疼き蠢く
イルサーシャ、その髪と黒子は?
久々に剣体から霊体へと戻ったハガンの開口一番の言葉である。長年の苦楽を共にした契約者であるテヴァ・ザイロンを至天の園に於ける戦いにて失った彼女はユストとイルサーシャに同行を願い出た。まだ見ぬ世界を知りたいと語ったハガンの眼差しはノエミリオ諸島との決別を意味していた訳ではない。彼の地で過ごした日々は彼女にとって最も大事な思い出であり、そこに身と心を浸すにはまだ早いと判断したのであろう。薄桃色の袷を纏い、凛とした目許はもとより、烏の濡れ羽色の長い髪を無造作に結い上げた姿は依然として変わらない。冬の淡い陽の光の下で西の風と北の風とでは吹く強さが異なる。北の方が強く冷たい。だが、ハガンの晒された項を彩る後れ毛はノエミリオで初めて出会った時の様に緩やかになびいていた。
「実はこれには意味があってな…。」
幾分の恥じらいを伴いながらイルサーシャが事の次第を語った。彼女の横で佇むユストは言うまでもなく、剣霊障の為に音にて言葉を発せられない。ただ黙って自らの剣霊の言葉に耳を傾けるだけである。変に間違った考えを口走らなければそれで良い。エジュ・エジェ市街地の中でも往来が少ないと思われる一角にてユストは葉を付けていない街路樹に背中を預け、煙草の煙をくゆらせていた。
「そうでしたか。何故あなたがその様な窮屈な顔をしながら髪を束ねているのか判りました。で、今回の協会の指示は北部王立国家の次期王位後継者となる方を闇に葬れと?」
手頃な高さに積まれた木箱の上でハガンは両脚を斜めに揃えて腰を降ろしていた。生来の品の良さを彷彿させる姿もさる事ながら、吹く風に身を躍らせている後れ毛に触れる仕草は誰が見ても魅力に溢れた女そのものと言えよう。だが、彼女は剣霊である。炎を三つに分断し、大気をも切り裂く刹那の斬撃を放つ彼女にとって人間一人を殺めるのは造作ない。淡い褐色の瞳は感情の欠片すら漏らさずにイルサーシャからユストへと移った。協会の指示という意図を確かめる為だと知ったユストは街路樹から背中を離し、羽織る黒いコートのポケットに捻り込ませていた号外の裏面を広げてハガンに見せた。
「その方が…イゼリアーシェ王女殿下ですか?」
ハガンは黄ばんだ紙面の中央に描かれた肖像画を目の当たりにした後に、その先にあるイルサーシャに向けてちらりと舐める様に視線を投げた。ハガンの中で生じたであろう疑問を紐解かんと銜え煙草のユストはゆっくりと頷き、彼の左斜め前に立つイルサーシャは白銀の長い髪を束ねている根元を擦りながら答えた。
「いかにも。道行く者、すれ違う者が皆して殿下殿下と口にするものだから我はてっきり男だと思っていたのだが…。」
「実は女、だったのですね?」
「あぁ。」
「しかもイルサーシャ、あなたに瓜二つとは。」
「あくまでもこの絵と比べての話だ。果たして実のところは判らん。」
この号外を手に入れてから少なくとも王女殿下を描いた肖像画に批判を語る者は見当たらない。無論、相手が高貴な人物という点はあるが、描いた者と思われるル・ゾルゾアの腕前に難癖を付ける者もいない。実際、エジュ・エジェに暮らす者たちはおろか北部王立国家に属する者はイルサーシャに頭を下げ、彼女の一挙一動を注視していた。イルサーシャには悪いが、王女殿下とは面影が異なるという彼女の淡い願望は跡形も無く霧散するであろうとユストは捉えていた。
「つまり、自らに似た者であり自らの剣に似た者を刃に掛けるのは気が引ける、とでも?」
ハガンは極論を語っている。次なる言葉を見つけ出せないイルサーシャの肩にユストは空いている手を置いた。
「我たち剣霊にとって人間を殺めるのは実に簡単だが、そう判断する状況となるまで今暫く様子を見たいとユストは言っておる。」
「様子見とは暇を弄ぶだけだと我は感じますけど?」
「ハガン、そなたの意見を否定するつもりはない。ただ協会の指示意向に今回ばかりは素直に首を縦に振れないと我とユストは思っていてな。」
「と言いますと?」
話が長くなると知ったハガンの斜めに揃えた両足が向きを変える。彼女が腰を降ろしている木箱には刻印が打たれていた。文字の内容からして二年前に中央行政府から輸入された物資が詰められていたと思われる。長年親しんだ綴りにユストは目を細めたが、今は郷愁に耽る時ではないと彼は理解している。イルサーシャの肩に置いた手の人差し指が一定の拍子で動いている。言葉の順序を考え、如何に伝えるかユストは練っていた。自らが発するならともかく、イルサーシャという自らの剣の口を借りなければならない。そしてハガンの今ある心境も推し量った上で言葉を選ぶべきだとも考えていた。ノエミリオで見た彼女は涼しげな雰囲気を纏い、超絶と表現するに相応しい斬撃を放つ刀身を無闇に他に晒す事は無かった。全てはテヴァ・ザイロンという契約者の傍らに佇んでいたからなのか。剣を携える者であり、剣霊と契約を交わした者であるユストの視線がハガンを捉える。彼女の内を見出そうとする中、当のハガンもユストの思惑を読んだのか、後れ毛を詰る指を止めた。
