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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第三章 エジュ・エジェ城塞編
46/75

澎湃たる心の奥底

 青白き炎の揺らめきに流れる時が息を呑み込んだかの様な静けさに包まれんとしている。

 テウヌス・イーハンは王女殿下の前であろうと燃ゆる剣を鞘に収めようとしなかった。何故なら、目の前の人物が本当に王女殿下なのか疑問を払拭出来ずにいたからに他ならない。

 姿かたちは王女殿下と見紛うが、内なるものが違い過ぎる。王者の涙相を持つ彼女が生来より備えている胆力は年長者であるテウヌス・イーハンも認めていた。しかし、生と死の境界を潜り抜けた者だけが初めて纏う事を許される覇気というものが存在する。死にもの狂いで剣を振りかざす事はおろか、一振りの剣に己の生命を託す経験を知らない王女殿下が覇気を纏えるものだろうか。

 王女殿下の足許では一人の男が膝を着けていた。虫の息とは程遠いが、腕に怪我を負い、流血による体力の消耗を余儀なくされているのが判る。さらにその奥では一人の女が二振りの剣霊を抱え込む様に抱き締めていた。脳天よりやや後ろで一つに束ねた濃淡のある赤い髪を持つ女とはテウヌス・イーハンの中では一人しかいない。

「ユラン・エレエ。まさか君が剣霊の契約者だったとはな。」

 燃ゆる剣の角度が変わった。ル・ゾルゾアの背中を斬った様に下から上への一閃をいつでも繰り出せる様に腕の筋肉が隆起し、確実に相手を仕留めんとしている。

「殿下、この状況を臣に説明して戴けますか。」

 無論、順序を踏んだ説明が出来ないのを承知の上での発言である。対するイルサーシャも硬く口を結んだまま一歩も動こうとしない。人間であれば背中に流れる汗が滝の様に感じられるであろう中、彼女は両脚を肩幅に開いたまま静かにしていた。それはテウヌス・イーハンと同じく、咄嗟の判断で攻撃に移れる状態を維持し、且つ契約者であるユストの身体を庇う構えでもあった。

「殿下は言葉をお忘れになってしまったのか。ならばこれで少しは思い出せますかな?」

 氷の冷たさを思わせる青い瞳に表情を与えずにテウヌス・イーハンは横薙ぎの一閃を放った。己の剣霊たちを抱え込むユラン・エレエの両腕に青白き炎が襲い掛かり、巻き付けていた黒い布が無惨にも焦げ落ちる。左右の腕に彫られた豪奢な蔦模様が晒され、刀身の中頃を交差させた波打つ刃の大剣が三本、エジュ・エジェ城塞の薄気味悪い世界に姿を現した。

「ほぉ。女だでらに立派なものだ。」

 失笑を零したテウヌス・イーハンは気配が動くのを感じ、氷の冷たさを思わせる青い瞳を素早く動かす。遂にイルサーシャが一歩踏み出していた。

「黙れ。」

「殿下、ようやく御声を発せられましたか。ただ、普段よりも声色が低く感じられますが。」

「黙れ、と言っておる。」

「ユラン・エレエは殿下の世話役と称しながらも、その実は剣霊の契約者であり、コノリギスから送り込まれた間者と見て間違いないでしょうな。今ここで剣霊ともども成敗すべきと臣は提言しますが、殿下の御考えは如何に?」

「黙れ、これ以上彼女に手出しをしたら許さん。」

 イルサーシャは再び一歩足を前へと進めた。王女殿下がこれまで見せた事のない勇ましき言動もさる事ながら、その中に焦りが混ざっているとテウヌス・イーハンは勘付いた。彼も剣を携える者であり、その実力は一流である。一流である者は己の中で囁く勘に耳を傾ける。勘が最良の道を示すと幾度となく潜り抜けた生と死の岐路が教えてくれた。だが、王女殿下が何に対して焦りを生じさせているのかはまだ明確には判らない。

 三歩目の足が動いた。漲る覇気が彼女の焦りの要因とは何かを守ろうとしている事だと語っている。守るとは己の為ではない。他があって始めて為しえる行動である。

 テウヌス・イーハンは視線だけ動かして周囲を見渡した。契約者が倒れた今、ブリスタンが攻撃に打って出る可能性は極めて低い。たとえ契約者の血を摂取し霊力の回復が見込めたとしても、彼女には燃ゆる剣が持つ力の何たるかを先に見せ付けている。やぶれれかぶれの一撃を放とうものなら、それこそ終焉という言葉が彼女を覆い尽くす。抵抗力を失った契約者の息の根を止めるだけであるのを彼女は知っていよう。クラウディアとラファエラも同様である。若き双子の剣霊の契約者であるユラン・エレエの腕に傷を負わせた。次の一閃は傷どころでは済まされないのを剣霊と契約者共々理解した筈である。

 見れば酸の雫は王女殿下を中心としてその周りでは滴っていない。もしや太祖たるカルラン・ヴェルリンクの伝説は真実であり、彼女は国を興した太祖の再来か、と訝しむ。ヴェルリンクの血が再び舞い降りたとエジュ・エジェ城塞は告げているのか。まさかとも思う。

 奇跡は燃ゆる剣を与えた剣霊が過去に見せ付けてくれた。その奇跡を上回るほどの衝撃を若き乙女である王女殿下が成せようか。

 人間は剣霊には遠く及ばない。全てはこの絶大無比の力を有する剣霊より授かった燃ゆる剣が放つ一閃が結果を示す。そうでなければならないのだ、とテウヌス・イーハンは眉間に皺を寄せた。

 テウヌス・イーハンが具足の奏でる味気ない音を横へ一つ響かせればイルサーシャは体の向きを変える。更に横へと動こうものなら、寸分違わずに王女殿下の両肩は蒼き騎士の団長と平行を保とうとする。

「そういう事か。」

 テウヌス・イーハンは王女殿下が守る対象を突き止めた。彼女の真後ろで肩で息をする男である。風体からして歳は三十を過ぎたぐらいか。今は亡き王子殿下、エフゲニオス・ヴェルリンクが存命とあらば彼と同じ年頃であった。妹が兄を守るか、と彼は目を細めた。

 己も妹に助けられた覚えが有る。助けられたとは生命ではない、生き様についてである。妹は邪剣霊の餌食となり、剣霊を憎み尽く討ち滅ぼせと兄に道程を示させてくれた。美しき兄弟愛か、と心の片隅で思う中、肩で息をする男へと再び視線を注ぐ。黒いコートを羽織る彼の右腕は同じく黒地に金の刺繍が走るスカーフが巻かれている。松明の揺らめきはその刺繍の意味をテウヌス・イーハンに読み取らせた。燃ゆる剣を握る籠手越しの手に力が込められる。

