身勝手な振る舞い
話はエジュ・エジェ城塞の地下牢にてささやかな出来事の幕が切って落とされんとする数時間前まで遡る。その頃、地上では時計の二つの針が共に真上を示すにはまだ幾分早い時刻であった。
柔らかな陽の光りが北部の建築様式に倣った窓から差し込む中、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは扉を叩く音を聞いた。国営ホテルの貴賓室を利用する王女殿下の部屋の扉を叩ける者は僅かである。王都ならいざ知らず、このエジュ・エジェの地には二名しか存在しない。蒼き騎士の団長であるテウヌス・イーハンか、世話役であるユラン・エレエのどちらかである。
音量からして無骨な雰囲気は伴っていない。自らよりも背の高い女がもたらした結果であると知ったイゼリアーシェ・ヴェルリンクは安堵に似た溜め息を自ずと漏らす。重厚且つ気品溢れた扉が奏でた音の中にどの様な感情が入り混じっていたのかは判断しかねる。ただ、顔を覗かせたユラン・エレエの表情は躊躇いと憂慮が交差して出来上がった趣が見て取れた。
執務用のデスクの天板に両肘を突いたイゼリアーシェ・ヴェルリンクは朝食後のハーブティーを未だ口に含んでいないらしい。それなりの時間が経過しているのにも関わらず、白磁に金の縁取りが施されたカップの内側は依然として瑞々しさが保ち続けられていた。
「ユラン、どうしたのです、その様な顔をして?」
天板に突いた両肘をそのままに両手のあらゆる指を交差させ、その上に形の整った顎を乗せている。大衆の場ではおいそれと見せまい楽な姿勢を保つイゼリアーシェ・ヴェルリンクの直ぐ脇ではノウサギの毛を用いた帽子が置かれている。恐らく、先程まで亡き愛玩と会話をしていたのだろうと思いつつユラン・エレエは普段通りに会釈した。
「昨日、御覧になられた者がイゼリアーシェ様に取り急ぎ面会を願いたいとの事です。」
「ゾルゾアさんが参られたのですか?」
心地良い衣擦れの音が間髪入れずに部屋の空気を震わせた。執務用のデスクの下で組んでいた足を崩した為に他ならない。
「彼の者だけではございません。ユスト・バレンタインと剣霊共々一緒です。」
「あら、そうでしたか…。」
一喜一憂の有り様を短時間にて繰り広げたイゼリアーシェ・ヴェルリンクは軽い溜息を漏らす。直ぐにこの部屋に通す様にと指示を下そうとするものの、ふと何かを思い立ったのか、彼女は両目尻の端にある王者の涙相の由縁たる黒子に歪みを与えた。
「ねぇユラン、ゾルゾアさんたちにお会いする前に紅を差し直した方が良いと私は思うのですが?」
近い将来、北部王立国家の元首たる地位を約束された者が乙女の様相を纏っている。彼女の世話役は身動き一つせずに主たる王女殿下を見つめていた。
回答を待つ手持ち無沙汰なのか、己の言葉を反芻して気恥ずかしさを伴ったのか、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは窓の外へと視線を投げ、首に緩やかに巻きつけた白金の長い髪の先端を二本の指で詰り始めている。本来ならば年長者として女の眼差しを保ちたいところだが、本人の意図に関わらず剣霊障が邪魔をする。男に淡い想いを寄せる女を見るユラン・エレエの眼差しは剣士のそれであった。
「朝食を済まされてから、お茶をお飲みになられていないご様子。紅を差し直す必要は無いとわたしは思いますが?」
「あと、昨晩ぺべと共にしましたから、厩舎の臭いが私に残っていないかしら?」
「今朝の湯浴びの際にわたしがお体の隅々まで漏れなく且つ丁寧にお拭きしました。」
「ならば髪を結い直すのは?」
「今のままで充分お綺麗でございます。」
「判ったわ。有難う。」
髪の先端を詰る指が動きを止めるのを見届けたユラン・エレエは再び会釈する。濃淡のある赤い髪が揺れ動き、世話役は王女殿下に面会を求める者たちを引き連れに戻った。
執務用のデスクの上に広げられた書簡を端に寄せ、袖の引き出しから手鏡を取り出す。愛玩の毛皮を用いた円筒状の帽子はそのまま天板の中央に居座っている。
ユラン・エレエは紅を差し直す必要は無いと語っていた。確かに間違いではなかろう。しかし、今のイゼリアーシェ・ヴェルリンクは王女殿下よりも一人の乙女として意見を求めていた。乙女が自らの容姿ついて疑問を投げ掛けるのは己の考えに賛同して貰いたい欲求の裏返しでもある。
空いている手の小指の腹を下唇の中程へ這わせる。剣霊と同じく、誰にも触れさせていない下唇が小指に押し付けられて形を変えた。そのままゆっくりと横へ動かす。まるで行き止まりに出くわしたかの様に下唇の端で小指は動きを止め、音を立てずにゆっくりと離れた。
濁りを知らない灰色の瞳が手鏡に映る己から小指の腹へ落ちる。女が女として飾る色が付着している。ユラン・エレエの言葉は正しかった。
イゼリアーシェ・ヴェルリンクは再び扉を叩く音を耳にした。先の叩く音から十分は経過したが、十五分にはまた至らないと思われる頃合である。同時に鼓動が高鳴る。先程まで手鏡の柄を握り締めていた左手を胸に当て、深く息を吐いた後にどうぞ、と普段と変わらぬ声で入室の許可を与えた。
扉が開く音と共に彼女は立ち上がり、執務用のデスクの前へと移動する。貴なる血統と流離いの身という違いは覆せない。だが、同様に相手は他国出身者であり、歳上でもある。ましてや数百年を語れる存在、剣霊を随伴させている。
緊張した面持ちの王女殿下に変化を与えられるのは、この場では唯一人の男である。無精髭から転じたのか、顎先を男らしく彩り、機知に富んだ横顔を持つル・ゾルゾアはわざわざ立って出迎えた王女殿下を見るなり目尻を細めた。
「すまんな、朝早くから。」
彼の言葉に続いて、もう一人の無口な剣霊使いも羽織る黒いコートを腕に掛けたまま頭を下げる。その時間と角度から判断するに、以前は軍籍に身を置いていたのだろうかと王女殿下は眺めていた。
そして彼らの横に立つ二振りの剣霊はどうだろうか。白銀の長い髪を左右に緩やかに束ねている剣霊はイゼリアーシェ・ヴェルリンクの頭の先から足許まで、彼女を特徴付ける緑色の瞳のみならず首を縦に動かしながら眺め終えた後、眉間に数本の皺を作りながら嘯いた。
「無理だ。やはり我には無理だ。なぁハガン、そなたも剣霊ならば我の気持ちも推して知るべしであろう?二人に再考する様にと苦言を呈してくれないか?」
どうやら契約者より何かしらの難問を投げ掛けられ、釈然としない様子と見るべきか。生来の気丈さと靦然たる性格が同居している彼女の表情がそれを教えてくれた。
「あら、虎穴に入ずんば何とか、と言うではありませんか。ここは剣霊として踏ん張りどころだと我は思いますわ。」
