王者の涙相
北部王立国家内に聖跡として崇められている場所が幾つか存在する。その名の如く、いずれも初代国王であるカルラン・ヴェルリンクの謂れを持つ。エジュ・エジェ城塞都市の聖跡は大通りに面した、市内で最も豪奢な国営によるホテルの裏庭に見受けられた。
エジュ・エジェの地は旗揚げの地と伝えられている。初代国王となる以前、一介の騎士であったカルラン・ヴェルリンクは腰に佩く剣を大地に突き刺し、誓いを立てたという。
自らは神の子にあらず、人の子にて力を欲する者。
自らを育み、愛して止まない祖国の為に今ここに立ち上がらん。
願わくば、我が命が潰えようとも、平穏と安泰を築き、あらゆる障害をも撥ね退ける祖国を生きる人々の団結が悠久と共に有らん事を。
聖跡の前で一人の女が踞礼を執っていた。保温性に優れていそうな黒いケープの下で黒地に青の小さな花が所々に咲き乱れる柄のドレスに滑らかな皺が走っている。細身ではあるが持ち主に似た清廉な品格を思わせる鞘を有する剣を脇に置き、静かに目を閉じていた。聖跡ゆかりの人物と対話をしているのか、或いは自らの心の内を見つめ直しているのか、適度な長さを有する白金色の睫毛は微動だにしない。
吹く風が項垂れた彼女の首元を冷やそうと悪戯を試みるが、緩やかに一重に巻きつけた、睫毛と同じ色の長い髪が彼女を守る。暗い色をした冬の乾いた大地と対極を成している、彼女の体の前に垂らした柔らかで明るい色の毛が僅かに躍った。彼女は顔を上げ、目を開いた。万物の事象を正確に読み取らんとする灰色の瞳である。そして左右に流れる切れ長の目尻の下にはそれぞれ程好い大きさの黒子がある。彼女の表情を一段と魅力的に映えさせるであろう、この特異な黒子を持つ相を大陸に生きる人々は王者の涙相と呼んでいた。
常に涙を流している王は憐れみ深く、民草に情けを掛けるのを忘れなかった、と言い伝えられているが、その様な王が過去に存在した記録は見つかっていない。永遠の平和と変わらぬ安寧を渇望した庶民の願いが一人歩きし、今に至ると考えられる。単なる寓話といえばそれまでだが、この稀有な相を忌む者がいようか。彼女が生まれた際、王者の涙相を持つ者と知った父親はたいそう喜んだ。ただ、彼女が女子であった点と次子という現実が男の長子であって欲しかった、とその喜びは理不尽且つ詮無き願望に取って代わってしまった。
しかし、運命とは生きる者全てを翻弄する。むしろ翻弄される為に生きる者は存在していると言っても過言ではあるまい。邪剣霊の一閃で命を落とした兄に代わり、次期王位後継者となったイゼリアーシェ・ヴェルリンクは地に置いた自らの剣を掴み、確固とした眼差しと共に立ち上がるとホテルの自室へと向かった。
朝の早い時間であるだけに、ホテルの長い廊下を歩いている際に従業員とすれ違う事も無かった。恐らく彼らは朝食の用意に勤しんでいると思われる。誰かの視線を気にしなくて良いと知ったイゼリアーシェ・ヴェルリンクは鞘の中頃を握り締めた両手を腰の後ろに廻し、廊下の壁面に掛けられた絵画や彫刻を一点ずつ吟味しながら自室へと足を動かす。常日頃見ている王都のそれとは違って温か味があるのだな、と関心と共に歩く。数ヵ月後に二十二歳になる彼女の後ろ姿は初々しく、軽やかな足取りは歳相応の華やかさを醸し出していた。
彼女の為に用意された部屋は白と茶を基調とした質素な色使いの中に気品の高さが覗える内装が施されていた。手にする剣を執務用のデスクの傍らに立て掛け、纏う黒いケープを部屋の片隅にある鉄製のコートハンガーに預ける。肘掛け付きの木製の椅子に身を預けたイゼリアーシェ・ヴェルリンクは昨夜に淹れてから手付かずにしていたハーブティーを一口含んだ。彼女の身の回りの世話をし、身辺の護衛もするユラン・エレエが淹れたハーブティーは王都から遠く離れたエジュ・エジェの地であろうとも、冷めていようとも普段と同じく味は落ちていない。
王女殿下と呼ばれる立場とは言えども、複数の一糸乱れぬ視線を浴びながら人前で話すのは疲れる。ましてや演説となれば疲労感が全身を駆け巡る。昨日の式典はその極みの頂点に達していた。期待と不安、憧憬と怪訝を思わせる群集の眼差しに晒され、自室に戻るなり皺が一つも無い白いシーツのベッドにうつ伏せになったまま眠りの世界へと引きずり込まれてしまった。
昨晩の自らの有り様を思い返してイゼリアーシェ・ヴェルリンクは自嘲めいた笑みを微かに見せた後、二口目のハーブティーを含む。気を取り直した彼女は執務デスクの上で頬杖を着くと、脇に無造作に置かれた帽子の表面を空いている側の一本の指で愛でる様に撫でた。
「お早う、チェクル。」
ノウサギの毛皮を惜しみも無く使った円筒状の帽子にイゼリアーシェ・ヴェルリンクは持ち前の可憐さを伴った誰の耳にも心地良さを思わせる声で言葉を続けた。
