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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第三章 エジュ・エジェ城塞編
33/75

纏めた髪を解くとは

 記憶が正しければ一つ先の角を右へ曲がり、その次を左に折れる。そのまま真っ直ぐ進めば自然と目的地へと辿り着く筈である。シャルム中立市街地の路地が織り成す景色は他の市街地と変わらない。使い込まれた飾り気の無い木製のテーブルの上には店毎に異なる商品が陳列されている。食料や衣服は勿論の事、土産品を取り扱う夫婦の店もあれば訳有りと思われる武器を誇らしげに飾り、こっそりと手招きする店主の姿も見える。色とりどりの空間で誰もが目移りする雰囲気を愉しむ中、足音を立てずに歩くイルサーシャは左右の耳へ交互に触れながら独り口を動かしていた。

「やってられん。このままでは本当に身が捩れてしまう。そなたたち、を笑い者にしていたが、の身に何かあった時はそなたたちもただでは済まないのだからな。」

 触れるピアスから指を離せば左右それぞれ形の異なる黒蛇は身を躍らせる。身を躍らせようとも彼らの睥睨は薄れない。彼女の心と体を守るという黒蛇は見た者が飲み込まれるのではと後ずさりさせる程の眼差しを周囲に撒き散らしている。それ故なのか、彼女の足取りを遮る者は誰一人いない。白銀の長い髪を纏めようとも彼女の剣霊らしい流麗な目尻はそのままである。おや、と気を惹くものの、剥き出しの刃を思わせる冷たい孤高の美しさを知れば彼女に近寄るのは相当の勇気を要するものである。或いはただ単に彼女が苦い表情で独り何かを口走っている様子に、周囲は自然と恐れを成しているのかもしれない。例え美しかろうとも癇癪を起こしている真最中の女には関わらない方が身の為、と周囲の者は知っているのであろう。

 先程まで気付かなかったが、歩く度に髪留めの重量が増しているのではとイルサーシャは錯覚に陥っていた。足を一歩進めれば頭に重いものが響く。それが徐々に強くなっている。歩けば歩くほど眉間に寄る皺が深くなっているのが他に指摘されなくとも判る。いっその事、髪留めの棒を引き抜こうかとイルサーシャは考えたが、ユストの呆れた表情が脳裏を過ぎった。別段強いられる事無く髪をこのままにしておこうと見栄を張った経緯もある。自らの口から出た言葉を反古したと知ったユストは呆れた顔の口元に失笑の形を表すだろう。剣としての矜持、とは趣向が掛け離れているものの、ここは踏ん張りどころだと自らに言い聞かせながらイルサーシャは目的地へと進む。

 目的地とは先にユストがコーヒーを購入した露店に他ならない。冬の空模様を見る者に思わせる灰色のテントの下で芳醇な香りが暖か味に満ちた湯気と共に溢れ出いている。イルサーシャよりも先に二人の客が店の前に並んでいた。夫婦なのか恋人同士かは判らない。見た目の年齢はユストとイルサーシャの中間といった具合か。互いの性格と癖を熟知し、認め合う二人はどのコーヒーを飲もうか悩んでいる。手を取り合い、顔を見合わせては微笑を贈り合っている男女の仲睦まじき姿は髪留めの重量が気になる剣霊の表情を軟らかくさせた。同時に自らもこの場で同じ境遇を味わいたかったと自嘲を催させる。二人の為に用意されたカップに深い色の液体が注がれた。豊かな香りに包まれた者は安堵の表情を無意識のうちに零す。煙草を持つ左手であり、剣の柄を握る為の左手、言うなれば剣霊の実の姿である剣体を掴む唯一の権利を有する左手の親指を顎先に当てて鼻から満足の溜息を漏らすユストの横顔をイルサーシャは知っている。

「お嬢さん、ご注文を伺いましょう。」

 契約者の横顔を思い描いていたイルサーシャを現実へと連れ戻したのは店の主の声である。長年接客業に勤しんだ者らしく、顔に刻まれた皺が人生というものを物語っている。彼女の前に立っていた二人は既に姿を消していた。

「実はだな…いや、宜しければこちらにコーヒーをもう一杯所望…ではない、頂けないかしらと思いまして。」

 実践とその場凌ぎの大言を吐いた以上、行動するしかない。それなりの予想はしていたが、思いの外に言葉が滑らかに出ないものだなとイルサーシャは身に沁みる思いをし、そのぎこちなさは店の主に驚きの表情を作らせ、すぐさま柔らかな目許にさせた。

