剣は涙を流さない
部屋の扉を誰かが叩いている。テヴァ・ザイロンの書斎にて椅子に腰を降ろしていたユストは立ち上がるなり剣を握る為の左手をこの時ばかりは表面が磨耗している取っ手を握った。剣霊障の影響で声を発せない彼にとって、意思を代弁してくれる剣霊の存在は日常生活には欠かせない。だが、今はこの場にはいなかった。自らの柄を握る権利を与えた者の死を受け止めなくてはならないハガンの憔悴しきった心身を癒そうとその傍らにいるのだろう。
「あ…。えっと、コーヒーとチーズを持ってきたよ。」
丁番の軋む音と共に扉を開ければそこにはソフィが陶製の水筒と薄い青色の生地を使った包みをユストに向けて突き出していた。謝意を込めたユストの笑顔に一瞥を与えたソフィの視線は書斎の中を駆け巡っている。イルサーシャとハガンを探している事は誰の目から見ても明らかであり、幼気な行動にユストは中庭のある方向を指差した。
「ありがとう。…あたしが行って、ハガンは喜んでくれるかな?」
あぁ、きっと喜ぶと思うよ、とユストは彼なりの笑顔を作り、ゆっくりと頷いて返事をする。早く行くと良いと中庭を示した指を強調するかのように二三度動かす。ありがとうと再び同じ言葉を残してソフィは扉を閉めずにテヴァ・ザイロンの書斎を後にした。
何の抵抗も無く剣霊を受け入れる無邪気な少女のしなやかな後ろ姿が見えなくなった後、ユストは使い込まれた机の片隅に右手を突き、その脇に佇む一枚の紙片に視線を落とした。テヴァ・ザイロンの遺言書である。
ユスト・バレンタイン殿、と始まるゲルハルステンを知る者の綴りはユストに郷愁の香りを思い起こさせ、愚生殿と語らない点に畏まった趣を感じざるをえなかった。記されていた内容は大きく分けて三つである。
テヴァ・ザイロン亡き後、かの者と契約を結んだハガンの処遇をハガン自身に委ね、剣霊協会はその意思を認める事。
百年に一度全国より公募にて五名選出するコノリギス生涯教育課程にノエミリオ市街地在住のソフィ・ヴァグーを推薦する。
インファンティラ討伐を成しえずにテヴァ・ザイロン自身が命を落とした場合、次期特殊番号保有者を三百年以上選出しない事。
遺言書というよりは嘆願の色が濃く出されている点が否めないものの、表題に自らの名を堂々と記されてしまった以上、ユストは今亡き剣霊使いの意思を尊重したいと考えた。一つ目はハガンの考え次第といえる。そもそも剣霊協会は剣霊が所属している訳ではない。剣霊と契約を交わした人間の為の協会である。
二つ目に関しては、ソフィの想いよりはソフィの両親の判断に委ねるしかない。コノリギス生涯教育とは剣霊の都と謳われるコノリギスにて永住権を得、その生涯を剣霊帝に捧げる意味に他ならない。どの様な判断基準によるのかユストの知るところではないが、五名は後に一名に絞られ、選ばれた一名の出身地は剣霊帝の加護を受けると聞かされている。加護の具体的内容は勿論の事、ソフィの両親が目に入れても痛いと思わない大事な愛娘を手放すのだろうかと思いつつも、先程見せた剣霊に対する深い情を持つソフィがコノリギスへと肩まで伸びた茶色の髪を揺らしながら赴く姿を想像出来る。
三つ目は、いうなれば始まりの剣霊である剣霊帝がどの様な判断を下すかユストはただ黙って従い、彼に発言権は皆無であるのは判っている。だが、ユストはインファンティラという討伐対象に狙われ、且つテヴァ・ザイロンに命を救われた。さらに深く掘り下げればユストの血の本性が、己を護る為に他を制するという本質がテヴァ・ザイロンに致命傷を負わせた。ユストは陶製の水筒に手を掛けた。香り豊かなコーヒーは乾いた喉を潤し、乾きつつあった彼の心を優しく撫でる。薄い青色の布を片手で器用に解き、表面の艶が食欲を掻き立てるチーズを口に入れた。しとやかな食感と豊かな風味が口内に広がり、芳香な味わいはもとより、生きているのだと、生かされたのだとユストは実感していた。右手を動かし、薄い青色の生地に薬指の腹を添わせる。インファンティラの刺突撃はユストの右肩を貫き、加えて馬上の威丈夫が放った五叉の槍の先端がその傷口に喰らいついた。あれから三日しか経過していないが、ユストの右肩は驚異的な速さで回復し、多少の痛みが時々顔を覗かせる程度まで落ち着いている。薄い青色の生地は深い青、群青色の布で顔を覆った威丈夫の勇猛かつ威厳に満ち溢れた姿を連想させる。
再びコーヒーで喉を潤したユストは至天の園から脱出した際の出来事を鮮明に思い返していた。
固い床から固い床へ。至天の園と西端の神殿の床は同じ硬度であった。ただ単に石の様に固められた床に大地を覆う土の様に僅かながらにも弾力があれば傷付いた者たちを優しく包み込んでくれたかもしれない。冷たく無表情な床に縦横無尽に描かれた模様による装飾はユストたちが西端の神殿の内部に戻った事を知らせてくれた。普段のユストであれば誰にも耳に出来ない安堵の溜息と共に気持ちを落ち着かせる為に煙草に手を伸ばすであろう。しかし、彼の右腕は意思に従わない。左手に握る白銀の刀身を持つ直剣を手放したユストはテヴァ・ザイロンの胸の上に剣を操る為の手を当てた。弱々しくもまだ心臓は鼓動を止めていなかった。目を閉じたままの、既に目を開く事もままならないテヴァ・ザイロンの潤いを失いつつある唇が何かを語ろうとしている。彼の言葉を汲み取ろうと若き剣霊使いはその耳を熟練の剣霊使いの顔へと近付けた。
「ユスト・バレンタイン、あなたにお願いがあります。」
薄暗い西端の神殿の中で響いた女の声はハガンのものである。剣体から霊体へと戻った彼女の表情は自らの契約者の死を覚悟していたのか、普段通りに涼しげな目許を保っている。死を迎える者の前で動揺を隠そうとしているのは、刹那を語る剣霊の誇り高き矜持と現実から目を逸らさない健気な想いが彼女の中でせめぎ合っている結果であるとユストは感じていた。テヴァ・ザイロンの前でおもむろに片足を折ったハガンが纏う薄桃色の袷の裾が柔らかな畝を成す。血の色で染まった首に添えた大気をも斬り伏せる指が艶やかな色を注した。
