滓を吐く
陰湿な空気の中で剣霊の白い指が時機を狙っていた。これから何かを始めようとしているのは誰の目から見ても明らかである。温かさは既に過去に捨て去り、ただ冷たく、孤高の魅力を纏う白い指が薄闇の中でひっそりと息を潜めている。生ある全てを斬り裂く指が望むのは凄惨たる血飛沫と惨たらしく肉が避ける音を奏でさせてくれる対象ではない。過程ではその様な状況に遭遇するかもしれない。しかし、その先に待ち構えている自由、具体的にはエジュ・エジェ城塞の地下牢からの解放、契約者と共に過ごす日々を掴み取ろうとしている。
ラファエラは自らの大腿部に置かれた白い手からその先にある存在へと空色の瞳を動かした。
薄闇の中であろうとも黄金色の豊かな剣霊は艶かしさを余す所なく表現していた。滴る酸の雫が奏でる音色はその引き立て役にしか過ぎない。髪の妖しき輝き、瑞々しい唇から漏れる甘い声。そして八百年を知る者が携える瞳の奥底。薄闇の中であるが故にそう思うのだろうか。人間としての経験が浅い者と豊かな者との違いはあるが、同じ剣霊でもこうも違うものなのかと、ラファエラは彼女を一目見た時から感じていた。
「すまん、我とした事が…。」
ラファエラの露となった恥じらいの表情を知った黄金色の豊かな髪を持つ剣霊ブリスタンはその整った横顔を僅かに傾けた。
「たまには過去を思い返すのも悪くないものよ。」
「あぁ。我もそう思う。少し気が晴れた。」
「だけど、このままだと次に思い返す機会には永遠に巡り合えないでしょうね。」
だから契約者が助けに来るまで耐えに耐えて待っている、と言いたげなラファエラに触れるブリスタンの手が離れた。纏う黒い薄絹に走る皺が形を変え、艶やかな脚の一部が隠れる。彼女は立ち上がった。
「小母さん、この場でじっとしているのに飽きちゃったの。座して待つにはちょっと長過ぎたわ。」
先程離れた手は既に組んだ腕の中へ隠れている。頭をもたげたクラウディアとは対照的にブリスタンの悠々とした姿はラファエラの顔を上へと向けさせた。ブリスタンは双子の剣霊の契約者であるユラン・エレエとほぼ同じ背丈と思われる。両肩を曝け出した黒い薄絹は彼女を構成する曲線を見る者に如実に教えてくれる。同様に自らは剣霊だと周囲に知らしめているとも捉えられる。どちらにせよ、今のラファエラは彼女は頼りとなる存在だと認識し始めていた。
「そろそろ有るべきところに帰るとしましょうか、双子の剣霊さんたち?」
八百年の時の流れを経験した剣霊の艶やかな目尻が柔らかな趣を作りだす。酸の雫がブリスタンとラファエラの間に落ち、儚い旋律を奏でた。
「我はともかく、見ての通りクラウディアは霊体を維持するのも難しい状況だ。」
「その様ねぇ…。」
「しかもこの蒼い格子は酸の雫はおろか、我たち剣霊の斬撃でもびくともしない。これをどうにかしない限り我たちは行動に移せないと思うのだが…。」
「あらあら、困ったわねぇ…。」
眉間に数本の皺を寄せた表情はともかく、ブリスタンが放つ言葉の端々に困っている様子が全く感じられない。裏を返せば彼女の中で万全たる解決策が構築されたのだろうか。
「実はその霊体の維持っていうのが本当の足かせだったのよ。」
組んだ腕から母親の手と間違えた白い指が顔を覗かせ、一点を差していた。鈍い輝きに味気なさを覚える足輪である。彼女の言う通り、確かにこれが身動きを抑制し、脱出を図ろうとする気概を挫かせているのは判る。しかし、この重石代わりの存在は薙ごうものなら中に詰められた酸により実の姿である剣体を溶解させられるのは先の堕ちた剣霊の身を以て知り得た。剣体か、と己の中で反芻するとほぼ同時にはたと気付いたラファエラにブリスタンは麗しい唇の両端をにわかに持ち上げた。
