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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第二章 ノエミリオ諸島編
28/75

絶望の匂い

 至天の園。その名の如くこれまでの知識に傾覆を促す未踏の場所は天にあり、人間が生活を営む大陸とは異なる気温に包まれていた。

 ユストの音無き息が白い。彼の最大の利点である音を発しない動作がにわかに瓦解の兆しを覗かせていた。白い息の流れは彼の呼吸を容易に見て取らせてしまう。呼吸を読まれるとは剣を振るう瞬間を見抜かれる事を意味する。剣を携える者であれば、呼吸を読み、察知し、これまでに培った生死を司る勘で相手の出方を測るのは定石である。しかし、相手は人間ではない。肉が引き裂かれる音と、吹き出る血の飛沫を渇望している獅子と思われる石像は逞しく、彫り上げたであろう人物が思い描いた架空の生物の雄姿を如実に表していた。その雄姿を構築する前脚が目下の獲物であるユストに狙いを定めているのが判る。果たして石像に対して動作の兆候を探れるのだろうか。均整の取れた筋肉が上下する訳でもなく、それこそ相手は呼吸とは無縁の存在である。言うなれば石像という重量を有した邪剣霊だと思えば良いとユストは己に言い聞かせた。相手を一撃で仕留めなくてはならず、相手も一撃でこちらの活動能力を奪うに違いない。自らの血が作り上げた敵は邪剣霊と同じかと、これまでの誇りを失った剣霊を狩り続けていた日々が彼の脳裏を掠める。追われ、手負いとなり、無情の刃の煌きが視界を遮り、魂を宿らせている刀身が砕ける儚き音と共に邪剣霊は闇の底へと、愛する者の手向けも無く消えていく。相手の立場を知るとはこの様な事か、と自らの今ある姿と立場にユストは内心で自嘲の笑みを零さざるをえなかった。

「自らに笑みを零すとはな。死期を悟って淡き過去でも覗いていたのか。」

 相対する敵の脇に立つ、創造を語るインファンティラの声が風に運ばれる。否応にも耳孔から進入し、脳を駆け巡り、心の襞を押し潰す勢いのある冷徹な神剣霊の次姉の声色はユストを現実へと連れ戻した。

「さて、そなたの血がどれほど無慈悲で猛り狂うものか、その身を以てに見せてみろ。」

 ユストは正面に構えていた白銀の刀身を持つ直剣の切先を静かに動かした。彼の左手は右目とほぼ同じ高さまで持ち上がり、脇を締める。彼の愛剣が最大限の威力を発揮する技、刺突撃の構えである。逆手に構えたのは踏み込むべき足の位置を測っての結果であった。だが、今の彼の姿からして負傷した右肩を気遣い、敵に晒すのを拒絶している様にも誰の目にも映るであろう。

 ユストの眉間に力が漲り、鼻から白い息が再び漏れた。もし時間というものが物体であるのなら、その物体がユストの中で左右に引張られ続けている。とても重く、耳障りな軋み音を立てながら限界まで引張られている。負傷した右肩に触れた柄の先端に血が付着した。白銀の長い髪を持つ剣霊が望みし血は二体の黒蛇の鋭い尾から強靭な胴へと流れ、精巧な彫刻の如く配置された鱗が浮き立った。

 腕を組んでいたインファンティラの紫色の瞳を持つ目尻が細くなった。

「黒髪の男よ、死に踊れ。」

 臨界点に達した。ユストの中で引張られ続けていた時間は耐え切れずに霧散する。獅子と思われる石像の神剣霊と同じ色で輝く三つの目が獲物を目掛け、剣霊使いという剣を知る者の視線が相手を射抜く。踏み躙る為にある強固な前脚が唸り、渾身の一撃に掛けた白銀の刀身が至天の園の空気を切り裂いた。