「テヴァを、我のテヴァをあなたの手で楽にさせて頂けませんか?」
涼しげな目許は彼女の真意を理解出来ずにいるユストを一瞥し、その後に床に投げ出された一振りの剣へと向けられた。
「我ではテヴァを楽にさせる事は不可能なのです。我の手と指はテヴァを慈しみ、その肉体と心を守る為にあるのです。大切な契約者を傷つける事がどうして出来ましょう?」
ハガンの剣霊特有の細い指がテヴァ・ザイロンの首筋から、唇へと移った。そのしなやかに動く様は愛しき我が子を寝かし付ける母親の様に、愛する男に情けを求める女の仕草にも映った。
剣を携える者は剣に死す。この場で息を引き取ろうとしている偉大なる剣霊使いの言葉である。自らの生涯は剣を振るい、剣と共に生き、他者の剣で止めを刺される事で完遂する。ハガンは言葉で表していないが、テヴァ・ザイロンが致命傷を負ったのはインファンティラによってユストの血を与えられた獅子らしき石像であると彼女は知っているのであろう。獣の牙は剣の刃ではない。石像の牙に語るべき誇りは無く、剣霊の刃には他を黙らせる矜持がある。
「テヴァ、待っていてくださいね?あなたと同郷のユスト・バレンタインが願いを叶えてくれますから…。」
呼吸をするのも困難になるまで陥ったテヴァ・ザイロンにハガンの声が届いているのかは判らない。それでもハガンは語る。テヴァ・ザイロンと最後の会話をするべく、またこれが最後だと己に言い聞かせるためにハガンは言葉を発している。力無く震えていたテヴァ・ザイロンの右手がユストの左手首を掴んだ。残り少ない力で懸命に握る手は構成する組織や細胞が弛緩し、重りの様に圧し掛かる。剣霊の手の重さとは異なる感覚にユストは黙って目を細めていた。
「テヴァもあなたの手に掛かるなら本望と言っております。お願いです、早く彼を楽に…。」
切なる願いをぶつけるハガンの語気に反してその姿は虚無である。彼女の汚れを知らない項は愛する者を失う覚悟を未だに受け入れられないのか、悲愴感を漂わせていた。
確かにテヴァ・ザイロンがもう助からないのは誰の目から見ても明らかである。本当にそれで良いのか、とユストはハガンへと視線を送った。肯定も否定もしないハガンはテヴァ・ザイロンの右手の指を美しい花弁を毟るかの如く一本ずつ丁寧に、掴むユストの手首から離した。これが彼女の返事だと悟ったユストは口元に人差し指を近付ける。嵌めている手袋を外す為である。命を絶つ最後の一撃は相手に敬意を払い、素手で行うべきだと判断したに他ならない。銜えた手袋を横へ吐き捨てたユストは立ち上がるなり二匹の蛇が絡まる柄へと左手を伸ばした。
本当にそれで良いのか。ハガンに投げた同じ言葉でユストは自らに問い掛けた。無数の鱗を持つ二匹の蛇の胴は乾いた心の表面を削り取る様に、普段よりもざらついた感触をユストに与える。全てを睥睨する二匹の眼差しは柄を握り締める者を見据えていた。苦渋の選択を強いられているのは重々承知している。時は静かに音もなく流れ、テヴァ・ザイロンの命の灯火も音を立てずに消えようとしている。剣を携える者とは幸を望むべきではないと理解していた。だが、不幸である必要はない。テヴァ・ザイロンがこのまま命を引き取るのは不幸なのだろうか。インファンティラは肩で息をする老剣士に意地を通してやろうかと語った。意地とは身を挺して己の考えを達成させる事にある。インファンティラは弱りきった敵とは言えども意地を通させた。ならばテヴァ・ザイロンと同じ立場であるユストも彼の意地を通させなければならない。白銀の切先が横たわる老剣士の胸の中央へと運ばれた。剣を操るとは目下の出来事に対し誤りなく行動をすれば良い。歯を噛み締め、苦悩の表情を浮かべたユストの左腕の腱が動いた。光の届かない薄闇の中であろうとも白銀の切先は切れ味に変化をもたらさない。テヴァ・ザイロンの血に染まる衣服の下へと潜り、柔らかな皮膚を割き、彼を構成する血肉を左右に掻き分け、臓器を守る胸骨には鈍い音を奏でさせながら砕き、動きを止めようとしている心臓を貫いた。素手であるだけに普段よりも刀身に絡み付く血の生暖かい感触が柄を通じてユストを覆う。
偉大なる剣霊の使い手よ、あなたとはもう少し話をしたかった。
音無き言葉を発する口を動かしたユストは白銀の直剣をそのまま上へと引き抜いた。
ほんの僅かな時を置いて、貫いた箇所から血が湧き出た。乾いた大地に潤いを与えるかの如く、じわじわとテヴァ・ザイロンの衣服の表面が放射状に濃くなり、目を背けざるをえない色へと浸食された。
「…有難うございます。」
ハガンの簡素な言葉に何と答えたら良いのか判らないユストは左手に握る白銀の直剣を床に置いた。血のりを払うのは慕うべき亡きテヴァ・ザイロンに対して礼を失する。振りもせず、布で拭き上げもせずに床に置かれた剣霊が宿いしユストの愛剣は霊体へと戻るように指示を与えられた。膝を折り、俯いたままのユストの鼻腔をついていた鮮血の匂いの中に百年香の香りが混じった。
イルサーシャは何も語らない。彼女は西端の神殿に入る前に剣体になっている。つまりそこからの記憶は無い。何が起こったのかと彼女の切れ長の目尻が細くなり、周囲を見回している。敵はいない。彼女を出迎えたのは横たわるテヴァ・ザイロンと暗い表情のユストとハガン、そして物静かで陰鬱な雰囲気の西端の神殿の内部であった。
「ユスト、何が起きたのか我に説明しろ。」
状況を把握出来ない彼女の言葉はもっともである。しかし、ユストは首を縦にも横にも振らず、イルサーシャの意思に従おうとはしなかった。
「ハガン、何故そなたがここに?そなたがインファンティラを討ったのか?」