 剣を嘴に銜えた鳩を描いたあの刺繍はコノリギスに所属する者の証。この男も剣霊の契約者か、と確証を得ると同じくして猛る龍の顎を意匠とした兜の奥に佇む目を見開いた。黒き髪の剣霊使いという言葉がテウヌス・イーハンの体内で轟いたからである。この男を生け捕りにすれば報酬としてあの御方より更なる待遇を約束してくれた。千載一遇の好機をみすみすやり過ごせようか。しかも相手を追い求め、追い詰めた訳でもない。向こうからこちらの懐へ飛び込んできた様なものである。

 テウヌス・イーハンは己の鼻腔が広がり、唇の両端がいびつな角度を自然と作りあげようとしているのを自覚した。

 しかし、この男は燃ゆる剣を剣体とする創造の剣霊インファンティラに表情を与えた唯一の存在でもある。余程の手練れなのだろうか。今は亡き王子殿下と出会い、心の臓を一突きし、流れ出でんとするあてなる血潮を啜り尽くして心身を癒されようとも大地の意志を語る神剣霊は眉一つ動かさなかった。僅かにも女の一欠片を覗かせたインファンティラの表情をテウヌス・イーハンは脳裏に浮かべた後、燃ゆる剣の切先を王女殿下の眉間へと定めた。

「殿下、いや、剣霊。そこを退いて貰おう。」

 燃ゆる剣の切先で揺れ動く青白き炎を目の前に突き付けられたイルサーシャは顎をやや上に向けて不遜な態度を露にした。

「剣霊とばれたか。で、退いてどうする?」

「お前の契約者に用がある。」

がその用件とやらを聞こう。」

「再び言う。お前の契約者だ。お前では話にならん。」

「ならば力ずくでを退けさせるしかあるまい。」

 イルサーシャは左の白い手を己の髪へと伸ばし、結び目を解いた。それまで収縮されていた闘志が開放されたかの様に白銀の長い髪は松明の淡い灯火の許で優雅な孤を描き、本来の形へと戻った。

「我輩の前で髪を解くとは。何のつもりだ?」

「いやなに。窮屈この上なかったからな。」

「ほぉ?」

「そなたがその得体の知れぬ剣を鞘から抜いたままでいる以上、としても全力で挑むのが礼儀であろう?」

「たいした自信だな、剣霊。」

「あぁ。これで五百余年罷り通してきた。今更変えられんよ。」

 氷の冷たさを思わせる青い瞳と奥深き緑色の瞳が互いの腹を探り合う。対峙する者の実力を測り、どの様な手段で攻撃を仕掛けてくるか洩れなく確実に読み取る。既に雌雄を決する舞台は整い、あとは二人の役者が演じるだけとなった。

 白銀の長い髪の剣霊と蒼き騎士の団長の思惑とは関係無しに松明は酸の雫に穿ち続けられている床が描いた不気味な模様を照らしている。不規則な曲線のみで構成される模様の中で人間の影が動き、二人の役者は視線を変えずに幾許かの意識をそちらへと動かした。

 それまで倒れていた三名の蒼き騎士たちが上半身を持ち上げ始めていた。ブリスタンの斬撃を受けた兜を押さえつつ、まるで寝起きの様な呻きと共にである。三名は腰を落とし、剣を鞘から抜こうとした時点で倒れている。何が起きたのか状況が掴みきれない中、命に別状は無いと知るも束の間、景色が変わっていた。髪を振り解いた王女殿下と魔剣と呼ぶのに相応しい不可思議な剣の柄を握り締める蒼き騎士の団長が一触即発の状態で構えていたからである。

「団長閣下?一体これは…?」

 三名の中でも年長者と思われる左側の蒼き騎士は茫然とするよりも剣に手を伸ばそうとする。だが聴覚への衝撃が残っているのか、苦い顔と共にふらつく足許に力を込めていた。

「君たち、動けるかね?」

 テウヌス・イーハンは団長らしく部下の無事に安堵の笑みを零さず、耽々と口を開いた。彼から見て三名の蒼き騎士たちは横一列に並んでいた。

「これしき、誉れ高き蒼き騎士である我々にとって何の問題もございません。」

 右側の蒼き騎士が己を鼓舞しようと声を挙げる。

「そのままで結構。君たちは良く働いてくれた。」

「何を仰りますか。王女殿下の御身を忌々しき剣霊から守るのが我々の務め。団長閣下のみに骨を折らせる訳にはまいりません。」

 三人目の蒼き騎士の眼差しが髪を振り解いた王女殿下へと注がれる。それにしても何故、団長閣下は王女殿下に不可思議な剣の切先を向けているのか、と視界に飛び込む事実に三名の蒼き騎士たちはそれぞれの中で生まれた疑問を払拭出来ずにいた。

「君たちの忠義はまことの王女殿下に我輩から伝えておこう。何も思い残さずに死に給え。」

 鼻から大きく息を吐くと同時にテウヌス・イーハンは素早い横薙ぎの一閃を放つ。左側の蒼き騎士の肩を始まりとし、三人目の蒼き騎士の胸を経て、右側の蒼き騎士の脇腹へ青白き炎が迸った。それぞれの蒼き鎧に刻まれた傷は至近距離だけに深い。想像を絶する灼熱に晒された皮膚は焼け、その内側を流れる血液が蒸発する異臭が立ち込め始める。咽返るほどの空気が狭い通路を覆い尽くそうとも剣霊であるイルサーシャは無論、斬撃を放ったテウヌス・イーハンも呼吸を乱さずに一切の隙を見せない。むしろ斬撃を放った後に直ぐに構え直し、燃ゆる剣の切先はイルサーシャの眉間を正確に捉えていた。

「そなた、同胞を斬って何も思わないのか?」

 五指を揃えるイルサーシャの言葉はテウヌス・イーハンの燃ゆる剣の柄を握る拳に骨の軋む音を奏でさせた。

「同胞?我輩にとってこの剣を手にした時からその様な脆弱な足手纏いは無用となった。」

「そうか…。」

 ふっと鼻で笑った直後、イルサーシャが先に攻撃を仕掛けた。剣霊の瞬発力は人間のそれを遥かに凌駕する。己の眉間に狙いを定めている燃ゆる剣の切先を恐れずに床を一蹴りし、相手の懐を目掛けて飛び込む。テウヌス・イーハンは猛る龍を意匠とした兜の下で眉間に皺を寄せ、構えていた燃ゆる剣を上に振り上げようとした。だが、既に遅い。イルサーシャは上半身を捻り、右の手で作り上げた手刀が蒼き鎧の右手首を打つ。同時に体を捻る事により、鳥の尾羽の如くなびいていた刀身の象徴である白銀の長い髪は遠心力を得て、蒼き鎧の右肩を目掛けて襲い掛かる。金属同士が立て続けに激しくぶつかり合う。触れる全てを食い破る剣と物怖じとは無縁の雄強たる鎧が奏でた相克の響きに当事者たちは表情を動かさず、再び距離を置いた。

