」

「どこの誰だと名乗れんか。蒼き騎士の団長たる我輩も随分と見くびられたものだな。」

 先程の返礼と言わんばかりにテウヌス・イーハンも短い苦笑を漏らす。だが、ユストは表情も態度も変化を与えず、肩に担いでいた鍔無しの直剣の角度を変える様相は見せない。

 彼は羽織る黒いコートの前身頃を右手で持ち上げ、鼻を隠す様に顔を埋めた。何かの香りを嗅いでいるのかと思わせる素振りであり、悪臭から逃れたいという行為とも見えなくもない。これから剣蹟を刻むであろうとする中で見せる余裕とも奇異とも言える行動は馬鹿にするのも程ほどにしろとテウヌス・イーハンに燃ゆる剣の柄を握る手に力を込めさせた。

「そうだ、それで良い。匂いが殊更芳しくなったぞ、異教の子。」

 先程から異教の子と、これまた聞き慣れない言葉を多用するユストは羽織る黒いコートの前身頃に鼻から下を埋めたまま、剣士の眼差しを蒼き騎士を束ねる者へ向ける。向けられた者は不覚にも音が鳴る程、そして自らに聞える程、喉を上下に動かした。

 人間が放つ殺気とは蒼き騎士を束ねる者にとってたかが知れている。人間よりも凄まじき殺気を放てる存在である剣霊のそれはこれまでに幾度となく目の当たりにし、肌に染み込ませた。彼女たちは冴える刀身と同じく冷たい刃を思わせ、絶命の淵に立たされたかの様な錯覚を催させる。先に白銀の長い髪を持つ剣霊との一戦に於いても同様の感覚を知り、対処し得た。

 だが、目の前に立つ黒髪の剣霊使いから放たれる殺気はその二種類とは違和感を感じる。動物的な荒々しさと有無を言わさぬ強欲さが折り重なっていると言えようか。相手に呑み込まれてはならない。テウヌス・イーハンは遂に燃ゆる剣を体の正面に構えた。

 呑み込まれるとは意外な表現を用いたものだと反芻しては猛る龍の顎を意匠とした兜越しにユストを注視する。人間で無ければ剣霊でも有らず。何が黒髪の剣霊使いを突き動かしているのだろうか、と様々な憶測が芽生える中、黒髪の剣霊使いも肩に担いでいた鍔無しの直剣を動かした。黄昏時に白銀の煌きが冴えると共に血抜きに頭をもたげた二匹の黒蛇たちの眼差しが異様に生々しく映る。

「お主、まさか蛇、ではなかろうな?」

 我ながら馬鹿な台詞を吐いたと思いつつもテウヌス・イーハンは戦いに挑む騎士の表情を保ち続ける。ユストは問い掛けに答えず、また馬鹿な台詞に失笑を零さず、鍔無しの直剣を逆手に持ち替えると顔の近くにある柄頭に右手を添えた。

「もし此方こなたが蛇であったらどうする、異教の子よ?」

「蛇であるが故にその異形な構えか。」

 剣を携える者であり、実戦経験を少しでも体験した者であれば誰もがユストの構えの欠点を明確に見抜ける。左から右への斬撃しか繰り出せず、逆手であるが為に切先が伸びきらない。逆手の構えは近接戦には有効な手段と言えるが、それはあくまでも短剣の部類に於いてである。彼が手にする鍔無しの直剣の刀身は彼と契約を交わした剣霊の髪と同じく長い。相手の懐に入って振り回すのは至極難儀である。やはり刀身の長い剣とはその長さを生かした戦い方でなければ威力を発揮出来ず、自由な角度からの斬撃や刺突撃を繰り出せない。その様な定石を打ち捨てたユストの姿はテウヌス・イーハンが言うところの異形な構えに当て嵌まる。しかし、見方を変えれば何かしらの策を練った末の構えとも考えられる。果たしてどちらだと己の中で問答するテウヌス・イーハンを見つめていたユストは瞳に闇を与え、静かに口を開いた。

「異教の子、蛇である此方こなたが一つ問おう。御身は何処で獲物を喰らう?」

 謎掛けのつもりか、とテウヌス・イーハンの眉が動く。だが、目を閉じたユストはその姿を見れず、また目を開いていたとしても猛る龍の顎を意匠とした兜の庇の中での出来事である。いずれにしろ目の当たりには出来ない。むしろ目の当たりにしなくとも判るとユストの口角の端が僅かに持ち上がった。

「口であろう?上顎を支えに下顎をひたすら上下に動かし、咀嚼という動作を行う。それが人間が獲物を喰らう際の動きだ。だが、蛇はひたすら呑み込むだけに過ぎん。」

「何が言いたい、お主?」

 痺れを切らしたテウヌス・イーハンの脚が動き、ユストとの距離が縮まった。互いの剣蹟が刻める距離にはまだ幾許かの余裕はある。いわゆる挑発を誘う行動であったが、ユストは目を閉じたままである。腕は言うまでも無く、脚を動かす素振りすら見せず、落ち着きを払っていた。

