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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第三章 エジュ・エジェ城塞編
38/75

命を削る女

 あれは今から五年余り前の出来事だった。穏やかに吹く風が肌を何気なく撫で、悪戯を試みる様に髪を掬う日であったと覚えている。

 バレンタイン上級近衛兵。誰もが敬意と親しみ、そして頼れる者へ注ぐ眼差しで三十歳に手が届かんとしているゲルハルステンの青年をこう呼んだであろう。あろうとはその日が昇格試験当日であったからに他ならない。一等近衛兵から上級近衛兵になれば恩給の増加が約束され、国から馬を貸与される。どの様な毛色の馬を与えられるかと逸る楽しみはともかく、悠々と蹄の音を奏でる馬の背を跨ぐ自らの姿を父母に見せたかった。

 同世代の中で出世頭という立場には遠いが、特段不満や負い目を感じる事は無かった。国家の為と、そこまで愛国心に燃える人間ではないと自覚している。しかし、世間の為となるのであれば進んできた道を誇るつもりは無いが、恥じる必要も無い。国家銀行に勤務する父は息子が軍属の立場になる事を反対し、それを宥める母の姿と言葉は今でも脳裏の片隅を占めている。

 あなた、ユストももう大人ですから。彼の決めた道にあれこれ口を出すのは止めましょう。

 彼女は艶のある黒い髪を普段と同じくやや左側で一つに束ね、細めた目尻に母の気品と女の健気さを湛えていた。母を健気と思ったかと人知れず自嘲を零したのは今となっては驕りが過ぎていたのかもしれない。

 常に理解してくれる母と感じていたが、腹を痛めて産んだ一人息子が軍属へと進むのを喜ぶだろうか。答えは否である。中央王立国家は他国と交戦状態には無かったが、一朝有事の際は命を投げ出さなければならない。あの感慨深い目尻は尊ぶべき母の覚悟が滲み出た結果と気付いたのは皮肉にも故郷の政治体制が様変わりした後に他ならない。

 馬術考査を終えた次は剣技考査へと進む。対する相手は昨年に上級近衛兵に昇進した同僚である。逞しい体格の上、陽に焼けた肌が健康的で明朗な青年だと誰もが思うであろう。本来ならば偽りの刃とはいえども同僚とは剣戟を交わしたくなかった。何故なら軍属になってから彼とは苦楽を共にしてきたからだ。だが、これは昇格試験である。なにも相手の生命は勿論の事、近衛兵としての命脈を絶たせる訳ではない。訓練用に作られた刀身が細いサーベルの潰された刃を眺めれば幾ばくか気が楽になった。

 そうだ、あの頃は命の遣り取りとは無縁であった。相手の剣を自らの剣で受け止める。その繰り返しを行い、体力の消耗を計り、決めの一手を打ち込む。対する相手も同じ事を考えている。流れる汗を拭う暇も無く、ひたすら攻め、あるいは守る。不屈の持久力がものをいう世界だった。

 一撃必殺とは対極の位置に立っていた。肌に研ぎ澄まされた刃が吸い込まれる微細な触覚、血肉をまるで生い茂った雑草を掻き分けるが如く左右に分断する感触、堅牢な骨の組織を瞬時に破砕へと追い遣る手応え。血と脂をその時々に不均等に混ぜ合わされて構成された液体が冷たい輝きを放つ刃の上を流れ落ちようとも表情が変わらなくなった、いや、変え方を忘れるまでに至るとはあの頃の自らは僅かであろうとも想像したであろうか。

 国家の崩壊はそれまでの人生に終焉を迎えさせ、新たな人生へといざなった。心身を寄せ、安らぎを見出す場所は国家ではなく、共にある家族や同僚との何気ない会話ではなくなった。人間の魂が剣と融合した存在と言われ、人智を遥かに凌ぐ存在である剣霊の加護を受け、また剣霊の抱く矜持を護り、生死を分かつ一撃と隣り合わせに独りで歩む。剣霊と契約を結んだ者、あるいは結ばされた者と世間は声を潜めながら卑下と怪訝を雁字搦がんじがらめにした視線を背中に向けて投げ掛けてくる。だが、その様な物も慣れた。強いて言うなれば、どうでも良い。剣霊使いと呼ばれて五年の歳月が音を立てずに粛々と流れ去った。

「ユスト、何を呆けている!」

 契約者の心臓を狙った打撃に身を挺したイルサーシャは束ねていた白銀の長い髪をすかさず元の形へと戻した。彼女なりに戦いに臨む万全の姿勢をとったのであろう。彼女の素早い動作に比例しているのか、棒差し式の髪留めが板貼りの床の上で弾けた音を合図に、開放された刀身を象徴する剣霊の髪は冷たくも厳かに煌く刃を思わせる軌跡を優雅に描き、遅れて百年香の爽やかな香りが周囲にいる者の鼻腔をくすぐった。

「剣霊、この国に於いておおやけの前で束ねた髪を解く意味を貴様は知っているか?」

 女は艶やかさとは少々掛け離れた健康的な色の唇を失笑の形へと歪ませていた。吐く息は弾んでいる。勢い余す事無く繰り出した拳を急に静止させた為に体内の血流が暴れているのか。或いはこれから始まろうとしている戦いに血潮が嘶いているのか。