「籠手への一撃は陽動か。」

 無言の空間を打ち破ったのはテウヌス・イーハンであった。確かに彼の言葉通り、イルサーシャの手刀は主たる斬撃の為ではなかった。体を捻った際の支えとして、また己の髪に遠心力を与える為の支点として楔を打ち込んだ様なものと解釈出来る。実際に手刀を打ち込まれた籠手に損傷は見当たらない。一方の白銀の長い髪が穿った右肩には一条の傷が走り、その部分のみ蒼き輝きがくすんでいた。

「だが、ここまでの様だな。」

 右肩の走る傷に視線を落としたテウヌス・イーハンが鼻で短く笑う。イルサーシャの眉間を捉えていた燃ゆる剣の切先がゆっくりと下へと落ち、急激に跳ね上がった。襲い掛かる青白き炎の斬撃をイルサーシャは首を傾け、最小限の動きで回避する。後方の壁を経て、床を穿つ。何事もなかったかの様な雰囲気を絶やさないイルサーシャにテウヌス・イーハンは再び燃ゆる剣の切先を躍らせた。跳ね上がる切先の軌跡から、次手は顔ではなく左の鎖骨の辺りを狙った斬撃だといち早く読んだイルサーシャは左足を一歩引き、体を斜めにする。だがこの時、白銀の長い髪の剣霊は戦いの最中に動揺を顔に出した。

「しまった!」

 燃ゆる剣の切先が狙っていたのはイルサーシャではない。先と同じく青白き炎の斬撃は松明の揺らめきに朧気に照らされた壁を反射する。違うのは目的地である。イルサーシャの後ろで膝を着けているユストの右肩の直ぐ脇で不気味な模様を描く床が抉られた。幸いにして青白き炎の威力は壁を跳ね返る際に減退していたが、もし直撃を甘んじていたとなれば、ただでは済まないのは明らかである。

「そなた、大事はないか?」

 直撃を免れたとは言え、己の判断の誤りに責務を覚えずにはいられないイルサーシャはテウヌス・イーハンに向けている体の正面を動かさない。動かしては次なる一閃の格好の対象となる。

「さて、黒髪の剣霊使いよ、そろそろ我輩と差し向かって勝負をしないか。」

 テウヌス・イーハンは下げていた燃ゆる剣の切先をきっかり九十度回転させ、その先を床に着けた。剣の側面をわざと見せるとは相手の返事を待つ行為と見て取れよう。先の跳ね上げた切先はイルサーシャには動揺を与え、ユストには挑発を覚えさせた。奇しくも偶然ではなく、予め目論んだのであれば、テウヌス・イーハンという蒼き騎士を束ねる男の実力は計り知れないとユストは右腕に走る痛みに利き手を添えながら俯く顔を上げた。

 このままではイルサーシャの霊力に問題は生じないものの、心に憔悴をもたらす可能性が充分考えられる。やはりここは、とユストは着けていた膝を動かし、自らを盾にしていた剣霊の許へと歩み寄る。テウヌス・イーハンを注視する目許をそのままにして、剣を握るべき左手はイルサーシャの腰に添えられた。

「よかろう、との契約者は言っておる。だがこの場にいる他の者たちが去るまで静観するのが条件だ。」

 ユスト自身も逃げるという言葉を用いていなかった。他の剣霊の矜持を逆撫でしまいと配慮した結果であろうか。イルサーシャ以外の剣霊は契約者の血を摂取しようともテウヌス・イーハンに挑まない理由を考察するならば一つの回答しかない。彼女たちは蒼き騎士の団長が手にする得体の知れぬ剣の凄まじき力を目の当たりにしている為、とユストは見ていた。ならば一刻も早くこの場を立ち去るべきである。戦意無き者たちを庇いきれる自信はない。

「もしやお主、口が利けないのか?」

「そうだ。の剣霊障によるものだ。」

「なるほど。音を発せずに相手を葬る剣霊使いがいると風の噂で聞いたが、お主の事とは。」

「どうであろうな。その噂の真贋をそなたの命で確かめてみるか。」

「ほぉ。口は利けぬど、大言を吐くか。面白い。その条件とやらを呑んでやろう。」

 燃ゆる剣が鞘に納まった。青白き炎の輝きを失った城塞深部の狭路に佇む空気が重く静寂なものへと変化する。相対する二人の男の顔に静かであり、深い陰影が施された。

 両腕に巻き付けていた黒い布の残骸を払い除けたユラン・エレエと若き双子の剣霊が再会を果たした場所はユストとイルサーシャが立つ位置よりそれなりに離れていた。クラウディアとラファエラの霊力が完全に回復していないとなれば、確かに今はこの場を去るべきかもしれない。ユラン・エレエは己の剣霊たちの頭を強く抱き締めた。

「ねぇ、ユラン。もう一つお願いが出来たの。」

 柔らかであり心落ち着く場所である契約者の胸の膨らみに横顔を押し付けていたクラウディアは冬の晴れ渡った空色の瞳に悲哀の趣を湛えながら言葉を続けた。

とラファエラはもう歩けるよ。だからブリスタンの契約者を助けてあげて。」

 何を言い出すのか、と言わんばかりにユラン・エレエは形の整った細い眉を動かした。

「あれは男だ。おまえたちの剣霊障がわたしにどの様な効果を生じさせたか判っているだろう?」

「だけど、たちはブリスタンから彼の血を貰ってここまで無事でいられたんだ。」

「つまり…借りを返すとお前は言いたいのか?」

「そうだよ。」

 クラウディアはユラン・エレエの胸の頂きから横顔を離し、己の首筋に廻っていた頼れる腕を振り解いた。

もクラウディアと同じ考えだ。ブリスタンの契約者であるル・ゾルゾアは悪い男ではない。」

「ラファエラ、お前までも…。」

「己の剣の為に心を痛める男だと彼の血が教えてくれた。だから助けて欲しい。」

 クラウディアを真似てラファエラも横顔を離す。誰のお蔭で男が視界に映る事すら嫌い、触れるのはもっての他となったのかと言いたいところだが、今は判断に費やす時間は無いに等しい。若き双子の剣霊たちの眼差しは純粋であり、確固としている。初めて彼女たちと出会った時と同じ表情をしている。湧き上がる感情の言葉を飲み込んだユラン・エレエはクラウディアとラファエラのそれぞれの肩に手を置く。濃淡のある赤い髪が馬の尾の様になびいた。

