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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第三章 エジュ・エジェ城塞編
42/75

淡き百五十余年前

 北部王立国家の夏は短い。短い故にこの国に住まう者たちは一時の季節を大事にし、好み、堪能に余念がない。

 では他の季節はどうだろうか。秋は暖かな色へと様変わりした葉がはらはらと地に落ちる。その有り様を目の当たりにしては物悲しげな雰囲気に心身を寄せる。冬は降る雪との共存を強いられ、凍てつく大気の中で柔らかな陽光の恵みを欲する。寒さに耐え忍んだ冬が去り、待ち望んだ春が訪れる。しかし雪を徐々に溶かす程度の日差しに物足りなさを覚えずにはいられない。やはり緑に溢れ、色とりどりな草花の躍動を感じさせる夏が一番好きだ、とイゼリアーシェ・ヴェルリンクは過去にクラウディアとラファエラに語った。

 王城の一角にある自室からバルコニーに身を置き、遠望の山々に視線を細める王女殿下はその言葉通りに夏を堪能しているのか、吹く風が顔を撫でると満足と言わんばかりの表情をしていた。両袖のない、藍玉を思わせる色合いをした風通しが良さげな服を召した王女殿下は幼き双子の剣霊たちに、あなた達もそう思わないかと振り向き様に尋ねた。

 濁りの無い灰色の瞳の持ち主が欲する回答を空色の瞳を持つ幼き双子の剣霊たちは見出せなかった。適当に彼女に賛同するかの様に頷くか、返事をすれば良かったのかも知れない。しかし、それでは彼女に申し訳ない。されど本音を口にして王者の涙層に困惑の色を差させるのも気が引ける。彼女は好きな短い夏をここぞとばかりに堪能している真っ最中なのだ。姉の方はただただ笑みを浮かべ、妹の方はその様な姉を一瞥した後に口を開いた。

 イゼリー。その服、素敵な色だ。とても似合っているよ。

 果たして上手く笑顔が出来たか、ラファエラ自身も判らなかった。別に出来なくても構わないとも思っていた。何故なら、夏といえば伏し目がちなる。心と体が寂寥感に蝕まれる。その様な中で笑顔を作っても意味はない。

 幼き双子の剣霊が両親を失った夏は気だるい暑さと咽返るほどの緑の香りで溢れていた。

 我に帰る勢いと共にラファエラは閉じていた目を開けた。剣霊は眠りはしないが、目を閉じていれば霊力の消費を幾許かではあるが、抑制している事となる。エジュ・エジェ城塞の地下牢に幽閉されている為なのか、両脚を抱えたまま体を動かしていないからなのか、やけに過去の思い出がふつふつと湧き上がる。頭上を覆う岩肌の表面から滲み出る酸の雫に呼応しているのかと思うほど、次から次へと脳裏を掠めていく。

「クラウディア、返事が出来るか?」

 妹は自らの小さな肩に頭を預けている姉の頬にゆっくりとてのひらを這わせる。瑞々しさの中に張りがあり、温かな肌触りは百五十余年前に捨て去った。今は金属同士が擦れ合うぎこちない音が微かに響くだけである。返事は無い。ただ、口が僅かにも動いたのは頬を通じて判る。空色の瞳は瞼の奥に隠れ、その瞼を彩る睫毛は微動だにしていない。

 不気味で心落ち着かない空間に身を置いてからそれなりの時間が経過している。外は晴れているのだろうか、あるいは既に雪がちらついているのだろうか。クラウディアが霊体を保持していられるのも残り僅かだと改めて実感したラファエラは頬に添えた手をそのままにして再び目を閉じる。

 もう少し過去に浸るのも悪く無いと判断した結果であった。


 幼き双子の剣霊の故郷は西の内陸側に存在した。その名をラヴィーク市街地という。百五十余年を経て今も存在するかは判らない。当時、五百人にも満たなかった市街地は既に廃墟となったか、あるいは拡大若しくは政治的な理由により名を変えたのか。少なくとも剣霊になってからその名を耳にして過去を懐かしむ機会に一度も恵まれていない。

 おてんばなクラウディア。泣き虫のラファエラ。二人はお互いをいつもそう呼び合っては口喧嘩をし、やがては疲れ果てて仲良く一つのベッドで健やかな寝息を奏でるのが日課であった。目覚めると共に一目散に父と母の許へと駆け寄る。二人とも大きくなったな、と一週間に五回は同じ台詞を笑顔と共に口にする父の腕は太くて頼り甲斐があり、成人を迎えるまで抱き上げてくれるだろうと信じて止まなかった。家事に追われる母は嫌な素振りを一度も見せずに娘たちを両腕で抱き寄せ、頭を撫でてくれる。母の艶のある長い髪は心地良い香りを発し、安らぎを覚えずにいられない。

 夕食とは楽しい一時であった。家族が一つの食卓の前に集まるからだ。使い古されて無数の傷が走る食卓に並べられた食事の前でクラウディアがその日の出来事を得意気に語り、両親の笑いを誘う。一方のラファエラは黙々と食事に手を付ける。

 彼女は争い事は苦手な性分であった。争い事の中にいると悲しくなる。だから泣く。自然と涙が溢れてくる。それを目の当たりにしたクラウディアは泣き虫だと囃し立てる。だが、泣き虫が弱い人間とは限らない。すぐに泣こうと性格は脆弱ではないものである。

 スープの具材が口の横に付いている、と母は身を乗り出して対面に座るラファエラの口許を昨日洗濯したばかりの真っ白なナプキンで拭う。煮込んだニンジンの葉の切れ端が白い世界の中で申し訳無さそうに優しい緑色のしみを広げている。有難うと小声で恥ずかしそうに謝意を述べるラファエラの横ではスープの具材をわざと口の両端に付けたクラウディアが心待ちの表情と伴って行儀良く椅子に座っていた。