「昨日の私をチェクルはどう思いましたか?あなたに誉めてもらおうと私は努力したのですよ。」
細めた目をそのままに、触れる一本の指が二本、三本と増える。滲み出る愛しさよりも湧き上がる救済を求めんと細い指が動く。ノウサギの毛の柔らかさは指を通じて彼女の心を撫でているのか、安らぎに出会えたと自然と自らの口元が綻んでいたのを彼女は気付いていたであろうか。
しかし、安らぎの時に身を委ねていられるのは短い。王女殿下であろうともなかろうとも安らぎとは直ぐに去り逝く。動く指が呼吸を潜めるかの如く止まった。部屋の扉を誰かが叩いた為である。無垢の硬い銘木を使用している事もあるが、重厚な響きは男の手、しかも鍛え上げられた肉体の持ち主であり、厳格な規律を重んじる者による音と容易に察しが付いた。
「どうぞ。」
細めていた女の目は王女殿下と称される者のそれとなり、ノウサギの毛皮で作られた円筒状の帽子に触れる指は女のか弱さを隠し、次期王位後継者として国中の騎士たちに号令を下す気高き尊厳を表面に纏わせる。イゼリアーシェ・ヴェルリンクの面持ちは個の表情から公の容貌へと変化していた。
部屋の主の声が響いた後、銘木を用いた扉が開いた。蒼き鎧で身を包んだ男である。朝早くから次期王位後継者に謁見可能な彼は他の騎士と明らかに違う。肩から黒いマントを下げ、こげ茶色の髪を後ろへと撫で付けた姿は見るからに頼もしさと厳格さが同居している。猛る龍の顎を意匠とした兜を左脇に抱えた彼は丁寧に且つ無駄の無い動きで扉を閉めると、イゼリアーシェ・ヴェルリンクに体を向けて膝を着き、臣下の礼を執った。
「このような時間に私の許を訪ねるとは。テウヌス・イーハン、火急を要する事態が生じたのでしょうか?」
テウヌス・イーハンの澄ました表情を覗う限り、火急を要する事態など生じていないと判る。無論、彼が王女殿下の前で慌てふためいた姿は一度も無い。まるで常に自分の周りで物事が動いていると言わんばかりにふてぶてしさを伴う落ち着きを払う彼に少々の嫌味を投げたに過ぎない。執務用のデスクの下でイゼリアーシェ・ヴェルリンクは脚を組んだ。耳に心地良い衣擦れの音が静まるとテウヌス・イーハンは垂れていた頭を元の位置へと戻した。
「殿下、朝早くから申し訳ないのですが、この臣の手による書簡に御認可のサインを頂きたく参じた所存でございます。」
男らしい低さと共に単なる武辺者ではない聡明さを聞く者に思わせるテウヌス・イーハンの声が部屋に響く。彼の左脇には身を包む鎧と同じ色の鞘を有する直剣が整然と置かれている。曇り一つ無い窓から差し込む陽の光に反応して、蒼い鞘は幻想的な色合いへと変化していた。
「拝見しましょう。」
イゼリアーシェ・ヴェルリンクはデスクの上に書簡を置くようにと二本の指で示し、テウヌス・イーハンはそれに従った。厚めの紙片を絹製の紐で彼女の手首ほどの大きさに丁寧に丸められいる。傷一つ無い両方の手を用いて絹製の紐の両端を掴めば音を立てずに解けた。丸められた紙片は本来の形となり、北部王立国家の文字で綴られた内容をイゼリアーシェ・ヴェルリンクは目で追った。彼女の目尻が徐々に細まる。ノウサギの毛皮の帽子に触れていた時とは真逆の、険しさと懸念のみが浮き出ていた。
「大陸の平和と秩序を磐石とし、誰もが安寧の許で暮らす。昨日の式典に於ける殿下の演説、見事の一言に尽きると聴衆は皆して感銘を受けておりました。」
膝を着くテウヌス・イーハンの声と内容はイゼリアーシェ・ヴェルリンクの目尻を更に細めさせた。
「果たして本当でしょうか?この書簡を読む限り、あなたを含めた身近な者たちは必ずしもそう感じているとは私には思えません。」
手にする書簡を節の歪んだ表情が趣深い執務用のデスクに置いたイゼリアーシェ・ヴェルリンクはハーブティーで口と喉を潤し、誉れ高き騎兵団長へと視線を向けた。宵の蒼を纏う鎧とは異なる、氷の冷たさを思わせる青い瞳を持つ彼は自らの主の灰色の瞳による注視を浴びようとも微動だにしない。むしろ彼女よりも人生経験豊かな年上の男らしく、彼なりの柔らかな表情を作り出していた。
「さしずめ単に殿下の思い過ごしでしょう。ただ臣としては、言葉が一つ足らなかったのが心残りでした。」
「心残りとは…。足りなかったとはどの様な言葉でしょうか?」
「忌々しき剣霊の全てを闇に葬る、ですよ、殿下。」
想定内の言葉であったのか、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは特段表情に変化をもたらす事無く、組んでいる脚を入れ替えた。
「昨日の演説の草稿は私と父の二人で仕上げました。あなたは騎士の頂点であり国王であるイダス・ヴェルリンクに物申すのですか?」
