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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第三章 エジュ・エジェ城塞編
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剣に愛される

 燃ゆる剣について口承の一つにこうある。

 この世のある場所で一振りの剣が鮮やかな炎を纏っていた。その名を燃ゆる剣という。ある場所とは未踏の地か、あるいは既に人間の往来として用いられている場所なのかは誰にも判らない。その剣は切先を地に潜り込ませ、堅強な鍔は過度の装飾を嫌い、渦巻く炎を彷彿させる捩れ具合を有した柄は天の一点を指していた。生ける者の如く弛まなく揺れる炎の色とは、また燃え続けている炎の下にはどの様な刀身が隠されているのか。それを知る者もいない。耳を裂かんばかりの勢いを持った風が吹こうとも体の芯に滲み込む冷たい雨に晒されようとも一振りの剣に表情を与える事は不可能という。音を立てずに、何事にも左右されずに揺らめく炎は時の流れを眺めているか、あらゆる生物の生き様を観察しているのか、ただ静かに炎を燃やし続けていた。

 この剣を見た者は大地の鼓動を思わせる揺らめきに魅了される。魅了とは手足を止め、思考を絶たれ、ただ見入る行動を指す。魅了された者が次にいだくのは興味である。自然と沸き上がる興味は魅了された者をつき動かす。

 吹く風に抗う事を忘れた花は燃ゆる剣に尋ねた、いつからそこに居るのかと。すると燃ゆる剣はこう答えた。儚き花よ聞け、大地が生まれし時からだと。燃ゆる剣の言葉に納得した花は垂れていた頭を元の位置に戻し、見るも鮮やかな大輪を大地に添えた。

 大空を自由に飛ぶ事を忘れた鳥は燃ゆる剣に尋ねた、いつまで炎を燃やし続けているのかと。すると燃ゆる剣はこう答えた。優しき鳥よ聞け、大地が滅びる時までだと。燃ゆる剣の言葉に我を取り戻した鳥は翼を羽ばたかせ、大空へと舞い上がった。

 群れからはぐれて途方に暮れた狼は燃ゆる剣に尋ねた、大地に刺さったままで不自由は無いのかと。すると燃ゆる剣はこう答えた。淋しき狼よ聞け、こうして誰もが親しみを込めて話し掛けてくれる。不自由は無いと。燃ゆる剣の言葉に勇気付けられた狼は気だるさに覆われた脚に力を込めて仲間を求めて走り去った。

 手負いとなり余命幾許もない龍は燃ゆる剣に尋ねた、何故炎を燃やし続けているのかと。すると燃ゆる剣はこう答えた。死にゆく龍よ聞け、炎とは生命の証。倦まず弛まずの炎は新たな生命を見出し、汝を傷つけし者どもを滅する。案ずる事無く安らかに眠るが良いと。燃ゆる剣の言葉に静かに耳を傾けていた龍は堅強な鱗に覆われた首を地へと着け、呻き声を上げずに澄んだ瞳に闇を与えた。

 道に迷いし人間が燃ゆる剣に尋ねた、その炎の内側を知りたいのでこの手で地から引き抜いて我が物にしても構わないかと。すると燃ゆる剣はこう答えた。欲深き人間よ聞け、この炎は愚かなる生命を抹消すべく為のもの。出来るものなら引き抜いてみろ。己の愚行に苛まれるが良いと。燃ゆる剣の言葉に挑発された人間は鼻息を荒くして誰も触れずの柄へと手を伸ばした。握り締められる距離まで近付くと共に静かに燃え続けていた炎は荒れ狂い始めた。柄へと伸ばした手から腕へ、そして肩へと炎はその使命を果たさんと燃え盛る。肌が焼ける臭気、骨が融けて気化する無惨な音の中で人間は悲鳴を上げる。助けてくれと叫んだが、燃ゆる剣は答えない。炎に包まれた人間が無へと変化するのに時間は要さなかった。

 人間の焼ける臭いを知った蝶のつがいが燃ゆる剣に尋ねた、なんて臭いだ。だが野に咲く花々の芳しさとは違う魅力を感じるが、これはあなたの手によるものかと。すると燃ゆる剣はこう答えた。流離さすらう蝶のつがいよ聞け、この臭いに興味を抱くな。これは浅知恵の持ち主の成れ果てだ。いつの日かこの臭いが大地を覆い、やがては消え去るであろう。それまで汝らは生と死を繰り返すが良いと。燃ゆる剣の言葉を理解できない蝶のつがいは揺らめく炎へと近付き、羽根を焼かれて地へと落ちた。