「ラファエラ、あなたは本当に賢い妹さんなのね。さぁ、剣体に一旦戻りなさいな。我が邪魔な輪っかを取り除いてあげるわ。」
「そうしたいが、我はユラン以外に剣体を見せた事がない。」
「へぇ。それで?」
「だから…剣体を見られるのは凄く恥ずかしいんだ。」
腕輪と足輪の苦悩から開放される手段を語る者を見上げていた空色の瞳が床へと落ち、数秒後に横へとずれた。壁に掛けられた松明の炎がラファエラの視界に映る。こころなしか揺れ動いている様に見えた。
「同じ剣霊同士じゃないの。男に見られる訳でもないし、そこまで気にしなくても、と小母さんは思うけど?」
あぁ、と上の空でラファエラは答える。踏ん切りがつかない返事にブリスタンは足輪を差していた指を他の一点へと動かした。そこは床の上であり、堕ちた剣霊がカタリナと最期の際に名を綴った痕跡は跳ね返る酸の雫の影響により消え掛かっていた。
「そう、彼女とも剣霊同士だったわ。剣としての矜持を人間の手で捻じ曲げられた彼女の為にもここから脱出するべきよ。」
ブリスタンは行動を起こす原動力は利己心ではない。誇り高き剣霊として良きにしろ悪しきを問わず、踏み躙られた者の壮絶な最期を無駄にしないという事か。躊躇いの色を隠さずにはいられなかったラファエラはブリスタンが放つ言葉の真意を知り、横へと流れていた空色の瞳を反対側へと動かした。
思えば、剣霊となる以前から全て甘受してきた。父の死、母の死、そして貞操の喪失。ただ受け入れるしか出来なかった。抵抗という文字をいつの頃からか何処かへ置き忘れてしまったのだろうか。抵抗とは他に促されて行うものと自らの意思で試みるものの二つがある。この場合、どちらでも構わない。願うべき先は同じである。
「クラウディア…。我たちは少し間違っていたのかもしれないな。」
薄紫色の長い髪を二本の指で掬う。微塵の抵抗も無く、柔らかな曲線を描く様をブリスタンは黙って見つめている。
「ユランに、イゼリーに会いに帰ろう。我たち自らの意思でだ。」
もたげているクラウディアの頭部を滑らかであり硬い壁面へと移し、ラファエラは立ち上がった。今まさに滴ろうとしている酸の雫へ空色の瞳を向ける。意志の強さを示す目尻が細くなる。
酸の雫は呪縛の剣霊の眼差しに恐れを成したのか、滴るのを止めた。
エリク・カルスは憂鬱であった。蒼き鎧の着用を許され、間もなく一年が経過しようとしている。この誉れ高き蒼き鎧を身に纏い、忌々しき存在である剣霊をこの手で、寝る間も惜しんで鍛錬に明け暮れた剣技で討伐する事のみ考えていた。だが、それはあくまでも幻想であり、夢物語ではないかと思い始める自らに出会ってしまった。王女殿下たるイゼリアーシェ・ヴェルリンクの護衛の為、エジュ・エジェ市街地に赴いて以来、腰に履く剣を鞘から抜いていない。抜く様な場面に遭遇出来ないでいる。
城塞の地下牢には幽囚の身となった剣霊が息づいている。双子の若き剣霊と金髪の艶やかな剣霊が同じ牢に身を置いていると聞いている。
その地下牢へとエリク・カルスは足を進めていた。籠手越しの左手に堅木から削り出した器をしっかりと持つ。器の中には見る度に気分が悪くなる液体が注がれていた。まじまじと見たくないものの、歩行と共に零れないようにと薄闇の中で注意を払わなければならない。不規則な木目が走る器の中で自らの血液が歩調に合わせて静かに揺れていた。
