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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第三章 エジュ・エジェ城塞編
31/75

謎多き殿下殿

 ここは何処なのか。囚われの身を自覚する者であれば誰もが真っ先に抱く疑問であり、解決の糸口を探る。視界に飛び込んでくる景色を貪欲に吸収し、答えの欠片を掴み取ろうとする。人間の能力を凌駕する剣霊とてこの例に漏れない。ブリスタンの黄金色の瞳は周囲を見渡し、耳と肌で微かな音であろうとも漏らさずに聞き分ける。薄闇の中で滴る酸の雫が奏でる音は硬い岩を穿つ寂しげなものではない。その場に居合わせた者の希望や気概を穿つ絶望の旋律である。酸の侵食を受けた岩による床は滑らかであり、蒼く光る金属で作られた格子がこの場は牢であると教えてくれる。人間であれば落ち着いて睡眠を摂れずに精神に異常をきたすであろう空間には先客がいる。クラウディアとラファエラ、二振りの若き剣霊は互いに寄り添うように腰を床に降ろし、降り注ぐ酸の雫を避けながらこの場所から開放してくれる者がいずれ現れると淡い期待を胸に抱いていた。目と耳で判らなければ口を使えば良い。ブリスタンの問いにクラウディアとラファエラは口を揃えてここはエジュ・エジェの地下牢だと語った。確かに蒼き騎兵団に囲まれて捕らえられたのはエジュ・エジェ市街地のある区画であり、そこから目隠しをされて連行されたが、長時間歩かされた覚えは無い。覚えているのはひたすら下へ下へと経年劣化が激しい螺旋階段を足で感じながら進んだ事である。百年、いや二百年の月日をこの螺旋階段は知っている。そしてここを歩かされた者は誰一人とて再び陽を拝む機会に恵まれなかったのであろうとブリスタンは感じていた。

 ところで何故、蒼き騎兵団はブリスタンの特殊能力を知っていたのか。更に突き詰めれば目の前に佇むクラウディアとラファエラは勿論の事、他の剣霊の特殊能力を調べ上げているのだろうか、と流麗な目尻が思慮に耽る色を濃く打ち出し始める。考えても解決策は見つからない。下手に考えて仮説を立てても誤った行動へ導く可能性も充分に考えられる。動く為の情報が少な過ぎると判断したブリスタンは決して平らではない床へ体の線を密着させる様に仰向けに身を預けた。

 頭上では酸の雫が滲み出る暗い岩肌の天井が広がっている。暗くあろうとも鍾乳石の様に大自然の造形美を思わせる空間であれば陰鬱な雰囲気も鑑賞の一部として捉えられるかもしれない。酸の雫が滴るのか滴らないのかの瀬戸際まで膨張している。剣霊の素早い動きを封じる為に金属製の腕輪を二つ嵌められた腕が大儀そうに持ち上がり、人差し指の先端が酸の雫へ向けられた。ぴんと真っ直ぐに伸ばし、ゆっくりと丸め、勢い良く伸ばす。何かを弾く様な動作は小さな斬撃を生み出し、今まさに滴ろうとしていた酸の雫を穿った。

 以前にも同じ動作をした事にブリスタンはふと思い出した。あれは数える事およそ一ヶ月前、雪がちらついていた新月の日の出来事である。その時も今と変わらずに薄闇の中で体を横にしていた。違うのは心地良い硬さのベッドの上で身に何も着けていなかった点と、彼女の上を覆っていたのは忌々しい酸の雫を従えた不気味な様相の岩肌ではなく、満足と気だるさが産み出した汗が付着した契約者の頼れる胸板であった。

 新月の日に限り、剣霊と契約を結びし者は剣霊障という煩わしさから開放される。ブリスタンの契約者であるル・ゾルゾアの剣霊障は文字という概念の消失である。いわばこの日の彼は剣霊協会からの指示書に目を通し、咀嚼し、理解する能力を取り戻す唯一の時でもあった。一方のブリスタンは剣霊としての能力を大幅に減退させる。剣霊である証とも言えるきめ細かな肌に触れられるのは常時変わらずにル・ゾルゾアのみだが、指を動かしても斬撃は生じなくなる。加えて、妖しい魅力に溢れた黄金色の瞳は見た者の心を蹂躙する事が不可能になる。ただの一振りの剣となってしまうものの、ブリスタンとしては特に不満は感じていなかった。何故ならこの日、この特別な短いとも長いとも表現しようのない時間は、契約者の背中にしがみ付いて爪を立てても僅かに血を滲ませる程度で済むからに他ならない。食事という名のル・ゾルゾアの血を摂取し終え、もう一つの食事の際にその恩恵を実感出来る。女にのみ与えられた口で男が創り出す命の源を喰らう。人間であろうと剣であろうと望みし相手の体温を実感するひと時は至福をもたらす。深い黄金色の長い髪を放射状に広げたブリスタンの程よい肉厚を有する唇がその至福の一片を語った。