 酸の湖水が跳ねた。

 寂寥の中で奏でられる音とは時として妖しく艶やかに感じられた。薄闇の中で煌く有様は立ち上がった創造の剣霊インファンティラの裸体に華を添える。膝より下まで伸びた豊かな黒髪は言うまでもなく、女らしい体の線が晒されようともテウヌス・イーハンは硬い表情をそのままにしていた。

 穢れを知らず、また生気とは無縁とも言える白く華奢な肩の中央では鎖骨の織り成す窪みが深々とし、その下にある造形美を思わせる豊かな乳房が視界に飛び込んでくる。最も女らしさを語る左右の腰の線は絶妙な曲線で構成され、細過ぎず太過ぎずの太腿へと続く。どれだけ無欲の者であろうと彼女の裸体を目の当たりにしては普段よりも鼻息が荒くなるのを実感するに違いない。しかし、テウヌス・イーハンの呼吸は静かであった。何故なら彼は知っていた、目の前で裸体を晒しているのは人間の女ではないと。彼女は剣霊である。しかも強力無比の力を有する剣霊である。華麗な花には棘がつきものであり、その棘に触れようなら命を落とすという。その様な美しさに自我を失う愚かであり醜い己ではないとテウヌス・イーハンは奥歯を噛み締めていた。

「さて、心の臓が些かざわついているようだな?」

 紫色の瞳を細めて語るインファンティラの声は小さくもエジュ・エジェ城塞の最深部という空間に響き渡る。無論、テウヌス・イーハンの脳の中を縦横無尽に駆け巡っていた。

「恐らく酸の臭気による息苦しさがそうしているのでしょう。」

 尤もな意見ではあるが、それが真の原因ではないのは重々承知している。剣霊に嘘は通用しない。苦し紛れの言葉であると放った者は自覚し、聞かされた者も同様に理解している。さりとて美しき裸体を褒めちぎったところで照れ隠しの笑みを零す様な相手でもない。酸の雫が滴り、湖水の表面の上で儚げな音を奏でた。

「まぁ、よい。」

 短く鼻で笑ったインファンティラは酸の湖の中央からテウヌス・イーハンが膝を着けている淵へと歩み始めた。唯一無二の存在が脚を動かせば静かに耳を傾けていた水面はたちどころにざわつく。緩急豊かに広がる波紋はテウヌス・イーハンの映る姿をいびつに歪ませた。

「以前、そなたは国王の息子に仕えていたな。」

「えぇ。左様ですが…?」

「かの者の胸を突いた時、心の臓がの指先で激しく震えていたわ。」

「インファンティラ様、その様な過去の話を聞かせる為に我輩を呼び立てたのですか?」

「ほぉ…。」

 インファンティラの不気味な色合いをした唇が微笑の形へと変化する。あの日、あの衝撃的な出来事が分水嶺となり、その様に仕向けた彼女の唇が亡き王子殿下の血の色で化粧を施していたのをテウヌス・イーハンは思い返していた。彼は過去の話を悠然と語る剣霊に苦言を呈したのではない。彼女の言うところのざわつく心の臓の奥では国家への忠誠を捨て去った者であると証明したに過ぎない。インファンティラもその意図を汲んだ末に微笑を漏らしていた。

 テウヌス・イーハンから一メートルも離れていない所でインファンティラは脚を止めた。黒子やしみは勿論の事、体毛すら見当たらない白い肌は酸に磨かれたのか、瑞々しさを得、あらゆる生物を魅了しては息を潜ませる。流石に目のやり場に窮したテウヌス・イーハンは左脇に置いた剣へと視線を落とした。そもそも剣は酸に対する耐性は極めて低い筈である。少しでも触れれば刃は蝕まれ、剣としての命脈を絶たれる。一振りの剣を実体とする剣霊とて例外ではない。ましてや剣霊を宿らせるほどの逸品とは環境の変化に敏感であり、手入れを怠れば刀身は瓦解への道程を歩む。果たして目の前に立つ剣霊はその定義を逸脱しているのか。

「手下を斬ったか。」

 考察の時間は与えてくれない。妖しく光る剣の鞘に映り込む紫色の瞳は鮮明であり、彼女ならではの独特の雰囲気を保ち続けていた。

「言い付けを守ったに過ぎません。」

「そうか。早晩に失う命だ。気に掛ける事も無かろう。」

 この剣霊が人間を誉めたり労う訳が無いとテウヌス・イーハンは理解している。下手な期待をせずに黙々と答える騎士が纏う蒼い鎧に呼応したのか、濡れた長い黒髪は闇よりも深い色から高貴を思わせる色へと変化していた。両手を項へと廻し、凄まじき斬撃を繰り出す細く白い指がそれらを一つに束ね、水気を切り始める。滴る酸が放つ臭気はテウヌス・イーハンの鼻を突いた。