「知っているとも。だが、剣霊の髪は人間の女のそれとは異なっていてな。」

 負けずとイルサーシャも冷たい色の唇に不敵な微笑を与えていた。

「ほぉ。どう異なる?」

「前に立つ者に己の全てを伝える為ではない。後ろに立つ者の全てを護る為だ。」

 女はイルサーシャが髪を束ねていようとも剣霊だと一目で見抜いた。それゆえなのか、イルサーシャの剣霊としての証でもある誰にも侵しようの無い視線を全身に浴びせられようとも平然としている。大概の者なら鋭利な刃を喉許に突き付けられた様な感覚を否応にも味わわせられる。飲むべき唾は枯れ果て、代わりに背中や脇に止め処なく流れる汗が伝わり、四股は意思に関係なく自由を失う。端的な表現をするならば、生きた心地がしない筈である。

 女は繰り出した拳をそのままに睨み返さずに、細めた双眸から涼やかな眼差しを目前のイルサーシャへ、そして狙うべきユストへと注いでいる。数多あまたの戦いを肌で感じ取り、潜り抜けた者は目に感情を表さない。表せば心の内を読まれる。心の内とは剣を携える者が一閃を放つ時機である。

 時は止まらない。そうと判っている。だがこの事実に逆らうかの如く空気は流れず、緊迫した状況に身を晒していた。ユストは勿論の事、イルサーシャも動かない。女が繰り出した拳は微動だにせず、腕を覆う黒い布がまるで流れる時間を止めているのではと錯覚を感じる程の静寂が広がろうとしていた。

「退け、剣霊。」

 脳天から後部で束ねた深い赤と淡い赤の髪の先端が踊る。発した言葉を強調するかの様に女は顎を斜め上へとしゃくった。

「退けと言われて退く馬鹿がいるか。」

「剣霊が香を嗜むか。これは…百年香だな?」

「あぁ、そうだ。」

「剣霊、先程の礼だ。百年香の意味を知っているか?」

「さぁな。」

「死者の魂に安らぎを与え、あの世へとやらへ導く香りだ。」

「ぬかせ。」

 相手は女とは言え、背の高さはユストとほぼ同じである。見上げるまではいかないものの、両腕を真横へと広げたイルサーシャの顎は僅かに上へと角度を付けている。彼女が纏う絹の生地の上で白銀の長い髪が滑らかな音を奏でた。

 ハガンは両手を体の前で重ねたまま凛とした目許を保ち、革張りのソファに座るル・ゾルゾアは機知に富んだ目を細めている。戦いを知る者であり、命の遣り取りを潜り抜けた者たちは濃淡のある赤い髪と白銀の長い髪の激突をただ静かに見守っていた。

 誰がこの張り詰めた空気に動きを与えるのか。ユストの思惑を介せずに窓から差し込む陽光が遮られた。窓の許の椅子に身を預けていた者が腰を上げたからに他ならない。若い女の落ち着いた声が応接間の中で響いた。

「そこまでです、ユラン。」

 若い女の声の主は右の手に鞘の様子からして洗練された細身の剣を握っていた。しとやかさを彩る静穏と生来より備わっている威厳を同居させた衣擦れを奏でながら彼女はおもむろにユストたちへと近付き、深い赤と淡い赤の二つの色を持つ長い髪を一つに束ねた女、ユラン・エレエの肩に剣の鞘を握り締めていない側の手を置いた。

「ユラン、こちらの方々はゾルゾアさんを訪ねに足を運ばれたのです。手出しは無用です。」

 立ち襟に包まれた白い首許の周りを緩やかに一重に巻き付けている甘い白金色の髪はイルサーシャの白銀の髪と対を成さんと陽光を受け止め、吸い込んでいる。左右の目尻の下にある黒子が印象深い面立ちはその場に居る者全ての意識を独占し、視線を動かなくさせていた。

「恐らくわたくしの用事よりも意義が有り、早急を要する深刻な内容なのでしょう。」

 この人物が赤い鳩による指示に記されていた渦中となる人物かとユストは音無き息を漏らした。それは感嘆を交えた鼻息であり、髪の色合いや黒子の有無、剣霊らしい鋭い目尻こそ違うが、自らが頼りとする剣霊と同じ顔立ちがもたらした結果であった。

 柔らかで甘い白金色の髪を持つ女は濁りとは無縁の灰色の瞳を柔らかにさせて再び口を開いた。

「申し遅れました。わたくしはイゼリアーシェ・ヴェルリンクと申します。わたくしの世話役が無礼を働いた点、どうぞご容赦いただけないでしょうか。」

 彼女は名乗ったのみで自らの立場を語っていない。だがヴェルリンクという姓は北部王立国家を束ねる者の血統を表し、ましてや昨日のお披露目から時間がそう経過していない。次期王位後継者を目の前にした誰もが膝を着くであろう。例え他国出身の者であっても止ん事無き生まれの人物の前で平然と立ち、しかも謝意を述べる以上の事をさせる訳にはいかない。ユストは前に立つイルサーシャの両肩を掴んで横に退けると深々と頭を垂れた。

