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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第三章 エジュ・エジェ城塞編
41/75

エジュ・エジェの空模様

 王女殿下と彼女の世話役の後ろ姿が見えなくなるにはそれぞれの頭上に舞い降りる雪の心配する程の時間を要さなかった。豊かなたてがみを携えたぺべが奏でる蹄の音が完全に遠退いた後にユストは普段と同じく無音の溜息を鼻から漏らした。

 胸のポケットに手袋越しの指数本を使い、それまで我慢していた煙草を探し始める。器用に取り出した二本のうち、片方をル・ゾルゾアの面前へと差出し、残った一本を雪景色に晒されて幾分乾燥している自らの唇へと運ぶ。降る雪から守る様にマッチを擦り、まずはル・ゾルゾアが銜えた煙草の先端に火を灯した後に、ユストは自らのそれに火を近付けた。やんごとなき人物との体面を辛うじて終えたと、張り詰めていた糸が瞬時に弛緩したかの様に煙草の煙はゆらゆらと不規則な形を作り出していた。

 イゼリアーシェ・ヴェルリンクが成人して間もないとはいえ、近い将来に四ヶ国の均衡を左右させる資格を有するであろう人物に変わりない。均衡とは政治経済はもとより、軍事という名の暴力も含まれる。騎士国家と称し、その別称を誇りに思う北部に住まう者たちは彼女が鞘から剣を抜き、切先を向けた方向へ死を恐れぬ怒涛の勢いと気概を有した軍隊を進めるであろう。

「さて、これからどうするかね?」

 ル・ゾルゾアも鼻から煙を出しながら数ヶ月前にトウラドオク城址にて共に戦った者へ意見を求める。咥え煙草のユストは空を見上げた。雪模様では太陽の位置を把握できない。陽光の恵みを得られなければ伸びる影の長さで時間を計るのも不可能である。白とも灰とも言い切れない煙が冬の空の中に掻き消える様子を緑色の瞳のみ動かして何気なく追っていたイルサーシャの手首に温かい感触が走った。

「そなたが無事でなにより、というのがユストの第一声だ。残るは容姿容儀がいかがわしい、あの金髪の安否だが、が思うにちょっとやそっとではくたばるたまでもなかろう。」

 手首を捕まれていない側の手で左右に分けて束ねられた白銀の長い髪の付け根を交互に触れながらイルサーシャは語った。前半は確かにユストの内なる言葉を代弁しているが、それ以降は彼女の感情に任せた台詞である。苦い表情を露にするユストと凛とした目許に感情の一端を浮かび上がらせたハガンを目の前に、ル・ゾルゾアは再び煙草の煙を悠然と鼻から出していた。

「あぁ、俺もそう思う。イルサーシャ、君も以前と変わらずのままだな。」

「まぁな。」

 柔らかな微笑を漏らしたイルサーシャは自らの斜め後ろで苦い表情から呆れ顔へと変えたユストの面持ちを知っていたのであろうか。

 ともあれ、彼女は剣霊であり、この北部王立国家内に於いては忌み嫌われる存在に変わりない。言い換えるならば、この場にいる者と先程まで共にいた者以外は全てが彼女を攻撃の対象として見なすであろう。攻撃とは腕力や干戈かんかに訴える事のみならず、冷徹な視線や蔑む言葉も含まれる。触れる生命を尽く斬り裂く剣霊と知るや否や、大半の者は後者を選択する。明日から、いや、数時間後にはその様な状況に彼女は遭遇するかもしれない。出来うるならば彼女の心を揺さ振られる様な状況は避けたいとユストは常に考えている。斬れるものが斬れなくなる。憔悴を伴ったくすんだ刃など見たくない。剣霊としての死を是が非でも避けなければならない。華奢な手首を掴む手が強く握られた。

「今は動くには判断材料が少な過ぎるとユストは考えているそうだが…。ル・ゾルゾアとしてはどうなのだ?」

「同感だ。ただ王女殿下という今回の任務の鍵を見つけた。彼女から目を離さなければ行方知れずの剣霊たちの消息の糸口も必ず掴めるだろう。」

「なるほど、ユストも異論は無いと言っている。あとは行動に移す前に拠点となる場所をたちは探さないとな。」

「それなら俺が間借りしている空き家を利用すれば済む話だ。」

「ほぉ。間借りとはこれまた…。」

「言うまでもないが、貸し主は何処の誰だか判らんよ。数日の間なら事無きで終わるだろう。」

 ル・ゾルゾアの判断は正しいと言えた。北部王立国家内では剣霊使いという素性は極力隠すべきであり、他に剣霊使いと判らせる要素を掴ませてはならないと注意を払う。南西自治国家では宿を取ろうとも台帳の上ではごまかせた。それがこのエジュ・エジェの地に於いて通用するかは闇の中であり、実践にて証明しようとも思えない。君の言う通りに動こう、と言いたいが言葉を音で発せられないユストはイルサーシャの手首を離し、ル・ゾルゾアの肩へと手を置いて短く頷いた。