「苦しいか、人間。」

 顔をしかめるテウヌス・イーハンを見下ろすインファンティラの顔は髪を全て後ろへ撫で付けている事により彫刻の様に筋の通った鼻が強調されている。その表情に温かみは感じられない。鼻腔が悲鳴を上げるのであれば口腔で呼吸する。本能に任せた行動はテウヌス・イーハンの両肩を上下に動かした。

「インファンティラ様、我輩にはテウヌス・イーハンという名があります。剣霊であるあなた様に心を揺さぶられ、身を預けた我輩を名で呼んで戴けるのはいったい何時の事でしょうか?」

 脇に置かれた鞘から目の前に立つインファンティラへとテウヌス・イーハンは顔を向けた。悠然と腕を組む事により剣霊の張りのある乳房はその膨らみを強調されている。魅惑に溢れる谷間に酸の雫が落下し、滑らかな曲線を構成する肌の上を滑り落ちた。

「そなた、昨晩は何を喰らった?」

「は?」

「何を喰らったのかと聞いておる。」

 突拍子も無い質問は呼吸の為に開けている口を更に大きくさせ、細めていた目を見開かせた。

とりでした。とりの香草焼きでした。」

「美味かったか?」

「は、はぁ…。」

「人間とは手間を掛けないと何も喰らえない哀れな生き物だな。」

 虚を衝かれて回答に窮する姿を愉しんでいるのか、言葉通りに哀れな生き物を弄しているのか、暗い色ではあるが乳房とは異なる魅力を有する唇にインファンティラは表情を与えた。

「で、そのとりは何という名であった?」

「我輩はこれまで剣の腕に明け暮れて過ごしたのでとりには詳しくないのです。果たして何という品種かは…。」

「種類ではない、固有の名だ。」

とりに…固有の名、ですか?」

はそう尋ねたが、違う言葉に聞こえたか?」

 虚の更に虚を衝かれた。歳を重ね、それなりの経験を歩んだ男にとって動揺とは暫く縁の無い存在であった。しかしこの剣霊を前にしては只ならぬ威圧感もさる事ながら発する言葉の響きに、言葉の内容に全てを否定される。判断力の鈍化が引き起こす気だるさに身を置かれたテウヌス・イーハンは開いた口をそのままにインファンティラを見上げていた。

とりの子は卵から孵った際に生を与えた親と信じる目に映った者を追いかける。何故追いかけるのか、理由は単純にして明確だ。早く名を付けて貰いたいからだ。だが、そなたたち人間は動物の声を知ろうともしない。無論、名まで判ってしまったら下手な情が働いて屠るにも喰らうにもためらいが生じるであろうがな。」

「つまり…動物が喋る、という訳ですか?」

「左様。言い換えれば、剣霊たるにとって喰らうべき存在である人間の名など耳に入ろうとも関心には程遠いのだ。だが、この様なに自ずと名を刻ませようとする男が一人おってな。」

 インファンティラは組む腕の左の先端を上へと動かし、女らしさを前面に押し出している自らの白い肩を掴む。同時にテウヌス・イーハンを見下ろす紫色の瞳を有する目尻の切れが深くなった。

「あの者は剣に愛されし男。の妹の慈恵を心身で受け止め、の姉にも目を掛けられた。」

 感情を漏らさなかった剣霊が女の一片を思わせる仕草を躊躇なく晒している。彼女にそこまでさせる男とはどの様な者なのであろうか。テウヌス・イーハンは開いたままの口を結び直すと眉間に皺を寄せた後に言葉を発した。

