表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第三章 エジュ・エジェ城塞編
36/75

堕ちた剣霊

 歴史とは個々の短い一生を織り合わせた膨大な記録である。

 誰がこの様に唱えたのか不明だが、その意図は凡そ間違いではなかろう。早世か大往生を遂げるかは別として、産まれると共に泣き、呼吸をする。生命の保持の為に食物を口に入れ、子孫という自らの分身を産み、やがて息絶える。これらはあらゆる生物に於ける行動と言える。その中でも知性に優れた生物である人間は手を器用に使い、得た知識を駆使して生涯に喜びを見出そうとする。だが、他の生物が真似出来ない物事を行うにも関わらず、人間には一つだけどうしても抑止不可能な事柄がある。排他的行動である。個人間及び中小規模の組織に於ける排他的行動は喧嘩もしくは闘争として認識される。そして大規模となり、つまるところ国家間による排他的行動を戦争と人々は呼ぶ。この戦争とは歴史に刻まれる為に存在すると断言出来よう。

 その昔、トウラドオク王朝中期に賊軍から王都を守る為に城塞建造計画が持ち上がった。その場所は何処にするかと様々な意見と憶測、そして利害関係が飛び交った末、起伏に富んだ岩山を臨む小さな市街地に白羽の矢が立った。その名をエジェ市街地と言う。後にエジュ・エジェと名を変えるが、付け加えられた『エジュ』とは古来の言語で『新たな』及び『生まれ変わった』を意味すると知る者は今となってはごく少数であろう。

 選ばれし地、エジェ市街地に膨大な数の労働者が送り込まれた。工期は二年と掛からなかった。岩肌と鋼鉄が織り成す姿は難攻不落の態を思わせ、大自然と人工物が混ざり合った厳つい風体はおぞましさすら呼び起こす。これから後、王都に向けて不逞な剣戟が鳴り響く事は無かろうとトウラドオク王朝に属する者たちは自らの偉業を讃えた。しかし皮肉な事に、他を威圧し造反を挫く象徴である城塞は反旗を翻した者たちにとって格好の目標となってしまった。例え巨大な建造物であろうとも時代の潮流を堰き止めるには荷が重いものである。

 エジュ・エジェを落とせ。エジュ・エジェを越えれば我々の勝利は目前だ。揺るがぬ信念を胸にし、熱き檄を飛ばしながら反乱軍はエジュ・エジェ城塞に挑む。どれほどの反旗が翻り、どれほどの人間が動員されたのかは詳細な記録が無い以上、不明である。ただ、彼らは敢え無くこの地に散ったのは明白と言えた。

 戦闘が行われた後の姿とはどれも同じである。勝とうが負けようが、視界に映る景色を知った誰もが空虚な溜息を漏らす。何をも斬れないであろう刃こぼれした剣が城塞の裾野に転がり、柄が折れた槍が城塞の岩肌を中途半端に貫いている。生物はどうか。腹や首に矢を射込まれた馬が横たわり、武器と同じ数の人間の屍が野を覆っていた。

 激戦から指折って数えられる程度の後に戦後の処理は行われた。政治的な話ではない、現場の掃除と言えようか。剣や槍の残骸は集められ、城塞の補修あるいは補強の為の素材へと役目を変える。馬の亡骸は貴重な革製品もしくは越冬には欠かせない保存食の一つである干し肉へと加工される。そして死に絶えた兵は戦利品を狙う追い剥ぎか被害を被った住民に身に着けている鎧を剥ぎ取られ、幾ばくかの生活の足しとなる。無論、何も身につけていない遺体は遺族の引き取りもままならないまま捨てられる。夜になれば腹を空かせた魔物か獣の足しとなるのか、何処からともなく吹く風に身を任せている死人草の種が生気を失った肌に付着し、数ヵ月後には赤い花を咲かせるかの道は二つしかなかろう。

 死する者の肉体は消え去った。しかし、魔物たちは人間の魂を喰らわない。畏れ多くて喰らうのに躊躇を伴うのか、それとも余程不味いのかは誰も判らない。ただ判るのは有るべき器を失った魂は安息の地を求めて彷徨う。ただ、人間の魂とは重い。様々な念が綿密に絡み合い、一つの塊を形成している。戦闘で散った者たちの魂とは怒りと悲しみ、そして後悔の色に染め上がり、とてつもない重さを有している。

 天に昇れず、誰にも弔われない無数の魂たちはエジュ・エジェ城塞の岩肌に身を寄せた。溢れんばかりの念が岩肌に染み込み、雫という結晶を休む事無く作り出す。

 生きる者には触れられず、形ある全てを妬む。いつの日からなのか、後を生きる人々はそう口にしては古戦場であったエジュ・エジェ城塞を忌む様になっていた。

「ふうん。あなた、より短いのに物知りなのね。」

 硬質ながらも滑らかな表面を思わせる床の上でブリスタンは頬杖を突きながら体を伸ばしていた。彼女の言う短いとは剣霊の髪、いわば刀身の長さを指してではない。剣霊として今の世を知る長さである。