「クラウディア、あなたはお姉さんなのだから自分で拭きなさい。」

「嫌だよ、ラファエラばかり甘やかしてずるいよ。」

「仕方ないな。お父さんが拭いてあげよう。そのままにしているんだぞ。」

 笑顔を絶やさない父は腕を伸ばし、親指の腹でクラウディアの口許を交互に拭う。父は指先に付着したスープの具材を娘たちの前で舐め取った後、こう言った。

「母さんの料理はいつ食べても美味い。何処のレストランで食べるよりも美味い。二人とも大人になる前に母さんに料理をきちんと教えて貰うんだよ。」

 二人の娘は疑問を感じるまでもなく素直に頷いた。裕福とは決して言い切れないが、幸せな家庭だとクラウディアとラファエラは実感していた。

 あの頃の大陸は統一国家であるトウラドオク王朝が倒れ、今の四ヶ国の母体となる国家が樹立して数十年の時が流れていた。現在と比べて勢力図は多少異なるが、それまで国境付近で頻繁に行われていた小競り合いも政治的な取引の影響だろうか、収束へと向かいつつあるという。

 それまで王朝は臣民に疲弊を押し付けていた。疲弊に辟易と憤りを覚えた者が立ち上がり、遂に王朝は潰えた。政治と軍事、そして経済を司る者が八世まで続いたトウラドオクの王一人から各国家の代表となり、複数となった。つまり考え方も複数となり、その複数が同調し、手を携えれば揺るぎ無いものとなる。まず最初に為すべきは国民の鋭気と幸福を回復させる。四ヶ国の代表はトウラドオク王朝打倒の初志を忘れていなかったらしい。

 クラウディアとラファエラが十二歳を迎えた年に今後十五年の間、侵略を旨とする軍事を控える休戦協定が四ヶ国同時に発布される。開催地の名をとってゲルハルステンに於ける十五年間の休戦協定と当時の者は口にしたが、後世では単にゲルハルステン協定もしくは十五年協定とも言われている。呼び名は異なるが、当時の為政者の最もたる偉業と誰もが讃え、払う敬意は同じであった。

 昼下がりのラヴィーク市街地の中央広場に人だかりが出来ていた。例の休戦協定の詳細に目を通そうと大人たちは公共掲示板の前に立っている。ある者は顎に指を添えて不安と怪訝の表情を作り、別の者は安堵と期待が入り混じった面持ちを晒している。

「ねぇ、ラファエラ。十五年の間、どの国も戦争しないんだって。」

 快活でおてんばな姉は大人たちの会話をかいつまんで知った内容を控え目で泣き虫の妹に囁いた。

「喧嘩は駄目だ。あたしたちだって喧嘩したらお父さんとお母さんに駄目だっていつも怒られているよ。」

「そうだけど、戦争って喧嘩なのかな?」

「言葉が違うだけで同じだよ。痛くて嫌な思いをするのは一緒だもの。」

「じゃあ、駄目って怒ってくれる大人がいないから国は戦争するんだね。」

 明確な答えなど誰も知らない。知らないから争う。人間の行動が歴史を刻むのであれば、歴史にも暫しの休息が必要なのであろうとラファエラは思った。

「十五年経ったらあたしたち二十七歳かぁ。」

 人だかりを縫って歩き、最前列で公共掲示板を見上げる。無論、十二歳を迎えた二人にとって並べられている文字は辛うじて読めるものの、使われている言い回しの意味するところまではまだ理解できない。ラファエラの袖を引張りながらクラウディアは言葉を続けた。

「十五年後は今より背が高くなって、髪も綺麗に伸ばして、素敵な大人になるんだ。」

 空いている手で肩より少し下、肩甲骨の中頃まで伸びた栗色の髪の先端を摘み上げつつクラウディアは語る。その眼差しは希望に溢れていた。

「素敵なって言うけど、そうなれるか判らないよ?」

「なれるよ。その為に十五年間、戦争をしないんだ。みんなが毎日楽しい時間を過ごすんだ。」

「でも…十五年経ったら、もう楽しい時間は終わっちゃうの?」

「どうだろう?もし、楽しい時間が終わっても、あたしたち二人はいつまでも一緒。だから心配しないで。」

 ラファエラは返事をせずに袖を引張るクラウディアの手に自らのそれを重ねた。小さく、柔らかく、そして温かい。クラウディアの言うところの大人になった時、お互いの手は母と同じく細長い中にも気品を有し、家事に従事して硬く変化し、家庭を守り抜かんと更なる温かさを具えているだろう。

「ラファエラ、早くおうちに帰ろう。お母さんが洗濯用の石鹸はまだかと待っているから。」

 クラウディアは普段とかわらずの笑顔を湛え、ラファエラははにかんだ微笑を浮かばせながらお互いに手を握り締める。二人は公共掲示板の前から自宅へと踵を返した。


 歴史は人間の手により休息を与えられた筈であった。しかし、生ある者の鼓動と同じく、常に絶えずに動いていなければならず、また動こうとするのが歴史でもある。人間に与えられずとも他が動かそうと試みる。むしろ歴史自らが動かせと他に囁いたのであろうか。自然災害という猛威と疫病という目に見えぬ脅威、そして人智を超えた存在という剣霊の心無き一閃が勢いを失い掛けている歯車にぎこちない異音を生じさせた。その異音の一つとして、クラウディアとラファエラの二人が抱く夢と希望は踏みにじられ、剣霊へと身と心を捧げるのも歴史は見据えていたのかもしれない。

 ゲルハルステンに於ける十五年間の休戦協定が結ばれた年は天候が荒れに荒れ、農作物の収穫は芳しいとは決して言い切れるものではなかった。食糧難は物価の高騰を余儀なくし、それまで前衛の兵として駆り出されていた男たちは武器と鎧を捨て、生計を立てる為に仕事を求める。やがて、どの国家に於いても、どの市街地に於いても、職を求めて彷徨う者たちに溢れ返り始めた。労働力の飽和は安い賃金を招く。多少鈍感な者であろうともそれを痛感するのに尤もな光景であった。