「ユスト・バレンタイン、君も変わっていないな。」

 肩に置かれた手に一瞥を与えた後にル・ゾルゾアは短い笑みを零した。それは安堵よりも満足と言いたげなものであった。

から一つ宜しいでしょうか?」

 それまで二人の男と一振りの剣霊の遣り取りを眺めていたハガンが言葉を発した。彼女は晒された項に舞い降りては更に麗しく彩る雪の結晶を軽く払い除けた。

「このまま事を推し進めましたら、お二方は協会の指示通りに動いていないと判断されてしまいますが…。」

 なるほど、ハガンの懸念も判る。先にル・ゾルゾアは任務の不履行と語ったが、それは一人の人間の活殺を左右する問題でもある。人間の命に重い軽いと杓子定規な考えを巡らせるつもりはないが、その命は一国の命運をも決定付けるであろうと容易に想像出来る。剣霊協会、言い換えれば剣霊帝が描く眼界とは一個人の想像や予測の範疇では到底収まらない。相手は人間ではない。剣霊の中でも大地の意思を語る神剣霊の長姉である。

「それなら直に訴えれば良いだけの事ではないのか?」

 短絡的ではあるが、思いっきりの良さは白銀の長い髪をした剣霊の持ち味でもある。しかし今は彼女の持ち味に相槌を打つのをユストは言うまでも無く、ル・ゾルゾアも躊躇いの色を濃く見せていた。

「イルサーシャ、君の考えも判らんでもないが、俺が思うにここは誰か緩衝役となる人物にお願いするのはどうだろうか?例えば…ミゼレレは剣霊帝様の妹だ。彼女の性格からして俺たちの行動に理解を示してくれると思うのだが。」

 ミゼレレと言う名前はル・ゾルゾア以外の者の表情に影を注した。イルサーシャとハガンがノエミリオ諸島での出来事を語り、事の次第を咀嚼せんとル・ゾルゾアは二振りの剣霊の話に顎鬚を詰りながら耳を傾ける。

「そうか。彼女は記憶を失ってしまったのか…。」

 顎鬚を詰っていた指の動きが止まり、剣士としての目許が細くなる。憂慮を意味する表現に呼応したのか、ハガンは静かに頷いた。

たち剣霊の事は辛うじて記憶に留めている様子でしたが、今を生きる人間についてはどうも…。」

 ハガンの淡い褐色の瞳が何か言いたげな雰囲気と共にユストへと動く。イルサーシャのそれとは異なる趣は剣霊よりも女としての色を露にしている。まるで何かを見透かされている様な思いに駆られたユストは俯きながら煙草の煙を吐いた。

「有効な手段だと思っていたのだが、この手は使えない、か。」

 顎鬚を詰っていた指をそのままにル・ゾルゾアは空を見上げる。機知に富んだ横顔を形成する凛々しい眉の上に雪が舞った。

「剣霊帝様に近い方でしたら、協会長様にお願いしてみるのは如何でしょう?」

 ハガンの提案にその場にいる者たちは彼女へ視線を動かした。厳密には動かすしか出来なかった。何故なら協会長なる者の姿かたちは勿論の事、その性格を知り得ていない。男なのか女なのか、人間なのか剣霊なのか。内心で首を捻る者たちにハガンは柔らかな笑みを零した。

「まずはル・ゾルゾア、あなたが間借りしている空き家へと向かいましょうか。の見立てでは数時間の内に吹雪く見込みですわ。」

 大気をも斬る剣霊は空の移り変わりも手に取る様に判ると聞いている。彼女のげんに従うべきだろうとユストはル・ゾルゾアに向けて視線を送る。そうだなと言わんばかりの微笑を伴いながらル・ゾルゾアは踵を返す。彼が纏う革製のロングコートの裾が孤を描いた。

「案内しよう。」

 低くも通りが良いル・ゾルゾアの声が雪空の下でひっそりと響く。彼が脚を動かす方向は豊かなたてがみを携えたぺべの蹄の跡に添っていた。

 協会長と呼ばれる者はなにも剣の扱いに秀でている訳でもなく、剣霊と契約を結んだ者でもないとハガンは語り始めた。血を与えずとも剣霊帝に触れる事が可能な唯一の人間の女であり、その名をエルスノアという。

 彼女に初めて対面したのは今からおよそ五十年前だとハガンは話を続けた。彼女の契約者であったテヴァ・ザイロンに特殊番号保持者として叙する為、剣霊帝よりコノリギスに招かれた際である。剣霊帝が住まう廟堂の豪奢な扉の前にて若き剣士テヴァ・ザイロンと今と容姿が全く変わらないハガンを出迎えたのは四十路に入って幾許か時が経過していると思われる女であった。深い紺色が印象深い立ち襟のドレスも目を引くが、同じ色の布で頭を覆っていたのが忘れられないとハガンは当時を思い描いていた。コノリギスに居を構える女は髪を隠す様に頭を布で覆う。それは自らは剣霊にあらずという体面であり、また剣霊に対する敬畏の顕れとも捉えられているという。