 勝敗を知らせる音は響かなかった。ユストの左頬を柔らかな風が撫で、血の匂いを際立たせる。獅子と思われる石像の前脚にある爪による裂傷である。有り余る体力ではなく意地と気迫のみで繰り出した刺突撃は相手の部位を正確に捉えていた。しかし、捉えていただけであり、貫いてはいなかった。切先を喉元に僅かに潜らせていたに過ぎない。押し込もうにも負傷した右腕を動かし、柄頭へ添えるのは不可能である。次の攻撃へと移るべく両脚に力を込めるユストの首と左手首、左足首に獅子と思われる石像が持つ三本の尾が絡み付いた。しなやかな尾に締め付けられ、動きを封じられたユストは右の膝から落ちる。感情を露にしない視線が剣を振るえない剣霊使いを見下ろしていた。

「人間は手と足を使うが、四足が相手を仕留めるのはここだと気付くべきであったな。生きながら食す事で相手を葬る。そなたの血の本性はなかなか酷だな。」

 腕組みを解いた神剣霊は鼻で短く笑うと共に白い指を獅子と思われる石像の口元へと運んだ。首を絞める尾が喉仏を押し潰そうとしている。高高度により酸素が薄い至天の園の空気がユストの黒い髪をいたずらに掬い、霞む意識を保とうと奥歯を噛み締める口が細かに震えていた。打開策は無いのか、出来る事は尽きたのか。程よく開いた獣の口は獲物に喰らい付きたいという昂ぶる衝動を描いている。だが衝動の抑止に限界が訪れたらしい。不敵な紫色の三つの瞳がユストを見据えたままおもむろに開いた口の奥で整然と並ぶ鋭利な牙の列はユストを絶望の縁へと追い込んだ。

 許せ、君との約束はここで終わる。愚生では力不足だった。

 自らの剣へ掛ける最後の言葉を己の中で発した直後、柔らかな青をした空の下で黒い閃光が迸った。硬い物質が切り裂かれる凄まじい音と肉体の組織が秩序無く崩壊する鈍い音がユストの耳を突き、彼が身に纏うコートの襟が風圧によってなびくと共に百年香の爽やかな香りが通り過ぎた。

 

 ユストと獅子と思われる石像の間に一人の人物の姿があった。

 左手に豪奢とも質素とも掛け離れた気品の佇む鞘を掴み、右手には片刃の細い刀身が黒々と妖しく輝く絶妙な孤を描く剣を握っている。ハガンを剣体へと戻したテヴァ・ザイロンが放った最後の一閃は何物の抗いを許さない斬撃を放ち、獅子と思われる石像を左下から右上へと分断した。そして何物をも屈服させようとする人間の血の暗い一面が産み出した悪しき化身は老練な剣霊使いの首元に牙を掛けていた。剣体とは言えどもハガンの斬撃は大気を切り裂き、あらゆる水分を無へといざなう。ユストの血を失った獅子と思われる石像はその屈強な体を塵と化し無の世界へ帰した。

 音無き口をユストは動かし、両脚を肩幅程度に広げ、両腕を垂らしながら佇むテヴァ・ザイロンの許へとにじり寄ろうとした。

「来るな、愚生殿。儂の後ろにおれ。」

 首元から止め処なく流れる血が腕を通り過ぎて手首へと、そして手首の先にある烏の濡れ羽色を思わせる刀身を彩っている。しとやかに輝く高貴な色と艶やかで生々しい色が混ざり合う有様はユストの伸ばした手を拒絶し、ユスト自身も更に手を伸ばそうとしなかった。

「己の血に倒されるとはあの世とやらでも気分が悪いであろう?」

 強大な意志を感じさせるテヴァ・ザイロンは自らの体から零れる血に目もくれず、一閃を描いたままの表情で言葉を続けた。

「故にこうしてしゃしゃり出たのだが、なかなかどうして愚生殿の血は凄まじきものを感じた。この儂ですらかわせぬ一撃を食らわせたのだからな。あの強気な銀髪のお嬢さんが欲しただけの事はある。」