忌々しき剣霊を倒せではなく、食事を与えろと命令が下された。身の危険を感じた際は迷う事無く斬り伏せろとも指示されている。だが、その機会には巡り合わないであろう。剣霊たちは自らの体力の温存の為か、あるは忍び寄る身の崩壊を覚悟したのか、目を閉じて静かにしているらしい。弱りきり、しかも実体である剣と同じ重量しかない剣霊が死にもの狂いの一閃を繰り出そうとも、たかが知れている。蒼き鎧の表面に傷は着かず、剣霊たちは己の過ちに身を震わせるに違いない。あとは腕力で捩じ伏せれば済む。他愛なき結果となるであろうとエリク・カルスは想像していた。
想像と言えば、彼はまだ囚われの剣霊たちの容貌を実際に見ていなかった。双子の方はともかく、金髪の艶やかな剣霊とは決して目を合わせるなと教えられた。合わせたら最後、己の魂を握り潰されるという。果たして何処からその情報を得たのか、と疑問に思うものの、同僚が彼女の能力の前で帰らぬ者となったとも知らされていた。つい先日の出来事らしい。
暇にしている剣の柄を握るべき右手を兜の庇に当て、深々と被る様に下へと押す。下手な詮索や予測よりも現実を重んじるべきであろう。万が一はあってはならない。エリク・カルスは郷に恋人を残していた。あと五日の経過を以てこのエジュ・エジェの陰湿な雰囲気が漂う城塞ともおさらば出来る予定である。もう少しこの地に留まりたいと王女殿下が御心変わりをしないことを願うばかりだが、それもなかろう。既に次の予定が組まれている筈に違いない。
エジュ・エジェの地を離れた後、エリク・カルスは十日間の休暇が約束されていた。蒼き騎兵団の次なる予定は知らされていない。必要以上の口外を避ける為に知らされていないとも思われる。その分、私事に没頭出来る。そのまま郷に帰るなり、恋人に会い、結婚の申し出をしようと心に決めている。恐らく彼女は驚きと満足が入り混じった表情を見せた後、頬を赤く染めて束ねた髪を解くであろう。
彼女の髪の広がり具合は誰も知らない。尊く美しい姿をエリク・カルスは思い描いていた。この為だけに用意された、一瞬の出来事に心を躍らせる。早く躍らせたいものだと衝動に駆られながら脚を動かす。常日頃から髪を垂らしたままの姿である剣霊よりも目と心を奪われる。たとえまだ見ぬ金髪の艶やかな剣霊が類稀な美貌の持ち主であろうとも、恋人の一時の仕草の前では色褪せると思いつつ、自らが履く具足が奏でる硬質な音を耳にしていた。
所々に設置された松明の炎が終着点を教えてくれる。身に纏う鎧と同素材で作り上げた格子が薄闇の中で冷たく煌いている。男の指二本が入るか入らないかの僅かな隙間を等間隔で構成している格子の奥に佇む存在へとエリク・カルスは視線を走らせた。
成人を迎えるには幾分早いと思われる双子の剣霊は共に壁の隅で項垂れている。髪が長い方と短い方、それぞれの表情は判らない。疲労と憔悴の極みに達しようとしているのだろうか。人間であればどんなに静かにしていようとも呼吸の音を漏らすが、剣霊にそれは当て嵌まらない。死を迎合した、と表現するよりも単に置物の様に静かにしている。
残る金髪の艶やかな剣霊は双子の剣霊が項垂れている場所から線で結んで中央の位置に座り込んでいた。同じく顔を下に向けている為に表情は腰より下まで伸びた長い髪の下に隠れている。切り込みの深いスリットから惜しみもなく露になっている太腿の一部に一瞥を与えたエリク・カルスは咳払いをした後に踵を打ち鳴らした。
