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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第三章 エジュ・エジェ城塞編
39/75

邂逅の時

 北部王立国家の軍隊と聞かされて諸国の者が真っ先に思い浮かべるのは騎士の存在である。遠からぬ未来にその騎士たちに号令を下す権利を約束された人物が今、目の前で剣の柄頭に両手を添えて革張りの独り掛けの椅子に腰を降ろしている。普段の様に脚を組まずに背筋を伸ばしているユストの左側ではイルサーシャがいつもと変わらず掌で肘を包み込む様にして腕を組んで立っていた。それとなしに話が長くなるのが予測出来る。手持ち無沙汰の際に横髪を耳に掛ける動作を彼女は髪に触れる直前で止めた。ユストが口に拳の側面を当てながら誰にも聞こえない咳払いをしたからである。王女殿下の話をきちんと聞く様に、と注意を促したのであろう。代わりに左右のピアスを素早く弾いた彼女はハガンに倣ったのか、両手を体の前で重ねてユストの思惑に応えた。

 騎士国家。それは北部王立国家の別称でもあるとイゼリアーシェ・ヴェルリンクは語った。世襲制による国王たるヴェルリンク家を頂点とした騎士を中心として構成され、その数は国内総人口の五割に及ぶ。ただ、二人に一人が軍属の者という訳ではない。騎士とは国家の始祖たるカルラン・ヴェルリンクの時代から北部王立国家に籍を置く者に与えられ、あるいは他国出身であろうとも国家に多大な功績を残した者への名誉として贈られる称号として用いられている。実際に国の為に馬を駆り、腰に携えた剣に矜持を示すべき現役の兵はその半数にも満たないと言われている。

 過去にこの大陸全土に於いて単一国家として覇を唱えたのはトウラドオク王朝のみである。歴代の王の中でもノイ・トウラドオクは北の地が生み出した稀代の英雄と言っても誰も異論を述べまい。回顧的妄想では無いが、手段や内容は別として、偉業を成し遂げた先人に対する憧憬は幾星霜を経て北部王立国家に属する者たちの胸裏を確実に占めるに至った。端的な表現を用いるのであれば、武人の誉れと言えようか。

 その武人の誉れとは生きる支えであり、誇示する為にもある。諸国に住まう者たちは彼らに畏怖の念を抱き、そして認めた。今の四ヶ国の均衡を形成する要素の一つとみて間違いは無かろう。

 しかし、それらは人間にのみ該当する。他の生物や魔物と呼ばれる存在には関係ない。食うか食われるかの世界に生きる者たちにとって崇高な理念や高尚な気概など理解する余裕は皆無に等しい。そして人間に似て非なる存在、剣霊に於いては理解していようとも無用なものと一笑に付すに違いない。

 血に飢えた狂猛な刃と化した剣霊は欲するままに人間の血を喰らう。血のみではない、彼らが胸に抱く希望や理想をもことごとく無惨な姿を晒さんと喰らう。人間の命とはその者の為ではなく他の為に存在する。つまり一つの絶命は多数の悲しみを産み出す。悲しみは憤りの温床と化し、人知れず蓄積された憤りはゆっくりと渦を巻きながら開放される機会を眈々と伺っていた。いや、伺っていた訳ではない。北部王立国家の者たちは渦巻く憤りを制し、己の感情を日々押し殺していた。

 しかし、時が訪れた。ユストたちの目の前で物静かに語るイゼリアーシェ・ヴェルリンクの兄の死に他ならない。欲のままに放った邪剣霊の一閃は北部王立国家に住まう者の憤りを制する堰を切ってしまった。一度切られた堰は元に戻らず、濁流の如き勢いは衰えを知らずに周囲を巻き込んでは道を作り上げる。道とは何か。共通の敵を滅せなければ明日の安寧は失われる。国家を想う者、一族を重んじる者、家族を愛する者は武器を取れと檄が飛び交い、誰もが疑わずに利き手に得物を掴み始めた。北部王立国家内に存在する剣霊とは善しも悪しも関係無く粛清の対象となった。

「そこまでは異国出身の俺ですら知っている内容だ。それでどうやって剣霊を倒すんだ?契約を結んでいない人間が剣霊を剣や槍の一撃で仕留められるものかね?」

 貴人の前であろうとも脚を組んだままのル・ゾルゾアが程好く伸びている顎鬚を二本の指で詰りながら質問を投げる。彼は一撃で、と口にした。それ以外の結果では剣霊を仕留めるとは程遠く、己が傷付くのが目に見えている。日々剣霊と共にし、邪剣霊を狩るのを生業としている者なら知識や経験よりも肌でそれを理解している。触れる数多の生物を切り裂く剣霊の体。人間にとって全身全霊の力と技を以て剣霊を仕留めなければならない中、剣霊としては単に人間に触れれば事が済む。同じ結果を導くにあたり、こうも立場と視点が異なるのを北部王立国家に住まう者たち、王女殿下は理解しているのか、とユストは思った。

「気休めかもしれませんが…。」

 イゼリアーシェ・ヴェルリンクは剣霊使いと称される者たちの疑問を払拭せんと動いた。首に一重に巻き付けている甘い白金色の髪の先端が揺れると共に両手の下でしずませていた細身の剣の質素過ぎず、また豪奢過ぎずの鞘の中頃を握り締めると板張りの床に水平にして腕を伸ばした。