「あら、汗をかいているわよ、ル。冬だと言うのに。」

 本能に身を委ね終え、呼吸が荒いル・ゾルゾアの胸の上を滑り落ちる汗をブリスタンの指が弾いた。剣は塩分に弱い。良く斬れる剣ほどその度合いは顕著である。ブリスタンは微笑を伴いながら汗を弾いた指の先をル・ゾルゾアの口元へ近付ける。剣の要望に応え、ル・ゾルゾアは彼女の指の先を銜えると乾いた舌で塩分を舐め取った。必要以上に体を動かせば汗は流れるものだ、とル・ゾルゾアは口に出さない。人間である雄と剣である雌の体の対話を終えた余韻の中、つまらない言い訳をするのは野暮の極みだと心得ている。燭台の火は既に燃え尽き、月が姿を消した窓の向こうでは音を立てずに雪が舞い降りている。全てが眠りに就いたと思われる程の静寂の帳が下ろされている中、自分たちは蠢いていたのだと知ったル・ゾルゾアは僅かに失笑を浮かべ、ブリスタンの左横に寝転がった。

「どうも思い悩んでいる様子ね?ここは一つ、に語るべきではなくて?」

 共に横になった時が余韻を吟味する時間は終了すると判断したブリスタンは八百年を知る剣霊よろしく、三十路に入って間もないル・ゾルゾアに心の内を曝け出すように促した。

「どうしてそう思った?」

 女にとって心地良い低さを有するル・ゾルゾアの声が狭くも広くもない宿の部屋に響く。声の表情は至って物静かであり、彼の機知に富んだ横顔をブリスタンは横目で眺めていた。

「何かを忘れようとしていたのが目に見えて判ったの。を堪能して気が晴れたのなら良いのだけど。」

「あぁ。お陰で少しすっきりしたよ。」

「少し?どうせなら全てをすっきりしなさいな。」

 天井を茫然と見つめていたル・ゾルゾアは鼻で短く笑った後に少しすっきりとしたという顔をブリスタンへと動かした。

「それは俺の剣としての気遣いか?」 

「半分は当たり。残り半分は女としての心遣いよ。」

 雌としての名残りが若干見え隠れする目尻を細めたブリスタンは腕枕をするようにと首を持ち上げ、ル・ゾルゾアは無言で彼女のねだりを受け入れた。

「今回の協会の指示の件だが、どうも腑に落ちないところがあってな…。」

 ル・ゾルゾアはブリスタンの言葉に従って心の内を語り始めた。甘く滑らかな黄金色の羽を持つ鳩が二人の伝令役であり、言うまでも無く足輪に七十の文字が刻まれている。世にも稀な色彩の鳩が首からぶら下げていたソノイの樹脂による筒の中には手短な文章が記されていた。

『北部王立国家の次期王位継承者と接触し、協会に楯突く者と判断した場合、直ちにこれを抹殺せよ。』

 抹殺とは簡単に言ってくれるが、果たして協会に楯突く者としての基準は何であろうか、とル・ゾルゾアの中で疑問が芽生えるのはごく自然であった。そもそも協会の手足に過ぎない剣霊使いが己の判断基準で事を進めて良いのか。だが、協会にお伺いを立てようにも既に文面で『直ちに』と念を押されてしまっている。協会としてはその辺りもお見通しなのであろう。

「もし、行動に移したとなれば俺は正気を保っていられるかどうか判らん。なんせ相手は一国の主となる人物、俺は四ヶ国の均衡を瓦解させた男になるのかもしれんのだ。」

「まぁ、良くも悪くも歴史に名を刻めるなんて男冥利に尽きるんじゃなくて?」

「明らかに悪い方だと俺は確信しているが。」

「それはどうかしら?人間なんて時の流れと共に考え方をころころ変えるものよ?」

「考え方か。主義思想は確かに時代と共に左右される。だが倫理はそう容易く変わらんものだよ。」

 ブリスタンの頭の下に預けていない左手で顎鬚を詰るル・ゾルゾアの細めた目は何を見据えているのだろうか。まだ見ぬ次期王位継承者の横顔を思い描いているのか。

 本来、その人物は王となるべき者ではなかった。今の国王たるイダス・ヴェルリンクの長子は十年前に十八歳と若くして他界している。病によるものではない。鹿狩りに赴いた際に邪剣霊と遭遇し、帰らぬ人となったとは北の者に限らず大陸中の誰もが知っている悲劇である。長子が倒れた以上、次子へ王位継承権が委ねられるのは条理に叶ってはいるものの、王都は当時十歳になったばかりの次子を国民及び他国へのお披露目を控えた。再び邪剣霊に襲われる懸念よりも人間の手による暗殺を未然に防ぐ深慮の末であろう。長子亡き後に次子まで他界しては血統によって成り立つ国家は滅びの道へと転げ落ちる。北部王立国家に属する民は誰とてその様な未来を望まない。故に次子の姿かたちは勿論の事、名前ですら知る者はほんの一握りだけである。民は次子に健やかに過ごして欲しいという願いを込めて、単に「殿下」とその人物を呼んだ。

「謎多き殿下殿ってとても素敵。どんな御方なのか早く見てみたいわ。剣の腕が確かで、おまけにいい男だったらあやめるのを止めるというのはどうかしら?」

 ル・ゾルゾアの左肩にブリスタンの食痕は存在する。赤黒く腫上がり、剣霊にとって人目に晒すには気が引ける部分である。ブリスタンの暇を弄ぶ薬指は嬉々と語る口調とは正反対にのんびりと先ほどまで麗しい唇を押し付けていた食痕をなぞっていた。