「口を剣に置き換えてみろ。異教の子が上から下からと如何様な斬撃を繰り出そうとも、此方こなたはたった一撃で確実に仕留めるという意味だ。」

 ユストの腰が僅かに落ちた。鍔無しの直剣が白銀の煌きを以て語るのに費やす時間は終わりだと告げている。テウヌス・イーハンも燃ゆる剣の柄を握り直し、切先をユストの眉間へ合わせた。やはり彼は目を開いていない。視覚よりも聴覚で相手の動きをくまなく正確に捉える算段だろうか。ならば、とテウヌス・イーハンは燃ゆる剣を脇の採光を主とした窓に向けて振った。青白き炎が放つ衝撃は北部特有の窓硝子にその厚さを誇る暇を与えずにひびを走らせ、粉々に砕けさせる。不規則な多角形による穴から冷ややかな外気が侵入し、耳障りな風のが二人の男に纏わり付き始めた。それでもユストの目に変化を与えるには至らなかった。

「悪あがきというやつか、それは?少しは出来る異教の子と思ったが、見苦しいにも程がある。」

「見苦しいとは言ってくれる。」

「あぁ。残念だよ。」

 時は満ちた。手にする無二の刃が対峙する者の肉体を斬り裂き、侵されぬ真理を喰い込ませるのはどちらか。

 落としていた腰をそのままにユストは一気に距離を縮めた。羽織る黒いコートの裾がなびき、白銀の煌きが角度を変える。テウヌス・イーハンも頼りとする燃ゆる剣の刀身を床と水平にし、黒きマントにはためきを与える。テウヌス・イーハンが横薙ぎの斬撃を繰り出す中、ユストも逆手による斜め下からの一閃を放つ。

 黒髪の剣霊使いの矜持と蒼き騎士の団長の尊厳が正面から激突する。相克する甲高い剣戟から始まり、それは勝敗を決する音でもあった。続いて刀身を貫かれた剣の悲鳴と硬質な鎧に亀裂が迸る響きが黄昏時の国営ホテルの廊下を彩る。青白き炎を纏う剣は刀身の中頃から先を二人の男の間に落とし、床へ切先を埋めた。白銀の切先はひびの走った蒼き鎧の右肩に潜り、勢いに任せて背面はいめんまで貫通していた。足許に刺さる儚くも役目を終えた刃に氷の冷たさを思わせる青い瞳は受け止め難い事実と狼狽の色を露にした。

「お主、燃ゆる剣を貫いたか…。」

 逆手による斜め下からの一閃は言うなれば蛇が鎌首をもたげただけに過ぎない。全てを呑み込まんとする口を開き、抗う全てを侵す牙を剥いたのは直剣の破壊力を最大限に発揮する刺突撃に他ならなかった。

 これまで黒髪の剣霊使いは手にする剣同士が交わるのを極力嫌っていた。理由は己の剣が痛むからである。テウヌス・イーハンも先の戦いでその様な彼の考えを読み取り、考えに則った剣の扱いをする者に対して読み取った者なりの戦法にて取り捌いていた。だが、今回は読みが外れてしまった。燃ゆる剣の妖しき揺らめきに臆せずに刺突撃を放ったユストは目を開き、鍔無しの直剣の柄頭に添えた右手に力を込めた。

「その燃ゆる剣には命が通っていなかった。」

「剣に命、だと?」

 白銀の刀身がテウヌス・イーハンの右肩に沈み、血抜きの上へ滑る様に溜まりつつある血が二匹の黒蛇を模した彫刻に向けて流れ始めた。

「そうだ。此方こなたが持つこの剣は潰えし民草の、とりわけ己の敬虔を貫き、身を捧げた数多の巫女たちの悲愴と苦痛が込められている。これを命と言わずに何と言う。」

 深く重たい色に染まる黒蛇を模した彫刻に視線を落としたユストの表情は得も言われぬ感情に身を寄せていると言わんばかりであった。

「剣を模した贋物は折れ、肩は深手を負った。異教の子よ、もう剣は握れようとも振るえまい。」

 ユストの右脚がテウヌス・イーハンの腹部を押し出す様に蹴った。蒼き鎧に包まれた騎士に追撃を加える為ではない。刺突撃を放った鍔無しの直剣を引き抜く為である。よろけるテウヌス・イーハンは膝を折り、握る燃ゆる剣の亡骸をかなぐり捨てた。 

「騎士たる我輩から剣を奪っておいて仕留めぬつもりか?」

 床に転がる燃ゆる剣から青白き炎が消え失せた。残ったのは手入れを怠った剣の様に見るも無惨な刀身であり、過去の衝撃的な出来事からこれまでの時の流れを語っていた。

「贋物を握り締めた時点で汝の命数は既に尽きていた。此方こなたがこれ以上手を下す必要も無かろう。」

 ユストは逆手に持つ鍔無しの直剣から滴る血糊を払った。飛び散る赤が薄暗い国営ホテルの廊下に佇む鹿の親子を模した彫刻に新たな色を添える。鞘を持たない剣を握り締め直したユストは貴賓室へ歩み始め、テウヌス・イーハンと横並びとなった時、足を止めた。

「異教の子、贋物を与えた者の所にでも戻ったらどうだ?」

 見下ろす眼差しは剣士のそれではなく、剣霊のとも言い難い。見開いた瞳は感情を表に出さず、些細な動きすら見せない。それこそ全てを呑み込まんとする大蛇を連想させる。贋物を与えた者と表現したからにはこの黒髪の剣霊使いは比類なき絶大なる力を有する剣霊の存在を知っているのか、とテウヌス・イーハンは右肩を押さえる左手に力を込めた。止め処なく流れ出る血と共に体温が急激に低下しているのが判る。それでもテウヌス・イーハンの色が暗くなりつつある唇は流血による乱れた呼吸を混ぜながら言葉を発した。