烏の濡れ羽色を思わせる髪を無造作に結い上げた剣霊は凛とした趣を変えず、体の前で重ねている両手を動かさずにさらりと受け答えをしている。
昨日、エジュ・エジェ新聞社にて出会った時と何も変わっていない。この者たちは刻々と流れる時刻に特に気遣う事無く身を任せ、姿かたちに連綿たる変化を望む世間に対し、己の内なる物を振り回される事無く日々を歩むのであろう。そう思い、感じたイゼリアーシェ・ヴェルリンクは自然な笑みを零した。
「皆さん、わざわざお越し頂き、私は嬉しく思います。どうぞこちらでお話をしませんか?」
王女殿下自ら窓辺に設けられた応接間へ案内しようとする中、ル・ゾルゾアが咳払いをした。短く、躊躇いを伴っていたが、音ははっきりと聞き取れた。
「いや、今回はこのまま立ち話で進めたいのだが。」
先程まで柔らかであった目尻は更に細くなり、鋭さを滲ませている。中央に居座る眼光は真摯な雰囲気を漂わせてた。剣を携える者の冷徹さと男の生真面目さが織り成す雰囲気はイゼリアーシェ・ヴェルリンクの胸打つ鼓動を一気に高めさせ、心地良い熱さを全身に感じさせた。
「事は急を要す。王女殿下、あなたの良き返事を期待したいのだが、まずは話を聞いて頂けないだろうか。」
ル・ゾルゾアの発言が終わり、横に立つユストが相槌を打つ。物静かに音を立てず、声を発さずの剣霊使いの眼差しもル・ゾルゾアのそれと変わりない。
判りました、と短い返事の後、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは詳細を説明する様にと、窓辺に設けられた応接間へ向けていた汚れなき掌を二人の剣霊使いへ差し出した。
「実は昨晩、俺とユラン・エレエの剣霊を如何に連れ戻すかをずっと考えていたのだ。そして一晩掛けて俺の中で煮詰まったものを今朝方、ユスト・バレンタインとイルサーシャ、そしてハガンに説明した。」
「ゾルゾアさん、もしや一睡もされておられないのでは?」
イゼリアーシェ・ヴェルリンクはル・ゾルゾアへ一歩近寄り、顎鬚を詰る顔を見上げる。そう心配するな、と言わんばかりに細い肩に手を添えたいところだが、相手は子供ではない。一国の王女殿下である。柔らかであり、切なさを匂わしている王者の涙相にル・ゾルゾアは短い笑みだけで応えた。
「俺なら平気だ。だが、俺の剣霊は霊体の維持に苦心している。ユラン・エレエ、君の剣霊もそろそろ限界の極みではないのか?」
食痕がある左の肩を擦りながらル・ゾルゾアは己の剣霊の仕草よろしく首をやや傾げ、重厚な扉の脇に佇むユラン・エレエへと眼差しを送った。
「貴様に言われるまでも無い。」
ユラン・エレエも白いシャツ越しの胸許へ右の掌を置く。腕を彩るカエデの葉を模した透かしが歪み、胸許を覆う黒字に黒の刺繍が施されたスカーフが幾つもの皺を作り出す。
「食痕に走る痛みの感覚が徐々に狭まっていないか?」
「あぁ。」
「そうだろうな。ならば君も俺たちに協力して貰うぞ?是が非でもだ。」
「それで…私がご協力差し上げるとは、どの様にすれば宜しいのでしょうか?」
世話役の不敵な態度に特に驚く様子を見せないル・ゾルゾアの意識をこちらに向けようとしてなのか、王女殿下は更に一歩前へと詰め寄る。清廉たる心の一端を担う濁りを知らない灰色の瞳の奥は女の色を滲ませている。彼は再び短い笑みを投げ掛けず、今度は鼻から溜め息を漏らした。
王女殿下には身勝手な振る舞いをして頂きたい、とル・ゾルゾアは切り出した。どういう意味なのか。唖然とするしかないイゼリアーシェ・ヴェルリンクの様子を予測していたのか、機知に富んだ剣霊使いは顎鬚を詰る指をそのまま動かしていた。
「王女殿下には今からエジュ・エジェ城塞へ赴いて頂く。蒼き鎧の騎士たちがわざわざ門番を務める彼の地に易々と足を踏み入れられないのは犬猫ですら判断が付くだろう。何しろ、見れば見るほど背筋に薄気味悪い寒気を感じずにはいられない門の奥には軍事機密が存在するからだ。」
「軍事機密、ですか?」
「捕縛した剣霊を如何に洗脳するか研究と実験を行う施設に違いないと俺の勘が囁いているのだが。どうだろう、王女殿下?」
「その様な酷い事を我が国の騎士が行っているとは…。」
王者の涙相が驚愕と悲哀の趣を曝け出す。その趣に虚偽は無いとル・ゾルゾアとユストは確信した。剣を携える者とは見る対象の心理状況を正確に読み取る能力が自然と身に付くものである。
「あぁ。確かに酷い。だが、北部の者たちにとって剣霊は忌み嫌う対象とも俺たちは聞いている。剣霊狩り然るべき、と言えるな。」
この北部王立国家に足を踏み入れている二振りの剣霊それぞれがル・ゾルゾアの言葉に反応する。イルサーシャは筋の通った鼻をふんと鳴らし、ハガンは体の前で重ねている上側の手に僅かに力を込めさせていた。
「お話の内容から察するに、私であれば誰にも怪しまれずに、咎められずに城塞内部に入れるという訳でしょうか?」
「その通りだ。そして囚われの身であろう俺とユラン・エレエの剣霊を王女殿下自らの手で救う。恐らく彼女たちは蒼き騎士たちの管理下に置かれている。十中八九、奴らと剣蹟を交える事になるだろう。」
「私に万事物事が巧く運べる幸が具わっていれば良いのですが…。」
イゼリアーシェ・ヴェルリンクは言葉を発し終えた後、来訪者たちに背中を見せた。執務用のデスクへ近寄り、落ち着いた座り心地を約束してくれる椅子に身を預けず、脇に立てかけた細身の剣の中頃を両手で掴む。剣という武器を然程取り扱っていないと証明している線の細い肩が微細な震えを発していた。
「身勝手なのはゾルゾアさん、貴方の方です。私とてクラウディアとラファエラの安否が気になり、なかなか眠れない日々を送っているのです。ましてや、国王の血統たる私に国を想い、国を愛し、国に身を捧げる騎士たちを斬れと申されるのですか?」
肩が震えていようとも、濁りを知らない灰色の瞳が放つ眼光は一切の迷いを払拭している。語気から確固たる意志が感じられた。魂の叫びを惜しみなく晒した者が次に知るのは常に変わらない。男であれ、女であれ、血統の貴賎に関係なく、唯一つの感覚を味わう。強張った頬を宥めようとしているのか、イゼリアーシェ・ヴェルリンクの目の付け根は熱いものを流していた。
「それでも王女殿下、あなた様には為すべき事を為してもらう。」
剣を携える者は目前の光景に情を動かしてはならないと熟知している。情を動かすとは隙を生み、死へと転がり落ちる可能性が極めて高くなる。その定石に則ったのか、ル・ゾルゾアの言葉は動揺の欠片を見せず、そして暗くも明るくも無く落ち着いていた。
「この…人でなし!」
