表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第三章 エジュ・エジェ城塞編
47/75

王女殿下激昂す

 淡い褐色の瞳が右から左へ、そして再び右へと動く。柔らかな桃色の袷に走る趣深い皺は形を変えず、代わりに暖炉の薪が弾けては一定の調子で心地良い音を響かせていた。

 頼りなさげな陽光が醸し出す冬の景色が臨める窓辺に佇むハガンは普段と変わらずに両手を体の前で重ねている。彼女の瞳が追うのは落ち着きを失ったイゼリアーシェ・ヴェルリンクであった。

 国営ホテルの貴賓室にて亡き愛玩の毛皮を用いた帽子をさも生きている様に大事に両腕に抱え、立ち襟の黒いドレスの裾が忙しない衣擦れを奏でている。ここまで広い部屋でなければ王女殿下は大人しく椅子に座ってハーブティーを嗜んでいただろうか、とハガンは執務用のデスクの片隅に置かれたティーカップとソーサーの一揃いを眺めた。否だと直ぐに答えが導かれる。首に一重に巻き付けた白金の長い髪の先端が揺れては止まりと伏目がちな王女殿下の内面を代弁している。他を案ずる想いが彼女を動かしているのは誰の目から見ても明らかであった。

 他とはエジュ・エジェ城塞へ赴いた者たちである。己と容姿が似た剣霊と寡黙な契約者、常に身の回りの世話を焼く女剣士、そして残るもう一人の男。顎鬚を蓄えた機知に富んだ横顔を思い浮かべては心を温め、男らしい低く耳に心地良い声を思い返しては心を締め付けられる感覚にイゼリアーシェ・ヴェルリンクは誰にも知られたくないささやかな喜びを実感していた。

「ハガンさんはどうしてそうも常に落ち着いた雰囲気を纏っておられるのでしょうか?」

 己と正反対の状況に身を置くハガンに気付いたイゼリアーシェ・ヴェルリンクは思うがままを口に出した。それはハガンににわかにも表情を与える内容であった。

「答えは簡単ですわ。待つのも女の務め、とは教わりました。」

「女の務め、とは…。それを誰に教わったのですか?」

「誰と言われましても…。」

 ハガンが僅かに困惑の色を剣霊特有の細い眉に差す傍ら、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは剣霊の手を握る勢いで身を乗り出した。

「確か、わたくしよりも前に王者の涙相を持つ御方をハガンさんは御存知と仰られていましたが、その御方でしょうか?」

 ハガンは体の前で重ねている両手をそのままに首を傾げる。剣霊として凛々しさを思わせる口許は微笑を湛えていた。

「王女殿下、と少しお喋りでも如何でしょうか。」

 無造作に結い上げた烏の濡れ羽色を思わせる髪の先で彼女を彩る黄金色の髪飾りが午後の傾く陽の光を撥ね返す。鈍くも嫌味を感じられない輝きはイゼリアーシェ・ヴェルリンクに茫然と魅入った眼差しを作らせ、素直に頷かせた。

 刹那の称号を頂く剣霊が提案したお喋りを行う場とは貴賓室の窓辺であり、緩やかに流れる雲を眺める女の後ろ姿は悠久の一部を思い出しては懐かしもうとする心意気を纏っていた。

 ハガンが人間であった八百年前も流れる雲の速度は今と変わらない。異なるのは四ヶ国による国力の均衡の成立はおろか、トウラドオク王朝の専制政治が大陸全土を覆うよりも以前、無数の国家が勃興しては滅亡していた点だろうか。あの頃は多くの命が軽んじられ、多くの血が流れ、多くの涙が弄ばれた闘争の時代であったと語ったハガンは窓に映る己の頬を剣霊特有のか細い指の先端でなぞる。

 エタウィ村邑そんぱ区。東部に位置する山間部に形成された村がハガン出生の地であり、人間としての命をまっとうした地という。亡き愛玩の毛皮を用いた帽子を執務用のデスクに置き、代わりに預かり物の懐中時計の薄暗い煌めきを伴った鎖を人差し指に巻きつけているイゼリアーシェ・ヴェルリンクは北部王立国家の次期王位後継者だけに大陸全土の地図を常日頃から眺めているのであろう。エタウィ村邑そんぱ区の名を耳にして東部のどの辺りだろうか、と脳裏で大陸全土の地図を広げて前のめりになっている様子を王者の涙相が教えてくれる。

「残念ながら今はもうエタウィはございませんわ。」

 数多くの闘争が繰り広げられた舞台のほんの一部であったエタウィ村邑そんぱ区は記録が残っていない点からして今はその名を知る者は皆無であろう。淋しき現実を語る女の表情とは柔らかい。そして聞く者に同情は無用と訴え掛ける。その意図を読み取り、言葉に窮したイゼリアーシェ・ヴェルリンクは空いている側の手を顎に添えた。

「ハガンさんも東部出身だったのですね。」

「えぇ。ただ、同じ東部でも今の世と八百年前では主義主張からして大分異なりますし、が過ごしたエタウィは山間部という場所柄がそうしたのか、閉塞的な村でした。」

 イゼリアーシェ・ヴェルリンクが東部出身と聞いて真っ先に思い描いた人物をハガンは言わずもがな理解している。彼が時折見せる微笑は嫌味や尊大さを感じさせない親しみがあり、懐の深さが覗える。預かり物の懐中時計の背面に施された彫り物が北部特有の分厚い窓に映り込み、その更に奥では葉を全て落とした冬化粧の観葉樹木が王女殿下の様子を静かに覗っていた。

「その懐中時計というものを眺めていると今の世はとても幸せだとは思うのです。」

 凛とした目尻を柔らかに細めた後、ハガンは再び流れる雲へと顔を動かした。

が人間であった時代は生きる事、それだけでも精一杯でしたわ。あの頃は限りあるものを奪い、奪われまいと気を張り巡らせ、男も女も老いも若きも終始それだけに明け暮れていたのですから。何かを作り出し、そこに悦びを共有し、幸を分かち合う。人間にしか出来ない行動に誰も気付かず、気付いても誰も関心を寄せなかった、いや、寄せられなかったのだとは思いました。」