 酸の雫が硬い岩肌を穿ち、苔が柔らかな光を発した。だが薄闇の中で黄金色の長い髪のしとやかで深い輝きの美しさには遠く及ばない。

「エジュ・エジェで行われた数多の激戦はが人間であった頃から有名な話だが。」

 ブリスタンの問いに答えるラファエラは両脚を抱えるように隅で静かにしている。その横ではクラウディアが力無くラファエラの肩に頭をもたげ掛けていた。

「そう?小母おばさん、東部出身だから北部についてはからっきしなの。」

 金属同士がゆっくりと擦れる音が薄闇に響く。頬杖を突いていようとも彼女が頭を傾いでいるのをラファエラはクラウディアの薄紫色の長い髪に手櫛を入れながら見つめていた。

「だが、ブリスタン、あなたはたちよりも剣霊として多くを眺めてきた筈では?」

「そうねぇ。剣霊になってから暫くの間、剣体のまま過ごした時期があるから知らない事も有るのよ。」

 一方のブリスタンは労る様に剣と剣が互いに身を寄せ合う姿に微笑を送っている。余裕の笑みというのか、ブリスタンに本心を語らせるのは容易い事ではないとラファエラは彼女を一目見た時から気付いていた。

「それよりも、あなたの妹さん、先程から元気が無いわね?」

 ブリスタンは頬杖を突いていない側の腕を動かし、彼女の可憐な指の中で最も器用に動く一本を薄紫色の長い髪の剣霊に向けた。

「妹?クラウディアはの姉だ。」

「本当かしら、それって?」

「人間であった頃、よりも一分前にクラウディアが産まれた。」

「なるほどねぇ。」

「不治の病に侵されて絶命まで三日と十時間となった母親からそう教わった。」

「しっかり者の賢い妹さんだこと。」

 大人の剣霊と妹の会話に姉は何も語らない。何かと会話に口を挟みたがっていたクラウディアは常に傍にあり、苦楽を分かち合ったラファエラに身を寄せて黙っていた。柔らかで純粋な趣を思わせる空色の瞳に闇を与え、全身は脱力した状態でいる。両手足に嵌められた腕輪と足輪が彼女に重く圧し掛かって見えた。

 エジュ・エジェ城塞の地下牢に幽閉されてからどれほどの時間が経過したのだろうか。何もしなくても体力は消費する。剣霊に当て嵌めるのであれば霊体を保持する時間が刻々と経過する。クラウディアは契約者であるユラン・エレエの血を欲した。しかしこの場では安らぎと悦を与えてくれる魅惑の液体は手に入らない。無用に込み上がる苛立ちと不安で心身を染める幼き双子の剣霊を見るに見かねたブリスタンは隠し持っていた自らの契約者であるル・ゾルゾアの血を分け与えた。人間であれば軟らかな肌触りを約束してくれそうな、しみや傷が一つも無い白い喉を惜しみも無く周囲に晒しながらクラウディアはル・ゾルゾアの血で体を潤したが、彼女の趣向にはそぐわなかった。男の血を口に含んでしまったという事実はクラウディアの心身共に疲労を生じさせ、目の前の幼き双子の剣霊の契約者がまさか女とは流石のブリスタンですら判りえなかった。むしろ男を毛嫌いする様相からして、後付けで女であったという訳では無さそうである。女でなければならないのであろう。だが剣を手にする女とはこの大陸が如何に広かろうとも数が限られる。どちらかが無理に契約を結ばせたのだろうか。いや、それでは長続きしない。剣霊と契約者の関係とは、例えるなら男女の契りと同様である。人智を超えた力を欲した女の契約者、そして柄を掴む唯一の権利を与えた代わりに共にある事に安寧を見出した幼き双子の剣霊。契約者と再会を果たした時、彼女たちはどの様な顔をするのか、とブリスタンは考え、また自らがル・ゾルゾアの顎鬚を湛えた横顔と自然な微笑を目の当たりにした際の表情を思い描く。幼き双子の剣霊とブリスタンの見た目の年齢は倍近く離れている。彼女たちが喜びに口元を綻ばせる中、ブリスタンは程好い厚みを有した唇の端を僅かに優しく歪ませる程度であろう。しかし、表情は違えど喜びを知る心に月日の経過は関係ない。百五十余年と八百年の差があろうとも剣霊の契約者に対する想いとはひとえに直向ひたむきな眼差しを送る姿であった。

「クラウディア、ユランが必ず助けてくれる。だからしっかりするんだ。」

 必ず助けてくれる、かとブリスタンは己の中で反芻した。纏わり着く湿気は怠惰とおぞましさを醸し出し、酸の雫が一定の間隔で滴り奏でる旋律は死の恐怖を心に刻もうとしている。実際、ブリスタンとて体力を消耗していた。先程クラウディアを指差す際に腕を上げるにもここまで難儀になったのかと実感したばかりである。このまま霊体を保てる時間は残り二日程度とみるべきか。それまでに道を開かなければならない。地下牢からの脱出を試みるにも目の前では蒼き鉄格子が行動を遮り、その冷たい輝き様は気概を尽く挫こうとしている。しかも幼き双子の剣霊をそのまま置きざりには出来ない。

「ねぇ、ラファエラ。とっても寒いよ…。」

 剣霊に温度の概念は無い。クラウディアの覇気を失った声からして単なる妄想、あるいは人間であった頃の記憶をつい口ずさんだだけとも言えた。

がこうして抱いている。寒くない筈だ。」

「うん。冬が終わって雪が融けて春が来たら…。」

「春が来たら?」

「みんなで王都の外れの丘へ遊びに行くんだ。」

「あぁ。そうしよう。」

「春は寒くないから昔から好きなんだ。あと、色んなお花が一面に咲き乱れて綺麗だよ、きっと。」

「そうだな。」

「ねぇ、ラファエラ。春までどれぐらい、かな…?」

 微かに開いたクラウディアの空色の瞳から剣の矜持が薄れ始めていた。彼女が霊体を保てる時間は残り僅かと知ったラファエラは答えない。緩やかにクラウディアの髪に手櫛を入れていた手の動きを止め、そのまま下へと下げる。姉の冷たい肩を妹の心温かな手は包み込んだ。