「国王陛下に楯突くつもりは毛頭御座いません。ですが、その書簡にサインを戴ければ臣を始めとした蒼き鎧を纏う事を許された騎士たちの団結は一層強固なものとなり、殿下への忠誠は未来永劫不変となるでしょう。」
「それ故に剣霊狩りを行うと?」
テウヌス・イーハンの手による書簡には剣霊討伐の指揮をイゼリアーシェ・ヴェルリンクに仰ぐ内容が記されていた。明後日の日の出を機にイゼリアーシェ・ヴェルリンクを御旗とし、蒼き騎兵団の長であるテウヌス・イーハン以下二十名はエジュ・エジェ城塞都市一帯に出没する剣霊を良し悪しに関わらず全て討伐する。この北部王立国家では剣霊とは恐怖の対象の頂点であり、国家の基盤たる民を混沌と無秩序へと陥れる存在に他ならなかった。
「殿下、我が北部王立国家の敵は東部でも中央でもありません。真に叩くはこの大陸を闊歩する忌々しき存在、剣霊とその都と言われるコノリギスです。失礼ながら殿下がご存命の内にコノリギスを治める剣霊帝とやらを引きずり出し、我が国章旗の許に平伏させずに平和は訪れないと臣は考えております。」
着けていた膝を元の位置へと戻したテウヌス・イーハンは持論を展開し始めた。コノリギスを平定した後に捕縛した剣霊たちを捨て駒にして東部帝政国家へと侵攻し、南西自治国家は和平条約の見直しと称して武力行使の上、併呑する。残る中央行政府は経済制裁を行えば自ずと帰順の姿勢を見せるであろう。壮大な理想を抱くテウヌス・イーハンの熱弁の前にイゼリアーシェ・ヴェルリンクは組んでいた脚を再び何度か入れ替えて時が過ぎるのを待ち望んでいた。
「私が望む平和とは大陸の統一ではありません。過去のトウラドオク王朝の例を見れば明らかではありませんか。しかも覇王と呼ばれたノイ・トウラドオクは剣霊たちには一切手を出さなかったと伝えられています。あの絶対権力を手中に収めた覇王を以てしても剣霊とは決して触れてはならない存在なのです。」
「それがトウラドオクの最大の過ちだと臣は認識しております。当時の善良な臣民たちは腹を空かせた剣霊どもに血を吸い尽くされると目下の恐怖に慄き、日々共にする安寧と築くべき秩序は音を立てて瓦解したのですぞ?」
イゼリアーシェ・ヴェルリンクは書簡へと視線を落とした。彼の考えに概ね間違いは無いであろう。邪剣霊に襲われた人間は悲惨な最期を迎える。血を全て吸い尽くされ、動く屍となり、愛した者たち、そして愛してくれた者たちですら嫌悪の表情で殺しに掛かる。剣霊とは人間の魂が野に捨てられた剣に移り込んだ存在と聞いている。遅かれ早かれ、人間は必ず死を迎える。これには誰も逆らえず黙って受け入れるしかない。しかし、剣を野に晒す事、端的に言えば戦争を抑止する事は可能ではなかろうか。イゼリアーシェ・ヴェルリンクの抱く平和への道程とはそのようなものであった。
「ところで殿下、忌々しき剣霊の手に掛かった者の悲しみをご存知でしょうか?」
イゼリアーシェ・ヴェルリンクは落としていた視線を再びテウヌス・イーハンへと向けた。
「兄上を剣霊によって失った私に何を語れと?」
「実は臣の妹も十五年前の夏、豪雨の翌日に剣霊の餌食となりました。成人を向かえる前の可憐で希望に溢れる年頃でした。」
予想通りの回答であったのか、テウヌス・イーハンは満足げな溜息を鼻から漏らした。
「左様でしたか。ならば私の心の内はテウヌス・イーハン、あなたと同じと言えましょう。」
イゼリアーシェ・ヴェルリンクの双眸の先にある長い睫毛が伏し気味になり、左右の目尻にある黒子が悲しみの彩りを添えていた。僅かな時間を置いて、執務デスクの中頃に置かれたペン立てに整然と納まる羽根ペンへと、先程まで剣を掴んでいた右手が伸びた。北部に生息する鷹の尾羽を用いてた羽根ペンである。厳冬を耐え抜く猛禽の羽根は南部のそれよりも目が詰まっており、雄大であり独特の縞模様が勇ましさと気高さを見る者に思わせるであろう。
「殿下、深い悲しみの次に生じるのは憎しみよりも嫌悪です。妹の死は臣に人間以外は決して信じるな、とその身を以て教えてくれました。忌々しき剣霊を含めた動物たちは何を作り出す事無く、ただひたすら腹を満たす為に生きているのです。」
手にする羽根ペンが窓から差し込む陽を浴び、執務デスクの表面に影を作り出している。少し距離を置いた場所では蒼き鎧と床に置かれた剣が降り注ぐ陽を跳ね返さんと妖しげに輝いていた。
「何も空腹を満たすだけ、とは少々行き過ぎた考えだと私は思います。」
「ほお。と言いますと?」
「動物にも表情があるものですよ。彼らは言葉を介さない代わりに喜びや悲しみ、そして淋しさを表情を使って訴えますから。」