「ユスト・バレンタイン、我は霊体に戻って以来、どうも刀身が疼くのです。このエジュ・エジェという場所が関係しているのかもしれません。」
人間であれば溜息交じりで話す内容をハガンは語った。どういう意味か、と怪訝と興味が折り重なった表情をするユストは咥えていた煙草を二本の指の間に収め、ハガンは項に伸びていた手を揃えた脚の付け根に添えた。
ハガンにとってエジュ・エジェ一帯は初めて足を踏み入れた地であるという。これまでに幾度となく北部王立国家に赴いては協会の指示を全うしてきたが、なにも国境付近の市街地はここだけではない。剣が刀身が疼くと語った。それはいきり立つ自らを指し、昂ぶる気持ちが自らの知らないところでふつふつと膨張している状態と言えよう。
「エジュ・エジェは古来より数多の戦いが繰り返された地だ。今となってはその面影を知るのはごく一部の建造物のみだが、佇む歴史がそなたをそうしているのかも知れん。」
ユストの言葉ではない。イルサーシャが自ずと発したそれである。彼女とて五百余年を知る剣霊であり、少なくともユストよりは悠久の一部を語る資格を有している。悠久とは粛々と通り過ぎる時の流れもさる事ながら絶え間ない心の変遷が織り成す世界も意味する。
「土地特有の気に当てられた、とでも?」
「まぁ、そうだな。」
「我が見たところイルサーシャ、あなたは平静の様ですね?」
心の裡を晒して幾分楽になったのか、柔らかな面持ちで語るハガンに対し、イルサーシャはふんと鼻を鳴らした後に白銀の長い髪を束ねている棒差し式の髪飾りを人差し指で弾いた。
「我は疼く以前に刀身が窮屈極まりなくてな。それどころではないのだ。」
イルサーシャは無論の事、ハガンの声よりも甲高い響きがエジュ・エジェ市街地の一角に短く、誰知れずに奏でられた。それは彼女たちが放つ剣戟の凄まじき響きには遠く及ばない。あえて言うなれば、不穏な前兆を知らせる虫の知らせの様なものともユストは感じ取っていた。
急がば回れと人々は口にする。悠長に事を進めるつもりは無いが、何も性急を要している訳ではない。しかし、本道となるべき道程とは常に闇の中で姿を眩ませている。剣霊とその契約者の進むべき道、行き着く先は誰にも判らず、先が見えたとしても他に理解を得るのは皆無に等しい。やはりここは一人で考えるよりも、剣に意見を求めるよりも自らと同じ立場の者の考えを知るべきであろう。今まで気付かなかった何かに出会える可能性は充分に有り得る。ル・ゾルゾアを探すぞ、と手短にイルサーシャに伝えたユストは小脇に抱えた号外を広げ、隅に記された発行元の住所へ視線を落とした。
エジュ・エジェ市街地大広場西側百十三とあった。
エジュ・エジェ市街地に協会の連絡所と思われる建造物は見当たらない。剣霊を忌み嫌う国家に於いて連絡所はそもそも不要であり、万が一の事も考えられる。つまり剣を咥えた鳩の紋章がコノリギスの手先と知れたらそこに従事する者たちは血祭りに上げられる可能性が極めて高く、次に諸国にこの情報が伝われば各市街地に点在する連絡所は機能を失うであろう。血の色に似た赤い鳩による指示は拒否を許されず、異議を唱える事もままならない。独り考え悩んでも解決とは程遠い。むしろ意図せぬ方向へ傾いたまま修正が不可能な状態に陥る場合も多々ある。ハガンに助言を求めるつもりであったが彼女には剣としての誰にも譲れぬ矜持がある。斬る斬らないの推し量り事で済む話ではない。やはりここはル・ゾルゾアと落ち合い、まだ見ぬ七十四の番号を与えられた剣霊使いとも合流し、事の次第を煮詰めるべきだとユストは自らの顎に右手を添えながら前を歩く二振りの剣の後ろ姿を茫然と眺めていた。
「そうだハガン、そなたはあの容姿容儀がいかがわしい剣霊を存じているか?」
「さて…?」
「今から訪ねるル・ゾルゾアと契約を交わした剣霊だ。」
「その、いかがわしいとはどの様にでしょう?」
「ありとあらゆる男の視線を独り占めしようと両肩を曝け出し、動く度に太腿の中でも最も女らしい部分をちらつかせていてな。常ににやけた唇の奥では自尊心をずたずたに引き裂く舌が虎視眈々と獲物を捜し求めているのだ。」
「まぁ、怖いこと。」
