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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第三章 エジュ・エジェ城塞編
34/75

号外の裏面

 鳥のさえずりが聞こえる。耳に心地良い。何という名の鳥だろうか。しかし、己の知識を満たす欲求よりも先に自らは何をしているのかと疑問が生じる。その疑問を解決する手段は至って簡単であった。閉じている目を開ければ済む。ユストの開いた目は流れる時間に置き去りにされたと言わんばかりに愕然とした表情を纏っていた。

「起きたか。」

 日の出を終え、朝靄あさもやの美しさに誰もが心震わせる景色の中、閉じた目をそのままにしてイルサーシャは言葉を発した。長い時を風雨に晒され、乾いた色合いへと変化したベンチの上で仰向けになるユストを覆う様に、彼の身をあらゆる敵から守る様にイルサーシャの端正な横顔はお気に入りの場所である契約者の胸の上に密着している。

 新月の日は既に終わりを告げている。ユストの声帯は次のこの日まで機能を失ってしまった。南天へ向けて昇る太陽が開いた目に辛く当る。ユストは双眸を細め、左手を自らの胸の上にある剣霊の頭に添えた。

(愚生はいつから寝てしまったんだ…?)

「さぁな。」

(さぁ、はないだろう?)

「なぁユスト、そもそも剣であるに眠りについて訊ねるのは愚問だぞ?」

 わざわざ声にして返事をするイルサーシャの頭は動いていない。その様な彼女の口の両端は僅かに躍動感を匂わせている。外気よりも幾分温度が低い剣霊の髪を撫でながらユストは睡魔に襲われるまでの経緯を思い返した。

 ベンチの中央に普段と変わらずに足を組んで座り、立て続けに三本目の煙草を吸おうか吸うまいか迷っている最中にイルサーシャが戻った。道に迷ったのかとユストが声を掛けるよりも早く、イルサーシャは左手に持つ陶製のカップを彼の顔の前に突き出した。

「特別に北部風のコーヒーを淹れてもらった。残さず飲め。」

 彼女の素っ気無さに気を留めず、ユストは目の前に提示された陶製のカップを手に取った。とても冷たい。剣霊である彼女の手よりも冷たい。彼女の手が淹れたてのコーヒーの熱を奪ったのではなく、元から冷製としてこしらえられた品だと知ったユストは怪訝な表情を露にした。

「そなたはにばかり北部に溶け込めというが、それでは不平等であろう?」

 ようはユストも北部の風習を知れと言いたいのであろう。その一端がこの冷たいコーヒーという事か。事実、ユストは北の地について多くを語れない。果たして北の地に住まう者は凍て付く夜空の下で胃が縮む様な思いをしてこのコーヒーを嗜むのだろうか。北部王立国家成立から二百年以上の歳月が流れている。この冷製のコーヒーを嗜む文化も国家と同じく時を歩んだのだろうか。いやまさか、と自らの行き過ぎた思慮に失笑を零さんとする最中、イルサーシャが言葉を発した。

「どうした?そなたがこれを飲まないのなら、も明日の台詞とやらの練習をしないぞ?」

 湯気の立たない世界に視線を落としているユストをけしかけるイルサーシャは右のピアスに触れると、黙れと小声を漏らして自らの尾に喰らい付く黒蛇を軽く弾いた。彼女の耳にぶら下がる二匹の黒蛇の声は彼女にしか聞こえない。弾いたのは何かしらの野次を飛ばされた報復であろう。陶製のカップの表面が冷たさに呼応して艶やかに輝いている。まるでカップそのものが早く中身を口に含めろと手にするユストを促している様に表面の滑らかさを見せ付けている。迷っていても何も始まらないと覚悟を決めたユストは湿り気を失っていた唇を程好い厚みを有する縁へと近付けた。

「そうだ、男なら一気に飲み干せ。」

 この得体の知れないコーヒーの飲み方に男も女もあるものかとユストは呆れるものの、冷ました事で苦味が増した味わいには新たな発見を感じずにはいられなかった。

 思ったよりも美味いではないか。体が冷える感覚は別として、味はユストの趣向に沿っていた。二口目を含む際にイルサーシャと視線が交差した。それまでユストを注視していた彼女の緑色の瞳はあらぬ方向へと移動する。暇を弄ぶ彼女の両手は束ねた髪の中頃と先端を詰っていた。約束通りに髪飾りを外していないのだなと気付いたユストは彼女の言葉通りとはいかないものの、数回に分けてカップの中身を空にした。

「では、始めるとするか。」

 シャルム中立市街地の中央広場に於ける往来は徐々に減り始めている。人々の気配が静まり返る事で夜が来たのだと改めて知ったユストは背中をベンチの背もたれに預けた。イルサーシャの口が動く。未だに、たくしと詰まっている。どうして彼女はわたくしと言えないのだろうか。わざとそうしているのかと問い質そうとしたが、出来なかった。まるで彼女の言葉が眠りを誘う呪文の様に耳に纏わり付き、開いておかなければならない左右の瞼が重く圧し掛かる。朦朧とする意識と格闘する中、最後に見たのは目の前に立つ剣霊の満足そうな微笑に他ならなかった。 

