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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第三章 エジュ・エジェ城塞編
45/75

妖しき獣たち

 数冊の本がここにある。

 革の装丁に金付けが施された豪奢なそれらの表と裏へ目を向ける。それぞれの中央には剣と槍を携えた龍が型押しにて描かれていた。本を手にする者あるいは眺める者に対し、龍は僅かたりとも威圧を緩めない。彼は国家の威信と矜持を象徴する存在であり、記載されている内容を守護する立場にあると誰もが気付く。如何なる内容を守護しているのかは表と背に記された文字を解読すれば納得する。北部王立国家が制定する文字を用いて『ヴェルリンク家の偉業と生涯』とあった。

 北部王立国家に於ける歴代の国王の業績を主とし、ところどころに逸話を挿しこんだ伝記とみて間違いなかろう。表紙を捲る。初代国王カルラン・ヴェルリンクの章から始まる。多少の誇張が目に付くものの、数多の戦歴と国家成立までの道程が事細かに記されていた。

 カルラン・ヴェルリンクから数世代後、歴代で最も華やかな国王が登場する。その王の名はイゼリアーシェ・ヴェルリンクという。華やかとは初の女性による国王である事も当て嵌まるが、国家が危難に晒されず、またそれに頭を悩ます必要がない状態を指す。北部王立国家に住まう誰もが親しみと敬意を払いイゼリアーシェ女王陛下と口にしたと記されている。

 親しみや敬意とは押し付けて受け入れられるものではない。議会制を重んじる北部王立国家に於いて、まず臣民の為の政策を第一とし、それを以て国家の恒久安寧の土台とするように、と彼女は常々口にしていたという。

 時として彼女は非難の対象となる場面、あるいは苦渋の決断を強いられる場面に遭遇したであろう。それでも彼女は国王としての責務を全うした。剣霊の頂点と云われる剣霊帝にして、全てを知る年老いた龍と同等の胆力を持つ人間、と言わしめた彼女の治世について、伝記は膨大な頁を割いていた。

 その中の一つ、彼女がまだ王女殿下と呼ばれていた頃の記録はこう綴られている。

『冬の新月の日、成人を迎えたイゼリアーシェ王女殿下は太祖旗揚げの地であるエジュ・エジェ城塞にて王位後継者としてのお披露目の式典にてその名と姿が初めて臣民に知れ渡る事となった。その翌日、エジュ・エジェ近隣の市街地の代表者たちの発案による晩餐会が催され、その場にいた誰もが彼女の麗しい姿に感嘆の息を漏らした。百七十センチの身の丈に細身な体の線をした彼女は国家の慣例に倣い、白金色の髪を伸ばしていた。その先端は明らかに腰よりも下にあったであろう。あろうとは束ねた髪を首に緩やかに巻きつける独特の結い方を彼女が好んでいた為である。濁りなき灰色の瞳は聡明な中に慈愛を滲ませ、筋の通った目鼻立ちは屈強な意志を彷彿させる。そして彼女が生れながらにして王位後継者としての証と言わんばかりに両目尻の下に左右均等に配された黒子、いわゆる王者の涙相に人々は将来の国家の繁栄と安堵を思い描き、胸を高鳴らさずにはいられなかった。』

 別の本を手にする。こちらは本と表現するよりも質素な表装からして冊子という言葉がしっくりと当て嵌まろうか。当時のエジュ・エジェ城塞都市にて生活を営む臣民が綴った日記である。こちらにもイゼリアーシェ・ヴェルリンクに関する内容が覗える。話の状況から察するに、偶然にも王女殿下を見かけたのであろう。そこにはこう記されていた。

『イゼリアーシェ王女殿下のお披露目の式典が執り行われた翌日である。流れる雲は早く、陽の光はまばらであった。目抜き通りの石畳を照らしてはまたすぐに暗くなる。朝一の市場にて仕事を終えたわたしはお気に入りのベンチに腰を降ろし、普段と変わらずに歩く人々の顔を何気なく眺めていた。昼前に取引先に出向いて集金を済ませなければらない。その後はこのエジュ・エジェで一番古いレストランで簡素な食事を摂ろうかと想像する中、思わずあっと声を上げてしまった。目抜き通りの端を昨夜は遠目でしか判らなかった王女殿下が従者と思しき男を一人従えて歩いていたからである。白銀の長い髪を一つに束ね、体の前に垂らした王女殿下は式典の後という事もあったのか、とても堅い表情をされていた。不思議な事に後ろを歩く従者が立ち止まると、王女殿下も動かす足を止める。王女殿下自ら彼の横に並んだ。彼が何かしらを窘める顔付きを見せるなり、王女殿下は腕を組んでそ知らぬふりを見せている。彼は従者ではなく、教育係なのだろうか。

 思い切って近寄るなり声を掛けようかとわたしは迷った。だが、行動には移せなかった。王女殿下は眉間に皺を寄せ、すらりと伸びた目許の中央を彩る緑色の瞳に騎士の頂点を約束された者らしく、他を寄せ付けない澄みきった威厳を漂わせていたからである。

 幼き頃から剣霊という存在を聞いた事はあるものの、遭遇した事はこれまで一度もない。恐らく今後もない。噂では剣霊に見つめられた者はあまりの華麗な姿に息苦しさを覚えると聞く。むしろ、剣霊ですら王女殿下のお姿を見るなり息を飲むのでは、という美しさにわたしは出会ってしまった。剣霊とはわたしの住む北部王立国家では人間に害を成す忌々しき存在と小さい時から教えられている。その様な者と王女殿下を重ね合わせてしまったわたしは大罪を被るのだろう。この想像は誰にも話せない。だからわたしはこうして日記として綴っているのだ。』

 さて、両者は共に若きイゼリアーシェ・ヴェルリンクの容姿を讃えているが、相違が散見される。果たしてどちらが正しいのか、と後を生きる者たちは想像を掻き立てられ、それぞれの持論をぶつけ合うだろう。結果として瞳と髪の色に関してはどちらも偽りではないと考えられた。日記に記された言葉を借りるならば、陽の光がまばらであり、その悪戯によって灰色の瞳が緑色に見え、白金の髪が白銀に映ったのも同様の理由であると一般的に解釈された。

 伝記に再び目を通す。お披露目の式典の翌々日の夕方、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは世話役を随伴させてエジュ・エジェ市街地内の孤児院を慰問している。心からの歓迎の意と屈託のない笑顔に包まれた王女殿下はある談話をなされた、と簡潔に締めくくられていた。

 ある談話の内容とは、そして夕方以前の行動とは。誰もが抱く謎の真相とは如何なるものだったのだろうか。

「ここまで似ているとなると、もう一人のわたくしが鏡から飛び出してきた様ですね。」

 己と同じ結い方の髪に加え、顔立ちを特徴付ける黒子まで再現されていては驚きよりも感心が勝る。ユラン・エレエの手解きによるイルサーシャの変装ぶりにイゼリアーシェ・ヴェルリンクの言葉はまさにそう語っていた。

「皆さんにお伝えするのが遅くなってしまいましたが、わたくしは本日の十八時にエジュ・エジェの孤児院を慰問する予定です。それまでに事は収まるでしょうか?」

「その件なら、俺たちはユラン・エレエより前もって聞いている。十七時までに戻るとしよう。」

 ル・ゾルゾアがズボンのポケットから懐中時計を取り出す。数秒の間、文字盤を眺めるなり確固とした表情で頷いた。五時まで時間は優にある。だからと言え、許される時間の全てを使って行動するつもりは端から想定していない。体力及び気力の消耗は過ちへと誘う。また偽王女殿下の正体が露見する恐れも考えられる。

「ゾルゾアさん、それは確か、懐中時計というものでしょうか?」

 ル・ゾルゾアの何気ない仕草を見逃さないイゼリアーシェ・ヴェルリンクは彼が手にする真鍮製の六角形の物体を物珍しげに眺めていた。

「あぁ、俺とした事が…。これは失礼した。」

 北部王立国家と東部帝政国家は長年に渡り交戦を続けている。既に戦況は膠着状態にあり、いわゆる休戦状態ではあるが、敵国には変わりない。双方の輸出入は共に制限が掛けられている。北部の者は東部の精巧緻密な工業製品を知らず、東部の者は北部の豊かな自然が産み出す妙味を味わわずというところか。イゼリアーシェ・ヴェルリンクもその例に漏れず、存在の流布を耳にしてはいるが、実際に目の当たりにするのは初めてであった。