「その男とはどこぞの者でしょうか?」

「剣霊の使い手という流離さすらいの身だ。今、そなたらが捕らえた金髪の剣霊を奪取せんとこのエジュ・エジェに足を踏み入れたところであろう。」

「剣霊使い…。ならばこの北部王立国家にて我輩がその男と対峙するに充分な名目がございます。必ずや手土産を持参しましょう。」

 肩を掴む細い指に力が込められている。指と指に挟まれた淑やかな肌が描く曲線が光る苔の加減なのか、生気の無い色とは異なる趣を発していた。

「手土産か。あの男はマナエグナの血を引く剣霊に愛された者だ。果たしてそなたが思い描く様に事が進むかのう?」

「マナエグナとは初めて耳にしますが、一体何でしょうか?」

「過去に独自の神を崇めた末に滅び去った人間たちの集まりに過ぎん。」

「独自の神とは…?」

 彫刻を思わせる端正な横顔が僅かに傾いた。

「時の流れと共に誰知れず忘れ去られた存在に気を揉むとはな。そなた、臆したか?」

「いや、まさか…。」

 テウヌス・イーハンは視線を左の脇へと落とした。蒼色の鞘に映り込むインファンティラの顔を掴むなり彼は立ち上がった。

「インファンティラ様より預かりしこの剣にかけて我輩に敗北という文字はございません。また今後その文字を新たに刻む事もありえません。」

 暇を弄ばせていた右手が剣の柄を握り、エジュ・エジェ城塞の最深部に鞘走りの音がひっそりと短くも長くもなく響く。まるでその音を際立たせる為に周囲は静寂を保ち続けていたかの様であった。

「人間よ、何を望んでいる?」

「強き者と刃を交えるとは騎士の誉れ。そして剣に愛されし者とは我輩一人で充分。」

 晒された刀身を包む青白い炎は騒ぎ立てずに、また萎縮する事なく燃えている。手にするテウヌス・イーハンの揺るぎない確固とした闘志に呼応しているのか、あるいは剣体を模したというインファンティラの誰にも左右できない意思を表現しているのか。

「違うであろう、そなた。」

 紫色の瞳は心の奥底で渦巻く単純であり素朴な有様をいとも容易く見抜く。その有様を言葉で表現するならば欲と言えよう。肩を掴む手をそのままにインファンティラは右手を伸ばした。かざされた燃ゆる剣の下を潜り抜け、蒼き鎧を身に着けているテウヌス・イーハンの胸部に傷一つない女の指の先端が触れる。十数年前もこの光景を目の当たりにしている。それは目の前の剣霊と初めて遭遇した時であり、エフゲニオス・ヴェルリンクが亡き者となる瞬間と同じであった。

「再び言うが、そなたら人間はにとって喰らうべき存在だ。」

 蒼き鎧が熱を帯び始めているのが判る。心落ち着く温かさを覚えるよりも劫火に身を投じる寸前を思わせる。エジュ・エジェ城塞の最深部が地下であり、内部温度が外気よりも遥かに高い事もあるが、テウヌス・イーハンは体中から汗が流れ始めているのを感じていた。

「だが、の前に手土産とやらを見事ぶら下げて来ようものなら、考えてやろう。」

「考える、とは…?」

 流れる汗が凛々しい眉を過ぎ、睫毛を経て眼孔へと伝わる。走る刺激に目を閉じたいであろうが、テウヌス・イーハンの氷色の瞳は見開いたままであった。胸部に触れている指がゆっくりと体の線をなぞりながら下がる。下腹部の手前で虜にせんと焦らす様に動く魅惑の指が離れ、インファンティラは舌を出してその先端を見せ付ける様にして舐めた。

「剣霊とは血以外も摂取せねばならんのだ。」

 不敵な微笑を見せつけた後にインファンティラは踵を返した。水気を纏った長い黒髪がしなやかに動き、生まれてはすぐに消える波紋を酸の湖水に再び描かせた。

「では剣霊狩りとやらの詳細を聞こうか。」

 薄闇の中で彼女の声が木霊し、苔たちが発する淡い光は周囲を染め上げる。燃ゆる剣を鞘に収め、テウヌス・イーハンは汗が沁みる目を拭った。

 血以外も欲する剣霊の腰と太腿は既に長い黒髪に覆われていた。


 エジュ・エジェ新聞社の出入り口に数時間前とは逆の向きで立つユストの視線は空へと注がれていた。黙々と、深々と降る雪が彼をそうさせていたのは言うまでもない。三十数年生きた男に見上げさせた空は灰色の雲に覆われている。その下では故郷の建築様式とは異なり、単一王朝の時代から数多の戦いの場となったエジュ・エジェの街が季節に準えた化粧を施し始めていた。

 化粧と言えば、少し前に同じ言葉を聞いたなとユストは思い返していた。

 夕方から近隣の市街地の代表の面々より挨拶を受け賜わる予定があり、化粧を整え直さなければならないので、とイゼリアーシェ・ヴェルリンクはクロスグリの茶を飲み干した後に腰を降ろしている一人掛けの椅子から立ち上がった。大通りに面した国営ホテルの貴賓室に宿泊しており、今後は遠慮せずに訪ねるようにと異国の者たちの前で王女殿下は両目尻の黒子に優しい表情を与えながら笑みを零した。無論、その笑みの裏では囚われの身と思われる剣霊たちを如何に救出するか協議を重ねんと物語っている。応接間の隅に備え付けられているコート掛けから保温性が良いと思われる黒いケープをユラン・エレエが外し、甘い黄金色の髪を首に一重に巻き付けている、か弱い肩へと掛けた。