イゼリアーシェ・ヴェルリンクは汚れを知らない腕をル・ゾルゾアへ向けて振り上げると同時に、掌が弾き飛ばされる感触を覚えた。勢いに抗えず、腕が後ろへと廻る。感情に流されるままの行動を何が抑制したのか。
「お痛くありませんでしたか、王女殿下?」
ハガンが口角を自然な形で持ち上げていた。刹那の称号を頂く彼女の体の前で重ねている両手が入れ替わっていた事に周囲の者は気付かず、何時入れ替えたのかも判らない。また、怪我をしていないかと訊ねずに痛くなかったかと言葉を発したのは大気を斬った際の衝動の加減を熟知しているからである。
「女が男を叩けば得も言われぬ哀しさが生涯残るだけですわ。」
弾かれた掌を不思議そうに見つめていた王女殿下は、ハガンの思いを耳にした後に己の取った行動にはたと気付いたのか、顔を赤らめながら項垂れた。
「私とした事が何と申し上げたら良いのか…。」
「いや、王女殿下に非は一つも無い。非は俺たちの方にある。ただ、こうまでもしないと王女殿下のお覚悟を知り得ないと判断して無礼な振る舞いを演じていたのでね。」
イゼリアーシェ・ヴェルリンクは忸怩たる思いを露にしながらル・ゾルゾアを見上げた。首に緩やかに巻きつけた白金の長い髪が肌触りの良い服の上を滑るように動く。窓から差し込む陽光に反応した輝きは見る者を惹き付ける。誰もが見入る景色の中、執務用のデスクの脇に掲げられた国章旗に居座る剣と槍を構えた龍だけが無表情であった。
「覚悟、とは?」
今ひとつ解せない表情を見せるイゼリアーシェ・ヴェルリンクに対し、ル・ゾルゾアは握り締めた拳の親指をとある方向へと向けた。
「これまで話した内容を実行するのは王女殿下に扮した彼女だ。聞いた話によれば、俺の描いた絵を見た大半の者は彼女が王女殿下だと疑わなかったらしいな。」
王女殿下に扮する者を示した親指の付け根を二三度動かしながらル・ゾルゾアは言葉を続けた。
「で、当初の計画に少し修正を加えようと思うのだが。イルサーシャ、蒼き騎士たちの生命を奪わずに戦闘不能な状態に出来るかね?」
「斬らずに叩けという事か?そなた、剣霊である我にそれは至極難儀だと思わんのか?」
品行方正なハガンと対極をなしているのか、腕組みを崩さないイルサーシャは、流麗な目尻に表情を与えずに耽々と口を開く。端から厄介事に付き合わされていると言わんばかりの態度を示す彼女を諭せるのはユストだけであり、己の役目を熟知する彼は剣を握る為の左手を彼女の腰に廻した。
「なるほどな。ユストが提案するに、手か足の腱を斬ればその様な状態に持ち込めるそうだ。」
「あぁ、それで良い。王女殿下の為にもそうしてくれ。」
頷くル・ゾルゾアに向けて鼻を鳴らして答えたイルサーシャの深い緑色の瞳が濁りを知らない灰色の瞳と交差した。
「あの、イルサーシャさん。私は…。」
言葉半ばにしてイルサーシャの白い手が挙がった。
「ユストから姫君に申し上げたい事があるそうだ。」
無論、ユストの口から発する言葉は剣霊障にて遮られている。音無き剣霊使いは自らの剣霊に代弁させるべく、無情の刃と化す剣霊の白い手首を掴み、人差し指を肌理細かな肌の上で一定の調子で動かしていた。
「蒼き騎士たちは剣霊と対峙するのが主な務めだと先日、我たちに教えてくれたな。果たして彼らは鍛え抜かれた豪腕と手にする剣が繰り出す斬撃だけを頼りに剣霊を倒し続けていたのだろうか。答えは否だ。相手たる剣霊の特徴や行動癖、そして弱点を熟知するのは戦いに於ける基本であり、彼らは剣霊の使い手よりも知識が豊富かもしれん。しかもそれらを誰一人漏れなく共有に徹底する。それが軍というものだ。」
一瞬の沈黙が置かれる。話す内容を今一度整理したのか、ここからは仮説だが、とユストはイルサーシャに語らせた。
剣霊をいくら倒そうとも知り得る情報が同質的となりつつ中、とある戦いにて倒した筈の剣霊がまだ霊体を保っていた。しかもその剣霊は契約者を伴っていた。既に息絶えた契約者を覆い被さる様に守る剣霊は腕を振るう余力も突き、抵抗する素振りすら見せない。かくして剣霊は捕えられ、契約者の遺体ともども研究対象となった。研究とは覆される事の無い真実を教えてくれる。そこに人間は願望という思いを植え付け、育ませ、終着点の一つを見出そうとする。契約者で無かろうとも剣霊を扱えないだろうかと。剣が人間を選ぶという理に選ばれる側が一石を投じた。何体もの剣霊が犠牲となり、悲痛の叫びを伴いながら研究の糧として消え去った。そして不可能を可能とした時、人間は偉業だの奇跡だのと口にする。だが、当事者の自画自賛とは果たして今後の人間が安らかに生活していく上で役立つのだろうか。それは過去の歴史が如実に教えてくれる。ただ侵略する為に、同じ人間同士を傷つける為に使われるであろう。
剣霊帝は北部王立国家の次期王位後継者を為止めよ、と二人の剣霊使いに命を下した。今思えば、国家の転覆を謀った訳ではないと断言出来よう。剣霊帝は始まりの剣霊と言われる。始まりとは物事の起点であり、生命の頂点を自負する人間が剣霊と共に歩む世界を大地の意思を語る長姉は描いた。しかし、これまでの千年以上の時の流れを経て描き続けている世界にひびを入れようとする集団が姿を現した。つまり北部王立国家に所属する蒼き騎士たちである。故に剣霊の剣としての矜持を侵されない為に、これまで情けを掛け続けた人間に暴挙に走らせない為の判断ではなかろうか。ならばその判断が剣霊と人間の双方にとって不本意な結末を迎えないよう、剣霊帝の命を受けた者は速やかに動くのみである。
「我たちが行動に移した後、姫君におかれましては心穏やかに悠然と構えていて頂きたい、とユストは言っておる。何せ、姫君には次なる戦いが控えているからな。」
口を動かしているイルサーシャ自身も次なる戦いが如何に困難な道程を歩むのであろうと予想がついた。相手は北部王立国家に住まう全ての臣民たちである。国家の敵である忌々しき剣霊たちを助け出した王女殿下を彼らはどの様な目で見るのだろうか。剣と暴力で捩じ伏せる訳にはいかない。言葉と真心で向き合い、受け入れて貰うしかないのだ。
イルサーシャの腰に当てていたユストの手が離れた。重き沈黙が国営ホテルの貴賓室の中で横たわらんとしている。この沈黙を破る義務を背負うのは誰であるか、この場にいる全ての者が肌で知り得ている。
ル・ゾルゾアは顎鬚を詰る指の動きを止め、腕を下へと降ろす。指先を伸ばし、体の脇へ添える。そして目を閉じると頭を垂れた。