「ふうん。どこもかしこも女の髪に謂れが有るのだな。」

 空き家まで案内するル・ゾルゾアの少し前を歩くイルサーシャが束ねられた髪の先端を弄びながら口を開いた。特に指示がない限り、剣霊は契約者の前に身を置く。行方知れずとなっている豊かな黄金色の髪をした剣霊の代わりではないが、ル・ゾルゾアの身体からだを難事から守ろうという姿勢はユストに満足の微笑を零させた。

 雪が降ろうとも昼下がりの街の往来が絶える事はない。百年香の爽やかな香りに惹かれたのか、歩く度に左右に分けられた白銀の長い髪が踊る様子に魅せられたのか、すれ違う者たちは彼女を見ては怪訝な面持ちを晒していた。

「背丈はより少し低く、髪を隠す事で強調されているのもありましたが、なによりも優しいお顔をされた方でしたわ。」

「ちょっと待て。五十年も前に四十を越えた者が果たして今を生きていると俺は思えないが?生きていても既に隠居の身ではないのか?」

 歩く足を止めずに口を動かすル・ゾルゾアの疑念も尤もである。だが、それを予見してハガンは協会長の名を口にしたのであろうと最後尾を歩くユストは金色の髪飾りの煌き具合を眺めていた。

 エルスノア協会長は一人の幼女の手を引いていた。協会長が纏うドレスと形は同じだが、色が違う。淡い紺色だった。髪を覆う布も淡い紺色である。剣霊とその契約者を目の当たりにしても恐怖も興味も示さないのは幼気の延長なのか。真一文字に結ばれた、いかにも柔らかそうな唇の奥で小さな歯を喰いしばっているのが容易に判る。剣士の眼差しを崩さず、また笑みを投げ掛けるのも不可能な若きテヴァ・ザイロンを前に緊張しているのかもしれない。そう思ったハガンは膝を折って幼女と同じ高さへと視線を合わせた。彼女が身に纏う薄桃色の袷の優しい色合いもさる事ながら、淡い褐色の瞳に幼女は安らぎを見出したのであろう。エルスノア協会長を握る幼い手に込められていた力がふと抜けるのがハガンには判った。

は刹那の剣霊ハガン。あなたのお名前は?』

『ユリア・アルーン。』

『素敵なお名前ね。歳は幾つ?』

『十歳。』

『そう。』

『名前、誉めて貰ったのは嬉しいけど、もうちょっとしたら誰もあたしを名前で呼んでくれないんだ。』

『どうしてかしら?』

『昨日、次の剣霊協会の協会長にあたしがなるって言われたから。』

『そうなの…。』

 協会長に叙される事が幸なのか奇禍なのか判断しかねるハガンは曖昧な返事しか出来なかった。話の内容からして、ユリア・アルーンはエルスノア協会長と名を襲うのであろう。お喋りが過ぎますよ、と現任の協会長はユリア・アルーンを嗜め、二人は深々と頭を下げた後に廟堂の内部へと剣霊とその契約者を案内し始めた。

 それから遅れて三ヵ月後の雲ひとつ見当たらない日に新たな協会長が任命された。以後はこの者のめいに疑いなく滞りなく従えと剣霊帝より所属する者たちに下知が下った。

「つまり、そのユリア・アルーンなる者が今の協会長殿か…。」

「えぇ。」

「ただ、五十年前で十歳となると…はてさて。」

 イルサーシャが途中で言葉を途切れさせたのも頷ける。ユリア・アルーンは六十を迎え、ハガンの話の経緯からして先代の協会長よりも長い期間、剣霊帝に従事している事となる。既に後継者にその席を譲っているとも考えられるが、ユリア・アルーン以降、代替わりしたとは聞いていないとハガンは付け加えた。当時十歳であった少女は余程の才女なのだろうか。始まりの剣霊であり、大地の意思を語る神剣霊の長姉という位置にある剣霊帝の信頼も篤く、今に至るとも考えられる。そしてあらゆる生命の左右を握る絶望の剣霊は常に横に有る才女の言葉に耳を傾けるのであろうか。

「確かに悪い話ではないと俺は思う。むしろ妙案だ。ただ、陳書をしたためようにも俺の剣霊障ではわざわざ協会長の許に趣いて釈明するしか出来ん。それでは報告しようにも遅過ぎる。」