「王位継承者の剣の腕はそこそこ、見た目は普通で充分だと俺は思うよ。必要なのは民の心を掴む器と懐の深さを備えているかどうかだ。」

「器と懐ねぇ?実際は亡きお兄様の敵を討つ為にも剣の腕を磨くのに明け暮れて、それどころではないとは思うの。ところで今回の成功報酬はそれなりに期待して良さそうね?」

 ル・ゾルゾアは顎鬚を詰っていた指を離し、親指以外を丸めた状態の手をブリスタンの顔の前で示した。

「共通金貨四十枚だ。」

「その数だと、断る理由を探すのも一苦労しそうね。」

「俺にはヴェルリンクの跡取りの命の値段なぞ判らん。あえて言うなら判ろうとも思わん。」

 ル・ゾルゾアは吐き捨てるように語った末に舌打ちを発し、変わらずに彼を横目で眺めていたブリスタンは身を起こした。彼女の魅力の一つである黄金色の長い髪が薄闇の中で荘厳さを醸し出す鈍い煌きを発し、左右に流れんとしていた豊かな乳房が本来の形を取り戻す。長い髪と同じく絶妙な孤を描く女の腰周りがル・ゾルゾアの視界に飛び込んだ。

「で、その高額な報酬を得たの契約者は何をするのかしら?」

 程よい肉付きをした女の太腿の付け根が角度を広げ、寝たままの男の下腹部を覆う。勝利を旨とする剣霊のあられのない姿はその称号の如く、蹂躙を謳歌しようとしていた。

「新たな画材を調達して、君が言うところの謎多き素敵な殿下殿の肖像画を描く。後世にとって、せめてもの贖罪になれば良いのだがな。」

 今回の任務は剣を打ち砕くのではない、同じ人間の命を奪えとある。そこに罪の意識を感じるが故に贖罪という言葉をル・ゾルゾアは用い、理由はどうあれ生命の略奪を快く思わない契約者の姿を知ったブリスタンは二本の指をル・ゾルゾアの唇の先端に触れさせた。

「その贖罪、背負うのはあなただけではないわ。も一緒よ。」

 僅かに首を傾げながら女性的な笑みを浮かべるブリスタンは二本の指を自らの方へと動かした。男らしい角ばった顎を経て、程よく伸びた顎鬚の中央を掻き分け、下顎の奥にある喉仏の頂点をなぞる。女に限らず、男にも体の線の起伏が富んだ場所もある。その起伏の堪能を終えた二本の指が頼れる胸板の上で動きを止めた。

「汗が引いたようね。」

「あぁ。」

「新たな画材を買う時、が選んでも誰かさんが文句を漏らさなければ良いのだけど。」

「構わんが、君にしては珍しい事を言うな?」

「そうかしら?あなたと一緒にいる時間を愉しみたいだけよ。」

 二本の指が離れ、ル・ゾルゾアの下腹部を覆っていた悩ましい太腿の付け根が浮き、静かにゆっくりと沈む。沈みきると共にブリスタンは雌の声を薄闇の中で漏らした。黄金色の長い髪が重力に身を任せて垂れ下がる中、彼女は自らの刀身が有する曲線よりも艶やかで魅惑溢れる孤を背を仰け反らして描く。

 勝利の剣霊は二度目の女としての食事を貪り始めた。


 細くて白く、しかも頼り無い腕がブリスタンの視界を覆った。目障りな金属製の腕輪を嵌めている。その忌々しい存在の上で小さな断末魔が鳴り響く。酸の雫が弾けた音に他ならない。クラウディアとラファエラのどちらの腕かと黄金色の瞳が薄闇の中で動く。二人の髪は同じ薄紫色をしている。異なるのは髪の長さと声、そして目付きである。長い髪の方、悪気は無くもを小母さんと呼んだ方が伸ばした腕だとブリスタンが知ると共に薄紫色の長い髪の剣霊が声を掛けた。

「ブリスタン、大丈夫?あと少しで雫が顔に落ちるところだったよ?」

 クラウディアは柔らかな目尻を更に柔らかに歪ませる。陰鬱な闇の中で微笑む若き剣霊の可憐な姿は酸の雫という剣にとっての恐怖を忘れ、自らは幽閉されているのだという事実を否定するかの様に健気で、物悲しさが漂っていた。

「クラウディア、だったわね?あなたのお陰で小母さんの顔に傷が付かずに済んだわ。有難う。」

「小母さんって…もしかして、まだ根に持っているの?」

 柔らかにしていたクラウディアの瞳が困惑の色を醸し出す。その色は寝そべっていようともブリスタンの首を傾げさせた。

「小母さんとしてはこの響きが結構気に入ったの。見た目もあなたたちよりだいぶ年上だし、何か問題あるかしら?」

 ブリスタンは黄金色の豊かな髪に額から掻き上げる様に手櫛を入れ、そのまま目の前にあるクラウディアの動きを抑制する腕輪に人差し指の先端を触れさせる。触れる指先に意識を集中させれば素材を計れる。酸に侵されない金属は幾つか存在する。この黒ずんだ鈍い輝きからして純銀であろうか。白金であればここまでくすんだ色合いを出さない。どちらであろうとも指一本を動かせば斬れる素材である。しかし、剣霊の動きを抑制する為の腕輪に易々と斬れる素材を用いるだろうかとブリスタンは考えた。相手は剣霊の弱点を知っている。人間の姿をしていようとも真の姿である剣体の重量しか有さない点、刃を持つ金属は酸に侵されやすい点である。そして人間の血の摂取という食事を行えば互いの肌に触れる事が可能になる点も既に解析している。剣霊を知る者が作りし腕輪を斬り飛ばした瞬間に次なる展開が待ち受けているに違いない。それは悪夢という展開であると触れる指先が教えてくれ、同時に彼女の契約者であるル・ゾルゾアならばどの様な対処を思いつくのだろうかと、顎鬚を詰る横顔を思い浮かべていた。