「剣霊のお二方、わたくしの剣に触れて戴けませんか?」

 利き手であろう右の五指が柄に触れ、鞘に納まっていた刀身が姿を現す。蒼色としろがね色が融合した世界を織り成す刃が冷えつつある室内で澄んだ輝きを余す事無く放っている。気品と威厳を兼ね備えた佇まいに目にした誰もが言葉を失うであろう。実際にイルサーシャとハガンは目許に表情を与え、感心の色を差していた。

「イルサーシャさん、どうぞ。」

 イゼリアーシェ・ヴェルリンクの促す声はイルサーシャにユストへと視線を向けさせた。是非を伺う自らの剣に指示を与えるのも剣霊使いの役目である。ここは疑う事無く王女殿下の意向に添う様にとユストは静かに頷く。契約者の首を覆う黒地に黒の刺繍を施したスカーフに規則性の無い皺が数本走ってはすぐさま消えたのを見届けたイルサーシャは一歩前へ進む。彼女は左の横髪を耳に掛ける手癖を今回は逆に行った。白銀の長い髪だからこそ描く事が可能な唯一の孤が宙を舞い、煌く先端が露となった細身の剣の切先を目掛けて落ちる。これが単なる女の髪であれば切先を覆う様に音無くもたれ掛けるか、場合によっては切断されるかのどちらかと言える。だが、百年香の爽やかな香りを纏うイルサーシャの髪は違う。強固な物質同士がぶつかり合い、甲高く乾いた響きが応接間の空気を震わせた。

「ほぉ。なかなかだな。」

 イルサーシャの言うなかなかとは姿を現した刀身の硬度に対する評価であろう。あるいは全てを切り裂く剣霊の一部である長い髪が舞おうとも、微動だにせずに腕を伸ばしていたイゼリアーシェ・ヴェルリンクの胆力への賛辞か。そなたも触れてみろと顔をやや傾けたイルサーシャはハガンに向けて顎をしゃくったが、品の良い趣の剣霊は首を横に振って答えた。

「今の音で凡そ判りました。王女殿下、どうぞ剣をお納め下さいな。」

 凛とした目許に柔らかさを湛えたハガンは体の前で重ねていた両手の上側をイゼリアーシェ・ヴェルリンクに差し出した。大気をも二つに分断する凄まじき斬撃を繰り出すハガンの手が剣の扱いについて優しく諭している。王位を継ぐ者が易々と剣を鞘から抜くべきではない。そう読み取ったのか、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは王者の涙相に気恥ずかしさを浮かべながら刀身を露にした剣を鞘へと戻した。

 王女殿下が手にする細身の剣は今亡き母方の祖父が孫娘の将来を案じて打たせた一振りという。彼女がユストたちの前で鞘から剣を抜いたのは刀身の硬度を実感させる為である。北部王立国家の騎士たちが手にする剣に用いられる材質とは砂鉄と偶然に出土した名の知れぬ金属との混合物だとイゼリアーシェ・ヴェルリンクは語った。鍛えに鍛えた刀身が放ったあの不思議な色合い。魅惑的なしろがねの輝きは不純物を除去された鉄が作り出し、幻想的な蒼の煌きは名の知れぬ金属がもたらした。剣霊であるイルサーシャにしてなかなかと言わせた硬度を保つのに名の知れぬ金属は不可欠なのであろう。その場にいる者たちを魅了した輝きを有する刀身が鞘に納まる姿を見届けながらユストはそう考えていた。流石に工法や混合物の配分までを王女殿下が知る訳が無い。ただ、その名の知れぬ金属を用いて北部王立国家は新たな装備を作り出したのを彼女は誰よりも早く聞かされた。蒼き鎧である。従来の装備と同等の重量で遥かに凌ぐ硬度を有する装備は剣霊を仕留める為の必需品となり、騎士の中でも勇猛な精神と巧みな剣術を持ち合わせる有能な者のみに着用を許される。これまでの記録では邪剣霊と一対一で対峙して敗北は皆無と言われている。持久戦に持ち込めば飢えて体力を消耗した剣霊と強靭な肉体の人間との戦いは歴然たる結果が期待出来るであろう。

としてはどうも釈然としないな。単にやぶれかぶれな戦い方ではないか。」

 聞いて損したと言わんばかりに呆れ顔のイルサーシャを諌めようとユストが彼女の腰へと手を伸ばす中、ル・ゾルゾアが身を乗り出してイルサーシャの顔を覗き込んだ。

「過程ではない。結果だよ、イルサーシャ。如何に被害を出さずに勝利を収めるかは戦いの中の基本だ。」

「そうか?」

「あぁ。」

「それでもとしては一撃で…。」

 ル・ゾルゾアは顎鬚を詰るのを止め、語るのを中断させようと指を鳴らした。ぱちんと短く鳴った警鐘に意識を傾けるイルサーシャを見つめるル・ゾルゾアの眼差しは憂慮の色で表面を覆われていた。

「その一撃というのが君たち剣霊の美学なのは百も承知だ。ただ、言い換えれば一撃で結果を手繰り寄せなければ君は蒼き鎧の騎士の前で思わしくない結果を受け入れる事となる。」

が手篭めにされるとでも?聞き捨てならんな。」

「恐らく蒼き鎧の騎士は剣霊の弱点を熟知している。度重ねた戦いで得た情報を共有しているとなれば…。」

 敗北という言葉を使わなかったのは他の剣霊の矜持を逆撫でしまいとする剣霊使いの配慮であるとユストは見ていた。それでも憮然とした様子のイルサーシャを横目にル・ゾルゾアは体の向きをイゼリアーシェ・ヴェルリンクへと変えた。