「いえ、東部の製品とはいえ、以前から興味を抱いていました。ゾルゾアさん、お戻りになりましたらわたくしにその懐中時計を見せて頂けますか?」

「構わないが…見るだけなら今でも良かろう?」

「楽しみは後に取っておくものと教わりましたから。約束ですよ?」

 意地の悪さを全く感じさせない純粋な笑みを前に抗う術を見つけられようか。降参だと言わんばかりに短く鼻から息を吐いたル・ゾルゾアは懐中時計から伸びる同素材の鎖の先端を摘んだ。

「そこまで楽しみにしているなら預けておこう。この先で傷を着けたり落としたりしては申し訳ない。」

 くるくると回転しつつ振り子の様に揺れる懐中時計が王女殿下の差し出された両手の中に包まれた。

「螺子を巻くのはちょっとしたコツが必要でな。それは俺が戻ってからだ。」

「ですが、懐中時計がなくては外出先で時間が判らないのでは?」

 自らの我侭が導いた困惑はイゼリアーシェ・ヴェルリンクにル・ゾルゾアを見上げていた顔を下へと向けさせた。

「実は俺たち剣霊使いには腹時計という便利な能力も備わっているのだよ。」

 ル・ゾルゾアが横に立つユストに同意を求めて目配せをする。音無き苦笑を湛えながらユストは頷いた。

「さて、そなたたちの腹時計がけたたましく鳴る前にそろそろ出向くとするか。」

 幾分呆れ顔の偽王女殿下が口を開く。本物の王女殿下は両手で包む懐中時計を執務用のデスクの上に置くと、脇に立て掛けている祖父より贈られた細身の剣と亡き愛玩の毛を用いた円筒形の帽子をそれぞれの手に持った。

「イルサーシャさん、お使い下さい。この二つを身に着けていればわたくしを知る者であろうと、まず疑われはしないでしょう。」

 王女殿下は外出する際、この二つを必ず身に着けると世話役より説明を受けている。げんに先日初めて出会った時も細身の剣の柄頭に両手を添え、円筒形の帽子は膝の上にあった。自らが契約を交わした剣霊は何と答えるかとユストが見守る中、イルサーシャは首を横に振った。

は剣霊だ。そのものが剣であり、同行する三人は剣霊の契約者だ。故に剣霊以外の剣を握らせる訳にはいかん。」

「でしたらチェクル、いえこの帽子だけでも…。」

「それも受け取れん。それこそ出向いた先で傷を負わしたり紛失する訳にもいかんからな。」

 ノウサギの毛の表面をイルサーシャは撫でた。亡骸であれば剣霊である彼女でも触れられる。柔らかであり愛しさを感じずにはいられない感触に誘われたのか、彼女は微笑を零した。

「心和む毛触りだ。やはり姫君からこれを預かる訳にはいかないな。」

 その代わりに巧く事が運ぶ様に祈って貰えないか、とイゼリアーシェ・ヴェルリンクの耳に口を近付けて囁く。

 姿形が極似した一振りの剣霊と王女殿下が顔を近付ける中、周囲の者たちは彼女たちを静かに見守っていた。


 王立学士院所属地質学者アウグスト・エッセル博士とその助手。偽王女殿下と同行する剣霊使い二人の偽称である。今回、王女殿下の案内のもと、謎多きエジュ・エジェ城塞の構造、構成する物質を調査する。博士役はル・ゾルゾアが演じ、剣霊障により言葉を発せないユストが助手となる。アウグスト・エッセルなる名前は以前、ノエミリオのとある宿屋の帳簿にユストが記した偽名であるが、イルサーシャがその名前を未だに覚えていたので再び陽の目をみる事とした。

 ハガンはエジュ・エジェ城塞に出向く四名を見送る立場を選んだ。世話役たるユラン・エレエが不在となる中、イゼリアーシェ・ヴェルリンクの身辺を護る者が必要だと彼女は語った。契約者を失っている彼女がエジュ・エジェ城塞に於ける戦闘に加わらず、霊力の温存を図るのは自然な成り行きでもある。なるほどとユストは思うものの、それ以外の理由もあるのではと勘繰った。無論、凛とした目許を崩さないハガンはそう易々と心の内を曝け出そうとしない。道中おきをつけて、と彼女らしい簡素な言葉と共にハガンは国営ホテルの正面玄関までイゼリアーシェ・ヴェルリンクと共に一行を見送りした。両手を体の前で重ねたままのハガンが軽く頭を下げれば黄金の髪飾りの先端が視界に映る。彼女の涼しげな雰囲気とは正反対の輝きをユストは感じていた。

 二頭立ての馬車が用意された。そこに昨日二振りの剣霊たちの興味の対象となったたてがみの豊かなべぺの姿は見当たらない。彼女は単騎駆け専用の馬であるという。あの神秘的であり豪奢な姿を見たかったのか、イルサーシャは少し残念な表情と共に二人の男よりも先に馬車へ乗り込んだ。

「なぁ、そなたたち。姫君という立場は案外、窮屈な日々を強いられているのかもしれんな。」

 石畳と木製の車輪が織り成す一定の揺れ具合に体を任せている。イルサーシャが馬車の客室内で頬杖を突きながら囁いた。国営ホテルから城塞中枢の出入り口である鋼色の門まで徒歩で十五分程度である。これぐらいの距離ならば歩いても造作ないと遠回しに言っているのだろう。彼女の思い付きを完全に否定出来ないものの、身の安全を考慮するならば馬車による移動は妥当な手段である。

「俺たち下々が量れるものではないな。王女殿下は常日頃からこの凝った内装の中で何を見、何を思い描いているのかも同様だ。」

 イルサーシャの斜め向かいに腰を降ろすル・ゾルゾアは扉の内側に指を這わせた。革貼りが施され、取っ手と思しき部分が見当たらない。外から開き、外から閉まる扉、いわば中に座る者の手を煩わせない趣向だろうか。

 イルサーシャの対面に座るユストが脚を組む。狭いとも広いとも言い切れない客室内で二つの足首が交差した。嵌め殺しの窓の下側、ちょうどイルサーシャが肘を突いている桟から垂直に降りた箇所に膨らみがある。女性の指一本が差し込める程度の空洞が設けられていた。実際、そこに指を入れて内側から開閉する仕組みになっているとユストはイルサーシャに語らせた。見れば空洞の周囲は丁寧に折り込まれ、頑丈に縫われている。それは手が触れる部分である証であった。

「なるほど。ユスト・バレンタイン、君がこの手の造詣に深いとは恐れ入った。」

「久々に王族が使用する馬車に触れたそうだ。しかも自らが乗り込んで座るとは想定していなかったと苦笑いを零しておる。」

「そうか、君は彼女と共にする前は中央で近衛を務めていたからか。合点がいったよ。」

 ル・ゾルゾアの合点がいくとほぼ同時に客室の揺れが収まった。目的地に到着したと知ったユストは組む脚を崩し、ル・ゾルゾアは内張りに這わした指を顎鬚へと移す。イルサーシャは肘を突くのを止め、両手を膝の上に置くと背筋を伸ばした。

「では今から、たくしは紛れもなく北部王立国家の王位後継者であり、見る誰もが溜息を漏らす麗しき存在、イゼリアーシェ・ヴェルリンク王女殿下だ。そなたたち、抜かりなくはべれ。」

 さも得意気な偽王女殿下は形の整った顎を上に向け、茫然とする二人の剣霊使いを流し目で見つめる。客室の扉が開き、御者を務めていたユラン・エレエが頭を下げていた。脳天よりやや後ろで結わえられている濃淡のある赤い髪がさしずめ馬の尾の様に垂れ下がっている。