「確か、数時間前にお買いになられた黒いコートの旦那のお連れ様でしたか。」

 生成色の趣深い生地を敷いた簡素なカウンターの上にイルサーシャは手に持つ陶製のカップを無造作に置いた。

「いかにも…違うな、単にえぇ、と言うべきだな、ここは。よく記憶の片隅…ではなく、覚えておいででお恥ずかしい限りだ、です。」

 冬の長旅で疲れているのだろうか、と首を傾げざるをえないイルサーシャの言葉は世間慣れしていない箱入り娘を思わせる。店の主は無造作に置かれた陶製のカップの表面に描かれた文字がイルサーシャの正面に向くように置き直す。無駄を省いた手の動きはイルサーシャの細い眉を感心の形へと変化させた。

「なんせご自慢の長くて綺麗な銀色の髪を見せ付けられては、あまりの印象深さに忘れようとも出来ないものですよ。実は新たにお湯を沸かさなければなりませんので、少しお待ちいただけますか?」

 店の主の右斜め後ろにある簡素な暖炉の上にブリキ製のポットが置かれていた。鷺の首の様に細長い注ぎ口から緩やかな湯気が立ち上ろうとしている。この湯気が色濃く強くなるまで待てという事か。

「構わん…いやいや、お気になさらずに。、たくしの後ろに並ぶ者もいないようですし。」

「あ、たくし…ですか?」

「え、えぇ。」

 慣れない作り笑いでごまかすイルサーシャの中でやり場の無い憤りがふつふつと生じ始めていた。先程まで陶製のカップを持っていた手の反対側には西部銅貨三枚が握られている。何物をも切り裂く手の中で銅という比較的軟らかな素材の塊がぶつかり合う。心地良さとはだいぶ掛け離れた変な音がするな、と店の主は耳を疑ったがその出所は判明出来なかった。

「失礼して、お二人はこれから北へ向かうのですか?」

 湯が沸くまでの間に合わせと店の主は心の中で思い描く黒いコートの旦那とその連れの姿を言葉に出した。旅する者であれば自らの行き先を問われて嫌な顔をするのは稀であると長年の経験が教えてくれた。

「そう…です。」

 口にした言葉は別として、イルサーシャの返事は店の主の期待を裏切らなかった。彼は満足を意味する軽やかな笑みをたたえながら次の作業に移れずに暇を弄ばしている両手をカウンターの上に置いた。

「不運な事にエジュ・エジェの市民である私は殿下のお披露目式をこの目で見る機会を逃してしまいましてね。」

 店の主は自らを語り始めた。他にあれこれと訊ねるよりも、まずは己を曝け出すのは対面した者の警戒心を和らげる常套手段だと彼は知っている。物腰が柔らかであり、歳相応の落ち着いた声にイルサーシャは耳を傾けた。

 生を受けて五十余年、このかた北部王立国家から外へ出た事が無かった彼にも遂に念願の夢を叶えられる日が到来した。殿下のお披露目式が執り行われる日はこのエジュ・エジェには国内外を問わずに多くの者が訪れる。そして城塞都市であるエジュ・エジェが誇る堅牢な門を潜れなかった者は目と鼻の先にあるシャルム中立市街地へ向かう筈である。ならばシャルムに出店でみせを連ねるのも悪くない。これまでで最高の売上を記録するかもしれない、と家業を継ぐ息子夫婦と会話を弾ませていた。問題は誰がシャルムへ行くかである。殿下の晴れの姿を見たいから、と彼は主張をしたかったが、身重の嫁の前ではさすがに言葉を呑み込んでしまった。俗な話ではあるが、新たな命が誕生となればそれなりに金は掛かる。己のささやかな願望を叶えるよりも無邪気な孫の健やかな姿を第一と知る彼は商売道具を抱えながらシャルムへと足を伸ばし、今に至ると言う。

「まぁ、外の空気は違った色をしているとは聞いていたものの、未だ実感が湧かないところですよ。」

 隣町であるシャルムからでもエジュ・エジェの煌々と炊かれたかがり火の様子が覗えるまで陽が落ちていた。宵闇の空は深い赤と透き通る黒が織り成す感慨深い色を作り出し、顔を出したばかりの星々は姿を消してしまっている。エジュ・エジェの方角に顔を向けたイルサーシャに店の主は出身地を尋ねた。西だ、と予め用意してある台詞を口走っても良かったが、ここは一つ試してみるかとイルサーシャはある事を思いついた。