「ねぇ、ブリスタン、腕を動かしても怒らない?」

 嵌められた腕輪にブリスタンが指を添わした為に、クラウディアは黙々と年長の剣霊の動向を覗っていた。だが、重石を課した腕を上げたまま一定以上の時間を過ごすのは体力を消耗する。幾分の幼さを思わせる声色に弱音という主張が混ざっていた。

「あら、ごめんなさいね。小母さん、ちょっと考え事をしていたわ。」

 相変わらず首を傾げているブリスタンの口元が笑みの形を作り、クラウディアは伸ばした腕を楽にさせた。

「何を考えていた?この腕輪についてか?」

 ブリスタンより少し離れた位置で膝を抱える様に座るラファエラが口を開いた。クラウディアよりも落ち着きのある声色と口調は聡明さと共に、クラウディアの幼けな部分を補っているかの様に耳にした者に思わせる。

「残念。あなたたちが剣霊になったのは幾つの時かしらって推測していたのよ。」

 大人の剣霊らしく、心の内をそうそう明かさないブリスタンの黄金色の瞳が薄紫色の髪を肩に届くか届かないかで切り揃えたラファエラへと動いた。

「二人とも十五の誕生日を迎えた日の夕方だ。ブリスタンは?」

 なるほど、彼女たちはこれからの青春を堪能しようとしていた、まさにその時に剣霊となったのか。しかしこの薄暗い環境によるものなのか、二振りの剣霊の顔には悲傷の面持ちが見え隠れしている。うら若き十五歳の二人は子供とも大人とも言い切れない狭間に挟まれつつ、不遇な環境にやり場の無い憤りを抱きながら永劫を語るべき剣へと命を捧げたのだろうとブリスタンは見ていた。

「小母さんは確か、二十九か三十の頃だったかしら?流石に八百年も経つと、そのあたりの記憶は朧気になるものね。」

「え、八百年も?たちはまだ百五十年とちょっとだよ。」

 驚愕と感心が入り混じった表情のクラウディアが二人の会話に割り込む。この髪が長い方の剣は短い方とは違って、思った事や感じた事をすぐさま口に出さずにはいられない直情的な性格といえよう。

「厳密には百五十と三年だ。あと十日で百五十四年目になる。」

「あら、それってあなたたちのお誕生日じゃないの?」

 先と変わらずにブリスタンは冷たい岩肌の起伏に体の線を沿わして楽にしている。組んでいる脚を動かす度に彼女のスカートの左右に施された深いスリットから女性らしい肉付きの太腿が見え隠れし、ラファエラは年頃の少年であろうものならば顔中の皮膚を火照らせる中、黙って視線を横へとずらした。

「そうだよ。百五十四年目の誕生日にユランはたちに新しい服を買ってくれるって約束してくれたんだ。北の王都に住む女の子たちが着ている様な、襟と袖とスカートの裾が凝ったデザインで、この髪の色が映える薄い青色、雲ひとつ無い空の色にしようって。」

「なかなか気の利いた人ね。そのユランって、あなたたちの契約者かしら?」

 ブリスタンの黄金色の瞳がクラウディアとラファエラを交互に捉える。膝を抱えたラファエラは静かに頷き、肩で切り揃えた薄紫色の髪が薄闇の中で揺らいだ。一方のクラウディアはまだ見ぬ新調した服を思い描いているのか、百五十年前にごく一般的であった装飾を施してはいるものの、くたびれた感が否めないブラウスの襟元を詰っていた。

「今度の誕生日、は凄く楽しみにしているし、ユランからこの話を聞いた時、とても嬉しかったよ。顔には出さないけどラファエラもと同じ筈。新しくて、綺麗で、似合う服を買ってくれたのは、たちが小さい時に死んじゃったお父さんとお母さんだけだったから…。」

「クラウディア、もう止めろ。たちの過去はブリスタンには関係無い話だ。」

 ラファエラの抑止する声はクラウディアに向けてだけではない。自らの中で蘇る過去を直視したくない衝動によるものであった。誰にでも苦い過去はある。それは剣になろうとも変わりは無い。直情的な性格のクラウディアと内向性が見受けられるラファエラ。二人はその苦い過去をお互いの中で消化しようと試み、共に支えながら時の流れを見つめていたのであろう。

「気にしなくて良くてよ?小母さん、お話を聞くのが好きなの。」

 時の流れは苦い過去を和らげてくれる。だが、良き思い出も同時に霞ませる。記憶とは長い年月を共にその様な曖昧なものになる。ならば先にあろう幸に手を伸ばすしかない。クラウディアとラファエラが待ち望む十日先の幸は静かに、手に触れる事無く瓦解しようとしている。掴み損ねた幸福を嘆く者の姿を真っ向から受け止める。八百年を知るブリスタンならではの心遣いであった。

「有難う。でも、ユランの顔を思い浮かべたらお腹が空いたよ。」

 やせ我慢を象徴する笑みを携えたクラウディアの視線は蒼き鎧を身に付けた男が運んだ器へと注がれていた。ドブネズミの味と揶揄してから一日が経過したかしないかの頃合である。独特の鮮やかな色は消え失せ、見るからに不快な色合いへと変化している。それでも空腹のクラウディアには体と心の渇きを癒す魅惑の液体に映っていた。