「まぁとしては睡魔に身を預けんとするユストを懸命に起こしたのだ。だが、うんともすんとも返事をしない。剣霊にも叶わん事はあるのだと思い知らされたぞ。」

 今度は目を開いて語るイルサーシャの声がユストを回想の時間から今へと呼び戻した。思い知らされたと口にする割には先と変わらず口元から躍動感は消えていない。炊かれたかがり火の燃料である薪が残り少なくなっている。朝を迎えた事により、継ぎ足す者はいないであろう。静けさと澄み渡る空気の中、イルサーシャの纏めた白銀の長い髪は露を纏った様に煌いている。横になっていた体を起こそうとするユストに向けてイルサーシャは右の人差し指と中指を使って彼の額の中央に当てた。もう少しこのままでいさせろと示唆する行動である。

(そうだ、そなたの顔に触れて思い出した。)

 僅かに目許に鋭さを顕したイルサーシャは身を乗り出し、額の中央に置いた二本の指を下へとずらした。

(そなた、の顔の異変に気付かないか?)

 ユストの鼻の先端に留まる指は相変わらずの冷たさを保っている。契約者以外の全てを切り刻む剣霊の指は左に行こうか、右に動かそうかと悩んでいた。

(これの事か?)

 今度はユストがイルサーシャの頭を撫でている手をずらす。冷たくも滑らかな髪から冷たくも柔らかな右頬へと移った。丁寧にそして気だるそうに擦る様に動く親指の付近には昨日の遣り取りの名残りが見受けられた。

(昨晩、黒子があると指摘されてな。それはまことか?)

(黒子か。実は飛び散ったインクだよ。)

 なるほど、と合点がいったと言わんばかりの表情をイルサーシャは見せた。

(さてはその様子からして、そなた、わざと拭き残したな?)

(君の顔に人間らしい趣が感じられたから拭かなかったのだが…。)

 イルサーシャの頬に留まる親指が離れ、自らの首筋へと移動した。スカーフを外そうとしているのは剣霊に食事を与える為ではない。気になるであろう汚れを拭き取ろうとした為である。

(いや、このままで構わん。)

 想定外の言葉はユストの動く手を止めさせた。そうなのかと言わんばかりの顔をするユストに対し、イルサーシャは昨晩の二人の兵隊との遭遇について語り始めた。話の内容が進むと共にイルサーシャを眺めているユストの目許から穏やかさが徐々に消え失せる。一般的に剣霊とは未知の存在であり、既知の特徴と言えば目の覚める様な美貌と全てを切り裂く体を有している点の二つである。だが、北部王立国家の兵はその二つを遥かに凌ぐ情報量と対策を有していると認めざるを得ない。これから相対するであろう集団にユストは憂慮の表情を自らの剣霊に隠しきれなかった。

(敵は人間とは言え手強いぞ?それでもそなたは行くのか?)

(協会の指示には逆らえない。行くしかないよ。)

 そうか、と短く答えたイルサーシャは再び目を閉じ、鼻先に触れている二本の指を更に下へと動かした。

(ところで、入国時の台詞は大丈夫なのだろうね?)

 ユストの中で一番の気掛かりを言葉にしてもイルサーシャは返事をしない。彼の顎先に当てた二本の指が宙に浮き、軽く穿つようにして再び触れた。喋るなと言いたいのだろう。彼女の両耳にぶら下がる黒蛇たちと同じ扱いを受けてしまった。そう感じたユストは、自らの剣を信じるしかあるまいと鼻から音無き溜息を漏らした。

 朝一番の鳥のさえずりが収まった数時間後、シャルム中立市街地は日常の活気を取り戻した。一頭曳きの馬車が石畳の上で快活な蹄の音を響かせれば、その次は何かしらの目的と共に歩く人々の足音が耳に届く。仕事へ向かう者の足音はせわしく、それ以外の者はのんびりとした足音を奏でる。ベンチから身を起こしたユストは母親譲りの黒髪に数回手櫛を入れ、首に巻くスカーフを解いた。イルサーシャの食事の為ではなく、スカーフを着け代える為である。剣霊協会支給のスカーフにも種類が幾つか存在する。ユストが属する通常番号付与者は黒地に金の刺繍が施された物を、今亡きテヴァ・ザイロンを始め、歴代の特殊番号付与者は金地に黒の刺繍が施されたスカーフを用いてそれぞれが横に置く剣霊の食痕を人目に晒されないようにする。立場は違えど、彼らはそれぞれ別にもう一枚、共通の一枚を所持していた。黒地に黒の刺繍が走るスカーフに他ならない。通し番号が記されていない事により、他の剣霊使いと遭遇した際に自らの立ち位置を隠す為に用いるとも、単なる予備品とも言われている。剣霊についてある程度調べが付いているのであれば、剣霊使いに対しても同等と見なすべきと判断したユストの首筋から金の刺繍か消えた。目をよく凝らさなければいかなる模様が走っているのか判断が付かないであろう新たな黒地のスカーフから指を離し、至福の一時を約束してくれる煙草を銜える。一方のイルサーシャは昨日から纏わり付く銀の髪留めの表面に軽く触れた後に、ベンチの脇に立て掛けてある、黒い布に包まれたハガンの剣体を手に取った。