「右が駄目なら左がある。お主、今ここで我輩を仕留めなかった事に後悔するぞ?」

「今後汝に握る剣があれば、の話であろう?」

 見下ろす眼差しを元の位置に戻したユストは再び歩き始める。勝者となり得た男は先と同じく羽織る黒いコートの前身頃を持ち上げ、鼻から下を覆う。安堵を覚えたのか、深い息を漏らす。敗者に甘んじた男は覚束ない両脚に鞭を打って立ち上がった。両肩から垂れる黒きマントは血に染まり、更なる黒へと変化している。

 開け放たれた貴賓室の重厚で豪奢な扉に両手を添えて騎士と剣士の戦いを見守っていた者がいた。両手が空いている事からして剣体となったハガンを既に鞘に収めたのであろう。彼女は時折発しそうになった感嘆の声を押し殺して一方の剣がもう片方の剣を喰らい破る有り様を濁りとは無縁の灰色の瞳に焼き付けていた。歩むユストの姿が鮮明になるにつれて、どの様な言葉を掛ければ良いのかと迷う。結局、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは顔を横にして俯いたまま、小声で麗しい唇を動かした。

「バレンタインさん、助けて頂き有難うございます。お怪我は御座いませんか?」

 イゼリアーシェ・ヴェルリンクの直ぐ脇まで歩み寄ったものの、ユストは反応を示さなかった。

「あの…実は声が出せたのですね?少し驚きました。」

 やはり返事は無い。イゼリアーシェ・ヴェルリンクはちらりと覗き込む様に目だけ動かしてユストの様子を知ろうとする。

「追わんのか、異教の娘。」

 殿下と呼ばれ続けている者にとって異教の娘とはやはり耳を疑わさせる呼称である。返事に窮するイゼリアーシェ・ヴェルリンクを知ったユストは鼻から下を覆っていた黒いコートの前身頃を自然な形に戻すと後ろへ振り返り、言葉を続けた。

「命がまもなく消える。異教の子とはいえ、儚く切ないものだな。」

 ユストの落ち着いた声と細めた双眸は悠久の流れをも知っていると語っている。血糊を払った白銀の刀身は輝きを潜め、羽織る黒いコートに移り込んだ百年香の爽やかな匂いが唖然とする王女殿下の嗅覚をくすぐる。

 剣霊使いと騎士の戦いは幕を閉じ、黄昏時も同じく終わろうとしていた。


 気まずい雰囲気とはいとも容易く訪れる。それは端的に表現するならば沈黙と呼ばれている。どちらがそう仕向けたかを思考するのは時間の無駄であろう。まずはこちらから何か言葉を掛けなければ、とイゼリアーシェ・ヴェルリンクは濁りとは無縁の灰色の瞳を剣霊使いへ動かした。 

「バレンタインさんが剣を振るう姿をわたくしが覗き見した事、うらまれていらっしゃるのですか?」

 両腕の力を抜いているユストの顔がようやく声を掛けられた方向へ動く。眉間に数本の皺が走り、細めている双眸にユストは驚きの色を僅かに差した。

「そうだったな…。」

 先程の瞬発的で全てを呑み込まんとする濁流を連想させる殺気を放つ姿を見せられてはユストの是非もない言葉にイゼリアーシェ・ヴェルリンクが両肩を縮こまるのは無理もない。

 剣霊使いの剣技が表立たない理由の一つとして誰にも見られてはならないとイゼリアーシェ・ヴェルリンクは知っている。加えて、見た者は死を以て口を封じられるとも聞かされている。自分は正に今その立場にあると自覚しているイゼリアーシェ・ヴェルリンクは小刻みに震える両肩をそのままに横に向けた顔の顎を更に下へ動かした。

 鍔無しの直剣を握り締めていない右手が動いたと羽織る黒いコートから洩れる百年香の爽やかな香りがイゼリアーシェ・ヴェルリンクに教えてくれる。右手が行き着く先は何処だろうか。落としている視界に鍔無しの直剣に頭をもたげる黒蛇が入り込む。鋭さと禍々しさを伴った眼差しに当てられ、閉じた瞼に強く力を込める。

 立ち襟の先端を経て物心がついた頃からは誰にも触らせていない顎の下へ人差し指の脇が添えられた。小鹿の革を用いた手袋越しであろうとも、男の指の感触をイゼリアーシェ・ヴェルリンクは知らない。想定外の出来事に抵抗を忘れた顎は人差し指が誘うまま正面へと位置を戻され、押し上げられた。瞼から力が抜け落ち、麗しい唇が無抵抗の装いを纏う。同時にイゼリアーシェ・ヴェルリンクの脳裏に一人の男の横顔が過ぎった。

「何をなさるのですか、お止め下さい!」

 貴賓室の重厚で豪奢な扉に添えていた王女殿下の両手が剣霊使いの肩を突き飛ばす。彼は足を一歩二歩と後退させ、顎に添えられていた指が離れた。王者の涙相が毅然とした様子を前面に押し出す中、ユストは悪びれず、むしろこちらの方が想定外の出来事に出くわしたと不思議がる表情をしていた。

「異教の娘よ、何を怒っている?」

「怒るもなにも。バレンタインさん、あなたは今、何をしようとしていたのかお判りになっていないのですか?」

此方こなたの可愛い巫女に似ている汝を少し眺めていたいと思っただけだが。」

わたくしに似ている…それはイルサーシャさんを指しての事でしょうか?」

「この者の指で顎を強引に動かされると剣霊になろうとも体の芯が締め付けられた様に熱くなり落ち着くと此方こなたの可愛い巫女は密かに喜んでいたが…異教の娘、汝は違うのか?」