「ゾルゾアさん、あなたの剣霊が戻りましたら当初にお願いしました肖像画の件、引き受けて戴けますか?」

 細身の剣の鞘を握り締める手に一瞥を与えた後にル・ゾルゾアも立ち上がった。

「俺で良ければ恐縮の至りだが、その前に王女殿下に一つお願いがあるのだが。」

「どうぞ遠慮なさらずにおっしゃって下さい。」

 濁りを知らない灰色の瞳が機知に富んだ男を見上げている。彼は緩やかな溜息を鼻から漏らした。

「あいつが消えてからどうも寝不足でな。その日はゆっくり寝させてくれないか?」

「戻り次第と早急にという意味で言った訳では有りませんが…。ご自身の剣霊の安否に気を揉む中、自分勝手な事を口にしてしまいましたね。」

「実は夢の中まで追い掛けてはあいつにぐちぐちと小言を言われているからな。」

「なんとも素敵な関係なのですね。」

 後ろから両腕を廻してケープの襟を留めるユラン・エレエの手が何かに反応したかのように動かなくなった。何気なく会話を眺めていたイルサーシャは首を傾げ、ハガンはあらぬ方向へと視線を投げていた。

「ユラン、どうかしましたか?」

「い、いえ。御支度が終わりましたら早々に戻りましょう。」

 ユラン・エレエは止めていた手を動かした。彼女の濃淡のある赤い髪は揺れず、剣の扱いを知る者としての眼差しはル・ゾルゾアを捉えていた。

「さぁ、俺たちも外の空気を吸うとするかね。」

 ル・ゾルゾアは普段よりも大きめの声と共に隣りに立つユストの背中を軽く叩いた。腹から声を出すとは殺気から逃れる手段の一つとして当て嵌まる。なるほど、そういうことか、とユラン・エレエが殺気を放つ理由を朧気ながらも判り始めていたユストは応接間の扉の取っ手に手を掛けた。丁番の擦れる鈍い音が鳴り止むと共に廊下の冷たい空気がユストの頬を撫で、イルサーシャが纏う百年香の爽やかな香りが応接間に仄かに舞う。有難うございます、とイゼリアーシェ・ヴェルリンクは頷き、その後ろをユラン・エレエが続く。黒地の布を巻き着けた両腕がユストの前を通り過ぎた後に彼はコートに腕を通した。

 頬に雪が落ちた。その冷たさはイルサーシャの体温に似ている。雪は融けるが剣霊は刀身の輝きに似ていつまでも冷たい。応接間を後にする際に手袋を嵌め直した手首にその感触が走った。

(なぁユスト、も馬に乗ってみたい。)

 いつまでも冷たい彼女が発した内なる声はいつになく覇気が感じられなかった。雪模様の下に晒されているのを嫌っている様子でもない。ほんの些細な願望を語る女とは我を忘れ、遠い眼差しをその対象へと向ける。ユストは彼女の視線の先へと顔を動かした。王女殿下が愛馬の傍らに立ち、何やら話し掛けている。その隣りでは世話役が手綱を握り締め、力を込めている様子が伺えた。

(君と同じであのぺべという馬もちょっと我が侭を通しているのか、あるいは単に具合が悪いのか。どうも芳しくない様子だね。)

 豊かなたてがみを携えたペベは座り込んだまま動かずにいる。艶光りする栗色のたてがみは所々に雪で化粧を施し、吐く息も化粧に呼応してか柔らかな白色をしていた。

(ぺべはともかく、まで我が侭とは随分な言い方だな?)

(どうやって君を馬に乗せてあげようか思い描いてはいるが、どうもぱっとしなくてね。)

(例えば…そなたが馬の背に跨って、その前にが跨るというのはどうだ?)

(それでは揺れると同時に君の足が馬の腹を割いてしまうよ。)

(そうか?)

(あぁ。君とて自らの起因で馬が苦しむのを見たくはないだろう?)