これまで貴なる者の前であろうと普段と変わらずに飄々とした雰囲気を崩さなかった彼が頭を下げたのである。ユストが行った入室時の一礼と同じく、角度や時間も申し分ない。だが、ル・ゾルゾアの場合、規律や序列に従い頭を下げたのではない。男として、剣士としての切なる願いが込められている。頭を下げられる側の立場として生を受けたイゼリアーシェ・ヴェルリンクは直ぐにその事実に気付いた。真摯な男の前に立たされた女が取るべき行動とは唯一つである。
先程まで熱いものが流れていた頬を気にせず、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは白銀の長い髪をもつ剣霊へと足を動かす。
細身の剣が向きを変えた。鞘は水平となり、中頃を握り締めていた両手は左右へと開く。
「イルサーシャさん、御武運を。どうぞクラウディアとラファエラ、そしてゾルゾアさんの剣霊をお助け下さい。」
イゼリアーシェ・ヴェルリンクは自らの剣が差し出した。騎士が剣を託すとは全てを任せるという意味である。迷いと不安を拭い去った王女殿下の表情とは涼しげであり、王者の涙相と言われる由縁たる者として誰もが息を呑み込む清々しさを纏っていた。
予め手出しは無用と仰せ付けられたのでその通りにしていたが、真に無礼も甚だしい。身勝手な振る舞いを行えとはよく言えたものだな。そもそも貴様らの考えそのものが身勝手ではないか。下手をうてば御立場が苦しくなるのを承知の上でイゼリアーシェ様は首を縦に振られたのだ。まさに苦渋この上ない御覚悟をされた。もしあの場でイゼリアーシェ様が難色を示していたら、拳に訴えて貴様らをこのホテルの外へ、エジュ・エジェの外へ叩き出していたぞ。
貴賓室の直ぐ隣に用意されている別室の扉を潜るなり、ユラン・エレエは己の中で蟠っていた感情の一片を遠慮なしにぶちまけた。どうやらここは王女殿下の世話役たる彼女の為に用意された控え室と思われる。調度品や建具の装飾は貴賓室に比べるものではないが、質素なもので構成され、利用者の内側を垣間見させてくれるかの様に整然としていた。
この場にハガンは同行していない。王女殿下を独りにしてはならないと知る彼女は貴賓室に留まった。品行方正な彼女とて剣霊である。剣霊とは我が強い。その主張を曲げられるのは契約者のみであるのは同じ剣霊であるイルサーシャは勿論、三人の剣霊使いは熟知していた。
先の刹那の一閃の件もある。ハガンなリの謝罪から始まり、ものの数分も経たないうちに談笑に花を咲かせていると思われる。烏の濡れ羽色を思わせる髪を彩る黄金色の髪飾りが小刻みに揺れ動き、凛とした目許は一時の幸を見出す。片や、緩やかに首に巻き付けた白金色の長い髪の先端を詰りつつ、王者の涙相にこの上ない柔らかさを与える。和やかな雰囲気に包まれた空間を想像するイルサーシャの横で壁に寄り掛かり腕組みをするル・ゾルゾアが口を開いた。
「ユラン・エレエ、君の怒りも尤もだ。すまないと思っている。だが、俺たちはそれぞれの剣霊が戻るまで指を銜えて大人しくしている訳にもいかん。」
ル・ゾルゾアはわざとそれぞれという言葉を用いた。つまり、ユラン・エレエにも協力せざるを得ない状況へ足を踏み入らせ、選択の余地を与えない為である。
「確かにそうだが、再三言うように、わたしはイゼリアーシェ様のお立場を案じて…。」
腕を組みながら顎をやや上に向けて語るユラン・エレエの発言をユストは一点を示して遮った。そこは壁に打ち付けられた黒鉄色のハンガーフックであり、まだ袖を通していないと思われる服が二着、並べて掛けられていた。ユストとほぼ同じ背丈と思われるユラン・エレエは言うまでも無く、イルサーシャやハガンが身につけるには小さ過ぎる。壁の一点を示した指が横に立つ剣霊の白い腕へと移動した。
「そなたが契約を交わした剣霊たちの為に用意したのであろう?姫君のこれまでの言動から察するに、そなたの剣霊たちは彼女にとって掛替えの無い存在だ。このまま無為に時が流れれば彼女の笑みは生涯乾いたものになるぞ?」
「ほぉ。ユスト・バレンタインとやら貴様、利いた風な口を叩くな?」
愚生とて過去に掛替えのない全てを失った、とは流石にイルサーシャの口を借りて言わせられない。剣と剣士、剣霊とその契約者が互いに信頼に身を預ける中、これまで共に歩んだ日々を否定する事ともなる。
この女剣士とはどうも反りが合わないのは承知している。言い換えるのならば、引っ掛る何かがどうも払拭出来そうにない。その正体が判るのであれば対処のしようがあるが、濃い霧の中に立たされた様に、どう動けば良いのか判断しかねる。果たして一歩を踏み出して良いのかと思う反面、その一歩が取り返しのつかない状況へと転がるのでは、と胸の奥でもう一人の自らが囁いている。剣士としての眼差しを崩さないユラン・エレエに対し、ユストは臆さず睨まずの視線を保つ。カエデの葉を模した透かしが施された両袖とその下に巻き付けた黒い布越しの腕が動いた。
「剣霊、イゼリアーシェ様はその様な悪趣味な模様のドレスはお召しにならない。これに着替えろ。」
ユラン・エレエは一着のドレスを腕に掛けていた。黒地に空飛ぶ鳥の柄を所々に配した立ち襟のドレスである。どうやら王女殿下は黒地に控え目な柄の入った、そして立ち襟のドレスが好みらしい。
「悪趣味とはなんだ。我としては結構気に入っているのだがな。」
憮然とするイルサーシャを宥めるのはユストの日課の一つでもある。ここは大人しく彼女の言葉に従えと白い腕に触れている指を二三度動かしながら語り掛ける。王女殿下に扮する事に不安と緊張を覚えているのか、普段であれば文句の一つや二つ投げる彼女も今回は素直にユストに従った。ゆっくりと頷いた後にイルサーシャはユストの前に立ち、左右に束ねた髪を体の前へと垂らす。不可思議な光景を前にル・ゾルゾアは感心の眼差しを示し、ユラン・エレエは眉間に皺を寄せた。
「貴様ら、剣霊とはいえ女の着替えに男が何食わぬ顔して立ち会うつもりではないだろうな?」
「あぁ、我のドレスのボタンを外せるのはユストだけだ。」
ユラン・エレエは僅かに驚きの表情を見せた後に、いらだつ様相を露にさせた。
「ならばさっさとボタンを外して貰い、速やかに退室しろと気の利かない契約者へ言ってくれないか?」
「あと、ユストは姫君と同じ髪の結い方が判らんらしい。これもそなたにお願いしたいのだが。」
「契約者ではないわたしの手はその銀色の髪に触れないのは百も承知の上での相談か?だとしたらユスト・バレンタイン、貴様は契約者として初歩の中の初歩を学び直すべきではないのか?」
鼻で笑うユラン・エレエの言葉に動じずに一瞥を投げたユストの手はイルサーシャのドレスのボタンを外す。上から順番に、不規則な縞模様が感慨深い琥珀のボタンが肌触りの良い絹の生地の裏に隠れてはまた現れる。全て外し終わった後、イルサーシャはドレスがずり落ちない様に肩を押さえながら、空いている側の手を使ってユラン・エレエの胸許を覆う黒地に黒の刺繍が走る協会支給のスカーフを指差した。
