エジュ・エジェ城塞編 序章
薄闇が広がる世界に一滴の雫が零れた。
岩肌を穿つ一滴が奏でる音は冷たさと儚さを纏い、物悲しさに満ち溢れた響きは潤いの恵みを与える為ではない。無表情な岩の一部を穿った一滴は飛散し、雫という短すぎる命を全うする。雫が最期の際に発した音によるのか、苔が淡い光りを放った。短すぎる命を哀れむかの様な力無い光りは薄闇の中で女の可憐な手を映し出す。成人にはまだ少し早い、苦労よりも夢や希望に満たされる年齢を思わせる手の先にある指は細く、整った形をしている。陽の光が閉ざされた世界の中で輝く苔の光りを撥ね返す程の肌理の細かい中指が動くと共に薬指が、そして小指が同じ様に動き、何かを捜し求め始めた。ためらいを伴った動きは指の最先端に意識を集中している為なのか、恐怖を回避する様に、安堵を求める様にゆっくりと動く。
「クラウディア、そこは駄目だ。二分と十二秒後に雫が落ちてくる。」
若さを否めないが聞く者に意志の強さを否応にも感じさせる女の声が響く。手を動かしていた者が発した声ではない。クラウディアと呼ばれた女の左脇から聞こえた。
「大丈夫だよ、ラファエラ。二分と十一秒したら動かすから。」
声からしてラファエラよりも若干の幼さが垣間見れるクラウディアが語り終わると共に再び雫が一滴、零れた。先と同じ様に苔が光り、辺りを照らす。指を動かしていたクラウディアの手首には金属製の腕輪が付けられていた。象嵌や透かし彫りが施されておらず、単なる無垢素材の鈍い輝きが薄闇の中で映えている。彼女の細い手首に圧し掛かる姿は装飾用としては見て取れない。彼女の動きを抑制する為に嵌められたと解釈するべきであろう。
「無駄に動かず、体力の消耗は極力控えるんだ。何の抵抗も出来なくなったら奴等の思うつぼだ。自らすすんで操り人形にさせられたいのか?」
「判ったよ。だから怒らないで。ラファエラの方こそ怒ったら体力を消耗するよ?」
「怒っているものか。注意しただけだ。」
「そう。それなら良いんだ。」
クラウディアの手が動き、すぐさまその場に雫が落ちた。ラファエラの言うところの二分と十二秒が経過した。クラウディアの両手足に嵌められた金属製の腕輪と足輪が苔の光りに反応して重苦しく輝いた。
「ねぇ、ラファエラ。ユランに会いたいな。食事中にユランに頭を撫でられると凄く気持ちが落ち着くんだ。」
「そうだな。確かに落ち着く。あれは一番幸せな時間だ。」
「ユラン、ちゃんと我たちを探してくれているかな?ここに閉じ込められてからもう一週間経つよ?」
「まだ六日と五時間が経過した程度だ。一週間には達していない。」
「いいよ、そんな細かい事は。それよりもユランが何をしているのか我は気になって仕方が無いんだよ。」
怒りを露にしたら体力を消耗すると口にしたクラウディアが語気を強めた。
「何をしているか、か…。」
「我たちがいないのを良い事に好き勝手しているのかしら、と考えると虫酸が走るよ。」
「ユランには悪いが、それは無理な話だ。我たちの食痕を知った時、何人たりとも物怖じするからな。」
「契約とは言え、ユランには可哀想な事をしちゃったかな?」
「お互いに納得の上での話だ。気にするな。」
新たな一滴が岩を穿ち、苔が光る。その僅かで仄かな輝きは呆れた様子が覗えるラファエラの可憐でありつつも若年の割には端正な横顔を映し出していた。
「そもそもユランは無能な人間ではない。剣霊の契約者たる己がすべき事を理解している筈だ。ユランがここに現れるまで我たちはこのままじっと耐えるんだ。」
「耐えるって…。じゃあどれぐらい耐えれば良いの?ラファエラなら何日と何時間何分何秒って事細かに判るでしょ?まさか何年単位なの?ねぇ、早く教えてよ?」
クラウディアの惜しみの無い感情の吐露は己の精神を安らげる為であり、常に共にあり心を許せる存在であるラファエラにしか受け止められない。不規則でありつつも定期的に零れる雫の動きが止まったかの様に静まり返る。クラウディアという剣霊の剥き出した感情が意思を持たない物質をも恐れを抱かせたのかと思わせる程の静寂が辺りを包み込んでいた。