 機知に富んだ横顔をした男は動かす足を止めずに前を歩くハガンの白い項を彩る後れ毛を鑑賞していた。

「それならうってつけの者がここにおるぞ?」

 振り返りざまに左右に束ねた白銀の長い髪の先端が踊った。淑やかに舞う雪と相対して躍動感に溢れる孤を彼女の髪は描く。

「何しろは古代文字しか知らん。ハガンは少しでも霊体を保持する為に下手に労力を使わせる訳にはいかんからなぁ。」

 彼女の嬉々とした内側を具現化している様に思えたユストは平静を保ちつつ足を動かしていた。自らがうってつけの者であろうとも、彼女が少しでも柔らかな表情を作るのであれば、それで良い。

「ユスト・バレンタイン、はあなたに厄介事を押し付ける形にしてしまったのでしょうか…?」

 烏の濡れ羽色の髪を無造作に結い上げた先にある金の髪飾りの先端が揺れ、凛とした目許に困惑の色を注したハガンが振り向く。気にするな、とユストは首を横に振ってハガンの気遣いに応えた。

 普段と変わらずに鼻から出した煙草の煙は空へと掻き消された。


 ル・ゾルゾアが拝借している空き家に到着するまで五分と掛からない位置まで二人の剣霊使いと二振りの剣は歩み続けた。エジュ・エジェ市街地の目抜き通りの終着点に近い位置である。ここで王女殿下の言葉に従い、角地に構えていた露店にて剣霊たちに羽織る物を一枚づつ買い与える事となった。彼女たちの要望に沿って出来るだけ薄手で仕立てられたケープである。体温の概念とは無縁であり、剣の重量しかない彼女たちにとって防寒具とは単なる足かせとしかならない。だが、誰の目にも人間と映り、剣霊だと怪しまれない為の偽装も今回は疎かには出来ない。苦し紛れの選択の中でケープを選んだ理由をユストはイルサーシャとハガンに尋ねた。

 若かろうとそうでなかろうと、よそ行きと思われる者も、見るからに日常生活の買い出しに振り回されている者であろうと、すれ違う女は大半の者がケープを身に纏っていたのを二振りの剣霊は何気なく眺めていたという。王女殿下も然り、北部王立国家の女たちはコートよりもケープを愛用する様子である。なるほど、その土地土地の風習に溶け込もうと言う魂胆か。北部の女の嗜みを真似れば疑われる事もなかろう。ユストとル・ゾルゾアは頷き、先に露店へ足を運び入れた剣霊たちの後をのんびりと追った。

 イルサーシャは彼女が好きな色という赤味を帯びた紫色のケープを選び、の分も買って戴いても宜しいのですか、と遠慮がちなハガンには彼女が纏う薄桃色の袷と同系色となる香色こういろのケープをイルサーシャが見立てた。

「ん、ル・ゾルゾア、そなたも買うのか?」

 もの珍しい光景に遭遇したと言いたげなイルサーシャの前でル・ゾルゾアは照れ隠しのつもりなのか、口の両端を上げると共に肩を竦めた。

「あぁ。あいつの分だよ。」

「あいつとは、あなたが契約を結んだ黄金色の髪の剣霊でしょうか。」 

 黒地の滑らかな光沢が美しいケープを手にするル・ゾルゾアをハガンは自らのケープの襟許の先端に触れながら眺めていた。

「君たちだけではなく、彼女にもそれらしい格好をさせないとな。無論、無事に戻ってからの話ではあるが。」

「そうですわね。」

「見ての通り、イルサーシャはあいつとそりが合わない様子だが、ハガン、君とは上手くやっていけると俺は願うばかりだ。」

「えぇ。も黄金色の髪の剣霊とはお話をしたく思っているので。」

「ほぉ。それは俺も楽しみだな。」

 何か言いたげなハガンの可憐な指はケープの襟元の先端を弄ぶ動きを止めた。己の中で徐々に膨れ上がる想いを押さえ込めようとしている様相にその場にいる者は気付いたのであろうか。

 露店の主とその妻と思われる若い夫婦は一度に三着分のケープが売れて大そう喜んでいた。北部銀貨二十四枚、特に値切る素振りを見せずに支払った事もある。これも王女殿下のお披露目式に於ける恩恵だと夕食時に語られるのであろうとユストは丁寧に磨かれた露店のカウンターを眺めていた。

 露店を後にし、暫く進むと目抜き通りの終着点となる。往来の賑わいは皆無となり、石畳の隙間から覗かせている名も無き草花からして、それが偶然ではない事がうかがい知れる。エジュ・エジェ市街地の母体であるエジュ・エジェ城塞は数百年の時の流れを経ようとも、その姿を変えていない。敢えて言うなれば、その威厳と独特の不気味さもそのまま保持しているのであろう。生ける者の血をたらふく吸い込んでその様な色になったのか、得もいわれぬ黒ずみを帯びた岩山の肌と鈍い輝きを放つ鋼鉄の対比は見る者の背中に薄ら寒さを感じさせる。城塞中枢への出入り口であろうはがね色の門は表面の所々に錆を浮かせているが、容易く破れられない重厚な雰囲気は依然として保持していると言えよう。門の左右にはそれぞれかがり火と蒼き鎧に身を包んだ兵が対を成して立っていた。選ばれし者のみが身に着けるのを許される蒼き鎧の騎士が目下に控えている。これがイゼリアーシェ・ヴェルリンクが懸念の表情と共に語った騎士団の一員かとイルサーシャは剣霊としての視線を向けた。鞘に収めた剣の切先を地に着け、両手は柄頭に添えている。揺らめくかがり火に呼応して蒼き鎧の表面が滑らかに、そして厳かに煌いていた。