「食事だ。」
返事はない。むしろ反応すらない。
「おい、忌々しき剣霊ども、食事だ。」
焚かれた松明の炎が弾けて応えただけである。既に霊体を保持するのもままならない一歩手前の状況まで陥ったのだろうか、とエリク・カルスは首を捻る。それにしても左手に持つ器が煩わしい。格子の中央部に三箇所設置された閂を上から順に外し、扉に僅かな隙間を作る。そこから籠手越しの左手と器を潜らせ、薄気味悪い模様を描く床へ置く。ゆっくりと、中身が波立たない様に静かに置いたつもりではあったが、具足とは異なる音を床に響かせた。
「あの、もし…。」
弱々しいが、甘さを感じずにはいられない女の声が薄闇の中で木霊する。多少の喧騒の中でも通る声と言えようか。裏を返せばこの静寂を纏った薄闇の中で無視は許されない。声の歳から判断するに金髪の艶やかな剣霊が発したのであろうと思いつつエリク・カルスは喉仏を上下させた。
「どうした?」
「一つお願いが…。」
「なんだ、言ってみろ?」
相手は剣霊である。触れる生ある全てを斬り、血を啜る忌々しき存在が何を望むのか。平静と威厳を有した語気に反して心臓が高鳴るのが手に取るように判る。剣霊と相対した時とはこうなるものなのかとエリク・カルスは眉間に力を入れる。再び喉仏が上下する音を確認していたかの様に金髪の艶やかな剣霊は一時の間を置いてから口を開いた。
「背中を擦って下さいな。」
「擦る、だと?」
「我たち剣霊は十年に一度、摂取した血の中に混ざる滓を外に出さなければならないの。」
「それは初耳だ。」
「そうでしょうね。」
「擦ってどうなる?」
「口から血の滓を吐くのよ。あなたたち人間にしてみれば吐血するって具合かしら?見る方も見られる方も共に気持ちの良いものではないわ。」
普段は豊かな黄金色の髪の下に隠れているのであろう背中が微かに震えている。滑らかさを思わせる黒い薄絹に覆われ、絶妙な反り具合を描く背中のすぐ近くに酸の雫が滴った。剣は水気や酸を嫌うと聞いているが、もはやそこまで気をやる余力が残っていないと思われる。だが、油断は禁物である。エリク・カルスは剣の柄を掴むべき右手と剣の鞘を握るべき左手に均等に意識を配分しつつ一歩前へと脚を動かした。
「自分の手ではお前に触れられぬ。」
「あなたが身に着けている鎧の硬度は知っているわ。その籠手越しなら何の問題もなくてよ。」
「自分ではなく横にいる同類に頼まないのは何故だ?」
「あの子たちはもう駄目。動くのもやっとなの。見れば判るでしょう?」
エリク・カルスは鞘を掴む左手をそのままにし、目のみ動かして双子の剣霊を交互に視界に入れる。金髪の艶やかな剣霊の言葉に偽りはなかろう。長い方、短い方、薄紫色の髪をした剣霊は共に先程から動いた様子が見られない。
「ところであなた、恋人はいらして?」
深々と被った兜の庇の下で男らしい眉が上下に弾む様子は金髪の艶やかな剣霊は望んだのだろうか。
「それがどうした?」
「あなたの恋人が月に一度だけ嫌な思いをする時、腰を擦ってあげた事はなくて?あれは我が人間であった時、とても煩わしかったわ。でも、好きな人に擦って貰うと凄く落ち着いたのも良い思い出よ。ただ、もしあなたがその様な経験がないのであれば、残念だけど男としてまだまだだと我は思うの。」
「あ、あるに決まっている。お前たち剣霊に男について語られる筋合いはない。」
「だったら尚更、我の背中を擦る義務が生じたわ。」