羽根ペンの先端が紙片の上を走った。執務デスクの表面とは対比を成す質素な味わいの取っ手をしたブロッターを自ら押し当て、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは目の前の騎兵団長へと仕事を終えた紙片を差し出した。滑らかな線でありながらも格調高い人物像を表す王女殿下の筆跡を見届けたテウヌス・イーハンは再び満足そうな溜息を鼻から漏らすと元の様に丸め、床に置いた剣を右手で掴んだ。
「有難う御座います、殿下。さて、その動物の表情とやらですが…。」
氷の冷たさを思わせる青い瞳がイゼリアーシェ・ヴェルリンクの横へと動いた。
「確か…名はチェクルと言いましたか。このノウサギは愛玩物として可愛がってくれた殿下の胃に納まると知って、どの様な表情をしていたのでしょうか?」
一瞬ではあるが眉間に深い皺が寄り、王者の涙相が歪んだ。だが、臣下の前では常に冷静を保たなければならないと知るイゼリアーシェ・ヴェルリンクは冷めたハーブティーを口に含み、湧き上がる怒りと共に飲み込んだ。
「それは私と亡きチェクルだけの思い出です。あなたには関係ありません。」
イゼリアーシェ・ヴェルリンクは毅然を保たんとする眼差しをそのままに、怒りを抑えんと小刻みに震える左手で扉を指差す。退室を命じる示唆に従い、テウヌス・イーハンは一礼をした後に黒いマントを翻した。
「イゼリアーシェ王女殿下。」
わざと名前を加えて呼んだのは注意を惹く為であり、ここからが彼の本心だと彼女は騎兵団長の黒く滑らかに波打つ背中を睨んだ。
「今の激しいお怒り様、明後日の剣霊狩りの際にもお目に掛かれるのを楽しみにしております。怒りの全てをあやつらへ目掛けてぶつけるのですぞ?」
黒いマントの端が揺れ、銘木を用いた扉が鈍い音を立てながら開き、全てを遮る音と共に閉まる。北部王立国家の騎士の中でも選ばれし者のみが着用を許される蒼き鎧。その最高位にあたる騎兵団長の姿は王女殿下の前から消えた。
イゼリアーシェ・ヴェルリンクはノウサギの毛を用いた円筒形の帽子を両手で大事そうに持ち上げると自らの胸元で抱き締めた。甘い金色の長い髪と柔らかな褐色の毛が彼女の胸元で混ざった。
「…チェクル、私は間違っているのでしょうか。」
帽子は何も答えない。ただ彼女の腕の力に抵抗せずに形を歪ませるだけである。やがて王女殿下の為に用意された部屋に鼻歌が静かに響いた。自らを落ち着かせようと、心苦しい思いを打ち消そうと緩やかな旋律が歌う者を包み込む。曇りひとつない窓から差し込む陽光は変わらぬままであった。
王女殿下の部屋を後にした騎兵団長は長い廊下にて一人の女と出会した。深い赤と淡い赤の二つの色を持つ長い髪を脳天からやや後頭部寄りで一つに束ね、まるでのどかな噴水の軌跡の様に垂れ下がっている。彼女が纏う黒の長いスカートは柔らかであろう肌触りと共に律儀さを醸し出していた。白いブラウスの身頃は至って普通だが、両袖はカエデの葉を模した透かしが施されている。その下の腕に黒の布を巻き付けているは防寒の為か。上から二番目のボタンを外した胸元の隙間も黒い布で覆われていた。女の体つきを隠す様に、あるいは他人の目に触れさせてはならない、ある物を守るかの様に黒い布は彼女の肌に密着している。目を凝らせば黒地の中に剣を銜えた鳩の刺繍が見て取れた。彼女の名はユラン・エレエ、第七十四番目の剣霊使いに他ならない。
今から四年前に双子の剣霊と契約を結んだ彼女は協会の指示に従い、剣霊の都であるコノリギスの息が掛かった者という立場を隠し、イゼリアーシェ・ヴェルリンクの身の回りの世話役として王都の門を潜った。そして初めて登城して以来、三年以上が経過しようとしていた。
「イーハン卿、この様な朝早くからイゼリアーシェ様に御用でしたか?」
木製のトレーを両手で持つユラン・エレエは軽い会釈をした後に、持ち前のやや低い、女傑を思わせる頼り甲斐のある声で騎兵団長へ挨拶をした。彼女の主であるイゼリアーシェ・ヴェルリンクの為と思われる朝食を乗せたトレーはケヤキを用いた飾りの彫り込みが無い質素なものであった。
「単なる世話役の君が知るところではない。」
歩む足を止め、テウヌス・イーハンの氷に似た瞳が動く。ユラン・エレエを一瞥した後に短く鼻で笑った後に言葉を続けた。
「気になるかね?」
「えぇ、とても。」
「騎士たる者同士の話だ。騎士でない者は下手な詮索をしない方が身の為だと思うが?」
「確かにわたしの様な細腕の女は剣の扱いは皆目判りません。イーハン卿のご懸念は過ぎたる物と思われます。」
負けじとユラン・エレエも優しさを伴わない微笑を漏らす。懐の浅い男だ、と遠まわしに言われたテウヌス・イーハンは噛み付こうとする犬を見下げるかの様な表情を露にしていた。