「えぇ。イルサーシャさん、ハガンさん。あなた方はわたくしが腰を降ろしているこの椅子よりも遥かに軽い。剣と変わらぬ重量とお見受けしましたが…。」

 イゼリアーシェ・ヴェルリンクが手にする細身の剣の鞘が柔らかに鈍く輝いている。少々のためらいを交えながら意中を語ったと代弁しているかの様な煌きにル・ゾルゾアは鼻から深い溜息を漏らし、ユストへと顔を向けた。予想通りの答えが返ってきたな、と言わんばかりに表情を変えずにである。ユストもそれぞれの膝の上に置いていた手を体の前で組み合わせると、静かに頷いた。

 実戦とは縁が無い者、いや、あってはならない者までもが剣霊の弱点を知っている。相手は類稀な硬度を有する鎧に護られた騎士であり、鎧を身に着けるとはそれなりの腕力や脚力を要求される。鍛え上げられた者が刃に頼らずに殴打による攻撃を仕掛けるとなれば、剣霊たちは防御に徹するしかない。一撃で相手を切り伏せる剣霊にとって斬撃を食い止められるとはそれまで培ってきた自尊心に亀裂を生じさせられ、さらに防御に廻るとは自己顕示欲を無碍に踏みにじられる事を意味する。果たしてその様な状況に置かれたイルサーシャは、とユストの中で深い霧が垂れ込めようとしていた。剣霊が能力を発揮出来ずに敗北を甘受するのであれば、それは契約者の誤りと言える。しかし今回は能力を発揮しようとも敗北を喫するという結果が待ち構えているのではなかろうか。打開策はないものかと逸る気持ちがユストを俯きがちにさせた。目の前のセンターテーブルの表面がユストの思惑を撫でる様に視界に飛び込んでくる。質素な木目は一定方向に筋を形成している。色濃く浮き出た筋は徐々に薄くなり、端まで届かずに消滅していた。

「で、姫君、その蒼き鎧を身に着けた騎士とはいかほどの数なのだ?」

 もの思いにふけるユストの意識をこちらへ向けようと試みたのか、イルサーシャが口を開いた。二十名と簡潔かつ明確な回答に対してその数が多いのか少ないのかはユストとル・ゾルゾアの物差しでは判断しかねる。ただ判るのは相対する状況に陥った時、やはり自らも何かしらの犠牲を強いられるという事か。

「その二十名のうちに話が判る者はいないか?俺としてはこの場にいる剣霊たちに実力行使をさせたくない。ユスト・バレンタインも俺と同じ考えの筈だ。」

 ル・ゾルゾアの提案にユストも頷いて答え、剣霊使いと呼ばれる男たちの視線はイゼリアーシェ・ヴェルリンクへと向けられた。剣の扱いを知る者、剣に認められた者の真摯な眼差しを正面から受けた王者の涙相は如何様に応じるのか。僅かな時を置いて、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは手にする細身の剣の柄の中頃へと濁りとは無縁の灰色の瞳を落としながら年頃の女特有の瑞々しく健康的な色合いの唇を動かした。

「蒼き鎧の騎士を統べるのはテウヌス・イーハンという男です。彼はわたくしの父である国王陛下の信頼も厚いのですが、なによりも彼は可愛がっていた妹を過去に邪剣霊の手に掛かって失っているのです。」

「なるほど。統べる者からして到底応じそうにないという訳か。」

 再び鼻から深い溜息を漏らしたル・ゾルゾアの表情を確かめようとイゼリアーシェ・ヴェルリンクは落としていた濁りとは無縁の灰色の瞳を上へと持ち上げる。思慮に染まった男の横顔を目の当たりにした王女殿下の視線は横へとずれた。

「蒼き鎧を纏う騎士とは北部に住まう者の総意と言っても過言ではないとわたくしは考えています。残念ながらゾルゾアさんの提案に耳を傾ける者は無きに等しいでしょう。ですが、わたくしが直接テウヌス・イーハンに話をすれば…。」

 話とは明後日に行われる剣霊狩りを止めさせる事だとイゼリアーシェ・ヴェルリンクは語った。聞きなれない単語は壮絶且つ凄惨な有様を容易く想像させた。狩る側が狩られる側に廻る。げんにイルサーシャとハガンは剣霊らしい細い眉に僅かにも表情を与えていた。それは戦慄と高揚が織り成した結果であろう。

「イゼリアーシェ様、なりません。あの男、表面ではヴェルリンク家に忠誠を誓おうとも腹のうちはどうも解せません。むしろ表面とは真逆の事を企んでいるとしかわたしは思えないのです。」

 先程まで黙って聞いていたユラン・エレエの脳天よりやや後ろで束ねた二色の赤い髪が揺れた。ユストとル・ゾルゾアを前にした険しさは消え、妹の早まった行動を諌める姉の趣が感じ取れる。姉と妹か、とユストは己の中で呟いた。抗いを許さずに全てを包み込むミゼレレの哀れみに富んだ面影を思い浮かべれば、人間を拒絶し枯渇する事の無い絶大な力を繰り出すインファンティラの冷たい紫色の瞳による見下ろす視線が脳裏を掠める。いや、今はあの神剣霊たちは関係無い、とユストは剣を握るべき左手を握り締め、その無駄に力が込められている様子をイルサーシャの緑色の瞳は静かに見つめていた。

「ユラン、あなたの意見は判ります。あの子たちは勿論のこと、ゾルゾアさんの剣霊の消息を掴むのが最優先とわたくしは考えます。ヴェルリンクの名の許に於いて他国の方にこれ以上ご迷惑をお掛けする訳にはいきません。」

「王女殿下のお気持ちに甘えるのは俺としては心苦しいが、その解決策となるとやはりテウヌス・イーハンとやらを関わらせないとならないのか…。」

 話が前へと進まなくなった。それぞれが最善と思われるであろう手段を探しあぐむ中、イルサーシャの暇を弄ばせている手がユストの肩へと触れた。

(なぁユスト、そなたから言いたい事が有るのなら、が一字一句変えずに代弁するが、どうだろうか?)