、たくしは中央の者でして。そなた…いや、あなた様は中央を存じて…ではない、ご存知で?」

「なるほど、中央でしたか。これまでの人生で北と西の者としか接点がありませんでしたらとても新鮮な気分です。中央にはお嬢さんの様な美しい方が多いのでしょうね?」

 しめた、とイルサーシャは銅貨を握る拳に力を込めた。金属同士が擦れる不快音に気を掛けず、彼女は体を店の主へと一歩近付けた。

「美しいだけではない、中央の女とは喋り方も独特でな。西や北の女らしい言葉使いには些か疲れた。これも何かの縁だ、本来の口調に戻させて貰うぞ?」

 イルサーシャが最も知る中央出身者が聞いたらさぞかし怒りを露にするだろう。だが、今は横にいない。今頃のんびりと煙草の煙をくゆらせている筈である。イルサーシャは人間であれば諸手を上げて解放感を満喫するであろう中、纏めた髪を垂らしていない側である右の横髪を耳に掛けた。

「はぁ、中央の女性はそうも独特な口調とは知りませんでした。」

「そうだ。そう滅多に会えるものではない。そなた、貴重な体験をしたぞ?」

「あ、たくしと詰まるのも中央独自の言い回しで?」

「それは…まぁ、そなたが生まれる遥か古来よりの自己表現方法だ。」

 どちらかと言えば、感心よりも呆気に取られた表情の店の主の後ろではポットの蓋が踊り始めていた。湯が沸いた証である。会話に夢中になって仕事を疎かにしてはならないと熟知している店の主は気を取り直して新たなコーヒーを淹れる。適度の荒さに轢かれたコーヒーの上に湯が注がれた。乾燥しきった一面が潤いを与えられ、濃い色となり、芳醇な香りが立ち昇る。ユストが最も好み、彼が安息を覚える香りはイルサーシャの脳裏に心地良い声の響きを蘇らせた。

 以前、寒い中で温かな飲み物で喉を潤すのは心休まる至福の一時だとユストはイルサーシャに語った。剣霊も契約者の血で体と心を潤すが、ユストの語る様な感慨を覚えた例は無い。ささやかな幸福を語る者が強き者なのか弱き者なのかは判断しかねる。判るのは幸とは明日への糧という事であろうか。

「お味は先程と同じ濃い目で宜しいですか?」

 立ち昇る湯気の向こうから聞こえる店の主の声はイルサーシャを思慮の空間から呼び戻した。

「あぁ、良かろう。」

 間を取り繕う様にイルサーシャは纏めた髪の根元に薬指を這わせた。そもそもこれが苦しみの元凶だと思い返すと共に刀身の象徴である髪を無理矢理に掴んだユストの姿が蘇る。乱暴に扱われたという悲しみよりも、腹立さが込上げてくる。その腹立たしさがイルサーシャの内面を占有しきった時、彼女は手の込んだ報復を思い付いた。

「ところであるじ、たくしは人間の食料について知識が乏しいのだが、催眠効果が強い食べ物はここにあるか?」

「人間の食料について、ですか?」

 まるで自分が人間ではないと言わんばかりの台詞は店の主の動く手を止めさせ、驚きの表情を作らせた。

「その…なんだ、馬が好む食料は多少知っているという意味だ。」

 鋭さと流麗さが入り混じった目許が魅力の一翼を担っている中央出身という女が初めて困惑をごまかす微笑を漏らした。先程から強張ったぎこちない表情をしていたが、笑い方を忘れた訳ではなかったのだと店の主は知り、自然と肩の力が抜ける様な感覚を覚えた。

「今ここにある材料で眠りに効くといえばこちらでしょうか。」

 手に持つポットを元ある場所へと戻した店の主は食材置き場から何かを選び出すとイルサーシャの前に広げて見せた。赤みを帯びた堅果である。北部王立国家内の東側にしか生息しない赤クルミの実だと店の主は興味深そうに眺めるイルサーシャに教えた。赤クルミは五年に一度だけ収穫を得られる。厳密には毎年実を生らせるのだが、なかなか地に落下しない。大半は痩せ細り、唯一残った食用に用いれそうな実が地に落下するまで五年の歳月が掛かるという。ならば痩せる前にと短絡的に無理に捥ぎ取ろうとすると樹そのものが枯れてしまうらしい。

「ふうん、貴重な食材なのだな。」

 赤い殻の上を走る皺は五年の流れを如実に表現している。穏やかな空の日もあれば荒れ狂う空の下を過ごさなければならなかった事もあろう。

「確かに貴重とは聞こえは良いものの、寝る前に実をすり潰して飲むぐらいしか使い道がないのも事実です。」

「ならばそのすり潰した赤クルミの実とやらを今淹れたコーヒーの中に混ぜて貰おうか。」

「それをお嬢さんが召し上がる、と?」

、たくしではない。」

「では、お連れ様が?」

「いかにも。あの者、近頃寝つきが悪いと悩んでいてな。恐らく今宵も多分に漏れない筈だ。ゆえ、たくしのささやかな贈り物にしようと思う。」

 イルサーシャのか細い人差し指がカウンター上に置かれた赤クルミの実を示した。これまでに数ある家事の一つにすら携わっていないのではないのかと思わせる白い指が日没前のかがり火の光を照り返している。繊細な美しさを通り越し、身の危険を感じさせる何かに店の主は思わず唾を飲み込んだ。