(イルサーシャ、君の気持ちも判るが、そうまじまじと見るものではないよ。)

 銜え煙草のユストは殺気を漏らさんとしているイルサーシャの腕を掴んだ。

もそうしたいところだが、この怪異な佇まいを前に戦慄を感じずにはいられん。)

 見ればハガンも普段と変わらずに両手を体の前で合わせてはいるものの、凛とした目許の奥では戦いを目前にした涼しさを携えていた。

(君たち剣霊の勘が外れると愚生は思っていないし、頼りしている。このエジュ・エジェ城塞の内部が今回の任務の主戦場となるのは凡そ見当が付く。だが今はその時ではないとも愚生の勘は囁いている。)

なぁ、と普段通りの呼び掛けをゆっくりと、わざとらしく行ったイルサーシャの視線がユストを貫いた。

(実はこやつらが急に静かになりおってな。)

 イルサーシャはこやつらと称した左右のピアスを腕を掴まれていない反対側の指を用いて交互に弾いた。二匹の黒蛇は睨みを利かせた表情を変えずにその身を揺らしている。彼女の魂魄を護る従者は常に何か語り掛けているという。静かになるのはこれまでの経験から判断するならば一つの要素へと辿り着く。見慣れたイルサーシャの緑色の瞳から真新しい存在、エジュ・エジェ城塞の中枢部へ通ずる入り口へとユストは顔を動かした。

 やはりあの神剣霊は近くで紫色の瞳に妖しい輝きを湛えているのか。北部王立国家に住まう者が剣霊を忌む様に、彼女も人間に嫌悪を抱いている。その様な者がわざわざ人間の息衝く場に身を寄せるのかと疑問も生じる。度重なる攻防が繰り広げられ、数多の命が散ったエジュ・エジェの地。その名残りの最もたる天然の要害と人間の手が加わったエジュ・エジェ要塞の物々しい表面をかがり火は陰影を与えている。

 イルサーシャは神剣霊の次姉の名を口にしない。大地の意思を語る剣霊はその姿を目で追えようとも気配までは感知出来ない。彼女たちは大自然の一部だからである。故にイルサーシャは確証が得られない以上、おいそれとその名を出さないのであろう。確証無き予測は混乱を生じさせる。誤った方向へと足を踏み入れる破目に陥る。とはいえども、とユストの中で肯定と否定、疑問と懸念が次々と生じ始めている。銜える煙草の先端が赤くなっては元の灰色へと繰り返され、やがては地に落ちた。

「さぁ、行こう。あまりじろじろと見るものではないな、今は。」

 小脇にブリスタンの為のケープを抱えたル・ゾルゾアがユストの肩を叩いた。今は、とは彼自身もこの不気味な城塞が戦いの舞台になると確信しているのであろう。銜えていた煙草を二本の指に挟み込むとユストは気を遣わせてすまないと彼の目を見ながら頷いた。

「正攻法が無理なら奇をてらえとは誰の言葉か俺は知らんが、間違いでもなかろう。今少し策を練るとするか。」

 門の左右を固める二人の蒼き兵もこちらを見ているのか判らない。否応にも目に映るものの、意識して見ているか、そうでないかではだいぶ異なる。願わくば後者であって欲しい。彼らの鎧の中央に誇らしげに掘りこまれている剣と槍を携えた龍の国章に一瞥を投げたユストは先を歩くル・ゾルゾアと二振りの剣霊の後を追った。

 足元に目を遣れば、豊かなたてがみを携えたぺべの蹄の跡は既に見当たらなかった。


 空き家と言うからには、それなりに荒廃した具合をユストは想像していた。案の定、庭の手入れは皆無であり、種々多様な草花が好き勝手に伸びていた様子が覗えた。伸びていた、と過去の表現を用いたのは今が冬であるからに他ならない。何処と無くもの悲しげな空の下で草花たちは瑞々しさとは何時の事かと乾ききった色を見せている。膝を折ったイルサーシャは興味を覚えたのか、感傷に浸りたいのか、草花へと手を伸ばす。剣霊である彼女の手の上で絶命から数週間を思わせる様子の葉は切り刻まれずに姿を保っていた。