 ユストの手首を掴むイルサーシャの指の先端が不規則な孤を描き始めている。空いている側の手でコートの襟を立てた後に、ユストはイルサーシャの冷たい手に自らの首筋に触れて間もない、仄かな温かみを有した指を添えた。

(それはさておき、愚生としてはお困りの王女殿下をそろそろお助けするのが先だと思うよ。)

 豊かなたてがみを携えたぺべが座り込んでいる理由をイルサーシャは知っているとユストは捉えていた。その理由を王女殿下に伝えれば事は解決へと向かう。無理に手綱を引かずとも利口な馬は背を預ける者の意思に従うものである。女らしさを充分に思わせる手の甲に触れていた指が離れ、華奢な肩を叩く。行ってあげなさいと優しく目尻を細めるユストを前にイルサーシャは断るどころか、普段の様に我を通すすべを忘れていた。

「困った事にぺべが言う事を聴かない様ですわね。」

 王女殿下から数歩後ろの位置で事の様子を眺めていたハガンは歩み寄るイルサーシャに気付き、耳元で囁く。降る雪の下でハガンの白い項が晒され、無造作に結い上げた髪を留める金の髪飾りが暗い空に彩を与えていた。

「ん、まぁ、見ておれ。」

 小声には小声で応じる。加えて普段であれば自己顕示欲の象徴である微笑を漏らすイルサーシャであったが、今回は平静な表情を保っている。ユスト・バレンタインに何か言われたのか、と王女殿下の許へと足を動かすイルサーシャの背中にハガンは両手を体の前で重ねたまま怪訝な眼差しを送っていた。

 彼女が歩けば腰より下まで伸びた白銀の長い髪が揺らめき、百年香の爽やかな匂いが周囲に華を添える。イゼリアーシェ・ヴェルリンクとユラン・エレエが顔を向けたのは言うまでも無く、豊かなたてがみを携えたぺべは地に着けていた顔をそのままに鼻から白い息を吐いた。

「おいぺべ、朗報だ。今夜、そなたの為に姫君が添い寝してくれるそうだ。」

 臆さずに馬の正面に立った剣霊は右の人差し指を裏返し、わざとらしく王女殿下を示す。豊かなたてがみが目許を覆っている為にイルサーシャの言葉に対する表情を伺えないが、ぺべは垂れていた両耳をぴんと立ち上がらせた。

「剣霊、何を言い出すかと思ったら添い寝だと?イゼリアーシェ様にうまやで一晩過ごせとでも?」

 イルサーシャの突拍子も無い意見はユラン・エレエに手にする手綱から眉間へと力を込めさせた。

「そうだ。簡単にして単純であろう?」

「ふざけた事を。」

 吐き捨てる様に語るユラン・エレエを一瞥した後にイルサーシャは膝を着いたイゼリアーシェ・ヴェルリンクの横に並んだ。

「首に腕を廻してたてがみに手櫛を入れながら一緒に寝れば済む話だ。可能であるのならばがそうしてやりたいが、剣霊である以上そうも出来ん。無論、姫君がやらなければ意味が無いのだが…。」

 イゼリアーシェ・ヴェルリンクは豊かなたてがみを携えたペベの頼れんばかりに隆々とした首を擦っている。ご機嫌取りを続ける手を休めずに王女殿下は口を開いた。

「イルサーシャさん、どうしてわたくしの馬の名を知っているのですか?」

「剣霊は個々にちょっとした能力があってな。の場合は馬の気持ちが読める。因みに彼女は自らの名を気に入っているようだ。」

「そうでしたか。」

「あぁ。だがは兎の気持ちは読めん。ましてや命絶えた者が今何を考えているか誰とて判らん。」

 イゼリアーシェ・ヴェルリンクは趣き深い目を見開いていた。心の奥底に仕舞いこんだ、誰にも触れさせてはならないものをいとも簡単に鷲掴みにされたと言わんばかりの面持ちはイルサーシャの目尻を更に切れ長にさせた。

「ぺべがに教えてくれたのだ。」

 柔らかな雪は相変わらず静かに舞う中、豊かなたてがみを携えたペベが動かない理由は嫉妬に囚われた結果だとイルサーシャは言葉を続けた。ではその嫉妬の対象とは何か。イゼリアーシェ・ヴェルリンクの今亡き愛玩であったノウサギに他ならない。イゼリアーシェ・ヴェルリンクは生有る者には語らず、命絶えた者に語り掛け続けてきた。嫉妬にも二種類が存在する。一つは我を忘れる怒りの原動力となり、もう一つは深い悲しみに打ち拉がれる要因となる。幸いな事に豊かなたてがみを携えたペベが抱く嫉妬とは後者に身を置いており、救いの手を差し伸べる機会はまだ充分残されているとイルサーシャは語った。