「何故だ?」
「擦る時の力の入れ具合で男の優しさが量れるものよ?」
豊かな黄金色の髪が松明の炎に呼応して煌いている。その奥に隠れている唇は微笑を形成しているのか、苦痛に苛まれているのか判断しかねる。ただ鮮明に判るのは会話に於ける主導権は人間ではなく剣霊が、いや、男ではなく女が握っている事だろうか。このまま会話に付き合っていては無為な時を過ごす羽目に陥ると感じたエリク・カルスは金髪の艶やかな剣霊に近付くなり、膝を折った。
「判った。お前の望みを聞いてやろう。交換条件では無いが、剣霊が十年に一度血の滓を吐くという件は誰も知らん情報だ。上に報告させて貰うぞ。」
「えぇ、お構いなく。」
甘い声と共に剣霊は頷く。揺れる長い髪は床に着いた両手首の上を隙間なく覆い、様々な模様を描いていた。
「で、背中の何処を擦れば良い?」
「左右の肩甲骨と背骨のちょうど中間辺りよ。」
「そうか。」
望みを叶えると言ったものの、籠手越しの手が本当に剣霊に触れられるものか不安が残る。膝を折ったままにじり寄ったエリク・カルスは着けている蒼き鎧の胸元から一枚の布を取り出した。
「これを敷くが良い。滓とやらが跳ね返って服が汚れるのを防いでくれる。」
「我が思った通りに優しいのね、あなた。」
「いや、単に服が汚れるのを見たくないだけだ。」
金髪の艶やかな剣霊の両腕を見る。微細であろうとも腱が上下しようものなら剣を抜くだけである。エリク・カルスは深く息を吐き、鞘を掴む左手に無駄に入る力を幾分緩めた。
近付けば相手は剣霊だと改めて実感する。肌から女の匂いというものが感じられない。人間であれば晒された肌は仄かな温かみを発し、長い髪を芳しくするものである。あるいは酸の雫による臭気で掻き消されているだけなのか。傷は言うまでもなく、黒子やしみとは無縁の透き通る様に白い背中へと右手を伸ばす。金属同士が触れた。乾いた音色に向けて感慨に耽る間もなく、籠手越しの手に冷たい感触が伝わる。これが剣霊の肌か、とエリク・カルスは目を細めた。やや遅れて左右の耳の上にも冷たいものが走り、頭部に違和感を覚えた。
「ブリスタン、今だ。」
若さは否めないものの、意志の強さを感じさせる女の声が薄闇の中に響く。声を上げた方向、エリク・カルスから見て真後ろへ向けてと彼は左側から首を捻る。そこには薄紫色の髪を肩の辺りまで垂らした剣霊が蒼き鎧の兜を両手で押さえ込む様に持っていた。
「謀ったな、剣霊ども!」
背中を擦る手が本来の有るべき場所、本来の役目を果たす場所へと移る。滑り止めの為にざらついている柄の感触を確かめた時、手の甲に一本の指が添えられていた。細く、長く、形の整った指は女の指と表現するよりも剣霊のそれという言葉がしっくりと当て嵌まる。エリク・カルスは恐る恐る指の持ち主へと顔を動かした。向こうも不敵な微笑を伴いながらこちらへと視線を合わせている。豊かな髪と同じく、奥深い黄金色の瞳は妖しき輝きを纏っていた。
「騙すつもりはなかった、というのは嘘だけど、まずは我の言う事を聞いて貰おうかしら?」
魅惑に溢れた厚みを有する唇から漏れる甘い声色はエリク・カルスの鼓動を暴れさせた。剣霊が望むのはただ一つ、目下の生命を斬り刻む事と教えられている。籠手越しの右手を侵食しているかの様に一本の指から冷たい感覚が広がりつつあった。仮に右手を動かそうものなら一本の指は上へと跳ね上がるのが容易に想像出来る。顎を砕き、鼻筋を裂き、脳を割られてしまう。先程まで髪の下に隠れていて判らなかったが、動きを封じる為の腕輪が嵌められていない。どの様にして外したのか、と疑問が生じるよりもこの場で息絶えてしまう無念がエリク・カルスを支配し、四股の動きを抑制してしまった。