そりが合わない者であるとは誰に言われずとも理解している。ユラン・エレエを初めて見掛けた時、彼女は王女殿下の後ろで両手を体の前で重ねてしとやかにしていた。大切な何かを得た様に王女殿下は普段は見せない嬉々とした雰囲気を纏いながら私の身の回りの世話をする者だと彼女を紹介した。これまでに王女殿下の世話役である女を何名か目にしてきたが、ユラン・エレエは他と明らかに違う。剣を携える者の勘が語るに、彼女は危険な匂いを漂わせている。細腕と彼女は自らを語ったが、女にしては締まった腕をしている。纏う服の上からではあろうとも、肩の線は女の柔らかさを彷彿させるには乏しく、むしろ凛々しさを思わせる。これらの要素が導くのは唯一つ、ユラン・エレエは実は剣の扱いを知っているとテウヌス・イーハンは訝しげな視線をケヤキを用いた質素なトレーを持つ手へと注いだ。
「わたしの手が気になりますか?」
男の眼差しに女は敏感である。しかしユラン・エレエは恥じらいや嫌悪といった女の表情を見せない。静かにしている水面を思わせる面持ちをしていた。
「ユラン・エレエ、どうやら君の手は殿下の世話以外にも役目があるようだな。」
「ならば今、この場でお確かめになられますか?ですが…。」
鹿の親子を模した彫刻が二人の交差する視線と激突する矜持を傍観している。表情と同じく、ユラン・エレエの口調は落ち着きを保っていた。
「イーハン卿に嫌疑を掛けられたわたしの両手はイゼリアーシェ様の朝食を運んでおります。騎士の頂点を約束された御方に対し、床に置いた食事を召し上がって頂くのは如何なものかと。」
両肩をすくめればケヤキを用いた質素なトレーが僅かに上下に動き、立場が異なる二人にとって共通の主たる人物が好むであろうハーブティーの表面が揺れた。
テウヌス・イーハンは気付いていないが、目前の世話役の女は剣霊の契約者であり、並みの者では太刀打ちが不可能な剣士である。蒼き鎧を身に着ける騎士たちが選りすぐりの者であろうとも、それは人間としての能力によるものであり、剣霊という不可解かつ絶大な力を得た契約者には敵わないと見るべきであろう。無論、剣体と戻った剣霊を手にしなければその能力を発揮できない。しかし、頼りとする剣を手にしていなくともユラン・エレエは数多の戦いを知り、命の遣り取りを潜り抜けた者のみが携えられる静寂を纏っている。一方のテウヌス・イーハンも騎兵団長を拝した男だけに張り詰めた空気の中に身を置こうとも微動だにせず、相手の動向を寸分の狂いも生じさせずに読み取ろうとしていた。
彼女が発する悠然とした雰囲気の源は何か。主を想う宮仕えの忠誠心か。あるいは単に男に対する女の警戒心の裏返しか。このどちらであろうともその中には凄まじい殺気が見え隠れしている。触れてはならない殺気と判っているが、強敵に遭遇した際に全身の毛穴が一斉に開いたと思わせる高揚を感じさせる。二人の前を流れるホテルの廊下の空気は冷たく重い。明り取りの窓から差し込む光がユラン・エレエの顔に陰影を映すが、彼女の静かな表情はそのままである。やはりこの女は世話役以外の顔を持っていると知ったテウヌス・イーハンは氷に似た瞳に闇を与えた。
「そうだな。殿下に冷めた茶を飲ます訳にはいかん。」
ユラン・エレエは再び頭を下げる。結わいた二色の赤い髪が緩やかに躍った。
「殿下は今、気持ちが大変昂ぶっておられる。八つ当たりを喰らわないようにな。」
「イーハン卿、イゼリアーシェ様に何を?」
下げていた頭を元の位置に戻したユラン・エレエの表情は先程までとは違う。殿下の事となるとここまで変わるのかとテウヌス・イーハンは感心した様子をにわかに目許に表した。
「君の知らない昔話をしただけだ。」
テウヌス・イーハンは止めていた脚を動かした。廊下の硬い床は青い鎧の一部である強固な具足に決して軽くはない音を打ち鳴らさせる。やがて単調な音の中に軟らかな衣擦れの音が混ざる。揺れる黒いマントの後ろ姿を知ったユラン・エレエも一発触発の空気が過ぎ去った安堵の溜息を漏らした後に歩み始めたのであろう。やがて衣擦れの音が止み、一定の間隔を保ちながら硬い音のみとなり、その音に混じる様にテウヌス・イーハンは己の中を吐露した。
小娘どもが。
ホテルの廊下は長い。まるでこれまでの道程を示唆し、これからの過程を暗示しているかの様に長い。所々に掲げられた金箔を施された豪奢な額縁は憮然とした表情のテウヌス・イーハンを鮮明に映し出していなかった。
テウヌス・イーハンとの思わぬ遭遇を経て、ユラン・エレエは自らの主の部屋の前に辿り着いた。中にいる人物を守るかの様に銘木で出来た扉は深くて重い趣を醸し出している。両手が塞がっていては扉を叩けない。先程、王女の食事を一時であろうとも床に置くのは不敬に値すると言い放った自らの様相を思い返したユラン・エレエは短く鼻で笑った後に凛々しさを伴った唇を動かした。