「なぁ、これも外すべきではないのか?」

 指で示されなくても彼女の視線の先を追えば、これとは何か判る。テヴァ・ザイロンの形見であるスカーフだと気付くなり、君の言う通りだと頷いたユストは左手をハガンの剣体へと伸ばした。

「間違っても彼女の柄を握るでないぞ?」

 イルサーシャの目尻は細くもなく、鋭さも伴っていなかった。彼女の言葉通りに間違ってハガンの柄を握ろうものならば彼女の緑色の瞳とその周囲は猛る剣霊そのものとなるのであろう。細心の注意と共にテヴァ・ザイロンの形見スカーフを外したユストは丁寧に四つ折りにしてコートのポケットに仕舞い込んだ。

「そこの露店のカップも返さんとならんな。」

 ベンチの上に投げたままの陶製のカップを左手に、剣体となったハガンを右手に持ったイルサーシャはシャルム中立市街地の北側の門へと歩き始め、ユストもその後を追った。

 多少の覚悟はしていたが、ベンチの硬い座面の上で横になった為なのか、ユストの体は節々に違和感を生じている。漫然と歩くユストをよそに、特に指示がなければ彼の前を歩くイルサーシャの足取りは軽い。これから慣れない言い回しを用いて人前で語るのが待ち遠しいのであろうか。いや、彼女はその練習をいかに怠けるかとあの手この手を使っていたではないか、とユストは思い返し、彼女が左手に持つ陶製のカップに視線を向けた。これもそのひとつであったのだろうか、とユストが掴み所の無い予測を芽生えさせるのと同時にイルサーシャは足を止めた。両替商の前である。これから北部王立国家に向かうのであれば北部貨幣をいくらか用意しなければならない。

「ユスト、そなたの祖国の銅貨は持っているか?」

 イルサーシャの話によれば露店の主は中央行政府という国に一種の憧れを抱いているという。昨夜の礼がしたいと彼女は言い、礼とは何かと顎に手を添えたユストを見るなり、そなたが熟睡するほど心落ち着かせる美味いコーヒーを淹れた礼だ、と彼女にしては珍しく慌てふためいた様子で答えた。幸い、両替をせずともユストは出身国の銅貨を数枚所持している。差し出された陶製のカップに彼女が望む一枚を投げ入れ、ユストは両替商の落ち着いた雰囲気を醸し出す扉の中へと入った。


 シャルム中立市街地を出て街道を進む。等間隔に整然と植え込まれた街路樹は雪という冬の化粧をうっすらと施している。石畳が敷かれている訳でもなく、ユストの靴が奏でる音は硬い。数多の往来により地面が踏み固められたのであろう。その往来と同じ数の思惑をこの地面は知っている。無機質で短い音は足を動かす者に何を囁いているのか。少なくとも剣霊の契約者であるユストには安らぎを与えなていないとイルサーシャは思った。

 街道に沿って国境検問所が設けられていた。位置からしてエジュ・エジェ城塞都市の正門からおよそ百メートル手前である。馬車も通れる様にそれなりの大きさを有した鋼鉄製の扉を有した入国管理施設には既に北部王立国家へ臨む者の列が覗えた。それぞれは手に出身国証明書を持ち、口頭にて入国理由を述べるだけである。その者を北の騎士国家が歓迎するかしないかは入国管理官を任された役人次第と言えよう。足を一歩動かしては止めてと単調な動作を三十分続けて、ようやくユストとイルサーシャの前に入国審査と北の綴りで記された木製の立て札とその脇で毅然と立つ鎧姿の兵が目の前に現れた。

(いいかい、眉間の力を抜いて、ゆっくりと落ち着いて話すんだよ。)

 肩に手を置いたユスト自身の方がざわついているのではと彼の前に立つイルサーシャは思ったが、ここは敢えて苦言を漏らさなかった。彼女としても果たして巧く喋れるかと不安を過ぎらせていたからであり、その不安が彼女の中の大部分を占めていた為、捻りの効いた苦言を思い付かせる余裕を失っていた。

「次、前へ進め。」

 鎧姿の兵はこれまでに何回口にしたのか既に数えていないであろう言葉を発した。イルサーシャの肩に置いたままのユストの手が二回、彼女を叩いた後に離れた。焦りと不安が入り混じった一歩を共に踏み出した際、ユストは鎧姿の兵に一瞥を投げた。胸部に掘り込まれた厳つい表情の龍とは対照的に、ありえないと驚愕の表情を彼は浮かべている。その対象はイルサーシャだと気付いたユストも奥歯に力を込めた。彼女が剣霊であると悟られたと見るべきか。コートの裏ポケットから予め協会より支給された偽造の出身国証明書を取り出そうとしていた左手が動きを止める。剣霊という言葉が耳に飛び込んだ時は動きを止めていた利き手で彼女を剣体へと戻し、目の前の兵と入国管理官を斬り伏せるしか道は残されていないとユストは腹を括った。