「判らない。だから今の我たちは体力の消耗を極力回避するしかない。ただ判るのは我もユランに会いたい、ユランに頭を撫でられたいと思う気持ちが一秒過ぎる毎に強くなっているという事だ。」
両足を抱える様に座るラファエラが静寂の帳を下ろす。彼女の双眸はそう遠くない過去の思い出を描き、心安らぐ世界に浸りたいと閉じられていた。
「そうだよね。ごめん、ラファエラ。そっちに行っても大丈夫?」
「我の右横なら十三分ばかり平気だ。」
「それだけあれば充分だよ。」
四股の自由を制限されていようともクラウディアのラファエラを思う意志は固い。やっとの思いで振り上げた、何をも切り裂く刃と化す剣霊の両手が身を縮ませている肩を包み込んだ。身に纏う服の上からとは言えども、金属同士が触れる耳障りな音が短く響き、天井から三滴の水滴が落ちた。
「こうしていれば落ち着くよ。人間だった時も嫌な事を忘れられたよね。」
「あぁ。だが、今はお互いに冷たい体になってしまった。」
「でも心は変わらない。ラファエラの心は誰よりも温かいって我は知っているよ。」
「我も同じ思いだ。互いに剣霊になろうともクラウディアの手は誰よりも心に染み渡るのが判る。」
ラファエラの口元が安らぎを見出し、優しき形へと変化する。しかし心落ち着く時間とは短いものである。これも人間であろうと剣霊であろうと同じであった。ラファエラは現実を捉えようと目を開き、クラウディアは張り詰める空気を感じたのか、親しき者の肩を抱きこんでいる手に力を込めた。
炎が見えた。重厚さを思わせる金属の鈍い響きと共に炎が近づいてくる。温かさよりも不気味さを思わせる揺らめきは闇を照らす為のものではない。渦巻く欲望を露にする為の揺らめきであるのは誰の目から見ても明らかであろう。
「おい、化け物ども、食事だ。」
甲冑で身を包んだ男は鼻で短く笑った。日の出間近の頃合を思わせる蒼色が印象深い鎧の中央には剣と槍を持つ龍の姿が刻まれている。紛れも無く北部王立国家の国章である。彼は国軍の兵士なのであろう。崇高な国章よろしく、彼は松明を持つ手とは反対にある木製の器を床に置いた。
「ネズミの血なんていらない。それに我たちは化け物じゃないよ。」
物怖じせずに答えるクラウディアに向けて男は松明をかざした。薄紫色の長い髪をした若い女が同じ色の短い髪を持つ女を庇う様に肩を抱き締めている。冬の空に似た澄んだ水色の瞳を共に持つ彼女たちの涼しくも何人たりとも近寄せさせない眼光は、自らは剣霊であると語っていた。
「人間の形をした人間でないのを化け物って言うんだよ。いいからさっさと飲め、腹が減っているんだろう?」
侮蔑の眼差しを投げる男の右肩に雫が落ちた。彼の身を守る鎧は雫を撥ね返し、更なる蒼色の艶を輝かせる。本来であればそれは美しき煌きであろう。だが、身を寄せ合う二振りの剣霊には人間の渦巻く欲望の咆哮の様に思えた。
「いやだ。ネズミの血を飲んだら言葉を忘れるし、不味いよ。」
「そう言うと思って今回は特別に人間の血を用意したんだぜ?」
「え、人間の血?」
ラファエラを抱き込むクラウディアの視線が独特の色で満たされた木製の器へと移った。一方のラファエラは揺れ動くクラウディアの心を思い止まらせようと肩に触れる手に自らのそれを重ねた。
「俺の血だ。剣霊は飲んだ血の持ち主に触れるんだろう?つまり俺がお前たちの頭を撫でてやる事も出来るという訳だ。さぁ、一滴も残さずにたんと飲むんだ。思う存分可愛がってやるからよ。」
血で満たした器を先程まで持っていた手の親指の先を誇らしげに自らの顔へ向け、卑屈な形に歪む男の口元に惧れを感じたクラウディアは返す言葉を失い、ラファエラの肩に触れる手に再び力を込めた。
「それなら尚更飲めないな。」
ラファエラの落ち着いた口調に呼応したかの様に雫が松明の上へと落ちる。僅かにも液体の蒸発する音が薄闇の世界に響いた。
「ほぉ。化け物、尚更とはどういう意味だ?」
威嚇の為か、男は松明をラファエラへと向ける。普通の少女であれば熱と闇を照らす明るさに眩惑を生じ、顔を背けるであろう。しかしラファエラの剣霊としての矜持は強固であり、人間が容易く触れられる代物ではなかった。