「幸を分かち合う、ですか…。」

 イゼリアーシェ・ヴェルリンクの濁りとは無縁の灰色の瞳が窓辺に佇むハガンから揺れる懐中時計へ滑り落ち、執務用のデスクの上に置かれた亡き愛玩の毛皮を用いた帽子へと移った。

「失礼して、剣霊となった今のハガンさんはその幸を分かち合う為に動いているのでは?」

「剣は何も作り出せませんわ。」

 ハガンはにこやかに、手短に答える。簡素な言葉が持つ強い響きが何を示しているのか理解しているイゼリアーシェ・ヴェルリンクは応接間の椅子を引き出し、腰を降ろした。更なる内容を注意深く心に刻み、頭で咀嚼したいという行動の現れでもある。執務用のデスクとはまた一味違う趣向の応接間のテーブルの上に懐中時計が置かれた。こつりと何気ない響きを待っていたのか、ハガンは銘木と金属が奏でた短く心地良い音の後に体の前で重ねている両手を入れ替えた。

「剣に出来るのは斬る事だけ。斬るとは悦びとは真逆の悲しみを少なからずとも生み出す。剣霊となり八百年の歳月を経ようとも、それだけは変えられません。故にがこうして両手を重ねているのは己の刃を伏せ、無為な悲しみを生み出さない様にと自戒の意を込めているのですが…。」

「お話からしてハガンさんは剣霊になられたのを悔やんでいるのですか?」

「悔いてはおりません。剣が悔いてはそれこそ何も出来なくなってしまいますわ。」

 ハガンの言葉に相槌を打つかの様に豪奢な造りの暖炉の中で薪が弾けた。

「こうして王女殿下の様に高貴な御方と時間を共にし、イルサーシャという同じ立場の者とも過ごす機会に恵まれました。あの端正な顔立ちに快活な気丈夫を装いつつも天真爛漫な持ち味は彼女ならではと言えるでしょうね。またその様な彼女を一歩引いた立ち位置で見守るユスト・バレンタインの姿を見ると人間であった頃のをついつい思い返してしまうのです。」

 実際にハガンは今、人間であった頃を思い返しているのであろう。女らしい細く肌理が細やかな顎先を僅かに上へ向けているのをイゼリアーシェ・ヴェルリンクは黙って眺めていた。

「ただ、八百年の時の流れは記憶を徐々に風化させてもいるのも事実。が慕ったあの人の姿、声、温もりは朧気なものへと移り変わり、やがては思い返そうにもそう出来なくなるのでしょうね。」

 何と声を掛ければ良いのか判らず、ただ視線を預かり物の懐中時計へ落とすイゼリアーシェ・ヴェルリンクの様子が応接間の窓に映り込んでいる。はたと気付いたハガンは己の項の上を彩る黄金色の髪飾りの先端を詰り、少々困惑の色を含んだ笑みを零した。

「お喋りをと誘ったが一方的に喋ってしまいましたね。」

「いえ、ハガンさんの様な素敵な剣霊が胸襟を開いてくれたとわたくしは感謝しております。」

「感謝と言われては些かこそばゆいものですわ。」

「これからはイルサーシャさんだけではなく、わたくしの知るクラウディアとラファエラもハガンさんに親しみと共に接する機会が多々あると思います。あとは…。」

 イゼリアーシェ・ヴェルリンクは言葉を途中で遮らせる。彼女は応接間のテーブルの上に転がる預かり物の懐中時計の鎖ではなく本体を握り締めると、意を決した女の面持ちと共に口を開いた。

「ゾルゾアさんが契約を結んだ剣霊とハガンさんは面識が御有りですか?」

「いえ、全く。」

 ハガンの率直な返答にイゼリアーシェ・ヴェルリンクは預かり物の懐中時計を握り締める手をそのままに胸の奥底でつかえていた何かが取り除かれたと言いたげに大きく息を吐く。肩が上下し、立ち襟のドレスの上を流れる束ねられた白金の長い髪が揺れ動いた。

「恐らく感嘆の溜息が出るほどの剣霊なのでしょうね。」

「王女殿下はどうしてそう思われるのです?」

「あの様な知的且つ勇敢で素敵な御仁の首を縦に振らせるほどの剣霊でしょうから…。」

 己では足許にも及ばないと自嘲を零すイゼリアーシェ・ヴェルリンクを見下ろすハガンの凛とした目許は変わらない。

「えぇ。の予測が間違っていないのであればル・ゾルゾアと契約を結んだ剣霊とは当時、王者の涙相を持つ者を色香で誑かした艶やかな女の事と思われますわ。」

わたくしと同じく王者の涙相を持つ者を…誑かした女…?」

 淡い褐色の瞳がイゼリアーシェ・ヴェルリンクへと流れる。その女の名はブリスタン・トリスティアとハガンは語った。そこそこ高い身長に細身ながらも女体が持つ魅惑の曲線を優雅に描く彼女は豪奢な黄金色の長い髪をしていた。あらゆる視線を惹き付ける佇まいは無論のこと、その一挙一動の仕草に男であれば誰もが虜になるという。

「ブリスタン・トリスティアの一言で王者の涙相を持つ国家元首はエタウィに侵攻を決めたそうです。後に知った話ですけれども。」

 流れる雲が斜陽を覆う。窓辺に立つハガンの顔立ちに陰影が与えられ、黄金色の髪飾りは輝きを失った。慣れ親しんだエタウィ村邑そんぱ区は蹂躙の呻きに遭い、恋い慕う者は帰らぬ人となった、と語るハガンは悲愴に身を寄せる女の表情と覆されぬ過去を真摯に受け止める剣霊の面持ちを同居させていた。

「ハガンさん、まさかゾルゾアさんと契約を交わした剣霊と相撃つ御つもりなのですか?」

 今の世を生きる王者の涙相を持つ者が懸念の色に染まった。話の流れからして、彼女がその様に思うのは尤もである。ハガンは肯定も否定もせずに話を続けた。

 三百年前にハガンが亡きエタウィ村邑そんぱ区を訪れた際、その面影は既に僅かであったという。辛うじて残っていた木造家屋の名残りは絡まる草木と同化し、風雨に晒された農耕具は錆による侵食が甚だしく、少し強めの風が吹けばいとも容易く土に返る状態と言えた。書物や手紙といった当時を偲ばせてくれる文字は大気と成り果ててしまった。