 検問所の素っ気無い一画がイルサーシャという役者の舞台である。人間であれば全身の毛穴が開いたのではないのかと思う心細い緊張の中、彼女は涼やかで麗しい唇を動かそうとした。しかし、その動作は入国管理官の一言で抑止されてしまった。

「大変失礼しました、殿下。どうぞお通り下さい。」

 入国管理官が深々と頭を垂れるのと僅かに遅れて、その場に居合わせた鎧姿の騎士たちは腰に佩く剣を外した。踵を打ち鳴らした後に面前で鞘の中程を両手が重なる様に握る。北の騎士の王族を前とした敬礼であろう。ユストとイルサーシャの後ろに並ぶ者たちも厳かに振舞う北の騎士の雰囲気に呑み込まれたのか、次々と腰を低くした。

 予想外の展開に唖然としている時間は無い。ユストは最もよそ行きの声で次の様に喋れとイルサーシャの手を握りながら命じ、彼女も素早く彼の指示に従った。

「行きましょう。」

 一呼吸置いてユストは周囲を見渡す。目に入る誰もが頭を下げている。高貴な身分とは程遠い自らにとってあまり気分が良いものではないとユストは視線を落とした。足早にこの場を去りたいがゆっくりと、そして君が愚生の手を取れと新たな指示を出す。イルサーシャは決して計算高い剣霊ではないが、仮に彼女がその様であってもこの状況に出くわした場合、何も出来なくなるであろう。むしろ助かった。下手な疑問を投げ掛ける事無く、イルサーシャはユストの言葉通りに歩き出す。検問所を抜け、そのまま前へと進む。西と北を結ぶ街道の終着点であるエジュ・エジェの格調高い鋼鉄製の正門は開け放たれている。普段であれば感慨深い建造物をゆっくりと眺めながら煙草の煙をくゆらせたかったが、それは次の機会にお預けとなってしまった。剣と槍を持つ龍を描いた国章旗と交差する三本の戦闘用の斧を描いた市章旗が交互に並ぶ大通りから直ぐに路地に入るなり、ユストは北の建築様式に倣った家屋の壁に身を預けた。

「意外とあっけなかったな。」

 乱してはいないものの、軽く息を弾ませているユストにイルサーシャは思った事を口に出す。先の最もよそ行きの声とは違って程好く落ち着いた響きはユストに安堵の溜息を吐かせた。

「さて、巧く北の地に潜入出来た。今回の目的とやらも意外と簡単かも知れんぞ?」

 息をしない剣霊は顔を火照らせず、肩を上下に動かさず、平然と喋る。北部王立国家の国境であるエジュ・エジェ城塞都市に潜入さえすれば後は容易いと語るイルサーシャの思惑が掴めないユストは胸のポケットから煙草を取り出した。

「ユストに似た者を見つけて屠れば良い。としては少々気後れがするが、いた仕方あるまい。そうであろう、殿下殿?」

 マッチを擦り、銜えた煙草の先端が音を立てる。普段通りに燃え盛るマッチの先端をイルサーシャが二本の指で摘んで消した。

「さてさて、本物の殿下殿が煙草を嗜むかどうか…。」

(恐らく嗜まないと思うよ。)

 火を消した、か細い女の指に頼れる男の指が重なった。

(君は勘違いをしている様だね。まさかとは思ったが、殿下とは君の事だよ。)

 これにはさすがのイルサーシャも剣霊らしい細い眉を上下に動かした。触れるユストの指を感情の赴くままにイルサーシャは五本の全てで握り返した。

がいくらそなたの剣として勇ましく頼れる存在とは言え、男に見えるか?これでも人間の女らしい仕草や物腰の柔らかさはそれなりに出来ていると思っているのだ。今の言葉、撤回しろ!)

 剣の矜持とイルサーシャは頻繁に口にするが、今回は女としての矜持を何気無く踏みにじってしまったらしい。彼女の奥深い緑色の瞳は凄みを利かせ、彼女の言葉通りに捉えるならば、戦いの場では頼れる剣霊そのものである。だが今は戦いの場ではない。可能である限りの力を込めようともユストの指に痛みは生じない。実体である剣の重量しかないイルサーシャの握力はユストに平然とした顔で再び煙草に火を灯させた。

(殿下殿下と人々は口にし、その姿を待ち焦がれた。そして昨日、エジュ・エジェに集まった人々はそれまでの思い込みは間違っていたと知った。殿下とは剣霊と見間違うばかりに可憐な王女殿下だったとね。)

(馬鹿な。そなたが話上手なのは知っているが、些か飛躍し過ぎだぞ?)