「あんたの血の味は舐めなくても判る。ネズミより不味い。」
「ほぉ。ネズミより不味いとは言ってくれるな。」
「あぁ。狡猾で薄汚い、まるでドブネズミの味だ。」
鼻で短く笑うラファエラに顔の前に妖しい輝きが走る。怒りに身を任せた男は腰に佩く剣を抜いていた。鮮やかな抜き様はさすがに訓練に訓練を重ねた北部王立国家の兵に他ならない。
「化け物、許しを乞うなら今のうちだ。その綺麗な顔に傷がついても知らんぞ?」
諸刃の直剣の切先がラファエラの薄紫の短い髪を掬った。しなやかであり滑らかな女の髪は分断されずに絶妙な孤を描く。大概の者であれば恐怖に慄く中、ラファエラの眼光は剣霊のみがもつ鋭さを保ち続けていた。
「化け物ではないと何度言えば判る、ドブネズミ。我にはラファエラ、そして横にいるのはクラウディアと遠い昔に亡くなった両親から名を頂いた。」
「何が遠い昔だ。お前たちの両親はさぞや草葉の陰で嘆いているだろう、自分たちの娘が忌々しき剣霊などになってしまったとな。」
「我たちの両親はそんな事思っていない、我たちの幸せをずっと願っていたんだよ!」
感情の思うままに言葉を発するクラウディアの声が響き終わる同時に雫が直剣の上へ零れた。腐食という名の臭いが一人の人間の嗅覚を突き、二振りの剣霊の思惑を物語る。鍛え上げられた剣の崩壊が始まった。程よい肉厚の刀身はただれた皮膚の様に規則性の無い模様を成し、国家の秩序を守るべき刃は穢れ無き色を失ってしまった。暗闇の中で儚げな音を奏で続けていた天井から零れる雫たちは極めて強力な酸であった。
「剣は抜かれたらただでは鞘に戻らない。しかし残念ながら今回は自らを傷付けるという結果が待っていたな。」
ラファエラの言葉は男に向けて発したものではない。彼の手に身を委ねていた直剣に対してである。その証拠として彼女の澄んだ水色の瞳は悲哀の趣を注していた。ラファエラの汚れを受け付けない細い指が酸の侵食を許した剣の切先を弾く。剣という金属の砕ける響きの次に鎧という金属が傷付く音が聞こえた。
「我の顔を気にするよりも、あんたの鎧を気にするべきの様だ。」
切先を弾いた指をそのまま天へと向ける。酸を弾く鎧であろうとも、さすがに傷が付いてはそこから侵食が始まると剣霊のか細い指は示唆していた。
「この小癪な化け物が…。」
切先を失った直剣を投げ捨てた男の手は拳を作り出していた。刃ではなく暴力で服従させようという魂胆は目に見えている。鎧を身に纏う者の拳には剣霊とはいえ歯が立たない。避けようとも手足に架せられた金属製の輪は重りとなり俊敏な動きを封じられる。刀身が折れるまではいかないものの、全身に迸る衝撃に耐えようと苦い顔をしなければならない。下手な抵抗を試みるべきではなかった、とクラウディアとラファエラが後悔する中、更なる松明の明かりが近付いていた。
「そこ、何を騒いでいる?」
鎧が奏でる重厚な響きは聞き飽きた。だが、その中にも国を思う規則正しい足取りが加わっている。幾分話が判る男なのかもしれない。囚われの剣霊たちは拳を構える食事を運んだ男をよそに近付く新たな兵へと意識を傾けた。
同じく蒼色の艶が妖しさを醸し出す鎧の兵は兜を着けていた。まるで臨戦態勢の様な出で立ちの前を一人の女が歩いている。黒い薄絹を身に纏い、惜しみなく曝け出された白い肩は彼女の艶やかさに更なる磨きを掛けている。両手足に金属製の輪を嵌められていえるのが見えた。しかも二つずつである。彼女も囚われの剣霊であり、並みならぬ実力の持ち主なのであろう。
「化け物ども、お前たちの仲間だ。」
北部王立国家に於いて、国を思うとは剣霊を否定する事に他ならない。彼も立派な愛国の騎士であり、剣と槍を携える龍を用いた国章が揺らめく松明の明かりの中で誇らしげに輝いている。しかし、この場では崇高さを物語る陰影を与えられた国章よりも独特な緩やかな孤を描く豊かな黄金の髪の煌き様があまりにも魅力に溢れ、あらゆる視線を独占していた。