 建屋の壁の塗装は所々が剥離し、触れれば更なる崩壊が容易に思い描ける。玄関の扉の上に掲げられたレリーフの模様から判断して、先の新聞社の社屋と同年代に建てられたのかとユストは眺めていた。その時々の流行とは興味の対象の為に存在する。本人が思うよりも記憶に残るものである。

 水分を完全に失った木製の扉の取っ手にル・ゾルゾアは手を掛けた。見た目に反して驚くほど軽いであろう扉は軽快とは必ずしも当て嵌まらない、素っ気ない音を立てながら開く。扉の奥は所々に埃を被ってはいるものの、調度品は機能を依然果たしそうな雰囲気を携えている。細身の脚に控え目な装飾が施された硬木製の食卓に、同素材で作られた四脚揃いの椅子、頑丈な造りを思わせる飾り棚には幾許かの食器が残されていた。

「暖炉に薪がそれなりに残っているのだが、これを使うと立ち上る煙が俺たちの存在を他に知られる事となる。夜は冷えるだろうが我慢してくれ。」

 扱いに馴染んだ剣の代わりに暖炉脇に立て掛けてある使い込まれた火掻き棒を利き手に持ったル・ゾルゾアは暖炉の中を数回突付いた後にユストにむけてこう語った。

 間取りは居間と寝室、書斎の三部屋である。寝室はこの空き家を発見したル・ゾルゾアに譲り、書斎をハガンへ楽な姿勢が出来る場所としてあてがった。剣霊にとって楽な姿勢とは剣体に戻る事を意味する。剣体を無闇に晒すものではないと剣霊たちは語る。例えるなら婦女が裸体を晒すのと同じだと言う。その様な彼女への配慮である。残る居間はその名の通り顔を付き合わせる場であり、ユストとイルサーシャが体を休める場所となった。

 陽が暮れる前に再び外へ赴き、必要な物を購入し終えた後、ユストとル・ゾルゾアは食卓に着いて食事を摂る事とした。食欲をそそる厚みを有したハムとチーズをイルサーシャが指一本で数枚に薄く切り、塊で手に入れたパンと干したイチジクの実をハガンの可憐な指が手頃な大きさに難無く切断する。四ヶ国それぞれ食感の好みが異なるのか、北のパンは表面が固く、中が物凄く軟らかいとハガンが教えてくれる。飾り棚の引き出しにはナイフとフォークが四客揃いで整然と並べられていた。それを発見したル・ゾルゾアは物思いに耽った表情を僅かに見せた後にフォークを二客、摘み上げた。残るユストは籐を巻きつけた保温性に優れた水筒の中身を無地の白磁のカップ二客へと少しずつ交互に注ぐ。豊かな香りが空き家の食卓を彩り始めた。ようやく温かなコーヒーに有り付ける。人知れずユストは笑みを零していた。

 剣霊使いの食事とは質素なものである。剣霊の視線と心のうちを酌んだ結果、ナイフを使えない食事となる、と言ってしまえばそれまでだが、警戒心を緩めない為でもある。襲い掛かる相手は食事中だからと待っていてはくれない。しかも満足を覚える食事となれば体が重くなり、瞬発力がものをいう判断が一時的に鈍ると言える。一時的な鈍りは誤りを生み、誤りは敗北へと誘う。敗北とは死と直結していると彼らは知っている。無論、傍らにある剣霊に護られてはいるが、時には指示を出さなければならない。その指示が常に的確である様、彼らは自らを律していた。

 切り揃えたパンの上にハムとチーズ、そしてイチジクの実を乗せた簡素な食事は完成した。ハガンの言葉通りにパンの内側の食感はとても軟らかく、適当に見繕ったハムとチーズは塩分が強く感じられる。イチジクの実がもたらす仄かな甘味が口内に広がると共に初めて北部王立国家に足を踏み入れたのだとユストは改めて実感していた。楽しみにしていたコーヒーは香りは豊かそのものだが、味は薄く感じられた。先に食べたハムとチーズの塩分がそうしているのだろうか。物足りなさは否めないものの、難くせを付けるつもりはない。降る雪との共存を余儀なくされるこの地では体を温める為の手段の一つとも考えられる。濃い味を求めるよりも多量の摂取が好まれるのであろう。

 男らしい鼻筋で立ち上る湯気を感じつつ、生活とは暫く縁遠くなっている汚れた窓へと視線を移す。外は既に吹雪いている。晴れていれば斜陽という、一日の終わりを知らせる僅かな恵みを堪能する頃合だろうか。五切れのパンを食べ終えたル・ゾルゾアは一定の間隔でコーヒーで喉を潤わせ、体を温めながら懐中時計の螺子を巻いている。二日に一度巻けば事は足りるらしい。