 退けと言葉を発さずともル・ゾルゾアの脇で彼を見守り、更なる斬撃を繰り出すのならば迎え打たんと険しい面持ちを崩さないブリスタンは黄金色の豊かな髪にしなやかな動きを与えた。

「あなた、のルを抱えるつもり?」

 これがあの男が契約を交わした剣霊か、と思う。豊かな髪と同じ色の瞳を知り、何処となく危険な匂いを感じたユラン・エレエは視線を他へと投げる。次は深いスリットから覗く女らしい太腿が飛び込んでくる。艶かしさを通り越した女体の曲線にユラン・エレエは僅かにも見惚れてしまった。

「黙っていろ。」

 何をすべきか己に問い質したユラン・エレエは力無く横たわる腕を自らの肩に廻す。彼の背骨が動く向きに合わせて体を持ち上げた。まだ息はある。弱々しいが心臓は鼓動という責務を全うしようとしている。本来ならば安堵の溜息を漏らすであろう中、ユラン・エレエは苦虫を潰したような表情を保ち続けていた。

「クラウディアとラファエラはわたしの前を歩け。わたしの背中はブリスタン、お前に預ける。」

 全身の力を込めるユラン・エレエの荒い息がこの場を去る準備は終えたと振り向かずに佇むユストに教えてくれる。城塞深部の壁面を照らす松明はユラン・エレエと彼女に抱えられたル・ゾルゾア、そして三振りの剣霊たちの影をうっすらと映し出していた。

 どうかこのまま去ってくれ、友を早く治療の場へと運んでくれ、とユストは心の中で願った。相対するテウヌス・イーハンは悠然たる腕組みと共に顎を引いて時の経過に身を寄せている。彼は騎士を自負する男である。約束は守るであろう。蒼き鎧は曇りを知らない鏡の様に頼りなさげな松明を映している。そこにこの場を去る者たちの姿もユストの視界にうっすらと入り込む。そして覆されない事実をユストは知ってしまった。

 何かに怯えたかの如く微細に震えるユストの左手に気付いたイルサーシャは事の次第をすぐに理解した。

「み、見るな。」

 テウヌス・イーハンの攻撃に対処する為にそれまで体の正面を向けていた事すら忘れ、寄り添う様にユストの左腕にしがみ付く。

(イルサーシャ、君はユラン・エレエの腕を知っていたのか?)

(知らん。は知らん。)

 まるで自分に言い聞かせている様な言葉に普段のユストであれば鼻で笑うか軽い溜息を漏らしてみせたであろう。だが、今回は違う。間髪入れずに彼は心の内を語った。

(では何故、愚生に見るなと直ぐに言った?)

(それは…。)

(それは?早く答えろ。)

 返答に窮したイルサーシャは何も言わずにユストを見上げる。初めて見る彼の表情にイルサーシャは目を逸らした。もし彼が人間ではなく獣であったのなら、牙を惜しまずにむき出していたであろうと思わせる憎悪を湛えていた。しがみ付く腕の奥で流れる血が熱くなり、打つ脈が上昇しているのが判る。

「なにやら騒がしい様子だが、時が満ちたぞ。」

 引いていた顎を元の位置に戻したテウヌス・イーハンは静かに燃ゆる剣の柄に利き腕を添えた。既にこの場を去る者たちの影は壁に映っていない。

(ユスト、は…。)

(時間だ、イルサーシャ。)

 剣霊の想いを遮る契約者の見下ろす無情の眼差しは怒りに身を任せている証であった。霊体から剣体へと戻されたイルサーシャは言葉を発せられない。だが、その瞬間に彼女は思った。

 いだいていた危惧が現実となった、と。

 

 差し向かう戦いを挑まれ、鞘から抜かれた剣を見せられた以上、断る理由を捻り出すのは愚と言えた。剣体となったイルサーシャを握る側の腕は機能している。ならば剣士としての誇りに懸けて戦わねばならない。傷を負おうと、体内を流れる血液が減少していようとも、奥歯を噛み締めるユストの双眸は萎靡沈滞とは無縁であった。

 体を動かす能力を人々は体力と口にする。体力とは精神の状況により如何様にもなる。また精神とは己の心の奥底に湧き上がる感情に従順でもある。

 実際、今のユストを突き動かしたのは憤怒であり、それが己の心の襞に隙間なくこびり付いては凝固し初めていると彼は感じていた。これらを元ある状態まで戻すにはユラン・エレエを倒すしかない。だが、その前に目の前の蒼き騎士の団長と雌雄を決さなければならない。肩幅と同等に開いている両脚のうち、左側を半歩前に出したテウヌス・イーハンは燃ゆる剣の柄を握る右手を左の脇腹へと動かす。右脚を踏み出すと同時に斜めに斬り上げるか、水平に薙ぐかのどちらかであり、大振りな構えでもある。余程の自信が有るのか、或いは威容を誇り相手の覇気を削ぐ算段か。

「早く構えたらどうだ?」

 テウヌス・イーハンの低く男らしい声に対し、ユストは直立の姿勢のままイルサーシャの剣体を握る左手の脇に右の手を加える。五本の左指と三本の右指は顔の高さまで持ち上がった。大振りには大振りで受けて立つ。腕力では隆起する筋肉の質量からして明らかにテウヌス・イーハンがユストより抜きん出ている。だが、俊敏さに於いては具足で固められた者とそうでない者との差が明確に分かれる。ならばそこに活路を見出すしかない。

 天井を示していた白銀の切先が横へ倒れ込む様に床と水平となる。剣霊の使い手の双眸は柄を握る両手で隠され、ざらついた血抜きに頭を添わす黒き蛇がテウヌス・イーハン向けて一瞬たりとも緩めない睥睨を撒き散らす。目を隠すとは相手に心の内を読まれまいとする手段であり、ここでは二つの意味合いがあった。

 一つ目は青白き炎の輝きに眩惑を誘われる恐れが生じたからである。薄暗い中で輝く存在へ意識が自然と向いてしまう。しかも炎を纏う剣という、世の不思議の一つと言っても過言ではなかろう存在を前にして抗うのは困難である。

 二つ目はあの剣を目の当たりにして以来、右の肩がちりちりと疼くのをユストは感じていた。右の肩が怯えている、と表現するのが正しいのか、とも思う。蒼き鎧を纏める彼は単なる武辺者にあらずと一目見た時から解り得た。彼の他を圧倒する立ち姿に怪我を負った体の一部が更なる危険を知らせているのだろうか。だが、疼いているのは肩であり、腕ではない。右の肩と言えば、とユストは過去の出来事を思い返す。青白き炎の揺らめきに冷たき無情の眼差しを思い描く。まさか、と行き過ぎた考えに疑問が生ずるものの、釈然としないものが尾を引く。ならば彼を倒し、剣の素性を聞き出すしか手段はない。