(無いよ、今のところは。)

(ふうん。)

(何か言いたげだね?)

(そなた、実は何か別の事を考えていたのであろう?)

 物静かにしている肩の上でか細い人差し指が一定の調子で動き、退屈だと訴えていた。

(まぁ、今回は愚生と君が追われる身なのだな、と思っていたところだ。)

(立場が変わろうともやる事は何も変わらん。立ちはだかる困難を斬り払うだけだが。)

(君はそれを大勢の前で出来るか?しかも君の言う困難の対象はこれまでとは違う。)

(どう違うというのだ?)

(邪剣霊や魔物ではない、相手は人間だ。)

 邪剣霊や魔物は戦いに於いて己の力に実直であり、人間は策を張り巡らして挑んでくるとユストは言いたいのだろうとイルサーシャは思った。

(だが普段と何も変わらん。変える訳にはいかん。は契約者を護るだけだ。)

 イルサーシャが冷たい色の唇に不敵な微笑を与えると同時に応接室の扉が軽快な音を奏でた。まるでユストとイルサーシャの音無き会話が終わるのを待っていたかの時機である。構わん、とユラン・エレエが口だけ動かして手短に答えると、数秒遅れて今度は真鍮製の丁番が軋むぎこちない音が響く。姿を見せたのはユストたちが今いるエジュ・エジェ新聞社に足を踏み入れた際に出会い、応接室まで案内した従業員と思われる男であった。

「お口に合うか判りませんが、どうぞおくつろぎ下さい。」

 律儀にも両手でしっかりと持つ木製のトレーの上には白磁のカップとソーサーが六客、整然と並べられていた。淡い青色と群青色、そして紫色を用いて野に咲く花々を線画で所狭しと表現している。本来ならばこの社屋で従事している女性に運ばせても良かったのだが、彼は事前にユストから銀貨を一枚受け取っている。それはただの銀貨ではない。四ヶ国の国章が刻まれた銀貨であればこそ彼にそこまでさせたと言えた。

「配膳はわたしが行う。ご苦労だった。」

 ユラン・エレエの右の人差し指の先端がセンターテーブルを示している。相変わらず男には素っ気無い口調である。女として見られるのを嫌う余程の気丈夫なのか、王女殿下の世話役という職務を淡々とこなしているだけなのか、剣を携える者の有無を言わさぬ眼差しを知った従業員と思われる男は素直に彼女の指示通りに動いた。

「お気遣い有難うございます。どうぞお仕事にお戻り下さい。」

 麗しい唇の両端を柔らかに持ち上げながら語る王女殿下の言葉に身を屈めた従業員と思われる男は幾分救われたであろう。彼もにこやかな笑みを返そうと試みた。だが、目の前で清廉な鞘を有した細身の剣の柄頭に両手を乗せた次期王位後継者の灰色の瞳を知るなり、それは出来なかった。立ち上がり、一礼をした後に彼は再び丁番の軋む音を応接間に響かせながら姿を消した。

 ユラン・エレエはセンターテーブルの上に置かれたトレーをそのまま時計回りに半回転させた後に白磁のカップとソーサーを手に取り始めた。始めはイゼリアーシェ・ヴェルリンクの前に置き、次はル・ゾルゾア、そしてユストへと配ると僅かな時を置いてイルサーシャとハガンの分を並べた。彼女も剣霊使いである。剣霊が茶を飲む習慣が無い事を知っているが故に配膳すべきかどうか躊躇いが生じたのであろう。

「ル・ゾルゾア、まずは貴様から先に口を付けろ。」

 ユラン・エレエは毒見役に顎鬚が印象深い機知に富んだ男を選んだ。抵抗は何も生まず、また目の前の女流剣士は自らの役目をまっとうしているだけだと知る彼は組んでいる脚を入れ替えた後、自分の為に置かれたカップの取っ手へと剣を握る為の右手を伸ばす。東部出身の彼は起伏の富んだ男らしい喉を北部の王女殿下に遠慮する事無く晒した。

「クロスグリの風味がよく効いた茶だ。これは冷めない内に飲み干すべきだぞ。」

 持ち前の程好い低さの声で感嘆を伝えるル・ゾルゾアは臆せずに毒見役を引き受けた。それから十数秒の間を置いてユラン・エレエは両手を体の後に回したままイゼリアーシェ・ヴェルリンクの耳元で何か囁いた。毒にも種類がある。大まかに分ければ即効性と遅効性の二種類と言える。先の十数秒の間はこのどちらにも当て嵌まらないと判断に有する時間であった。