「ぺべがその様な想いを抱いていたとは…。わたくしの至らない点が露呈してしまいましたね。」

 イゼリアーシェ・ヴェルリンクはペベの首に触れていたままの手を上へと動かし、豊かなたてがみに手櫛を入れた。掻き上げる動作と共にそれまで隠れていた目が露となる。背を預ける者と瞳の色は違うものの、濁りの無さは同じであった。

「なに、動物が嫉妬を生じるとは純粋に心から頼りにしている証拠。姫君は動物に頼られて幸せな人物だ。」

「判りました。イルサーシャさんのおっしゃる通り、今晩はぺべと一緒に過ごします。」

「お互いに良い夢をみれる様にも陰ながら祈ろう。」

 自然な形で口角を上へと持ち上げたイルサーシャは普段の癖でもある左の横髪を耳に掛ける。有るべき場所を提供してくれる者が柔らかな表情を見せようとも、鎌首をもたげた黒蛇のピアスは撒き散らさんばかりの睥睨を保ち続けていた。

「そろそろ起き上がったらどうだ、ぺべ。今宵は淋しい思いをさせないと約束した姫君にいつまで膝を冷たい地に着けさせている気だ?」

 一振りの剣霊の言葉に一頭の馬は鼻を鳴らして応えた。無駄を省いた脚に力が込められ、地の上で模様を描いていたたてがみが真っ直ぐとなり、晒された目は再び隠れる。楽にしていた姿勢から本来の優雅な立ち姿へと戻った。またその内面も萎れたものから活力あるものへと様変わりしたのが判る。革製の鞍からぶら下がる金属製の鐙を利用してイゼリアーシェ・ヴェルリンクはペベの背へと身を移した。王女殿下とはいえ、彼女は騎士でもある。その軽やかであり鮮やかな身のこなしはイルサーシャに感心の眼差しを作らせた。

「イルサーシャさん、いろいろと気付かせて戴き感謝しております。ところでお召し物一枚でお寒くありませんか?」

「剣は汗をかくことも無ければ凍える事も無いのだが。」

「他国ではそれで良いのでしょうが、ここエジュ・エジェは北部王立国家です。剣霊と疑われない為にももう一枚羽織られるのが宜しいかと存じますが。」

「そうだな。後でユストに何かしら用意させるとしよう。」

「あと、御自慢の髪ですが、外では結いた方が…。」

「んん。それもユストにやらせるとするか。」

 一時の開放感をまだ堪能していたいと言わんばかりの表情と共にイルサーシャは踵を返すとユストに近付くなり彼の目の前で背中を向けた。コートのポケットに手を入れずに後ろに回していたユストとは対照的にイルサーシャは腕を組み、早くの髪を結わけと手短な言葉で催促をする。豊かなたてがみを携えたペベと比べるものではないが、ユストも鼻から白い息が漏らした。仕方ないと溜息を吐いたのをその場にいる者たちは気付いていた。

 彼女に触れる事が可能である唯一の手が白銀の長い髪の上に付着した雪を丁寧に払い除ける。その儚い煌きはユストが纏うコートの裾へと落ち、融けずに様々な形の結晶を保ち続けていた。雪の結晶という大自然の気まぐれが生み出した世界とは剣霊と似ているとユストは思いながら手を動かす。雪の結晶も剣霊も僅かな狂いすら生じさせずに左右対称である。だが、人間とは必ずしも左右対称とは言い切れない。姿かたちもそうだが、その胸裏に至ってはいびつと言う表現が思い浮かぶ。

 イルサーシャの脳天に小指の先端を当て、後頭部の中心に沿いながら項へ向けて移動させる。目分量ではあるが、左右に分けた白銀の髪をそれぞれの肩の上を経て前へと垂らす。イルサーシャに人差し指を出すように伝えると、ユストはコートのポケットから黄色いリボンを取り出した。先の贈り物の包装に使われていたものである。暗い空と舞うように降る雪、そして白銀の長い髪と白い肌、黒い髪と黒いコートといった二系統の色が織り成す世界の中で黄色いリボンは剣霊の人差し指によって音も無く二つに分断される。左右に分けられた白銀の長い髪が黄色いリボンを用いて束ねられた。

 髪を結わくのは終わったと大人しくしていた両肩にユストの頼れる温かな手が添えられる。イルサーシャのか細く冷たい手が左右に分けられた髪の先端を交互に詰り、幾許かの緊張と不安から開放された背をユストの前面へと寄り掛けさせた。尖り過ぎず丸まり過ぎずの顎を上へ向け、これでは少々幼げに見えないか、とイルサーシャはユストの顔を見上げながら不満を漏らしたが、透かし彫りが施された棒差込み式の銀の髪飾りを着けている時よりも眉間に寄らしている皺の数は遥かに少なく、そして皺の深さは明らかに浅かった。