「どうした、、たくしの指が気になるか?」

「いえ、あまりの綺麗な具合に思わず見とれてしまいました。」

「それなりに手入れをさせているからな、当然であろう?」

 させているとはどの様な事だろうか。店の主の中で生じた疑問を一蹴するかの様にイルサーシャは鼻で短く笑い、言葉を続けた。

「あともう一つ。冷製で仕立てて欲しい。」

「冷製…もしや冷やせと?」

 思いもよらない注文の意図を補足するかの如く、そうだと返事をしたイルサーシャの緑色の瞳が店の脇にかき集められた昨日の雪の山へと動いた。その中に陶製のカップごと差し込めと細い指が示している。

「中央の方々はこうして冷やしてコーヒーを召し上がるのでしょうか?」

 イルサーシャは冷製のコーヒーを飲んでいるユストの姿を未だ見ず、ましてや話を聞いた覚えすら無い。再びそうだと彼女は言葉を繰り返したものの、先よりは確固たるものが薄らいでいた。

「まぁ、、たくしは熱にはそれなりの耐性があるが、湯気に当たる訳にはいかないからな。」

「湯気に当ると言いますと?」

「んん…そうだ、化粧が落ちるであろう?」

 何かの言い訳なのだろうか。艶やかさとはだいぶ掛け離れた冷たい色合いの唇を指差している。彼女の言葉の意図が今一つ汲み取れない店の主は返す言葉を失ってしまった。果たして冬の寒空の下で冷やしたコーヒーに満足を覚えるかは疑問だが、拒絶する理由も見つからない。店の主は膝を折った。柔らかな湯気が芳醇な香りの輪郭を彩るコーヒーを注がれた陶製のカップは掻き集められた雪の山の中に沈んだ。

 カップに触れる雪が融ける有様を眺めていたイルサーシャは手持ち無沙汰からなのか、汚れを知らない両手は透かし彫りが施された銀製の髪留めを再び探し始めた。歩いた際の衝撃でイルサーシャの肩より下の位置にあった。彼女の髪を纏めているというよりは髪に付着してぶら下がっていると表現するのが適切な状態である。髪を纏めたのはイルサーシャ自身ではない。ユストが無理矢理に、そして強引に掴んで髪留めの棒を差し込んだ。何事も器用にこなす手付きをしているが、ユストは所詮男である。女の髪の扱い方には開拓の余地が残されていた。或いはイルサーシャが嫌だと抵抗したが為に手許が狂ったのか。原因の追究はどうでも良い。今の彼女の中で痛いという表現よりも重たいという実感がもたれ掛けていた。この気持ち悪さを排除する為には髪留めを外せば済む。ユストが目の前にいる訳ではない。少しの間ではあるが外しても構わないだろうと決め込んだイルサーシャは左手で髪留めを押さえながら右手で差し込み棒を引き抜いた。

「ん、どうした?」

 イルサーシャの両手が動くと同時に店の主は慌てて彼女に背を向けていた。

「どうした何も。年寄りを脅かすのは止めて下さい。」

 イルサーシャの素っ気無い口調に反して店の主の声は彼の行動と同じく慌てふためいていた。

、たくしは何か粗相をやらかしたのか?」

 イルサーシャは自らの白銀の長い髪を広げて、開放感を満喫している。一方の店の主は窮屈な部屋に閉じ込められたかの如く背中を強張らせていた。雪の山に埋め込まれた陶製のカップから沸き立つ湯気はだいぶ弱まっている。今少し時間を要するのかと知ったイルサーシャは普段よりも丁寧に手櫛を入れながら店の主に背を向けた理由を訊ねた。

「お嬢さんは中央の方ですからご存知ないのでしょうが…。」

 背を向けたまま店の主は語った。北部王立国家にて生まれ育った女は髪を切らずに伸ばし、成人を迎えた者は公の場では束ねるか結い上げた姿で臨むのが習慣だという。ただ一つだけ髪を垂らした姿を晒しても良い時がある。それは意中の男に自らの全てを捧げると意思表示する場合に他ならない。

「ほぉ。もう少し詳しく聞こうか。」

 イルサーシャが剣霊であろうとも、女心くすぐるロマンを匂わせる逸話に興味を示すのは自然の流れである。ユストの手癖を真似たのか、彼女は自らの髪の先端を人差し指に巻きつけながら耳を傾けた。