「お言葉ですが、イゼリアーシェ様、この者たちは…。」

 拳を作り上げた伸びきる直前の左腕をそのままにユラン・エレエは口を開いたが、自らの肩に置かれた手が優しく動く様を知るなり言葉を呑み込んだ。

「えぇ、わたくしには判ります。ユランと同じ立場の様ですね。」

 頭を垂れたユストへ元の位置へ戻すようにとイゼリアーシェ・ヴェルリンクは伝えた。濁りとは無縁の灰色の瞳はユストの首に巻かれたスカーフを一瞥すると革張りのソファの背もたれに腕を投げて拳と剣が激突せんとしていた一部始終を眺めていたル・ゾルゾアへと向けられた。

「ゾルゾアさんも実は剣霊協会の方、とお見受けしますが…?」

「王女殿下、何故判った?」

「一般の方でしたら剣霊使いと判れば構えるものです。触れれば必ず斬られる抜き身の剣を傍らに置いた者に恐怖を覚え、佇む剣霊の美しさに目を奪われる。ですが、ゾルゾアさん、あなたはこのどちらにも当て嵌まらず平静としていたからに他なりません。」

「なるほど。なかなかの洞察力だ。だが、王女殿下自身も俺と同じく平静そのものだったが?」

わたくしの横にはユランが常におりますから。」

「ほぉ?」

「ユランは剣霊協会から七十四の番号を与えられた有能な剣霊の使い手です。」

「あぁ、判るよ。あの飛び込み様の拳が全てを語っていたからな。」

 ユラン・エレエの肩に置かれたままの手が静寂を保っている。頼る者の上で安らぐ手は揺るぎ無い信頼を寄せている証と言えよう。ユラン・エレエは空いている右手を恐る恐るながらも内に高貴な血が流れる手に添えて期待に応え、言葉無き謝意を表した。

 ル・ゾルゾアは革張りのソファの背もたれに投げた腕を動かし、左の腰からぶら下げている布を手に取った。彼も北部王立国家に足を入れて以来、黒地に黒の刺繍が施された協会支給のスカーフを身に着けていた。

「隠すつもりはなかったが、俺は七十の番号を剣霊協会から与えられた者でな。そこに立っているのが七十二の番号を与えられたユスト・バレンタインと彼と契約を交わしたイルサーシャだ。」

 右の人差し指の腹を上に向けながらユストを示し、次にイルサーシャへと移った。更に横へとずれるものの、ル・ゾルゾアの人差し指は戸惑いを纏い始めていた。イルサーシャの横に立つ烏の濡れ羽色を思わせる髪の剣霊の名を彼は知らなかった。

「で、もう一振りがル・ゾルゾア、貴様の剣霊か?」

 寸分の隙間なく五指を握り締めていた左手を楽にしたユラン・エレエは両手を体の前で合わせているハガンへと顔を向ける。その凛とした目許の中央を彩る淡い褐色の瞳が放つ視線を知ったユラン・エレエは咄嗟にあらぬ方向へと顔を背けた。

「いや、俺の剣霊はこんなに品の良い佇まいをしたお嬢さんではないよ。」

 ル・ゾルゾアが肩をすくめるとイゼリアーシェ・ヴェルリンクは短い笑いを誘われ、イルサーシャにはほくそ笑む機会を与えた。

は刹那の称号を頂くハガンと申します。今はとある戦いで契約者を失った身ながら、こちらのユスト・バレンタインとイルサーシャの好意に甘えて見聞を広めているところです。」

 深々と頭を下げるハガンの白い項が天井を仰ぎ、黄金色に輝く髪飾りの先端が緩やかに煌いた。

「聞きましたか、ユラン。今、って…。あの子たちと同じなのですね。」

 ハガンの品の良さに感心を覚えるどころか、彼女の一人称にイゼリアーシェ・ヴェルリンクは興味を示した模様である。やや興奮気味の王女殿下は王者の涙相に嬉々とした色を添えていた。若い故、と言ってしまえば元も子もないが、その笑みは歳相応のものであり、彼女が剣霊に慣れ親しんでいる証拠であるとユストは感じていた。だが、今の彼は王女殿下の屈託の無い表情よりも気に掛かる点がいくつか存在している事を看過出来ない状況でもあった。

 あの子たちとは恐らくユラン・エレエが契約を交わした剣霊と思われるが、たち、と複数で語る理由が見出せない。想定するならば彼女の剣霊は双剣という事か。双剣となれば同じ長さの刀身を持つのか、あるいは一方は長く他方は短いとも考えられる。そして利き腕はどちらの剣を持つのか。どちらとは一撃必殺の技を放つ側である。双剣を操るとは攻撃に特化する為ではない、守備もこなす事に意義がある。イルサーシャを始めとするこれまで出会った剣霊たちは防御に重きは置いていない。妖しく輝く刃とは他を受け止める為ではなく、他に自らの矜持をぶつける為にあると考えている。そもそも刃同士を何度も重ねれば刀身が痛む。斬れるものも斬れなくなるのは時間の問題と言えよう。では相手の行動範囲を封じる為の双剣とした場合、とユストが目の前に立つ剣霊使いの黒い布で覆われた腕を見つめている中、当のユラン・エレエが口を開いた。