「クラウディア、目を閉じて静かにしていろ。次に目を開いた時が春だ。」

 力無く頷いた姉は妹の言葉に従った。薄紫色の長い髪がしなやかに垂れる様子をブリスタンは静観していた。

 酸の雫が弾ける音の中に女の悲鳴が混ざった。力無くか細い悲鳴であり、絶命を感じさせるものではない。苦難からの開放を思わせ、それは自我の崩壊も同居している。何が起きたのか。眉間に数本の皺を作り、流麗な目尻を更に細めたブリスタンに向けてラファエラは答えた。

「剣霊が堕ちた。」

「堕ちた?どういう意味?」

「やつらの手に堕ちたんだ。」

 相変わらず物静かな口調である。ただ、何事にも動じないという性分の持ち主ではないのは先のル・ゾルゾアの血を摂取した件で垣間見ている。ラファエラはこのエジュ・エジェ城塞の地下牢の存在意義を知っているのに間違いない、とブリスタンは捉えていた。

小母おばさんにもう少し詳しく教えてくれないかしら。賢い妹さん?」

 ブリスタンの口調も普段と変わらずだが、表情は異なった。険しさとは無縁と言わんばかりに波一つ無い水面を思わせる趣は戦いを前にした剣霊の表情である。彼女はそう遠くない身の危機を肌で感じていた。

「北の軍隊、とりわけ蒼い鎧の騎兵団は剣霊を武器に出来ないか試行錯誤している。」

「つまり…力ずくで無理矢理にでも契約者にして欲しいのかしら?」

「違う。たち剣霊の契約とは柄を握るべき人間を選定する。軍隊が望むのはその逆だ。」

「逆ねぇ。そう簡単に思い通りに出来るとは小母おばさんは思わないけど。」

「実は…簡単だ。」

 ラファエラは自らの肩の上で項垂れたまま静かにしているクラウディアの頭へ向けて端正な横顔を近付けた。今のクラウディアの状態が簡単だと言い切った答えなのであろう。頬擦りをする仕草は人間であった時から常に行っていた。その昔と違うのはお互いの体温を感じられず、人間らしい労りに満ちた眼差しを向けられない事か。

「で、彼らは小母おばさんと賢い妹さんも弱るのを待っているとでも?」

 そうだ、と短い返事をした後にラファエラは目を閉じた。彼女も契約者の血を摂取していない以上、霊体を保ち続ける時間を少しでも稼ぎたいと無言でブリスタンに訴えている。人間であれば鼻から軽い溜息を漏らして訴えを受け入れる光景の中、ブリスタンの黄金色の瞳が動いた。

 何かしらの気配がこちらへ近付いている。数にして三つ。一つは人間であると直ぐに判る。だが残る二つは判らない。八百年の歳月を知るブリスタンですら動かした黄金色の瞳を微動だにさせない程のおぞましさを感じさせていた。足音が二つ、エジュ・エジェ城砦の暗い地下牢の通路に木霊する。歩調の間隔からして男のものであり、酸の雫に舐められた床に硬質な音を奏でさせていた。規律と威厳を纏わせた響きは軍隊に所属している者の証でもある。恐らく蒼い鎧を身に付けた騎兵団の誰かであろう。三つの気配の内、二つの足音となれば残る一つは自らに似た存在、つまり剣霊だとブリスタンは察した。ただ、剣霊にしては気配がいびつに歪んでいる。己が剣としての矜持を捻じ曲げられたのか。単なる殺戮の為の道具に成り下がったのか。これがラファエラの言う堕ちたの意味なのかと知ったブリスタンは立ち上がった。これから戦いが始まる。ブリスタンの麗しき全身を駆け巡る闘志は普段よりも落ちていた。だが、躊躇する暇はない。この状況下では体力を消耗しきる前に全身全霊の斬撃を繰り出し、突破口を見つけるしか手立てはない。

 足音が次第に大きくなっている。一人と一体の予測はついた。残る一つは人間ではあるが、あまりにも強大な意思を感じさせる。まるで器に封じ込まれた殺気が内部で膨張し続け、今にも破裂せんと言わんばかりの凄まじさをブリスタンの高潔な肌は感じずにはいられなかった。これは人間の為せる所業ではない。では何によるものか。明確な解答を得られないブリスタンの横でラファエラは閉じていた目を開き、彼女の声が緊迫した空気を震わせた。

「八秒後に二時の方向へ渾身の力を込めた斬撃を放つんだ。」

 落ち着きを有した物静かな言い様は確固たる自信すら思わせる。ラファエラの意図は如何なるものなのか。ブリスタンの黄金色の瞳が横に流れ、空色の瞳と交わる。しかし、事の真意を確かめる時間は無いに等しい。

「仰角は一度きっかり。振りかざした腕はそのまま動かさないで欲しい。」

 確実に狙いを定めろと言っている。視界に飛び込んでくるのは薄闇の中をぬめる様に不気味に輝く岩肌と蒼色の鉄格子しかない。だが目で追えなくとも音が身の危険を知らせ、肌がこれから剣戟を交える者の位置を教えてくれる。刀身が短いと思われる剣霊はこれらを正確に読み取り、優雅な曲線を描く刀身を持つ剣霊に打開策を講じた。八秒という制限時間が過ぎようとしている。左足を前に出したブリスタンは眉間に力を込め、右腕に下から上へと孤を描かせた。