「あのとても淋しい景色はの心を包み込む様に抱き締めながら必死に撫でてくれていたのだと思います。そして一つ大事な事を教えてくれました。」

 見る者にとって淋しい景色は剣霊としてただ独り残された女に何を語り掛け、何を気付かせたのか。濁りとは無縁の灰色の瞳と淡い褐色の瞳が交差する。後者は微笑を前者に投げ掛けると共に静かに目を閉じた。

「王女殿下。憎しみとは何も生み出せない。己を疲れさせるだけですわ。」

 遠回しな表現ではあるが、ハガンはブリスタンと相撃つつもりはないと意思を示したと見て間違いはなかろう。己の故郷を奪われ、己の愛する者を失い、その様な意思を人間が口に出来るものかとイゼリアーシェ・ヴェルリンクは考えた。彼女は時の流れは記憶の風化を誘うと感じ、映る景色は心を抱くと語った。それらを体感した剣霊ならではの行き着いた言葉なのだろうかとも思われる。

 イゼリアーシェ・ヴェルリンクに思慮に耽る時間は与えまいとしたのか、あるいは先の言葉通りに自らについて話し過ぎた事に気恥ずかしさを伴ったのか、ハガンはところで、と前置きをした後に淡い褐色の瞳を執務用のデスクへ向けた。

「王女殿下が大事にされているあの帽子にも触れても宜しいでしょうか?」

 興味津々とまではいかないものの、関心を示すハガンの様相にイゼリアーシェ・ヴェルリンクは断るつもりはさらさらない。剣霊は生ける全てに触れられないが、死を迎えた者の名残りであれば触れられると聞いている。目の前に立つ剣霊は人間であった頃に味わった感触を一つでも多く思い出したいのであろう。どうぞ手にとって御覧下さいと帽子の所有者は空いている側の手をハガンへ差し出した。

「なんとも心地良い毛並みですこと。これはノウサギの…比較的若いオスの毛皮でしょうか。」

 発した言葉に違わず、剣霊特有のか細い手が愛情を込めて肌触りを吟味している。凛とした目許は最大限の柔らかさを湛え、か弱き動物を愛でる女の姿を剣霊となったハガンは見せていた。

「えぇ。若いオスとよくお判りになりましたね。ハガンさんはノウサギに見識がお有りですか?」 

「それは秘密と言いたいところですが…王女殿下の方がより詳しいと思われますわ。」

「何故そう思われるのです?」

「この帽子を見る際の殿下は優しくも悲しげな表情を纏っていらっしゃいますから。」

 けれんみを感じさせないハガンの言葉はイゼリアーシェ・ヴェルリンクに今度はこちらが胸襟を開く番だと気付かさせた。心を落ち着かせる為か、それまでハガンに倣って品良く揃えていた脚を組む。王女殿下も王者の涙相に過ぎ去りし一時を懐かしむ様相を与えた。


 時は十年ほど前に遡る。奇しくも今と同じく冬が訪れた頃である。次期王位後継者であった兄を失ったイゼリアーシェ・ヴェルリンクはそれまで暮らしていた母方の祖父母が暮らす慎ましやかな家から王都の中央にそびえる王城に召還される事となった。これ以上ヴェルリンクの血統を絶やす訳にはならない、国家の存亡に関わると政務を司る重臣たちの意見に当の幼き王女殿下は理解を示した。しかし本心としては住み慣れた家から、慣れ親しんだ祖父母の許から離れるのは憂鬱そのものであった。王城の一室で王位を継ぐべく者として様々な勉学に励み、騎士を統べる者として剣術を叩き込まれるのは覚悟している。ただ、祖父母以上に気軽に会話を愉しみ、心を通わせる相手がいないであろうと危惧が心を占め始める。知らせを聞かされた当日の夜から使い慣れ親しんだ枕を独り密かに涙で濡らしていたのは今となっても鮮明に覚えている。

 王都召還の当日は昨晩の降雪により空気は澄み渡り、なによりも冷たかった。秘密裏に行う為かこれまでと違い、国章が掲げられていない変哲もない小さな馬車と護衛役と思われる屈強な騎士三名が幼き王女殿下を出迎えた。

 今まで袖を通していない上質の絹で仕立てられた立ち襟のドレスに身を包み、生を受けてから伸ばし続けた髪は亡き母が日頃嗜んだ髪型へと結わえられた。今生の別れではないと祖父母は孫娘に語り、孫娘は黙って頷く。一度王都の雄大であり屈強な鋼鉄製の門を潜れば次に逆方向に潜れるのはいつの事だろうかと、幼心ながら容易に想像はついた。明るく振舞うつもりであったが、それが出来ない。別れの挨拶が上手く出来ず暗い面持ちの孫娘に祖父母は二つの贈り物を差し出した。真新しい細身の剣一振りと愛くるしいノウサギの子供一羽である。王者の涙相に驚きの表情を与え、暗い面持ちが一瞬にして消え去る。自然と差し出した小さく柔らかな両手に愛くるしいノウサギの子供の優しい肌触りと温かな鼓動はイゼリアーシェ・ヴェルリンクに純朴な笑みを取り戻させた。

 お別れのご挨拶はお済みになられましたか、と屈強な騎士の一人が口を開く。残る二人は祖父母の返答を待たず、踵を打ち鳴らした後に軽く会釈すると幼き王女殿下の左右斜め前方を覆う様に立つ。もう少しお祖父様お祖母様とお話がしたいわ、と恐る恐る口を開こうとも屈強な騎士たちは微動だにしない。濁りとは無縁の瞳が見上げようとも彼らの顔は逆光により見えない。孫を、王女殿下を王都まで無事にお送り下さい、と丁寧に頭を下げる祖父母は慎ましやかであり、とても小さく映った。そしてそれが最後に祖父母を見た姿であった。

 祖父母により送られた餞別は幼き王女殿下にとって生まれて初めて出来た友達であり、その友達の名前はない。ノウサギさんでは味気なく、友達とは言い切れない。ならばと思いつきと語呂の響きの良さからチェクルと移動する変哲もない小さな馬車の中で名付けた。