「諦めろ。六時間三十分前に酸の雫がそこに落ちたのをは見た。」

「そうなの?ラファエラ、なんでもっと早くに教えてくれなかったの?」

「あれほど駄目だと言ったのに口に含むつもりだったのか、クラウディア?」

「仕方ないよ、もう十日以上食事を摂っていないんだ。ラファエラの方こそ我慢の限界じゃないの?」

 双子の若き剣霊たちは喧嘩でも始めるのだろうか。十日以上血を摂取していないとなると気が立つのも無理ない。見るに見かねたブリスタンの人差し指が動き、血で満たされた木製の器が左右均等に分断された。零れ落ちる血が岩肌の床に広がり、吸収されていく様を見届けるクラウディアの面持ちは残念そうであり、ラファエラは無表情であった。

「目障りな血だこと。早くこうしておけば諍いの素にならずに済んだのに。小母さん、早く気付くべきだったわ。」

 迷いとは無縁の斬撃を繰り出した人差し指が豊かな胸の谷間へと沈んだ。しっとりとした柔らかさと肉と肉が密着した暑苦しさが同居する世界から一本の筒が顔を覗かせる。ソノイの樹液を固めたねじ込み式の蓋を持つ筒の中には剣霊が望む色の液体が満たされていた。

「小母さんの契約者の血よ。今回、協会に提出する分を拝借してきたの。あなたたちで分けなさいな。」

「え、本当?」

 まるで一条の光を見出しかの様にクラウディアは自らの髪と同じ色の瞳を輝かせた。

「どうぞ。小母さんの契約者は見た目も中身も良い男よ?味は保障するわ。」

 感情の起伏が豊かなクラウディアを茫然と眺めていたラファエラの視線がソノイの筒へと動く。生真面目で大人びた剣霊の気を惹こうと、首を傾げたままのブリスタンは悠然とした笑みと共にソノイの筒を左右へ揺らした。魅惑の液体が透明な筒の中で踊る。命の躍動を思わせる色は薄闇の中でも色褪せていなかった。

「確かに有難いが…ブリスタン、あなたの分が無くなってしまう。」

「小母さんの分なら大丈夫。もう一本隠し持っているから。」

 クラウディアとラファエラがそれぞれの胸に手を当てながらブリスタンの豊かな胸元を恥じらいも無く見入るのは十五歳で剣霊になった彼女たちにとってごく自然な行動と言えようか。男を虜にし、女の柔らかさと色香を象徴する谷間を強調する様にブリスタンは腕を組んだ。

「ここにはもう無いわよ。流石に二本も入れたら体の線が崩れるでしょう?小母さんの魅力が台無しだわ。」

 何処に隠しているのか。見る限りではブリスタンの纏うドレスは彼女の起伏を余す所無く表現している。大小の孤という曲線のみで構築された女の体に直線を持つ個体は見受けられない。それとも態の良い嘘なのか。ブリスタンは二人へ見せ付ける様に脚を組み換え、短い微笑を漏らした。

「まぁ、男には真似出来ない芸当って言えば判るかしら。」

 ブリスタンが脚を再び組み換える最中、何処に隠しているのか判り得たラファエラは波一つ立てていない水面の様な瞳に感情を露にした。物静かなうら若き剣霊が発した驚愕の表情を目の当たりにしたブリスタンは目尻に強かな女の色を浮かび上がらせた。

「勘が良いのね、あなた。」

 ほくそ笑むとは目の前の艶美な剣霊の為に用意された言葉なのかもしれない。褒美と言わんばかりにブリスタンは手にするソノイの筒をラファエラへ差し出す。滴る酸の雫を避け、細長い指同士が向き合う。一方はおよそ三十歳を思わせる経験豊かな女の趣を有し、残る片方は十五歳という弾けんばかりの瑞々しさを纏う指である。見た目の異なる指に共通しているのは人間が易々と触れてはならない剣霊のそれである。樹脂と金属が触れ、硬質で短い音が鳴った。

「お願いだよ、ラファエラ。から先でもいい?ちゃんと半分残すから。ね?」

 もう一つの十五歳の指が動いた。哀願の色を濃く打ち出すクラウディアに侮蔑の眼差しを送る者はいない。剣霊は血を求める。求める理由は乾いた身を潤す為ではない。霊体を保持する為である。保持できなくなった際は契約者の血を要する。しかしこの場では契約者の血を得るのは困難である。正にその分水嶺にクラウディアは立たされていた。

「分かっている。ユラン以外の血だ、慌てずにゆっくりと、湿らせる様に口に含むんだ。」

 百五十年以上の付き合いの中、与えられたものをクラウディアが独占した事は無いとラファエラは知っていた。与えられたものは全て二人で半分にし、共有して生きた。幸や喜びは勿論、不幸と悲しみも二人で分かち合った。剣になろうともこの互いを思い遣る心は変わりない。ラファエラからソノイの筒を受け取ったクラウディアはねじ込み式の蓋から二センチばかり下を弾いた。ブリスタンの鮮やかな斬撃には及ばないものの、彼女も剣霊である。切り口に多少のがたつきは否めないが、指先で樹脂を斬るという人間では不可能な事を難無くやり遂げた。