 所々に不可解な言葉を交えるユストを見つめるイゼリアーシェ・ヴェルリンクは内心で首を傾げた。己は世間知らずの箱入り娘だと密かに引け目を持ち合わせていたが、目の前に立つ歳上であり流離いの身である男は更に上を行く世間知らずの態を晒していた。

「あなたはバレンタインさんではありませんね?どなたですか?」

 ユストは答えない。王女殿下の顎に触れさせていた指を自らのそれに添え、まるで舐める様に相手の様子を覗っている。

「それにわたくしにはイゼリアーシェという名前があります。汝はともかく、異教の娘と呼ばれる覚えはございません。」

「おや。異教の娘、今度は少し興奮しているのか?」

 茶化されたと濁りとは無縁の灰色の瞳が大きくなる。だが不思議と怒りの感情は湧かなかった。何故なら、ユストの眼差しが遠い過去を懐かしんでいる様なこの上ない柔らかさを湛えており、そこに悪意は微塵にも感じられず、むしろ無知に似た純朴さを思わせたからである。

 暖炉の薪が弾けるのを止めてから、それなりの時間が経過していた。音も無く忍び寄る宵闇の静けさが辺りを染め上げようとしている。剣霊使いの言葉通り、少し興奮していたのかもしれない。我に返ったイゼリアーシェ・ヴェルリンクは肌寒さを感じた。両腕を互いの手で包み込み、先程とは異なる意味で肩を縮込ませる。

「バレンタインさん、マッチをお持ちならば一先ず暖炉に火を灯して頂けたらと思うのですが?」

「あぁ、マッチとは炎を生む道具か?有るには有るが、此方こなたはあまり触りたいと思わない。異教の娘、汝に任せよう。」

 煙草の香りを仄かに肌に染み込ませている男は羽織る黒いコートのポケットからマッチを箱ごと取り出した。受け取れとマッチを掴む手の甲が上を向く。この剣霊使いは軍隊に属していた者らしく律儀で謙虚な姿勢を見せていたが、今は違う。何者かによって精神が支配されているのだろうか。しかもこちらの話や意見を一向に受け付けない。

 両手を差し出して受け取ったイゼリアーシェ・ヴェルリンクは執務用のデスクの袖にある引き出しから紙片を取り出し、不慣れな手付きでマッチを擦る。紙片が燃え盛る様を凝視せずに暖炉に投げ、比較的燃え易い針葉樹の薪を加える。

「質問の仕方を変えますが、バレンタインさんは戻ってくるのでしょうか?」

 弱々しく立ち上り始めた煙がやがて太くなり、暖かな炎の色が広がりを見せ始めた。イゼリアーシェ・ヴェルリンクの緩やかに首に巻きつけた白金の長い髪の先端が揺れる。暖炉の前でしゃがみ込んでいた彼女が立ち上がったからに他ならない。

「何故そう願う、異教の娘。」

「イルサーシャさんの為です。」

此方こなたの可愛い巫女の為、と汝は申すのか?」

「イルサーシャさんにとってバレンタインさんは何よりも大切な存在です。互いにそれを理解しているのが他人であるわたくしが如何に世間知らずで初心うぶであろうとひしひしと伝わるものを感じずにはいられませんでした。彼女とわたくしは剣霊と人間の違いはございますが、同じ女です。」

「ほぉ。」

「彼女の心の裡は同じ女だからこそわたくしには手に取る様に判ります。お二人を暖かく見守り差し上げたいと願う気持ちが半分、恥ずかしながらも羨ましく思うのが半分。バレンタインさんを失った彼女の姿をわたくしは見たくは無いのです。」

 ユストの左手に握り締められている一振りの剣に視線を落としながら語るイゼリアーシェ・ヴェルリンクは、再び執務用のデスクへ歩む。趣深い木目の模様が走る天板の上に置かれた預かり物の懐中時計を彼女は握り締めた。

「バレンタインさんはあの方と無二の親友の様にわたくしには映ったのです。剣霊使いという同じ立場がもたらした酸いも甘いも理解し合える掛替えの無い存在を失ったとあの方が知ったらどれほど落胆されるのか、また落胆したあの方をどう慰めたら良いのかわたくしには想像がつきません。」

 己の中で練られた思慮を述懐したと解釈するよりは芽生えた感情を吐露したと言えよう。暖炉にくべた薪を燃やす炎が一定の勢いに落ち着いた事もあるが、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは身体が芯から火照っているのを否めなかった。

 王女殿下の熱弁に耳を傾けていた剣霊使いは左手に握る鍔無しの直剣を貴賓室の壁に立て掛け、腕を組むと自らの背もそこに預けた。

「女の願いに男の思いとは…此方こなたには判らん。」

 剣霊使いはふと微笑を見せ、顎の角度を深くする。彼の首に巻かれた黒地に黒の刺繍が施されたスカーフが柔らかな皺を走らせた。

「何故判らないのです?」

此方こなたは男でも女でもないからだよ。」

「では…あなたは…?」

「潰えし民草の想念の拠り所が此方こなただ。」

 常軌を逸した返答はイゼリアーシェ・ヴェルリンクを黙らせ、預かり物の懐中時計を握る手を緩めさせた。剣霊使いが語った潰えし民草とは何を指しているのか。先のハガンとの会話にて戦乱の時代では多くの命が犠牲になったと聞いている。家族が、集落が、街が、そして国が他に踏み躙られた時代に於いて既に滅び去り、今の世では語り継がれなかった集団が一つ二つ存在していても誰も真っ向から異を唱えないであろう。滅び去りし集団は他では理解し難い信念を貫き、独自の文化を形成していたと捉えるべきか。信念と文化が折り重なる要因の一つとして信仰がある。げんにイゼリアーシェ・ヴェルリンクが生を受けた北部王立国家であれば住まう臣民は猜疑心に囚われずに騎士という存在を崇拝し、政治及び軍事、国家の態を成す社会秩序が統べられている。