「わぁ、凄く綺麗。大人の剣霊だよ、ラファエラ。」
クラウディアの包み隠さない感嘆の言葉は、彼女の言うところの大人の剣霊の目尻を細くさせる。その目尻の奥に佇む黄金の瞳が妖しげに輝いていた。
「お、化け物にしておくには勿体無いほどの上玉じゃないか。こんな泥臭いガキの化け物どもよりこっちの相手の方が楽しみがあるってものよ。」
食事を運んだ男は卑猥な笑みを浮かべながら大人の剣霊が持つ絶妙な起伏に富んだ体の曲線を上から下まで舐める様に目で吟味し始めた。
「おい、見るのはお前の勝手だが注意しろ。こいつと目を合わせたら魂を握り潰されるぞ。」
「握り潰されるだと?この上玉の化け物にそんな能力があるのか?」
「上からの指示だ、間違いないだろう。だからこうして俺は兜を被って目を覗かれない様にしている。」
彼の被る兜は一般兵用を思わせるものではあるが、鎧と同じ蒼色をしている。頬と鼻を覆い、眉間の上では僅かに迫り出した庇を有している。特に装飾が施されていない蒼色の兜の上に天井から酸の雫が落ち、弾けた。
「お楽しみの前にやられる訳にはいかんな。だが俺の血を飲ませれば話は別だ。弱りに弱りきったところでその高慢そうな口をこじ開けて俺の血を注いでやる。」
鼻息の荒い男は手に握る拳を解き、目許を覆う。指と指の僅かに隙間をつくり、押さえられぬ衝動に駆られた眼光を覗かせている。人間の、雄の雌への支配欲を目の当たりにしたクラウディアとラファエラは互いを庇う様に身を寄せ、大人の剣霊は高慢そうと言われた口を微笑の形へと変化させた。それは侮蔑と嘲りを入り交えた形であった。
「嫌よ。あなたの血、とっても不味そうですもの。」
落ち着きのある独特の甘い声色はクラウディアの想像を裏切らず、ラファエラの聡明さを覗わせる口許を半開きにさせた。
「例えるなら…そうねぇ、我は口に入れた事が無いけど、さしずめドブネズミの不味さかしら?」
動きを抑制する金属製の輪を二つ嵌められようとも指は自在に動く。剣霊特有の可憐でか細い指が宙を斬った。真空の斬撃は硬い岩肌の床を打ち、酸の雫が付着する天井を跳ね返り、男の頬を掠める。数秒遅れた後に頬は血に染まり、痛覚をも奪う程の衝撃に男は気を失い、膝から落ちた。
「覚えておきなさい、剣霊は握り潰すよりも切り刻む方が得意なのよ、ドブネズミさん。」
男の頬を掠めた斬撃はそのまま床を穿っていた。長い年月を掛けて滴る酸の雫が舐め廻したかの様に滑らかな曲線で構成される床に直線の一条の筋が走っている。凄まじい切れ味を思わせる斬撃の名残りは若き二振りの剣霊たちに恐る恐る大人の剣霊へと視線を向けさせ、それに気付いた黄金色の瞳はしなやかな趣を保ち続けていた。
「助けてくれて有り難う。我はクラウディア。こっちはラファエラだよ。小母さんは…?」
いくら相手が見るからに年上であろうともおばさんはないだろう、とラファエラは思ったが、既に遅い。黄金色の瞳が一瞬の間ではあるものの、驚きの表情を露にし、再び元のしなやかな様子を取り戻していた。
「小母さんねぇ…。久し振りに聞いた響きだわ。我は勝利の剣霊ブリスタン、仲良くしましょうね、可愛い双子の剣霊さんたち。」
大人の剣霊は自らを名乗った。僅かに首を傾げながら語る悠然とした姿にクラウディアとラファエラは黙って頷いた。
一滴の雫が零れる。薄闇の中で苔が光を発し、黄金色の長い髪が淡い輝きを纏っていた。
北部王立国家。雄大な自然に囲まれた天然の要害を多数有する北の地は過去のトウラドオク発祥の地でもある。人道的な見解はともかく、世界を統べる武人を輩出した誉れは時代が流れようとも色褪せる事はない。むしろ強靭な団結力を旨とする軍隊を有するに至った。鎧の胸に刻まれた剣と槍を携える龍の如く彼らは何者をも恐れず、勇猛果敢に前進する。騎兵を中心とした誉れ高き軍の士気は他の国の兵士たちを遥かに凌駕していると言えよう。だが、その様な彼らにも看過する事の出来ない存在がある。剣霊である。剣霊の繰り出す一撃は斬撃であろうと刺突撃であろうと人間の成せる技の域を遥かに超えている。幾ら鍛錬を重ねようとも苦行に身を晒そうとも、剣霊の一撃には遠く及ばない。