 クラウディアとラファエラの父は革職人であった。国営の工場に若かりし時から真面目に勤め、仕入れを任されるまでになったという。戦乱の時代は馬具や簡易な防具の生産に汗水を流していたが、これからはそうも出来なくなる。革を用いた製品、例えるなら鞄や靴を作るにしても知識が必要であり、物価が高騰する中、誰が購入してくれるのかも判らない。だからと言って手を休めるわけにもいかない。需要のある製品が必ず有り、今はそれにまだ気付かず、出会っていないだけだと内心で奥歯を噛み締める父の横顔を知った娘たちはその日からつまらない事で喧嘩をしなくなった。

 ある晴れた日の朝、父は原料となる革を買いに三週間ほど家を空けると二人の娘たちに伝えた。夏の涼風を体感出来る時季に移行しつつある中、肌触りが良さそうな薄手のコートを羽織った旅装の父は腰に護身用の短剣をぶら下げている。普段通りに仕事に赴く際とは異なる出で立ちに二人の娘たちは互いに父親の手を取った。

「お父さん、何処へ行くの?」

「中央の王国の首都、ゲルハルステンまでだよ、クラウディア。」

「何でわざわざ中央まで行くの?」

「ラファエラは知らないかもしれないが、ゲルハルステンには各国から輸入した珍しい品々がある。今回、その中から西では手に入らない革を買いに行くんだよ。」

 交互に娘の顔を見つめながら語る父は笑顔を絶やしていなかった。

「二人とも、お父さんは仕事に行くんだ。判ってくれるね?」

 しぶしぶではあるが、頷く二人の娘たちの姿を知った父は満足げな溜息を鼻から漏らした。

「お土産は何が欲しい?」

 取られた手が離れ、それぞれの頭の上へと移った。額から後頭部へと手櫛を入れる父親の手は頼り甲斐のある大人の男のそれであり、もう少しこのままで居たいと二人の娘は思っていた。

「いらない。無事に帰ってきてね?」

 時の風潮によるものか、それまではあれが欲しいこれが欲しいと述べていたクラウディアが今回は控え目であり大人びた要望を口にした。

「無事に帰ってきて、ゲルハルステンのお話を聞かせて欲しいな。」

「大丈夫、もう戦争をしていないんだ。大丈夫だよ、二人とも。」

 わざとなのか、偶然なのか、父は大丈夫と同じ言葉を立て続けに語った。そろそろ時間だと壁掛け時計に視線をやる母を父は抱き寄せて左右の頬に口付けを終える。一家の主であり、娘たちの敬愛の対象である父は家の扉の前から中央王政国家の首都へと歩み始めた。風雨に晒されて乾いた色合いをした板貼りのポーチを過ぎ、浮いた錆が良き風合い醸し出している庭の柵を右に折れた際に父は手を振った。母と二人の娘たちも姿が見えなくなるまでそれに応えていた。

 旅装姿の父は律儀に三週間後に帰ってきた。ただ、屍として帰ってきた。顔は純白の布で覆われ、腰に下げていた護身用の短剣は鞘しか残っていない。棺を家まで運んできた二人の自警団員のうち、年老いた方が父の死因について説明をし始めた。中央王政国家へ向かう街道の途中で父は邪剣霊に襲われたと彼は言う。体内を巡る血を全て取られ、狂猛な刃と化した邪剣霊の剣体を手にした父親は第二第三の被害者を生む事無くある者に安らぎを与えられた。ある者とは名は判らない。ただ、美しい長い髪と整った顔立ちの女を従えた一人の男であり、世間は彼を剣霊使いと呼んでいる。本来ならば斬り捨てたまま放置するところ、その剣霊使いは気まぐれを起こしたのか、わざわざ自警団の詰め所まで遺体を運んできたらしい。

 果たしてその男が本物の剣霊使いなのか、話す内容に偽りがないのか、自警団員たちはそれぞれが腕を組みながら疑いの視線を向けた。だが、それは無意味な行為であった。剣霊使いという男の前に立つ女の容姿が全て真実だと物語っている。奥深き輝きを有する瞳は説得力を有し、これまで話した内容に納得が出来ないのであればこの指に触れて真偽を図ってみるか、と女は二つに折れた剣を握り締めていない側の白い華奢な指を差し出して静かに囁いた。この女が剣霊そのものだと脳と肌で理解した自警団員たちは組んでいた腕をそのままに起伏の富んだ喉仏を上下に動かすしか出来なかったという。

「事の真意は理解しました。亡き夫をわざわざ我が家まで運んでいただき、有難うございました。」

 母は嗚咽を押し殺した震える声と共に深々と頭を下げた。声と同じく、両肩が震えている。誰にも拭いきれない悲しみといたたまれなさに心身を浸してしまったクラウディアとラファエラも母に倣って深々と頭を下げた。熱いものが頬を伝わらずに床に落ちる。父が帰る日の前日まで三人で懸命に磨き上げた床に感情を具現化した一滴が落ちる。弾けずに、染み込まずにただ不定期な形で広がっている。自然と零れる熱いものが二つに増え、三つとなった時、クラウディアはお父さんの嘘つきと嘯いた後に両手で顔を覆いながら泣き崩れた。

 クラウディア、よそ様の前ですよと嗜める母もついに溢れんばかりの感情に心身を任せた。うずくまるクラウディアに覆い被さる様にしてか細い肩に両腕を廻して抱き締めている。二つの嗚咽が折り重なる中、ラファエラは両脚に力を込めて耐えていた。無論、頬の上に熱いものは止め処なく流れている。父の棺に近付き、温かで頼もしく、安堵を与えてくれた手の表面に二本の指を這わせる。それは既に父の手としての機能を喪失していた。冷たく、ただ硬く、もう頭を撫でてくれる事もない。潤んだ瞳を二人の自警団員へと向ける。彼らはこれまでに幾度となく同じ場面に遭遇してきたのだろうか、硬い表情を貫いていた。