他人の剣霊の容姿をまるで化け物を連想させる言葉で表現するイルサーシャは髪飾りに刀身を締め付けられている苦痛を忘れたかの様に嬉々としているのが後ろ姿でも判る。彼女なりの憂さ晴らしなのであろう。ハガンも久々に霊体に戻った事もあり、会話を愉しみたいのか、イルサーシャの戯言に微笑を伴いながら受け答えていた。
「こうして比べるとハガンはあの女の真逆だな。」
「そうなのですか?」
「あぁ。肌を見せまいと幾重にも重なった服を纏い、なにしろそなたは誰が見ても淑やかで品行方正な佇まいだ。」
「我は小さい時に母から女はやたらめったら肌を見せるものではないと教え込まれましたから。」
「ほぉ。では一つ質問だが、ここはやたらめったらに該当しないのか?」
イルサーシャは右の横髪を耳に掛けた人差し指と中指をそのまま後ろへずらし、彼女の言うここを軽く穿つ。程好い大きさの耳からぶら下がる自らの尾を咥えた黒蛇のピアスが叩いた衝動なのか、表情を変えずに身を左右に揺らしていた。
「実は我の生まれ育った地域では女は成人を迎えたら項を晒すのが習慣でした。人間であった頃はその日の気分で幾つかある髪飾りを使い分けていたのも今となっては懐かしい思い出ですわ。」
「なるほど。中でも一番のお気に入りがその金の髪飾りだった、という訳か。」
「えぇ。これは我がお慕いしていた方から頂きました。」
ハガンの汚れを知らない指が一番のお気に入りという髪飾りの先端に添えられた。無造作に結い上げた髪を纏める黄金色の輝きは彼女の崇高な人生を物語っているのか、数多が踏み入れられない思慕の顕れなのか誰にも判らない。ただ遠き想いを懐かしむ様に愛でる様に触れる仕草はユストに直視してはいけないと思わせた。
「ところで、その銀の髪留め、髪の色に明暗を注して似合っていますわね。後ろで煙草をふかしている御仁からの贈り物と我は御見受けしましたが…?」
わざと遠回しな表現をするハガンの凛とした目許が悪戯な微笑を伴っていた。そのけれんみを感じさせない趣は彼女が剣霊としてではなく歳相応の女を満喫していると理解出来る。女同士の会話の邪魔はしないとユストは物静かに後ろを歩いていたが、どうやら次からは彼が話題の中心となる気配である。ここぞとばかりにイルサーシャに何を言われる事やらとユストは鼻から音無き溜息を吐きながら煙草の煙を目で追った。
「贈り物とは大そうな表現だが、実は雑貨屋で煙草を買う際に目に付いたついでに購入した代物らしいぞ?」
「とても素敵ですわ。彼の趣向の良さが覗えますわね。」
「そうか?ついでの品だぞ?ハガンの想い人はそなたの喜ぶ顔を思い描きながら選びに選んで手にしたと我は思うのだが。それと比べたら雲泥の差だ。」
流れては消える煙の先にある冬の空は重い。目の前の剣霊たちが姦しくも華やかな時間を過ごしている対比なのか、寂寥感を思わせる雲の隙間から太陽はやっとの思いの様に淡い光を注いでいた。
「殿方が他人の前で女が身に着ける品を手に取るのはそこそこの勇気が必要だと我は聞いております。選びに選ぼうとついでであろうと、共に小恥ずかしい思いをされたのかも知れませんよ?そこはきちんと評価するべきですわ。」
「そこそこの勇気ねぇ…?」
「とは言えども、本当のところは嬉しいのでしょう?」
「はてさて、どうだかなぁ。」
薄桃色の袷の裾が緩やかになびき、白地に黒の幾何学模様が走るドレスの端がしなやかに踊った。二振りの剣の会話と同じく彼女たちの霊体を包む衣服は特に気を遣うまでも無く、自然と風に身を任せている。
「それよりも我はそなたの想い人なる人物が気になる。少し聞かせてくれないか?」
「駄目です。秘密です。」
「なに、話したところで減るものでもなかろう?」
「減りますよ。」
ハガンの短い言葉にイルサーシャは細い眉を上下に動かす。彼女たちの後ろで黙っているユストも煙草を咥えていない側の口の端を僅かに緩めていた。何が減るのか。おもむろに目を閉じたハガンは微笑をたたえていた。
「想い人の名を他に口外したら想いが薄れて伝わらなくなると言うではありませんか。」
女の記憶を胸の裡で人知れず育む。契約者を失って間もないハガンを支えるのは剣霊となる以前の記憶であると自ら語った。感嘆の眼差しをイルサーシャは一瞬見せたが、その奥では空虚な趣を纏っているのをユストは気付いた。彼女には人間の記憶が無い。奥深い緑色の瞳が羨望の色に染まっていた。
「我とした事が無用な事まで口にしたみたいですね。」
イルサーシャの瞳の表情を読み取ったハガンも凛とした目許に困惑の色を注した。
「気にしないでくれ。そなたが元気ならば我は満足だ。」