自らが強大無比の軍と自負する者たちにとって、華麗な女の姿を模した剣霊たちはいつの日か憎悪の対象となっていた。しかもあの忌々しき存在は人間の血を喰らう。良き剣霊であろうと悪しき剣霊であろうと人間の血を啜る。このままでは全ての人間が剣霊の糧となってしまうのでは、と忍び寄る未知の恐怖は行動へと発展させた。自らを守る為なら人間は如何様にも大義名分を作り出せる。約一年前より国王であるイダス・ヴェルリンクの名のもとに国家内の治安と規律の遵守を目的とした精鋭部隊が編成された。全員が独特な蒼色をした鎧を纏っている姿から人々は彼らを敬意と期待を込めて蒼き騎兵団と呼んだ。
蒼き騎兵団の主となる活動内容は剣霊狩りである。国内を徘徊する邪剣霊は言うまでもなく、契約者を持つ良き剣霊たちも彼らにとっては狩りの対象に他ならない。善良なる王の民の生活を脅かす存在は尽く滅する。端的に表現するならば、人間は人間以外を受け付けない。人間の社会は人間が構成するものであり他を拒む。そこまで人間とは狭量な生物なのかと嘆く者もいるであろう。しかし、邪剣霊の狂猛な刃の餌食となった者が元ある姿へは二度と戻れないと知れば誰もが口を噤む。それが現実である。
黒いコートの裾が横に流れ、白銀の一閃が迸る。大気を切り裂く短い音が耳に纏わり付き、一閃を放った者の呼吸音は誰にも聞こえない。唯一握れる刃物の柄を操る左手は五年前に利き腕となった。頭で考えるとは別に、まるで一つの意思を持っているかの様に利き腕は動く。むしろ頭で考えていては遅い。咄嗟の判断で繰り出す一閃は如何なるものをも斬り、抗いを許さずに貫く。血抜きに頭をもたげる二匹の黒蛇の鋭い眼差しが戦いの行く末を常に見守っている。一撃必殺を信条とするユストの背後で邪剣霊の刃に掛かった男は昨日の天候の名残りが見て取れる地に倒れた。振り向き様に地に堕ちた剣の刀身へ向けて白銀の切先が煌く。眩い光が鈍く重い輝きを制する様に、金属同士がぶつかり合い、勝者は敗者へと喰らいつく。甲高く儚い断末魔を耳にした際に漏れる音無き安堵の溜息は五年の歳月を経ようとも変わりなかった。
二匹の黒蛇が絡み付く柄から手を離したユストは木に寄り掛かり、煙草に火を灯した。吐く息と同じく白い煙が空へと昇り、掻き消える。木に葉は残っていない。人間の生き様の様に捩れ、いびつな表面を持つ枝を彩るのは雪の結晶たちである。
「ユスト、そなた考え事をしていたな?」
冬景色を成す枝から声の聞こえた方向へとユストは視線を移す。先程まで手にしていた直剣の姿は見当たらない。代わりに女が佇んでいる。彼女は五年前、ユストの人生に大きな転機を与えた。剣霊イルサーシャの宿りし剣の柄を手にする資格である。腰より下まで伸びた彼女の白銀の長い髪が、周りの景色と共鳴するかの様に陽の光に照らされて輝いていた。ユストは問いに答えずに煙草を銜えたまま鼻から煙を出している。イルサーシャも契約者の不敵な態度に文句を漏らさない。契約と共に彼の喉が震えなくなった点に多少の罪悪感を抱いているのであろう。
「まぁそなたの事だ、この者に家族はいるのか、さらに言えば邪剣霊の刃に掛けられた者の残った家族はどうなるのか、であろう?」
鼻から出す煙が途切れ、剣を携える者の目許が僅かに表情を作った。心の内を言い当てて満足を覚えたイルサーシャの緑色の瞳を持つ目尻が微笑を漏らしているかの様に細くなった。
「その昔、そなたが生まれるよりも百年以上前の話だ。邪剣霊に心も体も奪われた者に両親を殺された幼き女の双子がおった。彼女たちは悲しみに心身を晒したにも関わらず、親族は誰一人彼女たちを引き取ろうとしなかったそうだ。残された者も邪剣霊に血を取られたかもしれない、いつの日か邪剣霊になって人間に襲い掛かるかもしれない、と目に見えぬ恐怖という迷信がその頃は蔓延していてな。あまりにも愛らしい双子の姿が邪剣霊を誘き寄せたと妄言も出る始末だ。結局、親族に不当に忌み嫌われた彼女たちは人買いの手に委ねられたのだが、時が流れた今とて人間のやる事はたいして変わりないであろう?」