「ユスト・バレンタインとやら、この北部王立国家の王女殿下たるイゼリアーシェ様が自らを名乗ったのだ。貴様、いつまでだんまりを決め込むつもりだ?しかも室内で手袋を嵌めたままとは無礼にも程があろう?」

 相手も短時間とは言え、ユストをくまなく観察していた。王女殿下が言うところの同じ立場の者だけの事はある。

「あぁ、すまないが、言葉を発せられないのが彼の剣霊障だ。許してやってくれ。」

 すかさず助け舟を出したル・ゾルゾアにユラン・エレエとイゼリアーシェ・ヴェルリンクは視線を向けた。そうなのかと何食わぬ顔の濃淡のある二色の赤い髪と、そうなのですかと驚きを隠せない濁りとは無縁の灰色の瞳を目の当たりにしたル・ゾルゾアは顎鬚に添えていた手の動きを止めた。

「因みに俺の剣霊障は文字が書けん。この際だ、ユラン・エレエ、君の剣霊障も教えて貰おうか。」

 ル・ゾルゾアは顎の裏に親指を当てたまま、人差し指を王女殿下の世話役の胸許に向けて二三度動かす。形良く切り揃えられた顎鬚は相変わらずだが、頬の辺りのそれは不精の顕れも見受けられた。彼もユストと同じく、剣体となった剣霊の宿る剣以外の刃を易々と手に取る事が出来ない男である。頼るべき剣霊が傍らから消えてそれなりの日数が経過したと語る頬とは自身の剣霊に対する揺るぎ無い絆の結果であり、女の安否を気遣う男の横顔にイルサーシャとハガンは視線を投げていた。

「わたしの剣霊障だと?」

「あぁ。俺たちに公言したところで恥ずかしいものでもあるまい?」

「知ってどうするつもりだ?」

「どうもこうも。なんせ同じ立場だからな。」

 ル・ゾルゾアはごく自然な形で口角を上にし、ユラン・エレエは胸許に右手を置いていた。

「無論、お前たちに対して恥ずかしがる理由は無い。ただ、イゼリアーシェ様には…。」

 黒地に黒の刺繍が走る協会支給のスカーフに動揺の皺が浮き出ているのをユストは横目で眺めていた。

「ユラン。なんでしたらわたくしは聞かなかった事にしましょうか?」

 イゼリアーシェ・ヴェルリンクの何気ない忖度は沈黙を生み出した。何と答えたら良いのか考えあぐむユラン・エレエを急かすのが目的なのか、突然の来客の為に焚かれた暖炉の薪が勢い良く弾けた。躍動感に溢れ、暖か味のある響きの後に次なる音が応接間の中で奏でられた。それは小さく、普段であれば特段気にする音ではない。

 ユストが手袋を外す音であった。左手から外し、次に右手を露にする。子山羊の革で薄く仕立てられたのは防寒を目的としてはいない。剣の柄を握る際の滑り止めが主だった役割であり、愛剣から伝わる感触を損なわずに一撃を繰り出す為の必需品である。また、今の立場となる直後に失った二本の指を隠すのに都合が良い。本来ならば外したくなかった、というのがユストの本音である。指を欠損した右手を隠すとは剣を操る利き腕を隠す事に他ならない。だが、事の発端は貴人の前で手袋を嵌めたままの愚生自身だとユストは理解していた。

「その指は…?」

 晒された右手を知ったイゼリアーシェ・ヴェルリンクの王者の涙相が表情を作った。剣を携える者であり命の遣り取りを知る者の戦歴を如実に表すユストの右手に慄き、それは彼女の優しさを垣間見させるものの、王女殿下は剣霊の使い手の思惑に気付いていないとも言えた。一方のユラン・エレエは見下ろす様に顎を上へと動かした後に、彼の剣霊であるイルサーシャとユストの左手へと交互に視線を向ける。やはりユラン・エレエは単なる世話役ではない。彼女は剣を携える者であり、生涯を剣と共に生きる者であると王女殿下以外の者は読み取っていた。

「護るべきを護りきった誇らしい手なのですね。」

 想定外の言葉であった。イゼリアーシェ・ヴェルリンクの本心を包み隠さない一言に声を発せられないユストは奥歯を噛み締めている口を弛緩させ、イルサーシャは細く整った眉を上下に動かした。

 窓から差し込む陽光は既に途絶えていた。澄み渡るガラスの向こうでは艶の無い雲が伺える。やがて窓が細かな水滴を一面に湛えると共に雪がちらつくのもそう遠くないであろう。ユストは誉められて喜ぶ男ではないが、僅かに口元を綻ばせていたのをイルサーシャは知っていた。