 魅惑の液体がクラウディアの薄い桃色の唇に鮮やかな色を注し始めた。口元が少女から大人の女へと変貌する様子をブリスタンの黄金色の瞳は静かに見守っている。少しずつ口に含むようにとラファエラが諭したのにも関わらず、クラウディアは周囲に見せ付ける様に白い喉の内側を潤していた。閉じた目の先にある長い睫毛が小刻みに震えている。剣体を保てる安堵を表現しているのか、或いはまだ見ぬブリスタンの契約者の情報が彼女の中で描かれているのか。間もなく筒の中に満たされていたル・ゾルゾアの血が半分へと減りつつある。ソノイの筒の端から口を離したクラウディアは満足の笑みを漏らすであろうとブリスタンは見ていた。しかし、八百年を知ろうとも予測を裏切る結果は常に待ち構えていた。

「ブリスタンの契約者、ル・ゾルゾアっていう人なんだね。」

「そうよ。お口にあったかしら?」

「判ってはいたけど、男の味がしたよ…。」

 苦虫を潰した顔のクラウディアは静かに嘯き、手に持つソノイの筒をラファエラへ突き出す。予想だにしていなかった表情と言葉はブリスタンの傾げた首の角度を浅くさせた。男の味とは不思議な表現をする。手入れを怠らない顎鬚も男らしさに一役を買っているが、ル・ゾルゾアは優しさと度胸を兼ね備えた、女が求める男らしいところがある。故に剣霊障について先に説明をせずにブリスタンは彼と契約を結んだ。

「男の味?あなたたちの契約者って…?」

 男を否定するなら行き着く先は自然と決まる。にわかに信じがたい予測に対し、ラファエラは突き出されたソノイの筒の中身を眺めながら短く答えた。

たちの契約者ユラン・エレエは女だ。」

 ラファエラの唇も魅惑の色へと染まった。閉じていようとも聡明さを思わせる目許に力を込めている。彼女も血の中で渦巻くル・ゾルゾアという男の味を拒み、抗っているのであろう。だが、ソノイの筒の中身は徐々に減っている。心が欲しなくとも体が欲している結果であった。

「両親を失ったたちに男たちは乱暴を繰り返した。征服という名の欲に取り憑かれた異様な眼差し、女の尊厳を挫こうと力任せに服を剥ぐ手、己を満たす事しか考えていない者の生温くて臭い息。たちにとって男とはその様なものだ。」

 血の摂取を終えたラファエラは満足と苦悩が入り混じった自らの唇を親指の腹で拭いながら語った。

「あなたたち、可哀想だけど、星の巡り合わせが悪かったようね。」

「だから死ぬ前にお星様に祈ったんだ。たちを剣霊にしてください、剣霊になってたちを好き勝手に虐げたならず者たちを一人残らずこの手で切り刻ませてくださいって。」

 遠い過去を懐かしむ様に語るクラウディアは年頃の娘の様に薄紫色の毛先を自らの顔の前で詰りながら言葉を続けた。

「意識が遠退いたと思ったら体が急に軽くなったんだよ。の横で倒れる様に寝ているラファエラの髪が薄紫色に変わって短くなって、ラファエラと同じ色の髪で前よりも少し長くなっているが窓ガラスに映っていた。あぁ、剣霊になれたんだって直ぐに判ったよ。お星様がたちの願いを聞き入れてくれて嬉しかった。」

 クラウディアは自らの髪を詰っていた指を生前よりも短くなったというラファエラの髪へ目を優しく細めながら伸ばした。

「で、あなたたちはそのならず者たちをどうしたのかしら?」

「これでもかと言わんばかりに切り刻む予定だったが、その際にひとつ気付いた事がある。」

 クラウディアの指の感触を髪先で堪能しているラファエラは閉じていた目を開いた。

「男の狂気に満ちた悲鳴は女の声よりも高い。たちは殴られようとも服を裂かれようとも歯を喰いしばって声を漏らさずに耐え続けた。なのにやつらは指が一本飛んだだけで耳を突く様な悲鳴を上げた。興が冷めるとはこれかと思った事はない。本来ならばたちの体の上をいやらしく這いずり回った指を一本ずつ切断してやろうと考えていたが、あまりの見苦しさに脳天から下への一閃で終わらせた。」

 おぞましい有様を淡々と語り、冷静さを常に横に佇ませるラファエラの瞳に曇りは無い。流れる血、そして流させた血が映り込もうとも顔色一つ変えずに澄み渡っているであろう薄紫色の瞳は彼女が剣霊である最たる証であった。

「すまん。たちの過去などあなたに関係ないと口にしたが一番多く語っているな。」

 自らを鼻で笑ったラファエラは空になったソノイの筒をおもむろに床の上へと置いた。酸の雫が作り上げた曲線を織り成す岩肌の上で、融点の低さが特徴であるこの樹脂製の筒は直線を主張している。その姿は大自然の中に放り出された人間の様に、邪な男の欲望に抗った幼き双子の真っ直ぐな心の様にブリスタンの黄金色の瞳に映っているのであろうか。酸の雫がソノイの筒を穿った。無色透明な筒の一部が溶け、白濁した世界へと変わった。