ハガンもイルサーシャに対して口を開かない。涼しさを失いかけている刹那の剣霊の目許は事の有様を白銀の長い髪を持つ剣霊に教えていた。そうか、と人間であれば鼻で短い溜息を漏らすで有ろう中、イルサーシャは手癖である横髪を耳に掛けようとした際に自らの表情に変化を与えた。指という指に血が付着している。これはユストの血ではないと彼女は直ぐに理解した。自らの契約者の血かどうかは匂いと感触で判る。では誰の血なのかと疑問を抱くまでもなく、緑色の瞳は横たわる老剣士を捉えた。その奥で心臓が絶え間ない鼓動を奏でていたであろう箇所に刺傷が見受けられる。自らの剣体と同じ幅の傷口と知ったイルサーシャの眉間は激昂の皺を無数に寄せていた。
「おいユスト、そなたまさか…。」
イルサーシャの嵐の前の様に静かで落ち着いた物言いはユストの首を縦に振らせ、悲愴感を漂わせているハガンの口を開けさせた。
「良いのです、イルサーシャ。これはテヴァの望みであり、我がお願いしたのですから。」
「テヴァ・ザイロンの望みだと?自らすすんで命を絶とうとする者がいるか?」
「テヴァはインファンティラの手により致命傷を負ったのです。首元を割かれた者はもう助からないのはあなたもご存知でしょう?命の灯火が潰えるのなら同じく剣を携える者、ましてや同郷の者に委ねるのが本望とテヴァは残り僅かな力を振り絞って剣体であった我に語り掛けました。死を目前とした者のこの願い、叶えてあげるのが我の最後の役目なのです。」
哀しみの中に確固とした意思を纏うハガンの眼差しは剣霊という立場と女の本心が入り混じっており、猛る感情に身を委ねたイルサーシャは返す言葉を探しあぐんでいた。個々の実力やそれまでの道程は異なるが、二振りの剣は同じ立場である。違ったのはインファンティラという強大な敵と相対した結果であった。一方は契約者を失い、もう一方は契約者を失わずに済んだ。後者に当たるイルサーシャの中で自らをテヴァ・ザイロンの絶命の為に用いられたという憤りよりも、ハガンの言い様の無い哀しみを酌むべきだという思いが芽生え始めていた。
「で、インファンティラは見事討ち取ったのか?」
「判りません、我も剣体になっていましたから…。ただ、ユスト・バレンタインの表情からして討ててはいないと…。」
鋭さを纏ったイルサーシャの目尻が幾分柔らかくなった。残念だという気持ちと共に他界したテヴァ・ザイロンの生気を失った唇へ手を当て、あやすように擦るハガンの姿にいたたまれなさを感じさせたからである。絶命した者の血が付着している手であろうと構わずにイルサーシャは左の横髪を耳に掛けた。
「立て、ユスト。」
空気が澱んだ西端の神殿の内部でイルサーシャの声が響く。ユストは立ち上がると体の向きを彼女へと向けた。負傷した右肩を一瞥しようともイルサーシャの緑色の瞳は平静な水面の様に静寂であった。
「そなた、テヴァ・ザイロンの死を悲しんでいるのか?」
一呼吸置いた後に、そうだ、とユストは音無き口を動かした。
「我も悲しい。あの低くも良く通る声で銀髪のお嬢さんともう一度呼ばれたいものだ。だがな…。」
イルサーシャのか細い腕がユストを目掛けて伸びた。白銀の長い髪が揺れ動き、彼女の耳からぶら下がる黒蛇のピアスが不規則に踊る。全てを切り裂く剣霊の細い指は契約者の胸倉を掴んでいた。
「そなたに教えてやる。人間は悲しみや怒りが絶頂に達して感情が行き場を失うと自然と涙を流す。己の心を潤す為に、慰める為に涙を流す。だが、剣は涙を流さない。流したくとも流せないのだ。自らが傷付こうと自らの契約者を失おうと、ただ黙って事実を受け入れ、甘受するしかない。我を含めた剣霊が人間を羨ましく思う唯一の点、この胸の奥によく刻んでおけ!」
胸倉を掴む細い指が小刻みに震え、その先にある腕も同じく震えている。力を込めているわけではない。彼女の言葉の様に自然と湧き上がる悲しみと怒りがそうしているとユストは判っていた。溜まりに溜まった感情を吐き出したイルサーシャの魂の叫びをユストは身に浴びさせられた。彼女の魂を護るという鎌首をもたげた従者の静かな睥睨はユストを捉えている。動かすことが可能であり、剣体となった彼女を握る権利を得ている左手がイルサーシャの手首を掴んだ。普段よりも冷たく感じる剣霊の手首を擦りながらユストは彼女に掛けるべき言葉を探したが、答えは見つからなかった。
「我でしたら大丈夫ですよ、イルサーシャ。」
ハガンを思い遣った結果、イルサーシャが啖呵を切ったのは明白である。同じ剣霊の心遣いはハガンの表情から陰鬱さを僅かに取り除いていた。
「それよりも、ほら、我との契約が切れたテヴァの顔を御覧なさいな。優しい笑みをたたえているではありませんか。」
無傷のままの剣霊と負傷した契約者の視線を受けたハガンも項の後れ毛を触れながらにこやな表情を作った。刹那の剣霊はいつもの様に涼しげで凛とした趣を取り戻そうとしている。
彼女の心の底は見えない涙で溢れていた。
再び扉を叩く音がユストを三日前の出来事から今へと舞い戻らせた。先程の音よりも軽い。手にしたままの陶製の水筒の中身を飲み干すのと同時に扉は叩く者の手で中にいるユストの返事を待たずに開かれた。相手は彼が返事を出来ないと知っていて行動に移したと言えよう。
「ユスト、いいか?」
百年香の爽やかな香りを漂わせながらイルサーシャは右の人差し指を上に向けて二三度動かした。こっちへ来いと促している。彼女が僅かに目尻に鋭さを保たせているのは、先日の出来事を気まずく感じている反動だとユストは理解していた。しかし、剣霊とその契約者は常に手を携えなければならない。生きる為の原則であり、迫る敵を払う為の理でもある。故に些細な事であろうともお互いに意固地になるのは避けるべきである。ユストはカップ代わりにしていた陶製の水筒の蓋を細かな傷が走る机の上に置き、その手をイルサーシャの肩に添えた。
(どうした?)