「その為に第十三条がある。そなた、協会に所属する者として知らんとは言わせんぞ?」
剣霊協会規定第十三条とは非常時に於いて剣霊の契約者は他の剣霊に血を分け与える義務として知られている。二組の剣霊の行方が判らぬ今が正に非常時とイルサーシャの指が物語っている。
イルサーシャのドレスのボタンを外し終えたユストはシャツの胸ポケットから煙草を取り出した。箱ごとである。それまで幾分膨らんでいた彼の胸許が元の形へと変わった。
「おい、わたしの部屋は禁煙だ。」
互いの黒地に黒の刺繍が施された協会支給のスカーフが波を打つ。一方は食痕が広がっているであろう胸許に添えている、第十三条に対する躊躇いを隠せない手が作り出し、もう片方はただ音無き溜息と共に頷いた。ユストは手にする煙草の箱から二本取り出すと、ル・ゾルゾアの気を引く様にその先端を扉へと向ける。
「そうだな。俺たちは部屋の外で待つとするか。手っ取り早く、漏れなく用意してくれ。」
何気ないジェスチャーに気付いたル・ゾルゾアはユストの肩を叩いた後にそのまま手を廻す。まるでまだ飲み足らずに三件目の酒場へ繰り出そうとしている旧知の誼を見る者に思わせる素振りを残して二人の剣霊使いは世話役の控え室を後にした。
扉の閉まる音を確認していたのか、素っ気ない音が響いた後にル・ゾルゾアは深い溜息を漏らした。ユストが差し出した一本を無言で受け取り、廊下の窓へと近寄る。採光を主たる目的とした北部の建築様式を踏襲した窓は大型ではあるが、嵌め殺しではない。窓枠の中央の上下に軸が施され、回転式の開閉が可能である。
ユストは遠慮なく窓を開けた。これまで赴いていた西部や祖国である中央の窓よりも分厚く、重い。国営ホテルの格調高い空間の演出を担う一方、防寒の為とも考えられる。北部にいるのだと改めて実感させてくれる外気を頬で感じる中、互いに煙草に火を灯す。
「先程、王女殿下は俺に向かって人でなし、と手を上げたが…そのまま打たれていれば良かったのかもしれんな。」
吐き出す煙は窓から外の世界へ流れ、音を立てずに消えていく。ル・ゾルゾアの言葉がユストの脳に留まる。何故なのか理由を聞きたくとも、声が出せない。文字で意思の疎通も図れない。ユストは銜え煙草のままル・ゾルゾアを見つめ、首を僅かに捻った。
「剣霊と契約を結んだ俺たちは傍から見れば人でなしなのだろう。人間の域を超えた剣を横に置き、金を得る。世間では邪剣霊の恐怖と不安に取り憑かれる中、俺たちは無表情のまま剣を振るう。ユスト・バレンタイン、君は邪剣霊を倒す際、こいつは果たして如何ほどの人間を悲しませたのだろうか、己が放つ斬撃が一日いや一時間でも早ければどれだけの命が助かったのだろうか、と思う事は無いか?だが、そんな感情を抱こうとも誰も答えを見出せない。そもそも如何に剣を振るおうと死者は蘇らない。依頼主の畏怖と警戒心が折り重なった冷たい視線と死者の家族が流す悲しみに暮れた涙を何度も味わわされた。そして今となってはその光景は俺の中で当り前になってしまった。人でなしの烙印を押されても文句は言えんよ。」
開かれた窓の外を茫然と眺めるル・ゾルゾアの横でユストは銜える煙草を右の二本の指の隙間に挟み込み、煙と共に音なき息を吐く。同じ立場であるからこそル・ゾルゾアの胸中は痛いほど良く判る。
「あいつがいないとどうも弱気になるな、俺は。」
ル・ゾルゾアは自らの心情を吐露した後に短い笑みを零した。つまらない話をしてしまったと己へ向けての失笑が半分、つまらない話を聞かせてしまったとユストに対する謝意が半分。そう思い悩むな、という意味を込めてユストは左右の口角を上げようとしたが、思い留めた。仮にイルサーシャを失ったとして、または今のル・ゾルゾアと立場が逆であったとして、己へその様に言い聞かせられるのだろうか。
剣士が剣を失うとはこの先の道程を見失う。戦いに身を投じている時はただひたすら相手の動きを予測し、一切の迷いを捨てて剣を振りかざしてきた。その積み重ねでここまで歩み続けてきた。剣に魅せられた者とは自覚していないが、剣霊を常に横に置いていなければならないのも事実である。彼女たちが一撃を繰り出す時、絶大なる気迫の前に相手は我を忘れて恐れ戦く。剣霊だからこそと言えばそれまでだが、その剣霊の実体である剣体を握り締め、振るう己の顔付きとは既に人間ではないのかもしれない。それこそ人でなしの形相なのかもしれない。
煙草の先端が赤く明るくなり、黒く暗くなる。二人の剣霊使いは並んで開かれた窓辺に半身を預け、流れては消える煙を目で追っていた。
男二人が視界から消えたのを確認したイルサーシャは肩に当てている手を動かした。片方をずらし、もう片方も同じ様に行う。しみや黒子と無縁の剣霊らしいか細い両肩が晒され、ユラン・エレエは感心の様子を目尻に数本の皺を作って表現していた。
「イゼリアーシェ様の肩は肌理細かな肌に惚れ惚れとする線を描いておられるが、剣霊、貴様も曇りやくすみもなく、なかなか見事だ。」
「暇を見つけてはユストに磨かせているからな。当然だ。」
「それではわたしがクラウディアとラファエラの手入れを怠っていると言わんばかりではないか。」
「そうだな。帰ってきたらいやと言うほど磨いてやれば良い。」
「あぁ、そうするさ。」
短い苦笑を放ったユラン・エレエは、受け取れ、と手にするドレスをイルサーシャに向けて投げる。ユストとル・ゾルゾアの姿が消えてからユラン・エレエの様子に変化が生じているとイルサーシャは見ていた。彼女の剣霊障とは男を嫌う事であろうとユストから昨晩聞かされていたが、彼の見当は正しかったと言えよう。口調はともかく、彼女が纏う雰囲気が柔らかく感じられる。鳥の柄が宙を舞い、イルサーシャは片手で腰の辺りを掴み取った。
着慣れぬ服に袖を通すとは多少の不安が付き纏う。他人の服であれば尚更である。肩幅の具合、裾の長さ、腰周りの納まりようなどをイルサーシャは気に掛けていたが、そこに問題は生じなかった。ただ、鎖骨が露出するドレスを普段纏う者にとって立ち襟のドレスとは首回りがここまで窮屈なものなのかと感じさせられていた。
「イゼリアーシェ様のお召し物は全て採寸による特注品だが、貴様が袖を通しても変に突っ張った箇所も無くまずは及第点というところか。」
「ほぉ、及第点とはどういった意味だ?」
「偽者は本物のイゼリアーシェ様と比べて胸の辺りに大分余裕を作らせているが、まぁ、相手が相手だけにそこを凝視する愚か者もいないだろう。」
「そなた、我が密かに気にしている事をよくもまぁずけずけと…。」