「ゾルゾアさん、有難うございます。外で飲食をする際は普段でしたらあの子たちが教えてくれるのですが、今はそうも出来ないので…。」

「構わんよ。」

 手短に答えたル・ゾルゾアは既に二口目の茶を堪能している。仮に口に含むべきではない状態であったのであればイルサーシャとハガンが真っ先に止めたであろう。イゼリアーシェ・ヴェルリンクが薄いカップの縁に麗しい唇を触れさせた後にユラン・エレエとユストは目の前に置かれたカップへと手を伸ばした。

「クロスグリと言えば、わたくしがまだ幼かった頃、存命中の兄に手を引かれ王城から少し離れた山へ一緒に摘みに赴いた事があります。歩き疲れたわたくしを兄は嫌な顔をせずに背負ってくれました。あの広くて頼れる背中に頬を付ければ、あっという間に眠りに落ちたものです。」

 きっかけとは些細なもので済む。茶の香りを楽しむ王女殿下の表情は柔らかい。両手で包む様にカップを持つのは茶の温かさを実感する為であり、過去との邂逅という淡い思いに身を寄せていた。邪剣霊の一閃で命を落としたと言われる兄は成人を迎えた妹の姿を想像していたであろうか。また、その姿は亡き自らに代わって王位後継者として立派に歩む覚悟を心に深く刻むと想い描いたであろうか。黒と茶の融合した世界に視線を落としていたユストは己の中で払拭出来ない事柄が徐々に膨らみつつあるのを実感していた。どうも先程から姉妹やら兄妹という言葉を思い浮かばされる。その度に神剣霊の二つの眼差しが蘇る。今回の任務に彼女たちが関わっている可能性は低いと思われるが、剣士としての勘が何かを訴え掛けているのだろうかとも考えられる。勘とは無碍に出来ない能力であり、生死の狭間を潜り抜ける指針でもある。果たして今この場で勘という囁きに耳を傾けるべきなのだろうか、と独り考え込むユストの肩に再びイルサーシャの手が触れた。

「早く飲め。ユストだけだぞ、口を付けていないのは。」

 わざわざ声に出したのはユラン・エレエを牽制する意図であろう。単なる思い過ごしで済んで欲しいものだ、とユストは己の中で呟き、クロスグリの茶と共に自らの懸念を飲み込んだ。


 エジュ・エジェ城塞建造当時の姿を知る人間は既にこの世にはいない。記述による記録もさながら、景観図等も残されていない為、今となっては想像の世界での話となる。逆を語るならば、当時の者たちは粛々と垂れ落ちる酸の雫が作り上げた空間を想定したであろうか。人間の感性及び手作業では決して成し遂げられない造形。不規則である故に艶やかな曲線が構成され、薄闇の中でも曇り一つ無い瑞々しい輝きは見る者を放心へと誘う。大自然の気まぐれが織り成す景色とは誰の為のものか。少なくとも人間の為ではないとこれから会う者は語るであろうとテウヌス・イーハンは思った。

 城砦地下の深部では酸の雫が溜まり、小さな湖を形成していると言われる。無論、その場所へはおいそれと赴く事は出来ない。酸の臭気が充満した空間は生物を拒む。だが、そこへ足を運ぶ様にと、これから会う者は指示を下した。

「イーハン団長、これより先は王族の許可無しに立ち入る事を禁じられておりますが…。」

 考え事をしているかの如く俯きながら歩いていたテウヌス・イーハンに見張りの兵がやや困った表情で口を開く。彼も蒼き鎧の騎士の一人であり、テウヌス・イーハンを団長と崇める者である。

「実は王女殿下が明日この奥へ参られたいと申されてな。ただ、か細い女性の身の安全を鑑みれば事前にどれだけ危険な場所なのか把握しておかなければならないと進言したところ、ならばその身を以て確かめておけ、と命を受けたのだ。」

「その様な事情があったとは。王女殿下の命とは知らずに失礼しました。」

「君は自らの職務をまっとうすべく我輩に忠告したのだ。気にするな。」

 氷の冷たさを思わせる青い瞳の端にある目尻に数本の皺を寄せたテウヌス・イーハンは止めていた脚を動かした。見張りの兵の横に並ぶなり、国家に忠誠を誓う肩に手甲越しの手を乗せた。

「その様な君に折り入ってお願いがあるのだが、捕らえている剣霊に我々蒼き騎士の一人が倒された。騎士として戦いに於いて立派に殉じたと遺族に伝える様、早々に手筈を取ってくれないか。」

「畏まりました。捕らえている剣霊への制裁は如何様にしますか?」

「何もせずに現状のままで良い。弱りきるのも既に時間の問題だ。」

「では早速…。」

 疑う事を知らない見張りの兵が敬礼を行う姿を横目で見たテウヌス・イーハンは手短な答礼し、両肩から垂れる黒地のマントをはためかせながら先へと進む。彼の足跡を残さぬようにと酸の雫が滴り、硬い床を打つ具足の味気ない音の仲に儚い響きが混ざる。二つの音色は調和を奏でない。やがて具足の味気ない音が遠ざかり、普段と同じく酸の雫のみの響きとなる。見張りの兵は団長の姿が薄闇の奥へと吸い込まれるまで敬礼を続けていた。

 深部へと進めば進むほど、滑らかであり硬質な床は不気味な化粧を施していた。無数の線で構成されたうねる模様は人間を拒む顕れの如く大きく大胆に、そして神秘的な形を所狭しと表現していた。薄闇の中で酸の雫を栄養源としている苔がそれまでまばらに生息していたが、明らかに増えている。げんに床を打つ具足の音が短く詰まったものへと変化し始めていた。