(ミゼレレが霊体を取り戻したそうだ。)
インファンティラと遭遇したミゼレレは持てる力の全てを消費して次姉が放つ脅威から自らの矜持を守りぬいた。その代償として霊体を保てなくなり、彼女の契約者であるシェス・ロウは霊体返りの儀を行った。十二歳の少年が三日三晩、血を流した成果が今ここに顕れようとしていた。
(そうか…。彼女には是非とも聞いておきたい事がある。)
(ほぉ?)
(彼女が知っていればの話だけどね。)
怪訝な眼差しを送るイルサーシャをよそにユストはソフィが差し入れたチーズを包んでいた薄い青色の布に視線を向けた。
(取敢えず君は先に行っていてくれ。愚生は一服つけてから顔を出すよ。)
女らしい華奢な肩から手を離したユストは彼女の食痕を隠す黒字に金の刺繍が施されたスカーフの端を詰った。共に行かないのかとイルサーシャは尋ねようとしたが、ユストの言葉の意図を朧気ながらにも気付き、何も言わずに頷くとその場を後にした。
言葉の意図とはハガンに対する配慮である。ミゼレレとイルサーシャには契約者がいるが、ハガンにはいない。正確に表現するならば失って間もない。これまでの行動からして恐らくソフィが彼女の横から離れていないであろうと思われるものの、幼気な少女は剣霊の契約者ではない。ユストとイルサーシャの二人が共に揃って足を運び、再会を喜びながら互いの手を取るであろうシェス・ロウとミゼレレの姿を知ったハガンの中で疎外感が生まれ、彼女はどの様な表情をするのだろうか。あの涼しげな目許が、淡い褐色の瞳がえもいえぬ悲しみの色で染まるのはユストは勿論の事、同じ戦禍を潜り抜けたイルサーシャは見たくなかった。それなりに配慮が出来る男だな、とイルサーシャは白銀の長い髪を揺らしながら思っていた。先日啖呵を切った件が奏したのだろう。少々言い過ぎた感が否めないものの、結果が伴えばそれで良いと鼻で短く笑った。
主を失った家とは物悲しさが自然と漂う。軋む床の音はそれまでの生活を思い起こさせ、ぬめる様な艶を持つ窓ガラスは生活する者の会話を密かに聞いていたのだろう。外の景色は暗い。空がぶ厚い雲で覆われている。空がテヴァ・ザイロンの死に哀悼の意を表しているのか。それにしても暗い。これから起こる出来事を暗示しているかのような暗さである。
空といえば、ユストが薄い青色の布に一瞥を投げた事にイルサーシャは疑問を感じ、食痕を隠す協会支給のスカーフを詰っていた件も彼女の中で引っ掛っていた。あれはユストの手癖ではない。西端の神殿から戻って以来、ユストの一挙一動が妙に気になるイルサーシャは自らが剣体となって以降の出来事の詳細を聞かされていなかった。ハガンもインファンティラと雌雄を決する最中に剣体となり、全容を知らない。一部始終を語れる者はユストのみである。ミゼレレに聞きたい事があるとユストは言うものの、その大半はインファンティラとの戦いに関する報告じみた物になるだろう。その時に知れば事は足りる。再び空の模様を眺めたイルサーシャは左右の横髪を耳に掛けながら歩き始めた。
奥の部屋では既にハガンがソフィを横に伴いながらミゼレレに西端の神殿での出来事を彼女が知る限りではあるが話を進めていた。三日という短くも長くもない時を経てミゼレレは霊体を取り戻していた。豊かな畝を成す薄緑色の長い髪は彼女の柔らかな趣を彩り、端正な横顔は以前と変わらない。むしろ生まれ変わったかの様に瑞々しく輝いてる。表面が乾ききった木製の椅子にミゼレレは腰を降ろし、その足元では疲労の極みに達したシェス・ロウが静かに眠りに就いている。その健やかな寝顔は第十三条を交わした仲でもあるイルサーシャの目を優しく細めさせた。
「ハガンにイルサーシャ、お二方には我の知らないところで我の姉であるインファンティラが多大な迷惑を掛けましたね。」
哀れみを語る天恵の剣霊の瞳は以前となんら変わってはいない。物憂げであり神秘的な表情をするミゼレレにイルサーシャは気にするなと声を掛けようとしたが、咄嗟に言葉を飲み込んだ。間違っても気にするなとは言い切れないハガンが横にいるからである。床の上で両脚を揃えて斜に座るハガンは一瞬の間、顔を下に向けたが、直ぐに元の位置に戻すと口を開いた。
「契約者を失ったのは戦いの結果ですから…。そう気にしないで下さいな。」
「可哀相なハガン、今のあなたに我は何と声を掛ければ良いのか、長い年月を知ろうともこればかりは判りかねます。」
「ただテヴァの冥福を願っていただければ我の心も休まります。」
「そう、ハガンの契約者はテヴァという名でしたか。」
ハガンとソフィ、そしてイルサーシャのそれぞれが異なるもののミゼレレの言葉は彼女たちに表情を与えた。驚きよりも怪訝の色が濃く、その色は不安を呼び起こそうとしている。
「ねぇ、ミゼレレ、ザイロンのおじいさんの事、忘れちゃったの?」
堪らずにソフィが言葉を発した。無情の波の様に打ち寄せる不安と受け止め難い予測に抗おうとソフィはハガンの袷の裾を掴んでいた。
「あなた、剣霊の傍にいても怖く無いのですか?」
哀れみの瞳がソフィへと動いた。程よい長さで整っている睫毛の奥に控える眼差しは柔らかい。天恵を語る剣霊のその表情は朝早くの砂浜で初めて遭遇した時と同じだとソフィは感じた。
「もしかして、あたしも…?」
ソフィが掴むハガンの袷に新たな深い皺が走った。
「あたしのせいで昔のミゼレレは何処かへ行っちゃったの?」
そんな事はないとハガンは優しき言葉をソフィに掛けるも優しき手は彼女の頭へと添えられない。剣霊は契約者以外の人間に触れる事は出来ない。薄桃色の袷の上を不規則に走る皺はソフィの心境を表現しているようにイルサーシャには見え、今の彼女を落ち着かせる手を差し伸べられる者はこの場には誰もいないのだと内心で唇を噛み締めた。