イルサーシャは膝を折り、足元に転がる打ち負かした邪剣霊の成れ果てに薬指を沿わせる。白銀の長い髪の一本一本が地の上で大小様々な渦を作り出していた。
「目に見えぬ恐怖から己を守りたいと思うのは誰とて同じ、更に加えていつの世も同じだ。剣霊である我とてそう思う時がある。」
倒れる男の傷口に一瞥を送った後、イルサーシャはユストへ向けてとある間隔を親指と人差し指を用いて見せた。
「考え事をしなければ、あとこれだけ深く切り込めていたぞ?思慮深いのは大いに結構だが、それが理由でそなたが命を落としたら我が困る。次からは余計な事を考えずに無心で挑め。」
途切れていた煙が再びユストの鼻腔から漏れ、銜え煙草の彼はゆっくりと頷いた。イルサーシャの見た目は成人して間もない姿ではあるが、五百余年の時の流れを知る剣霊である。人間の生涯を遥かに凌ぐ歳月を過ごした者の言葉は三十歳を越えたユストの首を縦に振らせるには造作無かった。出会った頃よりは幾分素直な男になったものだな、と思いつつイルサーシャはユストが寄り掛かる木の脇に歩み寄る。黒い布で覆われた一本の剣が立て掛けてあった。覆った先端には剣霊協会支給のスカーフとは逆の色使いのものが結ばれている。
「ハガン、待たせたな。」
佇む剣へ親しみ深い言葉を掛け、剣霊独特のか細い手が布で覆われている中程を握り締める。金地に剣を銜える鳩を黒の刺繍が施された布が冬の風に踊り、百年香の爽やかな香りが混ざった。
先の戦いで刹那の称号を語る剣霊ハガンは契約者であるテヴァ・ザイロンを失った。柄を握るべき者を失った剣の後ろ姿にユストとイルサーシャが得もいえぬ悲愴感を覚える中、ハガンは慣れ親しんだノエミリオの地を出て大陸の有様を眺めたいと語った。物腰が柔らかなハガンの涼しげな眼許に迷いは感じられない。悲しみに暮れる筈の剣霊が零した気概に二人は拒絶する理由を見つけようとは思わなかった。
剣霊が霊体を保持するには契約者の血から得た魔力が必要である。では、どれだけの魔力が必要なのかと聞かれて剣霊自身も明確に答える事は窮する。例えるならば人間が心臓を動かし続ける為に必要な熱量と同等と言えようか。剣霊協会に所属する剣霊使いは年に三回、協会宛に自らの血を納める義務がある。生命の源を上納する理由は定かではないが、今回、その利用目的の一片が明らかになったと言えよう。契約者を失った剣霊が霊体を保つ為の備蓄である。無論、保存してあるテヴァ・ザイロンの血は消費され、増える事は無い。新たな契約者を得れば話は別だが、少なくとも十年は喪に服し他界した契約者を偲ぶのが通例である。この先十年、ハガンの凛とした趣を眺めながら会話を愉しむのは限られた時間の内となる。
「どこぞの市街地に着いたら、そなたからもユストに苦言を呈してくれ。」
人目に晒されないようにと剣体を包む黒い布の心地良い肌触りを確かめながら嘯くイルサーシャの緑色の瞳が怪訝の色を帯びた。白銀の長い髪と昨日の名残りである雪、吹く風に身を躍らせるユストの黒いコートとハガンを包む黒い布、そして薄暗い冬の空と、二系統の色彩が織り成す空間にどちらにも属さない色に彼女は気付いた為である。
「ユスト、あれは…鳩なのか?」
女性らしいか細さを程良く保った剣霊特有の白い指が一点を示す。剣霊協会の伝令役として各地を飛び回る可愛らしい存在は葉を失った枝の上に佇んでいた。首からソノイの樹液を固めた筒をぶら下げ、脚輪を嵌めている。白地に茶の斑模様を持つ鳩が七十二の番号を持つ剣霊使いへの使者の筈であるが、今回は違った。赤い鳩である。単に赤と表現するよりは血の色に似た生々しい艶を思わせる羽である。イルサーシャに怪訝を与えたその色は、ユストには驚愕の表情を作らせた。まだ吸える煙草を僅かに残る雪の上に投げたユストは手袋越しの右の人差し指を差し出す。そこが目的地だと知っているかの様に赤い鳩はためらう事も無く舞い降りた。鳩とは言え、脚先にある三本の爪はそれなりの鋭さがある。だが、手袋越しであれば針を刺された際の様に眉間に力を入れる必要も無い。ユストは空いている方の手で赤い鳩の頭を撫でた後に首からぶら下げているソノイの樹脂を固めた筒を外した。