「お主、左で鍔無しの剣を握るか。」

 ユストの音無き口がそうだ、と動き、それを読み取ったテウヌス・イーハンは腰に力を入れる。

「マナエグナの血を引く剣霊とは如何なるものか、後程ゆっくりと調べさせて貰おう。」

 ユストは驚愕した。何処でマナエグナという言葉を知ったか、と口許に込める力が霧散し、僅かに遅れて眉間に皺を寄せる。マナエグナという古来に滅びた者たちの名を知る人間は今の世には存在せず、記録も残っていない。忘却の彼方へと追いやられた者たちを知るのは悠久の流れをこれまで見守ってきた神剣霊の三体のみと聞いている。神剣霊の長姉はおろか、末妹が蒼き騎士の団長にその名を口にするであろうか。残る一体によるものか。ならば右の肩の件も納得が出来る。青白き炎を纏う剣とは神剣霊の次姉が関与していると見て間違いは無かろうとユストは確信した。

 戦う理由が双方にとって明確となった時、ユストの指と脚が動いた。顔の高さを維持したまま白銀の直剣の柄を握り締める八本の指を黒蛇の体を包むざらつく鱗に密着させ、両足の指の付け根に重心を移す。同じく重心を下へと落としたテウヌス・イーハンの右腕が斜め上へ斬り上げんとする。

 金属同士が相克する響きが一つ、手にする剣が床を打つ儚き音色が立て続けに二つ、そして敗れ去る者が倒れる無念がエジュ・エジェ城塞深部を震わせた。

 剣を携える者の戦いとは僅かな時間で全てが終わる。表現を変えるのであれば、剣の威力を最大限に発揮するには一撃で相手を斬らなければならない。ユストとテウヌス・イーハンは共にその定石を理解する男であり、何の疑いもなく定石に準えて剣を振るった。ただ、己の剣の威力は疑いようもないが、相手の剣が単なる一振りではないと明らかに判る中、ユストには奇を衒う必要が生じていたのも事実であった。顔の高さまで剣を床と水平になる様にして構えたのはテウヌス・イーハンの右手を狙っていた為である。斬り上げると同時に剣の柄頭で籠手を強打する。二匹の黒蛇が絡まる先端は鋭どくも強固な尾であり、彼らはユストの期待に応え、テウヌス・イーハンの斬撃を止めた。籠手の内側に響く鈍く重い衝撃は短い呻き声と共にテウヌス・イーハンに燃ゆる剣の柄を離させた。青白き炎が床の上をのたうつ姿を見ずにユストは次なる狙いへと一撃を繰り出す。そこは無防備となった右肩であり、先にイルサーシャによる一撃を受けた箇所でもある。白銀の長い髪が襲い掛かった箇所へ今度は真の姿である白銀の輝きを纏う刀身の刃が蒼き鎧へと喰らい掛かる。計り知れぬ硬度を有する蒼き鎧の肩へ規則性のないひびが走った。

 しかし、そこまでであった。ひびは入ったものの、崩壊までには至らない。ユスト自身もそれを認めたのか、力を込める為に生じた眉間に寄せる皺を深く際立たせていた。すかさずテウヌス・イーハンの左手による拳が先の返礼と言わんばかりにユストの鳩尾を強打する。地に着ける踵が浮き、結ばれていた口が否応無しに開いた。軸となる両脚が震え、腰から力が抜け落ちる。剣を握るべき左手は鉛の様に重く、己の一部ではなかったのかと錯覚に陥る。心身が冷たい。イルサーシャが唇を着けた傷口から己の体内が凍てつき始めている。腕から肩へ、肩から脚へと凍てつく感覚が駆け巡り、胸が大きく鼓動を打つと同時にユストは声を聞いた。

 怒りに身を寄せた結果だ。少し休め、異教の男よ。

 声の主は誰なのか判らない。これまでの人生で初めて聞く声である。正確には男であり、女がいれば子供も、といった複数の声であった。

 戦いに敗れた者の制御の利かない左手から握るべき白銀の直剣が滑り落ちる。酸の雫に舐められ、不気味な模様を描く床の上へ儚く転がった。

 勝敗は決した。前のめりに倒れたユストの横でテウヌス・イーハンは顎をやや上に向けながら右肩に走るひびを見下ろした後、籠手越しの左手はそれを擦っていた。

「己の剣霊と同じ手段を用い、我輩に剣を落とさせるとは。これまたなんとも。」

 テウヌス・イーハンの言葉には賞賛が込められていた。一度繰り出した技は対処法を練られてしまう可能性が充分に考えられる。それでもユストはイルサーシャと同じ手段を用いた。しかもイルサーシャが右肩に刻んだ傷を目掛けて正確に刺突撃を繰り出したのである。一撃で相手を屠る自信があったこそと言えよう。ユストが次手に移らなかったの経験が不足しているからではなく、一手に全身全霊を注いだ結果であると右肩に走るひびが物語っている。彼は一流の剣士であるとテウヌス・イーハンは認め、インファンティラが欲する意味を心なしか理解出来た。

「お主が我が北部王立国家にて生を受けていれば…いや、詮無き話は止すとしよう。」

 深い溜息を漏らしたテウヌス・イーハンは燃ゆる剣を拾い、鞘へ納めた。具足の先端を倒れるユストの左肩へ潜らせ、仰向けの状態へと転がす。左の腕が床の上で自然な形で横たわり、黒いコートの裾が柔らかな畝を作り上げる。気を失っているユストは一切の抵抗すら示さない。強いて言うならば全身の力が抜け落ちた者は想像していたよりも重く感じるぐらいか。

 再び腰を折ったテウヌス・イーハンは白銀の刀身を持つ直剣の柄に手を掛けた。剣霊の意志が宿る剣である証なのか、表裏の血抜きに頭をもたげる二匹の黒蛇の眼差しは映る全てを睥睨している。まるで魂を与えられた彫刻の如く、見る者の肌に寒気を覚えさせる。素晴らしき剣であり、危険な剣でもある。またその様な剣は一振りだけで良いとテウヌス・イーハンは思った。今ここでへし折るか。またはインファンティラにこの黒髪の剣霊使いを引き渡す際に相談するべきか。マナエグナの血とやらも引っ掛かる。しかもこの剣を剣体とする剣霊はイゼリアーシェ・ヴェルリンクと見紛う程の容姿をしている。王女殿下は世話役が剣霊使いと知って己の脇に立たせていた。もしや国王陛下も容認していたのか。剣霊を忌み嫌う臣民の全てを王家自らが欺いたと言おうとも過言ではない。ならばあてなる血統の者であろうと断罪に値する。