 事のいわれは北部王立国家が樹立する以前の頃まで遡る。トウラドオク王朝が倒れた後、大陸は再び小国家同士が諍いを起こす中、北の地の一都市であるエジュ・エジェにて一人の騎士が立ち上がった。名をカルラン・ヴェルリンクという。後の北部王立国家初代国王となる人物である。騎士としての実力は言うまでもなく、統率者としての才能も頭角を現したカルラン・ヴェルリンクは周囲の列強が彼の前では兜を脱ぐまでに至らせた。己の正義を貫き、戦いに明け暮れた彼は安らぎを求めたのか、伴侶を得ようと考えた。剣の扱いにうるさく、独自の戦術論を悠然と語れる彼にとって、女についてもそれなりの拘りを有していたようである。良家の令嬢が着飾り、庶民の娘が笑顔を振りまこうともカルラン・ヴェルリンクの表情は普段と変わらずに冷静であり、腰に佩いた剣を外す事は無かったと言う。ある冬の晴れた日、青と白の色使いが清楚な雰囲気を醸し出しているドレスを纏った若き女と彼は出会った。長い栗色の髪を丁寧に結い上げた彼女は特段、名のある家の者ではないが、力を持つ者の前で媚びへつらう様な事は無く、己の意思を明確に表示出来る才女であったらしい。これまで見てきた女と同じだと言わんばかりに退屈そうな表情をするカルラン・ヴェルリンクの前で跪いていた彼女は立ち上がると結い上げた髪を解いた。

 貴方にとって私は必要な女。何故その様な顔をなさるのですか。

 堰き止められた水が開放されたかの様に彼女の髪は躍った。淡い陽光の下で光り輝きながら動く髪の艶にカルラン・ヴェルリンクは心を奪われ、腰に佩く剣を地に置くと両手で彼女の手を取ったと伝えられている。彼にとって、いや男にとって琴線に触れる光景との出会いであったのであろう。やがてカルラン・ヴェルリンクは一国の王となり、六十五歳でこの世を去るまで暇を見つけては后との馴れ初めを身の回りの者に話していた。

「なるほど。もうこちらを向いても構わないぞ?」

 店の主はイルサーシャの言葉の通りに体の向きを元に戻した。恐る恐る目の前の女に視線を移せば先程よりも整然と髪を纏めてはいるが、眉間に走る皺が数本増えていた。

「中央の方に北の王の逸話は後味が悪うございましたか?」

「いや、なかなか興味深く聞かせて貰った。少し苦い顔をしているのはちょっとした訳があるのだが、まぁ、理由は聞かないで欲しい。」

 店の主の方もイルサーシャの一風変わった言葉の遣り取りに慣れ始めていた。見れば握り締めた拳に力を込めている。陽も沈んで寒気を感じたのであろう。保温の良い絹製と思われるが、ドレス一枚では仕方あるまい。

「左様でございますか。ではそう致しましょう。」

 一風変わった中央の女に卒無く返事をした後に店の主は雪の山から陶製のカップを取り出した。澱んだとも澄んだとも言い切れない世界は既に湯気を立てていない。急激に冷やされた為か、カップの表面には無数の水滴が付着しており、見る者に中身の冷たさを思わせる。

「仕上げにミルクを少々入れてくれ。あと、カップの表面を良く拭いて欲しい。、たくしは手を濡らす訳にはいかないのだ。」

 水仕事とは無縁だと語っている。それ故に研ぎ澄まされた輝きを思わせる手をしているのか、と店の主はイルサーシャの細い指を眺めながら彼女の要望に沿った。黒と茶の融合した表面に乳白色が入り混じる。普段であれば柔らかな色合いになるが、冷えている為になかなか混ざらない。まるで個人が思い描く景色に別の思惑が入り込もうとしているのかの様相を眺めながらイルサーシャは握り締めている拳を生成色の布で覆われたカウンターの上で楽にさせた。西部銅貨が三枚、互いにぶつかっては鈍い音を立てた。

「これで足りるか?」

「二枚で結構ですよ。」

「そうか?ならば残りの一枚は先程の興味深い話の対価だ。受け取ってくれ。」

 少額とは言え、思わぬ報酬を得た店の主は西部銅貨に視線を注いだ。無数の傷を縦横無尽に走らせている。銅よりも硬い物質の慰み物になったのであろうか。深く刻まれた傷もあれば浅く擦れた傷もある。