「あとお聞きしたいのですが、我の足元にいる少年は…?」
椅子に腰を降ろしたままのミゼレレは足を動かそうとしたが、彼女の足へ体をもたれ掛けて寝入っているシェス・ロウを知って静かにしていた。利発さを思わせる少年特有の長い睫毛と安堵の極みを思わせる寝息は再び哀れみの瞳を柔らかにさせた。
「まさかシェス・ロウの事まで忘れたとでも?神剣霊のそなたにしては悪ふざけの度が過ぎていないか?」
身を乗り出したイルサーシャの言葉には希望的な色合いが含まれていた。だが、ミゼレレの性格からして他をからかい嘲笑する様な言動は皆無に等しい。イルサーシャに一瞥を与えたミゼレレは人差し指を自らの麗しい唇の下に添えた。
「この少年の名はシェス・ロウというのでしょうか?」
「そうだ。そなたの契約者だ。」
「我の契約者…?」
「あぁ。そなたに触れる事が出来る唯一の者であり、そなた自身が触れる事が可能な唯一の人間だ。」
「この少年が我の契約者なのですか?」
ミゼレレの中で疑問が芽生え、不動の事実に向き合い始めているのは誰の目から見ても明白であった。
「どうやら我はこれまでに関わった人間の名と、共に歩んだ時間の殆どを忘れてしまったようですね…。」
窓の外の世界は相変わらず暗く、澱んだ空が覗える。ミゼレレの自己を表す言葉はハガンの涼しげな目許に曇りを与え、イルサーシャの切れ長の目尻に驚愕の形を作らせた。
「シェス・ロウはミゼレレ、あなたを救う為に三日三晩お互いの命の源である血を流しました。たとい忘れようとも、早くその柔らかな髪を掬って労うべきですわ。」
袷の袖を力強く握り締めるソフィを落ち着かせようと抱き締めたくとも、そうは出来ないハガンは己の無念をミゼレレへぶつけていた。滑らかで女らしさを前面に押し出した大地を語る細い指が少年の髪へと伸びる。恐る恐る伸ばす有様はシェス・ロウが本当に自己の契約者なのかという疑問によるものだとイルサーシャとハガンは知っていた。誰が何と言おうと飲み込めないものは飲み込めないのも理解出来る。だが、大地を語る意思であろうとも今は人間の意思に耳を傾けなければならない。意を決したかの様に指先が柔らかな茶色の小さな海原に触れ、その下へと潜り込んだ。
「軟らかくて温かいですね。この心休まる感触、とても懐かしい。」
「えぇ。シェス・ロウも寝ていようともあなたと同じ思いを描いている事でしょう…。」
契約者を失って間もないハガンの言葉の端々には説得力に満ち溢れていた。
「ところで、そなたは殆どを忘れてしまったと言ったが、何か覚えているのか?」
シェス・ロウの寝息を乱さまいと前後に動くミゼレレの手を眺めていたイルサーシャは腕を組むなり壁に背を付けた。そろそろユストの足音が聞こえても良いのだが、と思った末の行動である。
「それは…。我の契約者の名です。」
「ん?シェス・ロウ以前の契約者、という事か?」
「この状況からしてその様ですね。」
壁伝いにこの場にいない者の気配が感じられた。ようやく来たかとイルサーシャは鼻で短く苦笑を漏らすと組んだ腕を解き、右の横髪を耳に掛けた。自らの尾に喰らいつく漆黒の蛇は静かに周囲を睥睨している。ミゼレレもユストの気配を感じたのだろう、シェス・ロウの頭を撫でる手が止まった。
「この気配は…?」
「ユストだ。今のそなたには我の契約者とまずは言うべきだな。」
「イルサーシャ、あなたの契約者ですか…?」
「あぁ、幾分じれったくぶっきらぼうな男でな。とは言え、そなたが霊体を取り戻すかどうかを安否していた一人だ。会ったら優しい言葉でも掛けてくれないか?」
イルサーシャの言葉が終わると共に取っ手の下辺りから軽快な音が発し、扉が開いた。部屋の中央に添えられた椅子にミゼレレは腰を降ろしている。以前と変わらず、むしろ生まれ変わったかの様に艶やかな趣にユストは内心で言葉を失っていた。一方のミゼレレはユストの姿を見ると同時に立ち上がった。大地を語る神剣霊の哀れみの瞳は押さえつけられない衝動を露にし、麗しい口が救済を渇望する様に虚ろに開いた。
「マティス、我のマティスですね…?」
それは最も愛する者の前でしか見せない女の表情であった。シェス・ロウがいようと構わずに立ち上がったミゼレレの腕がマティスと呼ばれたユストの右肩へと伸びる。咄嗟の判断でイルサーシャが二人の間に割り入った。豊かな畝を成す薄緑の髪が空に揺れ、白銀の長い髪が空に広がる。剣と剣が交差し、耳障りな音が短く響いた。
「イルサーシャ、何をするのです?我はマティスに抱き締めてもらおうと…。」
「何をするだと?それはこっちの台詞だ。よく見ろ、この者はマティスとやらではない、我の契約者ユスト・バレンタインだ。」
霊体を取り戻したばかりであろうとミゼレレの力は以前と同じくイルサーシャのそれを遥かに凌駕していた。弾き飛ばされたイルサーシャはユストの胸元へよろめき、苦痛の色を口元に浮かべる。その姿を目の当たりにしたミゼレレの手は更にユストへと伸びた。
「マティス、このミゼレレが判らないのですか?共にお互いの内なる愛を語り、惜しまずにお互いの愛を育んだ相手であるこの我を忘れてしまったのですか?」
乾いた心を満たすべく伸びる手は彼女の記憶の中に存在する人物の肌触りと温もりを確かめようとしている。絶大なる力を有する者の渇望する姿は儚く、哀れにしか映らない。ユストはよろめいたイルサーシャの両肩を抱え込んでいた左腕をそのままに目を伏せた。
「ミゼレレ、その人はマティス・ダーシェリーではない。彼は遠い昔に君のお姉さんの手に掛かって世を去ったんだよ。」