 騎士の頂点を約束された者の言葉は異国の一剣士の心を幾ばくか温めた。


 出会うべき者たちが一堂に会した。革張りのソファに座るル・ゾルゾアの横にユストは腰を降ろし、それぞれの左後方にイルサーシャとハガンが佇む。形式上ではあるが剣を納めた形を取った二人の剣霊使いの前には天板に質素な木目を走らせているセンターテーブルが置かれている。川の流れの如く生命の力強い躍動を思わせる木目の先では窓を背にした独り掛けの椅子にイゼリアーシェ・ヴェルリンクが身を預けていた。その左横では王女殿下の世話役たるユラン・エレエが毅然たる立ち姿で異国の男二名と二振りの剣霊を見下ろしていた。

 剣と共に生きる者と剣として矜持を掲げる者、そして王として生涯をまっとうすべき者とそれぞれの立場は異なる。だが、内なる面持ちはどれも似通っていた。己の剣霊を探し出し助けたい。己の友を助けたい。自らの為ではなく、他の為に心を痛めつつ体を動かす者の表情とは陰暗を思わせる中に真摯な眼光を携えていた。

「この際、包み隠さずに全てを話すが…君はそれでも構わないか?」

 ル・ゾルゾアの迷いを振る払わんとした言葉はユストに向けられたものである。同意を求めたのは協会による剣霊使いの指示を第三者に晒す点について他ならない。人知れず速やかに任務を完遂するのが常であるが、今回の困難極まる任務が迷宮入りせずに済む手段を朧気ながらもル・ゾルゾアは見出しているのか。七十の番号を与えられたル・ゾルゾアの任務と七十二である自らの任務はほぼ同じと想定すべきであり、ル・ゾルゾアも自らと同様に考えている。ならば音による会話が可能な彼に一任するべきである。ユストは揺るぎ無い意思を伝えるべく、イルサーシャの肩に触れずにゆっくりと頷いた。

「感謝するよ。」

 言葉に違わずに目許を柔らかにした表情を見せたル・ゾルゾアは整えられた顎鬚の先端を詰るのを止めた。組んでいた脚を崩し、肩幅程度に広げた後に左右のてのひらはそれぞれの膝に密着していた。

 彼が契約を結んだ剣霊には遠く及ばないが、飄々とした雰囲気を持つ者が畏まる姿は否応にも目を引く。整然と両脚を揃え、膝の上でノウサギの毛を用いた円筒状の帽子の表面を撫でていたイゼリアーシェ・ヴェルリンクは優しく細めていた灰色の瞳に王位後継者たる趣を浮き上がらせた。

「王女殿下、お心を騒ぎ立たせずに俺の話を聞いて欲しい。」

「判りました。遠慮せずにどうぞ。」

 構わないと言わんばかりに顔をやや斜めに傾け、言葉を続ける様にと促す仕草を見届けたル・ゾルゾアは今は傍らにいない自らの剣霊の癖を脳裏に過ぎらせていた。その証拠として失笑とも溜息とも言い切れない短い鼻息を漏らしていた。

「俺は所属する剣霊協会よりあなたを為留いとめよと指示を受け、このエジュ・エジェに赴いた。横に座るユスト・バレンタインも俺と同様の指示を受けていると見て大方間違いは無かろう。」

 凡その内容を勘付いていたのか、イゼリアーシェ・ヴェルリンクの先程まで帽子を撫でていた右手は彼女の脇に立つユラン・エレエの手首を握り締めていた。世話役の逸る行動を抑止する為であり、揺れ動く自らの心をしっかりと繋ぎ留めておく為の結果であると思いながらユストは眺めていた。

わたくしを、ですか?」

「そうだ。」

 確固たる事実だと言わんばかりにゆっくりと頷きながら答えるル・ゾルゾアの表情は戦いに挑む者、死を隣り合わせに生きる者のそれであった。

「剣霊協会は何を望んでいるのです?」

「判らん。」

わたくしの身一つを挺する事でこの大陸の秩序が保たれるというのですか?」

「そもそも俺たち剣霊使いは協会の手足に過ぎんよ、王女殿下。」

「剣霊協会…コノリギスを統治するのは剣霊帝と呼ばれる強大な力を持つ剣霊と聞いております。その方がこの北部王立国家の消滅を望むのであれば、まず国王たる父ではなくわたくしなのは、何故でしょうか?」

「剣霊帝様のお考えは人間が到底量れるものではないが…若い方から消す、というのが非情且つ確実な手段だと考えられなくも無い。俺は会った事は無いが、あの方は絶望の称号を頂く剣霊の頂点だからな。」

「絶望とは…?」

「誰であろうと選択の余地を認めないという事だ。」

 ユラン・エレエの腕を掴む五指が震えている。次期王位後継者とはいえ、成人を迎えたばかりの者にする話ではないのは明らかである。だが、ル・ゾルゾアは包み隠さず、と前置きをした。これから先が本題だと知るユストは込み上がる怒りに似た殺気を漏らさんと目を細めているユラン・エレエが握り締めている左右の拳に視線を合わせていた。