「イゼリアーシェ様、お着きになりました。」

 頭を下げようとも偽王女殿下を前にした世話役の眼差しは決して柔らかいものではない。偽者と判っていて主と同じ様に仕えるのはまさに愚の骨頂と言えた。しかし誇り高き彼女は己の剣霊たちを救出する為、真の王女殿下の中でつかえる不安を取り戻す為に世話役として歯を喰いしばっているのだとユストとル・ゾルゾアは胸中を察していた。

「どうしたユラン。そなた、顔が引きつっておるな?」

 客車から身を乗り出し、ステップに足を乗せる偽王女殿下の言葉は頭を下げる世話役に骨が軋む音が聞えるほどの拳を両手に作らせた。

「イゼリアーシェ様の思い過ごしでしょう…。」

「その拳、いざという時は頼りにさせて貰うぞ。」

 偽王女殿下は不敵な笑みを世話役に投げた後、流麗な目尻を彩る深い緑色の瞳をエジュ・エジェ城塞へと動かした。

 昨日と同じく鋼色の門の脇には蒼き騎士二名が剣の切先を地に着けて佇んでいる。右側が訝しげな表情を見せ、咄嗟に左側に何かを伝えていた。馬車の豪奢な見栄え、扉に施された国章、客室から降りた人物を目の当たりにした彼らの慌てぶりはいとも簡単に想像出来る。ただ、話す内容は剣霊であろうとも距離があっては聞えない。更なる蒼き騎士がこの場に集まる事だけは避けなければ、と偽王女殿下は勇ましい足取りで鋼色の門へと歩んだ。普段よりも大股で足を進めているからなのか、結わいた髪の先端が揺れ動き、彼女にしか判らない激痛が走った。寄せまいとそれまで我慢していた皺が眉間に浮き出る。単独で歩む偽王女殿下が近付くにつれてその形相が明らかになり、慌てて彼女の後ろを歩き始めた共の者たちを知った左右の蒼き騎士たちは会話を中断し、それぞれの踵同士を打ち付けて鳴らした。

「そなたら、今、何を話していた?」

 息切れとは無縁である偽王女殿下の目許は剣霊の眼差しを作り出していた。冴え渡る刃を喉元に突き付けられた様な感覚に陥った者の喉が上下に動く。昨晩遠目で見た王女殿下は芯は強いものの、それを包み込む柔らかさも持ち具えている人物だと左右の蒼き騎士たちは感じていた。しかし、今はそれが一切感じられない。視界に入る全てを射抜かんとする覇気に満ち溢れている。これが噂に聞く王者の涙相を持つ者かと左右の蒼き騎士たちの中で驚愕と頼もしさを練り合わせた感情が生じた。

「本日、王女殿下が城塞に参られる予定が御有りであったか双方で確認をし合っていたところです。」

 歳が上と思われる左側が口を開き、そうであります、と慌てて右側も口を揃える。虚言を弄している雰囲気は感じられない。右の手を顎に添え、左の手で右の肘を包み込んだ偽王女殿下は世話役へ目配せを投げた。

「わたしは国王陛下より王女殿下の世話役を拝受したユラン・エレエだ。この度、イゼリアーシェ王女殿下は王立学士院の依頼により地質学者であられるアウグスト・エッセル博士とその助手の二名と共にエジュ・エジェ城塞内部の視察に当たられる。速やかにこの場を通されよ。」

 左右の蒼き騎士たちの視線が世話役から地質学者とその助手へと移る。見せ付ける様に咳払いをした地質学者が口を開いた。

「王立学士院は予てからこのエジュ・エジェ城塞の構造に関心を持っていてな。建造から数百年の時の流れを経ようとも自然が作り出す岩盤と人工物である鋼材が同居する世界とは如何なるものか。未知の鉱石の発見、我々人間にとって最も有益な土壌の定義の確立が達成する可能性も充分考えられるのだよ。」

 地質学者の雄弁が終わり、沈黙を守る助手は左右の蒼き騎士たちへ物静かな顔と共に軽く会釈した。

「王女殿下をはじめ、皆様がこの場に赴かれた意図は理解しました。ですが王女殿下、臣たちは団長より城塞内部には蒼き騎士以外の者は何人たりとも通すなと厳命を受けてもいるのです。真に申し訳ないのですが団長に報告と確認の猶予を頂けないでしょうか?」

 左側が語った団長とはテウヌス・イーハンなる人物であろうと沈黙を守る助手は察した。彼の者は立場上、王女殿下を知るという。その様な者にこの事態が耳に入るのは今は避けるべきである。果たして偽王女殿下の次なる言葉とは。この場にいる全ての視線が彼女に集まる中、契約者の一部に触れて助け舟を出すのは不可能である。見れば顎に添えている手はそのままであり、肘を包む手のうち、人差し指だけが動いている。肘の上で円を描く動作を三周行った後、意を決したかの様に勢い良く叩いた。黒地に小鳥の飛翔する姿が描かれた生地が不規則な歪みを形成する。偽王女殿下は崩れ落ち、片膝を名の知れない草が顔を覗かせている石畳の上に突かせた。

「イ、イゼリアーシェ様?」

 これには流石の世話役にしても想定外の出来事であった。ぴくりと女性らしい細い眉が持ち上がり、濃淡のある赤い髪の先端が激しく動く。慌てて偽王女殿下と同じ姿勢を取り、介抱せんと肩へ腕を廻す。あくまでも廻すふりである。

「蒼き騎士たちよ、イゼリアーシェ様は激務でお疲れの中、こうして参られたのだ。イーハン卿の許可など待つ余裕は持ち合わせていない。即刻通させて貰うぞ!」

 元々からではあるが、偽王女殿下の唇の色が暗い。生気を感じさせない色合いは芳しくない体調を示唆し、気を確かに持つ為に眉間に皺を作り、覇気を振り絞っていたのだろうと左右の蒼き騎士たちは思い込み始めていた。

 世話役が語気を強める中、偽王女殿下は足許が覚束ない様子で立ち上がった。

「気にするな、先日の式典の疲れが少々残っている程度だ。ところで助手殿、その肩を借りたい。貴殿の背丈からして、たくしが手を置くのに丁度良い高さの肩だ。」

 なるほど、そういう目論見か。沈黙を守る助手の靴が奏でる音が二つ響く。偽王女殿下の後ろに立つ彼が横並びになった時、黒いコートを羽織る肩に白い手が添えられた。

(ユスト、困ったぞ。は何と答えたら良いのか皆目見当が付かん。)

 触れる白い手は緊張から解き放たれ、人知れず安堵を堪能していた。重量は普段と変わらないが、指の全て、掌の全てが密着しているのがその証拠である。腕から先と内なる声は剣霊よりも女としての弱々しさを露にさているいが、こちらを見ずに難しい表情を続けている彼女に偽王女殿下の役を演じきる心意気が覗えた。

(困った末に倒れる演技とはな。正直なところ、愚生も驚いたよ。)

(感心している場合か。早くが何と言えば良いのか台詞を考えろ。)

(判った。今から愚生が言う事をそのまま発すれば大丈夫だ。)

 そなたたちの団長の件だが、と前振りをする偽王女殿下は肩に置く白い手をそのままに、土埃が付着したドレスの表面をもう片方の手で払った。

「あの者は今は何をしている?」

「当市街地の市長をはじめとする執政に当たる方々と昼食がてらの会合に臨むと聞いております。」

 右側の蒼き騎士の言葉に偽王女殿下は満足そうに頷いた。

「武に誉れ高き蒼き騎士の長たる彼が文治を司る者らと意見を交わす。文武が混じり連携を成すのは国家の安泰に於ける骨子と、たくしは考えている。国家の為に動く彼に、たくしの用事で貴重な時間を割かせるのはやぶさかだ。加えて、そなたたちの命は命と頑なな務めぶりに、たくしは心から感謝し、長きに渡って貫いて欲しいと思っている。だが、、たくしにも学士院からの依頼を速やかに遂行する責務があるのも事実。これらを踏まえた上でここを通して貰えないだろうか?」