「イゼリアーシェ様、朝食をお持ちしました。」
数秒の後、中から聞き慣れた声が入室の許可を伝える。落ち着きは皆無であり、戸惑いや焦りを思わせる主の声色にユラン・エレエは眉をひそめた。先のテウヌス・イーハンの言葉が自然と脳裏を掠める。朝食を載せたトレーを持ったまま、扉の取っ手に薬指と小指を掛け、手前に引く。力が無いのであれば技巧で補えば良い。細腕ではあるが手先の器用さには自信があった。
「デスクの上に置いて頂戴。」
ユラン・エレエの姿を見るなり、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは口早に命じた。置けと指示したデスクの脇に彼女は立っていた。デスクの下に潜り込んでいない肘掛け付きの椅子からして慌てて立ち上がった様子が覗える。デスクの中央にノウサギの毛を用いた円筒状の帽子が投げ出されたかの様に不自然な形をしていた。いつもと変わらず、殿下は独りになると今亡き愛玩であったノウサギと会話をしていたのだろうと、ユラン・エレエは双眸を細めた。先のテウヌス・イーハンと遭遇した際の研ぎ澄まされた鋭さは消え、自らの主と表現するよりも、愛しい妹を想う柔らかさが滲み出ている。王女殿下の寵愛を一身に受ける帽子を動かさずにユラン・エレエは朝食を載せたトレーを中央から見て右寄りに置いた。
「ユラン。」
世話役の手の上に主のそれが重なった。イゼリアーシェ・ヴェルリンクの手は震えている。僅かに声も震えているのは昂ぶる感情の抑制によるものなのか、行き詰まった衝動をひた隠している顕れなのか。その両方だと知ったユラン・エレエは何も答えない。騎士の頂点を約束されてはいるものの、月に数回数時間しか剣を握らない、内側が柔らかな女性らしい手に視線を落としていた。
「ユラン、私を抱き締めて戴けますか?」
傷一つ無い女の手に落ちていた視線が静かにゆっくりと動く。哀願に似た表情を纏う灰色の瞳を目の前で見せられては誰であろうと男女関係無しに拒絶は出来ない。格調ある落ち着いた雰囲気を纏うデスクの上では色とりどりの鮮やかさが瑞々しいサラダが映え、淹れて間もないハーブティーのしとやかな湯気が音を立てずに揺らめいている。しかしイゼリアーシェ・ヴェルリンクが欲するのは魅力溢れる朝食よりも世話役の温かく頼れる手であった。
「畏まりました。お体に触れる点、失礼します。」
ユラン・エレエは剣を握る為の両手を高貴な人物の物寂しげな肩へ廻し、滑らかな肌触りを約束してくれる白金の髪に覆われた後頭部へと添えた。特に力を込めずともイゼリアーシェ・ヴェルリンクの横顔は温かな胸の谷間へと沈み、王者の涙相の片側が肉の海に消えた。安らぎを見出そうと灰色の瞳に闇を与える。黒地に黒の刺繍が施されたスカーフには感情の起伏を表現するかの様に大小の皺が走っていた。
「落ち着かれましたか?」
「えぇ。暫くこのままでいさせて下さい。」
「イゼリアーシェ様の仰せのままに。」
「そう。有難う。」
聞くところによれば、イゼリアーシェ・ヴェルリンクはこの世に生を受けて間もない内に母親を病にて亡くしている。乳飲み子の間は広大でありつつも閉鎖感を否めない王城にて乳母に育てられ、後に王都から十キロほど離れた小さな市街地に暮らす母方の祖父母の許で幼き日々を過ごした。例え国王の子であろうとも孫娘とは畏敬のよりも愛情が上回るものである。祖父母は彼女を世間の者と同じく接し、計り知れないほどの無償の愛を授けてくれた。しかし、運命の歯車は常に規則正しく、それぞれの思う様に動くとは限らない。兄を不慮の事故で失った事により、王位後継者となった彼女は王都へと還り、その翌年に祖父を、さらに半年後に祖母の他界を知らされたという。その様な彼女は愛情を欲している。強いて言うなれば、人肌の温もりを渇望し、五体で感じ得たいのだとユラン・エレエは思った。後頭部に添えられた手が優しく撫で始めた。最初は貴人の頭に触れるためらいを伴っていたが、徐々に動きは大きくなる。イゼリアーシェ・ヴェルリンクの表情は彼女の髪と同じく柔らかさを取り戻しつつあった。
「この姿をクラウディアとラファエラが目の当たりにしたら何て小言を漏らすでしょうか?」
「恐らく何も言わないと思われます。」
「そうかしら?」
「はい。あの子たちにとってイゼリアーシェ様は大事な初めての友達ですから。」
剣を携える者の腰に廻っていた王女殿下の手に力が込められた。
「それは私も同じ。彼女たちは私に国王の娘という立場を忘れさせてくれる掛替えの無い存在なのです。」