 深い黄金色の長い髪が一斉に踊り、繰り出された斬撃は蒼色の鉄格子の間隙を縫って未確認の敵へと迸る。金属同士が激しく激突した音が耳を突いた。僅かに遅れてラファエラの言葉通りに振り上げたままのブリスタンの腕に衝撃が走った。自らが放った斬撃を跳ね返され、受け止めた為である。厳密には振り上げた手首に嵌められた腕輪が皮肉にもその身を挺してブリスタンの誰にも侵されない肌を守っていた。穿たれた金属はまるで傷口から血を流すかの如く中に詰められていた液体を零し始めている。滴る液体は天井から降り注ぐ酸の雫と同じだと気付いたブリスタンの目許が僅かに驚きと感心が入り混じった表情を作った。

 本来ならば斬撃を放った後は次の攻撃に移るべく速やかに構え直すべきである。いくら渾身の力で腕を振りきり、手応えを感じようともその余韻に浸る時間を持ってはならない。余韻に身を預けるのは倒れた相手の微動だにしない姿を目の当たりにして勝利を掴み取ってからである。剣霊として経験が浅いラファエラとて知らなくは無かろう。しかしラファエラは腕を上げたままにする様にブリスタンに伝え、斬撃の横と縦の角度にも指示を出した。それは目の前の現実を予測した、いや、そう仕向けたと見るべきであろう。

「まさかあなた、これが狙いだったの?」

 ラファエラはクラウディアの頭を撫でながら頷いた。

「流石の小母おばさんとてそこまで先読みは出来なくてよ?」

「切れも伸び具合も見事な斬撃だった。刀身の長さが違うとは言え、には真似出来ないな。」

 ラファエラは持ち前の静けさを保ちつつ微笑を零した。

「お褒め頂いて嬉しいけど、どうやら次が本番のようね。」

「あぁ。ブリスタン、あなたの利き腕に纏わり付く邪魔な存在は消えた。多少は楽になった筈だ。」

 右の腕輪の中身は既に空になっている。左の人差し指が鈍い銀色の表面を素早く薙いだ。足元に転がった忌むべく装飾は無機質な音を奏で、ブリスタンは一時の開放感を謳歌するかの如く傾げた顔を彩る唇を半開きにしていた。

「あなたたちはそのまま座っていなさいな。小母おばさんがけりを着けるわ。」

 剣霊はそれぞれが誰にも侵されない矜持を抱いている。ブリスタンの矜持とは彼女の称号を知れば誰もが言葉無く頷くしかない。酸の雫がブリスタンのすぐ右脇を落ちる。黄金色の瞳を持つ彼女の爪弾く動作と共に酸の雫は床を穿つ前に薄暗い大気と同化した。

 勝利を掴むべく戦いが始まろうとしていた。


 無骨な足音の響きに呼応して揺らめく炎が視界に映り込む。頼り無い明かりは対峙する者の数を教えてくれる。人影が三つ。やはり気配を察知した数に狂いは生じていなかった。あとは視覚にて敵の形を知るだけである。男の影二つの前を女の影が入り込んでいる。前を歩く女とは剣霊に他ならない。しかし、歩くと表現するよりも歩かされている、と言葉及び解釈を訂正するべきか。確固たる足取りの男とは裏腹に女のそれは虚ろな雰囲気をブリスタンは読み取っていた。ラファエラの言うところの堕ちた剣霊。彼女がブリスタンの斬撃を弾き返したと捉えるべきであろう。影の元となる姿が次第に見えると共にもう一つの音にブリスタンは気付き、眉をひそめた。鎖のしなる音である。鎖の長さはかなりある。短かいのならばしなるよりも軋む音の方が顕著に聞こえる。鎖のそれぞれの端はどの様になっているのかとブリスタンが想像を働かせると共に強烈な殺気が彼女に襲い掛かる。だが、ブリスタンは微動だにせず、肘を掌で覆う女性らしい腕組みを崩さなかった。くうを切り裂く斬撃が蒼色の鉄格子に一条の深い傷を走らせ、荒れる風圧は深い黄金色の豊かな髪の一部を躍らせた。

「何処狙っているのよ、あなた。」

 甘くつややかであり不可侵の意思を感じさせるブリスタンの声が響いた。返事は無い。代わりに足音と鎖のしなる音が止み、相手の姿をブリスタンは知った。腰まで伸びている黒髪は薄闇の中で異様な煌きを有し、爛と輝く赤い瞳はのべつ幕無しに血を欲している。そして何よりもブリスタンの視線を奪ったのは蒼色の首輪である。これが堕ちた剣霊のあるべき姿なのか。元は邪剣霊であったのか、身を包むドレスの裾は擦り切れ、片方の袖は肘から下が破け欠損している。堕ちる前は野を当ても無く彷徨さまよい、獣の血を啜り続けていたのであろう。

「どうだ、こいつの一撃は。俺の血を飲ませただけになかなかだろう?」

 蒼色の首輪の後ろでは同じ色の鎖が伸び、その先端を青き鎧を身に着けた男が握り締めていた。先日この場にて囚われの身となっている剣霊たちにドブネズミと揶揄された騎士である。

「性懲りも無くまた斬られに来たのかしら、ドブネズミさん?」

 首を傾げたままのブリスタンがほくそ笑む。魅惑の唇の動きに反応したのか、揺らめいた炎は彼女の整った顔に陰影を与え、女のあでやかさよりも剣霊の無情さを色濃く映していた。