心地良い柔らかさを持つ自らの剣霊の足を枕代わりにしていたシェス・ロウはミゼレレが立ち上がった際に頭を床に打とうとも騒がずに状況の把握に努めていた。それ故の言葉であり、十二歳になる少年の険しい表情はマティス・ダーシェリーなる人物の名が禁句である事を示唆していた。
「その名は確か、テヴァより先々代の特殊番号保持者では?」
ソフィを傍らに置いたハガンは死と共に人々の記憶から忘れ去られる剣霊使いの名を手繰り寄せていた。
「インファンティラをあと一歩の所まで追い詰めた、剣霊の使い手の中でも至高の存在と聞いております。その彼の剣霊とはミゼレレだったのですか?」
「剣霊帝様が僕にもそう教えてくれた。マティス・ダーシェリーは黒い髪が印象深い、ミゼレレが最も愛した人間だと聞いているよ。」
シェス・ロウの力無い視線はユストに向けられている。想像にしかない先代の契約者の姿を目の前のユストと重ね合わせているのだろう。そしてこの状況を覆す救いをユストに求めている。黒髪の若い剣霊使いは薄緑色の髪が美しい剣霊を連れていたとトウラドオク七世と剣霊使いの逸話に記されていた事をユストは思い出した。その剣霊使いこそマティス・ダーシェリーなのであろう。迷いを断ち切ったかの様にユストはシェス・ロウへ強く頷いてみせた。
(イルサーシャ、少し我慢しろ。)
問いを投げ掛けられる前にイルサーシャから腕を離し、脇に避けるようにと彼女に促したユストはミゼレレの前へと歩み寄る。待ち焦がれた可憐な五本の指が懐かしい感触を再び味わおうとゆっくりとユストの頬を目掛けた。
「正気かユスト、肌に触れられたら刻まれるぞ!」
イルサーシャの言葉は意を決したユストには届かない。まず薬指の先が顎骨の上に触れ、中指の腹がさらに上へと添えられた。歓喜と安堵が入り混じった表情をミゼレレは一瞬だけ見せた。その一瞬の後は驚きと困惑が織り成す表情が彼女の内側を如実に表現していた。
「何故、我が触れると血が流れるのです…?」
契約を結んだ者である筈のマティスの肌に触れられないミゼレレはうろたえるしか出来ない。ユストの頬に血が滲み、ミゼレレの肌理の細かな肌が独特の赤で染まった。
(ミゼレレ、愚生の声が聞こえますか?宜しければ愚生の右肩に触れていただけませんか?)
頬から赤く染まった指がおもむろに離れた。流れる血を知ったソフィは掴んだままのハガンの袷の端に顔を隠し、ハガンも空いている方の袖でソフィの頭を覆う様に被せる。ミゼレレは言われた通りにユストの右肩へと頬に触れていた指を添えた。
「これは、姉上によるもの…?」
(えぇ。あなたの直ぐ上の姉に抉られ、更に上の姉の一撃による結果です。お二方の考えを愚生如き人間が知る術もありませんが、その様な愚生でもはっきりと判るのは、お二方はあなたをとても愛している。そしてあなたはお二方の愛に応えなければならない。応えるとは幸せを纏う事です。マティス・ダーシェリーもあなたの幸せを最期を迎えようとも願っていた筈です。愚生とて剣霊の契約者の端くれ、剣の腕は特殊番号を付与された彼には遠く及ばないものの、その想いは同じです。今亡き彼の想い、あなたの胸の裡で大事に育んで下さい。)
ユストの右肩から指が離れ、ミゼレレは膝から崩れ落ちた。目の前のユストが追い求めた人物ではないと知った薄緑色の長い髪の先端が床の上に広がり、項垂れた白い項が顔をのぞかしている。
「何故あなたはマティスと同じ黒い髪をして、マティスの様にそこまで心が騒がしいのですか?」
この場にいる誰もが明確な答えを示せないと思われた中、小さくも勇敢な手が怯える様に震えているミゼレレの肩に添えられた。
「僕たちの街へ帰ろう、ミゼレレ。コノリギスなら剣霊帝様もいらっしゃるし、慣れ親しんだ景色を見て、少しずつでも思い出せるかもしれないよ。」
触れる手がしっかりと肩を掴み、シェス・ロウはその上に額を着けた。心優しい幼き契約者の口元は笑みをたたえ、一筋の涙が零れ落ちた。
時の流れは悲しみを忘れさせてくれる。しかし大地を語る神剣霊の中で滞る悲しみを悠久の調べでは拭いきれていなかった。新月の夜、ノエミリオ本島へ流れ着いた時、ミゼレレが見せた表情の全ては過去の自らとの邂逅を物語っていた。ユストは窓の外へと視線を投げ、胸倉を掴んだ際のイルサーシャの言葉を思い返した。
剣は涙を流さない。
だが、もし、剣が涙を流すのであれば、それはあまりにも熱くて重い。誰一人とてその涙を受け止められない。故に剣は涙を流すのを止めたのであろう。
分厚い雲の隙間から一条の光が大地へと降り注がれていた。
今日こそは雪が降るのでは、という寒さが肌を刺す昼下がりにドルク夫人はデルロア市街地へ向かう大型馬車に乗り込んでいた。北部王立国家の青年の許へ嫁いだ娘が里帰りをする為の出迎えである。身重の娘は懐かしき祖国で、心休まる実家で新たな生命の誕生を考えているのであろう。それは相手の家に失礼ではないかと思うものの、母親となれば好き勝手に出歩く事もままならなくなる。自分がそうであったからこそ判る。今生の別れとは大袈裟ではあるが、娘は帰るべき場所を新たに築き上げなければならない。その場所は南西自治国家に構える己の生家であるドルク家ではないと娘も理解しているであろう。
車窓から覗える流れる風景は冬の到来を教えてくれる。つい先日まで木々を彩っていた赤や黄の葉は地へ落ちてしまった。これから白銀の化粧を施す為の下準備だと思えば、暗い気持ちにはならなかった。