「だが、これらを回避する方法が一つだけ残されている事に俺は気付いたのだ。」

 膝に置いていた右手を離し、顎鬚へと動かしたル・ゾルゾアは窮屈であったであろう脚を楽にせんと脚を組み始めた。

「任務の不履行だよ。」

 この言葉はユストは言うまでもなく、イルサーシャとハガン、そしてユラン・エレエの表情に動きを与えた。周囲の者たちの有り様を予め見抜いていたル・ゾルゾアは特段驚く様子もなく、顎鬚を詰る親指と人差し指に中指を加えた。

「俺たち剣霊の使い手は命の重みというのを知っている。失われた命、奪った命はどう足掻いても元に戻らない。例え協会の手足であろうとも、たった一振りの斬撃がもたらした結果に今ある人間の行く末を委ねさせる訳にはいかんと俺は思っているのだ。」

「ル・ゾルゾア、それが貴様の本音か?」

 深い赤と淡い赤の束ねられた髪が僅かに傾いた。卑下と疑心を練り合わせた視線を投げるユラン・エレエの前でル・ゾルゾアは顎鬚を詰る指を止めた。

「そもそもエジュ・エジェに足を踏み入れたなり俺の剣霊が行方知れずになった。契約を結んだ剣霊以外の剣を握る勇気は俺にはさらさら無くてね。」

「ほぉ。では貴様の剣霊が戻れば任務を遂行するのか?」

「どうだか。何事も時機ってものがあるだろう?」

 ル・ゾルゾアは時機と態の良い言葉を用いたが、行動に移す事は無かろうとユストは見ていた。移すのであればわざわざ任務の内容を晒す必要があろうか。今一つ釈然とせず、猜疑心を露にした面持ちを隠せないユラン・エレエは自らの腕を掴むイゼリアーシェ・ヴェルリンクの小刻みに震える指に空いている手を添えた。

「何はともあれ、わたしはイゼリアーシェ様にとってからぬ者をこの身に変えてでも排除する。例え貴様たちコノリギスの者であろうともな。」

 あぁ、そうしてくれと言わんばかりのル・ゾルゾアが組んている脚を入れ替えると共に再び暖炉の薪が弾けた。

「ただ、ユラン・エレエ、君も俺と同じく脇に置く剣霊を失っている。まさか先程の様に拳ひとつでこれからの全てを乗り切るつもりではなかろう?」

「無論だ。」

「そこで相談だが、俺と君の剣霊が囚われの身となっていると仮定して、幽閉されているであろう場所に心当たりは無いか?」

 ユラン・エレエは答えない。いや、それが彼女なりの回答と解釈するべきであろう。彼女も自らの剣霊を見失ってからそれなりの時が経過している。女流剣士として只ならぬ気丈夫であろうとも、刻々と膨れ上がる憔悴が彼女を蝕むのも時間の問題と言える。剣士は自らの剣で全ての結果を導かなければならないのが常である。今やそれを行使不可能な状態とは筆舌に尽くし難い心境に違いない。

から姫君ひめぎみに一つ質問して良いか?」

 沈みかけていた空気に動きを与えたのはイルサーシャである。左の横髪を耳に掛けながら語り始めた姿を知ったイゼリアーシェ・ヴェルリンクの震える指は動きを止めた。程好い大きさの耳からぶら下がる鎌首をもたげた黒蛇のピアスの睥睨に当てられたのか、造形物とはいえ目の醒める様な眼差しは見入る者の心を掴んだ。

とユストがエジュ・エジェに、この北部に赴いて知らしめられたのは剣霊を忌み嫌うという事だ。忌み嫌うとは厳正な管理の許に置かれるか、あるいは駆逐の対象へ向けられる言葉だ。前者も後者も行使するのであれば誰が行う?街に住まう者か?それでは剣霊に簡単に刻まれて終わりなのは目に見えている。」

「つまり北部の軍隊が関与している、と言いたいのですね?」

 イゼリアーシェ・ヴェルリンクはユラン・エレエの腕を掴んでいた手を楽にし、膝の上にあるノウサギの毛を用いた円筒状の帽子へと添えていた。王者の涙相の上にある目尻は毅然を保たんとしている。王女殿下の公の面持ちを前にイルサーシャは臆する事無く頷いた。

「げんには先日、シャルムにて剣霊ではないかと二人の兵に嫌疑を掛けられた。急場凌ぎでなんとか逃れられたが、下手すれば囚われの身になっていたであろうな。」

「シャルムは二国間の友好条約の市街地。の地には南西自治国家の兵もおりますが?」

「そうだな。だが、二人の兵の鎧には槍と剣を手にした龍が刻まれていた。そなた、それは何処いずこの国章かとはよもや言うまいな?」

 イルサーシャは短い失笑を暗い色の唇を使って表現していた。

「イルサーシャさん、まさか…あなたはその者たちを斬り捨てたのですか?」

 イゼリアーシェ・ヴェルリンクは椅子に身を預けたまま前へと乗り出す。暖炉にくべられた薪の一片が弾けると共に、絶妙な組み合わせにて積み上がっていたそれらが虚しげな音を立てて崩れ落ちた。