「黙れ、化け物が。今に目に物見せてやる。」

 ドブネズミと揶揄された騎士はその手に握る蒼色の鎖を手前に引いた。自ずと首輪を嵌められた剣霊は足音を立てずによろめく。鎖が擦れる金属音がその場にいる者たちの耳元に纏わり付いた。蒼色の籠手の左右が剣霊特有の女らしい肩とくびれた脇腹へ後ろから抱え込む様に添えられた。

「よく聞け、五番。お前の実力を知る試し斬りを今から行う。」

「五番…。」

「そうだ、五番。これがお前の新たな呼び名だ。」

 人間の血を久々に摂取した為なのか、堕ちた剣霊の虚ろに開いた口から漏れる言葉はたどたどしく、体の線に似てか細かった。

「試し斬り…?」

「お前も早く自分の強さを認めて貰いたいだろう?ならば俺とお前の目の前でにやけている金髪の上玉を捩じ伏せろ。」

より、綺麗な髪の剣霊は…目障りだ。」

 赤い視線と黄金色の眼差しが正面から交差する。一方はいきり立ったのか眉間に無数の皺を寄せ、残る片方は達観した静けさを携え続けていた。

「そう焦るな。巧く出来たら褒美をやろう。」

「褒美…。血、だ。人間の、男の血が欲しい。」

「あぁ、血以外のもくれてやるよ。俺もお前の肌を早く堪能してみたいんでね。」

 籠手越しの手が剣霊の体の上を蠢いている。角度によって映え方に変化を生じる蒼色は人間の欲望をあますところなく表現していた。華麗な色とは言い切れず、また穢れた色とも言い難い。ただ言えるのはこの場には相応しくない色だと知ったブリスタンの黄金色の瞳が動いた。一人、沈黙を決め込んでいる者がいる。猛る龍の顎を意匠とした兜を深々と被り、両脚を僅かに開いた姿勢で腕を組んでいる。見た目は無論の事、全身に帯びている雰囲気も明らかにこれまで遭遇した北部王立国家の騎士とは格が違う。兜の庇が彼の眼光を隠し、組んだ腕の左下に装着された剣へとブリスタンの視線が落ちた。これは只の剣ではない。自らも剣であるが故に手に取るように判る。鞘に収められている中身は狙いを定めた相手の身も心も怒涛の勢いで呑み込む刃を有している。この剣が発する佇まいに意識を集中せざるをえないブリスタンの脇を無情の風圧が通り過ぎた。

「こちらを向け…。」

 堕ちた剣霊は既に蠢く籠手越しの手から解放されている。顔と意識を自らへ向かせる為にわざと狙いを外し、ブリスタンもそれを知ってなのか、人間であれば軽く鼻であしらう様な仕草の表情を見せた。

「だから、何処狙っているのよ、あなた。」

「お前…より…見映えが良いな?」

「あなたと違ってちゃんと契約者がいるからよ。」

「契約…者?」

 両腕を垂らして揺らめく様に前に進む堕ちた剣霊の脚が止まった。

「ドブネズミ風味の血を渇望するあなたと違っては選びに選んだ契約者の血しか口にしないの。」

 堕ちた剣霊の黒髪は長く、緩やかな孤を二つ描いている。とは少々異なる曲剣であろうとブリスタンは見ていた。二つ描くとは刀身が左右交互に波打つ形状を有していると思われる。斬撃もさながら刺突撃にも対応可能な剣として一時期流行った形状である。しかし、多様性に富んだ剣とはある一つを極めたそれには及ばない。刺突撃の破壊力に於いては直剣に、斬撃の凄まじさに於いては曲剣に対してと断言出来よう。本来ならばこの様な剣に馬力負けするブリスタンではないが、堕ちた剣霊の動向を注意深く見守っていた。剣霊としての体力は今は目の前の敵の方が上と認めざるをえない状況と知っていた為である。たとえドブネズミの味であろうとも相手は人間の血を含んで間もない。一方のブリスタンは契約者であるル・ゾルゾアの血を含んでいないばかりかラファエラの言葉通りに渾身の一撃を放った。顔には出していないものの、更なる体力の低下を刻々と実感し始めている最中である。

 だが、その様な状況であろうとも負ける訳にはいかない。不利だからと敗北が許される状況ではない。これから始まろうとしている真っ向からの剣戟に昂ぶる感情を表現しているのか、腕を組んだブリスタンは首を深く傾げ、不敵な笑みで口元を歪めていた。

「よこせ。…お前の契約者をよこせ。」

「嫌よ。彼の全てはのものですもの。」

 堕ちた剣霊が繰り出すのは刺突撃なのか、斬撃なのか。相手とてブリスタンの深い黄金色の長い髪が描く孤からして一級品の曲剣であると見抜いている筈である。曲剣が得意とする斬撃で対峙するとは考え難い。ならば刺突撃となるが、この攻撃方法は放つまでの動作が大きく見破られ易い。果たしてどちらか、とブリスタンの中で詮索と推測が縦横無尽に絡まる中、ドブネズミと揶揄された騎士が言葉を荒げた。

「おい、何をもたついている。早く倒さないと俺の血をやらんぞ!」

 周囲が暗い事と兜を身に着けている為に彼の表情は見えないが、目を剥いているのが判る。手に持つ蒼い鎖をしならせ、その先にある堕ちた剣霊を急かしている。嵌められた首輪が軋んだ音を奏で、再びよろめいた堕ちた剣霊の黒い長い髪が不規則な孤を描いた。