 もう喋らなくて良い。もう動かなくて良い。立ち上がれないユストの位置からでは目を凝らそうとも逆光でテヴァ・ザイロンの口元しか見えない。偉大なる老錬の剣霊使いの右腕が再び動き、大気を切り裂く細い片刃の剣は狙いを定めた。剣体になろうとも己の契約者の肉体を蝕む傷を残した大地を語る神剣霊に対するハガンの執念が垣間見れる。あの涼しげな目許は今、妖しき黒の刃と化していた。

「老体よ、黙っていれば自ずと死を迎えたであろうに。些か性急だとは思わないか?」

 獅子と思われる石像を真っ二つに切断されようとも腕を組んだままであったインファンティラの指先が一定の調子で二の腕を叩いている。

「新しい方より古い方が先に果てるべきであろう?儂はそう思い、動いたに過ぎんよ。」

「つまらん。意地のみでに剣を向けるとはな。」

「人の生涯とは意地の張り合いの連続だ。今に始まった事ではないだろう。」

「ほぉ。ならば、そなたの意地とやらを少しは通してやろうか?」

 二の腕を叩く指先が徐々に強く、動きが大きくなる。

「剣を携える者は剣に死す。それ以上も以下も無いまことの意地だ…。」

「そうか。剣に死すか。」

 肩で息をし始めたテヴァ・ザイロンは構えを崩さない。僅かに動いた黒光りする刀身が陽の光を撥ね返し、インファンティラの冷酷な感情によって磨き上げられた整った顔を照らした。眩惑を誘ったのか。

「…終わったな。」

 小細工程度では動じない神剣霊の声は事実を語り、その事実に対して彼女なりの情という趣は感じ取れない。むしろ淡々と語る姿は判りきっていた事柄に僅かにも関心を寄せた結果とも言えた。

 テヴァ・ザイロンの体は遂に動かなくなった。虫の息とはこの事を指す為に生まれた言葉かもしれない。首元を負傷した事により流れ出た血が咽喉を覆い、言葉を発するのも困難にさせてしまった。やがては胃と肺が自らの血液で満たされ窒息するか、あるは流れ出る大量の血が血流循環不全を引き起こすかのどちらかが彼を死へと招く。手に取る刀身が僅かに動いたのは意思に従わなくなる腕を奮い立たせようとした最後の抗いの結果であり、インファンティラもそれを読み取っていたのであろう。

「邪魔だ、そこを退けろ。」

 インファンティラは手の甲でテヴァ・ザイロンの右肩を軽やかに叩いた。本人の意思に従わなくなった弛緩した筋肉が裂け、まだ体内に残っていた血と骨が神剣霊の何気ない一撃をかろうじて食い止めたものの、死を直前に控えた老剣士はあらゆる関節を硬直させたまま一本の棒の如く至天の園の地へと倒れた。

「先達の想い叶わず、か。まぁ、良い。」

 手の甲に付着したテヴァ・ザイロンの血を舐め取ったインファンティラの唇が妖しく艶やかに歪んだ。

「黒髪の男よ、そなたが共にあれば老体とてあの世とやらでも淋しく無かろう。」

 闇をも呑み込む漆黒の髪が風に揺らぎ、赤と黒の世界、言わば生と死を物語るドレスの胸元から脇にかけて数本の皺が寄った。未だに起き上がれないユストの心臓を貫かんと肘を引き、整然と並んだ四本の指が淡い青色の空を覆う。今度こそ助からないのかという思いは時の流れが緩やかにさせ、至天の園の冷ややかな空気が肌を刺す感触が否応にも強く感じられる。死を間近に控えた者だけが知る感覚はユストの目から力を奪い、食い縛る奥歯を楽にさせた。

 足音が聞こえる。四本の脚を滑らかに動かしている音の中に荒い鼻息が混ざっている。大陸のあらゆる場所で耳にする事が可能な、馬が奏でる音である。この場に馬がいるのか、誰が来たのかとユストの細めた目が怪訝の色を滲ませ、仕上げの一撃を繰り出さないインファンティラも状況を把握しようと紫色の瞳を左の目尻の方へと動かした。