「あぁ。剣霊たるに他に何が出来る?」

 聞いた内容と話が違う。黙々と自らの剣霊の言葉に耳を傾けていたユストは目許に愕然とした色を隠さずにイルサーシャの右腕を掴んだ。相変わらず冷たい。その冷たさは剣霊の冷酷な有り様を示唆しているのか、比類無き意志を象徴しているのか。掴まれた腕に人間の、強いて言うなれば慣れ親しんだ契約者の体温を感じようともイルサーシャは顔を動かさない。正面を向いたままである。ここはに任せろ、と内なる言葉がユストの中を駆け巡る。濁りとは無縁の灰色の瞳と深い緑色の瞳が真っ向から交差していた。

「何故その様な無益な事をなさったのですか?」

「無益か。さて、それはどうかな?」

「斬られたその者たちにも愛する者、無二の友、そして帰りを待つ家族がきっとおります。命とはその者だけのものではないと今亡き祖父母に、そしてわたくしの膝の上にあるチェクルが教えてくれました。これを無益と言わず何と表現すれば良いのかわたくしには判りかねます。」

「おい、姫君ひめぎみへの講釈はその辺りで充分だ。」

 痺れを切らしたイルサーシャの左腕がくうを貫いた。白銀の長い髪の一部が踊り、百年香の爽やかな匂いが左腕の先端が狙いを定められた者の嗅覚をくすぐる。イルサーシャの左の人差し指はイゼリアーシェ・ヴェルリンクの女らしく程好く丸まった顎の先端から数センチの所に添えられていた。

「そなた、何故なにゆえ軍隊は関わっていないと真っ先に否定しない?」

 世話役のユラン・エレエは剣霊独特の素早い動きの前に遅れをとった。僅かにも体を動かそうものなら剣霊の血の通っていない細い指は王女殿下の高潔な肌を容赦無く裂くであろう。その様な状況に置かれた彼女に残されていた選択肢は舌打ちしかなかった。

わたくしを害するというのですか。」

 王族としての威厳を保つ若き女の声は震えていない。膝の上にあるノウサギの毛を用いた円筒形の帽子に触れる手は平常心を損なわないようにと依然として一定の感覚で動いていた。切れ長の目尻の先端に力が込められ、王者の涙相を彩る黒子がいびつに歪む。一方のイルサーシャの細まった目尻は女の趣よりも剣霊としてのそれが表面に浮き出ている。静かであり、冷たく、そして悲しげな色を挿していた。

に顔立ちが似ているからなのか、姫君ひめぎみはなかなかの胆力の持ち主の様だ。の従者たちが言っておるぞ、これはそうそう巡り合えない血の源だとな。」

 触れるか振れないかの位置までイルサーシャの左の人差し指が上へと動き、契約者以外の生物は一切触れられない無情の刃が放つ冷たさを感じ取ったのか、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは遅れる事無く捉えられた顎を上へと向けた。

「ユスト・バレンタイン、何をしている。貴様、自らの剣霊がイゼリアーシェ様に狼藉を働こうともただ黙って見ているだけなのか?即刻止めさせろ!」

 怒号に近い声でユラン・エレエが叫ぼうともユストは視線を向けただけでそれ以上の動きを見せる事は無かった。イルサーシャは任せろと内なる声で言い放っている。彼女に何かしらの目論見があり、それを信じるのも契約者の務めでもある。身動きを許されない立場に追い遣られたユラン・エレエの右の手は再び拳を作り上げ、目に見えるほど震えている。一か八かで感情に任せた打撃を繰り出さん勢いが見て取れる中、イルサーシャは右の横髪を耳に掛けた。自らの尾に喰らい付く狂猛さを象徴した黒蛇を象ったピアスの睥睨を目の当たりにしたユラン・エレエの右の拳はまるで腕の組織が弛緩しきったかの様に動きを止めた。

わたくしの身一つで事が済むのでしたらお好きになさりなさい。ただ一つ約束して頂けませんか?」

「何だ約束とは。言ってみろ。」

「ユランの剣霊であるクラウディアとラファエラを探し出し、彼女の許へ帰れる様にして欲しいのです。」

「ほぉ。剣霊を忌み嫌う国家の王位後継者が剣霊に気を遣うとはな。」

「あの子たちはわたくしを友と呼んでくれました。王族の娘として生まれたわたくしにあの子たちは気兼ねなく接してくれたのです。掛替えの無い存在が助かるのであればわたくしはそれで満足です。」

「そなた、契約を結んですらいない剣霊の為に自らの命を投げ出すというのか。」

 男と比べれば起伏は富んでいないが、イゼリアーシェ・ヴェルリンクの白い喉が上下に動いた。絶命と隣り合わせに立たせられた者が行う生理現象を目の当たりにしようともイルサーシャの左の人差し指は微動だにしない。

「イルサーシャ、もう良いでしょう。王女殿下の心をこれ以上裸にしてはいけませんわ。」

 ユストから見てイルサーシャの反対側に立つハガンが諭した。体の前で重ねた両手を動かさずに彼女は覗き見る様に僅かに顔を斜めにする。言うまでも無く左腕を伸ばしたままのイルサーシャに向けてである。