 貴賓室の壁に寄り掛かる剣霊使いは想念の拠り所と語った。目に映る者たちを異教の子や娘と呼んでいる事からして彼が信仰の対象であるのは概ね間違いではなかろう。

「つまりあなたは…自らは崇拝の対象であると仰られているのですか?」

 黒地に黒の刺繍が施されたスカーフが再び柔らかな皺を作り出し、すぐに消えた。

「異教の娘、想念の拠り所がそう有るにはどうしたら良いか判るか?」

 目を凝らさなければ確認できない刺繍の柄にイゼリアーシェ・ヴェルリンクは気付いたであろうか。それよりも剣霊使いの問い掛けが気に掛かる。預かり物の懐中時計を握り締めている側の親指の腹を麗しい唇の端に当て、黙々と独り熟考を重ねる。ぶら下がる真鍮製の鎖が振り子の様に揺れ、その勢いが収まると共にイゼリアーシェ・ヴェルリンクは落としていた視線を想念の拠り所と語る者へ動かした。

「崇拝とは人間が描き続ける事を意味し、描く者を失った時、崇拝の対象は自ずと消え失せる、でしょうか…?」

此方こなたが見込んだ通りに賢いな、異教の娘。」

「ですが、あなたは潰えた民草と仰いました。もうあなたを奉る者は今の世には存在しないのではありませんか?」

「それには及ばん。」

 腕を組み続けているユストの眼差しが直ぐ脇に立て掛けられた鍔無しの直剣へ向けられた。彼は大儀そうに貴賓室の壁から背を離し、賢い汝に一つ話をしてやろうと堅苦しげな表情を崩さない王女殿下に言葉を投げた。

 想念の拠り所と語る者を崇めた集団はマナエグナの民と呼ばれていたという。戦いを好まず、他を害する事を嫌い、また他に緩衝される事を拒み、慎ましやかな生活を望んでいた。人間は生きている以上、様々な感情に己の心身を縛られる。マナエグナの民も例外ではない。やり場のない悲愴と逃れられない苦痛は正しき神へ、込み上がる怒りや蟠る妬みは邪な神へ捧げるものと彼らはいつの頃からか思い描いた。正しき神は二匹の黒き蛇を従えた白き大蛇を象り、邪な神は炎の如く紅色の龍の姿をしている。やがてマナエグナの民は己たちの未来永劫の繁栄を司るのは正しき神であり、邪な神はマナエグナ以外の人間の象徴と信じて疑わなかった。

 ある時期、干ばつによる農作物の不作が数年間続いたという。正しき神を崇めない他国の者たちが争いを繰り広げている為に邪な神が強大な力を持ち、我々を苦しめようと画策しているのではとマナエグナの民は疑心暗鬼に陥った。日を追う毎にマナエグナの民が次々と餓死する中、美しい白銀の髪を持つうら若き乙女が立ち上がる。彼女は正しき神に悲しみと苦痛を捧げて救済を求めるしかないと己の喉を剣で貫いた。彼女が身を捧げた翌日、マナエグナの民は慈雨に歓喜し、正しき神が願いを聞き入れてくれる手段を得たと狂信の扉を後戻りできないと知らず気付かずに潜り抜けてしまった。

 それ以来、マナエグナの民は白銀の髪を持つ女が産まれると、その者は実の親からきり離して聖堂と呼ばれる正しき神を奉る建造物内で育てられた。マナエグナと正しき神の存在、マナエグナ以外の人間と邪な神の卑劣な所業を物心ついた時から植え付けられ、先人に倣い成人を迎えた翌年に同じ剣で喉を貫く。狂信の儀式を担う彼女たちはマナエグナの巫女と称され、二十年以上白銀の髪を持つ女が産まれなかった場合、その年に成人を迎えて一年が経過する娘を一人選び、白銀に髪を染めさせて即席の巫女を拵えてもいたという。

 生ある者が死を迎えるのと同じく、集団も滅亡を受け入れる日が訪れる。マナエグナの民が潰えると共に正しき神はその時の巫女であった者に己を託した。それまで数多の巫女の喉を貫いた剣に意思を宿す剣霊として己と共に恒久の世を渡れ、と。

「マナエグナの民とは初めて聞きました。なんとも儚く哀れな方々だったのでしょうか…。」

 イゼリアーシェ・ヴェルリンクは自らの言葉に違わず深い感傷に浸ったのか、力無く座り込んでいた。

「何故、あなたは崇められている存在にも関わらず、彼らの滅亡を黙って眺めていたのですか?救いの手を差し伸べようとしなかったのですか?」

 力無い姿を晒しているが故に語気と意思は強靭に映るのであろう。見上げる王者の涙相に想念の拠り所と称したユストはだだをこねる子供をあやすかの様な微笑を投げた。

「人間が幾ら耳を澄まそうが、心に響くのは人間の声だけなのだよ。」

 マナエグナの民は儚く哀れな崇拝に生涯を捧げた。想念の拠り所と語った正しき神は彼らの生き様を眺めては受け入れた。声を掛けようにも彼らの耳には届かず、結果として欲してもいない巫女という名の生贄を正しき神は黙って受け入れていたと言いたいのか。イゼリアーシェ・ヴェルリンクは悲愴に染まった濁りとは無縁の灰色の瞳でユストを凝視していた。