(そうかな?げんに先程の国境の検問所で皆が頭を下げていた対象は君だった。愚生ではない。)

(それは思い過ごしだ。の真後ろにユストは立っていた。あの者たちはではなく、そなたに頭を下げていた筈だ。)

(最初は愚生もどちらなのか判らなかった。だから君に最もよそ行きの声で手短に言葉を発しさせた。君の声にあの場にいた騎士たちは更に頭を下げていたよ。つまり殿下たる君の一言に誰も逆らえない。)

(違う。そなたの足音を聞いて彼らは畏まったのだ。)

(そもそも殿下は成人を迎えて間もないと聞いている。三十路に入って数年を経た愚生がそう見えるか?)

(殿下とて昨日のお披露目式とやらで疲れておいでなのであろう。多少は老けて見えるかもしれん。第一、大衆が貴人たる者を許し無しにまじまじと尊顔を拝謁する訳にはいかん。ぱっと見てそなたが殿下だと気付いた彼らは慌てて平伏したと捉えるべきだ。)

(騎士国家の王位継承者は常に剣を携えているものだよ。布に包まれているとは言え、君はハガンの剣体を所持している。その事に廻りは誰も不審がる素振りを見せなかったが?)

(殿下と称される者がわざわざ手に剣を持って出歩くか?あの場ではは殿下たるそなたの身の回りの世話をする女だと思われたのに違いあるまい。)

 君だそなただと、どちらが殿下なのかと音無き水掛け論が進む中、ユストの指に挟まれた煙草は彼に至福の一時を与えずに燃え尽きてしまった。傍から見れば、二人の姿は朝から人目を忍んで互いに無言で見つめ合う恋人同士である。少々気になる点を挙げるのであれば、互いに柔らかな表情を伴っていない事であろうか。このままでは埒が明かない。ユストは新たな煙草を銜え、イルサーシャは短く鼻を鳴らした後に左の横髪を耳に掛けた。

(イルサーシャ、あれだ。)

 解決策を見つけたとユストはイルサーシャの肩に手を置いた。

(ほぉ。街歩く者にどちらが話題の人物なのか教えてくれと訊ねるのか、殿下殿?)

(そんな間の抜けた事が出来るか。彼らが手に持つ物を見るんだ。)

 路地から望む大通りを行き交う人々は黄色味を帯びた二つ折りの紙片を手に持つか、あるいは脇に抱えている。今朝方刷られたばかりの新聞であろう。黄色いのは紙の質が荒い為であるが、今の二人には手にした感触よりも記事の内容が気になる。恐らく昨日のお披露目式についての記載がある。そこに殿下の名前は必ず記され、男か女か自ずと判明するであろうとユストはイルサーシャに説明した。

(なるほどな。では、どちらが正しいか早速確かめようではないか、殿下殿。)

 余程の自信が有るのか、あるいはユストの気まずそうな表情をいち早く拝みたいのか、イルサーシャはユストの手を取るなり率先して大通りへ向けて歩き始めた。すれ違う者は皆、彼女に視線を送る。そして直ぐにずらす。剣霊だからではない、今は殿下と称される存在と間違えられているのだとユストは思った。だが、彼女にとって人々の視線は普段と変わらない。痛くも無く優しくも無い。珍しい存在と遭遇した際に誰もが行う目の動きである。はためく国章旗と市章旗の下で束ねた白銀の長い髪がなびく。生ける者が触れてはならない刀身の仮の姿は彼女の内面を表しているかの様に躍る。ユストの頬に触れ、百年香の爽やかな香りが遅れて彼の鼻孔を撫でた。

 大通りの中程にまばらではあるが立ち止まる人が見受けられた。ユストとイルサーシャが求める物はそこで販売もしくは配布されていると思われる。

(号外と言っているな。どういう意味だ?)

(臨時に発行されたものだよ。ただで貰えるだろうね。)

 握る手が離れた。結果を知る前の勝利宣言のつもりなのか、再び最もよそ行きの声でイルサーシャは語った。

「殿下殿、じきにあなた様の名が判る。よもやユストという名ではなかろうな?」

 だから君が殿下だよ、と釘を刺したくてもユストの喉は機能を果たさない。柔らかであり頼り無さも思わせる冬の太陽が二人の遣り取りを眺めている。その場で配られているのであれば、ただ手を差し出せば欲しい物は貰える。喋る必要は無い。ユストは人前では常に手袋を嵌めている右手の三本の指を軽く動かすとイルサーシャよりも前を歩き始めた。

 まだ成人を迎えていないと思われる少年が号外を配っていた。この時の為に雇われたのか、家業を手伝っているのかは判らない。彼が纏う、くたびれた感が否めない茶色のコートは父から譲り受けたものだろうか。今は少々似つかわしくないが、彼が歳を重ねるにつれて彼の一部となり、やがては彼の人生を物語る貴重な一枚となるのであろう。少年が手に持つ号外は全て他の手に渡った。だが彼の足元には膝の高さまで積まれた号外の山がある。腰を折り、号外を小脇に抱えようとする中、ユストは手袋を嵌めたままの右手を彼に向けて差し出した。