「ほぉ。この鳩、目までも赤いのだな。」
横髪を耳に掛けながらイルサーシャが顔を近付けても赤い鳩は臆せずに体を膨らませている。寒空の中、飛び回って疲れを感じているのか、あるいはユストの指の上が心地良いのか。脚輪に七十二の番号は刻印されておらず、代わりに剣を銜えた鳩の図柄が狭い中に精巧に掘り込まれている。その横では汚れを知らない耳の下で自らの尾を銜える黒蛇をモチーフとしたピアスが晒され、妖しく輝いていた。
(この鳩は非常事態を知らせる為の使者だ。協会に所属した際に教えられたが、まさか目にするとは思わなかった。)
横髪を耳に掛けた手をそのままユストの肩に置けばイルサーシャの中で彼の声が響く。ある条件が満たされない限りユストの声はイルサーシャだけのものである。非常事態と言われてもいまひとつ実感が湧かない表情のイルサーシャは差し出されたソノイの樹脂を固めた筒を二本の指で弾く。可憐で女性的な指であろうともそれは人間のものでは無い。全てを切り裂く剣霊の指である。軽快な音と共に何気ない一撃を受けた物質は粉々に砕けた。丁寧に折り込まれた指示書に非常事態と言われる内容が記されている。特に急ぐ様子も無くユストは指示書を片手で器用に広げ、紙面の内容を覗き込むイルサーシャは先程とは反対側の横髪を耳に掛けた。鎌首をもたげた黒蛇が姿を現し、周囲を睥睨する。赤い鳩は羽を二三度ばたつかせると薄暗い冬の空へと飛び立った。人間が見ても凄惨な睨みを感じられずにはいられないピアスに赤い鳩は恐れを成したのであろう。
(あ…。行ってしまった。)
(構わないよ。非常事態の指示書に受領の可否は必要無いからね。)
実は鎌首をもたげたソロウよりも、自らの尾を銜えるペインの方が一度暴れたら手が付けられない程の凶暴さを備えているのだが、とイルサーシャは思いながら赤い鳩を追いかけていた緑色の瞳を指示書へと戻した。五百余年の歳月を経た彼女には今の文字は読めない。しかし、指示内容を示した文章が普段よりも長い点から物々しい事態が迫っていると理解出来る。
(『北部王立国家にて潜伏中の七十…ならびに七十四の番号を与えられた者の剣霊が消息を絶った。何かしらの組織による陰謀と思われる。速やかに左記の剣霊の使い手と合流した後に共に協力し、調査及び奪還に当たれ。北部王立国家は剣霊を卑下し拒絶する国家である。囚われた剣霊が既に消滅もしくは使い手の意図にそぐわない姿で発見された場合、組織の壊滅に尽力せよ。仮に組織が国家単位であろうとも後の憂いを断つ為にも先に以て他ならない。尚、本件の報酬については事後協議とする。』とあるが…、協会は対話ではなく実力行使で解決する姿勢を貫く様だね。)
落ち着いた雰囲気でユストは語るものの、その表情は憂慮に満たされていた。状況によっては剣霊協会を擁するコノリギスと北部王立国家との全面戦争を厭わない内容である。しかし彼が眉間に皺を寄せさせたのは組織同士の争いよりも七十という文字であった。黄金色の豊かな髪を持つ艶やかな剣霊、そして二本の指で詰る顎鬚と機知に富んだ眼差しが印象深い剣霊の使い手の横顔がユストの脳裏を掠めていた。
「なぁユスト、七十四の者は知らんが、七十とはもしかして…。」
イルサーシャがわざわざ音にして発したのは、少なからずともこの数字が意味するところを理解しているからであろうとユストには判った。そして信じたくもないという淡い想いがそうしているのだとも感じていた。
(あぁ、ブリスタンとル・ゾルゾアだ。)
そうか、と一呼吸置いた後に目を閉じたイルサーシャの短い失笑がユストの中で響いた。
(やはり容姿容儀がいかがわしいあの女か。どうせあやつの事だ、いつもの様にフラフラしていたところをごろつきどもに手篭めにされたのであろう。この寒空の下で肩を露にして太腿をちらつかせていたら理性を失った男に後ろから羽交い絞めにされても文句は言えん。ここは一つ、高い所から囚われたあの女の困りに困った顔をじっくりと拝見する絶好の機会ではないか?)