「早く構えなさいな。ドブネズミさんが痺れを切らしているわよ?」

 ブリスタンの挑発に堕ちた剣霊は応じない。未だに腕を垂らしたままである。挑発に乗る乗らないは別として、何故構えないのか。隙を見て斬り上げを繰り出す算段なのか。ドブネズミと揶揄された騎士がけしかけるつもりなのか、一歩二歩と堕ちた剣霊へと近付く。蒼い鎖の一部が艶光りする床の上で規則性の無い模様を形成し、耳障りな音を放つ。模様の変化を聴覚のみで捉えていたブリスタンの整った眉が僅かに動いた。

「ブリスタン、あの堕ちた剣霊は…。」

 組んだ腕の先にある人差し指と中指が数回肘を打ち、喋るなとラファエラへ促す。先読みが得意とするラファエラはブリスタンに堕ちた剣霊の初撃を伝えようとした。しかし、それは遮られた。ブリスタンも相手を読みきったのか。物静かな表情の中にも怪訝な趣を隠せないラファエラの空色の瞳が相対する二体の剣霊を映し出している。揺らめく松明の炎は静寂の中で松脂の臭いを撒き散らし、その脇を酸の雫が何を気にする事無く落ちた。

「ところで、あなた、名前は?」

「…思い出せぬ。」

「そう、可哀想に。」

 再び酸の雫が滴り、床に跳ね返る前に両者は激突した。堕ちた剣霊はブリスタンに肩から体当たりを仕掛けた。目の前に立つ深い黄金色の長い髪を持つ艶やかな剣霊は充分に腕を振る体力が残されていないと見越して力技に持ち込もうと判断したのであろう。加えて両足には彼女に俊敏な動きをさせまいと足輪が嵌められたままである。堕ちたと表現されようとも流石に剣霊であるだけに人間よりも素早い。蒼い鎖がしなる音を聞いてから動いたのでは遅い。静かに垂れ下がっていた長い黒髪は蕾が膨らんだかの様に優美な曲線を描く。

 一方のブリスタンは斬撃を発しようとしていない。やはり既に腕を振ろうとも何物をも凌駕する斬撃を発せ無くなっていると知ったのか、彼女は右脚を前に出し、組んでいた腕の上下を入れ替えただけに過ぎなかった。

 異なる矜持を撃滅せんと喰らい付く音と共に松明の炎が揺らめいた。狂猛な孤を描いていた長い黒髪は推力を堰き止められた勢いを利用して深い黄金色の優美な髪へ襲い掛かる。毛先同士が微かにも触れれば剣戟と同じ金属音が不気味な地下牢の中で木霊した。

 両者共に激突したまま動いていない。どちらが相手を凌駕したのかラファエラはすぐに判断出来なかった。彼女が人間であれば固唾を飲んでいるであろう光景の中で酸の雫が一滴、堕ちた剣霊の肩の上で弾けた。刀身を侵食される痛みに耐えようと呻き声が聞こえた。それは細く、女らしいものであったが、やがて悲痛に似た叫びへと変化した。肩に落ちた一滴が導いたのではない。ブリスタンの一撃によるものだと知ったラファエラは驚愕のあまり項垂れるクラウディアの頭を擦る手を止めていた。

 ブリスタンの一撃とは彼女が最も得意とする斬撃では無かった。右脚を前に出したのは堕ちた剣霊の体当たりを真っ向から受け止める姿勢であった。勝利を自らの称号と頂く剣霊が何もせずに防御に徹したのだろうか。利き腕と思われる右の腕は動いていない。代わりに左の腕が動いていた。堕ちた剣霊の顔面へ手甲を打ち込む様な形のまま止まっている。汚れを知らない腕に嵌められた二つの腕輪が堕ちた剣霊の眉間を打っていた。堕ちた剣霊の全てを切り裂かんとする刃は二つの腕輪を穿ち、その中に仕込まれた酸が彼女の顔の上で弾けたのである。

 視力を奪われた堕ちた剣霊は左の手で左右の目許を押さえなが二三歩よろめき、やみくもに右の手を振り始めた。難無く避けるブリスタンの深い黄金色の優美な髪がなびき、酸が金属を侵す臭いは勝利の剣霊になんとも言えない表情を作らせていた。

はここよ?」

 ドブネズミと揶揄された兵の脇へ移動したブリスタンが自らの立ち位置を音で発した。聴覚しか頼れなくなった堕ちた剣霊は勝利の剣霊を切り刻まんと甘い声色が聞こえた方角に向けて狂猛な刃と化した右腕を振りかざす。蒼い鎖が無秩序な音を奏で、覆われた目許の下で激痛に苛まれた口は歯を喰いしばっていた。

「おい、やめろ、こっちじゃない!」

 慌てふためくドブネズミと揶揄された騎士は腰に佩く剣の柄に手を掛けようとしたが、その手には蒼い鎖を握っている。持ち替えようとも投げ捨てようとも一つの動作を行う時間を堕ちた剣霊が与えるとは考え難い。例え蒼き鎧を身に着けた者が屈強であろうと剣霊の一撃を人間が見切るのは至難の一言に尽きる。