「折角大事な血を分けてくれたのに、しんみりさせちゃったね?お詫びといってはなんだけど…。」

 ラファエラの髪を詰る指の動きを止めずにクラウディアは表裏の無い笑みをブリスタンへ投げ掛けた。この笑みは辛い境遇を忘却の彼方へと追いやる為に身に付けたのか、あるいは亡き親の愛情が育んだ成果なのか。そのどちらも当て嵌まると知ったブリスタンも目尻を柔らかくした。

 クラウディアはおもむろに鼻歌を歌いだした。これが彼女の言うところのお詫びなのであろう。クラウディアの純朴な乙女らしい声も手伝ってなのか、切なさの中に郷愁を匂わす旋律は聴く者の内側を緩やかに、優しい形へと誘い始めた。薄闇の中で不規則に滴る酸の雫たちはクラウディアに耳を澄ましているかの如く静かにしている。ラファエラの閉じた目の先にある睫毛は凛々しさから穏やかさへと彼女の彩りを移行させていた。琴線に触れる。この時の為に用意されたと思わせる言葉の空間の中、ブリスタンの表情は目の前の若き双子の剣霊のそれとは異なっていた。柔らかに細めていた目を見開き、潤いを保った程よい肉厚の唇は半開きになっている。そして傾げていた首は完全に元ある位置へと戻っていた。

「あなた、その歌を何処で?」

 僅かばかりであろうとも心を揺さぶられた事には変わりない。ブリスタンは掻き上げる様に自らの髪に手櫛を入れながらクラウディアへ問い掛ける。薄闇の中で黄金色の長い髪が煌き、彼女の中でざわつく動揺を隠さんとその身を包み込んだ。

「何処って、殿下が教えてくれたんだよ。」

「殿下?もしや、ヴェルリンクの殿下殿かしら?」

「うん。とお友達になったお礼にって。」

 思いもよらぬ場所で拾い物をした。ブリスタンとル・ゾルゾアは北部王立国家に辿り着いて以来、殿下の情報がなかなか得られない状況に置かれていた。任務を遂行する手掛かりを見つけたと判断して良いのかとブリスタンの中で光明が差し込み始める。しかし、剣霊を忌み嫌う国家の次期王位継承者、とりわけ邪剣霊に兄を殺害された者が剣霊を友とするのだろうか。体を起こしたブリスタンは若き剣霊たちの許へとにじり寄る。間近で見る勝利の剣霊の豊かな黄金色の長い髪にラファエラは感嘆の吐息を漏らさんばかりの表情を作り出し、クラウディアは黄金色の瞳に射抜かれていた。

「お友達ってどういう意味かに説明してくれると有難いのだけど。」

 ブリスタンは自らを小母さんと揶揄せずにと語った。言葉遊びの時間は終わりと八百年を知る剣霊たる眼差しは百五十年ばかりの剣霊を呑み込もうとしていた。

「殿下にはお友達がずっといなかったから、昔のと同じだから…。」

「そう?でも人間は早かれ遠かれ死ぬわ。どんなに長生きであろうとも剣霊より先に死ぬのよ、必ずね。残されたあなたは殿下との思い出を胸に仕舞い込んで長い年月を過ごす。それってとても辛い事だと思わない?それでもお友達になった理由は?」

はお友達のいない殿下を愛称で呼んであげたかっただけだよ。」

「へぇ。なんて愛称か気になるわね?」

「駄目だよ、殿下のお名前はお披露目の日まで秘密だってユランが…。」

の契約者の血を分けてあげたじゃない?」

「そうだけど…。」

「早くに教えなさいな。」

 酸の雫が滴り、苔が光る。煌く黄金色の長い髪を纏うブリスタンの物静かな表情はクラウディアを圧倒し、まだ見ぬ殿下の情報を手繰り寄せようとしていた。答えに窮したクラウディアはラファエラの髪を詰るのを止めていた指をそのまま下へと、常に頼ってきた肩へ助けを求める様に下ろす。押し寄せる激流の如く捉えた対象に抗いを許さないブリスタンの気迫はクラウディアの手を小刻みに震わさせていた。

「ブリスタン、あなたには感謝している。だが、幾らあなたの頼みであっても殿下について今は話せない。」

 ラファエラの手がクラウディアの手の上に重なった。刃と刃が重なる音、切先同士が触れる音は響かない。互いの血抜き部分が交わったかの様な鈍い音は彼女たちの結束を意味し、ブリスタンの細い眉を動かした。

「今って事は何時になったら話してくれるのかしら?」

 黄金色の瞳が髪が短い方へと移る。それを正視してはいけないと知ったラファエラは咄嗟に視線を横へとずらした。

「明後日の正午にエジュ・エジェ城塞都市でお披露目が執り行われる。それ以降なら構わん。」

「へぇ。詳しいのね。お友達だから?」

 鼻先で笑うブリスタンの挑発に乗るようなラファエラではない。クラウディアに重ねている手に力が込められた。

たちの契約者ユラン・エレエは剣霊協会より七十四の番号を与えられし者だ。ユランは協会から北部王立国家の次期王位継承者の身辺護衛を三年と四ヶ月前に命じられた。つまり殿下に害を成すと思われる者はたちがこの身に変えても排除しなければならない。」

 まずは手の内を悟られずに味方を騙せ、とはこの事か。邪剣霊の手に掛かった長子の死を教訓として次子の護衛に密かに剣霊使いを充てるのは理に適っている。クラウディアとラファエラの剣霊としての実力及び彼女たちの契約者であるユラン・エレエの才知はさておき、並大抵の者では許可無く殿下に近寄る事は不可能であろう。