 二人の蒼き騎士たちは偽王女殿下を見ては互いの腹を探り合っていたが、語るのを終えて柔らかな表情を作り出した偽王女殿下を知った左側の蒼き騎士は肩の力を抜いた。

「王女殿下の歩まれる道を塞ぐ者はおりません。」

「そうか。判ってくれたか。」

「ただ、城塞内部にて王女殿下に危害が及ぶ事がなき様、臣たちも同行させて頂きます。」

「ほぉ、危害が及ぶとは大袈裟な。もしや城塞内に怪しき獣でも巣食っているのか?」

 僅かに顔を傾げながら話す偽王女殿下の言葉は左右の蒼き騎士たちの視線を部外者たちへと動かさせた。怪しき獣はともかく、剣霊を監禁しているとは口が割けても言えない。

「いや、まさか…。ご冗談を。」

「仮に怪しき獣と鉢合わせようとも、たくしには平伏させる自信があるが?」

「王女殿下の御威光の前に誰もが膝を突くのは揺るぎ無い事実です。されど、城塞の内部、特に深部は迷路の如く複雑な構造をしており、流れる空気が澱んでおります。見取り図が無いとなれば、案内役は必要と思われますが…。」

 彼らの言を否定するのは難しい。偽王女殿下は剣霊であり、空気の澱み具合に気を遣うのは、それこそ必要無用である。しかし、彼女に同行する者は人間であり、空気の良し悪しにより体力の消耗具合が左右される。無駄に迷い、足を動かすのもままならない状況に陥る訳にはいかない。そうなれば偽王女殿下の正体が暴かれる。同行の拒否をこれ以上無理強いをしては怪しまれると沈黙を守る助手は判断した。

「良かろう。そなたたちに案内を頼もう。」

 偽王女殿下より同行の許可を得た左右の蒼き騎士たちは再び踵同士を打ち付けて鳴らした。切先を地に突けていた剣を腰に佩かせる。鋼色の門を彼らを先頭に潜った。

 下へと続く螺旋階段は二つの具足と三つの靴が奏でる音の違いを教えてくれる。彼らの言葉通り、空気が澱んでいるのを三人の剣霊使いは肌で感じ取っていた。陰暗たる城塞内部の壁面にユストは手袋越しの手を触れさせた。数百年の時を経た肌は緩やかな曲線を描いている。肌の中で渦巻く模様ですら曲線のみで構成されている。

 陽光の恵みは消え去った。幻想的な色彩を醸し出していた蒼き鎧の輝きが味気無いものへと変化する。ユストとル・ゾルゾアの視線は左右の蒼き騎士たちへと向けられていた。腱を斬れとこの場へ出向く間際にイルサーシャへ指示した。関節に腱は存在する。例え蒼き鎧が強固な素材で作られようとも、稼動部となる部位に隙間は必ず生じる。その晒された僅かな部分を二人の剣霊使いは探していた。手首足首は籠手と具足で守られている。揺れる肘と定期的に動いている膝へ着目する。折れ曲がる側、つまり内側は蒼き鎧に包み込まれていない。晒されたそこを目掛けて一閃を繰り出すのか。その為には蒼き鎧の二人には晒す状況を作らせなければならない。肘の内側であれば、抜いた剣を振りかざした瞬間である。しかし、横薙ぎの構えの際は、と別の対応に迫られる。ならば、相手の一撃をかわした後に真横あるいは真後ろに廻り、素早く膝の内側を薙ぐか。共に好機は一瞬であり、至難の一言に尽きる。明確な手段を見出せない中、ユストは再び壁面に触れた。

 先程より硬い感触が伝わる。壁面を構成する鉱物に変化が生じているのだろうか。触れていた手でわざとらしく壁面を叩き、ル・ゾルゾアの意識をこちらへと向けさせる。彼の視線がユストへ移るのを確認した後、君も触れてみろ、と指先で壁面を突付く動作をして見せた。

「ほぉ、硬いな。」

 関心を示す言葉は簡素ではあるが、明確な表現でもあった。

「君たち二人に尋ねるが、この壁面は下へ行けば行くほど硬くなっているのかね?」

 歩く足を止めずに壁面をなぞるル・ゾルゾアの問い掛けは具足の硬い音を鳴らし続ける左右の蒼き騎士たちに釈然としない表情を作らせた。

「それは博士の専門分野と思われますが…?」

 顔のみ振り向かせて語る左右の蒼き騎士たちにル・ゾルゾアは顎鬚を詰る姿を見せた。

「個人の思い込みとは即ち新たな発見の障害、と言ってな。他者の意見を素直に受け入れるのも学者の務めなのだよ。」

「あぁ、なるほど。その様な意図がお有りとは気付きませんでした。」

「いやいや、君たちの考えに否は見当たらない。そこで改めて聞くか、この城塞について知っている事を話して貰えないか?」

 妙をった言葉はアウグスト・エッセルなる博士に対する信頼を左右の蒼き騎士たちに植え付けさせた。勿論、彼らが剣霊について口を割らないのは判っている。その分、壁面について熱を込めて語るだろう。なだらかな縞模様が描く世界を目で追う中、左右の蒼き騎士たちから壁面以外に床についても情報を得た。光る苔が生えているという。苔が生息するとは硬質の世界の中で水分の摂取が可能なのか、とユストが己の中で疑問を生じさせる中、空気の湿り具合に違和感が混ざり込む。鼻腔の奥が刺激されている。前を歩く左右の蒼き騎士たちの動く脚が止まった。彼らは口で息をしている。理由は歩き疲れた訳ではない。偽王女殿下以外の三名が袖で鼻を覆い、目を細めている中、右側が語った。

「ここから先が城塞深部となります。天井より酸の雫が滴っておりますので、万一に備えてそちらをお被り下さい。」

 籠手越しの手がそちらとやらを示した。壁面の窪みを利用して蒼き鎧の一部である兜がいくつか置かれている。初めて城塞深部に足を踏み入れた者たちの視線がまだ見えぬ先の天井へと注がれる。悲しげで儚い音が耳に纏わり付き始めていた。


 酸の雫と聞いて三人の剣霊使いは何を思い描いたか。己の剣霊の安否に気遣う二人は、劣悪な環境の中で霊力の維持もままならなくなっているであろう剣霊の姿を想像して垂らした腕の先で拳を作り出す。残る一人は脇に立つ己の剣霊に兜を被せる訳にはいかないと代替案を模索していた。剣霊が酸に弱い事実は覆せない。その為に兜を被せれば彼女の動きを封じ込まれる。厳密には歩くのも困難になる。

「酸の雫とは恐れ入ったね。床の滑らかな具合から察するに、これは城塞建造当時からと見るべきか…。」

 ル・ゾルゾアは壁面の窪みに近付き、蒼き鎧の一部である兜を両手で持つとその形状や特徴を眺めながら語った。

「真相は判りかねますが、建造当時は何も滴っておらず、数多の戦いで命を失った者たちの無念と悔恨が城塞に宿り、それらが酸の雫と姿を変えて滲み出ていると言い伝えがございます。」

「言い伝えか。なるほど。」

 左側が語る逸話に興味半分といった表情を見せたル・ゾルゾアではあるが、それはあくまでも博士という立場の演技に他ならない。逸話とは言え、全く純粋な創作物でもなかろうと彼は感じていた。ユストも然りである。火の無き所に煙は立ち上らぬと言われる。

「太祖様がこの奥にて北部統一の誓いを立てられた際は酸の雫が皆して避けたと言われておりますが、王女殿下の御身に降り注いだら一大事です。どうぞ、兜をお召し下さいませ。」

 右側が更なる逸話を持ち出した。どうやらこちらは威厳と神秘性を醸し出す物語性が強いと思われる。

「すまないが男であると自覚する者は前を向いてもらえないだろうか。」

 兜を脇に抱えたユラン・エレエは空いている側の手を自らの脳天へと運んだ。結わえた髪を解かねば兜を被れないと判り、結わえた髪を解く姿を目の当たりにするとは何を意味するかを知る男たちは意見を述べずに体の向きを変える。薄闇の先で淡い光りが発せられ、すぐに消えた。苔の上に酸の雫が落ちた結果である。

「ユランよ、髪を解くな。、たくしが何故ここにいるのか判らないのか?」

 ユストの肩に置かれていた白い手が離れ、左右の耳の下を交互に詰る。

「イゼリアーシェ様、一体何を?」

 何かしらのはかりごとを思いついた偽王女殿下は短い微笑を見せ、両目尻の下にある黒子をいびつに歪ませた。彼女の耳からぶら下がる二匹の黒蛇の存在が見当たらないとユラン・エレエは気付いたであろうか。