「では遠慮無くお気持ちに甘えさせて頂きます。」

 傷とは見る者によって如何様にも捉えられる。この西部銅貨に走る傷は汚らしいとは次元が異なる、味わい深い趣を店の主は感じた。まるで人間の生き様を映し出したかの様に輝いている。錆を浮かすまではいかないものの、色褪せつつある表面の下には本来の輝きを覗かせている。淡かろうと頼り無さ気であろうと、それは他に染まっていない純粋無垢の姿である。あの奥深い緑色の瞳の持ち主は傷を見た際に短い微笑をたたえていた。まるで長い年月を知る者を思わせる素振りに店の主はただ見入る事しか出来なかった。

 中央出身と語る風変わりな女は奇抜な注文の品と共に店の前から姿を消した。束ねられた白銀の長い髪が揺れる様子が見えなくなった時、何故なにゆえに思わず深い溜息を漏らしたのかは判らない。店の主人は灰色のテントから顔を出して空を見上げた。

 かがり火の明るさが届かない位置まで昇った星々は瞬き、月は依然として姿を隠していた。

 

 北の赤クルミの粉末を混ぜ合わせた冷製コーヒーを左手に持ったイルサーシャは足早にユストの許へと向かった。纏めた白銀の長い髪が獣の尾の様に揺れ動き、幾何学模様が描かれたスカートの裾が後ろへ流れる。一つの動作をする度に百年香の爽やかな香りが彼女を包み込む。少々時間を掛けてしまったなとコーヒーの表面に映り込んだ自らに視線を落としながら歩んでいた。目の前の角を折れれば広場へと通じる目抜き通りに出る。広場の片隅に設置された古ぼけたベンチで悠々と煙草をふかしているユストの姿を緑色の瞳が捉えるのもあと僅かである。自ら進んで使い役を買って出たが、戻った際にユストの第一声は何だろうかと思い描く。何処をほっつき歩いていたのだと眉間に皺を寄せて小言から始まるのか、あるいは何食わぬ顔のまま遅かったなと手短な配慮の結果が先に口を動かすのか。どちらでも良い。今のイルサーシャの中で関心を占めているのは左手にある奇妙な飲み物である。四の五を言う間を与えずに飲み干させる。露店の店の主の言葉通りであればユストは本人の意思に関係無く睡魔に身を預けてしまうであろう。そうすれば明日の国境通過時の台詞の練習という茶番に打ち込まなくて済む。そもそも剣に役者まがいをさせる事自体が間違っているのだと独り頷きながらイルサーシャは角を曲がった。

 異質の金属同士がぶつかる鈍い音が短く響いた。イルサーシャの髪よりも濃い色合いをした銀色の鎧を身に纏う二人の兵士の片方と肩を当ててしまった。南西自治国家内では目にする事の無かった鎧の形をしている。剣と槍を持つ龍が誇らしげに胸部に刻まれていた。これが北の国章かとイルサーシャは目尻に剣霊らしい鋭さを瞬時に浮き立たせたが、この場で荒事への展開は回避するべきである。口元と目尻を使って彼女が苦手とする、敵意を示さない笑顔を作り出したイルサーシャは、二人の兵士へ見せ付けるように丁寧にそれぞれに顔を向けると倒れ込まない様に力を込めていた脚を動かした。

「女、待て。」

 声を発したのは肩が当った側の兵士である。声の低さと重みからして年の頃はユストと同じか。違うのは常に鎧を身に纏う事で自然と鍛え上げられた体格と所属する国家であった。彼の利き腕であろう右の指先は腰に下げている剣の柄に触れるか触れないかの位置で待機させられていた。

「止めておけ。向こうは一般の女、しかも殿下のお披露目の日に揉め事は避けるべきだ。」

 すかさず相方の兵士がなだめた。彼も剣の柄に指を掛けた側とほぼ同い年であろう。感情に身を任せた者を制するのに慶事を持ち出すのは常套である。一方のイルサーシャは二人の動向を静観すべく振り返らずに黙って佇んでいた。

「今日が喜ばしい日なのは理解している。しかし、それは人間同士での話だ。」

「…どういう意味だ?あの女が人間ではないと?」

「鎧越しであろうと当れば女の肌の柔らかさは判る。あの女は鉄の様に固かった。」

 剣霊だと悟られたのか。イルサーシャは内心で舌打ちをした。二人の兵士が北部王立国家の者にとって忌み嫌う存在の名を口にしないのは、剣霊であると確証を得ていない点と、剣霊との遭遇を信じたくない淡い願望が交差した結果と言えよう。二人を斬って逃げるかとイルサーシャは空いている右の五指を揃えたが、新月の日である。剣霊としての能力が著しく低下している。かわされはしないものの、一閃を受け止められて力で捩じ伏せられたら到底敵わない。道が塞がったとは思いたくは無いが、確実に且つ安全にやり過ごす策が見つからない。動きを封じられたイルサーシャを焦らせようとかがり火にくべられている薪が弾けた。