「その顔、此方こなたの可愛い巫女が最期の間際に見せた表情を思い出させる。」

 目を細めるユストは腕組みを解き、右手をズボンのポケットに入れるなり、そうだな、と誰かに言い聞かせる様に呟いた。

「イゼリアーシェと言ったか。最後にもう一度、汝の顔を此方こなたに見せてくれないか。」

「最後に、ですか?」

「あぁ。この異教の男の魂が消え失せる前に元に戻してやらなければならない。消え失せては汝が語った様に此方こなたの可愛い巫女が悲しむ。」

 ユストのポケット越しの右手から硬質な物体同士が擦れ合う音が僅かに漏れている。何を弄んでいるのだろうかとイゼリアーシェ・ヴェルリンクに疑問すら生じさせない微かな響きである。

「ようやくわたくしをイゼリアーシェと呼んで下さいましたね。あなたの名をお教えくださいますか?」

 腰を上げようとする王女殿下に数歩歩んで近付いた剣霊使いの右の掌が向けられ、そのままにしていろと制す。彼が羽織る黒いコートの裾が揺れては白銀の長い髪を持つ剣霊の移り香が仄かに鼻腔をくすぐる。女の気高さに男の包容力が加わった香りは彼女を柔らかな表情にさせた。

此方こなたの名か…。」

「えぇ。是非ともお教え下さい。」

此方こなたはイルセリアと呼ばれていた。」

「その名、わたくしの胸に刻んで…。」

「残念だが、それは出来ん。」

 イゼリアーシェ・ヴェルリンクの言葉を遮る様に右の掌が柔らかで心地良い温かさを有する頬へ触れた。雪国育ちの者であろうとも初めて体感する冷たさは王者の涙相を表す左右の目尻の下にある黒子を不自然に細くさせる。これでもかと目を広げ、長い睫毛の先端が上へと跳ね上がったからであった。

 火をくべてからそれなりに時間が経過した暖炉の薪が弾けずに静かにしている。燃え尽きた訳ではない。まるで音を立てずに流れる時が息を潜めたかの様に異様な静寂が貴賓室を包み込もうとしている。

 剣霊と契約を結んだ者の剣技は見てはならない。見た者は絶命を以て口を塞がれる。例え見た者があてなる王女殿下であろうと例外は許されない。だが、この理を尽さずに済む方法が一つ残されている。記憶を抹消すれば事は済む。潰えし民草の悲愴と苦痛の全てを受け止め続けた崇拝の対象の手と人間とも動物とも言い難い眼差しは向けられた者に計り知れない衝撃が迸る。首に一重に巻き付けた白金の長い髪の先端が儚い軌跡を描き、王女殿下は床に伏した。

 気を失った王女殿下の姿を見下ろす黒髪の剣霊使いは普段の彼がする様に鼻で溜息を吐いた。眠る我が子をいつまでも愛でていたいと思わせる柔らかな視線が壁に立て掛けられた鍔無しの直剣へ移る。その柄を握る権利を委ねられた左手の数本の指が血抜きに頭をもたげた黒蛇を交互に触れた。

「人間には人間の声のみ心に響く、と此方こなたは言ったが…。」

 この場に現れた際と同じ様に肩に鍔無しの直剣を担ぐと黒髪の剣霊使いは踵を返した。

「神が人間の言葉に些か動かされるとはな。良い一時を過ごさせて貰い感謝するよ。」

 貴賓室の重厚で豪奢な扉が再び開かれた。重苦しさと威厳が絡み合った響きが収まれば黄昏時の名残りが完全に消え失せた世界が広がりを見せている。先の戦いでテウヌス・イーハンが窓硝子を破損させた隙間から屋外へ出る。溶ける前に新たに積もる雪が北の地を訪れている事を実感させ、時折吹く冷ややかな風が黒い髪を掬う。葉を落とした観賞用の広葉樹と経年によりくすんだ色へ変化しようとも頑丈であろうレンガ製の壁を足場として交互に蹴り、黒髪の剣霊使いは国営ホテルの敷地の外へ降り立つ。

 夜のエジュ・エジェ市街地を出歩く者は指定街区毎に警備を任せられた数名の兵ぐらいか。少なくとも住民は明日への鋭意を養うべくそれぞれの家で大人しくしている。月の淡い輝きと星の儚い瞬きが彩りを添える夜の中、黒髪の剣霊使いは物静かな公共広場に備え付けられた古めかしいベンチに腰を降ろした。己の前に鍔無しの直剣を突き立て、柄頭に両手を添える。昼間であれば杖突く老人が物思いに耽る姿と間違えられても否めないといった様相である。白銀の刀身が夜の空気と同じく冴え、夜空の輝きに呼応する様子に彼は語り掛けた。