「判っておる。少しばかり鎌をかける度合いが過ぎた様だな。」

 鼻を短く鳴らしたイルサーシャは左腕を元の位置へと戻し、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは安堵を象徴する深い溜息と共に乗り出していた身を革張りの椅子の背もたれに預けた。

「王女殿下の剣霊に対する愛情は揺るぎ無いものと確信を得ました。とイルサーシャは王者の涙相を持つあなたを為留いとめようとは思いませんし、累を及ぼす様な結果へと導こうとは考えておりません。宜しければ北部の軍隊と剣霊の関係、お話し頂けませんか?」

 物腰が柔らかなハガンの言葉は説得力を有している。その証拠として今は少しでも楽な姿勢で居たいであろうイゼリアーシェ・ヴェルリンクの俯いた表情を動かしていた。

「ハガンさんは王者の涙相をご存知なのですか?」

「昔、王女殿下のお顔と同じ位置に黒子を持つ方がおりましたから。」

 懐かしむ様でありながらも胸の奥にしまい込んだ過去を語る面持ちを一瞬見せたハガンは気を取り直そうと試みたのか、晒した項を彩る後れ毛へと汚れを知らない指を這わせていた。

「えぇ、遠い遠い昔の事ですわ。」

 誰の耳に入れる訳でも無く、ただ自らに言い聞かせるかの如くハガンは立て続けに囁く。ユストは烏の濡れ羽色を思わせる黒髪の剣霊を一瞥すると窓の外へと視線を投げた。相変わらず雪が降っている。先程よりも深々と降っている。果たして心の中で雪が降るとしたらそれらは積もり、やがては融けるのであろうか。ハガンを彩る黄金色の髪飾りがその答えを自ずと導かんと柔らかに、頼り無さげに輝いている様にユストには見えた。

 暖炉の中で揺らめく炎が心細くなっている。くべるべき新たな薪も見当たらず、使い込まれた火掻き棒で中身を数回突付いたところで結果は見えている。応接室の室温が徐々に下がりつつある中、イゼリアーシェ・ヴェルリンクを特徴付ける首に一重に巻き付けた甘い黄金色の髪の先端が揺れた。

 膝の上にあるノウサギの毛を用いた円筒形の帽子を撫でていた可憐な手が離れた。腰掛ける椅子の脇に立て掛けていた細身の剣の中頃を握り締め、体の前へと移す。板貼りの床に鞘の先端を突き立て、柄頭に両手を添える。次期王位後継者たる王女殿下とは騎士の頂点を約束された者でもある。剣霊の風貌に劣らず格調高き姿はその場に居合わせている者全ての背筋を改めて伸ばさせたのは言うまでも無かろう。

「外は既に雪模様ですか。」

 窓を背にして座る彼女の位置から外の様子は伺えない。長年慣れ親しんだであろう降る雪の些細な音を聞き分けたのか、あるいは勘がすこぶる働く人物なのか。そのどちらにも当て嵌まるのであろうと感じたユストの肩にイルサーシャの冷たい手が置かれた。

(ユスト。そなた、よくを止めようと手を出さなかったな。)

(君の言葉を信じるのも愚生の務めだからね。)

(幾ばくかは荒っぽい事でもしない限り、そなたとル・ゾルゾアでは姫君の本心を探れないとは思い行動に移したのだ。)

(そうだったのか?)

(あぁ。この場にいる男二名は軍属出身だ。ただでさえ男とは序列やら身分やらを意識する事無く自ずと重んじる傾向にあるからな。)

(なるほど。そう言われると反論は出来ないな。)

 契約者の肩の上に置かれた剣霊の手は安らいでいた。留まるべき枝を見出した小鳥の如く微動だにせず、冷えつつある室内の空気に呼応して肌理の細かな白い手は淑やかに輝いている。それは先程までイゼリアーシェ・ヴェルリンクの顎の下で異様なまでの緊張感と不気味な静寂を同居させていた。同じ手であろうとも今は剣霊の手ではない、女の手に他ならなかった。

(姫君は剣霊の為に命を削るとに宣言した。健気を通り越して殊勝な心掛けを抱く者を斬る訳にはいかん。ハガンもと同じと見て間違いは無かろう。)

 命を削るか、とユストは自らの中で反芻した。無論、体に触れている最中であればイルサーシャにその音無き声は響いている。一人の男と一振りの女の会話に数秒の沈黙が生じた後、君の考えになずらえて動くとしよう、と音無き声にて同意を得た剣霊の白い手は契約者の肩から離れた。

 奇しくもイルサーシャは健気という言葉を用いた。命を削る女とは健気そのものである。五年前、最後に目の当たりにした母と目下に佇む王女殿下。二人の歳は異なり、それまで歩んできた人生に優劣は付けられまい。何故なら二人の眼差しは似ていた。 

「帰路が困難になる前にお話ししておかなければなりませんね。」

 イゼリアーシェ・ヴェルリンクは北部王立国家について語るにあたり、そう手短な前置きをした。


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