「太祖様の血縁たる、たくしがこの地に立ったのだ。伝承とは如何なるものなのか証明するとしよう。皆して跪き、こうべを垂れ、目を閉じよ。」

 左右の蒼き騎士たちは期待に胸を膨らませ、疑いを知らない表情を見せた。ここで大見得をきるとは、とル・ゾルゾアは顎髭を詰っていた指を離し、ゆっくりと膝を折る。一抹の不安を表に出さないユストは静かに偽王女殿下の指示に従う。猜疑心を隠せないユラン・エレエは首を捻りながら一瞥を投げた後、渋々とスカートの裾に柔らかな曲線を描かせた。

 酸の雫が滴る儚げな響きの中に柔らかな衣擦れの音が混ざった。偽王女殿下はそれまで握り締めていた両手を胸の前で広げる。左の掌には鎌首をもたげた黒蛇が、右の掌には自らの尾を銜える黒蛇が姿を現した。我が子を愛でる様な眼差しを送りながら彼女は囁いた。

 聞け、の魂魄を護りし従者たちよ。これよりエジュ・エジェ城塞の岩肌に身を潜め、の前後左右十メートル以内の酸の雫を一切降らせるな。聞くところによれば酸の雫は亡き人間の魂の名残りという。そなたらが常日頃から欲するかてが目の前に広がっておる。遠慮せずに尽く喰らうのだ。

 細めていた目尻に剣霊らしい鋭さが浮き上がり、広げていた左右の掌を勢い良く握り締めた。

「どちらが前か後ろかなどそなたたちで決めろ。美味かろうと不味かろうと知ったことか!」

 なるほど、己の従者たちの力を借りるのか、とユストは気付いた。囁いていた内容は判らないが、従者たちとの遣り取りで語気を強めるのは常に変わらない。またしても呆れかえる様な事を訊かれたのだろうと音無き苦笑を零す中、偽王女殿下は左右の親指の上に乗せたピアスを交互に天井へ向けて弾いた。硬質な物同士がぶつかる音は立たず、落下して跳ね返る音も響かない。

「行くぞ、皆の者。」

 訝しげな眼差しを天井へ送った後、偽王女殿下は普段と同じ歩調で歩き始めた。三人の剣霊使いはともかく、左右の蒼き騎士たちは直れと言われていない以上、垂れていた頭を元の位置に戻しただけである。揺れる束ねられた白銀の長い髪が二組の蒼き鎧の輝きに呼応して煌く。最も多様な色合いを見せてくれる時、つまり左右の蒼き騎士たちと横並びになった偽王女殿下は薄闇が広がる世界へ向けて颯爽と歩む足を止めた。

「早く立て。前を歩いてもらわなければ怪しき獣に、たくしが咬まれるかもしれんぞ?」

 見下ろす深い緑色の瞳に温かみは感じられない。城塞深部が地中内で汗が軽く滲む温度とは言え、背筋に一条の寒気が迸る。だが、彼女の体を包む焚かれた香木の香りは柔らかくも爽やかである。酸の雫がもたらす臭気とは対極を成す、騒めく心を落ち着かせる匂い。恐らく王女殿下は戦いを前にしようとも、多勢の敵を迎えようともこの表情を変えない。先程まで時折滴っていた酸の雫が静かにしている。数百年の時の流れを知る城塞はヴェルリンクの血を継ぐ者を受け入れたのか。あるいは恐れおののいたのか。伝承とは真実であったのか。それとも新たな奇跡を目の当たりにしているのか。

 ただ判るのは目の前に立つイゼリアーシェ王女殿下とは正に騎士の頂点たるヴェルリンク家の血を引く頼もしい御方だ、と信じ込んだ左右の蒼き騎士たちは我を忘れて茫然と見上げていた瞳に活を入れた。


 偽王女殿下の従者たちにより滴る酸の雫に気を廻す必要は皆無となった。自然の造形が織り成す城塞深部の壁面と床に描かれた独特な模様は何処まで続くのかと脳裏を過ぎる。そして囚われの剣霊たちに何処で遭遇できるのかと不安が付き纏う。緩やかに流れる空気の中で長時間の滞在は判断を鈍らせてしまう。薄闇と狭い通路が相まってなのか、焦りが生じ始めているのを三人の剣霊使いは拭い切れずにいた。

「博士、どの辺りまでお進みしましょうか?」

 前を歩く左側の意見は疲労を表現していた。彼らも息苦しさを否めず、酸欠状態に陥る訳にもいかない。

「そうだな。俺としてはもう少し奥まで行きたいのだが。」

「左様でございますか。ただ臣が思うに…。」

「再度言うが、博士は王立学士院からわざわざお越しになられたのだ。ヴェルリンク家はもとより、たくしの矜持に懸けて無駄足を踏ませる訳にはいかん。博士の考えに異論を唱えるな。」

「は。王女殿下の仰せのままに。」

 沈黙を守る者の指示に従った呼吸とは無縁の存在の言葉に左右の蒼き騎士たちは背筋を伸ばす。最後部を歩く世話役は、たくしの矜持と聞いた際に楽ににしていた掌に拳を作らせ、奥歯を噛み締めていた。

 舐めた様に滑らかな床に生える苔の群生の具合に目を遣るのも飽き始めた頃、分岐点が現れた。通路よりもやや広めの中央では三人目の蒼き騎士が掲げられた松明の燃料となる松脂の残量を調べている。流石に選ばれし騎士だけに彼は咄嗟の判断で剣の柄に手を掛けた。目前に現れたのが同僚であると気付いた彼は安堵の溜息を漏らし、剣の柄に掛けた手の力を緩める。お前ら何故ここに、と言葉を掛けるものの、その後ろに立つ存在を知るやいなや、目を見開いて踵を打ち鳴らした。

「まさか王女殿下で有らせられますか?」

「いかにも。、たくしが剣霊にでも見えたか?」

「滅相もございません。あの様な忌々しき存在と我が国の王女殿下を見間違えるとは末代までの恥となりましょう。」

「ほぉ。恥とは言ってくれるな。」

「…何かお気に触る様な事を臣は申し上げましたでしょうか?」

「い、いや。当の剣霊がこれを聞いたら何と答えるか興味を持っただけだ。」

 沈黙を守る助手の肩に添えられた白くか細い手の先がわなわなと震え、爪を立てている。発する言葉は気丈夫そのものだが、王女殿下はうら若き女でもある。剣霊と聞いて恐怖を覚えたのか、それとも城塞深部の澱んだ空気により体調が芳しくないのか。故に王立学士院から派遣された一行の助手の肩に手を置いているのだろう。様々な想像が三人目の蒼き騎士の中で駆け巡る中、左右の蒼き騎士たちが事の次第を説明する。何故王女殿下がエジュ・エジェ城塞の深部まで足を運ばれたのか理解した三人目の蒼き騎士は深々と頷くと共に再び踵を打ち鳴らした。

「つきましては及ばずながら臣も同行させて頂きます。城塞内の道に一番明るいと臣は自負しております。」

「それは頼もしい。では、たくしたちはどちらに進めば良いか示して貰おう。」

 沈黙を守る助手の肩に触れていない側の手の人差し指が腹を上にして右に左にと動いている。

「右でございます。」

「ならば左は?」

 掲げられた松明の炎が揺れた。

「行き止まりとなっております。」

「そうか。」

 左右に動いていた指は左を指して止まった。

「道とはいつかは行き止まるもの。エジュ・エジェ城塞の行き止まりを目の当たりにした先人たちの心境に思いを馳せるのも良い機会だと、たくしは思うが、どうだろう?」

「ですが、申し上げました様にそちらは…。」

「強固な岩肌が立ち塞がっているのであろう?それこそ地質学者であられる博士の見解が必要ではないのか?」

 僅かに口角を持ち上げる王女殿下の表情を前に三人目の蒼き騎士は言うまでもなく、左右の蒼き騎士たちも苦言を呈する手段を奪われた。無論、行き止まりというその場凌ぎの嘘を三人の剣霊使いは見破っていた。ようやくここまで来たかと地質学の博士が咳払いをする。硬質な岩肌に囲まれている為か、残響が異様に長い。