白銀といえば、一人の、いや、一振りの剣霊の姿がドルク夫人の脳裏を掠める。彼女とその使い手をドルク家に泊めてから一ヶ月以上が経過しようとしていた。客車の揺れに呼応してがたついている窓枠の端に肘を乗せ、ガラス越しにうっすらと映る自らの姿を眺めた。あの奥深い緑色の瞳の持ち主は今、何をしているのだろうか。身に纏う衣服のボタン掛けが苦手だと語る一方、剣の刃を素手で掴んで難無くへし折っていた。彼女は剣霊だからこそ、と言ってしまえばそれまでだが、今思えばそう滅多に目にする機会が無い光景であったのかもしれない。澄ました表情を保ってはいるものの、何かしらの思いが生じれば形の整った眉が上下に動き、手持ちぶたさの際は横髪を耳に掛ける。剣とは言え、感情の表現が人間より豊かな彼女の姿を思い返し、ドルク夫人は静かに笑みを零した。
大型馬車の客車に暖房設備は無い。体を冷やさない為にも車両の後端へと足を伸ばす。その場所に売り子の少女が備え付けの椅子に品良く腰を降ろしている事をドルク夫人は知っていた。揺れに体の平衡感覚を合わせ、向かった先にはもう一人の人物がいた。南西自治国家の国章が胸元に輝く兵士が乗降口付近の壁に寄り掛かっていたが、ドルク夫人の姿を見るなり背中を壁から離した。歳は三十手前ぐらいか、様子からして彼は大型場車内の警護という任務を遂行中なのであろう。ぶら下がるサーベルの鞘が彼の左の腰下へ圧し掛かっている。国を護る彼へ軽く会釈をしたドルク夫人は甘い金髪が愛らしい売り子の少女へと歩み寄った。
温かな飲み物があれば事は足りる。しかし、紅茶が欲しかったが、コーヒーしか置いていないらしい。残念ではあるが、何も売り子の少女が悪い訳ではない。構わないわ、と母親を経験した者らしい笑みを売り子の少女へ送ったドルク夫人は壁際に貼られた官報に視線を送った。先日、この大型場車内で邪剣霊が現れ、偶然にも乗り合わせていた剣霊使いが打ち倒したそうである。
「どうぞ。」
青と緑が混ざった釉薬を内側に用いた陶製のカップが差し出された。冷える空気の中で芳醇な香りが湯気を伴ってドルク夫人の鼻腔を優しく撫でる。確か白銀の長い髪を持つ剣霊も目を閉じ、顎をやや上に向けて茶葉の香りを愉しんでいた。そこに剣の鋭さは全く見受けられなかった。
「あの、お客様、わたしの後の官報が気になりますか?」
売り子の少女は業務の傍ら、ドルク夫人の視線を追っていた。
「えぇ、怖いわね。でも剣霊使いが乗り込んでいて何事も無くて良かったわ。」
「実はわたし、その剣霊使いを知っているんです。ちょうどこの馬車と同じデルロア行きでした。」
「あら、もしかしてその方の名は…?」
「ちらっとしか聞けなかったのですが、確か…。」
咳払いが聞こえた。その場に居合わせている兵士が二人の会話に水を注す為に発したに他ならない。剣霊使いはコノリギスという他国に所属する者である。国の治安と秩序は自らの手で守るものであり、その為に兵士の胸元に国章が煌き、腰から下がるサーベルは誇らしげに輝く。いわばこの出来事はその場に兵士が居合わせていなかったとはいえ、彼らの矜持に泥を塗られた様なものとも捉えられていた。
「有難う。その話はもういいわ。ところでデルロアまであとどれくらいかしら?」
「あと一時間程度だと思われます。」
売り子の少女は後ろ髪を引かれる様な表情をしていた。無論、ドルク夫人もその剣霊使いの名を知りたかったが、この場にいる護衛の兵士に不穏な者と睨まれては困る。剣霊と剣霊使いに対し世間の見る目は厳しい。美しき女の姿をした剣は血に飢え、柄を握る権利を得た者は見初められ、骨抜きにされるというのが一般の見識である。げんにドルク夫人は近所には勿論の事、長年を共にしている夫にも剣霊を我が家に泊めた話をしていない。あの白銀の長い髪の剣霊は風評とは違うと声を上げても誰も耳を傾けないであろう。むしろ抗い様のない怪訝の眼差しを一身に集めるのが目に見えている。
「お客様、カップはどうぞそのままお持ち帰りになって構いませんので。お食事もご一緒にいかがですか?」
気を取り直した売り子の少女の言葉はドルク夫人の口元に微笑みの形を呼び戻す。若い者の気概を損ねさせてはならないと知る年長者のカップを握らない手が動く。一時間の間、外を眺めているだけでは流石に飽きる。ならば軽く胃を満たすのも悪くない。細かなざらつきが心地良い紙ナプキンに包まれたサンドウィッチを受け取ったドルク夫人は兵士に再び軽く会釈をし、自分の席へと戻った。
大型馬車を降りれば冷たい潮風がドルク夫人の束ねた髪の先端を揺らす。肌にべた付く感覚は、デルロア市街地に辿り着いた事を再認識させてくれる。長距離を駆け抜けた十二頭の馬たちの鼻息は荒く、往来を行く人々の数が多い。街とは騒がしい所である。その騒がしい中でドルク夫人は北部王立国家との国境付近から出発した大型馬車の姿を探す。首を左右へ動かし、せわしく歩き、久々に祖国に戻ってくる身重の娘の懐かしい横顔を求める。他の大型馬車が先に到着していたが、南方からの便の様である。
「あの、お伺いしたいのですが。」
デルロア中央駅の駅舎の片隅で煙草をふかしている男にドルク夫人は声を掛けた。彼は兵士ではないがデルロア市街地の紋章を胸に着けている。恐らく大型馬車に従事する者と判断した結果である。面倒臭そうな表情をせずに男は吸いかけの煙草をそのままにドルク夫人へと顔を向けた。
「北からの便の到着はまだでしょうか?」
身に纏う柔らかな茶色のコートの前身頃を押さえながら尋ねるドルク夫人は品の良さを醸し出しており、男はにこやかに答えた。
「あぁ、今日の便は特別に二時間遅れて到着の予定ですよ。」
「特別とは、何かあったのでしょうか?」
一抹の不安を過ぎらせたドルク夫人の眼差しに男は手に持つ煙草を落としてしまった。
「奥さん、コノリギスはご存知で?」