 二振りの剣霊はそれぞれが食材を切断した指を滑らかな布で付着物を拭き除いている。普段であれば早く拭けと無言の催促と共にユストの顔の前に指を差し出すイルサーシャだが、今回は大人しく自らの手で拭いている。彼女の対面で椅子に座るハガンを気遣ったのであろう。契約者を失った彼女の指を優しく拭ける者はいない。他の剣霊を気遣うイルサーシャは汚れが気になるのか、少々難しい顔をしながら自らの指を眺めている。その様な彼女の表情に微笑を誘われたユストも五切れ目のパンを食べ終え、銜えた煙草の先端に火を灯した。

 食後の談話に二時間ほど費やした後、各自は明日に備えて休む事とした。一番鳥が鳴いてから二時間後に居間に集まろうとル・ゾルゾアが提案し、明日の天気は快晴だとハガンが教えてくれる。げんに窓の外は静かになっている。吹く風が雲ごとエジュ・エジェの空から何処かへと押し退けたのであろう。澄んだ夜空に瞬く星々と積もった雪の輝きが夜の静寂を煌びやかに染め上げているのが汚れた窓からでも覗えた。

 ル・ゾルゾアとハガンのそれぞれが居間の扉に開閉の音を奏でさせた後、ユストは食卓の中央を飾る燭台を先程までル・ゾルゾアが座っていた側の端へと寄せた。表面の具合と手触りからして青銅製と思われる一本差しである。両手を重ねて食卓の上に置き、その上に右の頬を乗せる。全身の脱力を実感すると同時に深い溜息が漏れる。誰にも聞こえないその音の横ではイルサーシャが同じ様な格好をしていた。様な、とは彼女は左の頬を直に食卓に着けていたからに他ならない。

「ユスト、疲れたのか?」

 契約者の顔を覗き込む剣霊の緑色の瞳は僅かに揺らめく燭台の炎に呼応して様々な緑色を見せてくれる。ユストは頬の下にある人差し指の先端で食卓の表面を二回叩いた。話がしたいから体に触れろと指示を出している。イルサーシャの手は規則性無く走る傷が趣き深い食卓の上で弛緩したユストの左の二の腕を掴んだ。

(疲れた、と言うよりは眠気の方が勝っているみたいだ。)

 冴え渡る刃と同様の冷たさを有するイルサーシャの手にユストの体温が広がっている。彼の言葉はさしずめ嘘ではないと知ったイルサーシャは剣霊らしい目尻を優しく細めた。

(寝るのであればが火を消そうか?)

(いや、このままで構わないよ。)

(そうか。)

 ユストは適度な角度で開いていた両脚の先を交互に擦り付けて靴を脱ぎ捨て始めた。思えばシャルム市街地に辿り着く前日から彼は靴を履いたままである。少しでも楽な格好をしたいのだろうとイルサーシャは見て見ぬふりをした。

(君も髪を解いたらどうだ?もしやそのスタイルが気に入った、とか?)

(まさか。そなたが早く解いてくれるのをずっと待っていたのだ。)

(愚生がやるのか?)

(そなたが結んだのだ。解くのもそなたの義務だ。)

(自分で解きなよ。)

(嫌だ。)

 詮無き押し問答をさせたらどちらの主張がまかり通り、どちらの意見が敢え無く掻き消されるかをこれまでの経験からユストは熟知している。今回もそれで構わない。顔の下に埋もれていた左の手が大儀そうに右側の白銀の長い髪の一部へと伸びる。黄色いリボンの先端を二本の指で摘む。僅かな抵抗すらなくリボンは元ある形へと戻り、白銀の長い髪は深呼吸をし終えたかの様に楽な姿をユストに晒している。その先端を人差し指に巻きつける。普段と変わらぬユストの仕草にイルサーシャは今は黄昏時だと実感していた。

(先程、食事をしている際に愚生は思ったのだが…。)

(何だ、遠慮せずに言ってみろ?)

(君は食事で満足した事があるかい?)

 突拍子も無い質問にイルサーシャは早く左側の束ねた髪も元に戻して貰いたいという願望を忘れて細い眉を動かした。

(まずは何がきっかけでそう思ったのか、は知りたいのだが。)

 見れば、人差し指の周りを一握りの髪の先端が踊っている。右に巻きつけたと思えば、弾性を利用して今度は左に巻いている。ユストは心の中で思い浮かぶ言葉を出して良いのか悪いのか精査しているのだろう。

(邪剣霊は喰らいついた人間の血を平らげ、その者の心身を操る。だが君たち契約者を持つ剣霊たちは途中で口を離す。人間の性格に良し悪しはあるが、共通して食べるものは食べる。食べなければ体に力が入らない。剣霊とて同じだ。君も本当はもっと愚生の血を摂取したいのではないのだろうかと思ってね。)

(なるほどな。)

 イルサーシャは百年香の匂いを纏う髪を弄ぶユストの左の人差し指へと自らのそれを絡ませる。片方は冷たさを覚え、もう片方は温かさを感じていた。

(結論から言えば、血を摂取する事で得られる満足という概念は剣霊に無い。ただ己の身を保持する為の行為だ。それにユスト、そなたの血を全て平らげた結果なんぞは望んでいない。)

(仮に君の意思が愚生の体へ入り込み、愚生の体を操るのにどれぐらい血の量が必要なのか判るか?更にその後、愚生が元に戻れるのも条件だ。)

(おいユスト、何が言いたい?)