自らの安らぎを実感すると他を気に掛けるのは自然の成り行きである。顔の半分を胸の谷間に埋めたまま、闇を与えられていた灰色の瞳を持つ両目を既に開き、現実の光景を見つめている。デスクの脇に掲げられた国章旗の中に佇む剣と槍を携えた龍の顔が歪んで見えた。
「彼女たちは戻りましたか?」
「いえ、未だ消息が掴めておりません。」
王女の頭を擦る手は動きを止めた。短くも長くもない沈黙を暖炉の薪が弾ける音が破り、ユラン・エレエは重い溜息を吐いた。
「クラウディアとラファエラがわたしの前から姿を消して十日以上の時間が経過しましたが、恐らく彼女たちは無事でおります。」
「無事とは、何か確証があるのですか?」
「イゼリアーシェ様だからこそ申し上げますが…彼女たちとの契約の痕跡がわたしの体の一部に依然はっきりと残っております。また、剣霊障と呼ばれる後天性の障害現象も消えておりません。」
そう、と短い返事をした後にイゼリアーシェ・ヴェルリンクは目尻を細めた横顔を更に奥へと埋めた。
「どうやら秘密にしておかなければならない事を言わせてしまった様ですね。ごめんなさい。」
黒地に黒の刺繍が施された協会支給のスカーフの模様が歪み、心優しき王女殿下の言葉に応えている。
ユラン・エレエが世話役として仕えて数日後の出来事である。イゼリアーシェ・ヴェルリンクは湯浴びの際に奇妙な光景を目の当たりにしていた。それまで仕えた世話役たちは多少の湯を被っても構わない様に薄絹一枚で彼女の傍に控えていたが彼女は違った。今と同じくカエデの葉をモチーフにした透かしを両腕に施してある白いブラウスを纏い、その下にある両腕は露出を嫌うかの如く黒い布を巻き付けている。柔らかであろう胸元では何かを守っているか、あるいは隠そうとしているのか、黒い布が彼女の体の一部と言わんばかりに貼り付いている。折角だからあなたも一緒に湯を浴びたらと薦めたものの、畏れ多いと頑なに断られてしまった。無理強いをするつもりは無かったが、湯に浸かってのぼせていたのか、王女殿下は騎士の頂点である家名を出した。ヴェルリンクの名に於いてと言っても拒むのですか、と口ずさんだ時の表情は多少の悪意が見え隠れしていたのだろうなと今更ながら思わざるを得ない。しとやかな湯気に包まれた空間の中で思慮という沈黙が空気を染め上げようとしている。その沈黙を長引かせてはいけないとユラン・エレエは頭を垂れ、お許し下さい、と短く答えた。ユラン・エレエの表情は立ち上る湯気の中でも顔を下に向けていようとも鮮明に見てとれた。戒律に束縛された者の歯がゆさと女の恥じらいが同居した雰囲気を携える面持ちは王女殿下に次の言葉を失わせてしまった。
「頼みとなる剣が無かろうと、わたしは体術を会得しております。この身に代えてでもイゼリアーシェ様をあらゆる障害からお守り致しますので、どうぞご安心を。」
王女殿下の頭を擦る手は剣の扱いを知る手である。その内側はいびつに歪み、硬い。星の数と同じほど柄を握り締め、星が煌く間と同等の時間を振りかざす。幾度となく皮膚は破けて血を流し、喰いしばる奥歯は耳障りな音を立てながら擦り減る。気付けば女の柔らかさは消えてしまった。残っているのは女特有の体温だろうか。
「ユラン、馬鹿な考えを起こさないで。気持ちだけで充分です。それにあなたがいなくなったら、あの子たちがどう思うかお判りでしょう?私はあの子たちの悲しむ姿を見たくないのです。」
先程まで澄んだ表面を保っていた窓が曇っている。室内の温度が上昇し、細かな水滴を帯び始めている。イゼリアーシェ・ヴェルリンクはユラン・エレエの胸元から顔を離し、私ならもう大丈夫と謝意を述べた後に引き出したままの木製の椅子に身を預けた。
ケヤキを用いた質素なトレーの上にある食事に手を付ける。独りで黙々とである。これまでに何度か共に食事を、と誘ったものの、ユラン・エレエの回答は先に戴きましたので、と毎度同じであった。
果たしてそれが真実なのか建前なのかは判りかねるが、あまりにも決まりきった台詞はイゼリアーシェ・ヴェルリンクに自らの立場を再認識させ、幼き双子の剣霊の姿を思い起こさせた。
食事の際の会話、北部王立国家の王女という立場を忘れさせてくれる時間を提供してくれたのは祖父母であり、今はもう会えない。代わりに双子の可愛らしい剣霊が彼女の食事を賑やかにしていた。クラウディアとラファエラは今亡き祖父母と同じく彼女をイゼリーと愛称で呼び、色彩が豊かな料理を目の当たりにしては冬の晴れ渡った空を思わせる瞳を興味と感心の色に染めて輝かせていた。
ねぇイゼリー、焼いた牛の肉から血が滴っているよ。美味しいの?
ねぇイゼリー、茹でたニンジンって甘いって本当?
ねぇイゼリー、何でイゼリーは偉い人間なのに葉っぱを食べるの?