 王城にて与えられたのは亡き兄が使用していた一室であり、祖父母の許で日々の生活を送る以前、僅かの期間であるが兄と遊んだ覚えがある。調度品はそのまま残されていた。生前の兄がどの様な表情をして椅子に腰を降ろしていたのか、何を思い描いて窓から臨む景色を眺めていたのか、と感傷に浸る時間を設けたのはだいぶ後の話である。あの頃はただ、不安と淋しさに負けまいと部屋の片隅でチェクルを抱き締めて時の流れに身を委ねていた。

 四季の移り変わりを何回か見届けると共に、イゼリアーシェ・ヴェルリンクの背丈と髪は伸び、手足もすらりとした女らしさを纏い始め、顔立ちからあどけなさが消え失せる。チェクルも愛くるしさよりも小動物なりのたくましさと愛玩らしい艶やかな毛並みを帯びた。

 はにかむ横顔が既に何処となく物憂げな雰囲気に掻き消されてしまったのは王位後継者としての重責を担わんとする決意によるものが半分、残りは立て続けに愛する祖父母の死を経験したからだと己自身を理解していた。その様なイゼリアーシェ・ヴェルリンクにとってチェクルは端的な表現を用いるのならば心の支えであった。剣術の稽古の後は流れる汗を拭うのを忘れてチェクルの許へ駆け寄り、王位を継ぐ者としての学問と教養は必ずチェクルを膝に乗せたまま教育者の話に耳を傾けていた。

「まぁ、なんとも幸せそうですこと。」

 ハガンは亡き愛玩の毛皮を用いた帽子の肌触りを未だに堪能しながら口を開く。薄桃色の袷と褐色の毛が冬の室内で折り重なっている。暖炉の薪が弾ければ刹那の剣霊の可憐な雰囲気に温かみを添えていた。

「ハガンさんのおっしゃる通り、今となっては幸に溢れていたと思っております。ただ…。」

「ただ、なんでしょう?」

「幸とはあっけないものとハガンさんは存じておられる筈です。」

 剣霊は王女殿下に対し言葉ではなく、動かしている手をそのままに細めていた目尻に走る皺を更に深くして答えた。イゼリアーシェ・ヴェルリンクは組む脚を入れ替え、麗しい唇から短い吐息を漏らした後に話を続けた。

 今でも忘れられない五年前の初夏の出来事である。草花が最も芳しく感じられる北部王立国家にとって貴重な時季、雪国で生まれ四季の大半をぶ厚い雲の下で育った王女殿下にとって待ち遠しく楽しみにしている時季にチェクルは息を引き取った。その日、王城の中庭の中で最も背の高い広葉樹に落雷があった。直ぐ脇にある王女殿下の自室に響いた筆舌にし難い轟音にチェクルはショック死してしまった。ノウサギとは極めて繊細な生物といわれている。チェクルの死は己の不手際とも言い切れず、他のそれにも当て嵌まらない。ぶつけ様のない自責の念と最愛の友を失った事実にイゼリアーシェ・ヴェルリンクは打ちひしがれた。食事を喉に通す気力は薄れ、ただ涙を流しながらチェクルの亡骸を小刻みに震える手で撫でるしか出来なかった。

 愛玩を失い無気力となった娘が憂慮に堪えないと騎士の頂点であり国王陛下と呼ばれる父が公務の合間を縫ってわざわざ彼女の自室まで訪れたのは二日後の事である。清楚なベッドの片隅で憔悴の域に既に達した娘を目撃した父は彼女の横に腰を降ろした。か細い肩に馴染みが薄い手が廻る。祖父母の許に預けられていたのだから、娘がそう思うのは当然である。そして父は諭す様に娘に語った。

 安らかな顔だ。そろそろお墓に入れてあげなさい。

 肩に廻した手が離れる。自室の扉が外に控えている者の手で開けられ、父は静かに公務に戻った。いつまでも愛玩の死を悲しんでいてはならない、王位後継者として毅然たる態度を保て、と遠回しに表現していたのは理解している。お墓か、と言葉を反芻して首を横に振った。涙に暮れていた目尻は意志の強さを取り戻し、確固とした足取りでは自室の扉を開ける。既に父とその取り巻きは見当たらない。ただ独り、ユラン・エレエの前任である世話役が心配そうな面持ちと共に佇んでいた。

 数時間後、世話役は王女殿下の指示に従い、王城に仕える馬具職人と料理長を引き連れて戻ってきた。普段であれば互いに顔を合わす機会とは無縁と思われる彼らは怪訝という表現を用いるよりも不思議そうな面持ちでうら若き次期王位後継者の前で膝を床に着けていた。簡素な労いの言葉を掛けるとイゼリアーシェ・ヴェルリンクは大事そうに抱える愛玩の亡骸を二人の前に差し出す。革を扱い、その出来栄えは秀逸の極みと評判の馬具職人にはチェクルの毛皮を用いた帽子を作るように伝え、どの様な食材をも舌鼓を打たせる逸品に仕立て上げる料理長にはチェクルの肉を今晩の献立に加えるように命じた。

 宜しいのですか、と二つ返事をしないそれぞれの職人に対し、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは僅かに躊躇いの眼差しを亡き愛玩の亡骸へ向けた後、踏ん切りをつけたと確固たる表情と共に強く頷いた。

「常に王女殿下の身近な存在として帽子として残すのはとて朧げながら判りますが、肉を召し上がったのは何故です?」

「生まれて初めての友を失いたくない、食べれば友がわたくしの中で生き続ける、と今となっては勝手に信じ込んでいたのだと思われます。」

「左様でございましたか。」

「この話を他の方にするのはハガンさんが初めてなのですが…後味が悪うございましたか?」

 気恥ずかしそうなイゼリアーシェ・ヴェルリンクを見つめるハガンは凛とした目許に普段とは異なる表情を与えたままである。剣霊にして驚愕を隠せない内容はそれまで亡き愛玩の毛皮を用いた帽子を撫で続けていた手を止めさせていた。