 この先に何が有るのか。短く詰まった音はテウヌス・イーハンの今ある心境を代弁していた。目の前に広がるであろう景色に心を震わせる余裕は持ち合わせていない。目的地へと進む道程は過去の出来事を思い返す機会を与えていた。

 当時、北部王立国家の誰もがイゼリアーシェ・ヴェルリンクの兄であるエフゲニオス・ヴェルリンクの将来に期待を寄せていた。博学才頴とは彼の為に用意された言葉であり、知的な横顔を持つ若き王位後継者は剣の扱いも巧者の域に達していた人物であった。また彼は自らは王位を継ぐ者と憚らずに周りにいる者によく声を掛けていた。誰もが好感を抱く人物はある日、鹿狩りの共をしてくれないかと一人の青年の肩を後ろから優しく二回叩いた。その青年とは代々王家に仕えた血筋ではあるが、特にこれといった功績に恵まれず、日々淡々と剣の腕に磨きを掛けていたテウヌス・イーハンである。特段押し付ける訳でもなく、誘う様な雰囲気で語る姿を前にしては断りようが無い。

しんの様な若輩者に声を掛けて戴き身に余る光栄ですが、王子殿下が思い描かれている結果を導けるか自信がございません。」

「なに、そうも畏まらんでも。剣技が曇らない様にと勤しむのは良き事だが、たまには気分転換も必要だと思ってな。」

「とは言え、しんでは役不足ではございませんか?」

「御身は騎士の血を代々引く男。共をするに充分過ぎる条件だとわたくしは思うが、どうだろうか?」

 たとえ相手が王家の者である点もあるが、成人して間もない男に指図を受けようとも嫌な思いはしなかった。むしろ声を掛けられた事に喜びを感じていた。王子殿下は鍛錬に励む我輩を遠目で見守って下さっていたのだと己の中で呟いたテウヌス・イーハンは腰に下げている剣を外し、片膝を着いて臣下の礼をとった。満足げに頷く今亡き王位後継者の清々しい表情を最後に見たのは実は若きテウヌス・イーハンであったのかもしれない。

 鹿狩りの当日は秋にしては強い日差しの日であった。王都から南へ十キロと少々離れた林道は我先にとのびた針葉樹に覆われて日差しを遮り、肌寒さを時折覚える。北部王立国家が樹立してから間もなくに整備されたと言われる林道は利用する機会に恵まれなくなったのか、所々に大きな石が転がり、朽ちた倒木が横たわっていた。時の経過と共に人間の手が行き届かなくなった世界に住まう者は姿を現すのだろうか。仮に魔物と遭遇しようとも騎上にあるエフゲニオス・ヴェルリンクの周りを六名の騎士で固めている。果たして六名という数字が多いのか少ないのかは判らないが、その中でも一番格下であったテウヌス・イーハンにとっては頼れる五名であった。

 エフゲニオス・ヴェルリンクを背に乗せた馬が何本目かの倒木を跨いだ先で一頭の鹿を発見した。林道の薄暗い中で褐色の毛が映える鹿は地に生える草を食べている。冬を越す準備に夢中なのか、普段は見掛ける事の無い侵入者たちに気付いていない。エフゲニオス・ヴェルリンクは左手にある弓を持ち替え、腰から下げている矢筒の先端へと右手を動かす。動物は人間よりも聴覚に秀でている。僅かな音から気配を察し、殺気を読んだ鹿は草を食べるのを止めると首を持ち上げた。だが命を狙う人間たちにつぶらな瞳を向けず、あらぬ方向を凝視している。何処を見ていると騎士たちの間で疑問が生じると同時にエフゲニオス・ヴェルリンクが跨る馬が座り込んだ。調教の行き届いた駿馬ではあるものの、手綱をどう動かそうともエフゲニオス・ヴェルリンクの意思に従う素振リすら見せない。鼻を強く鳴らした細長く端正な顔は鹿と同じ方角へと向けている。予想だに出来ない状況の中、動物たちが見つめる先から音が聞こえ始めた。何かが近寄っているのは判るものの足音ではない、布が地に擦れる音、衣擦れの音だと気付いた騎士の一人が腰に佩く剣の柄へと手を掛ける。心地良さの中に背筋にざわつきを覚える響きが大きくなるにつれ、手足が硬直したかの様に動かなくなり、鉛の様に重く感じる。急激に渇く喉を潤そうと唾を飲み込む音が異様に大きく聞こえた。

 衣擦れの音を発していたのは一人の女であった。膝より下まで伸びた黒い髪を垂らし、丹念に磨かれた彫刻を思わせる白い肌の上には赤と黒の世界が描かれたドレスを纏っている。いや女ではない、剣霊だと騎士たちは束ねていない髪とあまりにも整った顔立ちから瞬時に判断した。これが剣霊か、とテウヌス・イーハンは初めて遭遇する存在の涼しげであり圧倒的な雰囲気に呑み込まれまいと奥歯を噛み締める。エフゲニオス・ヴェルリンクを護るべく六名の騎士は硬直した体に喝を入れんと雄叫びを発し、柄に掛けていた右手の上腕部の筋肉を隆起させた。同時に剣霊は眉間に力を入れ、紫色の瞳を中央に置く流麗な目尻を細くさせる。太陽の恵みが遮られた林道の中、六本の剣が奏でる鞘走りの響きは聞こえず、鞘から刀身を覗かせた瞬間に柄の根元から砕け散る無惨な音が木霊した。