 音と共に凄まじい殺気が神剣霊と剣霊使いに向けて押し寄せていた。何もかも呑み込み、抵抗は言うまでも無く、拒絶すら許さない勢いはもはや殺気の域を超えている。死という絶望の匂いがユストの顔を横へと動かし、インファンティラの口は静かに言葉を発した。

「…サリシオンか?」

 弱りきった獲物を仕留めんとしていた神剣霊の無情な指は新たな敵を感じ取り、その強大かつ比類無き力の出方を覗おうとしているのがユストには判った。それよりもユストが顔を動かした先にまだ見ぬ神剣霊の長姉の姿があるのか。始まりの剣霊であり、全ての剣霊の絶巓を語る存在は朦朧としていたユストの視線に映り込まんとしていた。


 そこに剣霊と思しき女の姿は無かった。名の知れぬ純白の花々に覆われた世界の中央で馬上の貴人が右の脇に長尺の得物を抱えていた。深い艶を放つ青毛の馬の背には古代文字が所狭しと記された群青色の布が被され、その上で見事な威丈夫が左手で手綱を取っていた。威丈夫は漆黒の服を纏い、厳かに金色で縁取られた袖を吹く風になびかせている。顔は青毛の馬と同じく群青色の布で覆われ、その顔立ちは勿論の事、表情も見て取れない。

「久しいな、相容れぬ妹よ。」

 威丈夫らしい声は男のそれであり、神剣霊独特の耳の奥を撫で、脳を揺さぶる声ではなかった。だが、人間としては低いながらも良く通り、声の発した者の揺るぎない威厳と並みの者では達しえない神秘性を思わせるには充分であった。

に用が有るのなら、この老体の様に剣霊と契約した人間を仕向ければよかろう?無論、その際には儚き命が一つ消え、人間の意思が宿りし剣霊が望んだ血潮がを潤すのだがな。」

 ユストを目掛けて伸ばしていた指の束を楽にしたインファンティラは鼻で短く笑いつつ神剣霊の長姉を語る威丈夫へと体の向きを変えた。距離にして二十メートルはある。深い青毛の馬が脚を動かすとその周りを囲む名の知れぬ純白の花々は頭を下げ、枯れ果てた。

「近頃、相容れぬ妹が人間と戯れていると愛する妹より聞いてな。」

「ほぉ。」

「人間を前にしたそなたがどの様なつらをしているか、それを垣間見るのも暇つぶし程度にはなろうと余は思ったが、少々期待はずれであった。」

「どういう意味だ?」

「以前、余は愛する妹の契約者の頭を撫でながら、むやみに蟻を踏むなと教えた事がある。するとあの幼き人間は目が見えないから仕方が無いではないか、ならば外に出ないでこの場に留まると反論をした。」

「…何が言いたい?」

 インファンティラの紫色の瞳の上を彩る整然とした細い眉が痺れを切らしたといびつに歪んだ。

「余はむやみに、と言ったであろうと付け加えると、あの幼き子は判ったと返事をしてな。単純にも力強い頷き具合は人間の未来とやらに干渉せずとも良かろうと余に思わせるのに充分であった。」

「絶望を抱きしの姉よ、まさかに生命の何たるかを説こうという訳ではなかろうな?」

「それは愛する妹が説くべき内容ではないか。余は各々が持つ力の使い道を誤らず前に進めと幼き人間に教えたに過ぎん。使い道を誤った姿とは哀れを通り越して滑稽としか言い様が無いからな。」

 神剣霊の長姉を語る威丈夫の口調に合わせて深い青毛の馬はおもむろに、円を描く様に脚を動かしていた。脚を動かす度に次々と枯れ果てる名も無き純白の花々に向けて威丈夫は群青色の布の下でどの様な表情をしているのか。

「つまり…が滑稽だとそなたは言いたいのか?」

 いびつに歪んだ眉の下で切れの長い目尻が鋭さを増す。常に冷静であり非情の象徴である紫色の瞳に力が込められた。威丈夫の右腕が僅かに動き、得物の石突付近が乾いた音を発する。視力では捉えられない真空の刃が馬上の威丈夫を目掛け、それを難無く防いだ結果を知らせる瞬間の出来事であった。