「お嬢さん、あなたは泣かないのかい?」

 年老いた方の自警団員が重苦しい空気の中で口を開き、ラファエラは首を横に振った。

「泣いています。でもここであたしまでうずくまったらお父さんは…いえ、父はもっと悲しみます。だからちゃんと立っているんです。」

 皺一つないスカートの下で震える両足の先端に視線を落とした年老いた方の自警団員は鼻から深く重い溜息を漏らした。その溜息は世の中の不条理を嘆くものであり、年端のいかぬ女の気概がこれからの苦難にどれだけ通じるものなのかと憂慮の色に染まっていたのをラファエラはまだ気付いていなかった。

 

「お母さん、今日も駄目だったよ。ごめんね。」

 無理矢理という表現がこの時の為にあると誰もが思うであろう笑みを浮かべながらクラウディアは床に伏した母の耳元で囁いた。父を失った数ヵ月後に大陸は流行りやまいの猛威に晒された。吐血と共に食欲の減退を余儀なくされ、やがては死に至らしめられる。クラウディアの言う駄目だったとは特効薬の入手に他ならない。

「お母さんなら大丈夫。それよりもあなたたち、帰りが遅かったじゃないの。何処まで行っていたの?」

 実は、と言葉を詰まらせるクラウディアを横目にラファエラが一歩前へと歩む。彼女は床の上で大儀そうに上半身を起こす母の両肩に手を置いた。

「お花屋さんの店先で黄と赤と白が混ざったゼラニウムを見つけたんだ。お母さんに少しでも元気になって貰おうと買うつもりでいたけど、東の国からのわざわざ取り寄せたんだって。」

「まぁ、わたしの為にお花を選んでいて遅くなったの?」

「うん。高くて買えなかったけど、見るだけならお金は要らない。病気が治ったら一緒にお花屋さんに行こうね?とても綺麗でお母さんも気に入ると思うよ。」

「そう。有難う…。」

 力ない瞳に闇を与えた母はラファエラに促されるまま床に身を預ける。何か言いたげなクラウディアに一瞥を投げたラファエラはゆっくりと首を横へ振った。

 花屋で物珍しい観葉植物に我を忘れて見入っていたとは咄嗟に思いついた嘘である。本当は隣りの市街地まで足を伸ばしていて帰りが遅くなっていた。わざわざ隣りの市街地まで赴いたのはラヴィーク市街地に薬を扱う店が見当たらないという理由ではなかった。

 邪剣霊が血を欲するのは己の渇きを潤す為と言われていた。仮に人間であれば渇きを潤す為なら泥水よりも澄んだ水を選ぶ。つまり邪剣霊に狙われる者とは好ましい血の持ち主であると定義できようか。実際、邪剣霊にとって人間の血であれば誰の血でも良いのだが、第三者たちは歪曲した定義をまかり通させてしまう。誰とて己の生活を脅かされたくないのだから、仕方ない。

 実際、クラウディアとラファエラは父の葬儀を終えて間もない内に周囲からは邪剣霊が好む血の持ち主と蔑まれていた。双子の姉妹がこのラヴィーク市街地にいる限り、再び誰かが邪剣霊の狂猛な刃の餌食となる。詮無き人間の闇が闊歩し始めた。

 邪険な噂は止まる勢いを知らないものであり、ラヴィーク市街地に住まう全ての者が知るところとなった。クラウディアとラファエラが父亡き後の暮らしを保つ為に母の言付けに従って両親の思い出の品々を市営の公益質屋に持ち込もうとも雀の涙にも程遠い金額であった。数枚の、しかも黒ずんで薄汚れた銅貨を口惜しげに握り締める姉妹に病臥の母の為の薬を購入は不可能である。ラヴィーク市街地に住まう者たちは誰も温かな手を差し伸べず、冬の風よりも冷たい視線を与えていた。

 ラヴィークが駄目でも隣りの市街地なら、とクラウディアが提案し、ラファエラも快諾した。ラヴィークに住まう者たちの視線を痛いほど身に受けている以上、快諾をせざるを得ない状況でもあった。朝早くに遠出の支度を済ませ、出来るだけ往来の者たちに見られない様に街の門を潜り抜ける。幸いにも門を警護する一人は父の遺体を運び、事の次第を説明した年老いた自警団員であった。数ヶ月前と比べてあどけなさよりも憔悴の面持ちへと変化している姉妹と流布している噂を照らし合わせた彼は、特に問い掛けを発せずに後ろに回した両手を動かさずに見て見ぬふりをした。

 隣りの市街地には街道を直進にてひたすら進めば辿り着く。途中に分岐点が幾つか存在したが、特に迷う事はなかった。太陽が南中に差し掛かる頃合にクラウディアとラファエラは隣りの市街地の門の前に立っていた。開け放たれた鋼鉄製の門は徒歩にて遠路はるばると尋ねてきた双子を歓迎している様にも見て取れようか。額に流れる汗を拭い、渇いた喉をそのままに棒になりかけている足を一歩進める。何処の市街地の門にも門番となる者がいる。この市街地では鎧姿で槍を脇に抱えていた。

「おい、お嬢ちゃんたち、何処から来たんだい?」

 物珍しい来訪者に門番を任されている鎧姿の男は怪訝な表情と共に口を開いた。

「ラヴィークからです。母の為に流行りやまいに効く薬を買いに来ました。」

 クラウディアが弾む息で答えると鎧姿の男は感心したのか、僅かに目許に変化を与えた。

「ほぉ。それはそれは。だが、いくらラヴィークが田舎町でも薬はあるだろう?」

「実は…売り切れたんです。次の入荷はいつになるか判らないって聞いてます。」

 両膝にそれぞれの手を当てながらラファエラがそれらしく説明をする。なるほど、と鎧姿の男は頷くと腰からぶら下げている水筒を二人の前に差し出し、門の脇に放置されている木箱の上に腰を降ろした。