「おや、これはこれは…。さて王女殿下、あなた様のお考えに違わず左へと足を進めましょうか。」

 地質学の博士が耳の奥に潜り込もうとする残響に感心を交えながら己に失笑を向ける中、そうだな、と手短に答えた偽王女殿下は四の五を言う機会を誰にも与えずに体を左へと向ける。三名の蒼き騎士たちは慌てて先頭を歩き出した。世話役も憮然とした表情を保ちながら足を動かし始める中、沈黙を守る助手は壁面を眺めていた。ふとした動作から光明を見出す場面は多々ある。不気味な模様は彼に何を訴え、何を囁いているのか。またそこから得たもので何を導き出そうとしているのか。

 己の契約者が物思いに耽っている様子を知った剣霊の動く脚は歩行速度を緩めた。右の手がひらひらと迷子になった蝶の様に宙を彷徨う。早くここに来て肩に手を置かせろと急かす動作である。彼女の要望に応えるべく、沈黙を守る助手は壁面を見つめるのを止めて隣りへと並ぶ。

(ユスト、左で正解だったぞ。剣霊が三体、この先で待ち構えている。)

(気配を感じたのか?)

(無論だ。が気付くと同時に向こうもこちらの気配を察知した筈だ。)

(そろそろ大詰めを迎えるか。二人にもその事を伝えなければならないな。)

 頷いた偽王女殿下は肩に置いていない側の手で横髪を耳に掛ける仕草を見せた。あくまでも仕草だけである。世話役の手によって髪を結わえられている為に、彼女の耳は完全に晒されている。予め、この動作の意味するところを知らされていた二人の剣霊使いは己の剣の柄の握るべき右の手に力を込めた。

(あの容姿容儀のいかがわしい女のにやけたつらを拝むのもトウラドオクの城から数ヶ月ぶりか。またを小馬鹿にする様な口を叩いたら…。)

 二人の剣霊使いとは違う意味で偽王女殿下は肩に置く手に力を込める。普段であれば白くか細い手に手袋越しの頼れる手を添えて宥めるが、今はそうも出来ない。沈黙を守る助手は顔を動かし、肩に置かれた手に一瞥を投げた後、気休めの煙草を口に銜えようとした。だがそれは出来ないと思い返した彼は直ぐに胸のポケットに伸ばした手を元の位置へと戻した。

(愚生が思うに、霊力が残り少ないとなれば、彼女は得意の気の利いた台詞よりも先に斬撃を放つだろうね。)

(どうだろうな?)

(君の言葉を借りるならば、手負いの妖しき獣には殊更気をつける事この上なし、だよ。)

(ふうん。)

(そこで君にお願いがあるのだが、彼女の斬撃を分断させ、蒼き騎士たちを守って欲しい。)

 分断とは不思議な表現を用いる。首を傾げた偽王女殿下は沈黙を守る助手を見上げた。

(そなたの考え、詳しく聞こうか。)

 具足の響きと靴の音が交わる中、足音とは無縁の存在は契約者の思惑に耳を傾けた。斬撃とは一つの孤であり線であると契約者は語った。剣霊は己の手を相手に触れさせて斬るのを嫌う。幾ら鋭い切れ味を有しようとも、触れれば痛む。まして斬る対象が硬い鎧に包まれ、霊力が残り僅かとなれば自ずと斬撃によって生じた衝撃を利用して攻撃を仕掛けるだろう。剣霊の腕が描いた孤が放射状に広がり、長い線となる。その線を分断可能とするならば、同じく剣霊の放つ強力な一撃である。同じ線同士が交差するよりも点の方がより効果が見込める。

(つまり君が最も得意とする刺突撃で切れ込みを入れ、ブリスタンの斬撃を分断する算段だ。)

 簡単に言ってくれるな、と偽王女殿下は鼻を鳴らす。その僅かな音に応えたのか、結わえられた白銀の長い髪を照らす松明の炎が揺れた。

(それはあくまでも平面での話であろう?あやつの斬撃との刺突撃の高さと角度が一致して初めて可能となる事象だと思うが、そうおいそれと巧くいくか?偶然の産物を無理矢理作り出そうとしているとしかは思えんが。)

(偶然ではない。きちんと予測とした上での結果を君に導いて貰うつもりだよ。)

 蒼き騎士の中で肌が露出した部位が一つだけある、と沈黙を守る助手は指摘した。その部位とは顔であり、その中で最も無防備と思われるのは目許である。確かに眉間は庇で護られているものの、その下には何もない。囚われの剣霊たちを遭遇した際、三名の蒼き騎士たちは剣を抜く。ただ剣を抜くだけではない。臨戦態勢をとる。その為に腰を落とし構える。構える動作とは攻撃を繰り出す直前の動作であり、虚を突く時間でもある。対するブリスタンが微動だにしていない点から察するに、既に斬撃を繰り出せる構えを維持していると見るべきである。蒼き騎士たちが腰を落とす中、彼女は先に述べた目許を目掛けて腕を振るだけであろう。

たち剣霊に侮蔑を送る者たちを護ってやるとは釈然としないが、斬撃を分断したとしても目許に当たらずとも兜を打つ。それでいいのか?)

(それが愚生の狙いだ。)

(狙い?)

(あぁ。)

(それよりも一つの線を一つの点が分断すれば、線は二つになる。対して蒼き騎士は三名となると、一人は助からん。)

(その件についても何の心配もいらないな。)

(そなた、あやつの斬撃に向けてに刺突撃を二回させる腹づもりか?)

(流石の君でもそれが困難なのは愚生でも判るよ。)

(ならば…。)

(兎に角、ブリスタンの斬撃が描くであろう軌跡を予測し、君は彼女より早く刺突撃を放つ。それだけだ。)

 短い失笑を見せた沈黙を守る助手は一撃必殺の信条に懸けて決して狙いを外すなよ、と手袋越しの手で壁面を撫でながら重圧を掛ける。是非を答えずに白くか細い指が肩の上で踊っていた。契約者の言葉を疑わずに信じるのは剣霊の義務、とまでは言わないものの、些かの迷いが己の中で膨らみつつあるのを偽王女殿下は否定出来ずにいた。

 北部王立国家に足を踏み入れて以来、彼は剣を振るっていない。剣を振らない剣士とは勘が鈍るものである。勘が鈍るとなればその補足として策を練る。先に腱を斬り戦闘能力を奪えと指示を受けているが、対象が三名となった今、それが困難と判断した結果の次なる策であろう。だが、今回は少々策に溺れていないか。未だに手袋越しの手は壁面に触れている。地質学者の助手らしい演出をしているのか。そうと吹き込まれた三名の蒼き騎士たちは何の疑いを持たずに前を向いて歩いている。本来ならば彼とて同じ立場の者に己の考えを伝え、協議を重ねたいであろう。だが、言葉は発せず、紙に文字を記そうとも相手は読めない。もう片方の同じ立場の者は文字が読めるだろうが、反りが合わない者として彼は置いた距離を保とうとしている。

 空気が変わった。互いの剣霊にとって攻撃可能な領域が交差した為である。偽王女殿下以外の者は変わらずに足を動かしていた。剣霊と人間は異なると思えば無理もない。相手は斬撃を放たず、元からその場に佇む彫刻の様に微動だにせず静かにしている。やはり至近距離で確実に仕留める狙いか。

 会話の為とは言え、落ち着く場を提供してくれた肩から白い手が離れた。五指を揃える。刺突撃を放つ為に予め腕を引く。直剣を剣体とする彼女が繰り出す刺突撃は狙う対象を喰らい付くか如く穿つ。前を歩く三名の蒼き騎士たちに構える姿は見えず、横に並ぶ沈黙を守る助手は一瞥を投げようとも平静を保ち、後ろを歩く二人の剣霊使いはそろそろ始まるのかと剣士の表情を露にする。彼女が纏う黒地に空飛ぶ鳥の柄を所々に配した立ち襟のドレスに皺が走る。空飛ぶ鳥の羽が不自然に歪んだ。