 契約者を愛でる剣霊の指が動きを止めた。細めていた目が女の面持ちから剣霊の表情へと移り変わった様子を知ったユストは柔らかな微笑を見せた。

(そう怖い顔をするな。仮に、と言っただろう?)

(仮にだと?その様な考えが思い浮かんだのは単なる好奇心がそうしたとは言わせんからな。)

(まぁ、もしもの時の奥の手、というところかな。)

(もしもの時なんぞあるものか。)

 経年による劣化が所々に見られる平屋だが、建てた者の気質をそのまま体現しているのか、建具を始めとして床や壁は頑丈に造られている。すきま風の侵入を許さず、食卓の端に追い遣られた燭台の炎は変わらず真っ直ぐな灯火を保ちながら蝋を減らし続けていた。

(そうだね。愚生にもまだやるべき事が残っている。)

 燭台の炎が揺れ動かない代わりにユストの人差し指から力が抜けた。温かな指は冷たい指にもたれ掛け、そのままだらりと垂れ下がる。ユストの眉間に数本の皺が走り、イルサーシャを何気なく眺めていた瞳は既に目蓋の奥へと隠れていた。睡魔に身を委ねた男の黒髪に女は手櫛を数回入れる。普段であれば彼女にとって一番優しい表情を自然と湛えながら行うが、今回はそれが出来なかった。何故出来なかったのかもイルサーシャは理解していた。

 ユストはもしもの時、と音無き言葉を語った。剣を携える者にとって、もしもの時とは遭遇してはならない場面でもある。それこそ彼が言うところのまだやるべき事を完遂はおろか、取り掛かれずに命を潰やす事となる。何が彼にそこまで言わせたのかとイルサーシャは首を捻った。エジュ・エジェ市街地に足を踏み入れて以来、ユストの言動に変化が生じているのを薄々感じてはいた。イゼリアーシェ・ヴェルリンクという、やんごとなき人物との対面による極度の緊張によるものか。剣霊の契約者という、同じ立場であるユラン・エレエの飛び込み様の一撃に対処できなかった己を悔いているのか。長い戦渦の歴史と共に歩んだエジュ・エジェ城塞が放つ異様な物々しさにハガンと同じくユストも気を当てられたのか。思えば思うほど、答えは見つからない。様様な憶測が絡まり始め、イルサーシャ自身をも取り込まんとしている。迷宮に足を踏み入れている場合ではない。気分転換のつもりで左右のピアスを弾いた時、彼女ははたと気付いた。これと同じ動作を黄昏時の少し前にエジュ・エジェ城塞中枢部の出入り口の前で行っている。彼女の魂魄を守護する二匹の黒蛇が沈黙を守り始めたと嘯いた。

「ユスト、あの剣霊に打ち勝つ為の奥の手なのか?」

 無論、返事は無い。左右の肩が均等に、緩やかに一定の間隔を崩さずに上下している。健やかであろう寝息も剣霊障の影響により音を立てていない。睡魔に身を委ねる直前の人間は本人の意図に関係無しに戯言を語るという。心の奥底に潜む蟠りが関連の無い言葉として吐き出される。蟠りか、とイルサーシャは内心で囁いた後に立ち上がった。使い古されて趣き深い鉄黒色のコートハンガーに掛かるケープを手に取る。イルサーシャの為に購入した赤味を帯びた紫色をした薄手のケープである。両手を使って丁寧に広げ、寝ているユストの両肩を包み込む。

「少しは温かいか?」

 端から返事がないのは判っている。音で出したのは己の満足を体現する為の言葉である。再びユストの隣りに腰を降ろしたイルサーシャの緑色の瞳はユストの左腕を見つけた。脱力した腕は垂れ下がり、その先にある指は機能を失ったかの様に重力に抵抗を示していない。剣体となったイルサーシャを握り、曇り無き刀身を操る為の左手が力尽きた成れ果てを思わせる様相を呈していた。

 何かの示唆だろうか。奇しくも左の手を別の言葉で奥の手とも言う。イルサーシャは首を横に振り、垂れるユストの左手を自らの膝の上に乗せた。心地良い体温を感じつつ、この地の為にわざわざ用いた黒地に黒の刺繍が走るスカーフを巻きつけた首に可憐な手を廻し、頬を密着させる。

 今頃、王女殿下も愛馬の首に腕を廻しているのだろうか、とイルサーシャは思いつつ端に追い遣られた燭台の炎を眺めていた。百年香の爽やかな匂いは寝る者が発する熱に反応して心落ち着く香りへと変化している。

 燭台の炎は相変わらず真っ直ぐであった。

 

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