此方こなたの一部たちよ、以後も変わらずに此方こなたの可愛い巫女の言葉に従うのだぞ。」

 寒空の下、彼は目を閉じた。俯いた顔から覗かせる口許は一文字に結ばれ、微動だにしない。悲愴と苦痛を喰らう神イルセリアは有るべき場所へ帰った。

 深い眠りと共に悠久の流れに身を委ねんとする姿は潰えたマナエグナの民のそれと酷似していたかは誰にも判らない。


 引き摺るまではいかないものの、動かす脚が徐々に重くなりつつある。一歩進めば貫かれた右肩から血が糸を引く様に零れ落ちる。その場で倒れ込みたい衝動に駆られながらも深手を負ったテウヌス・イーハンは国営ホテルを後にし、エジュ・エジェ城塞へと向かっていた。

 不思議な事に国営ホテルはおろか、エジュ・エジェ市街地から住民が消えたのかと思う程、周囲に人影が見当たらない。いや、人影に気を廻す余裕が無かったのだろうかとも考えられた。市街地の主だった通りでは夜に備えて所々にかがり火が焚かれ、炎に照らせた蒼き鎧が幻想的な色合いを見せてくれる。歯を食いしばり肩で息をするテウヌス・イーハンへささやかな慰めのつもりだろうか。しかし、剣を折られ、今後は剣を振るえない右肩にさせられた屈辱は拭いきれない。

 エジュ・エジェ城塞の門を潜る。出迎える者は誰一人いない。むしろいない方が良い、この様な無様な姿を部下たちに晒せるものかと、身に着ける鎧と同化したのかと思わせるほど冷たくなりつつある右腕を力無く垂らすテウヌス・イーハンは城塞最深部へ急ぐ。酸の雫は滴らず、具足越しの脚が奏でる覚束ない音と同じく、今だ右肩から流れ出る血が床に蔓延る光る苔を不定期に彩る。淡い光は血に覆われている為に更なる弱々しさを帯びているのは気のせいではない。余命幾許もないと連想させる光景に目もくれず、不気味な模様を描く壁に半身を預けながらテウヌス・イーハンは目的地である酸の泉へ辿り着いた。

 ほとりには一人の女が腕を組み、周囲の静寂と同化している様に佇んでいた。いや、彼女が周囲の静寂を作り出していると表現するのが正しい。彼女はテウヌス・イーハンがこの場に現れるのを予め判っていたのか、無情この上ない紫色の瞳を持つ目尻に表情を与えなかった。

「インファンティラ様、お伝えしたい儀がございます。このテウヌス・イーハン、マナエグナの剣霊と黒髪の剣霊使いと対峙し、不覚を取りました。」

 崩れる様に片膝を着き、必死の思いでこうべを上げるテウヌス・イーハンを見下ろすインファンティラの眼差しに変化は見られない。生気とは無縁でありながらも魅惑の一片を感じずにはいられない唇が動き、光る苔たちが恐る恐る輝いた。

を模した剣を折られたか。折ったのはどちらだ?」

 聴く者の肌から侵入し、脳を駆け巡る神剣霊の声は手負いのテウヌス・イーハンに対して労いを掛けない。彼女の言うどちらとは剣霊とその契約者の二択であろう。咽返るほどの酸の刺激臭の中、テウヌス・イーハンは奥歯が磨り減るほど強く食い縛る表情をインファンティラへ見せた。

「どちらでもありません。」

「では何処の誰だ?」

「折ったのはマナエグナの神、と思われます。」

 テウヌス・イーハンは己の言葉に半信半疑の様相を纏いながら語り、彼を見下ろすインファンティラの細い眉が動いた。

何故なにゆえそう思うのだ?」

「我輩を異教の子と呼び、滅びし民草、巫女という言葉を用いていたからに他なりません。」

「そうか。マナエグナの神が、あの者がのこのこと出てきたか。」

 組む腕の左側の人差し指が右の二の腕を叩いている。生命の始まりと終わりを思わせる赤と黒を基調としたドレスが心地良い衣擦れを発した後、新たな激痛に耐える呻き声が酸の泉を震わせた。二の腕を叩いていたインファンティラの人差し指がテウヌス・イーハンの負傷した右肩に食い込んだからに他ならない。か細くもあらゆる物体の抗いを認めない人差し指に付着した血をインファンティラは唇へ運んだ。唇の上下に挟まれた人差し指に舌が這う。彼女が目尻を細めたのは血の味を愉しむと表現するよりも血が語る内容を吟味していると言えた。

「なるほど。そなたの言葉、まことの様だな。」

「我輩が嘘偽りを申し上げたとでも?」

「思い込み、というのが人間にはある。が知りたいのは真実だけだ。」

 細めた目をそのままに紫色の瞳が横へずれる。何か物思いに耽る様子のインファンティラにテウヌス・イーハンは右肩を覆っていた左手で拳を作り、酸の雫に舐められ不気味な模様を描く床を強く穿った。

「剣には剣で武を誇り、神には神で威を示しとうございます。」

「そなた、何が言いたい?」

 横にずれていた紫色の瞳が再びテウヌス・イーハンを見下ろす。殺気を漏らさず、哀れみを纏わない眼差しとは卑下する存在を視界に入れるだけの行動に過ぎない。比類なき力を有する剣霊の前で臆してはならないとテウヌス・イーハンは左手の拳を握り締めた。

「マナエグナの神はインファンティラ様より与えられた燃ゆる剣を贋物の命の通わぬ剣と賤し、我輩をなみしました。ならば真の命が通う剣にてこの屈辱を晴らしたく切に願うところです。」