地に落ちて間もない煙草を拾い上げ、吸い口に付着した埃を払い、男は至福の一口を嗜んだ。
「確か剣霊の都、と言われる場所と聞いておりますが。」
「そう、そのコノリギスからの使節団が乗り込む為に時間調整をする様にと一週間前に通達が出ましてね。向こうは既に雪模様、思ったよりも移動がままならなかったのでしょう。」
「使節団とは大掛かりですね?」
「デルロアに到着して直ぐにノエミリオに向かうそうですよ。あの気難しい漁業組合長が揉み手をして舟の手配を引き受ける程、剣霊というのは恐ろしい存在なのか、はたまた金に糸目を付けないのか、どちらでしょうかね?」
「さぁ…?わたしは剣霊とは縁の無い生活をしているのでなんとも…。」
ドルク夫人は肩をすくめながら作り笑いをするものの、その脳裏では四ヶ国の国章が刻まれた金色に鈍く輝く貨幣を描いていた。病床に臥していた剣霊使いがしたためたと思われる手紙の上に重石代わりに置かれていたものである。あの不思議な金貨について詳細は未だに判らず、まだ誰にも相談をせずに裁縫箱の底に仕舞い込んだままであった。
「まぁ、普段なら既に全便が到着して、さっさとやる事を片付ければ俺の一日の業務も終わりってところなのですがね。」
男は煙草を挟んでいない方の指で一点を示す。そこには工具と清掃道具が整然と並べられていた。彼は大型馬車の整備員のようである。
「便が到着したら物見塔の鐘が三回鳴りますから、それまで買い物なり食事に時間を費やすのが賢明ですよ。なんせここにいても馬の鳴き声と蹄の音でしかおもてなしが出来ませんから。」
だいぶ短くなった煙草の先端に細めた視線を投げながら男は最後の一口を吸っていた。揺らめく煙が初冬の空の色と同化している。そうさせてもらいます、とドルク夫人は謝意を残し、ひとまずデルロア中央駅を後にした。
食事は先の大型場車内で済ませてある。ならば買い物で時間を潰すしかない。デルロア市街地は南西自治国家の首都であるムアリアタに次ぐ巨大都市の一つである。整然と整備された石畳の街路を歩いていれば時は過ぎるとドルク夫人は思いながら足を動かしていた。左右に目をやれば様々な店がドルク夫人の興味を惹こうとてぐすねを引いている。港街よろしく海で採れた食材をいくつかと、まだ見ぬ孫の為に服を用意しようと生地と糸を数点購入した。少々歩き疲れたと感じる中、花屋の前を通り掛った。鳩が剣を銜えた紋章を用いた看板にドルク夫人は目を留めたが、これが何を意味するかは知る由も無い。以前何処かで見た事がある様な、とふと思うものの、その答えは判らなかった。ドルク家の庭には観賞用の植物は植えられていない。食卓を飾る綺麗な一輪でも、と花屋の簡素な扉を開く。店内に先客はいなかった。冬の厳しい寒さを前にして色鮮やかな花々の数は限られている。ブリキのバケツに投げ込まれている商品たちを端から順番に眺めていたドルク夫人の手がある一輪に伸びた。
「奥様、それは今年最後の一輪ですよ。」
使い込まれて黒光りする木製の作業台の前で若い女は手を動かしながらドルク夫人に声を掛けた。小さな可愛らしい黄色い花を付けた切花を用意している。恐らくデルロア市街地内のレストランのテーブルに飾られる予定なのだろう。
「最後ですか。とても綺麗な赤紫色の薔薇ですね。」
最後とはこの薔薇の時季もさることながら雪が降れば国外からの流通が制限される。二本の指で摘んだ茎を回しながら幾層にも重なる花弁の瑞々しい趣をドルク夫人は楽しんでいた。
「先日、ある方が亡くなり、葬儀に使うと関係者の方が買い求められまして。偶然にも一本だけ残りました。」
「そうでしたか。ところで、何て名前の薔薇かしら?」
若い女は困った。花屋に従事してまだ間もなく、ブリキのバケツの縁に薔薇の名前を記した貼り紙は水に掛かったのか、インクが滲んで読めない。しかも助け船を求めようにも知識豊富な店主は顧客の注文を取りに外出して三十分も経過していなかった。
「勉強不足で申し訳ございません。ただ、亡くなられた方の祖国の薔薇と聞いております。」
「そう…残念ね。」
商品名は解読不能となっていたが、値段の表記は鮮明に残っていた。西部銀貨二枚とは少々値が張るものの、輸入品なればこその値段とも言える。そう納得したドルク夫人は財布から鈍い銀色の貨幣を二枚取り出すと作業台の上に並べた。
「その亡くなられた御方も祖国の花に囲まれながら見送られて幸せでしょうね。」
物見塔の鐘の音が三回響いた。北方より大型馬車が到着した知らせである。買い求めた食材や布を小脇に抱え、名を知り得なかった赤紫色の薔薇を手にドルク夫人は花屋の扉を開けた。
「あら、雪…。」
冷たい結晶がドルク夫人の頬の上へ舞い降り、音を発せずに溶ける。遂に冬が訪れた。この分だと一日もしないうちに積もるであろう。あの白銀の長い髪の剣霊は四季の変化をどれだけの数を見てきたのだろうかとドルク夫人は空を見上げた。人間が見聞するよりも遥かに凌ぐ数であるのは理解している。その数だけ彼女の緑色の瞳は世の中の流れを静かに見守っていた。彼女には変わらずに過ごして欲しい。自らの祖母が語った様に、生まれてくる孫にも何時の日か語ってあげよう。おばあさんは昔、銀色の長い髪が大変美しい剣霊に助けられ、その剣霊の服のボタンを付け直してあげたのだと。母親となった娘には剣霊の話なんて、と小言を言われるかもしれないが、その頃には人間の剣霊に対する見方も変わっているかもしれない。姿かたちは変わらずとも心は変わる。それが人間だと数日間共にした一振りの剣は教えてくれた。
冬の息吹を感じる中、ドルク夫人は微笑と共にデルロア中央駅へと歩み始めた。
<ノエミリオ諸島編 完>