 二振りの剣霊から漏れる微量の殺気が絡み合っている。何かに変化する訳でもなく、ただ絡み合っては質量を増やし続けていた。だが、やがてはその質量が許容範囲を超え、破裂する。足を進めれば進めるほど、その時が迫り来る。だが、足を止める訳にもいかない。一撃とは喰われるか喰らい付くかのどちらかであり、時機を誤ればいとも容易く前者となる。互いに構えているのであれば、視覚で相手を捉えるよりも肌で感知するべきである。佇む空気の中で息を潜める殺気が結わえた白銀の長い髪の先端に触れている様な錯覚に陥っている。先端から徐々に髪の根元まで包み込み、いやらしく撫で回そうとしていた。

 この先に右に折れると通路が少し広がっている箇所があると三人目の蒼き騎士が案内をする。そこは壁面の模様がはっきりと浮き出ており、研究の対象として相応しいのでは、と彼は続けて提案をした。どうしても奥に進ませたくないらしい。だが、その研究の対象として相応しい場所こそ、囚われの剣霊との再会の場であり、戦いの場でもあると偽王女殿下は確信している。通路を右に折れた。白銀の長い髪に伝わる殺気が限界の一歩手前まで上り詰めた。引く腕をさらに引き、両目尻に険しい皺が走り、王者の涙相がいびつな形へと変化する。

 仄かな松明の明かりが何かを照らしていた。それが一振りの剣霊の姿と知った偽王女殿下は微塵の躊躇すら感じさせない刺突撃を放つ。僅かな時を置いて松明の明かりが消えると共に偽王女殿下を護るべき三名の蒼き騎士たちは一斉に剣の柄に利き腕を添え、腰を落とす。一振りの剣霊は構えていた右腕を左から右へと流し、エジュ・エジェ城塞の薄闇とは不釣合いの豊かな黄金色の長い髪を躍らせた。

 その場に居合わせた者の全てが己の目を疑った。一糸纏わぬ剣霊の艶やかな身体の線に圧倒された者が殆どではあるが、己の契約者の前で裸体を晒すとは想定していなかった者、剣霊がまさか親愛なる王女殿下に化けたのかと驚愕を隠せない者もいた。だが、それぞれが抱かせられた思惑など関係なしに相手の抗いを許さない斬撃と相手に有無を言わせぬ刺突撃は作り出された薄闇の中で激突した。音など立たず、衝撃すら感じられない。数秒遅れて甲高い音が二回鳴り渡る。剣霊の契約者たちが耳を押さえる中、蒼き騎士たち三名が地に伏す鈍く重い音が混ざった。


 何が起きたのか。斬撃と刺突撃が激突し、斬撃は二つに分断されても尚、放射状に広がる。更に硬質な壁面に弾き返された刺突撃が再び斬撃を貫き、三つに分けさせられた。それぞれの斬撃は蒼き騎士たちが被る兜の側面を強く薙いだ。硬質な物体を薙げば音が響く。しかも酸の雫の侵食により目が細かくなり、相当な硬さを有するまでに至った壁面に囲まれた狭路となれば想像を絶する残響が響き渡る。

 剣を携える者にとって聴覚とは蔑ろに出来ない。むしろ視界が悪い状況であるのならば尚更である。自ずと聴覚に意識を傾ける中、とてつもない残響音が鳴り響く。三人の剣霊使いは咄嗟に耳を塞いだが、三名の蒼き騎士たちは耳を塞ごうにも被る兜が邪魔してそうも出来ない。しかもその兜が残響の発生源となれば頭部に走る衝撃と想像を絶する音により失神を余儀なくされる。沈黙を守る助手の狙いは正にそれであった。

「この様な茶番、はもう終わりにしたいのだが。」

 全身全霊の刺突撃を終えた偽王女殿下は踏み出した脚をそのままにし、残響音が鳴り止むと静かに語った。それは同時に相手の命を奪わずに戦いを無事に終えたとも周囲に伝えていた。

「あら、その声は…あなたが王女殿下ですって?」

 残り少ない霊力を斬撃に注いだブリスタンは倒れまいと片腕を床に突き、空いている側の腕で豊かな胸許を覆っていた。

「そ、そうだ…。」

 苦々しい表情を惜しまずに晒したイルサーシャは顔を背けた。とてつもない残響音よりもブリスタンの甘い声の方が彼女にとって耳障りだと言わんばかりである。

「王女殿下ねぇ…?にはいつぞやの胸が貧相なじゃじゃ馬にしか見えないけど?」

「黙れ、胸だけが自慢の牛女め。」

 負けずと悪態を吐く己の剣霊の肩にユストは手袋越しの左手を置き、首を横に振る。普段通りの何気ない動作の中にイルサーシャは違和感を感じた。いつもより重く感じる。脱力して腕の筋肉が弛緩している様な重さであった。

「剣霊同士のお喋りよりもまずは明かりだ。ユスト・バレンタイン、松明の火を灯してくれないか?」

 ル・ゾルゾアの言葉に応じるべくユストは胸ポケットからマッチを取り出す。ただ、普段と違ってそれまでイルサーシャの肩の上で静かにしていた左手で行い、そのままル・ゾルゾアへと差し出した。君が火を着けてくれ、と薄闇の中で音無き唇が動く。その唇の端が微かに震え、奥では奥歯を噛み締めている様に見える。構わないがどうかしたのか、と怪訝な表情を見せたル・ゾルゾアはマッチを受け取るなり、消された松明へと歩み寄った。柔らかで頼りない炎が灯り、周囲の状況を知り得る状態となる。三名の蒼き騎士たちは柄に手に掛けた剣を抜けないまま前のめりに倒れていた。

「お前たち、無事だったか?」

 クラウディアとラファエラの疲れ果てた姿を見るなりユラン・エレエは駆け寄った。ラファエラも動けないクラウディアの許へと近寄り、肩を抱き締めた。

「ユラン、たちはいつか助けに来てくれると待っていた。だがそれでは駄目だ、自ら行動して掴み取れとブリスタンが教えてくれた。そしてたちはユランを掴み取ったんだ…。」

 剣霊は涙を流せず、空色の瞳は潤っていない。その代わりとして彼女の心がいているのは誰の目から見ても明らかであった。もう何も語るな、とユラン・エレエの両腕がそれぞれの剣霊の首へと廻り、強く抱き寄せる。長短二つの薄紫色の髪が揺れ、濃淡のある赤い髪がそれらに覆い被さった。

「この温かい匂いはユラン、だね?凄く落ち着くよ。」

「あぁそうだ。クラウディア、待たせたな。」

「気にしないで。絶対ユランに会えるって判っていたから。」

「そうか。」

「ねぇ、ユラン。お願いがあるんだけど、から先に食事してもいいかな?」

「先も何も。二人同時でもわたしは構わん。」

 抱き寄せる腕を緩めずにユラン・エレエは胸許を覆う黒地に黒の刺繍が走るスカーフの中央を三本の指で摘む。放り投げられた協会支給のスカーフはもの悲しげに舞い、地に落ちた。

「思っていたよりも遅かったじゃない?」

 豊かな黄金の髪を持つ剣霊の特徴でもある甘い声が狭い通路の中で心地よい響きを発した。

「いろいろあってな。それよりも着るものを着たらどうだ?」

 顎鬚を詰る横顔は剣士の表情を一切見せず、ただ柔らかであった。

「脱がすのが得意な男より着せるのが上手な男の方がは素敵だと思うの。」

「あぁ、そうだな。」

 鼻で溜息を漏らしたル・ゾルゾアはブリスタンが纏う黒の薄絹を手にし、ブリスタンは両手を彼の肩に置いた。

「あなたが服を着させるのに手間取っている間、は食事を摂っても問題なくて?」  

「好きにするがいい。」

 ル・ゾルゾアは羽織る革のコートの左袖を脱ぎ、食事を与える用意を始めた。囚われていた剣霊たちが一時の休息に心身を浸す中、囚われの身ではなかった剣霊は目のやり場に困り、己の契約者へ自然と視線を合わせた。彼の垂らしたままの右腕を知った時、イルサーシャは刺突撃を放つ瞬間と同じく、再び己の目を疑った。

「おい、ユスト。そなたの刺突撃を受けたのか…?」

 黒いコートの右腕の一部が割け、イルサーシャにとって誰にも譲りたくない血が滴っている。口を結び、鼻で大きく息をするユストの左腕をイルサーシャは握り締めた。

(これでいい。剣霊と遭遇して蒼き騎士は戦い、王女殿下一行は逃げ去ったという筋書きに信憑性を与える為には一人ぐらい怪我人がいるのが手っ取り早い。)

(とはいえ、ユスト自身が怪我するまでもなかろう?)