が初めてとはなんとも光栄ですわね。」

「光栄と仰られては返す言葉に詰まります。」

「実はも幼き頃に雀を三羽飼っていましたが、最後は丸焼きにして頂きまして…。王女殿下の御気持ち、痛いほど良く判りますわ。」

 ハガンは動きを止めていた手のうち、人差し指一本のみを横に倒して止まり木と言わんばかりにイゼリアーシェ・ヴェルリンクに見せ、優しげに首を傾げては肩をすくめた。刹那の剣霊を彩る黄金色の髪飾りの先端が緩やかに揺れる。雀を三羽飼っていたというのは咄嗟に思いついた作り話である。あてなる者の心中を察そうとした結果がもたらした嘘であり、奇異な行動と捉えられたあてなる者に恥じる姿を晒させまいと考慮した末であろう。

 北部の建築様式に倣った窓がざわついている。吹く風が強くなったと気を惹かせられた者に知らせている。だが、彼女の関心は直ぐに他へと移った。それまで語りながら握り締めていた預かり物の懐中時計が再び姿を現す。彼女は異国の工業製品を茫然と見下ろした。

「どうかなされましたか、王女殿下?」

「針が止まってしまいました。」

 微細であり心地良い振動を放つ秒針は十時の方向を示したままである。常に動いていなければならない存在がその活動を止めていた。

「螺子を巻くのは俺が帰ってからだ、とゾルゾアさんは言われてましたから、それまでそっとしておきましょうか。」

 預かり物の懐中時計の持ち主に何かあったのではないのかという一抹の不安を払拭せんとイゼリアーシェ・ヴェルリンクは乾いた笑みを見せる。

 実際、昨日の夕食後の談話の際にル・ゾルゾアが懐中時計の螺子を巻く姿をハガンは何気なく眺めている。一日の経過を待たずして針が止まるものなのかは判りかねるが、虫の知らせであるという感覚も否めない。ハガンが怪訝な面持ちをひた隠そうとする中、彼女の淡い褐色の瞳が貴賓室の重厚で豪奢な扉へと移り、黄金色の髪飾りの先端が煌きを放った。

「王女殿下。これから面会の予定が御座いましたか?」

「さて。ユランから特にその様な件は聞いておりませんが。」

「足取りからして鎧具足で身を固めた男が一名、こちらに向かっておりますわ。」

 鎧具足と聞いてイゼリアーシェ・ヴェルリンクは思うところがあったのか、観念したかの様に鼻で溜息を漏らした後に腰を降ろしていた応接間の椅子から立ち上がった。

「恐らくその鎧具足の男はテウヌス・イーハンでしょう。わたくしに何かしらの用件を伝えに来たのだと思われます。」

「確かその名は、蒼き騎士を統べる者でしたか。」

「えぇ。彼は剣霊を忌み嫌う急先鋒でもあります。ハガンさん、ここはひとまずお隠れ下さい。」

 そうですわね、とハガンは彼女らしい返事と共に貴賓室を見渡す。身を隠す場所を物色しているのであろう。

「王女殿下は彼の者と常々面会されるのですか?」

「王都を離れたこの地に於いては互いの立場上、仕方ありません。」

 鼻で溜息を漏らした理由をイゼリアーシェ・ヴェルリンクは今度は言葉で表す。これも王女殿下の実務の一片であると理解したハガンは応接間の窓枠の隅で整然とタッセルにて巻かれたカーテンを手に取り広げた。貴賓室の優雅な空間の演出を担うカーテンは厚手で遮光性を期待出来る濃い色合いをしており、豊かなドレープが施されている。これなら好都合とハガンはカーテンで身を包み込んで剣体に戻ると語った。

「事が済みましたら、このカーテン越しでの剣体に触れていただければと思います。間違ってもの剣体を覗き込むのは…。」

「女で言うところの裸体を見られる様なもの、とクラウディアとラファエラから何度も聞かされております。ご心配はいりません。」

「よくご存知で。」

 ふと笑みを見せたハガンはそれまで晒していた頭部もカーテンの内側に包む。布越しに浮き出るハガンの体の線が消えた。刹那の剣霊の真の姿はドレープの隙間に身を寄せ、見事カーテンと同化した。すかさずイゼリアーシェ・ヴェルリンクはハガンが隠れた側と対になる側のタッセルを解く。双方共に均等にしておけば、来訪者にまず気付かれず、怪しまれる事はなかろう。

 ハガンの言葉通りに具足の奏でる重苦しい響きがイゼリアーシェ・ヴェルリンクの耳に届き始めた。手にする懐中時計を隠す場所は、と気を廻す。女が身に纏う衣服とは意外と利便性に劣るものである。男であれば何処かしらのポケットに捩り込めば良いが、女の場合、その捩り込む先が見当たらない。普段と変わらぬ平静を装うならば、と執務用のデスクの椅子を引き出し、身を落ち着かせる。暖かさを既に失ったハーブティーで喉を潤した彼女はそれまでカップの取っ手を摘んでいた手を使って亡き愛玩の毛皮を用いた帽子を持ち上げた。

「チェクル、あの方の懐中時計を預かって下さいな。」

 数秒を掛けて濁りとは無縁の灰色の瞳が文字盤へ落ちる。やはり懐中時計の針は動いていなかった。


 貴賓室の重厚で豪奢な扉が籠手越しの男の手による音を二回奏でる。その音を耳にしてから一呼吸置いて入室の許可を与えれば良い。執務用のデスクに腰を降ろしたまま背筋を伸ばし、両手を緩やかに組ませて手首を天板に添える。開く扉から蒼き騎士の団長が姿を現した際、おや、あなたでしたか、と平然な素振りと共に脚を組む。具足の奏でる重苦しく味気ない響きが剣霊のみならず人間の耳にも届き始めた。たゆまなく炎の形を変化させては時折薪が崩れ落ちる音を響かせる暖炉と同じく、普段と変わらずの仕草と対応で事は済む。その様に自らに言い聞かせたイゼリアーシェ・ヴェルリンクは高鳴る鼓動を感じつつ正面の扉が二回奏でるであろう音を聞き漏らすまいと注意を傾けた。

 しかし、物事が思う様に進まないのは世の常である。叩く音はおろか、入室の許可を伝える声を待たずして貴賓室の重厚で豪奢な扉は勢い良く開く。普段と変わらずに、と思い込んでいただけにイゼリアーシェ・ヴェルリンクは王者の涙相にただ驚きの表情を与えるしか出来なかった。