「ついつい調子に乗ってしまいました。ごめんなさい。」
「構わん。見ろ、そなたの想い人の魂が宿っているか、髪飾りが陽に当たって煌いている。あの容姿容儀がいかがわしい剣霊とは対を成す黄金色だ。」
「黄金色とは…先程話していた剣霊の髪の色ですか?」
「あぁ。謙虚や慎ましやかさとは無縁と言わんばかりのいかにも強欲を象徴する様な黄金色の髪だが…?」
呆れるほど次から次へと悪態を吐く言葉が思い浮かぶものである。イルサーシャのこれでもかと歪曲した吹聴がハガンにまだ見ぬ剣霊の印象を決定付けようとしているのではとユストは思った。実際に見る以前に聞くとは思い込みを助長する。イルサーシャが悪態を吐く対象はこれから対面すべきル・ゾルゾアが契約を結んだ剣霊であり、これではハガンが彼まで色眼鏡で見てしまう可能性も否めない。他人の剣霊を貶すのもそこまでにしないかとユストは右手の人差し指でイルサーシャの肩を弾いて苦言を呈しようとする中、ハガンが足を止めた。
「イルサーシャ、その剣霊の名前を教えていただけますか?」
単に人間の女同士であればハガンはイルサーシャの袖を掴んでいたであろう。切なる願いを申し出る様な烏の濡羽色を思わせる髪の剣霊の姿は白銀の長い髪を持つ剣霊の顔を動かした。
「ブリスタン。称号は確か勝利であったかな?」
奥深い緑色の瞳と交差した淡い褐色の瞳が横にずれ、やがて足元へと落ちた。
「そうですか…。有難う御座います。」
豊かな黄金色の髪の剣霊の名を聞いたハガンはそれ以降イルサーシャとの会話は上の空となった。たたえる表情は柔らかなものの、凛とした目許に剣霊らしい覇気が消え失せている。彼女の中で様々な憶測が生じているのが手に取る様に判る。足を進める度に淡い黄金色の髪飾りの煌きは色を変え、ハガンの心の裡が右往左往している様子を描いていた。
イルサーシャも素っ気ないハガンの返事に飽きたのか、口を動かすのを止め、両手を腰の後ろに廻して目の前の景色に視線を這わしていた。北部王立国家の街並みはこれまで目にした南西自治国家のそれと大差は感じられない。古来よりの味わい深い建物も有れば、比較的最近に建てられたと思われる家屋もある。煉瓦の煤け具合と蔦が這った跡の有無で凡そ判る。新たな家屋を建てる以前、その土地には何が存在していたのであろうか。人間の心とて同じと言える。古き何かを失うと共にその場に新たな何かが構築される。ハガンは語らなかったが、それまでの会話の内容からして彼女は想い人に先立たれてしまったと汲めよう。失う事で慕う想いは本人が気付くよりも強くなる。
晒された白い項は物憂げな女心を顕していた。そのいたたまれなさを彷彿させる様子はまじまじと眺めるものではない。失うか、と自らの中で反芻したユストは空を見上げ双眸を細めた。幾層にも折り重なった分厚い雲が吹く風に抗っているのか、緩やかに形を変えている。変幻と言える形の変化の後にこの雲はいつかは跡形も無く消える。次にその場に居座る雲の形は誰にも判らない。剣霊であろうとも判らない。上へ向けた顔を元に戻さずにユストは短くなった煙草の最後の一口を含み、普段の様に鼻からではなく口から煙を出した。
雲は彼の意図など構わずに相変わらず緩やかに形を変えていた。
号外の発行元は二階建てのごく一般的と思われる建物であった。思われるとは経年の劣化から判断してと言える。ハガンの言葉を信じるのであれば、装飾からして二百年前の建築様式であり、北部ならではと特筆するのであれば屋根の形状である。降雪地帯独特の屋根の傾斜は銜え煙草のユストに空いている手を顎に当てさせた。これまでの歴史を物語る金属製の看板の表面は数多の風雨に晒された為か、滑らかであり質素な輝きを有している。そこにはエジュ・エジェ新聞社と記されていた。社名の前に王立とも市立とも記されていない事より官報を発行する印刷所ではないと容易に判断出来る。ようやく次の行動へと移れる糸口を見出した。掃除が行き届いているのか、小奇麗な社屋の入り口の脇に繋がれた馬が一頭、暇を弄ばしていた。
「見ろユスト、素晴らしい馬だ。」
髪を束ねている苦痛を忘れたかの様にイルサーシャが感嘆の声を発した。露に濡れて間もなさを思わせる艶を発する栗毛を全身に湛え、無駄を一切省いた脚付きはこの馬が如何に優れた脚力の持ち主であるか誰もが想像するに違いない。だがこの馬にはそれらを霞めてしまう程の特徴を有していた。たてがみが異様に長い。例えるなら剣霊の髪の長さに劣らないと言えようか。あまりにも豊かなたてがみは目許を覆い、毅然とした佇まいを神秘的であり優雅なものへと彩を添えている。