「鹿を狩るか。人間ども、たまにはそなたたちが狩られる側になってみるのもよかろう。」

 剣霊が発した声は落ち着きを払っている様子もあるが女の低めのそれであり、よく通る。いや、通ると表現するよりも皮膚という皮膚を通じて脳の中で縦横無尽に迸った。邪剣霊は人間の言葉を語れないと通説になっているが、この剣霊は違う。頼りとする剣を失った事実よりも遭遇してはならない存在に鉢合わせてしまったとしか言い様の無い状況に騎士たちは慄いた。

「剣霊よ、我々は何もしない。このまま見逃して貰えないだろうか?」

 座り込んだ馬から下りたエフゲニオス・ヴェルリンクは敵意の無い証として手に持つ弓を地へと投げ、腰にある矢筒を外す。囲む六人の騎士の間を悠然と歩み、剣霊の前にその身を晒した。

「そなた、あの鹿が同じ事を言ったとしたらどうしていた?」

「鹿は喋らん。」

「そうか。大地の覇者を称する者らしい回答だ。」

 剣霊は鹿に向けていた紫色の瞳をエフゲニオス・ヴェルリンクへ移すと目尻を更に細くさせる。そこには感心よりも侮蔑の趣が添えられていた。

「ならばは人間の言葉は聞こえないとしよう。」

 膝より下にある黒の長い髪が薄暗い林道の中で孤を描き始めた。あまりにも優雅な広がり様はテウヌス・イーハンに戦意を喪失させ、茫然と見入らせた。その横では動脈が裂け、鮮血が飛沫を上げる。剣霊が繰り出す目にも留まらぬ斬撃は次々と騎士の急所を確実に薙ぎ、断末魔を響かせる猶予すら与えない。剣と槍を持つ龍の国章が描かれた鎧が縦へ横へと分断される。一人は前のめりに倒れ、一人は立ったまま絶命となり、三人は斬撃の勢いに圧されて屈強な身を紙切れの如く二つへと裂かれた。

「おのれ、剣霊!」

 弓を捨てようとも腰に佩く剣はそのままであった。エフゲニオス・ヴェルリンクは怒りに任せて剣を抜くと騎士たちの仇である剣霊の首を目掛けて横薙ぎの一閃を放つ。膝より下にある黒の長い髪が静寂を保ち、座り込んだ馬が再び鼻を鳴らす。裂く音は響かずに、貫く音が轟いた。剣霊は左の指三本で放たれた剣の切先を摘んで動きを止めさせ、右の五指をエフゲニオス・ヴェルリンクの胸板の中央へと潜り込ませていた。

 王子殿下が為止められた。我輩に声を掛けてくれた王子殿下が剣霊の一撃に屈した。込上がる恐怖と憤怒が剣を失い、そしてただ一人生き残ったテウヌス・イーハンに拳を作らせ、王位後継者に手を掛けようとも表情に変化を与えない剣霊の横顔を目掛けて死にもの狂いの叫びを発しながら腕を振りかざす。剣霊は実体である剣と同じ重量と教えられている。ならば手甲を嵌めた拳であれば傷を負う可能性は有りながらも一矢報いる事が出来る筈である。いや、筈であってはならない、必ずそうなると自らを鼓舞するテウヌス・イーハンを紫色の瞳が貫いた。

「静かにしろ、人間。」

 鳥は鳴かず、風も吹いていない。血に染まった右の五指を引き抜いた剣霊が纏うドレスの衣擦れの音だけが耳に纏わり付く。整った顔がエフゲニオス・ヴェルリンクの胸板へと近付いた。半開きの唇が絶え間なく滴る鮮血の奥を求めている。乾いた身に潤いを与えんと、飢えに支配された心に歓喜を味わわせんとする剣霊の唇は男の欲望すら凌駕する生々しさを露にしていた。

 剣霊は食事を始めた。肩を鷲掴みにし、腰に腕を廻して食事の提供者の体を支えている。恋焦がれた女が男に情けを求める姿に似てはいるが、そこに愛は感じ取れない。何故なら誰にも触れさせた事が無いと思われる白い喉が不気味な音を薄暗い林道に響かせていたからである。目は閉じず僅かに細めたのみであり、依然としてテウヌス・イーハンを見据えていた。剣霊に見つめられるとこうも体の自由を奪われるのか、とテウヌス・イーハンは額を止めなく流れる汗を拭わずに四股に力を込める。やはり動かない。その事実は絶命という辛酸を舐めさせられるのかと無念が生じると共に一つの疑問を芽生えさせた。今まで教わってきた剣霊の特徴とは偽りだったのか。間違った教えの為に日々鍛錬に明け暮れたのか。打つ手も無く王子殿下は変わり果てた姿となってしまった。やり場の無い憤りがふつふつと沸き立つ横では亡きエフゲニオス・ヴェルリンクの肌が剣霊のそれと同じ色へと変化し始めている。相手が悪かったとは言いたくない。感情を漏らさない澄み渡る紫色の瞳へテウヌス・イーハンは氷の冷たさを思わせる青い瞳で睨み返した。