 終わった。ブリスタンとラファエラの中で、まるで示し合わせたかの様に同じ言葉が響く。ブリスタンは顔を傾げつつ艶やかな目尻を細め、ラファエラは普段と同じく端正な目許を保っていた。ただ闇雲に、そして狂気に満ちた斬撃は蒼き鎧に深い傷を刻むであろう。しかも他の剣霊が放つ斬撃によって蒼き鎧の硬度を推し量る事も可能である。右斜め上から左下へと堕ちた剣霊の腕が振られようとしていた。

 青白い一閃が薄闇の中を迸った。あらゆる事象を拒絶するかの様な一撃はその場にいる者の虚を突いた。ドブネズミと揶揄された騎士の目は見開いたままであり、ブリスタンの艶やかな目尻は怪訝な色を注し、ラファエラの端正な目許は珍しくも事実を受け入れられない言わんばかりに人間らしい趣を纏っていた。

 微動だにせず、そして何も語らなかった男が放った一閃は堕ちた剣霊の背中を切り上げていた。それが単なる一閃であれば二振りの剣霊に表情を与えなかったであろう。斬り込みの凄まじさ、剣蹟の深さは人間が為しえる技を越えている。だが、何よりも目を奪ったのは青白い炎を纏った刀身であり、その刀身が放った一撃に甘んじた堕ちた剣霊が同じ色の炎に包まれていた。

「まさか…それは燃ゆる剣、なのか?」

 ラファエラの一言は己の記憶と目の当たりにした事実が自らの中で拮抗している様子を如実に表していた。

「ほぉ。小さいの、よく知っているな。」

 ついに男は口を開いた。男らしい低音の中に聡明さが垣間見れる響きは彼が手にする剣の刀身が放つ青白い揺らめきと相まって不気味な戦慄を思わせる。満足と言わんばかりに鼻から息を漏らした彼は言葉を続けた。

「これはある方から頂戴した一振りでな。」

「イ、イーハン団長。助かりました。有難う御座います。」

 すかさず謝意を述べたドブネズミと揶揄された騎士は腰を抜かしていた。尻と両手を硬くも滑らかな床に着き、顔は酸の雫ならぬ自らの汗で覆われていた。

「あぁ、礼には及ばんよ。」

「イーハン団長、この五番は失敗作でした。我が強いばかりでたいして実力が無い素材でした。」

「ほお、実力が無いと君が言うか…。ならば新たに六番目となる剣霊を調教すれば済む話だ。」

 猛る龍の顎を意匠とした兜が僅かに動く。その下に隠されている瞳は氷の冷たさを思わせる青色をしていた。

「ところでその見事な剣は国王陛下が御下賜されたのでしょうか?」

「まさか。これほどの逸品、騎士の頂きに君臨する国王陛下が手放す訳が無かろう。仮に手放すとしても次期王位後継者に託すとも考えられるが、なんせ剣を一時間も満足に振れない小娘には手に余る品だ。」

「小娘、と今仰せられましたか…?」

「君、我輩は何か間違った事を言ったかね?」

「イーハン団長、我々がお仕えするヴェルリンク家の、イゼリアーシェ王女殿下を単に小娘と侮蔑されるのですか?」

 なるほど。殿下と称される者は女であり、名前はイゼリアーシェというのか、とブリスタンは耳を傾けていた。だが、彼女の関心は他へ注がれていた。ドブネズミと揶揄された騎士が纏う蒼き鎧の胸に刻まれた国章が燃ゆる剣を手にする男、テウヌス・イーハンに諫言している様な光景の横でブリスタンは斬られた堕ちた剣霊に視線を落としていた。青白い炎が彼女の心身を燃料として燃え盛っている。彼女はもう助からない。声も出す事もままならず、ただ自らが跡形も無く蝕まれるのを待つだけなのは誰の目から見ても明らかであった。

「小娘の事はともかく、実はある方からこの剣の扱いに一つ条件を言い渡されていてな。」

 燃ゆる剣を持つ籠手越しの手が角度を変えた。それが何を意味するのか気付いたラファエラの口が動くよりも早く、青白い炎が再び無情に舞う。何者の抗いを許さない切先はドブネズミと揶揄された騎士の喉を貫いていた。

「この剣を見た人間は誰一人残さず生かしてはならないとの事だ。」

 斬る者は沈着冷静な声を響かせ、斬られた者は声と言うには程遠い呻きを発する。苦し紛れに刀身を掴んだ指が体から離れ、否応なしに青白い炎に包まれた。体を構成する肉が燃え、骨がけ、体内を駆け巡っていた血がふつふつと無惨な音を立てて気化する。絶え間なく動いていた心臓は既に機能を失い、惨たらしい臭気が辺りを覆う。人間であれば口を押さえて顔を背ける中、勝利の剣霊は落としてた視線をテウヌス・イーハンへと移した。

「その剣、確かに逸品かもしれないけど、団長さん自身はどうなのかしら?」

 黄金色の瞳は静けさを保っていた。荒れ狂う直前の水面を思わせる剣霊の姿を目の当たりにした人間は戦慄を感じずにはいられず、心身は思うように動かなくなる。いわゆる強烈な殺気に当てられた状態に陥る。だが、燃ゆる剣を手にするテウヌス・イーハンは特に構える事無く、手にする逸品を鞘へと戻した。

「お前ら化け物に評価される程の人間ではない。ましてや評価されて喜ぶ人間ではない。それだけだ。」

 青白い炎が鞘に納まり、周囲は再び仄かでありながらも頼り無い松明の炎だけの世界が広がる。その様な中でテウヌス・イーハンの低く自信に満ち溢れた男の声が響く。

「へぇ。が思った通りにつまらない男だこと。」

 首を傾げ、侮蔑と嘲笑を含んだ眼差しに挑発される男ではないとブリスタンは理解している。だが内に秘める敵意をちらつかせている剣霊を前に全く動じない男の素性が気になる。蒼き鎧に身を守られているという安堵によるのか、燃ゆる剣という至上の逸品を携える事が彼を大胆にしているのか。