 人間は時の流れと共に老化に身を預けるが、剣霊は歳を取らずに肌の潤いをそのままにいつまでも同じ姿を保つ。一時の凌ぎではあるが、亡き王女殿下の傀儡として有効活用も悪くなかろう。剣霊を憎む己も剣霊から燃ゆる剣を与えられた後ろめたさが無い訳でもない。だが、この魔剣は誰であろうと見る者の口を塞がせる姿と力を有している。己が至上と自負して止まない剣霊たちも驚愕の表情を惜しまずに晒していた。力を欲して何が悪い。我輩は力を欲する権利を与えられ行使しているに過ぎんのだ、とテウヌス・イーハンは自問し、白銀の直剣に佇む黒蛇を睨む。

 次にすべきは王女殿下の身柄の拘束と決まった。彼女の世話役であるユラン・エレエが抵抗を試みようともどちらが実力が上なのか彼女は頭はもとより肌で理解したであろう。それでも立ち向かうのであればこの燃ゆる剣で薙ぎ払うだけである。

 心が勇み立つ震えに身を浸す中、テウヌス・イーハンは新たな音と気配に気付いた。手にする白銀の刀身を持つ直剣をユストの顔の脇に突き刺し、鞘に納まる燃ゆる剣の柄をいつでも瞬時に掴める状態にする。視覚と聴覚で新たな音と気配を探る。酸の雫による悪戯ではない。城塞深部の奥、つまり剣霊を捕らえている牢が存在する方向からである。

 重い体を引き摺る様に、規律とは皆無な響きが奏でられている。相手は警戒心の欠片も感じさせず、命からがらといった様子が覗える。これは甲冑を身に着ける者か、と眉をひそめ、肩で呼吸をする音が混ざる。揺らめく松明が新たな蒼き騎士の一人を照らし始め、テウヌス・イーハンは燃ゆる剣の柄を掴もうとしていた右腕を楽にさせた。

「君、ここで何をしている?姓名を述べよ。」

 新たな蒼き騎士の顔色は剣霊の様に蒼白であり、憔悴の極みの最中であるとテウヌス・イーハンは直ぐに察知した。

「団長閣下。臣はエリク・カルスであります。無様な姿を閣下の前に晒す事、深くお詫び申し上げます。」

 覚束ない両脚に力を込めて踵を打ち鳴らすエリク・カルスにテウヌス・イーハンは静かに頷いて答えた。

「エリク・カルスよ。君は立つのもやっとの様子と我輩は見ているが。」

「いえ、臣は剣霊の術に嵌められた程度で弱音を吐く脆弱者ではございません。」

 なるほど、エリク・カルスの発言と姿を表した方向をすり合わせれば幽閉されていた剣霊たちに彼は一杯食わされたのだと想像に難くない。どの様な手筈かまでは判りかねるが、結果として黄金色の豊かな髪の剣霊に魂を弄ばれたのであろうとテウヌス・イーハンは理解した。

「蒼き騎士の鑑だな、君は。」

「臣の身の上をお褒め頂き光栄ですが、閣下、この有様は…?」

 エリク・カルスの弱った視線の先を追えば彼の疑問の対象へと自然と行き着く。これか、とテウヌス・イーハンは倒れるユストの脇腹を具足の先端で小突いた。

「剣霊使いだよ。」

「あの金髪の剣霊を助けに契約者が潜り込んだのでしょうか?となると、その剣が金髪の剣霊の剣体ですか?」

「少し違うな。金髪と双子の剣霊を奪取せんと動いていた他の剣霊とその契約者だ。」

「ならば臣に屈辱を植え付けた金髪の剣霊は…?」

「君を篭絡した剣霊たちはそれぞれの契約者と合流してこの場から去ったところだ。」

 それは残念だ、と肩を落とすエリク・カルスは転がる三体分の蒼き鎧を知り、歯の根が合わない姿を露にした。

「団長閣下、彼らはもしや剣霊の餌食に…?」

「まぁ、そうだな。」

 エリク・カルスの慄き様からして黒髪の剣霊使いとの一戦を覗かれていないとテウヌス・イーハンは判断し、燃ゆる剣の鞘を二回叩いた。

「君は命拾いしたな。」

「団長閣下、今何と?」

「いや、気にしないでくれ。」

 意味深長な短い笑みをテウヌス・イーハンは見せ、ユストの手足を縛れとエリク・カルスに指示を与えた。

「口は如何なさいますか?」

「あぁ、この剣霊使いは喋れん。」

「ですが、囚われたと知って舌を噛み切るかもしれません。」

「剣より先に命を断つのはこの者たちにとって潔しとしないらしい。その様な心配は無用だ。」

「故にこの男が見える様にと顔の横に剣を突き刺したのでしょうか。畏れ入りました。」

「いや、これは偶然に過ぎんよ。一つ用事を済ませてくる。我輩が戻るまでこの剣霊使いを見張っておいてくれ。」

「閣下、これからどちらまで?」

「余計な詮索、それこそ無用だと君は思わんのかね?」

「は、失礼しました。」

 氷の冷たさを思わせる青い瞳がエリク・カルスを射抜き、彼の喉仏が上下する様子を見届けた後にテウヌス・イーハンは踵を返した。彼の背を彩る黒いマントが緩やかに翻り、意を決した男の具足が奏でる重苦しくも規則正しい響きが城塞深部の狭路に木霊する。

 団長の後ろ姿を眺めるエリク・カルスは胸騒ぎを覚えずには入られなかった。先に睨まれた青い瞳は凄まじき殺気を放っていたからである。蒼き騎士の頂きである団長の戦意が剥き出しになった眼差しは誰に向けてなのか、とエリク・カルスは首を捻る。この場を去った剣霊とその契約者たち一党だろうと判断するしか彼には選択肢がなかった。

 具足の響きが遠ざかり、エリク・カルスは狭路の壁面に体を寄り掛けた。過度の緊張の副作用か、それまで黄金色の豊かな髪の剣霊の術中にあったと思い込んでいた手足が楽に動く事に気付く。同時に天井へと顔を向ける。酸の雫が滴る様子が全く感じられない。これから何かが起こる前触れなのだろうか。エリク・カルスは微動だにしない剣霊使いへと顔を動かした。

 剣より先に命を断つのは潔しとしないとは言うものの、緩やかに目を閉じ、僅かに口を開く姿を見せられては事切れた有り様を想像させられる。それこそ魂が抜け落ちた亡骸という言葉が彼の為に用意されたと言っても誰も異論を唱えないであろう姿であった。


 独り残されたエリク・カルスはテウヌス・イーハンの指示を忠実に従うべく、速やかに行動へ移った。黄金色の豊かな髪の剣霊に渡した布が隅に落ちている。姿無き同僚三体の鎧の脇を通り、血肉が焼けた独特の臭いに疑問を覚えつつ、布を手にする。やはり酸の雫が滴った形跡は見られない。