「いや、それは考え過ぎではないのか?」

 肩に当った側の兵士の右手が剣の柄を握ろうとする中、相方の兵士の言葉はイルサーシャの緑色の瞳を横へと動かした。

「おい、何を根拠に?」

「この者は髪を纏めている。しかも顔に黒子があった。どれも奴らの特徴には当て嵌まらない。」

「どれどれ、もう一度確かめてみるか。」

 唸る様な勢いで鼻から息を漏らした後、肩に当った側の兵士はこちらに向けとイルサーシャへ声を荒げた。抵抗は何も生じない。むしろ拒否すれば相手はためらいも無く剣を抜くと見て間違いない。身に迫る危険が殺気を生成している。だがそれを漏らす訳にもいかない。イルサーシャは二人を驚かさせない様にゆっくりと指示に従った。

「あぁ、確かに頬に黒子があるな。女、何処の出身だ?」

 本来、剣霊の霊体に黒子は無縁である。しかし目の前の兵士二人はイルサーシャの顔を見て黒子があると口にした。何が彼らを黒子と思わせたのかとイルサーシャが不思議に思うのも無理ない。まだ陽が落ちていない頃、イルサーシャはユストから携帯用の羽根ペンを借りた。これまでに文字を書いた事が無い彼女はインクを飛び散らせてしまった。言わばその際の拭い残しが黒子と見間違えられたのである。

「何処の出身だ?人間ならば早く喋らんか。」

 鏡に顔を映せば怪我の功名の存在に気付くとはいざ知らず、怪訝な面持ちのままイルサーシャは口を開いた。

、たくしは…。」

 再びかがり火の薪が弾け、イルサーシャの言葉を遮った。

「見ろ、言葉を詰まらせている、可哀想に。変な言いがかりをつけられて怯えている証拠だ。」

 軍隊の中に於ける階級は判らないが、相方の兵士は紳士的である。腰に下げている剣は見た目は質素なものの、鞘に収められている刀身は曇り一つ無い輝きを放つであろう。同じ剣であるからこそ判るのであり、その輝きは彼の内なる矜持を示しているとイルサーシャは感じ得ていた。

「あぁ、少々荒々しい態度をとってしまってすまん。ただ、あのガツンという音はどうも解せないのだが…。」

「そこまでお前が言うなら仕方あるまい、彼女に奴らでない証明をして貰うしかないな。」

 相方の兵士はユストと同じく鼻で溜息を漏らした。肩が当った側の兵士に柄に触れている指を楽にさせるようにと促し、その後にイルサーシャに向けて柔らかな表情を投げ掛けた。

「君、俺の同僚が君の事を忌々しい剣霊だと怪しんでいる。確かに君は奴らと見間違えるほど整った顔立ちをしているが、君はれっきとした人間の筈だ。そうでなければ成人を迎えた女の嗜みである髪を結わえたりしない。ここはひとつ、人間である証拠を同僚に見せてもらえないだろうか?」

 籠手越しの指が傍らにある街路樹を示している。樹皮の様子からして樺の樹であろうか。人間である証明とは樺の樹の表面に触れろという事に他ならない。人間であれば何事も生じない動作ではあるが、剣霊は違う。例え街路樹であろうとも、契約者であるユスト以外の生物に触れられない。イルサーシャの指は触れると同時に趣深い樺の樹の樹皮に無慈悲な亀裂を走らせるであろう。やはり北部王立国家の者、とりわけ軍隊に属する者は剣霊の特徴を熟知しているとイルサーシャは知らしめられた。だが、今は感心している場合ではない。再び窮地に立たされた自らをどう救い出すか。考察の時間は皆無に等しい。咄嗟の判断で対応しなければ怪しまれる。

「あの樹をどうすれば良いのだ…ではない、良いのでしょう?」

 ここは敢えて真意が判らないふりをするべきだとイルサーシャは純朴な人間の女らしく振舞ったが、やはり言葉がそれらしく出なかった。

「あぁ、まだ怯えているのか。大丈夫、あの樹の表面に手を添えるだけだ。」

「いや、添えるだけでは判らん。軽く叩け。」

 諭す様に語る兵と命令口調で怒鳴る兵。二人の視線はイルサーシャの黒子があるという顔と細い右手の間を行き来している。やはり斬り払うしか選択の余地はないのかとざわめく心を落ち着かせる為に横髪を耳に掛ける。そうか、と何かを思い付いたイルサーシャの緑色の瞳が僅かにも表情を作り上げた。