「珍しい馬だこと。我も初めて見ましたわ。」
涼しげな雰囲気を纏っているハガンもこの時ばかりは感心と興味を露にさせていた。近寄る二振りの剣霊に豊かなたてがみを携えた馬は前脚を二三度動かしたのみで特に警戒を示す様子を見せない。いくら敵意がなかろうと彼女たちが剣霊ではなく人間であれば正面から近付けば豊かなたてがみを携えた馬は鼻息を荒げたであろう。見慣れぬ者が不意に近付けば誰もが構えるものである。いくら調教が行き届いていようとも馬とて同じと言えよう。場合によっては噛み付かれるか頭突きを喰らわせられた可能性も否めない。動物たちの人間に対する警戒心は人間が推し量れるものではなく、彼らは目に映る者の本質を読み解く能力に卓越している。下手に知識に頼らず知能に身を委ねない彼らにとって剣霊とは人智はもとより全生物にとって畏怖の対象なのか、あるいは単なる一振りの剣としてしか映らないのか。これもまた人間が勝手に推測すべき事ではないと知ったユストはイルサーシャとハガンの後ろ姿を何気なく眺めていた。
馬も確かに立派だが、出入り口に施された格子扉の細かな装飾にユストは関心を寄せていた。装飾とは時代と共に移り変わる。蔦が幾重にも絡まる様子を彫刻で表現しているこの装飾が二百年前の流行りなのかは判りかねるが、さらに百年後に見た者は自らと同じ様な感慨を覚えるのだろうかとユストは思った。
「なぁハガン、北部の女は髪を束ねなければならないと言うものの、馬は除外されるのか?」
垂れ下がる豊かなたてがみは艶光りを湛え、剣霊の髪にも劣らずの魅力を放っている。腕組みをするイルサーシャが不服を漏らす横では両腕を垂らして掌を体の前で重ねているハガンが苦笑を堪えていた。
「人間が決めた事に馬まで付き合せるのは些か酷と言うものですわ。」
「それも尤もだが…この馬は牝でな。ペベという名を与えられたそうだ。」
「あら、後ろ脚の付け根を見ずによくお判りになりましたね?しかも名前まで。」
「まぁな。しかも名付け親である背中を預ける者も女だ。」
「その方も毎日いろいろと髪を結わえてさぞかし大変でしょうね。」
「あぁ、何しろ自らの先祖が慣例を作ったからな。ひ孫かやしゃ孫か知らんが、断り無く勝手に破るわけにもいかんだろ。」
あれを見ろと言わんばかりにイルサーシャは尖り過ぎず丸まり過ぎずの顎をしゃくった。ペベの背に鞍が乗せられている。艶光りする栗色の毛並みに呼応するかの様に鞍の表面は独特な飴色を陽の光を借りて作り出していた。黒ずむ事を未だ知らない革から独特の匂いが感じられる。使い込まれた道具とは言い切れない。つまり乗馬をさほどする者ではなく、言い換えればする必要が無いとも考えられる。縁に施された植物の浮き彫りが高貴な一面を醸し、中央には剣と槍を携えた龍の国章が誇らしげに同じく浮き彫りにて刻まれていた。このたてがみが素晴らしい馬を所有し、しかもこの国章を刻んだ鞍を跨げる者とはイゼリアーシェ・ヴェルリンク王女殿下に他ならない。
「まさかここで姫様に遭遇する事となるとは。さて、どうしたものか。」
「何故この新聞社へ足をお運びになったのか気になりますわね?」
「さては号外とやらの内容にケチを付けに来たのではないのか?」
「でしたら高貴な身分の方がわざわざ自ら赴かずに周りの者が対応すると我は思いますけど?」
「そうか?では…単なる散歩ついでか?」
「苦情の反対、かもしれませんわね。」
「ほぉ?」
「考えられるとしたら…号外に載せた肖像画に関心を寄せた、とか。」
「なるほどな。つまり我たちと同じ目的という訳か。」
豊かなたてがみを携えたペベからハガンへ、そしてユストへとイルサーシャは深い緑色の瞳を動かした。それにつられてか、ハガンも淡い褐色の瞳をユストへと向けた。剣たちが指示を出せと無言で促している。ユストが二振りの剣の許へ近付くと豊かなたてがみを携えたぺべが先程よりも大きな音を立てて鼻を震わせた。前脚が持ち上がろうとした様を知ったイルサーシャが組んでいた腕を解き、左の横髪を耳に掛ける。鎌首をもたげた黒蛇の眼光に底知れぬ恐れを成したのか、豊かなたてがみを携えたペベは再び二三度前脚を動かし、重くも軽くも無い蹄の音を地に奏でさせた。
(この社屋に何人いるか判るかい?)
ユストの左手がイルサーシャの肩に置かれた。
「九人だが?」
声に出して答えたのはハガンにもユストの意図を伝える為であった。
「えぇ。男六人に女が三人です。」
「剣霊の気配は感じないな。剣を扱える者の気配は…二人か?」
「いえ、三人だと我は思うのですが…?」
(なるほど。その剣を扱える者が男か女か判るかハガンに聞いてくれないか?)