「殿下、お話が御座います。」

 低く、聴く者を威圧する男の声が貴賓室の空気を塗り替えようとしている。あてなる血統の前であろうともテウヌス・イーハンは踵を打ち鳴らさず、膝を着けず、腰に下げる剣を外さない。左手は剣の鞘のうち、鍔に近い箇所を握り締めている。

「話、だけでは済む様子ではありませんね?」

 明らかに敵意を示す立ち姿に気後れをしてはならないとイゼリアーシェ・ヴェルリンクも眉間に力を込める。執務用のデスクの脇に立て掛けた細身の剣へと息を潜める左手がゆっくりと伸びた。

「ご尤もでございます。」

 僅かにも口の端を歪めたテウヌス・イーハンだが、彼の氷の冷たさを思わせる青い瞳は穏やかではなかった。

「テウヌス・イーハン、北部王立国家の次期王位後継者を認められたとはいえ、若輩の身には変わりないわたくしに敬意を払えないのであればそれはそれで構いません。ですがわたくしの後ろに掲げられた国章旗は気高き騎士の印です。蒼き騎士の団長たるあなたが国章旗を前に佩く剣を解かないとは歴代の王への冒涜であり、国家への忠誠を失ったと見なされても…。」

 青白き一閃がイゼリアーシェ・ヴェルリンクの言葉を遮った。国章旗の中で二名の騎士を見守る剣と槍を掲げた龍は厳つい表情はそのままに屈強と思しき胴を斜めに斬られてしまった。はらはらと布地特有の軟らかさを有した曲線を描きながら床へ落ちる。イゼリアーシェ・ヴェルリンクは己の後方で何が起きたのか首を動かして確認しようとせず、左手にある細身の剣の鞘を強く握り締めた。

「殿下は勘違いされておられる。」

 テウヌス・イーハンは抜いた燃ゆる剣の切先へ僅かな間だけ視線を落とし、すぐに執務用のデスクに納まるイゼリアーシェ・ヴェルリンクを睨んだ。

「忠誠とは剣霊を討つべく国家に身を捧げる、としんは物心ついた頃から教わりました。ですが殿下は剣霊と良しなにされる道を選ばれた。北部王立国家歴代の王が築かれし偉業の道程を真っ向から否定し、塗り替えようと試みる愚かな考えこそ冒涜の極みと言えましょう。」

 青白き炎が次なる獲物はまだかとおぞましい揺らめきを放ち続けていた。あの揺らめきは見る者に戦意を喪失させるどころか死を迎合させる物々しさを漂わせていると肌で感じ取ったイゼリアーシェ・ヴェルリンクの背筋に寒いものが走る。だが、目を逸らしてはならない。ヴェルリンクの血統が彼女をその様に突き動かしていた。

「殿下の世話役であるユラン・エレエはコノリギスの手先であり、あの者の剣霊を奪取せんとコノリギスから遣わされた剣霊の使い手二名と先程、しんはエジュ・エジェ城塞にて遭遇しました。」

 燃ゆる剣の切先がイゼリアーシェ・ヴェルリンクの正面を捉えた。

「中でも殿下と姿顔立ちが酷似した長い銀髪の剣霊は殿下がよく好まれるお召し物を纏っておりました。果たしてユラン・エレエの独断によるものなのか、殿下もご承知の上なのか、この剣に答えを導かせたくしんは考えております。」

 テウヌス・イーハンの脚が一歩、動いた。身の危険を察したイゼリアーシェ・ヴェルリンクは執務用のデスクの椅子から立ち上がるなり、左手に握る細身の剣を鞘ごと前へ突き出す。立ち襟のドレスの下で両脚が微細な震えを伴う中、王者の涙相を表す目尻の下の黒子は強張り、毅然とした意志を貫かんとする者の矜持を示していた。

わたくしもこの剣に掛けて伺いたい事があります。」

「なんなりと。」

 既に勝利を確信しているテウヌス・イーハンの脚が更に一歩踏み出す。彼の両肩から垂れる黒きマントはしなやかに揺れ、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは暴れる心臓を抑制しようと右の手を胸の上に置いた。

「ユランを斬ったのですか?」

「いや、斬っておりませぬ。」

「剣霊の使い手二名はどうしたのですか?」

「一人は斬り伏せ、一人は鳩尾への殴打で気を失わせました。」

 斬り伏せたと聞いたイゼリアーシェ・ヴェルリンクの濁りとは無縁の灰色の瞳は空虚な趣を注した。

「斬り伏せたのは…どちらですか?」

「革のコートを纏った髭面の男、捕らえていた金髪の剣霊の契約者でした。」

 空虚な趣は憤怒の前振りであった。王者の涙相がいびつに歪み、胸に当てていた右手が握るべき柄へ移る。斜陽に照らされた細身の剣の刀身は七色の光りを放つ。だが、乾いた音と共にイゼリアーシェ・ヴェルリンクはよろめき、右腕に走る衝撃に耐え切れず細身の剣を掴む手を開いた。床に転がる己の剣は刀身の中程から真っ二つに折られ、持ち主に絶望を示唆していた。

「再び申し上げるが、殿下は間違っておられる。」

 下から上へ斬り上げた右腕をそのままにテウヌス・イーハンは三歩目を踏み出した。

「まず、しんと殿下では剣の扱いに雲泥の差がございます。次に殿下の剣はたとえ良く打たれた逸なる一振りであろうと所詮人間の手によるもの。しんが手にするのは今亡きエフゲニオス様を為止めた比類なき剣霊によって息吹を与えられた魔剣。剣の格が明らかに異なるのは剣の威を見極められない殿下とてお判りでしょう。」

「今、何と…。兄上様に手を掛けた剣霊に与えられた剣だと言うのですか?」

「いかにも。」

 猛る龍を意匠とした兜の庇越しに王女殿下を見据える蒼き騎士の団長は王子殿下が剣霊に討たれるまでの顛末を手短に語った。精鋭と謳われた護衛の者たちは腰にぶら下げる得物を振るえずに瞬く間に斬られ、王子殿下は渾身の一撃を数本のか細い指に阻止され、貫かれた心の臓から流れる血の全てを摂取されてしまった。その剣霊は膝より下まで伸びた黒い髪を垂らし、生命の躍動と成れ果てを思わせる赤と黒の世界が描かれたドレスを纏っていた。潔癖を纏う紫色の瞳にあらゆる者は魅せられ、形の整った唇が発する声は聴く者の肌と脳に直接訴え掛けるという。