「あなたには暫くここに留まっていて欲しいの。そうね、あまり長いと怪しまれるから四半時が限度ね。あと、我たちの事は誰にも喋らない。約束出来るかしら?」
剣霊は個々に独自の能力を有している。ブリスタンの場合、彼女の黄金の瞳に映りこんだ存在を操れる。己の意思とは関係無しにエリク・カルスは頷いた。左右の腕に込められた力が霧散するかの様に消え失せる。それを確認した剣霊の指は籠手越しの手から離れると、小さな斬撃を放った。エリク・カルスの髪を掠め、彼の頭上に滴ろうとしていた酸の雫を穿つ為に他ならなかった。
「あなたの優しさに対する、ちょっとしたお礼よ。」
ブリスタンの細めた目尻は剣霊よりも女としての趣を滲ませていた。
「ラファエラ、彼に兜を返しなさいな。」
いかにも手に余る重さだと言わんばかりに腕に力を込めていたラファエラはブリスタンの言葉に従った。投げ込まれたかの様にエリク・カルスの頭部に納まった兜に一瞥を与えたブリスタンは立ち上がった。足を動かし、深いスリットが施されたスカートが柔らかな皺を作り出す。
「け、剣霊、何処へ行く?」
四股の動きは封じ込まれようとも口は動く。現状を把握しようと忽忽と動く目が鏡に写さずとも血走っているのが判る。その瞳に映るのは自らの勝利を確信していた黄金色の長い髪を持つ艶やかな剣霊に他ならない。生気を感じられない色ではあるが麗しさを感じる唇が動き、そこから発する甘い声がエリク・カルスの聴覚を撫でた。
「散歩に決まっているじゃない?これ、貰っておくわ。」
ブリスタンの言うこれとは蒼き鎧の胸元から取り出した一枚の布である。晒された両腕を肩幅ほどに広げ、白い肌を隠さんと布を掛ける。先程から項垂れたままのクラウディアの許へと近付き、背中と膝の下へと両腕を潜らせた。
「少しばかり腰を浮かせられるかしら?」
クラウディアが僅かに首を縦に振り、布一枚を介して金属同士が触れる響きが松明の弾ける音の中に混じる。動けぬ者を抱えて剣霊たちは逃亡を図ろうとしていた。
行かせるものか、とエリク・カルスは自由を奪われた右腕に渾身の力を込めて腰からぶら下がる剣の柄へと運んだ。歯を喰いしばり、歯と歯の微細な隙間から呻き声が漏らしながら腕を運ぶ。まるで他人の手の様な感覚を否めない五指が勢い良く開き、同じ勢いに任せて剣の柄を握り締める。あとはそのまま鞘の中の刃を走らせば良い。鞘を掴んでいない為、思い描く様な剣蹟を刻むには程遠いとは判っている。だが、国家の敵であり、人間を糧とする忌まわしき剣霊の前で剣を抜かずに、いや、抜けずに逃亡されては蒼き騎士の名誉に泥を塗る事となる。しかし、腕を動かせるのはここまでであった。
「見送りの言葉は不要よ。ごきげんよう。」
涼しげな台詞と微笑を残し、開錠された鉄格子の扉を三体の剣霊が足音を立てずに悠然と潜り抜けていく。
剣霊を倒す為にこれまで剣技に費やした日々とは何だったのか。戦わずして敗れた。黄金の瞳と視線が交わった時、体の自由を奪われ、その際に剣霊から滲み出る殺気によって恐怖に心身が包まれた。恐怖がもたらすのは血を滾らせるか、戦慄するかの二つに分かれる。今回は明らかに後者の側にあり、既に勝敗は喫していたのである。
蒼き騎士エリク・カルスは再び呻いた。