「そうか。ラヴィークも売り切れたか。」

 ラヴィークも、とはどの様な意味だろうか。二人の中で生じた疑問を察するまでもなく、鎧姿の男は言葉を続けた。

「残念だが薬はどの店も売ってくれないだろう。この市街地の住人も流行りやまいの薬の順番待ち状態なんだよ。いくらお嬢ちゃんたちが可愛かろうと、よそものに先に分け与えるって訳にはいかんだろ。」

 水筒を差し出した手が軽く上下に振られ、受け取れと催促している。愕然とするクラウディアとラファエラにせめてもの労いであろう。小さな声で有難うと謝意を述べた後に二人は交互に白く柔らかな喉を鎧姿の男に遠慮なく晒した。

「戦争はなくなったんだがなぁ…。」

 水筒の中身が冷たかったのか生温かったのかはとうに覚えていない。しかし、開かれた鋼鉄製の門の遥か彼方へと視線をやる鎧姿の男の横顔とその言葉をラファエラは今でも鮮明に覚えている。

 それから一年後の夏、母は他界した。亡き父を追い掛けに行ったんだと欺瞞に心身を浸す事でクラウディアとラファエラは溢れる涙に渇きを与えようとしていた。


 邪剣霊の一閃で命を落とした父と流行りやまいに蝕まれた母の葬送は共に火葬にて執り行われた。時機は違うが骨だけになった親を立て続けに目の当たりにして以来、クラウディアの笑顔は空虚なものとなり、ラファエラは更に口数が少なくなった。

 葬送が済むのと同じくして身寄りのない双子の姉妹を誰が引き取るのかと親族の間で議論が交わされる。クラウディアとラファエラの意見を尊重する以前に、誰も引き取る意思を示さない。不戦条約が招いた世相とそれぞれの家計の状況はともかく、邪剣霊を呼び寄せるのではと、ここでも妙な勘繰りを親族たちは働かせていた。

 最終的に母方の遠い親戚に引き取られる事で落ち着いたが、十日も経たないうちに奴隷商人の馬車に乗せられていた。いかほどの金額で売られたのかも判らず、これから行く先も判らない。せめてもの救いは遠い親戚に母に似た顔立ちの者がいなかった事だろうか。もし似た者がいたのなら、裏切られたという口惜しさが数倍に膨れ上がっていただろうとラファエラは感じていた。

 奴隷商人の馬車の中は乗り心地が極めて悪い。粗悪な材料を用いて安普請で作られたのが乗り物の知識が無いラファエラでも判る。ぎこちない振動は心と体を徐々にかじかせる。クラウディアとラファエラは簡素な腰掛けの上で互いに寄り添い、これから投じる暗路に危惧していた。

「ねぇ、ラファエラ。あたしたち、ずっと一緒だよね?離れ離れにならないよね?」

 クラウディアは己の懸念を言葉に表せば、ほんの僅かでも気持ちが楽になると思ったのだろうか。車体が軋む耳障りな音が一定の間隔で響く中、クラウディアはその間隔よりも早く、細かく、酷く震えている。

「お父さんとお母さんがあたしたちを見守ってくれる。だから…大丈夫だよ、クラウディア。」

 父は大丈夫と語って出かけ、再び家の門を潜る際は亡き姿であった。この言葉に引っ掛る思いが己の中で打ち消せないラファエラは馬車の窓から望む景色へと視線をやる。街路樹の青々とした緑が飛び込んでくる。何て名前の木だろうかと知識の欲求という悠長な時間は過ごせない。それよりも今は何処だろうか。西にいるのかどうかも既に判らない。

「クラウディア、安心して。」

 寄り添う肩に手を廻し、生前の母が日々してくれた様に抱き締める。ラファエラ自身もほんの僅かでも気持ちを楽にしたかった。

 目的地に到着するまで三日を要した。名の知れぬ山々に囲まれた豪奢な屋敷である。山間部にも関わらず故郷であるラヴィーク市街地よりも生暖かい。恐らく南方へと連れてこられたのだろうか。これまでに見た事の無い鳥や草花が二人を出迎えてくれたが、優しい眼差しや指先に触れて愛でる気持ちにはなれなかった。

「これが双子の生娘か。」

 屋敷の中庭にて品定めが行われた。杖を小脇に抱え、身形の整った紳士風の男が椅子に身を預け、葉巻の煙を優雅にくゆらせながら眉間に皺を寄せている。彼はこの屋敷の主であり、双子の姉妹の買い手となろう人物である。クラウディアの頭から足先まで一通り見た後に、ラファエラにも同様の視線を送る。これから何をされるのかと目に見えぬ恐怖の真っ只中、二人は両脚に力を込めて立っているのがやっとであった。

「双子どころかこうも顔立ちの良い生娘というのは、なかなかお目に掛かれないと…。」

 奴隷商人は満面の笑みと共に揉み手をして屋敷の主の動向を覗っていた。

「君、生娘かどうか保障は出来るかね?」

「それは旦那様が直に調べれば済む話でしょう。」

「ほぉ?」

「いつの世でも商売に信用はつきものでして。しかもその信用とはなかなか目で見えぬもの。ですが今回は目に見えてお判りいただけると思います。」

 卑下の対象としか言い様のない笑みを作る奴隷商人を一瞥した屋敷の主は円卓の中央に置かれた青銅製の灰皿の上に投げ、重い腰を上げた。杖は歩く際の補助の為ではなく、単なる装飾品の一部であった。背筋を伸ばし、軽い足取りでクラウディアに近付くなり、彼女の顎を五本の指全てを用いて掴んだ。