「剣霊を憎むあなたはその剣霊に魅せられ、今日という今日まで付き従っていたというのですか。」

 騎士の証である剣を失ったイゼリアーシェ・ヴェルリンクは左右の掌を強く握り締め、殺意をちらつかせる存在に圧倒されまいと震える両脚に力を込めていた。

「強きに惹かれるのは騎士であり剣を携える者のさがしんは考えております。あの方は人間の意志による剣霊を絶やし、人間そのものを滅したいと望まれている。その先に何が有るのかしんは判りかねますが、少なくとも理想を語るだけの殿下には到底成しえない世界が広がるでしょうな。」

 燃ゆる剣の刀身が翻った。青白き炎に包まれ、冴え渡る事のない刃にイゼリアーシェ・ヴェルリンクの己を奮い立たせる心身は映り込まない。この妖しき炎を揺らめかせている剣が比類なき剣霊の本来の姿なのかとイゼリアーシェ・ヴェルリンクは過度の緊迫した状況の中で渇きを否めない唇を真一文字に結ぶ。

 本来の姿。この言葉が彼女の中で轟いた。死の覚悟に片足を浸していた虚ろな眼差しは生への固執を取り戻す。イゼリアーシェ・ヴェルリンクは形振り構わずに応接間へ駆け寄るなり、タッセルを外したままのカーテンへ両手を添えた。苦し紛れの行動か、と体の向きを変えたテウヌス・イーハンは鼻で短く笑う。応接間の窓は採光を主とし、嵌め殺しである。この貴賓室に数日間滞在している利用者が知らないとは考え難い。

「見苦しいですぞ、殿下。」

 燃ゆる剣の切先の角度を変えずに歩み寄るテウヌス・イーハンを気にせず、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは神妙な面持ちと共に豊かなドレープを有するカーテンに向けて何か囁いている。俯きながら双眸を細め、王者の涙相を表す目尻の下の黒子が虚飾とは無縁の感情を物語っている。頷く様に頭を下げたイゼリアーシェ・ヴェルリンクはお許し下さいと静かに語り、一振りの剣をテウヌス・イーハンの眼下に晒した。

 北部王立国家出身である二人にとって共に初めて見る剣の種類である。過去に滅びし国家を象徴していた剣なのか、有史以前に誰とも知れず打たれた剣なのかすら判らない。ただ、逸なる一振りなのは一目見た時から誰もが判る。無駄を省いた鞘は太過ぎず細過ぎず、この刀身の長さならではの孤を描いている。斬る為の道具と表現するよりも誰にも冒す事が不可能な尊厳を具現化した姿を思わせた。

 燃ゆる剣の揺らめきが乱れ、テウヌス・イーハンは無意識のうちに足を止めた。手にする魔剣は相対する剣が纏う威に警戒を示し、生死の狭間を潜り抜けた者は剣が醸す涼しげな雰囲気に只ならぬ殺気を肌で読み取ったと言えようか。鞘の中頃を握り締めるイゼリアーシェ・ヴェルリンク自身も手にする剣の佇まいに魅せられ、このまま魅せられていたいと言いたげな趣を覗かせながらも毅然とした面持ちを取り繕いながら口を開いた。

「テウヌス・イーハン、あなたこそ間違っています。絶やし滅するとは憎しみがもたらす結果であり、何も見出せないとわたくしは断言出来ます。」

「殿下、それは剣を知らぬ者の痴れ言。しんの耳には届きませぬ。」

「確かにわたくしは騎士といえ形だけであり、実際に剣の扱いは不慣れです。ですが、わたくしが手にするこの剣が、その様に教えてくれました。」

「ほぉ。剣が教えてくれた、とは殿下らしからぬ言葉ですな。」

「この剣は剣霊の意志が宿る紛れもない一振りです。八百年の時の流れを過ごした彼女の言葉と眼差しにわたくしは心を揺す振られ、一国の王となろう者の指針を示して下さったと感謝の念に堪えません。彼女の心意気を無碍にしない為にもわたくしはここで命運を尽くす訳にはいかず、憎しみに満ちた世界へ染まり続けるこれからの世を阻止しなければならないのです。」

「奇特な心掛け、と言いたいところですが、殿下も剣霊の言葉に耳を傾けられた以上、国は汚れたと臣民の誰もが思うでしょうな。」

「国は汚れません。汚れたのはテウヌス・イーハン、あなたの心です。」

「もはやこれ以上語るのは時間の無駄というもの。しんがこの魔剣で全て無へ返して御覧に入れるまでか。」

 氷の冷たさを思わせる青い瞳が細まり、燃ゆる剣の切先動く。妖しき揺らめきは天を仰いだ。  

「イゼリアーシェ王女殿下、覚悟なされよ。」

「斬れるものなら斬ってみなさい!」

 これまで一度も経験した覚えのない死にもの狂いの気迫にイゼリアーシェ・ヴェルリンクは身を委ねていた。不思議なもので、剣は握る者に囁くという。怒涛の気迫に身を寄せようとも心は波一つ立たせていない水面の如く穏やかでなければその囁きを見逃していたであろう。

 剣を抜くと一般的に表現するが、鞘に納まる刃はそう易々とは姿を現さない。鞘を握る手のうち、親指で鍔を押し出して初めて刀身を白日の下に晒せる状態となる。ハガンの剣体がこれまで見た覚えのない種類の剣にも関わらず、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは当の本人も気付かずにそれをやってのけていた。組み糸を巻付け独特な模様を描く柄へ決意の塊となった右手が伸びる。手の内側の皮膚に吸い付く様なざらつきと頼もしさを抱かせてくれる弾力を感じつつ、己の腰の横に鞘を密着させたイゼリアーシェ・ヴェルリンクは横薙ぎによる無心の一閃を放った。

 何かを斬った、という手応えは腕に伝わらない。そもそも相手となるテウヌス・イーハンに剣蹟を刻める距離には程遠いにも関わらずに一閃を放った理由も見出せない。全ては剣の囁きに従った行動と言えた。しなやかであり、優美な孤をもつハガンの剣体は烏の濡れ羽色を思わせる刀身に冴え渡る輝きを纏わせ、次なる一閃に備えている。その不可侵の輝きは彼女が霊体である際に誰もが関心を寄せる凛とした目許に似ていた。