「おい、早く樹を叩け。今の時季なら叩いても虫は降って来ないから案ずるな。」

 肩に当った側の兵士が再び吼える。彼が次に口を動かす時は腰に下げている剣も引き抜かれているに違いない。抜かれた剣はイルサーシャという女を脅す目的ではない。剣霊を倒さんとする剣であろう。時が満ちようとしている。意を決したイルサーシャは横髪を耳に掛けた手をそのままにして樺の樹へと歩み寄った。尖り過ぎず丸まり過ぎずの程好い大きさの耳に触れていた指が下へとずれる。柔らかな耳たぶの先ではこの場を安息の居所と知る自らの尾に喰らい付く黒蛇のピアスが佇んでいる。イルサーシャの薬指の腹が黒蛇の下顎に触れた。眠れる獣を起こす様に、そしてあやす様に触れる薬指を上下に動かしながらイルサーシャは己の中で呟いた。

 の魄を守りしペインよ、聞け。月が生まれ変わるこの日この時この場にて不撓不屈かつしなやかな汝の巨躯の一片を以ての右のたなごころを覆え。万物を斬り裂くたなごころから生ある全てを一切傷付ける事無く守り抜くのだ。

 イルサーシャの細めていた目尻に鋭さが走った。文句を一つ二つばかり並べた従者に対する彼女の反応は二人の兵士には見えない。

「判っておる、次の食事の時はユストに訳を話して多めに頂く。そなた、それでも不服か?」

 小声で諭した後に優しさを装っていた薬指が愛撫は疲れたと触れるピアスを弾く。自らの尾に喰らい付く黒蛇は左右に身を躍らせた後に万物を切り裂く剣霊の手に握り締められた。そのまま勢い良く腕を振り上げ、袖口を縁取る幾何学模様がたわみ、不可思議な形を作り出す。閉じていた右手が開いた。そこに自らの尾を銜える黒蛇の姿は無い。陽が落ちた冬の寒空の下、纏めた白銀の長い髪の先端が揺れ動くと共に軽やかで景気の良い音が短く響いた。

「痛かったか。許せ。」

 僅かな沈黙を置いてイルサーシャは声を漏らした。樺の樹へ向けての愛情か、従者に向けての憐れみかは彼女のみしか知らない。イルサーシャが樺の樹にふれたままの右手を離すと秋の名残りである最後の葉がはらはらと舞い始めた。彼女は葉が自らの脇を通過する最中、親指と人差し指の二本の指で葉柄ようへいを器用に摘み取り、二人の兵士へ見せつけた。

「虫の代わりに葉が落ちました。」

 樺の樹を平手で叩いた結果という、判り切っていると信じてやまない光景を目の当たりにした二人の兵士は互いに安堵の溜息を鼻で吐いた。万が一を想定して腰に佩く剣の柄に触れんとしていた利き手を楽な姿勢に戻し、相方の兵士が口を開いた。

「見たか、お前の思い過ごしだよ。」

「あぁ、そうかもしれん。まだ酒が残っていたのかもしれんな。」

 二人の会話をよそにイルサーシャは摘んだ秋の名残りを弄び、左手に握ったままのカップの表面を眺めていた。樺の樹を叩いた拍子に中身が零れたら、ましてや手の上に零れなくて良かったと独り胸を撫で下ろしていた。

「女、もう良い。忌々しき奴らと見なされて気を悪くされたのであれば平に謝ろう。」

 肩に当った側の兵士は一歩前に出ると頭を下げた。北は騎士の国と言われるだけに礼を重んじる。彼の鎧の胸部に刻まれた、剣と槍を携えた龍がお辞儀をしているかの様相を見届けたイルサーシャは樺の樹を叩いた際に乱れた右の横髪を耳に掛けた。

「…ごきげんよう。」

 秋の名残りを摘んだイルサーシャは踵を返した。普段の彼女であればさらばだ、と口走っていたであろう。少しは今風の言い回しに於ける順応性が身に付いたのかと思いつつ、横髪を掛けた手を下へと落とす。姿を消していた自らの尾に喰らい付く黒蛇が元のあるべき位置に納まった。満足とも不満とも彼は声を漏らさずに揺れている。威圧以外のなにものでもない睨みを利かせた眼差しが焚けるかがり火を映す中、イルサーシャの二本の指は秋の名残りを葉柄から中脈に添ってその身を二つに分断させた。

 二人の兵士達は距離が離れている事もあってか、斬られた葉に気付いていない。

 確かに彼女は人間だ。忌々しき奴らが香を嗜むものか。

 国家を案ずる彼らが彼女の残り香に意識を奪われている中、秋の名残りは地に落ち、吹く風に身を委ねた。


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