地下牢からの脱出は成功した。残るはこのエジュ・エジェ城塞から外の世界へ身を晒すだけである。等間隔で掲げられた松明を頼りにブリスタンとラファエラは脚を動かす。衣擦れの音は滴る酸の雫が床の上で跳ねる音に掻き消される。無論、彼女たちの策敵能力は人間の比たるものではないが、少なくともこのエジュ・エジェ城塞の地下部では身を潜める箇所は皆無に等しい。追っ手たる蒼き騎士が前後左右のどの方向から迫ろうとも、進路を変える訳にはいかない。ひたすら前進するのみである。
所々に分岐点が存在する中、先を歩くブリスタンは特に迷う様子を見せる事無く、爪先の向きを定める。
「目に見えない糸を手繰り寄せているのよ。」
不思議がる表情と感心の眼差しを送るラファエラにブリスタンは言葉を続けた。
「我と我の契約者との絆って言えば判り易いかしら?」
帰巣本能に似たその様な能力がこの麗しき剣霊には存在するのか、とラファエラは無言のままブリスタンを見つめ直す。疑いを知らない空色の瞳に射抜かれたブリスタンは降参したと言わんばかりの短い笑みを零した。
「と、言いたいところだけど、その様なものは無いわ。風が吹き込んでいる方向に足を進めているだけよ。」
所々に設置された松明の炎を観察すればブリスタンの言も理解出来る。剣霊たちの髪をなびかせる程の勢いは無いものの、粛々と燃え続ける松明の炎に時おり表情を与える事は可能な空気の混入が感じられた。しかもエジュ・エジェ城塞は起伏に富んだ岩山を利用して建造されている。つまり冬でも内部は暖かい。剣霊に暑い寒いの概念は無縁だが、温度の違いを測る能力は人間よりも敏感である。表現を変えるならば、冴え渡る刃は僅かな違いをその身で知るとも言えよう。
それにつけてもブリスタンは余裕な素振りを見せている。一歩足を運ぶ毎に城塞内部に潜む騎士たちに近付いている。剣霊を疑う事無く敵と見なす存在は渾身の一撃を放ち、こちらも迷わずに一閃を繰り出す。共に残る霊力は僅かという現実が剣霊たちに重く圧し掛かる。勝つか負けるかの戦いの前に心身を落ち着かせる為の延長線の上だろうか。あるいは単なる気まぐれに心身を任せているだけなのか。
二つ目の曲がり角を過ぎた後、ラファエラは足を動かすのを止めた。理由はただ一つ、騎士たちの気配を察知したからに他ならない。数にして七体。敵と思しき者たちはこちらに近付いている。腕力にものを言わせる種の者が三体、剣技に秀でていると思われる者が四体。どの様に戦うにしても剣霊たちには分が悪い。
ブリスタンも既に敵の気配に気付いたのか、大儀そうに膝を折る。両腕で抱きかかえていたクラウディアを硬い床へと降ろす。これから無情の斬撃を繰り出すであろう彼女の刀身を象徴する豊かな黄金色の長い髪は依然としてしなやかな孤を描いていた。
「さて、あなた達はここで待っていなさいな。小母さんがけりを着けてくるわ。」
「単独で七体を同時に相手するのは…無謀だ。」
「相手が綺麗に縦一列に並んで一体づつ挑んでくる訳無いでしょうし。」
「確かにそうだが…。」
「その様子だと、賢い妹さんには何か策が浮かびつつあるのかしら?」
見る者を虜にする流麗な目尻が細まり、黄金の瞳がラファエラを一瞥した。
「策が無い、とはまだ言い切れない。」
ラファエラは人間であれば鼻から溜息を漏らしている様な表情を見せた。