「わざわざその様な痴れ事を伝えに、今亡き者の姿を借りての前に現れるとは。サリシオン、そなた、少々今の世に長く留まり過ぎた様だな。」

 今亡き者とは誰を指しての言葉であろうか。剣霊帝と崇められる絶望の剣霊サリシオンの姿は幼少のシェス・ロウの言葉を借りるならば大変美しい女性だとユストは聞いている。だが、ユストの思惑には目もくれず、威丈夫は顔を覆う群青色の布の端を吹く風に身を任せていた。

「余があるべき姿で動けば全ての人間が息絶える。さすれば、そなたもこうして人間と戯れるのも永遠に叶わなくなるのだがな。ささやかな楽しみを奪われてはそなたも困るであろう?」

「困りはしない。むしろ早く人間を滅ぼせと願っているところだ。」

「それはそれで叶わぬ願いだと遠き昔に伝えたであろうに。」

 威丈夫は顔を覆う群青色の布の奥で短い失笑を漏らし、右の脇に抱える得物に再び指を掛けた。羊の角を模した穂先を持つ槍である。中心に太い一本が走り、その脇を交互に段違いで四本の短い穂先が備えられている。それぞれが呻く様な捻じれ具合は、心の奥底に蟠る憎悪が作り出した工芸品の如く暗い佇みを帯び、見る者には畏怖の念を抱かせ、穂先を向けられた者は体が震え、あらゆる気概を削り取られるであろう。五叉の槍という言葉がユストの中で生まれ、顔を群青色の布で覆った人物の名がユストの中で轟いた。これが在りし日の姿かという思いは生気を失いかけていた目を見開かせた。

「さて、相容れぬ妹よ。そなた、愛する妹を苛ませたようだな。」

「だとしたら?」

 インファンティラが一歩前へと進み、威丈夫も手綱を握る手を上下に動かした。

「愛する妹の瞳は強くも美しい哀れみの色で染まっていたか?」

「知るか、その様な詮無き事を。」

「そなた、あの者の姉であろう?」

「サリシオン、そなたもの姉だ。その思い、形を変えずにそのまま返すぞ?」

「余に楯突くか。故に余はそなたを相容れぬ妹と呼ぶのだが、因果とは人間だけのものではなく、万理に及ぶとはな。」

 大地を語る神剣霊の姉妹が刃を交えんとしていた。

 駆ける馬と共に名も無き白い花々は虚ろな茶色の世界を広げ始める。蹄に掛かった枯れた植物は無残にも青い空に舞い、顔を覆う群青色の布の端が踊った。インファンティラの漆黒の長い髪が羽の様に広がり、彼女の纏う赤黒いドレスの模様が映え渡る。繰り出された五叉の槍と刺突撃を放った細い指の先端同士が交差した。大地を語る双方の力の激突は操る青毛の馬に苦痛の嘶きを発させ、顔を覆う群青色の布はその身を縦に裂けさせる。もう一方は紫色の瞳を冷酷から激昂の色へと変化させ、広がる長い黒髪に地の味を舐めさせる。

「そなたも姉であるのなら、少しは愛する妹の心中とやらを酌んでみてはどうだ?」

 不本意にも膝を折るインファンティラに向け、馬上から威丈夫が差し伸べるのは姉を語る優しき手ではない。数多の戦いで抗う者を容赦なく薙ぎ、無敗を築き上げた覇者たる由縁を示す五叉の槍の妖しく光る先端である。

「あの者の心中を酌むか。絶望を抱くの姉が情けを説くとは、それこそ滑稽の極みではないか。」

 苦し紛れのインファンティラの言葉に威丈夫は動じない。五叉の槍の先端は正確にインファンティラの眉間を捉えている。嘶きを止めた青毛の馬は、背中を預けた主から次の行動の指示を与えられるまで脚を動かそうともしない。動いていたのは縦に切れ込みを入れた群青色の布だけである。はらはらと風に弄ばれる姿の下で威丈夫の口元が晒されようとしている。言い換えるならば、それは晒してはならないと吹く風に群青色の布が抵抗している様にも見えた。