 肌触りの良い絹製の白地に黒の幾何学模様が描かれたドレスが暖かな黒いコートに密着している。そこに走る皺は誰の目からしてもとても柔らかであった。

「とてもお似合いですよ、イルサーシャさん。」

 一人の男と一振りの剣霊のやりとりの一部始終を眺めていたイゼリアーシェ・ヴェルリンクはユラン・エレエから手渡された黒い革製の手袋を嵌めると愛馬を操る手綱を握り締めた。降る雪が王女殿下の長い睫毛の上へと舞い降りている。彼女の髪と同じく柔らかで甘い白金色の睫毛に乗った雪は融けずに結晶を保っている。それは淋しき心を温めんとしているのか、わだかまる淋しさを助長させようとしているのか本人にしか判らない。

「馬上にて失礼します。」

 軽い会釈を行った後にイゼリアーシェ・ヴェルリンクは豊かなたてがみを携えたぺべの腹を鐙越しの足で軽く叩いた。ユラン・エレエも自らの主が会釈をした以上、倣わなければならないと剣士の目をそのままにその場にいた者たちに頭を下げる。ル・ゾルゾアは顎鬚を詰りながら、ハガンは両手を体の前で重ねたまま同じく頭を下げて応えた。

「ねぇ、ユラン。」

 二人の男と二振りの剣霊の姿が見えなくなった後にイゼリアーシェ・ヴェルリンクはこう切り出した。雪の降る微細な音、豊かなたてがみを携えたぺべの蹄が奏でる大地を蹴る音の中で、彼女の声色は明るくも暗くも無かった。

わたくしはあの子たち以外の剣霊に初めて出会い、言葉を交わしました。そしてユラン、あなた以外の剣霊使いとも膝を突き合せました。その中でわたくしは何度も同じ言葉が喉から出そうになったのを必死に堪えていたのです。」

 幸いにも目に映る街を歩く者も数えて片手で済む程度であり、馬上の人物が王女殿下だと気付かれる心配も無用と思われる。故にイゼリアーシェ・ヴェルリンクは空の下で剣霊とその使い手についての所感を述べ始めたのであろう。大衆の前で彼女が国家として忌むべき存在の名を語るのは避けるべきであるが、ユラン・エレエは黙ったまま耳を傾けていた。引き綱を握る手に力は込められず、緩やかな弛みを描いている。馬上にある王女殿下の首に緩やかに一重に巻き付けた髪の先端が揺れていた。

「騎士と剣霊使いの違いをわたくしは知ってしまいました。」

 イゼリアーシェ・ヴェルリンクは視線を変えずに騎士として剣の柄を握るべき右手が手綱を離し、揺れる髪の先端を摘んだ。それはつい先程、一振りの剣霊が行った動作と同じである。単に白銀の長い髪の持ち主の仕草を倣っただけではない。剣霊の中で思い描かれていた感情を少しでも実感してみたいという衝動によるものだとユラン・エレエは理解していた。

「イゼリアーシェ様、ホテルに着きましたらお着替えの前に湯浴びをされては如何でしょうか。」

「それには些か時間が早いとわたくしは思いますが…。」

「わたしが心身をほぐして差し上げます。」

「えぇ…。そうね、そうして頂戴。」

 騎士は手にする剣を選び、剣霊使いは手にすべき剣により選ばれし者である。広義では剣霊と契約を結んだ者と言われるが、契約とは万感の信頼を以て初めて取り交わされる。万感の信頼とは自らの全てをなげうとうとも後悔を生じさせない想いと表現出来よう。それを人々は愛と呼ぶ。人智を超越した能力を有する剣霊に愛されし者を剣霊使いとするならば、イゼリアーシェ・ヴェルリンクはそれを理解したと言いたかったのか。またそれを騎士である自らの立場として羨んだのか。その答えは一組の剣霊と剣霊使いを眺める眼差しが全てを物語っていた。王者の涙相を持つ彼女の濁りの無い灰色の瞳に映っていたのは剣に愛されし男と剣として愛を注ぎ、剣として愛を実感する女に他ならなかった。

 髪の先端を詰る指が手綱へと今有るべき場所に戻る。腰から下げた細身の剣が豊かなたてがみを携えたぺべの歩調に合わせて一定の間隔で揺れていた。

 清廉な趣を有する鞘の上に雪が落ち、融けて雫となった。

 

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