の剣体を振るうとそなたは言うか。」

 右肩に走る激痛は収まりつつある。既に痛覚が麻痺しており、傷口から先はただぶら下がっているだけのおもりと化していた。テウヌス・イーハンの心身を衝き動かす確固とした意志は騎士の矜持であり、剣を携える者の執念でもある。そう読み取ったインファンティラは一笑に付せず、言葉を続けた。

「自慢の右腕はもう使えんとは見ているが。」

「まだ左がございます。」

 躊躇いを纏わずに語るテウヌス・イーハンは残り少ない体力を駆使してインファンティラへにじり寄った。全身から湧き出る汗は負傷によるものなのか、インファンティラが漂わせている孤高の威厳に圧倒された結果なのかは判らない。ただ、女の肌が醸し出す匂いは感じられないのは端から理解していようとも、剣霊独特の肌を裂く冷たさとは種が異なる雰囲気にテウヌス・イーハンは初めて気付いた。剣霊には変わりないが、まるで鼓動が聴こえるのではないのかと生ける存在だと錯覚を起こさせられる。

「そこまであの者たちに打ち勝ちたいか?」

 テウヌス・イーハンの中で生じた疑問を神剣霊であるインファンティラが気付かない筈がない。だが、彼女は関心を示さず、問い掛けた。

「語るに及ばず、にてございます。」

「よかろう。ただしの柄を握れたらの話だ。」

 この時、インファンティラは初めて短い微笑をテウヌス・イーハンに見せた。両目を閉じ、不遜の象徴である形の整った顎が引かれた。

 静かにしていた酸の泉の表面が一つ、波紋を浮かべる。一つが二つとなり、轟音に共鳴しているかの様に激しい起伏を描く。静寂から胎動への移行、霊体から剣体への変化へんげが始まろうとしていた。膝より下まで伸びた漆黒の髪の所々から白い煙が立ち昇り始める。酸の泉が水蒸気と化し、強烈な刺激臭にテウヌス・イーハンは目を強く閉じた。いや、閉じてはならない、神と称する者を屈せさせるほどの絶大な力を有する剣霊の真の姿をこの目で見届けずに柄を握る権利を得られるものか、と興味と責務が入り混じった感情が芽生える。これまでに体感した事のない息苦しさに堪らず口を開く。溢れ出る涎は滴る前に酸の泉と同様に気化し、口内が焼け爛れる。声と呼ぶには程遠い呻きと共にテウヌス・イーハンは目を見開いた。睫毛が炎に包まれ、眼球が融け崩れるまでの僅かな間、彼の氷の冷たさを思わせる青い瞳に映り込んだのは漆黒の炎に包まれた赤黒い刀身の剣であった。

 これが真の燃ゆる剣なのか、真の魔剣を手にする機会を得たのか、と死を甘受する間際のテウヌス・イーハンが喜び勇んだのかは誰にも判らない。ただ判るのは燃ゆる剣の逸話を脳裏の片隅に思い描きながらも、逸話の中で人間がどの様な結末を迎えたのか知りながらも、先駆者となりうる興奮は彼を盲目にさせた。血肉は無論の事、骨の煤を残さず、恐らく魂までもが漆黒の炎の糧になるのを迎合したと残された蒼き鎧がもの悲しげに静かに語り掛けている。蒼き鎧自身もその殆どを融解させられ、不定形な形を留めているのがやっとと言うべきか。

 血肉が無へ帰した後、酸の刺激臭が収まるまで数分も必要としなかった。エジュ・エジェ城塞最深部は普段と変わらずに薄闇を纏い、静寂の世界を取り戻す。

 霊体に戻ったインファンティラは何事もなかったかの様に腕を組み、足許に視線を落としていた。猛る龍の顎を意匠とした兜も名残りを思わせる程度までに形を変えてしまっている。

「愚かな。剣に命を吹き込むのは柄を握る者の務めであろうに。剣の見てくれと謂れに満足を覚え、務めを怠ったそなたではいくら足掻こうともあの男とマナエグナの小娘には勝てん。」

 彼女の紫色の瞳は情けを零さない。零さないが故に人間には到底為し得ない至高の瑞々しさと気高き美しさを湛え続けている。

「神には神、か…。あながち間違いでもないな。」

 独り物思いに耽るインファンティラが踵を返せば彼女が纏うドレスの裾は柔らかな衣擦れを発し、膝より下まで伸びた漆黒の髪は優雅な軌跡を描く。真の燃ゆる剣が発する黒き炎に冒されずに済んだ光る苔たちは彼女の機嫌を取ろうと頼りない光を発していた。

 テウヌス・イーハンの消息は数日間、不明とされた。状況に進展が見られたのは王女殿下がエジュ・エジェの地を離れる際、聖跡と定められている城塞最深部を訪れた時であった。いびつな形に変化した蒼き鎧を前に王女殿下は膝を折り、猛る龍の顎を意匠とした兜の名残りの表面に可憐な指を這わせた後、平静な面持ちを伴って目を閉じたと言われている。国家を想う騎士を失った王女殿下はただただ悲しみに心身を寄せていた、とこの時の彼女を後世の伝記は綴っているが、王者の涙相を表す左右の目尻の下の黒子は形を変えず、目尻の付け根から流れるであろう涙は一滴も零れ落ちなかったのを彼女の世話役であるユラン・エレエは黙って眺めていた。

 次期王位継承者たるイゼリアーシェ・ヴェルリンクの名がエジュ・エジェ市街地より大陸全土に向けて広められた翌月、北部王立国家の議会は蒼き騎士団の解体を決定した。 


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