剣霊には斬撃を放つ以外に特殊な能力が存在する。その能力は個々の違いがある。具体的に言うなれば、ブリスタンには彼女と視線が合った者の内面を操る能力、ラファエラであれば、対象と捉えた者の動作を正確に先読みする能力である。つまり、クラウディアにも独自の能力が存在する。今回、剣霊三体の特殊能力を駆使すればやり過ごせるのではないか、とラファエラは静かに語った。
「でも、残念な事にあなたのお姉さん、動けないわ。」
「その点なら案ずる必要は無い。クラウディアは彼女を見た者に戦意の消失を働き掛ける。」
なるほど、と言わんばかりにブリスタンは首を傾げながら右の親指の腹を麗しい唇の脇に添えた。先の堕ちた剣霊との死闘を終え、蒼き騎士の団長たるテウヌス・イーハンと刃を交えるか交えないかの一触即発の際を思い返す。クラウディアを見、そして言葉を交わしたテウヌス・イーハンは燃ゆる剣の柄を握る腕の力を抜いた。
「つまり、お姉さんを見た敵は躊躇いを生じ、その隙に賢い妹さんが相手の行動を読み、我はあなたの指示に従って斬撃を放つって算段かしら?」
「そうだ。しかもこの通路の幅からして四方へ充分に展開は不可能だ。一体づつ挑んでくると言う理想は叶わないものの、多勢の敵は満足に剣を振れないと我は見ている。」
「判ったわ。」
「加えて敵に混乱を誘発させる目的で、対峙した際にあれを剣圧で吹き消す。それまで我たちは目を閉じて闇に慣らしておくんだ。」
クラウディアは自らが語ったあれなる存在を指差した。掲げられた松明である。
時おり揺らめく炎が時の経過を教えてくれる。七体の敵の歩行速度に変化は感じられない。まだ三振りの剣霊たちの存在に気付いていないと判断して間違いは無かろう。こちらに近付けば近付く程、正確な情報が得られる。腕力にものを言わせる種の者たち三体の気配が大きくなる中、剣技に重きを置く者たち四体の気配は小さいままであった。余程の手練れなのか、死線を潜り抜けてきた者が自然と備える度胸と平静さを保ち続けている。
酸の雫が何気なく滴ると同時にブリスタンの細く整った眉が動く。気配が小さいままの四体の内、一体は剣霊であった。再び堕ちた剣霊と刃を交わす事となるのか。しかし、先のカタリナと名を綴った剣霊と違って、何者かに制御されている様子は感じられない。自らの意思で動いている。戦いに於いて確証無き予測は敗北を喫する。如何に現状を正視し、的確な判断を下するしかない。げんに剣霊であろう一体はこちらの存在に気付いた。気付いても知らぬ素振りをしているのは策を練った結果であろうか。
「ならばこちらも策を弄するべきね。正直なところ、この手は使いたくなかったけど…。」
通路の中央に立つブリスタンは左手を自らの背中へと廻した。人差し指を伸ばし、纏う黒の薄絹の編み上げ部分を上から下へゆっくりと切断する。何の抵抗すらなく紐たちが斬られ、麗しき体を包む布は意識を失ったかの様に床へと滑り落ちた。
炎の揺らめきが裸体となったブリスタンが描く曲線の全てを如実に教えてくれる。茫然とするラファエラに向けてブリスタンは不敵な笑みを零した。
「今のあなた、隙だらけよ?」
「まさかこの場で裸体になるとは…我が剣霊とはいえ、思わず見惚れてしまった。」
「混乱の前に驚愕と動揺が加わればもっと効果があるの。我がこの身で教えてあげるわ。」
敵との距離が徐々に縮まりつつある。放てる斬撃は数回。全てを捧げた契約者よりも先に朽ちるのは剣としての沽券に関わる。また、王女殿下なる人物に問うべき事もある。クラウディアへ教えた例の歌を何処で知り得たのかである。今、ここで倒れる訳にはいかない。
ブリスタンはラファエラの指示に従い、黄金の瞳に闇を与えた。