「なんだ、ユスト、そなたと契約を交わした我よりもハガンの言葉を用いるのか?」
自らが至上の剣と自負して止まない剣霊らしくイルサーシャは目尻に鋭いものを走らせている。馬が暴れるよりも厄介事だと知るユストは猛る彼女を静めるべく肩に置いた手で軽く叩いた。
(この場合、数は多く見積もっておくべきだと愚生は思う。無論、万が一の時は君だけが頼りだ。ハガンは契約者を失っている状態だから多くの事はさせられないからね。)
それは真かと細めた目尻の奥で深い緑色の瞳が問い質している。頷くユストを見たイルサーシャは肩に置かれた手を左の横髪を耳に掛けた二本の指で払い、短く鼻を鳴らした。
「ハガン、我の見立てでは剣を扱える者の一人は男、ル・ゾルゾアだ。もう一人は女だが名前までは判らん。残る一人は男か女どちらだ?」
「恐らく女ですわ。」
「恐らく、とはそなたにしては曖昧な答えではないか?」
「えぇ。腕は然程では無いと思いますが、覚悟と言いましょうか、心の裡では並みの者では耐え切れない程の重責を自らに課している様に我は感じるのですが…。」
ハガンは白い項を彩る後れ毛を詰る。凛とした目許に疑問の色が浮かばせていた。間違っても口には出せないが、詮索能力に於いてハガンはイルサーシャのそれよりも上であるとユストは理解している。彼女に曖昧な表現をさせた者とは、このエジュ・エジェ市街地にて誰もが知る今話題の人物であろう。剣霊は人間の本質を見抜く。ここで用いる本質とは剣を扱う能力や技量、剣を柄を握る為の意志の強さである。刹那の称号を頂き、特殊番号を与えられたテヴァ・ザイロンに長年付き添ったハガンの実力を以てしても推し量れない人物、イゼリアーシェ・ヴェルリンク王女殿下とは如何なる者か。
「考えても事は進まん。会って言葉を交わしてからでも遅くはあるまい。そうであろう、ユスト?」
踏ん切りの良さが白銀の長い髪を持つ剣霊の持ち味でもある。短絡そうに思えるものの、これまで彼女の一言が間違った方向へと転げ落ちた例は一度も無かった。そうだなと言わんばかりのユストは両手をコートのポケットに入れておもむろに社屋の正面へと歩み始めた。ユストの靴音が響くと共に再び豊かなたてがみを携えたぺべが荒々しく鼻を震わす。たてがみにも劣らずの豪奢な尾が力強く振られていた。
「心配するなペベ。そなたの主は傷付けん。剣霊である我が約束しよう。」
本来ならば鼻面あるいは背を撫でるか首に腕を回して互いの気持ちを酌み合うが、剣霊は契約者以外の生物には触れられない。しかし、イルサーシャの思い遣る言葉にペベは何か感ずるところがあったのか、振り回していた尾を静かにさせると前後の脚を折りたたむ様にして座り込んだ。陽に照らされようとも冷えているであろう地の上で豊かなたてがみの先端が様々な模様を描き始める。たてがみと頭髪の違いはあるが、描く模様はイルサーシャが膝を折った際と大差ないのだなとユストは一瞥を与えた。
初めて見る者に猜疑心を覚え警戒心を露にする。動物が人間に抱くごく当り前の感情と行動と言えよう。そして初めて相対した剣霊には心を開き万感の思いを寄せる。何をも斬り伏せ抗いを許さない剣霊とは誰にも侵されない矜持によるものか、他の心の在り方も理解しているのであろう。彼女たちは長き年月を知る。長き年月とはあらゆる想いと共にある。
ユストが鼻から漏らした溜息は誰にも耳にする事が不可能である。だが、今回は無音ではあるが珍しくも感心の響きを添えていたと座り込んだぺべをあやすイルサーシャは気付いたであろうか。
社屋の扉に鍵は掛かっていない。使い込まれた道具よろしく蝶番は滑らかに動きつつ感慨深い音を立てる。日中だけに当然と言えばそれまでだが、イゼリアーシェ・ヴェルリンク王女殿下と思われる人物の来訪にも関わらず無防備とも捉えられた。これが彼女の意向によるものかは判りかねる。あるいは目立たぬ様にお忍びで足を伸ばした結果とも考えられる。どちらにせよ、護衛の者を少なくとも一人は連れ添っている筈だ。そう思う中でユストは一つの疑問に気付いた。先のイルサーシャとハガンが言葉にした、剣を扱える者についてに他ならない。最初の一人がル・ゾルゾアなのは揺るぎないとして、剣霊同士の意見が割れた三番目はイゼリアーシェ・ヴェルリンク王女殿下とするならば、二番目の女とは如何なる存在なのか。剣を携える女、ましてやイルサーシャとハガンに気配だけでその実力を認めさせる腕前とは余程のものなのであろう、と確証無き想像がじわじわと膨らむ。
「こんにちは。エジュ・エジェ新聞社へようこそ。」
先に声を掛けたのは従業員と思われる男であった。北部の寒空の下とは言え、仕事に於ける熱意を知る彼は白いシャツのボタンを上から二つまで外し、腕まくりをしている。清潔感を与える短めの髪の先端は不規則に暴れ、櫛を入れたのは少なくとも昨日以降と思われる。だが多忙の末の結果なのだから不快な思いを感じさせない。むしろ相談事を遠慮無く持ちかけても彼は断らないであろう雰囲気を携えていた。