 貴賓室内の空気が切断され、無となる空間に居合わせたあらゆる物質が崩壊の一途を辿る。暖炉の炎は瞬く間に消え、まだ燃やせる薪は塵と化す。一閃による剣の圧と威に慄いた国章旗の亡骸は弾き飛ばされたかの様に壁面にへばり付き、豪奢な扉は長年天日に晒され乾燥しきった材木よろしく、指数本で動かせる簡素な扉の如く勢い良く軽い音と共に開いた。

 その場に居合わせた人間も例外ではない。一閃による剣の圧と威に体を持っていかれまいとテウヌス・イーハンは音を奏でるほどに奥歯を噛み締め、両脚に力を込める。目の前の空気が全て失われた様な感覚は呼吸が出来ないと焦りを生じさせ、息苦しさを催させた。流石に剣は離してはならないと己を律するも、腕を振るうのもままならない状況にまで陥っていた。右側の脚が一歩退き、続けて左側が同じ様に動く。正確には動かされた。これが剣霊の意志が宿る剣の力かと驚愕を感じるのと同時に剣の扱いに明るくないイゼリアーシェ・ヴェルリンクにより導かれた結果という事実はテウヌス・イーハンの目を見開かせた。

「許せん。たかが小娘の一撃に我輩が足を退けたとは断じて許せん。」

 己に向けての鼓舞なのか、目の前に立つ者への威嚇なのか、鼻息を荒げた蒼き騎士の団長はそれまで片手で握っていた燃ゆる剣の柄を両手で握り直した。是が非でもあてなる血統の王女殿下を害する決意の顕れと捉えるべきか。

 一方のイゼリアーシェ・ヴェルリンクは一閃を放ったまま、放心の態を成していた。彼女もまたハガンの剣体がもたらした結果に心を奪われていたが、濁りとは無縁の灰色の瞳を釘付けにさせたのは執務用のデスクの上での出来事であった。亡き愛玩の毛皮を用いた帽子も暖炉の薪と同じく塵となる様子を見届けさせられた。ハガンに断りもなく剣体を握り締め、鞘から刀身を晒した代償と己に言い聞かせる中、預かり物の懐中時計は相変わらず鈍く重い輝きを放ち続けている。これまで共にし、心を暖めてくれた亡き愛玩の毛皮を用いた帽子は彼女の願いを聞き入れた。そしてこれからは過去に囚われずに先を見つめろと自らの役目に幕を閉じたのだ、と心中で言い聞かせては右手にある烏の濡れ羽色を思わせるハガンの剣体を腕が小刻みに振るえるほど強く握り締める。イゼリアーシェ・ヴェルリンクは人知れず一筋の涙を流した。

 感傷に浸る時間は極めて短い。迫る殺意に気付いたイゼリアーシェ・ヴェルリンクも両手を使って体の前でハガンの剣体を構え直した。抜かれた剣同士が互いの刃を相克し、どちらが正しいのかと矜持を示す時が近付いている。命を切らした懐中時計は時を刻まず、猛るテウヌス・イーハンの荒い鼻息と己の暴れる鼓動がイゼリアーシェ・ヴェルリンクを覆い尽くす。どちらも耳障りであり、生と死の狭間に身を置いていると実感せざるを得ない。

 全ての感覚が自ずと最大限に働こうとしている。流れる時を感じる肌は全身の毛が抜け落ちるかと思うほど毛穴が開き、敏感そのものとなっている。流れる汗が視覚を奪おうと試みるも濁りとは無縁の灰色の瞳は微動だにしない。嗅覚は空気の微細な動きをいち早く掴み取ろうと平静を保ち続けている。

 次なる一閃が決着をつけようとしている中、靴の奏でる音が張り詰めた空気を震わせた。誰か来たのか、とイゼリアーシェ・ヴェルリンクはテウヌス・イーハンから目を逸らさずに意識をそちらへ向ける。奏でる音の間隔から貴賓室の外の廊下を歩く者は男であり、悠然と歩いているのが判る。音の質から革靴とも聴き取れた。次第に響く音が大きくなり、靴音を響かせていた張本人は開いたままにも関わらず貴賓室の重厚で豪奢な扉をわざと二回叩いた。

「見つけたぞ、燃ゆる剣を手にする異教の子。」

 剣霊障により言葉を音で発せないと知られている男はその様に語った。歳相応の低さを有した声を初めて聞いたのもさることながら、彼は軍隊に属していた者らしい規律性を所々に垣間見せていたものの、その仕種や面影が今は全く見受けられない事にイゼリアーシェ・ヴェルリンクは眉をひそめた。げんに彼は開け放たれた重厚で豪奢な扉に右の二の腕を添わせ、寄り掛かる様に立っている。そして左の手には白銀の刀身を持つ鍔無しの直剣を握り締めていた。

「囚われの身となったお主がどうやってここに?」

 テウヌス・イーハンは燃ゆる剣の切先を動かさずに視線だけを新たに現れた男へと向けた。

「知りたいか、異教の子よ?」

「あぁ。是非とも。」

「そうか。知ると共に後悔するぞ。」

 苦笑を僅かに覗かせた彼はこちらに来いと無言で男らしさの一翼を担う顎をしゃくった。再戦を国営ホテルの廊下で繰り広げようと提案しているのだろうか。一方のテウヌス・イーハンは面白い、ならば受けて立つまでと不敵な笑みを零す。

「異教の娘、汝はそこで待っていろ。」

 殿下と呼ばれ続けて育ったイゼリアーシェ・ヴェルリンクにとって異教の娘という突拍子もない響きは自尊心をないがしろにされたと湧き上がる腹立たしさよりも唖然とさせた。構えるハガンの剣体をそのままに慌てて返事をしようにも声が出ない。燃ゆる剣の妖しき揺らめきとは異なる、冷たい刃の煌きに当てられたと言えようか。

 鍔無しの直剣の血抜きに頭をもたげる黒蛇の彫刻は黄昏時の光の加減によるものか、エジュ・エジェ城塞の深部で見せていた時よりも凄まじき睥睨を撒き散らしていたのを異教の娘と呼ばれた王女殿下は知る由もなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