 布を二つに裂き、剣霊使いと言われた黒髪の男の両手足を縛る。脱力した四股は重力に従順であり、想像以上の重量にエリク・カルスは額に流れる汗を籠手越しの腕で拭いながら作業を行う。体の前で両手首を重ね、革製の靴から覗く両足首をつかねられた剣霊使いの姿を確認したエリク・カルスはひとまず仕事を終えたと剣霊使いから少し離れた箇所で大儀そうに腰を降ろした。

 蒼き騎士の団長は自らが戻るまでこの男を見張っていろ、と指示を下した。果たして何時戻ってくるかは判らず、訊ける状況でもなかった。両手を体の横に広げ、掌を床に着けたエリク・カルスは深く息を漏らす。亡き同僚たちの蒼き鎧が松明の揺らめきによって幻想的な色合いへと変化している。三名もやられたのかと思い、先程まで震わせていた下唇を噛み締める。遺骨の一片すら残さずに彼らはこの世を去った。剣霊の仕業にしては惨すぎるとエリク・カルスは眉間に皺を寄せた。剣霊は人間の血を喰らうと聞いているが、余程腹を空かしていたのか、勢い余って全てを喰らったのだろう。それにしては名残りが見当たらない。抜け殻となった鎧に血の痕跡は見当たらず、毛髪すら落ちていない。金髪と双子の剣霊の仕業と勘繰るよりは、手足を縛られた黒髪の剣霊使いとその剣霊がもたらした惨劇と判断するべきか。

 世の中には空恐ろしい存在があり、団長閣下が見事打ち破ったのだとエリク・カルスは自らの功績の様に誇らしげに思った。同時にこの剣霊使いの相方である剣霊とはどの様な容姿なのだろうかと疑問が生じる。疑問と表現するよりも己の身の安全を確信しているからこそが湧き上がった好奇心に近い。剣霊使いの顔の脇にはまるで彼の墓標と言わんばかりに一振りの直剣が突き刺さっている。あるいは気を失っている契約者を案じて剣が身を寄り添わせていると表現した方か正しいだろうか。どちらにせよ、剣に愛されるとは少々羨ましいと思いつつ、エリク・カルスは一振りの直剣を注視した。

 薄闇の中で白銀の刀身は曇らず、諸刃の刃は血糊はおろか、人間の脂によるくすみは一切寄せ付けない凄惨な輝きを保ち続けている。刀身の中頃は血抜きとして程好く抉られた箇所があり、そこに装飾である二匹の黒蛇が頭を表裏それぞれの面に擡げている。柄頭から血抜きまで巻き付く様に二匹の黒蛇は互いの胴を絡ませていた。精巧に彫られた彫刻と判っていようとも、生きているかの様にこちらを睨んでいる。目を逸らしようものなら瞬く間に呑み込まれるのでは、と芽生える恐怖がエリク・カルスを支配し始める。今は剣体の姿をとっているが、霊体となった時、この剣霊は黒蛇と同じ眼差しを周囲に撒き散らしては視界に飛び込んだ人間を喰らうのであろう。三名の蒼き騎士はこの剣霊に呑み込まれた。だから亡骸が残っていないのだ、と一人納得しようとも、エリク・カルスは転がる蒼き鎧に刻まれた一条の斬撃の名残りを眺めては何処となく腑に落ちない表情を残していた。

 同僚の憎き仇、と認識しようとも目の前で静かに佇む鍔無しの直剣が至高の一振りには変わりない。しかも強大な力を有すると思われる剣霊がその身を寄せる一振りである。団長が戻るまでの暇つぶしではないが、己の手に取り、じっくりと眺めたいという衝動がエリク・カルスの中で湧き上がった。

 魅せられた者らしく、エリク・カルスは折った膝をそのままにして至高の一振りへにじり寄った。間近で見れば見るほど二匹の黒蛇の表情に視線を奪われる。強靭な胴に精巧に配置された鱗が松明の揺らめきに照らされる中、エリク・カルスは籠手越しの手を動かす直前に己の耳を疑った。

「おい、異教の子。剣に触れるな。」

 確かに声を聞いた。もの恐ろしい睥睨を緩めない黒蛇たちが喋ったという錯覚、あるいは得体の知れない剣に触れるなと自制心が働いた心の声か。異教の子とは、と疑問を感じる間を与える事なしに再び男の声がエジュ・エジェ城塞深部の空気を震わせた。

「そこの蒼い鎧姿の汝の事だ。此方こなたの可愛い巫女が嫌がる姿を見たくないのでな。」

 不気味な模様を描く床は足音を奏でず、不安を助長する松明の揺らめきは新たな存在の影を壁面に映し出していない。まさか、とエリク・カルスは喉仏を上下にさせながら己の足許へと視線を落とした。

「そうだ。それでいい、異教の子よ。」

 つい先程まで気を失っていた黒髪の剣霊使いが僅かに口角を上にし、エリク・カルスを見上げていた。

「お前…喋れない筈では?」

「あぁ。この異教の男は剣霊となった此方こなたの可愛い巫女の力の影響で音による言葉を失ったらしいな。」

 言葉を失ったと言われた男が悠然と己の口を動かし、他人事の様に事の次第を語っている。ユストは動こうとしたが、両手足の自由は奪われている。男らしい角ばった顎を引いて自由を奪われた状況を確認した彼はエリク・カルスを睨んだ。

「これは汝の所業か?即刻解け、異教の子。」

 ユストの語気に凄まじさは伴っていない。だが、鍔無しの直剣に頭をもたげる黒蛇にも勝るとも劣らない眼光にエリク・カルスは背筋に悪寒が走るのを感じずにはいられなかった。それこそ蛇に睨まれた蛙の心境に似た思いに駆られたエリク・カルスは目を見開いたまま震える籠手越しの手を左の腰へとゆっくり伸ばす。くうを掴んだ。己が佩く剣の柄の場所が判らない。計り知れない恐怖に蒼き騎士たるエリク・カルスは包み込まれていた。

「解かずにこの異教の男を斬るつもりだったのか。ならば致し方あるまい。」

 黒髪の剣霊使いは鼻で大きく息を吐くとエリク・カルスを睨んでいた眼差しを己の頭上へと向けた。

此方こなたの一部たちよ、何を呆けている。此方こなたの威儀を繕え。」

 程好い低さを有し、落ち着きを纏う黒髪の剣霊使いの声が狭い空間で木霊する。これから何が起きるのかと額に流れる汗を拭わずに気を張り巡らすエリク・カルスは己の体が圧迫されている様な息苦しさを覚えた。体重が何倍にも膨れ上がったかと思わせる程の重量を科せられては身動きは取れない。目視では捉えられない何かが蒼き鎧に耳障りな軋む音を奏でさせている。その横では酸の雫が数滴、垂れた。偶然なのか予めの出来事なのか、酸の雫は黒髪の剣霊使いの手足を縛る布を湿らせる。松明の淡い明かりの中で布が濃い色と変化し終わる数秒後に黒髪の剣霊使いは然程の力を入れずに手足を縛る布を引き千切った。