「ちょっと待ってて。今すぐ用意するから。」

 少年の声は弾み、吐く白い息が生き生きとしている。瞬く間に号外の山が低くなるのが面白いのであろう。だが、黒い髪と白銀の髪の男女の前で彼の表情は一瞬にして凍りつき、動かす手は息を潜める様に止まった。

「あ…。」

 感嘆の声とは非常に素朴である。四股の動きがままならなくなれば目が動く。情報を得ようと力強く動く。ユストを見た後にイルサーシャを捉え、数秒の間を置いてユストに再び戻った。

「これは…お昼を過ぎたら配る分でした。すみません、どうぞご容赦下さい。」

 少年は彼の中で考えられる全力で態の良い断り方を口にした。声が震えている。恐らく殿下に読まれては困る内容が記されているのであろうとユストは思った。殿下を賛美する記事であれば喜び勇んで渡す筈である。残念だと言わんばかりにユストは差し出した右手で少年の肩を軽く叩くと踵を返した。

「おい、貰わなくて良いのか、殿下殿?」

 幾分つまらなそうな顔をしたイルサーシャが両手をコートのポケットに突っ込んだユストの後ろから声を掛ける。ユストは立ち止まって首だけで振り返ると左の腕を横に広げる様に動かした。ここに手を置けと示唆する動作である。

(今の少年の表情で君は判らなかったのか?)

 普段通りにイルサーシャはユストの腕を掴むなり、ユストの声が彼女の中を駆け巡った。

(ん?そなたが殿下殿で間違いないと確信したぞ?)

(どうしてそう思ったんだい?)

(あの少年、そなたを見て喋っていた。これにはそなたとて反論出来んと思うが?)

(なるほど。愚生も君が殿下で間違いないと確証を得たよ。)

(なんだ、悪あがきするつもりか?)

(彼は君を数秒間見ていた。あれは殿下かどうか、彼の中で精査する時間だ。)

(違うな。あの者は剣霊たるを見て男心がざわついただけに過ぎん。無論、殿下殿であるそなたが、まさか剣霊を連れまわしているとは誰も思わんだろうがな。)

 得意気な表情と共にイルサーシャは左の横髪を耳に掛ける。また水掛け論を展開する訳にもいかない。そうか、と肯定とも否定とも取れない返事をしたユストはおもむろに脚を動かした。すれ違う誰もが口を開けて二人を見る。国章旗と市章旗が緩やかになびく中、喉の渇きをユストは徐々に感じ始めていた。検問所を想定外の結果で切り抜け、緊張の糸が解れたのであろう。思い返せば昨日の日没以前から固形物を口に入れていない。得体の知れない飲み物を半強制的に飲まされただけである。どちらが話題の人物であるかは後回しで良い。剣霊を忌み嫌う国家とは如何なるところなのか、またその地に足を踏み入れてしまった以上、突破口は見出せるのだろうかと払拭できない不安が過ぎる。先の号外の件でイルサーシャは気付いていないが、ユストは目の覚める様な思いをさせられた。それは北部王立国家では言論の自由が認められている点である。しかも単なる自由ではない、国家の長たる王族に対する批評も堂々と大手を振ってまかり通っている。騎士の国、規律と礼節を重んじる国家は自由を与える代償として民に何を要求したのか。統一の思想だろうか。揺るぎ無い確たる理念の下ならば考えられるが、成立して二百余年の国家がそれを為し得るには時の流れに揉まれ精練されるまでの期間が短すぎる。そもそも民草の明日への糧となるには力不足である。ならば統一の敵、と言葉がユストの脳裏を掠めた時、常に彼の前を歩くイルサーシャは立ち止まり、振り返った。

「朝食にするか、殿下殿?」

 可憐な指が示す先にレストランがある。切れ長の目尻を細め、程好い厚さを有する唇の両端を持ち上げる彼女にユストはただ頷いて答えた。

 君のその表情、愚生はいつまで守れるのだろうか。

 統一の敵に日々の生活を脅かされてはならない。故に人々は己と家族と誇りを守る為に統一の敵へ立ち向かう。統一の敵とは人間ではない。人間の姿を借りた触れてはならない存在、全てを切り刻む存在である剣霊に他ならないと知ったユストは足取りが軽やかなイルサーシャの後ろ姿を静かに眺めていた。

 

 東西南北何処であれ、食事を提供する場所とは落ち着いた雰囲気を佇ませているものである。加えて言うなれば、昼前だけに利用客もまばらであり、物静かな空気が漂っている。年季を感じる扉を潜るなり、二人は奥の席へと通された。従業員たちが驚きと焦りの色を入り交えた表情をしているのは言うまでも無かろう。すぐ隣で食事を終えたばかりの紳士風の身形の者は食後のコーヒーを愉しむ事無く席を後にした。

 彼は忘れ物をした。例の号外である。誰かが気付く前にユストは号外へ向けて素早く手を伸ばし、自身の脱いだばかりのコートの下に隠した。

(殿下がお忍びで朝食を摂りに来たと思われているだろうね。注文しなくても何かしらの料理が運ばれると思うよ。)

(ほう。そなた、いつもの様に食前と食後のコーヒーは頼まないのか?)