「愛する妹は今ある全ての生物を慈しんでいる。例え大地がどの様に蝕まれようとも、あの底無しに澄んだ双眸は余やそなたでは到底出来ぬ優しさを絶やさない。だがいつの日か、その瞳から哀れみと慈しみが色褪せた時、余は腰を上げる機会だと判断している。余が役目を終えればそなたは自ずと使命をまっとうし、人間に代わる新たな生命を産み出す。そして残された愛する妹は使命を終えた二人の姉を失い、一人で末永き時の流れに身を委ねる。果たしてそなたが産み出した人間に代わる存在を、あの者は今と同じ瞳で見守るのだろうか。」

 絶望の剣霊の内心を語る威丈夫の自問に近い問い掛けに対し、創造の剣霊は何も答えない。枯れ果てた花々の上で不規則に渦を描く漆黒の長い髪も微動だにしなかった。

「そのままで良い。」

 覇者たる者の頼もしさを感じさせる声はインファンティラに向けられたものではない。初めて目の当たりにする剣霊帝を語る威丈夫の前で横になっているわけにはいかないと、白銀の刀身を持つ剣を地に刺し、立ち上がろうとしていたユストと横になったまま命の灯火が揺らめいているテヴァ・ザイロンに対してである。

「案ずる必要はない。相容れぬ妹は余の一撃を受けて数時間は動けない。」

 神剣霊の力は姉である存在が妹を凌駕する。この理は長姉と次姉の間でも覆される事は無かった。

「テヴァ・ザイロンよ。御身にはいろいろと苦労を掛けたな。」

「…サリシオン様であられますか。いったいそのお姿は…?」

 口から血を流しているテヴァ・ザイロンは残り僅かな力を振り絞って声を出した。とても弱々しい響きは、気管が耳にしたくない無惨な音を発しつつも彼の剣を携える者としての、特殊番号を与えられた者としての矜持を貫いていた。

「余が最も知る男の姿を借りたに過ぎん。本来ならば有るべき姿でそなたの最期を見届けるべきであるが、余がその姿で動く訳にはいかん。許せ。」

「許せとは、その様なお言葉、この老体には勿体無い…。」

 威丈夫は手綱を握る手を動かし、傷付いた二人の剣霊使いの許へと近寄った。だが、その移動距離はほんの僅かにしか過ぎない。ユストとテヴァ・ザイロンの数歩手前にある、鮮やかで重々しい血の色で所々に化粧を施した花々が枯れ始め、化粧の材料であった血は冷ややかな至天の園の大気へと消え失せた。

「仮の姿であるが故、余の余りある力が御身の偉大なる手を取るのも拒んでいる。この点も許せ。」

「それこそ余りあるお気持ち…。」

 テヴァ・ザイロンの気管が血で覆い尽くされようとしている。もう声は出せない。絶命を待つだけの肌の色と化した者を見下ろす威丈夫は静かに口ずさんだ。

「御身の死、余という大地の記憶に深く刻んでおこう。心置きなく旅立たれよ。」

 やや俯き気味であった威丈夫の頭が元の位置に戻る。その視線の行きつく先はユストに向けられていた。

「なるほど、御身が七十二の者、ユスト・バレンタインだな?」

 音も無く枯れ果てた花々の先に見える威丈夫にユストは頷いて答えた。剣霊の頂点を頂く存在を前にしようと剣霊障により今の彼は声を発せない。内なる言葉よりも行動で答えるのが最善と判断した結果である。

「マナエグナの血が流れる剣霊が認めし男か。イルセリアは達者にしているか?」

 威丈夫の言葉はユストの左手に握られた白銀の直剣を知った結果であろう。やはりイルサーシャとはイルセリアと呼ばれたマナエグナが崇めた神なのか。だがこの仮説はイルサーシャの魂魄を守る二匹の従者に一蹴されている。真実は何処に有るのか皆目見当が付かない。何と答えれば良いのか考えあぐむユストの返事を待たずに威丈夫は言葉を続けた。