 自由を得た右の腕が伸び、手袋越しの人差し指と中指の先端がエリク・カルスの喉笛の左右に添えられた。

「異教の子よ。滅びしマナエグナに住まう敬虔なる民草の崇拝対象である此方こなたを冒涜した償いだ。」

 喉を押さえられ、身動きを封じられた者に許されるのは絶命を悟り、つぎつぎに湧き上がる感情に身を寄せる事だけであろうか。騎士として戦い抗うどころか、剣も抜けずに命を絶たれてしまうのかという口惜しさ、郷に残した恋人に何も言えずに先立つ未練、そして己が生きた意味とは果たして何であったのかと蟠る疑問。その全てがまだ出尽くすのを待たずに蒼き鎧にひびが走り、鈍重な音を伴い単なる金属片へと変化する。動脈の大半を瞬時に締め上げられたエリク・カルスは意識を失い、とぐろを巻いた蛇の胴の中に身を取り込まれている様な不自然な格好で脱力していた。

「ほぉ。この異教の子の悲愴と苦痛を喰らいたいのか?此方こなたは構わんが、余計なものは喰らうな。互いに争わずに均等に公平に、あと感想はいらんぞ。加えて記憶も少し喰らっておけ。そうだな、月が隠れ陽が昇った頃から今に至るまでとしようか。」

 先程まで縛られていた手足の関節を廻しながらユストは言葉を続けた。

「確かこの異教の男は細長く筒状にした葉の詰め物を燃やし、その煙を吸い込んで平静淡白を得ていたな。果たして此方こなたが好む香とどの様に違うものか…。」

 羽織る黒いコートの前身頃を広げ、己の剣霊の移り香である百年香の爽やかな匂いに嗅覚をくすぐられたユストは満足げな面持ちと共に胸ポケットから煙草を一本取り出した。まるで初めて手にする物体と言わんばかりに目線の高さより上に持ち上げ、角度を変えては関心の素振りを見せる。ぎこちなさが拭えない仕草で煙草の吸い口を上下の唇に挟み、マッチを探し出す。マッチが擦られ歯切れの良い音が短く響く。小さな棒切れの上で燃え盛る炎の表情を眺めては嫌悪感丸出しの面持ちをユストは晒しながら煙草へ近付けた。役目を終えたマッチを忌む様に投げ捨て、鮮やかで温かな色に変化した煙草の先端は暗くなると独特な色合いの煙を立ち上らせる。黒髪の剣霊使いはむっと呼吸を詰まらせる音を発し、苦しそうに咽返った。

「人間の悪癖というやつだな、これは。」

 苦々しい思いから逃れたいとユストはまだ一口しか吸っていない煙草の先端を手袋越しの二本の指で摘み消した。羽織る黒いコートの前身頃を再び掴み、鼻から下を覆う。この香木の爽やかな匂いが最も心安らぐと感慨深そうな呼吸を音に出して漏らす。常に身近に立つ契約を結んだ剣霊ですら身に覚えが無い程に彼は短い時間の内に表情を豊かに変化させていた。

 不自然な格好のままでいたエリク・カルスは砕けた蒼き鎧と共に酸の雫が織り成した模様を描く床の上にその身を委ねた。此方こなたの一部たちと言われた不可視の存在がすべき事柄を終えたのであろう。光る苔は光らず、代わりに蒼き鎧の破片が明けの夜空を飾る星々の如く瞬きを見せている。

「して、いつまで天井にへばりついているつもりだ?」

 大儀そうに黒いコートの前身頃の内側から顔を離したユストは言葉に違わず呆れた様子で天井を見上げた。

「なるほど。言い付けに従って滲み込んだ雨水はともかく、酸の雫は向こう五十年は滴らない程にたらふく喰らったか。」

 そうかそうか、と満足げに独り言を漏らすユストは鍔無しの直剣へと近寄った。柄へと右手を伸ばし、首を傾げて何か気付いた素振りを見せた後、左手で刺さる床から引き抜く。澱む空気を震わす音は立たず、冴え渡る刃の輝きが静寂の中で己の屈強な意思を示している。

此方こなたの可愛い巫女がそれ知ったら、尚更こき使われるぞ。あれが人間であった頃、一度思いついたら頑なに己を曲げん性格なのは此方こなたの一部たちも存じているだろう?剣霊となった今、それこそ尚更と此方こなたは見て取るが、どうであろうな?」

 無論、返事は無い。厳密には誰の耳にも聞き取れない。だが、ユストは会話を愉しんでいるのか、ふと微笑を漏らした。

「黙っておいてやる故、有るべき姿に早う戻れ。」

 鍔無しの直剣を握っていない右の掌が天井に向けて開かれた。二つの黒蛇のピアスがそこを目掛けて落下する。渋々とも待ち焦がれていたとも顔に出さず、普段と同じく凄まじき睥睨を彼らはユストの掌の上で保ち続けていた。

「さて、燃ゆる剣を持つ異教の子だが、この異教の男はあの妖しき揺らめきに憤怒と嫌悪が渦巻いていたと感じたらしい。此方こなたの対なる存在とは無縁と思うが、此方こなたの可愛い巫女の一撃に微動だにせず、この異教の男の技に耐えたとなってはそのまま野放しにしておくのは後々厄介だ。此方こなたの一部たちよ、妖しき揺らめき、とくと拝見しに行くぞ。」

 ユストは右手を握り締め、手にするイルサーシャの剣体を肩に担ぐと踵を返した。

此方こなたの一部たちが恐れおののいたあの揺らめきは炎と言ってな、人間しか扱えん代物だ。此方こなたとて近くで見るのは無論のこと、対峙するのはまっぴら御免だが…。」

 言葉半ばで羽織る黒いコートの裾が揺れ、肩に担ぐ鍔無しの直剣が宙を薙ぐ。白銀の煌きに陰湿な城塞深部を照らす松明は音を立てずに灯火を薄闇と同化させた。

此方こなたの可愛い巫女はこの異教の男を守りたいと常々思っている。その願いを無碍にする訳にもいかん。」

 白銀の刀身に映える己の顔を知ったユストは短い微笑を零すと止めていた脚を動かした。エジュ・エジェ城塞を彩る酸の雫は既に滴っていない。代わりにユストの靴音がもの悲しげに鳴り響く。不平不満を漏らさずに苔が儚い光りを放っていた。


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