両手を握り締め、人間であれば鼻息を荒立てているであろう剣霊に先程の礼だ、と一笑に付したユラン・エレエの濃淡のある赤い髪が揺れ動く。イルサーシャの面前に立つユラン・エレエは握る拳を開き、指を出せと指示した。
「残念だと思うかもしれないが、第十三条は適応させない。わたしの体にはクラウディアとラファエラの食痕が二つある。片方を適応すれば、何故もう片方で行わなかったのかと口論が始まる。あちらを立てればこちらが立たず、とはクラウディアとラファエラの為の言葉だとわたしは思っている。」
「判った。そなたの考えを我は否定しない。全て任せよう。」
「剣霊。貴様、わたしが思ったよりも素直だな。」
「我とてユストの血を他に分けるのは心苦しいからだ。今回は偶然にも立場が逆なだけだと思えば、あれこれと要求も出来ん。」
「そうか。」
差し出された右の人差し指と中指は生きる全てを拒む。そこにユラン・エレエは左の小指の側面を添える。触れる指と指に隙間は生じてない。やがて密着した二つの指の接点から鮮血が緩やかに溢れ出し、互いの指を生々しい色へと染め上げる。
「五分もあればイゼリアーシェ様と同じ髪型に出来るが。」
溢れる血は滴らず、イルサーシャの指の付け根へと絡み付く様に流れる。床に落ちるのを嫌うかの如く、また摂取されるのを待ち望んでいるかの如く、剣霊の肌の上で魅惑の曲線を描き続けていた。
「ならば既に充分な量だ。」
人間の指から剣霊のそれが離れ、互いに次の行動へと移す。ユラン・エレエは止血を行い、イルサーシャは彼女の血を口に含ませた。部屋の片隅に置かれた木製の質素な椅子に座り、背筋を伸ばす。髪を触られ、纏められる不安を払拭させる為か、足を組んでも良いかと小声で囁く。イゼリアーシェ様が足を組まれる時は常に右が上だ、と小指に止血用の布を巻きつけたユラン・エレエが静かに答えた。普段とは異なる側を上に足を組み、髪を纏め易い様にと顎を引く。緑色の瞳に闇を与えれば、刀身の象徴である髪に触れる指がユストではないと改めて実感出来る。皮膚の硬さは同じだが、ユストより細く、そして繊細であると伝わる。しかも温かい。男よりも女の方が体温が高いと聞いている。白銀の長い髪を左側に束ねられ、これから走るであろう激痛に耐えんと否応にも眉間に皺が寄る。目分量で三つに分けられ、イルサーシャの薬指と同等の長さまで編み込まれた。そこから先は髪が広がらない様に捻じり、締め付けない様に首許へ緩やかに巻く。先に編みこんだ箇所と巻き付けた髪が交わる部分を髪飾りで固定する。そして垂れる先端に再び三つ編みを施す手順である。
「一つ聞くが、櫛を使ったら歯が欠けるだろうか?」
「恐らくな。」
「髪の質はイゼリアーシェ様と同じだが、櫛を使えないとなると…。」
「手櫛で構わん。その為に我はそなたの血を摂ったのだ。」
血か、とイルサーシャは己の中で反芻した。ユラン・エレエの血が語る情報に意識を傾けるのも悪くない。他人の心の内を覗く様で後ろめたさを感じるが、苦痛の時間を紛らわせてくれる。剣霊の使い手であるユラン・エレエとて剣霊に血を分け与えるとは、ただ触れれる以外の意味を重々承知している筈である。普段は髪の下に隠れている二匹の黒蛇のピアスが晒される。イルサーシャの従者たちが撒き散らす睥睨はユラン・エレエの髪を結わく手を止めさせた。
「安心しろ。そなたに噛み付きはせんよ。」
今度は我が見返してやったぞ、と言いたげな微笑を浮かべた後、女傑の血が語る記憶の一部を知るべくイルサーシャは引いている顎を上へと向けた。
月明かりの美しい夜が描かれた。儚く淡い輝きは一本の大樹に身を預けるユラン・エレエを照らしている。血飛沫で染まったマントに身を包んでいる彼女は肩で息をしていた。何処かは判らない。大樹の枝を見れば季節は夏だと容易に判る。虫は既に寝入っているのか、静かな夜である。マントの中でだらりと力なく下げているであろう腕の先では酷使に耐え抜いた剣が佇んでいた。切先は欠け、月明かりを反射出来ず、不気味な色で覆われている。これは単なる血の色なのか、それとも欲望が導いたの色なのか、或いは後悔を象徴する色なのか。
逃避の最中なのは誰の目にも明らかであった。肩で息をしようとも視線は確固であり、彼女の立場を教えてくれる。狩る側よりも狩られる側の視線とは凄惨であり、隙が無いものである。月明かりがユラン・エレエに歩み寄る二つの影を映し出す。共に成人の女にはまだ早い体の線をしており、薄紫色の長い髪と短い髪が揺れている。二つの影の足音が聞こえない。僅かな音でも捉えていた聴覚が遂に狂い始めたのかとユラン・エレエは手にする剣の柄を握り直すも、振りかざす事はおろか、構える余力すら残っていなかった。
身動きが出来ないユラン・エレエの右側に髪の長い方、左側に髪の短い方が立ち止まった。彼女たちの柔らかそうな肌は月明かりを吸収しているかの如く白く輝いている。ただ、身に纏う揃いの衣服はお世辞にも綺麗とは言えない。長い時間を掛けてこの様になったと表現するのが尤もな汚れ具合である。
「貴様ら、わたしに何の用だ?」
武器を隠し持っている様子は感じられない。夜中に若い女が散歩に興じるとは余程の世間知らずか身形からして単なる物乞いであろうか。
「ねぇ、どうして剣を手にするの?」
髪の長い方がユラン・エレエの傍らで顔を覗き込む様にして訊ねた。
「強くありたいからだ。」
「どうして強くありたいの?」
純朴な声に加えて、柔らかな目許の中心を彩る空色の瞳に射抜かれたユラン・エレエは何かが抜け落ちたかの様に結んでいた口を半開きにした後、自嘲めいた鼻息を漏らした。
「…まだ死にたくないから、だろうな。」
髪の短い方が膝を折った。こちらも同じく空色の瞳をしているが、髪の長い方と比べて凛々しさと聡明さを思わせる目許をしていた。
「守るべき存在無くして強さとは成し得ない。あなたにはその様な存在は有るのか?」
耽々と語る髪の短い方へとユラン・エレエの顔が向けられる。脳天よりやや後ろで束ねられた濃淡のある赤い髪の上で月明かりが滑る様に煌いた。
「わたしは奪う為に剣を振りかざしてきた。だが、それももう終わろうとしている。淋しい事だが、守るべき存在をわたしは見つけられなかった。」
「ならば、我たちを守って欲しい。我たちもあなたの求める強さを約束する。」
髪の短い方が語った我とは己を指す一人称だと思ったユラン・エレエは眉をひそめ、記憶の糸を手繰り寄せる。やはりこれまでに聞いた覚えはない。この地域独特の言い回しだろうか。だが、知識の欲求は既に枯渇している。空を見上げれば、大樹の生い茂る葉の隙間から瞬く星は体を預けた時からそれなりに移動していた。