ユストは軽く頭を下げ、イルサーシャが何か喋ろうとした。しかし、何をどう語れば良いのか指示を受けていない。困惑の表情を携えたイルサーシャを目の当たりにした従業員と思われる男も何かの見間違えかと言わんばかりの驚愕を惜しみなく顔に表した。
本来ならばイルサーシャに語らせても良い。しかしこの場は自らの言葉を用いるのが妥当と決めたユストは音無き咳払いと共に落ち着いた素振りでコートの内ポケットから筆記具を取り出した。
『失礼します。愚生は喉を患っている為に声は出せませんが耳は聞こえますので、どうぞお気になさらずに普通にお話下さい。』
さらりと前書きを記したユストは従業員と思われる男に自らの筆跡を見せ、剣を咥えた鳩の透かしが施された紙面にミミズクの風切羽を用いた羽根ペンの先を再び滑らせた。
『御社に王女殿下の絵を提供した古き友人を訪ねに愚生たちは足を運んだ次第です。顎鬚を湛えた彼の者はこの場におりますか?』
わざわざ顎鬚を湛えたと記したはル・ゾルゾアの風貌を簡潔に明記する事で古き友人という言葉に信憑性を高める為である。なるほどと言わんばかりに従業員と思われる男は無精髭のざらつき具合を確かめる様に右手の指先を頬へ添えていた。
「絵描きの先生なら確かに奥の応接間に居るが、今は来客中でしてね…。」
言葉を終えた後にイルサーシャに一瞥を与えては首を捻る。彼女が来客と言われる人物と面影が似ている為であろうと外に繋がれたペベの主を知ったユストたちには容易に想像が出来た。
『実のところ、その方と愚生たちは彼にこの場で落ち合う様に招かれているのです。』
「なるほど。ただ、その…手前が来客と口にした人物はそうなかなかお目にかかれない御方でして。」
この日はやけに立て続けに来客がある日だと従業員と思われる男は感じているに違いない。彼の言うところの、そうなかなかお目にかかれない御方の許可無しに新たな来客たちを応接間に通すべきか思いあぐむ様子が手に取る様に判る。止ん事無き人物の機嫌を損ねる訳にはいかず、またその勇気を持ち合わせていないのは当然と言えよう。ユストは自らの左脇で悠々としているイルサーシャに一瞥を投げた。果たして自らの剣霊に面影が重なる人物とは容姿と同じく気が強い可能性も考えられる。ここはル・ゾルゾアの機転に掛けるしかないと親指と人差し指で詰られていた羽根ペンが再び紙面の上に文字を記し始めた。
『お手数ですが、彼にこう伝えてください。古き友がヒスローを携えてはるばる訪ねてきた、と。』
「何ですか、そのヒスローとは?」
『愚生と彼との合言葉です。』
自嘲を思わせる表情をユストは短く浮かべた後にズボンのポケットから銀色に輝く硬貨を一枚取り出し、自ら綴った文字の最後尾に置いた。質素ながらも実用的であり、見た目の雰囲気も落ち着いた煉瓦造りの空間の中、多くの人間に触れさせていない硬貨は独特な煌きを放っている。明るくも鈍くもなく輝く硬貨はに四ヶ国の国章が刻まれていた。従業員と思われる男が目を見開き、思わず声を漏らしそうになった様子をユストは見逃していなかった。新聞社に勤める者だけに彼はこの硬貨の意味を理解している。そう確証を得たユストは一度置いた銀色に輝く硬貨の表面に人差し指と中指を添えた。落ち着いた白の世界の上で希少な存在と言いたげな銀色の煌きが微細な摩擦音と共にずり動く。言うまでもなく、従業員と思われる男が立つ方向へと硬貨を近付ける。二本の指が離れ、掌を見せ付ける様な動作をするユストを前にした従業員と思われる男は喉仏を上下に動かした。
共通貨幣の存在は知るものの、実際に手に取る機会とは一般の者にはそう易々とは巡らない。つまりこの貨幣を惜しみなく差し出す人物とは、と素性が気になる。纏う黒いコートの下に得物を隠している様子は無く、身体つきも力自慢とは程遠い。愚生と自らを指す聞き慣れない一人称からして異国の裕福な一族の若旦那といったところか。彼の横に控える女二人は秘書兼諸々の世話役であろう。なんとも羨ましい境遇だと思いつつ、共通貨幣がもたらした昂ぶる気持ちを抑えんと深い息を鼻から漏らし、従業員と思われる男はユストへと視線を向けた。
「これを手前にくれる、と?」
ユストはゆっくりと頷き、煩っていると体裁を繕った喉を覆う黒いスカーフに皺が走る。そのままにしていた掌を僅かに上下に動かした後に、人差し指の先端の脇を何も語らない唇に二回当てた。
「では少々お待ちを。絵描きの先生に伺ってまいりますので…。」
素早い会釈と共に共通貨幣に手を伸ばした従業員と思われる男は社屋の応接間へと消えて行った。その足取りは軽やかである。本人は気付いていないが、剣霊の視線から免れた開放感を全身で堪能している様子とも見て取れた。
「良いのですか、ユスト・バレンタイン。あんな大枚を叩いて。」
品良く両手を体の前で重ねているハガンは首から上だけを動かして苦言を漏らした。イルサーシャよりも背丈が低い彼女が見上げる表情は剣霊の困惑よりも女の気遣いがユストには感じられた。
「我たち剣霊に貨幣の価値などどうでも良かろう?」
手持ちぶたさと髪を束ねた苦痛をごまかす為に横髪を交互に耳に掛けながらイルサーシャがハガンを宥める。
「でも、剣霊であろうと無かろうとお金は大事に使うべきですわ。」
「ん、そうか?」