「しかもこの姿が遠き過去に潮流を紡ぎ出し、数多の人間を導いた唯一の者と知っているようだな。ユスト・バレンタインとは愛する妹が目に留めただけの事はある。」

 右手に持つ五叉の槍の先端がユストへと流れ群青色の布が揺れ動いた。僅かに覗いた顎先は端正であり、屈強な意志を持つ頼り甲斐のある男を象徴し、程よい肉付きの唇は彼の言葉の端々を彩る一役を担っていたのであろうとユストは目を見開きつつ思った。何故、思ったのか。目の前の人物が過去の者でその名を知ったからではない。その晒された肌が鏡に映った自らの左の首筋と同じ様相をしていた為である。音を発せないユスト自身が声を出せるのではないかと思う程の驚愕の事実を彼は知ってしまった。

「しかし、御身はイルセリアの加護を受けし剣を横に置く者。余すら測り知れぬ回り合せの悪戯と人間の不渇の魅力を愛する妹は吟味したか…。」

 馬上から投げられた五叉の槍が一条の光を描き、立ち上がろうとしていたユストの右肩を刺し貫いた。仮の姿とは言えども、見てはならない剣霊帝の存在及び顔を覆う群青色の布の内側を目の当たりにした報いなのか、あるいは愛すべき妹を知ってしまった者に対する姉による大地の制裁か。しかし、不思議と痛覚が暴れる事は無かった。既に感覚が麻痺しているのかもしれない。しかも刺さる槍の重量すら感じられない。肩に刺さったままの五叉の槍が持つ鍛え上げられた鋼の柄へとユストは目を動かす。物質が内部から崩壊するかの様に塵となり、五叉の槍はユストの視界から消えた。

「御身の肉体を狙った訳ではない、相容れぬ妹に付けられた傷を貫いたまでの事。もう暫く御身には命の灯火を燃やし続けて貰おう。」

 インファンティラの斬撃を受けた者はその傷口が生命を欲するかの様に熱を奪う。その傷の活動力を抑止したという事か。風は吹かず、まさに流れる時が威丈夫に敬意を払い、息を潜めている。威丈夫は手綱を両手で握ると馬へ脚を動かす様にとおもむろに指示を与えた。主を畏れているのか、主に絶大なる信頼を寄せているのか、布で覆われていようとも青毛の馬は自らの背に乗る者の意思に添おうと軽やかな足取りで中心部へと向かった。積もりきった深雪が溶けるかの如く、柔らかな純白の世界が朽ちた茶色のそれへと、生から死へと変化する。西端の神殿と同じく、至天の園の中心部では台座と思わしき物体が淡い光を放っていた。

「この空の地は今無き人間の物。今の人間が立ち入るにはまだ早い。相容れぬ妹が再び動き始める前に元の地へと帰るが良かろう。」

 威丈夫の手が淡い光の源へと伸びる。生命の鼓動を思わせる輝きは時代の潮流を築き上げた唯一の存在の掌へと吸い込まれた。その光景は至天の園とて剣の絶巓に屈し、息絶えたかの様にユストには映った。淡い光を吸い込んだ掌がインファンティラと対峙した二人の剣霊使いに向けて広げられた。眩い光が辺りを包み込む。西端の神殿から至天の園へと移動した際と同じ現象に身動き出来ないユストは目を細めるしか術がなかった。適度な距離を保ちつつ語り掛けていた威丈夫と時を止められたままのインファンティラの姿が霞み始める。戦いは終わったのか。いや、終わらせられたのか。肩で息をするユストの耳は威丈夫が発した最後の言葉を逃さなかった。

 コノリギスにて御身を待つ。

 馬を返した威丈夫の背中が薄れ、今無き人間が作り上げた至天の園は遠くへ、遥か彼方へと消えた。

 

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