「クラウディアに触らないで。」

 悲痛と懇願を練り合わせたラファエラの声は心無い風音に掻き消された。杖で殴打されたのだと気付いた後に手の甲に鈍い痛みが走る。空腹のあまり、うずくまる気にもなれない。叩かれた手の甲を擦ろうにも反対側の手が動かない。ラファエラは虚無感を滲ませた眼差しと共に立ち続けていた。

「お願いです、ラファエラを叩くのは止めて下さい。」

 顎を掴まれようとも口は動く。驚愕の色を目許に注したクラウディアの言葉に屋敷の主は応えない。葉巻の独特な臭いが染み付いた息を鼻から漏らしながら顎を掴んだ手を動かした。横を向かされたクラウディアの傷一つ無い白い首筋が露となる。何かを念入りに調べる様な眼差しを終えた後に屋敷の主は顎を掴む手を離し、両手を腰の後ろへと廻しながら踵を返した。

「確かに生娘のようだな。男を知った女とは首筋が敏感になるが、この娘は虚ろなままであった。よかろう、この双子はわたしの手許に置くとしよう。」

 屋敷の主は上着の内側から一枚の紙切れと羽根ペンを取り出し、丁寧とも雑とも言えない速さで何かを記すと奴隷商人の前に差し出した。

「これでどうだ?」

 これとはクラウディアとラファエラの値段であり、一枚の紙切れは小切手と思われる。そこに記された数字を二人は知らない。だが、奴隷商人の幾分弛んだ目許に走る皺が一瞬ではあるが若返ったかの如く消えた様子からしてまんざらでもない額と思われた。

「有難うございます。良き商売が出来たと手前に実感させていただきました事、感謝しております。」

「構わん。換金の手数料は込みだが、良いな?」

「勿論、承知しておりますとも。」

 奴隷商人は再び満面の笑みを零しながら頭を下げる。目だけを動かして彼を見下ろしていた屋敷の主は杖の先端を屋敷のとある部分に向けた。豪奢な玄関から少し離れた箇所に簡素な出入り口が申し訳なさそうに備え付けてある。風雨に晒され擦れた趣きの木戸である。そこから中に入れと指示をしているのか、杖の先端が上下に動く。ここで何か言葉を発すれば、次なる殴打が襲い掛かるかもしれない。二人は首を縦に振ることも無く、無言のまま木戸へと歩み始めた。

 木戸の内側は薄暗く、冷ややかな空気が立ち込めていた。塵一つ見当たらず、窪みや劣化すら縁が無い、整然とした土間の上で一人の老婆が揺り椅子をのんびりと揺らしていた。樫の木で作られている揺り椅子だろうか。皮肉にも硬質な樹木の表皮を思わせる老婆の規則性の無い皺が走る手は使い込まれて艶光りする浅い肘掛けの上にあった。

「あの…お婆さん、ここは何処?」

 木戸が開き、閉まる音に老婆は反応していない。恐る恐るクラウディアが声を掛けても同じである。揺り椅子は一定の揺れ幅を変えずにぎこちない軋み音を響かせている。この老婆は耳に不自由しているのかもしれないと気付いたラファエラはクラウディアの手首を握り、老婆の目の前へと足を進めた。

「おや、お嬢様、お帰りなさいませ。暫く見ないうちに大きくなられまして。」

 眠りに就いているのか、そうではないのか見た目では判断しかねる細い目許はまだ機能している様子である。再びクラウディアがここは何処かと問い掛けたが、老婆は邪悪とは一切無縁の柔らか過ぎる目許をそのままにしているだけであった。

「この婆めも遂に目がおかしくなったのか、お嬢様がお二人に見えてしまう様になりました。ですが、お二人とも今も変わらず本当に澄んだ心の持ち主なのはちゃんと判りますよ。」

 老婆の中で彼女の言うお嬢様とクラウディアとラファエラの容姿が重なり合っている。理由はともあれ、お嬢様と言われた人物は今は亡き存在と思われる。老衰により判断能力が著しく減退した者の現実とは遊離した言動に二人は否定を思い留めた。枯滝の如く無数の皺が走る頬に一条の潤いを取り戻していたからである。その潤いは細く、また直ぐに乾くであろう。だが、錯乱が生み出した現実に変わりなかった。

「お嬢様がお戻りになられました事ですし、今晩のお食事はお嬢様が美味しいとお褒め下さった子羊のソテーにしましょう。セリと黒胡椒を漬け込んだソースはこの婆めの家に代々伝わるものでして。」

 意気揚々と老婆は語るものの、四股は静かにしている。揺り椅子が奏でるぎこちない音に変化は見られず、ただただ一定の拍子を保ち続けている。部屋を見渡す限り、食材となる存在が目に留まることはなかった。くたびれ果てた小机の上にあるのは火を灯していない二本差しの燭台が一客と既に動きを止めた真鍮製の置時計である。この置時計がいつから動きを止めたのか知る由は無い。お嬢様なる人物が無垢な笑顔を振り撒いていた頃は動いていたのであろうかとラファエラは眺めていた。

「有難う、お婆さん。子羊のソテー、楽しみにしているよ。」

 クラウディアは肘掛けの上にある老婆の手に自らのそれを重ねた。

「あぁ、ですがお嬢様、外から帰られましたら、まずはお着替えをなさいませんと。」

「着替えは持っていないよ?見ての通り、手ぶらだから…。」

「お部屋にお戻りなさいませ。お着替えをたんと用意してございますから。」

 揺り椅子は動きを止めない。果たしてお嬢様なる人物の服がそれぞれの体に合うのか判りかねる。恐らく小さいであろう。だが、この場で茫然と佇んでいても無為な時が流れるだけである。クラウディアは老婆に重ねた手を二三度擦りながら膝を折った。