「わたしはもう動けない。一時間もしないうちにわたしの命を狙う者たちがこの場を発見するだろう。早く身を隠せ。」
「身を隠す?」
髪の長い方がわざとらしく首を傾げ、何も知らなさそうな指を顎に添える。幼気な仕草に誘われたのか、ユラン・エレエは再び音を立てて鼻息を漏らした。
「命果てる前にお前たちの様な純朴な者と話が出来て幸せだった。有難う。」
悔いは無いと目を閉じれなかった。何も知らなさそうな指に転がる剣の刀身と同じ化粧が施されていたからである。
「まさか、お前たち…?」
「我たちは剣霊だ。あなたを狙っていたと思われる男たちを八人、一人も残さずに斬った。」
髪の短い方も後ろに隠していた手を見せた。
「凄いね。女一人を男八人でないと倒せないなんて。やっぱり我たちの契約者にうってつけだよ。そこでお願いがあるんだけど…。」
髪の長い方はユラン・エレエの顔から胸許へと視線を移し、言葉を続けた。
「食事の時、頭を撫でて欲しいな。」
剣霊の食事とは何か、そして剣霊の契約者とは如何なる立場なのか、髪の短い方が一つずつ端的に説明をする。黙って聞いていたユラン・エレエは説明を聞き終え、可否の返事を見守る二振りの剣霊を交互に見つめた。剣霊に命を救われたのは覆しようのない事実である。契約者になれとは世間で言うところの剣霊使いか。卑下と羨望の対象となれと言うのか。面白い。失うべき存在は既に無い。そして、これから失っては困る存在を得ようとしている。
「判った。全て呑もう。わたしの名はユラン・エレエだ。」
「我はクラウディア、こっちはラファエラだよ。早速食事にしても怒らない?八人も斬ったからおなかが空っぽなんだ。」
「あぁ。ただ、わたしは見ての通り疲れきっている。服のボタンはお前たちが外してくれ。」
「別に構わない。だが、頭を撫でるのは…難しいだろうか?」
ラファエラは口調からして少し大人びた趣を感じていたが、望む先はクラウディアと同じである。目の前の二振りの若き剣霊たちは眉一つ動かさずに八人の男を斬ったのであろう。その様な者たちが頭を撫でられるのを懇願している。これまで荒みきったと思い込んでいた心が潤うのをユラン・エレエは実感していた。
「それに体力を廻す為に服のボタンを外せと言ったつもりだが?」
ユラン・エレエの言葉に応じたラファエラが身を包むマントをめくり、着る者と同じく疲労感を漂わせているシャツのボタンはクラウディアの下から上への一閃で飛んだ。宙を舞うボタンが月明かりの恩恵を全身に受けている中、女の膨らみに二振りの剣霊は顔を近付けてた。右がクラウディア、左がラファエラである。喉を鳴らして血を摂取している。剣霊が血を欲するのは心身の渇きを癒す為と聞いている。実はこの二振りの若き剣霊たちの方が己より荒みきった心の持ち主なのでは、ユラン・エレエは訝しんだ。だが、急いで知る必要もない。命果てるまで共に過ごす時間が自ずと教えてくれるだろう。
彼女たちの願いを叶えるべく、撫で心地が良さげなそれぞれの頭へ向けてユラン・エレエの腕がマントから姿を現す。ラファエラの頭へ添えられた手の先は豪奢な蔦模様が描かれ、クラウディアの頭を擦る手の先は刀身の中頃を交差させた波打つ刃の大剣が三本、鎮座していた。
月は知られざる真実を垣間見る者に晒し、役目は終わったと流れる雲の中へ消えた。
「終わったぞ。偽王女殿下。」
イルサーシャの両肩に手を置くユラン・エレエの声はイルサーシャの目を開かせた。剣霊の肩から離れた手が無垢の真鍮製の板に貼られた三面鏡を広げ、偽王女殿下の顔を映す。髪の結い方は文句の付け所もない。しかも既に王者の涙相を真似て、彼女の流麗な目尻の下に黒子と思しき点が左右均等に付着していた。
「まるで寝ているかの様に静かにしていたな?髪を結わえる激痛で気を失っていたのか?」
いや、と素っ気無く曖昧な返事をするイルサーシャは立ち上がった。木製の質素な椅子が音を立てない代わりに、畳む三面鏡の蝶番が緩やかな金属音を奏でる。
「手間を取らせたな。」
「イゼリアーシェ様はその様な言葉を使わないが?」
深い緑色の瞳は呆れ顔のユラン・エレエから黒い布で覆われた腕へと移る。その下に彫られた刺青は今も健在なのであろう。
「そうだな…。まぁ、以後は気をつけるとしよう。」
勝気で気丈夫な剣霊が素直で従順な態度を示している。それこそ髪を結わえる激痛がもたらした結果なのだろうか。些か調子が狂ったユラン・エレエは止血の為に小指に巻いていた布を外した。もともと浅い切り傷ではあったが、他に勘繰られるのを避ける為でもあった。
世話役の控え室の扉が開く。契約を交わした剣霊の変わり様にユストは珍しくも茫然とし、今回の謀を主立って巡らしたル・ゾルゾアは偽王女殿下の予想以上の出来栄えにこれはこれは、と鼻から息を深く漏らした。
「何処からどう見ても王女殿下そのものじゃないか。ユラン・エレエ、君の世話役として仕えた月日も伊達ではないな。」
「彼女はイゼリアーシェ様と比べて背丈は変わらないが髪の色は微妙に濃く、瞳の色は明らかに異なる。あと声の音が幾許か低い。わたしなら即座に偽者だと見破るが。」
「それは常に横に立つ君だからこそだ。他の者ならばそうそう判るまい。」
ル・ゾルゾアとユラン・エレエの遣り取りの中、イルサーシャは大人しくしている。いや、大人しくしていると表現するよりも覇気を失っている状態と言えようか。自らの剣霊のこれまで見せた事のない様相に気付いたユストは暇にしている左手をズボンのポケットに入れ、腕を広げた。腕に手を置けという示唆であり、会話の為に他ならない。契約者の心遣いに応じたイルサーシャの首に緩やかに巻き付けた髪の先端が揺れ、百年香の淡い香りが踊る。確かに見た目は王女殿下その人だが、嗅ぎ慣れた匂いが五年前に共にする事を契った剣霊だと教えてくれる。
「偽王女殿下に忠告しておくが、外ではユスト・バレンタインに易々と触れるな。イゼリアーシェ様に不逞な風評が立つ恐れがある。ただでさえイゼリアーシェ様が男と腕を組んで歩いているのは何とも不埒極まる光景だ。」
ユラン・エレエの言葉は世話役としての正当な苦言と、残りは感情に任せた放言と捉えられる。君の言いたい事は判る。だが今は少し彼女と話がしたいとユストはゆっくりと頷いた後に右の親指と人差し指で間隔を作り、再び頷く。ユストの腕を両手で掴み、彼を見上げるイルサーシャの姿にユラン・エレエは舌打ちを鳴らした。
「イゼリアーシェ様が首を長くしてお待ちだ。貴様ら、とっとと歩け。」
貴賓室へ顎をしゃくったユラン・エレエの濃淡のある赤い髪が揺れた。憤慨そのものと言わんばかりにユラン・エレエが先頭を歩き、女傑のあまりの怒り様に肩をすくめておどけたル・ゾルゾアが続いた。
(髪、痛くないかい?)