(君の刺突撃をル・ゾルゾアとユラン・エレエに受けさせる訳にはいかないな。君の契約者である愚生の自尊心がそれを認めない。しかも二人に怪我をさせては王女殿下が悲しむ。)

 手加減をすれば良かったのでは、と言おうものなら、それでは集中力を欠いて事は成せなかった、とあっさり返されるのは明らかである。剣霊の一撃とはあらゆる迷いを断ち、己の力を全てを出し切るのが定石であり、例外は許されない。イルサーシャの中で生じる自責の念を助長するかの様にユストの右腕は血に染まっていた。

(腕はちゃんと機能している。血は流れているが、ほんのかすり傷だよ。)

 ユストは血に染まる指を動かして見せた。強がりも甚だしい。何がかすり傷だ、とイルサーシャは己の中で呟いた。流血がもたらす体力の消耗によるのか、ユストは片膝を折った。イルサーシャも同じ姿勢をとる。裾が広がる黒いコートの上を黒い生地の中で飛翔する鳥たちが着地したかの様に見えた。

 力無く垂らしている右腕に白銀の長い髪の剣霊は顔を近付ける。虚ろに開いた口は何をすべきか知っている。

が止血する。少し痛いかもしれんが、そこは耐えろ。」

 動く冷たい色合いの唇は刻々と血を流す傷口に告げたのか、眉間に皺を寄せたまま音無き鼻息を荒げる契約者に言い聞かせたのか。

 食痕以外に口を付ける。熱を発する傷口に冷たい感触が広がり、食痕とは異なる温かさが口内に飛び込んでくる。流れ出ようとする血が唇を彩り、独特な喉越しで口内を潤す中、イルサーシャの手は黒いコートのポケットから一枚の布を探し出す。黒地に金の刺繍にて剣を銜える鳩が描かれたスカーフを正方形から細長い長方形へ変化させる為に同じ方向へ二回折り込む。迸る痛みに耐えているのか、傷口付近の筋肉が強張り、剣霊のか細い肩に添えられた手が鷲掴みの形相となる。それでもイルサーシャは目を閉じたまま口を離さない。鷲掴みとなっていた手から力がふと抜けると同時にイルサーシャは傷口から唇を離した。流れ出ようとする血の勢いが緩やかになっている。まるで川の源泉の様に穏やかである。すかさず折り畳んだ協会支給のスカーフを巻き付け、硬く結ぶ。

 一連の作業は終わった。金の刺繍はそのままに、乾いた黒が潤いのある黒へ変化させる時間をそこそこ稼いだ。あとはこのエジュ・エジェ城塞から脱出して正当な手当てを施すだけである。ユストの呼吸も先よりも落ち着いている。人間であれば軽い溜息を吐く中、剣霊であるイルサーシャは周囲を見渡した。他の剣霊たちは未だに食事を摂っている。確かにこの様な空間に一週間近く幽閉されていたとなれば、想像以上に霊力を消費したのだろう。

 彼女たちの食事が終わるまで暫く待つかとイルサーシャは流麗な目尻を細めた。だが、それは間違いであった。

 天井が何やら騒がしい事にイルサーシャは気付き、形の整った顎を上へと向けた。

「どうした、酸の雫とやらを喰い飽きたのか?」

 ユストの血で潤った唇が松明の仄かな炎に照される。澱む空気が僅かな動きすら止めたのかと思う中、イルサーシャは剣霊らしくない表情、つまり目を見開き驚愕を露にした。

「馬鹿な、まさか…あの者が?」

 気付いた時は既に遅い。城砦深部の出入り口である方角から凄まじき一閃が迸る。青白き炎を纏った一閃は喰らい付く対象を知り、決して狙いを外さない。イルサーシャが舌打ちを発すると同時に狭路の中央に立つル・ゾルゾアの背中が仰け反った。ブリスタンとしても食事に意識の全てを傾けていたのであろう、肩と頭に添えている手が激痛に耐えんと力が込められた時、彼女は受け入れざる事実を初めて知らされた。

「ちょっとあなた、しっかりしなさいよ!」

 勝利を自負する剣霊の珍しくもうろたえた言葉をよそに髭を湛えた顎が天井を仰ぎ、食い縛る奥歯が不快な音を響かせる。直撃であった。革のコートに左下から右上へと走る斬撃の名残りは燃え広がる青白き炎で覆い尽くされようとしている。

「ブリスタン、無事か…?」

 激痛に苛まされる髭を湛えた顎が動き、首の周りはおびただしい汗が流れ、男らしさを象徴する喉仏が微かに震えていた。

「君が無事なら、それで…充分だ。」

 肩と頭を掴んでいた手から力が抜け落ちる。革のコートが燃える臭いの中、膝から崩れたル・ゾルゾアは幸いにして仰向けに倒れた。たとえ青白き炎が不可思議なものであろうと、炎には変わりない。背中と床を密着し、空気を遮断すれば燃え広がらずに済む。代わりに床はル・ゾルゾアの血液で新たな模様を描き始めた。

 青白き炎を纏った斬撃が放たれた方向へとブリスタンとイルサーシャは視線を動かした。これは人間の成せるわざではない。人間であればいくら気配を消そうとも剣霊には判り、対処が可能である。だが、判らずに一撃を甘んじた。

 猛る龍を意匠とした兜を被る蒼き騎士が物怖じせずにこちらへと近付いていた。肩から伸びる黒地のマントが薄闇の中でひらめき、手にする剣の切先を下へと向けている。具足の奏でる重厚な音に反応してか、刀身を包み込む青白き炎はちろちろと脈を打っている。

「門番の者どもがいないのを不審に思いここまで来たが…そういう事か。ブリスタンとやら、その男がお前の契約者か。」

 猛る龍を意匠とした兜を被る蒼き騎士は氷に似た冷たい瞳を倒れる三人の蒼き騎士たちとル・ゾルゾアへ落とした。何も語らないブリスタンに不敵な一笑を見せた後、周囲に複数の存在を察したのか、下ろしていた切先の角度を僅かに上へとずらした。

「で、殿下が何故ここに?」

 流石の彼とてこれには驚きを隠せなかったようである。イルサーシャもブリスタンと同じく何も語らない。むしろ語れなかった。この男が蒼き騎士を取り纏める存在、テウヌス・イーハンであると直ぐに理解した。彼は王女殿下を知るという。王女殿下と言わずに単に殿下と呼ぶのは常日頃から彼女と面会する機会を有している由縁であろう。その様な者の前で容易く返事は出来ない。正体がばれる。

 酸の雫が滴らず、空気が澱んだ空間の中で流れる時は遅く感じられる。炎を纏う剣とは魔剣そのものであり、人間が触れるべきではない。それは人間の意志による剣霊よりも更に上、大地の意志による剣霊と同等と見なすべきである。げんに天井に潜むイルサーシャの従者たちは彼の存在に気付こうとも手出しをしなかった。

 剣が逃げる訳にはいかない。だが、この魔剣を相手に勝利を掴み取れるのか。この場にいる者たちを失わずに王女殿下の許へ帰れるのか。今は契約者の指示を仰ごうにも仰げる状況ではない。

 青白き炎を前にイルサーシャは脳裏に一人の女を描いていた。膝よりも下まで伸びた漆黒の髪と人間を卑下する紫色の瞳の持ち主であり、強力無比な力を有する神剣霊である。悪あがきはするなと神剣霊が無情の視線と共にほくそ笑んでいる。

 白銀の長い髪の剣霊は己の眉間に力を込めた。


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