「ねぇ、ブリスタン、殿下の事を知ってどうするつもりなの?」

 クラウディアは空いている方の手を重ねるラファエラの手の上へと置いた。彼女の眼差しには純朴な疑問とかけがえの無い存在を守り抜く不屈の意思が同居していた。

「どうって、噂にしか聞いた事が無かったら、ちょっと興味を持っただけよ。」

 生殺与奪の足掛かり、とはまだ言えない。しかも酸の雫が滴る狭い牢の中で両手足に重りを架せられた状態のまま能力の片鱗すら覗えない相手と争うのは得策ではない。また蒼き騎兵団の動向も気に掛かる。捕らえた剣霊を幽閉して何を企てているのか。動くには尚早と判断したブリスタンの黄金色の瞳から鋭利な刃を思わせる輝きが消え失せた。

「殿下はとても優しい御方、そしてとても淋しい御方。あの歌を口ずさむと心が安らぐってに教えてくれたんだ。」

「心が安らぐ、ね…。もう一度小母さんの為に歌って貰えると嬉しいのだけど。」

「もしかしてブリスタンもこの歌が気に入った?」

「えぇ、勿論よ。そういえば、あなたたちの称号をまだ聞いていなかったわね?」

 勝利の剣霊は再び体を横にした。左側の膝を立て、伸ばした右側と交差する様に足を置く。彼女の艶やかさを芳しくする格好は同時に直ぐに動けないという敵意の無い表れでもある。その意図を汲み取ったラファエラは素早く頷いた。

「呪縛の剣霊。これがとクラウディアの称号だ。」

「まぁ、恐ろしい称号だこと。」

 一瞥と共に不敵な笑みを若き双子の剣霊たちに投げ掛け、ブリスタンは目を閉じた。剣は眠らない。だが目を閉じていれば霊体を保持する時間が僅かばかり伸びる。そして内なる自らを直視できる。クラウディアの鼻歌が聴覚を優しく撫で、聴く者の心に響こうとしている。今は囚われの身である事、北部王立国家と剣霊の問題はどうでも良い。が知りたいのは殿下といわれる今の者がこの歌を何処の誰に教わったのかだ、とブリスタンの内なる声が彼女を支配しようてしていた。

 剣霊になった歳は確かにうろ覚えだが、この歌については鮮明に覚えている。今から約八百年前、トウラドオク王朝成立以前の話である。その頃の大陸は各地で大小強弱様々な勢力が乱立し、覇権を求めた者達の争いが絶えなかった。東に位置した、国家とは言い切れない小さな独立都市でブリスタン・トリスティアは育った。あの頃もすれ違う誰もが振り返る黄金色の豊かな髪をしており、今と異なるのは瞳の色が灰色であった点と言えようか。

 近隣で戦禍が拡大する中、彼女は二十七歳の時に恋に落ちた。左右それぞれの目の下にある黒子が印象深い好青年は国家元首の肩書きを持つ者であった。彼には既に正妻がいる事を知っていたが、妾として歩むのも悪くは無いとブリスタンは感じていた。恋は盲目とは言うものの、実力者が複数の女性を囲むのが世相であり、両親が小言を口にしなかった点に対しては剣霊となった今でも密かに感謝している。恋に落ちた者同士で人目を気にせずに並んで歩いたある日、彼が歌を口ずさんだ。東に住む者であれば誰もが知る歌ではない、ブリスタン・トリスティアの為に彼が即興で作った歌である。やがて、数えられる程度の四季の移り変わりの後、彼女の生まれ育った街は他国に踏み躙られた。彼女の恋を育ませた相手は囚われ首を斬られてしまう。同じく囚われたブリスタン・トリスティアは妖しき美貌であるが故に敵兵に嬲られ、指を斬り落とされ、最後は背中から斬られた。その際に彼女の中で生じたある想いが今の彼女の姿である剣霊へと導いた。ある想いとは愛した者の血を絶やしてはならないという執念と言えようか。灰色の瞳が髪と同じ黄金色へとなり、か細き手に触れる全ての生物が切り刻める。臨月を迎えていた正妻の亡骸となって間もない腹へ剣霊となったブリスタンは横薙ぎの一閃を放つ。裂かれた腹の奥で産まれ出ようとしていた新たな生命の左肩から血が流れている。怒りに任せた斬撃よる結果であろう。そこへ口を近づける剣霊の後ろ姿を目撃した者は誰もいない。周囲は一撃で仕留められた敵兵と二つに折れた剣の無惨な躯で所狭しと覆われていた。

「ねぇ、ラファエラ。ブリスタン、寝ている様に目を閉じたままだよ。」

 目を閉じたまま微動だにしない剣霊を眺めていたクラウディアが沈黙を破った。だがブリスタンの閉じた目は開かない。

「何を言っている、たちと同じでブリスタンも眠らんよ。」

 落ち着きを保ちつつも呆れた様子が覗えるラファエラの口調が薄闇の中でひっそりと響いた。

「でも、見て。夢をみている様な顔をしているよ。きっと大事な思い出を懐かしんでいるんだね。」

 目を閉じた剣霊の姿とは穏やかな水面の如くとても平静であり、時の流れに身を同調させている様に見る者に思わせる。百五十余年を経たクラウディアは八百年を知る目を閉じたブリスタンを愛でる様に、そして羨む様に口元を優しい笑みの形へと変化させた。


 

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