 貴人であろうとそうでなかろうと血の色とは同じである。国家の希望を一身に集めていた気高き胸板から唯一無二の色に染め上がった剣霊の唇が離れた。

「そなた、剣霊が憎いか。これまでの己に憤るか。そして関わった人間どもの浅知恵に辟易を覚えたか。」

 脳を揺さぶる声の持ち主は心の内を的確に読んでいる。嘘偽りはすぐに見破られるだろう。だが、今はそのようなものを必要としなかった。

「…そうだ。」

 体の自由は奪われようとも、口は不思議と自然と動いた。木々に囲まれている為か、風は吹かない。薄暗く、湿り気を感じられない重苦しい空気は乾燥したテウヌス・イーハンの心境を具現化しているのか。数日後には落ちるであろう赤や黄の葉は微動だにせず、仕留められていたであろう鹿は依然つぶらな瞳を剣霊に向け、背を預ける者を失った馬は静かにしている。この場にいるあらゆる生命が剣霊の一挙一動に自ずと意識を傾けていた。

「ほぉ。」

 剣霊は導かれるまま答えたテウヌス・イーハンを見据えていた紫色の瞳を持つ目尻の先端に僅かな表情を与えると、地に転がる刃を失った剣の柄を指差した。

に向けて投げろ。」

 テウヌス・イーハンは拳を作り上げていた右手を使って剣霊の意思に従った。流れる血の全てを失ったエフゲニオス・ヴェルリンクから体を離した剣霊は回転しながら放物線を描く剣の柄を掴み取る。用済みの亡骸が糸の切れた人形の様に地に崩れ落ちる中、右の腰から左の肩へと刃無き剣で斜めに切り上げた。刀身が無かろうと剣霊が放つ斬撃に凄まじさは健在であった。衝撃で仰け反るエフゲニオス・ヴェルリンクの体に無惨にも刻まれた傷から血飛沫が上がっていたとなればテウヌス・イーハンは目を見開いて驚愕の表情を作り上げていたかもしれない。だが、彼は眉一つ動かさず、剣霊が手にする剣だけを見つめていた。

 刀身を折られた剣は新たな息吹を与えられていた。陽光を跳ね返す輝きは皆無に等しく、騎士としての矜持を示すべき清廉な面影は持ち合わせていない。そこにあるのは抗う者の戦意を喪失させ、容赦なく服従させる青白き炎であった。

「この男はそなたたち人間の言うところの邪剣霊の手に掛かって亡き者となった、であれば生き残ったそなたとて言を左右にする必要も無かろう。」

 剣霊は剣を握る、先程までエフゲニオス・ヴェルリンクの心臓の鼓動を余す事無く吟味していた五指を楽にさせた。青白き炎は目視が不可能な切先から音を立てずに地に刺さる。剣霊は踵を返した。膝より下まで伸びている黒い髪が緩やかに踊り、赤と黒の世界が広がるドレスの裾が何事も無かったかの様にひっそりとした空気の中で心地良い衣擦れを奏でる。数歩進んだところで剣霊は振り向かずに言葉を発した。

「その剣はを模したものだ。そなたに預けるが、決して他の者に見られるな。」

 地に刺さる剣はまるで端からその場に存在していたかの様に孤高の炎を静かに、絶やさずに燃やし続けている。

「もし見られたら…?」

 剣霊を振り向かそうと試みたのかは今となっては覚えていない。覚えているのは剣霊の放つ強大な威圧感に呑み込まれまいと無理矢理薄ら笑いを浮かべた事か。それはごく短い時間であった。厳密には短い時間にさせられたと言えよう。

「こうすれば良いだけの事。簡単であろうに。」

 エフゲニオス・ヴェルリンクの亡骸が再び仰け反った。先程の斬撃とは対照に右の肩から左の腰へと刀傷が走っている。

「あともう一つ。剣霊…いや、御身の名を教えて欲しい。」

 衣擦れが止み、剣霊は彫刻の様な端正な顔を横へと向ける。血で化粧を施した唇が動いた。剣霊が自らを名乗ると共に、座り込んでいたエフゲニオス・ヴェルリンクの馬が立ち上がり、微動だにしなかった鹿は木々の奥へと姿を消した。

 酸の臭いが強くなり、テウヌス・イーハンは過去との邂逅に浸る時間から我に返った。単なる一本道とは言えどもどれほど進んだのかと疑問を覚える中、水の音が聞こえた。雫が奏でる響きではない。溜まった水が弾け、蒼き騎士の団長を手招きしている。水の音に誘われる様にテウヌス・イーハンは脚を動かす。苔の光りが徐々に強くなり、目の前に広がる光景は薄闇とは無縁の場所であった。

 エジュ・エジェ城塞の最深部と思われる広大な空洞は酸の湖を形成し、その中央では女が沐浴を愉しんでいる。テウヌス・イーハンをこの場へと呼びつけた者は恥らう事無く裸体を晒していた。水面の上で放射状に広がる長い黒髪が艶やかに映え、彫刻の様に端正であり生気とは無縁の白い顔を厳かに彩らせている。あの時、今亡き王位後継者の心臓を貫いて気高き血を平らげた剣霊の容姿に衰えは感じられない。むしろ見る者を呑み込む紫色の瞳は以前よりも力強さを備えていた。

 テウヌス・イーハンは彼女から預けられた剣を腰から外すと生い茂る苔の上へと置き、自らも片膝を着けた。青白き炎を纏う剣を収めた鞘が苔の光りを吸収し、幻想的な色合いを醸し出す。その色合いは人間の思惑と同じく単色では表現不可能であった。

 口承のみで実際の姿を何人なんぴとたりとも知りえない燃ゆる剣を剣体とする創造の剣霊インファンティラは満足とも不満とも捉えられない表情をしていた。


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