あの黄金色の髪を持つ剣霊とは余程そりが合わないらしい。よくもそこまで扱き下ろせるものだな、と音無き溜息を漏らしたユストは流麗な目尻を歪ませながら嬉々と語るイルサーシャの白銀の長い髪を指に巻き付けた。
(ブリスタンの性格や姿はともかく、彼女は一流の剣霊だ。そう簡単には捕まらないと愚生は考えるが、どうだろう?)
(ほぉ。そなた、あやつの肩を持つか?)
(そもそも剣霊を後ろから羽交い絞めしようとしたらどうなるかは学校へ上がる前の子供ですら知っているよ。君もそうだが、ちょっと綺麗な女にしては出来過ぎている。君たちはどの角度からどう見ても剣霊だ。普通ならば、自らすすんで剣霊に刻まれようとは誰も思わない筈だけどね。それよりもル・ゾルゾアの安否が気に掛かる。)
誉められつつも、そりが合わない者と同列にされたイルサーシャは整った細い眉を僅かに動かしたが、同じ立場であるル・ゾルゾアを気に掛けるユストの俯いた横顔を知り、感情任せの言葉を呑み込んだ。共に強大な敵に立ち向かい、しかも刃を交えようとした仲でもある男同士の絆に女として、そして剣として立ち入るのは無用であるとイルサーシャはわきまえていた。
(これには一言では片付けられない事情が絡んでいる。愚生としてはそうあって欲しいものだ。)
珍しくも希望的観測を語るユストは指に巻き付けた白銀の長い髪を解き、コートのポケットから煙草とマッチを取り出した。慣れた手付きでマッチを擦り、銜えた煙草の先端から煙が立ち昇る。普段であれば役目を終えた火を吹いて消すものの、今回は指示書の端へと燃え盛ろうとしているマッチを運ぶ。文字で埋め尽くされた紙が徐々に黒く染まりつつ空虚な色の灰へと帰す。指示書の中央に透かしとして施された剣霊協会の紋章が炎に侵される様を二人は黙って眺めていた。
「では、北へと足を伸ばすとするか。」
陰鬱な雰囲気を一蹴するかの如くイルサーシャは言葉を発し、剣体となったハガンの柄を掴んだ。
「こういう場合はだな、何か喋りながら歩けば気掛かりも多少和らぐものだ。」
勝気な性分の剣霊の心使いに契約者は頷き、背中を預けていた木から体を離した。
(ところで先程の話の続きが気になるのだが、幼い女の双子はその後どうなったんだい?)
再び灯した煙草の煙が大気に混ざる様をユストは横目で眺めながら、常に自身の前に立つイルサーシャの肩に手を置いた。
(さぁ、判らん。ただ、人買いの手に渡った者へ幸に満ち溢れた世界が待ち受けているか否かは周知の通りだ。最後は綺麗に輝く星になっていれば良いのだがな。)
綺麗に輝く星か、とユストは歩む足を止める事無く薄暗い空へを視線を向けた。イルサーシャは時折、夢想家の様な発言をするが、今回はユストの中で幾ばくかの興味を掻き立てる内容であった。
(人間は不幸を積み重ねた分、星となって輝きを増す。生前の幸を願う思いがそうしているのならば、故に瞬く星々を綺麗だと誰もが感じるのも不思議ではなかろう?)
(なるほどね。ただ、今夜は星を眺めて過ごす事は出来そうに無いな。)
雲の流れが早い。偶然なのか、これから二人が向かう地である北部王立国家へと流れている。数時間後には吹雪く可能性が充分考えられる。不気味な模様を描く空はこれから起こりうる出来事を暗示しているのだろうか。イルサーシャの肩から手を離したユストは銜えたままの煙草を指に挟み、鼻から煙を出した。
北部王立国家との国境まで徒歩で三日を要する距離であった。