「そうかとは、なんて呑気な事を。」
平然と語るイルサーシャを見つめるハガンの目許は驚きを如実に表している。涼しげな趣が板に付いている彼女にもこの様な表情が出来るのだなとユストは思いつつ二振りの剣の会話を耳にしていた。
「まぁ今回については、ユストにとってそれだけの値打ちがあったのだと我は信じているのだがな。」
「言うなれば、古き友人と再会の為の値打ちですか。」
「あぁ。付け加えて、道を切り開く為の対価もだ。」
二振りの剣の会話に混ざる様に硬質な床が奏でる足音が響く。従業員と思われる男が社屋の応接間から戻ってきた。両腕を捲し上げていたシャツの先端はきちんと手首を包み、上から二つ外していたボタンはいかにも窮屈そうに嵌めている。絵描きの先生はともかく、ユストたちよりも先に足を運んでいた貴人の目に触れる事もあり、咄嗟に身だしなみを整えたのであろう。
「どうぞこちらへ。」
手短な言葉と共に従業員と思われる男は踵を返した。応接間までの案内役を務めてくれる様子である。頷いたユストはコートを脱ぎ、前身頃を合わせて腰の部分を左腕に掛けると案内役の後を黙々と歩き始めた。後を追う様にイルサーシャとハガンが足を動かす。開業当時の社屋の写生や歴代の代表らしき肖像画が飾られている廊下では男二人の靴の音が交互に鳴り響く。女たちの足音は聞こえない。淑やかに歩いているからではない。元から鳴らない。本来ならば契約者の前を剣霊は歩くが、剣霊と名乗れない、いや名乗ってはならない以上、人間ではないと訝まれる要因を少しでも除くべきである。
イルサーシャとハガンは特に会話をせずに廊下の左右に目を遣り、飽きればユストと従業員と思われる男の襟足の違いを見比べている最中に目的地へと辿り着いた。では手前はこれで、と案内役を終えた従業員と思われる男はそそくさと姿を消した。
木製の扉の向こうに会うべき人物の姿がある。ユストは首に巻いた黒地に黒の刺繍が施されたスカーフを数回詰った後に扉を叩いた。軽快とも重厚とも言い切れない響きが止み、数秒遅れて中に入る様にと男の声が聞こえる。共に戦い、共に自らの剣の刃を交わそうとした男の声は数ヶ月前となんら変わっていない。たかだか数ヶ月と判っていようとも数年来の懐かしさを感じさせる微笑を僅かに見せたユストの右手が扉の取っ手を掴んだ。
自らの手で開け放った扉の先は明るい。採光を主な目的とした窓は北部特有の淡い陽光を最大限に取り入れようと他の三ヶ国よりも大きめに作られている。その許で肘掛け付きの革張りの椅子に腰を降ろしている人物の影がユストが立つ位置まで伸びていた。
「久しぶりだな、ユスト・バレンタイン。」
ユストが望んだ声は窓の許から聞こえなかった。小振りなセンターテーブルを挟んで同素材で作られた二人掛けのソファにル・ゾルゾアは座っている。喉が震えないユストは彼の言葉に応えようと機知に富んだ者の肩へと手を伸ばした。
「二体の剣霊とは…さては謀ったか?」
ル・ゾルゾアの言葉ではない。やや低い声色は気丈夫を思わせる女のそれであり、強烈な殺気がユストを包み込んだ。気付いてからでは遅い。ユストの位置では逆光で見えなかった前方の角から何かが飛び込んで来る。身構えようにも相手はその動作を行う猶予を与えない。完全に虚を付かれたと思う中、百年香の爽やかな香りがユストの嗅覚を撫でた。
「これが北部の挨拶というやつか?」
契約者を守るべく瞬時の判断で動いた剣霊の奥深い緑色の瞳は言葉同様に敵意を滲ませている。束ねられた白銀の長い髪は相手を威嚇するかの如く身に受ける陽光を弾き返していた。黒き布で覆われた腕を彩るカエデの透かしが施された純白の袖がなびくのを止め、勢い良く放たれた左拳は静止している。白地に黒の幾何学模様が走るイルサーシャのドレスの襟ぐりから顔を覗かせている鎖骨の付け根付近から五センチあるかないかの場所である。気丈夫を思わせる女、深い赤と淡い赤の二つの色を持つ長い髪を一つに束ねた女が放った一撃はイルサーシャの破壊を目論んでいた訳ではない。ユストの肋骨の中央、心臓への打撃を狙っていた。
深い赤と淡い赤の二つの色を持つ長い髪を一つに束ねた女は何も答えず、語らずにユストを見据えている。燃え盛る炎や荒れ狂う激流とは程遠い、涼しげな眼差しは命の遣り取りを潜り抜けた者の証であり、自らと同じ目だと知ったユストは奥歯を噛み締めた。
先にハガンは刀身が疼くと語った。この心境を人間に当て嵌めるのであれば心が蠢くと言えようか。えも言われぬ息苦しさがユストを襲った。緊張の糸は僅かな弛緩すら許さずに張られたままであり、自らの剣霊が助けてくれたと安堵の溜息を漏らす余裕が無いのは理解している。だから息苦しい訳ではない。繰り出した左拳をそのままにした女の視線はイルサーシャに遮られようとも貫く目的はユストに他ならない。剣を携える者の眼差しにはこれまでに何度も相対し、その中を掻い潜ってきた。だが今回は違う。遭遇してはならない何かを目の当たりにしたかの様にユストは強い驚愕と自然と湧き上がる懸念に心身を預けていた。
忘れようとしていた過去が、忘れまいとしていた想いがユストの中で膨張し始めていた。