「構わんよ、ブリスタンとやら。剣霊という化け物である君に愉しんでもらおうとははなから思っていない。」

 エジュ・エジェ城塞都市に足を踏み入れて以来、ブリスタンは自らの名を人間の前で語った覚えは無い。踵を返したテウヌス・イーハンの肩から下げている黒いマントの端が踊った。そのひらめく姿は何処での名を知ったのかと怪訝の色を隠せないブリスタンを嘲笑っていた。

「愉しませてくれないのなら、自らがその様に仕向けるしかないようね?」

「果たしてそう出来るかね?」

「余裕なのね、団長さん。」

「契約者の血を摂取出来ずに弱りきったお前たちを斬るのは造作無いからな。」

 振り返らずに語るテウヌス・イーハンの言葉と共に剣霊に背中を見せた時点で彼の自信の程を窺い知れる。具足が奏でる味気ない響きと酸の雫が放つ儚げな響きが絡み合っていた。

「明後日、この北部王立国家の大衆の面前で新たに狩った剣霊とお前たちを戦わせる。忌々しき存在としてお前たちはエジュ・エジェの地に砕け散って貰おう。」

 鼻で短く笑うテウヌス・イーハンの後ろで一つの気配が動いた。微かであり弱々しい気配は彼の動く足を止めるまでには至らなかった。

「ねぇ、団長さん。どうしてたち剣霊が嫌いなの?」

 ラファエラの肩に頭をもたげたままのクラウディアの言葉にテウヌス・イーハンは首を動かした。

「嫌いも何も。お前たちは人間を刻み、血を喰らう。人間にとってあってはならぬ存在だ。」

たちは何も悪い事をしていないよ。なのにどうして?」

「くどい。剣霊という化け物だからだ。」

「団長さんの大事な人、剣霊に斬られたの?だから嫌いなの?」

 揺れる黒いマントが静かになり、味気ない響きが止まった。

「そうだ。」

 ゆっくりと誰にでも聞き取れる短い返事の後にテウヌス・イーハンは腰に佩く燃ゆる剣の柄に手を掛けた。クラウディアの頭を擦るラファエラの手は否応にも動きを止める。クラウディアの空色の瞳は力無い。だが自らの命数が尽きたと悟った者の色に染まってはいない。むしろ溢れんばかりの優しさを携えていた。

「その人、亡くなった今でも団長さんをいつも見守っているよ。」

 酸の雫が一滴、燃ゆる剣の柄に掛けた手甲の上で弾けた。逸る心を撫でる様な、怒りに任せた身を慰める様な光景の中、テウヌス・イーハンは動こうとしない。数秒の間を置いて猛る龍の顎を模した兜の下で氷の様に冷たい瞳はクラウディアを見据えていた。

 もう喋るのを止めろとラファエラは空いている手がクラウディアの肩へと置かれる。再び空色の瞳に闇を与えたクラウディアは彼女が最も頼りにし、最も長い時間共にしている者の意向に従った。

「ちょうどお前と同じ髪の長さだった。」

 利き手を楽にしたテウヌス・イーハンの黒いマントが松明の頼り無い明かりに呼応して再び緩やかになびく。具足が奏でる硬質で味気ない響きが聞こえなくなるまで偶然にも天井から酸の雫が落ちる事は無かった。

 クラウディアの一言が彼の乾いた心に幾ばくかの潤いを与えたのか、あるいは手甲の上に落ちた酸の雫が気まぐれを催させたのかは判らない。ただ鮮明に判るのは戦いは回避されたという事実に身を置かれた事か。あくまでも置かれたのである。最良の状態で挑めず、しかも謎に包まれた燃ゆる剣を前に敗北という名の最期を感受せざるをえない、屈辱の戦いとなったであろう。

 心優しき姉と賢き妹を交互に見つめた後にブリスタンは膝を折った。切れ込みが深いスリットから女らしさを前面に出した脚が露になろうともラファエラの表情は変わらない。物静かな彼女とて戦いを回避できた安堵と張り詰めた空気から開放された憔悴に身を置き、他の事に関心を寄せる余裕を失っていた。ブリスタンが身に纏う黒い薄絹が柔らかな音と共に床を撫で、その先には堕ちた剣霊の亡骸が横たわっている。灼熱の炎に晒された彼女は霊体を保持出来ず、真の姿である剣体は炭化し、単なるすすとなっていた。一振りの剣として見るも無惨な景色の中、ブリスタンは右の人差し指を床の一部に這わす。堕ちた剣霊の亡骸の斜め上にあたるその位置に古代文字が刻まれていた。

「あなた、カタリナって名前だったの…。」

 這わせた指をそのままずらし、すすとなった剣体に触れる。白い指が黒に染まった。命の名残りであり、剣としての矜持の成れ果てを握り締める。音など立たない。仄かな温かさは青白い炎による熱ではない、女として生きた者の心の内だとブリスタンは自らに言い聞かせていた。

「ようやく眠れるわね、カタリナ。」

 握り締めた手がゆっくりと開き、すすは薄闇の中に消える。

 酸の雫が落ちた。その響きは気休めの鎮魂歌であり、とても儚い音であった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