(あぁ、それは君の口からお願いするよ。)

 テーブルの下で交差する互いの足首が離れ、呼び鈴を二本の指で摘み上げたイルサーシャに向けてユストは音無き口を動かした。温かい方で、と読み取ったイルサーシャは短く鼻で笑い、心配するなと手短に答えた。

 呼び鈴の可愛らしい音と共に服装からしてこのレストランの責任者らしき人物が二人の前に現れた。ユストより五歳ほど下と思われる。普段の様にコーヒーを二つ、温かい方でだ、とユストの要望通りにイルサーシャが言うよりも早く、しとやかな湯気が立ち上る飲み物がテーブルの上に並べられた。白磁に金の縁取りのティーカップが高級感を醸し出している。冷製ではないにしろ、ユストの望む品とはだいぶ掛け離れた薄い色をした、甘酸っぱい匂いが嗅覚をくすぐる品である。

「これは?」

 テーブルの下でユストの爪先がイルサーシャに会話の指示を与える。彼の思惑に従い、再び最もよそ行きな声と馴染めない笑顔でイルサーシャは責任者へ問い掛けた。

「昨日、殿下が大変お気に召された、当店の裏庭で栽培したセージとレモンを煮詰めた茶でございます。まさか本日もこうしてわざわざ召し上がりに参られるとは思いもしませんでした。どうぞおくつろぎ下さい。」

「左様でしたか。ところで、、たくしは新聞が読みたいのですが、官製と私製の両方を戴けますか?」

「畏まりました。直ぐにお持ちしましょう。」

 責任者は悠然と構えるユストを一瞥した後に深々と頭を下げ、イルサーシャの望む物を用意すべく二人の前から姿を消した。

(なぁ、本物の殿下殿は女性的な飲み物が好みの様だな?)

(女性的も何も、女性そのものだからね。そろそろ君も愚生の意見に同意するべきだよ。)

 今ひとつ納得が出来ないイルサーシャは束ねた髪を手繰り寄せ、人差し指に毛先を絡めている。彼女が纏う百年香の香りと殿下のお気に入りという煮詰めた茶の匂いが混ざり、甘ったるい空間が二人を包み込んだ。

「申し訳ございません。私製の物は明日以降に発刊となるそうです。今は官製のものでご容赦戴けますでしょうか?」

 額に流れる汗を拭きながら対応する責任者の様相からしてユストの読みは外れていなかった。やはり殿下には読まれたくない記事が前面に出ている。だから号外とは言え、私製の新聞は渡したくないのであろう。差し出された官製の物は三日前の日付が記されていた。

「判りました。お手を煩わせましたね。」

 なんだかんだ言いつつも役者然として愉しんでいるのでは、と内なる言葉を忠実に音で、加えて最もよそ行きな声で表現するイルサーシャに感心を通り越して呆れたユストは三日前の官製の新聞を手に取った。国家行事の日程が記載されているが、ここに捜し求める人物の名は見当たらない。さてどうしたものかと煙草に火を着け、女性的な飲み物が注がれたティーカップの取っ手に指を掛けたユストを店の責任者は訝しげに眺めている。

「少し込み入った話がしたいので、外して貰えますか?」

 ユストの組んだ脚の先端がイルサーシャの足首に触れるよりも早く、彼女は口を開いていた。ユストが用意した台詞ではない。彼女の意思による言葉である。苦手とする笑顔は消え失せ、剣霊らしく冷たい眼差しを店の責任者に投げ掛けている。研ぎ澄まされた鋭利な刃物を思わせる剣霊の緑色の瞳と不意に遭遇した人間に抗える術があるだろうか。店の責任者の額に流れる汗は熱くも冷たくも無い。彼は脳ではなく皮膚で身の危険を感じていた。全ての感覚が麻痺したかと思わせる恐怖から逃れるべく、足早に二人の前から姿を消した。

(なぁユスト、いくらが粛々と流れる時と同じく悠長な性格であろうとも、これにはさすがに疲れを覚えたぞ。)

 感情の赴くままルサーシャは語り、君が自らを悠長と言うか、と音無き失笑を漏らすユストの踵を彼女は小突いた。

(実は先程まで隣にいたお客人の忘れ物があるのだが、これに愚生たちが求める答えが記されている筈だよ。)

 ユストはティーカップの取っ手を持っていた右手を脇に置いたコートの下に潜り込ませると、黄ばんだ大判の紙片を取り出した。二人が貰い損ねた号外である。

(だが、は字が読めん。そなたが読み上げた内容を信じるしか出来ん。それではの中で踏ん切りがつかんのだ。)

(じゃあどうすれば君が納得出来るんだい?)

(簡単だ。周りにいる者たちは皆してそなたを見ているか?)