「久しぶりに帰ってきたから部屋までどうやって行くのか忘れちゃったよ。」

「えぇ、えぇ。無理もございません。十年ぶりでございますから。この婆めがお供しましょう。」 

 二人の為に用意された、と言うよりも、お嬢様なる人物が利用していた部屋へと老婆を伴って屋敷の廊下を歩む。白く、無表情である壁面には等間隔で刀剣が飾られていた。何時いつの時代のものか、どれ程の斬れ味を有しているのか二人には判別がつかない。ただ、一歩足を進めれば次なる刀剣の刃が放つ鈍く澱んだ輝きを目の当たりにする。そのたびに気持ちが暗くなる。

「ねぇ、ラファエラ、見て。」

 互いに体を寄り添わせながら歩いている中、クラウディアが一方を指差した。二本の剣が並べられて飾られている。一方は中途半端に長く、残る方も短いにしては少々長さを有している。差し込む陽光の具合によるものか、浅い血抜きと諸刃を持つ二つの刀身は薄紫色の輝きを放っていた。

「今のあたしたちみたいだね?」

「うん。でも…。」

「でも?」

「あの握るところにある女の子の彫刻が嫌だ。顔が怖い。夢に出てきそうだよ。」

 ラファエラは掴むクラウディアの腕を強く握り締めた。ラファエラの言葉通りに柄の全体を用いて女の立像が彫刻として施されている。頭部を鍔の中央に置き、纏う布の捩れ具合を表現している部分が握りの滑り止めとして機能していると思われる。顔立ちや浮かべている表情からして、自分たちと同じ年頃だろうか。故にうすら寒い思いが立ち込めてくる。

「もし、あたしたちが剣霊になれるんだったら…あんな剣みたいになりたいな。」

 ラファエラは答えない。ただ、魅入られたかの様に柔らかな唇を半開きにし、双眸を細めて二本の剣を見上げるクラウディアの横顔を黙々と眺めていた。

「お嬢様、その揃いの剣に興味を持ってはなりませんぞ?」

 先を歩く老婆は二人の足音が聞こえなくなった事に気付いたのか、大儀そうに振り返りながら言葉を続けた。

「その剣は乙女の呪いが染み付いておるのです。」

 どうして、とクラウディアが口を開くのを予測していた。何故なら、動かす足を止めた老婆の横顔は柔らかであった。剣の謂れを語るよりも、久々に帰ってきたというお嬢様との会話を愉しみたいのであろう。

 この揃いの剣はとある鍛冶師が己の二人の娘の護身用にとこしらえたと言われている。時は戦乱の真っ只中であり、あらゆる命が軽んじられ、まことしやかな大義が重んじられた。国家同士の争いがはそこに住まう者たちの心を荒廃させる。略奪や謀殺が日常茶飯事となる中、揃いの剣のそれぞれを胸に抱きながら姉妹は成人を迎えた。そして住まう国家は他国に蹂躙された。

 鍛冶師は娘たちに自らの命を絶つようにと命じ、二人は素直に頷いた。血気に逸る他国の男に嬲られるのであれば、命を捨てるのもやぶさかではないという事か。互いに体の正面を向き合い、これから恋を覚え、愛を感じ得たいという淡い願いを望んでいたであろう心臓へと切先を潜り込ませた。

「乙女の血に塗られた刃は彼女たちの操を守るべく斯様かような色に染まったとか。なんともまぁ、不思議で不気味な話で。」

 笑っているのか咳き込んでいるのか傍からは判らない動作をする老婆を尻目にラファエラは揃いの剣へと視線を動かした。護身用にとこしらえたと老婆は語っていたが、皮肉なものである。体を守るべくではなく、心を守るべく剣としての役目をまっとうした。

「さぁ、お嬢様。早うお部屋へ参りましょう。」

 老婆は体を元の向きに戻すと再び歩き始める。味気ない廊下に杖を突く音がのんびりと木霊していた。


 その日の晩、湯浴びを済ませたクラウディアとラファエラは絹製のシーツをあしらったベッドの上で並んで横になった。端から判ってはいたが、子羊のソテーにはあり着けなかった。食事の件は残念ではあったが、久々にまともな場所で横になれる。安堵と疲労が入り交じった溜息が自然と漏れる中、黒鉄色の手燭を片手に持ちながら老婆が顔を覗かせた。

「お嬢様、旦那様がお呼びですよ。」

 何事かと横にしていた体を起こしたラファエラに老婆は掌を見せた。

「あぁ、こちらのお嬢様ではなく、あちらのお嬢様を、との事でして。」

 こちらとはラファエラであり、あちらとはクラウディアを指しているらしい。得も言えぬ不安を感じずにはいられない中、クラウディアはラファエラの両肩に柔らかな両手を添えた。

「大丈夫。すぐに戻ってくるからね。」

 ラファエラは驚愕した。何故その言葉を使う、その言葉の先にあるのは決して望んだ結果ではないと、父と母が身を以て教えてくれたではないか。気だるい睡魔から一気に開放され、目を見開いたままのラファエラを見つめるクラウディアの視線は変わらない。柔らかさを保ち続けている。

 クラウディアもそうと判っていてこの言葉を用いたのだろうか。彼女が生来より具えている、屈託のない眩い程の笑顔の裏では腹を括ったと言わんばかりの悲愴感が漂い始めているのが垣間見れた。

「ラファエラ、先に寝ていて。」

「嫌だ。クラウディアが帰ってくるまで起きている。」

 クラウディアの返事は僅かに俯くと首を軽く左右に振り、両肩に置いた手に力を込めた。

 扉の蝶番がぎこちない音を響かせた後に薄闇の帳は再び下ろされた。沈み具合が絶妙な枕に片耳を着ければ、自らの血流の音が聞こえる。時の流れと同様に早くもなく、遅くもなく、一定の間隔を刻んでいる。