クラウディアが次々と質問を投げ掛け、ラファエラは端正な口を半開きにしてただ見入っている。折角だから食べてみては、と一口大に切った牛の肉を銀のフォークに刺して笑顔と共に二人の前に差し出す。クラウディアは困惑の表情を露にし、ラファエラは気まずそうな眼差しを向けた。
剣霊の食事は人間とは違うんだ。本当は人間の内に牛の肉、いっぱい食べたかったよ。だからイゼリーは我たちの分も味わって食べて。
出来うる限りの笑顔をクラウディアは作り、ラファエラは何かが吹っ切れたかの様に目許と口許に柔らかさをたたえた。あの光景は今となっても脳裏にこびり付いている。手にする銀製の揃いのナイフとフォークが奏でる音が静かに時の流れを物語っていた。
朝食を終え、彼女の楽しみの一つであるハーブティーを口に運ぶ。まだ暖かい。心休まる一口は深い溜息を漏らさせ、トレーの脇に佇む黄ばんだ紙片へと手を伸ばさせた。
「ユラン、これは?」
「私製新聞の号外です。早朝、街を歩いている際に配られていたので…。」
ユラン・エレエの言い回しから判断するに、彼女は何の目的で人の往来が少ない早朝に街を歩いていたのかイゼリアーシェ・ヴェルリンクは勘付いた。単なる気分転換の散歩ではなく、己が手に握るべき剣たちの行方を捜索していたのであろう。
「正直に申し上げますと、イゼリアーシェ様を次期王位後継者として若干疑問視する内容が記されておりますが、裏面を是非とも御覧頂きたくお持ちしました。」
自らに否定的な記事を目の当たりにする覚悟を決める為か、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは静かにゆっくりと頷いた。
「私としても全てという全てが認めてくれるとは端から思っておりません。ただ私は彼らの見方が少しでも変わるべく行動するだけなのです。」
「行動、ですか?」
「えぇ。力で無理矢理こちらに向かせるのではなく、自然に、自発的に向いてもらうのです。」
言うは易し、と語られるが、イゼリアーシェ・ヴェルリンクの聡明であり確固とした意思を思わせる横顔は、彼女が抱く理想が険しい道程であると既に承知している。尤もな意見であり、殊勝な心掛けを前にしたユラン・エレエは頭を下げ、空になりつつあるティーカップに中身を継ぎ足した。前面の記事を読み終え、裏面へと紙片を返す。自らの肖像を描かれた姿にイゼリアーシェ・ヴェルリンクは感心の眼差しを送った。
「まぁ上手だこと。」
単色刷りとは言え、彼女の柔らかさと気品が融合した趣が感じ取れる。彼女の顔の最大の特徴である左右の目尻の下にある黒子は描かれていない。しかし、彼女が大衆の前に姿を見せたのは時間にして二十分に満たない程度であり、しかも彼女の周囲は騎兵が取り巻き、階段を数段上がったホテルの正面玄関の前という高い位置であったのだから無理も無かろう。短い時間で良くぞここまで描き上げたものだと満足と感心を入り交えた笑みをイゼリアーシェ・ヴェルリンクは零した。
「成人を終え、肖像画を残すようにと父から言われております。この絵を描いた者に依頼するのも悪くなさそうですね。」
描かれた自らの目許に触れていた可憐な指が下へ降り、唇の横を経て隅に記されたサインへと移った。何と記されているのか判らない。北部王立国家で育った者にとって見慣れない綴りは動いていた指に困惑の色を差した。
「中央の綴りで七十と書いてあります。」
「七十ですか。不思議なサインですね。」
何故このサインを読み取れたのか疑問を投げ掛けるよりも早くユラン・エレエは口を開いた。
「わたしはコノリギスの者となる前は中央におりましたから…。」
紙面に落ちていた灰色の瞳が目の前に佇む剣霊使いへと動く。深い赤と淡い赤の長い髪の先端が踊った。彼女が首を振った為である。
「無用な事を話してしまいました。」
優しげな笑みの裏には触れてはならない過去が潜んでいた。またその様な過去を体験したからこそ掛ける言葉を失わせる程の優しげな笑みを零せられるものである。
王女殿下はハーブティーを飲み干すと外出する旨を世話役へ伝えた。行き先は手にする号外の出版元である。自らの肖像を描いた人物について知りたいが為に他ならない。馬車を用意しましょうかとユラン・エレエは申し出たが、イゼリアーシェ・ヴェルリンクは彼女の提案に難色を示した。徒歩による移動でも差し支えの生じない距離であり、何よりも仰々しくなる。しかしユラン・エレエの言い分も判らなくも無い。身の安全を考えての提言である。単騎掛けなら構わないと折衷案にイゼリアーシェ・ヴェルリンクは頷き、直ちに鞍を着けるべくユラン・エレエは食事を終えた食器を乗せたトレーと共に部屋を後にした。
二色の赤い髪が揺れ動く様を見届け、部屋の扉が閉まると共にイゼリアーシェ・ヴェルリンクは立ち上がった。
「さて、外に行きましょうか、チェクル。」
両手で大事そうに持つノウサギの毛皮を用いた帽子を頭に載せ、執務用のデスクの脇にある引き出しから手鏡を取り出す。首元を緩やかに一重に巻きつけている白金の長い髪の中程を詰り、こめかみの辺りに生える髪に数回手櫛を入れる。鏡を前にした女の誰もが行う仕草の奥では国章旗が映り込んでいる。
槍と剣を携えた龍の顔は鏡の中でも依然として険しい面持ちであった。