(あぁ、愚生ではなく、君を凝視しているよ。)

(この際どちらでも良い、直ぐに結果が判る。)

 毛先を絡ませていた可憐な指が上へと動く。素早くも遅くも無い動作はあからさまに見せ付けるものであるが、銜え煙草のユストの視線は手に持つ号外に落ちたままであった。

(イルサーシャ、あったぞ。これを見ろ。)

 慌てて煙草を灰皿に投げたユストは彼にしては稀に見る驚きを表現していた。しかし時は既に遅かった。

「そなたこそこちらを見ろ。」

 剣よりも女としての強い意思を思わせる声と共に二本の指が銀製の髪飾りの差し込み棒を引き抜いた。束ねられていた白銀の長い髪が自由を得たと言わんばかりに、息吹を返したかの様に豊かに広がり、ささやかな贈り物である銀製の髪飾りの本体は固い床の上で跳ね返った。音無き二人の世界に一石を投じたのかと思わせる甲高い音は号外の記事を知ったユストよりも驚きと感嘆の声を周囲にもたらせた。

 殿下が告白を成された。

 殿下が婚姻を申し込まれた。

 男は奇跡を目撃したと言わんばかりに目を丸くし、女は高まる胸の鼓動を抑えんと恍惚の吐息を漏らしている。成人を迎えた北部王立国家の女が纏めた髪を人前で解く意味を中央行政府出身のユストは知らない。だが、自らの剣霊であるイルサーシャが取った行動が周囲に衝撃を走らせ、当のイルサーシャが回答を導いたのは充分に理解出来た。

「殿下が、と言うか。どうやらそなたの思惑が正解だったようだな…。」

 照れ隠しのつもりなのか、久々に本来の形に戻った白銀の長い髪に手櫛を入れると両肘をテーブルに着け、交差した両手の上にユストのみ触れる事が可能な顎を乗せた。

 甘酸っぱい香りが豊かな煮詰めた茶は端に寄せられ、テーブルの中央に二つ折りにされた号外が広げられた。昨日このエジュ・エジェ城塞都市にて次期王位後継者が大衆の前に姿初めて現し、その名を語った。イゼリアーシェ・ヴェルリンク王女殿下という。腰に剣を佩いた御姿は太祖たるカルラン・ヴェルリンクの若かりし頃を彷彿とさせる端正さを備えており、気高き気品を持ち備えた顔立ちと共に腰まであろう白金の髪を一つに束ね、自らの首に緩やかに巻き付けている。ここまでは王女殿下の晴れの姿を綴っているが、次からは果たして彼女が騎士の最高位たる人物に相応しいのかと批判を臭わせる疑問を投げ掛けているとユストはイルサーシャに読み聞かせた。そして次が見物みものだとユストはテーブルの端を人差し指で軽く叩いてイルサーシャの注意を惹き、号外を裏返した。二つ折りにされていた内側、つまり入手しなければ知り得なかった内容である。そこには一面を使った挿絵が刷られていた。恐らく式典の様子を描いたものであろう。

「これは、の顔ではないか…?」

 単色刷りの為に瞳の色は判りかねるが、切れ長の双眸と細い眉はイルサーシャと見間違えてもおかしくない。束ねた髪型はイルサーシャとは異なるものの、髪型に日々の変化をつけるのは女の嗜みであると誰もが熟知している。イルサーシャを垣間見た誰もがイゼリアーシェ・ヴェルリンク王女殿下と見るのは無理も無かろう。

(おまけにもう一つ、愚生と君の進むべき道がこの絵に隠されていたよ。)

 脇に避けられた手前側のティーカップの取っ手を摘み、喉を潤したユストは誰にも聞こえない咳払いをし、挿絵の右下を指差した。何かしらの文字がしたためられている。絵を描いた者のサインなのかとイルサーシャは両手の上に乗せた顎から上を僅かに傾けた。

(愚生の出生地である中央の綴りで七十と書いてある。そう、愚生がこの号外を手にするのを見込んでわざと中央の文字を用いたんだ。)

(七十とは、まさかル・ゾルゾアか?だが彼の剣霊障は文字が…。)

(お披露目式当日は新月の日だよ。彼に文字の使用を許される唯一の日だ。加えて彼は君を数ヶ月前から知っており、君の顔を描いている。愚生は絵画に明るく無いが、一度描いた人物をもう一度描こうとなれば案外楽に事は進むと思うのだが。)

(つまりル・ゾルゾアは近くにいる訳だな?)

(そう。まずはこの号外の発行元を訪ねる。彼と接触する手掛かりを掴める筈だ。)

 灰皿に投げた吸い掛けの煙草の先端は既に冷たい色となっている。赤い鳩がもたらした指示書には七十及び七十四の剣霊の使い手と速やかに合流しろとあった。今まさにその指示の一端が現実へと近付こうとしている。手袋を外した左手で煙草を拾い上げ、再び火を灯す。静かに吐き出す煙の奥でユストはル・ゾルゾアの横顔を思い出している。テーブルから肘を離し、左右の横髪を耳に掛けながらイルサーシャはそう眺めていた。 

 

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