(痛いにきまっている。愚問だ。)
(愚問か。まぁ、愚生には判らない痛みだからね。)
(鈍感なそなたの腕を曲らない方にへし折って、五回、いや六回捩ったら我の痛みが判るかも知れん。)
(そうか。君は意固地や強情が主たる性格だと思っていたが、我慢強い一面も有るんだな。)
ユラン・エレエが見ていない隙を覗ってユストは右の手を伸ばし、イルサーシャの束ねられた髪の先端を詰る。北部特有の窓に映る二人の姿は歪みに歪み、一つの個体として見えた。
ところで、とユストが切り出した時、イルサーシャは腕を掴む手に力を込めた。無論、剣霊の握力とは微々たるものである。
(ユラン・エレエとの第十三条で得た情報を愚生に教えて欲しいのだが。)
(何から伝えれば良いのか、我には見当が付かない。そもそも第十三条を適応させていないのだ。)
予想外の返答にユストは一時の沈黙で応える。王女殿下が使用している貴賓室まで、そう遠くない距離の中、三人の剣霊使いが奏でる靴の音がイルサーシャに纏わりつく。左の小指から流れた血で触れられる状態にした事から始まり、ユラン・エレエと契約を交わした剣霊であるクラウディアとラファエラは若い双子で共に薄紫色の髪を持ち、その長さが異なる事、そして若き双子の剣霊の食痕は左右の胸の頂きにあり、剣霊障はあらゆる男に憎悪を向ける事だとイルサーシャは説明した。
(なるほど。食痕と剣霊障は大方予測が的中したが、第十三条の代わりに左の小指か。因みに髪を結わく時、どちらの手を使っていたか覚えているかい?)
(ん?右も左も両方使っていたが?)
(主にどちらだったか、だよ。)
(そう言われれば右だった様な気がするが。)
(彼女が扉の取っ手に触れる手は常に左だ。先日の新聞社で茶の配膳の際も左手を主に使っていた。彼女は今の愚生と同じく左利きだと見込んでいたが…。)
(確か出会い頭のユストへの挨拶も左の拳であったな。そんな事を知ってどうするのだ?)
(双剣使いの利き腕は頭に入れておくべきだよ。)
(おい、ユスト。そなたユラン・エレエと剣を交えるつもりか?)
ユストの内なる声が途絶えた。是非を答えろ、と汚れなき白い指が最大限の力を込めて契約者の腕を握ろうとも契約者の表情は変わらない。双眸を細め、ただ一点を射ぬかんばかりの眼差しは戦いを前にした剣士の姿であるとイルサーシャは知っている。見上げる深い緑色の瞳が戦いを鼓舞する剣霊よりも危難を案ずる女の表情を打ち出していると気付いたユストは首を二三回、横に振った。
(先ずは囚われの剣霊たちを助けるのが先だったね。)
誰に言い聞かせる為の言葉なのかは互いに理解している。髪を詰る指が一瞬止まり、また直ぐに元の動作を繰り返し始めた。
(あと、他に知り得た事は?)
ユストを見上げていたイルサーシャの顔が前を歩くユラン・エレエへ移る。黒き布で覆われた腕を彩るカエデの透かしが施された純白の袖が歩調に従って柔らかな畝を形成していた。
(…以上だ。)
掴む腕から指を離し、髪を詰り続けている指を払う。ユラン・エレエの両腕に彫られた刺青の件は間違っても口には出せないとイルサーシャは心に決めていた。この事実を知ったユストは憎悪に身を寄せ、中央王立国家の仇たるユラン・エレエに向けて狂猛の剣を振るうに違いない。心身に澄んだものが通っていない者の剣とは敗北を喫し、ユストはユラン・エレエの手によって亡き者となる。だが、もし勝利を掴んだとしてもユストを失うのでは、とイルサーシャは己の中で胸騒ぎが徐々に広がっている事も認めていた。初めて出会った時から今までの五年が一瞬にして崩壊してしまう気がしてならない。我の知るユストが手の届かない場所へと消え去ってしまうのでは、と不安が彼女を包み込もうとしていた。
「黙れ、静かにしていろ。」
イルサーシャは左右の耳からぶら下がる黒蛇のピアスを交互に弾いた。鎌首をもたげた左側と自らの尾を銜える右側の言葉は安らぎの場を提供してくれる剣霊のみ聞く事が可能である。言い換えれば、彼女だけが聞かされる。その言葉は煩わしく、下品であり、不安を助長する。黒蛇たちは今回もイルサーシャの意向に沿わない言葉を発し、その報復を受けたのであろう。弾かれようとも揺れ動こうとも彼らの睥睨は緩まない。
イルサーシャはもう一度、ユストの腕に触れようとした。頼りにする温かな腕に幾許かの安堵を覚えたい。しかし、契約者に嘘を吐いた自らへの嫌悪感からなのか、それは出来なかった。
窓に映る姿が再び視界に飛び込む。剣霊と契約者の姿は折り重なっていなかった。