 もう片方の耳は虫が奏でる音色を捉えている。滑らかであり、儚き歌声も誰にも邪魔されずに一定の調子を保っている。この二つの音色は独り残されたラファエラの心の襞を優しく撫でようと試みているのか。

 今まで独りで寝るのは皆無であった。心地良さげに寝息を奏でるクラウディアが常に横にいた。自らの血流の音や虫の歌声では深い眠りに誘えられそうにない。この二つはクラウディアの代役には到底不足に過ぎなかった。

 一時間、そして二時間が経過した。柔らかな色合いをしたカーテンを仄かに照らす月がどれだけ傾こうとも、ラファエラの見開いたまなこに変化は見られない。やがて虫の歌声が途切れ途切れとなり、薄闇の空が淡い色へと変化しつつある頃、扉の蝶番がぎこちない音を再び響かせた。ゆっくりと、弱々しい蝶番の音に相対し、ラファエラは飛び起きんばかりの勢いで枕から頭を離す。

 そこにはクラウディアが力無く佇んでいた。一歩踏み込み、開けた扉を閉めた後に両肘をそれぞれの掌で包み込みながら立ち竦んでいる。己を周囲に晒さない様に、あるいは己を周囲から守る様なクラウディアの仕草に何と声を掛ければ良いのかとラファエラは躊躇いを感じていた。

「先に寝ていても良かったのに…。」

 力無き言葉と共にクラウディアは憔悴を思わせる足取りでベッドの中へと潜り込む。日の出前の頃合は時季に関係なく冷え込むものである。少しでもクラウディアの体を温めようと、そして自らの心に安らぎを与えようと、ラファエラは待ちくたびれた体を動かし、両腕をクラウディアの首へと廻した。

 クラウディアは古傷が疼いたのかの如く、身を捩じらせた。

「触らないで。お願いだから、あたしに触らないで。」

 歯の根が合わないとは今あるクラウディアの姿を見て綴った言葉なのだろうかと思わせるほど、彼女は酷く震えていた。廻した腕から震えているクラウディアの体温が伝わってくる。温かいとも熱いとも言えない。湯浴びの直後の様に火照っている。彼女を落ち着かせようとラファエラは廻した腕をそのままに、顔を近付ける。この世に生を受けて十数年、毎日欠かさずにクラウディアの匂いと共に過ごした。艶のある髪が発する柔らかさ、滑らかな肌から薫る瑞々しさ。全て知っている。そしてクラウディアも同様にラファエラの匂いに安堵を覚えて生きてきた。

 しかし、邪魔な存在が混ざっている事にラファエラは気付き、顔を離した。一方のクラウディアは廻された腕の先にある手を握り締める。

 屋敷の主の臭いがクラウディアの心身にこびり付いていた。


 慣れ親しんだラヴィーク市街地を離れておよそ一年後、幼き姉妹を奴隷商人から手に入れた屋敷の主は盗賊の集団に襲われた。人里から離れ、護衛の者がいないとなれば恰好の的となる。屋敷の主は手にした剣を振るう事無く欲望の刃に斬り捨てられ、老婆は胸の一突きであの世へと旅立った。

 盗賊の集団が望んだのは二つである。一つはこの屋敷を自分たちの根城にする事であった。例の休戦協定は兵役という男たちの職を奪い、そして経済社会に馴染めない者たちは追い剥ぎもしくは盗賊稼業に身を落とす。国家は休戦協定を利用して富国政策に邁進する。富国の数ある項目の中に治安がある。その治安から逃れる手段として盗賊の集団はこの屋敷に目を付けたのであろう。

 もう一つはクラウディアとラファエラの存在であった。屋敷の主と老婆の変わり果てた姿を目の当たりにした幼き姉妹は互いに手を取り合い、共に腰を抜かしながらも取り囲む略奪者たちを睨んでいた。これが例の姉妹かと盗賊の一人が見下ろす。奴隷商人の野郎が言っていたよりも上玉じゃないかと別の盗賊がほくそ笑む。

 またしても売られた、という言葉が二人の中で轟く中、盗賊たちの欲望に染まった手が伸びてくる。髪を引張られ、肩を掴まれ、腰に嫌な感触が走る。既に抵抗する術を失っている二人はただ時が過ぎるのを待つしか出来なかった。

 ここから先はもう思い出したくない。ラファエラは閉じていた瞼に力を込めた。あの時、父が出掛けていなければ、母が病に侵されていなければ、少しは違った未来を過ごせた筈だと、詮無き願望が体を支配する。涙を流せない剣霊となった今、昂ぶる感情は行き場を失い、霊体の隅々まで迸るのが判る。

 微細な震えが生じ始めている中、左の大腿部に手が添えられた。先端の位置からして指は長く、てのひらは程好い硬さの中に女特有の柔らかさを具えている。契約を結んだユラン・エレエの手にしては優しい肌触りがする。剣を操る者のてのひらとは男であろうと女であろうと表面が硬くなり、ざらついている。とても懐かしい大きさだと感じたラファエラは無意識のうちに言葉を漏らした。

「お母さん…?」

 エジュ・エジェ城塞の地下牢に幽閉され、薄汚れてしまったスカートの上から伝わる温度は冷たい。相手も布一枚を通して剣霊の肌の冷たさを実感し、懐かしい大きさの手を静かにさせている。互いに何をも斬り裂く刃を伏している状態と言えようか。ラファエラは力を込めていた瞼を楽にさせた。

「残念だけど、あなたのお母さん、ここにはいないの。」

 豊かな黄金色の髪の剣霊は地下牢の薄闇の中でも独特の煌きを携えながら言葉を続けた。

「でも、心が泣いていたのは判ったわ。」

 流麗な目尻を伴った黄金色の瞳は剣として、そして女としての眼差しを放っていない。母親を経験した者の優しさを湛えていた。


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