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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第二章 ノエミリオ諸島編
27/75

至天の園

 なぁ、ユスト。そなたは剣霊であると契約を交わした。あらゆる機智を凌駕する力をそなたは得、の力を惜しむ事無く発揮する。一方のは降り掛かる障害を貫き、如何なる苦難を斬り裂き、そなたを守る。しかし、世の中とはそれぞれの思い通りにならないものだ。人間は勿論の事、剣霊とてその例に漏れない。願わくば、そなたの命が自然と燃え尽きるまでの間、世の中の変遷を共に見て、感じ、語り続けたいものだな。

 五年前、イルサーシャの剣体を握る権利を得てから間もない頃の彼女の言葉である。あの時は右の手で握り、初めて遭遇した邪剣霊との戦いで薬指と小指を失った。血が滴る切断部を彼女なりの優しさを込めて両手で包み込んでくれ、その温度は冴える刃の冷酷さが感じられたのを今でもユストは覚えている。手袋越しとは言えども、右手に視線を落とす度に彼女の言葉が脳裏を過ぎり、ふと淡い感傷に浸れた。

 今の利き腕となる左手に握られた白銀の直剣が誇る長い刀身は柔らかな陽光を浴び、血抜き部分に絡みつく二匹の黒蛇は眩しげな表情をせずに物静かに威圧感溢れる睥睨を保っている。睥睨の先には西端の神殿と言われる建造物が構えていた。西端の神殿は石造りではなかった。橋梁と同じく、名も知らぬ金属で構成された壁面に経年の劣化は見受けられない。寸分の狂いも無いと思われる同じ規格の部材で組み立てられた建造物は規律と調和を見る者に思わせる。だが、そこに人の手の温もりは感じられない。剣霊特有の温度とは種別が異なる冷たい佇まいは西端の神殿にとって久々に訪れたと思われる者たちの顔を上へと向かせた。

「なんとも表情の無い建物ですこと。」

 ユストの心の内をハガンが代弁した。ノエミリオ本島に構えるテヴァ・ザイロンの住居から眺められる西端の神殿は深い靄に包まれてその全容を知るには至らなかった。だが、靄が晴れた今は違う。平面で構成された建造物の中央には細長い塔があり、天高くそびえている。雲を貫かんと語る西端の神殿とは有史以前の人間が持てる技術の粋が産み出した結晶なのだろうか。煙草を銜えていたユストの口の端が緩み、吸い込んだ煙が漏れる。吹く風に身を任せる煙は規則性の無い形を、毎回違う形を見せてくれる。そこに趣を覚えるかどうかは見る者次第ではあるが、少なくとも次なる戦いを目前とした者の昂ぶる気持ちを和らげていた。煙が掻き消える有様を目で追っていたハガンは体の前で重ねていた手を入れ替え、険しい面立ちのままのテヴァ・ザイロンの目尻は更なる細かな皺を走らせた。

「ハガンよ、表情が無いとは何を思い、何を考えているか他には判らないものだ。果たして建物の中に潜む敵の表情は感じられるか?」

「いいえ。殺気を放つ者はおりませんわ。」

「では、圧し殺している者はどうだ?」

「殺気とは押し殺そうとも微細ながらにも漏れるものです。その様な芸当、の前では無意味なのはテヴァもご存知でしょう?」

 そうか、と無言で頷いたテヴァ・ザイロンの足が一歩前へと動いた。この場は剣霊協会から特殊番号を与えられた者の考えを優先すべきであり、疑う事無く従うのが最善とユストは彼の一挙一動に意識を傾けていた。彼に遅れまいと足を動かした銜え煙草のユストは左手にハガンの淡い褐色の瞳による視線を感じ、彼女へと顔を動かした。

「ところで、イルサーシャを霊体へと戻さないのでしょうか?」

 淡い桃色をした袷の袖が風に身を任せて揺らいでいる。薄暗く不気味な静けさを纏う西端の神殿の装いを前にしてもハガン特有の凛とした雰囲気は健在であった。ハガンと同じくユストも自らの左手に視線を向ける。そして静かに意志の強さを表示する様に首を横に振った。

「愚生殿なりの思慮の末だ。それ以上の詮索は必要無かろう。」

 テヴァ・ザイロンが放つ老人特有の低い声は説得力を伴い、剣霊であろうとも抗えない響きを有している。傍から見れば好々爺にとって自慢の孫娘と思われても否めないハガンは微笑の形を端正な口元に与えた。

「なるほど、判りました。とは言え、この先も油断は禁物ですわ。とてインファンティラの気配だけは読み取れませんから。」

 淡い褐色の瞳を中央に据えた目尻を細めた後にハガンは踵を返し、ユストに白い項を見せた。確かに思慮の末の結果であった。一つは戦意を喪失し、動揺を露にした剣霊が万全の能力を発揮出来るとは考え難い。次にインファンティラと相対した際に、彼女はマナエグナという言葉を必ず発するに違いない。たった一つの言葉がまるで柔らかな紙の上に落とされた水滴の如くイルサーシャの中で広がり、鋭利な刃は動きを抑制され、不屈の輝きは陰りを見せる。剣に不安を与えるわけにはいかない。与えてしまっては共倒れとなる。共倒れとは死を意味する。誰も説明が出来ない中でこの言葉を使われるのは是が非でも避けなければならないとユストは考えていた。だが、いつの日かイルサーシャはマナエグナについて向き合う時が訪れる。その時の彼女はどの様な心境なのだろうか、また自らはどの様な表情をしているのだろうか。前を歩くテヴァ・ザイロンの頼れる背中とハガンの風に踊る後れ毛を眺めつつユストは左手の白銀の直剣を握り直した。

 西端の神殿の出入り口に扉は無い。壁面と同じと思われる素材を削り出した、華麗な装飾を施された巨大な二体の女性像が腕を伸ばし、互いの人差し指の先端を重ねている。さしずめ趣向に凝った門といったところか。彫刻とは言え、女性像が何食わぬ顔をして未知の世界を求める来訪者を手招きをしている。神殿内部に照明は無く、出入り口に差し込む陽光が内部の様相を仄かに教えてくれた。床一面に蔦と思われる植物がはびこっている。その葉の色は緑なのか黒なのかは光の悪戯で判らない。幽暗な雰囲気に物怖じせずに前へ進むハガンの動きが止まった。

「これは…何時のものでしょう?」

 一体の骸を指差すハガンの透き通る声が適度な残響を纏っている。静寂の空間に足を踏み入れた者の末路を身を以て教示しているかの様な骸の前でユストは膝を折った。虚ろに開けられたままの口は恐怖と絶念が引き起こした結果と思われる。安堵とは無縁の最中に命を落としたのであろう。哀れな骸が身に着けている服の袖には南西自治国家の国章が見て取れた。西端の神殿へ派遣された調査団の一員に間違い無い。まるでしゃぶり尽くされたかの様に乾ききった骸の表面にユストは手袋越しの指を這わせた。

「愚生殿、如何なる敵の仕業か判るかね?」

 テヴァ・ザイロンが右腕を押さえながらユストに問い掛けた。過去に受けた傷、インファンティラによる斬撃の跡が疼くのであろうか。倒すべき敵は近い。敵と言う言葉にユストはある事に気付いた。敵となる対象にも幾つかの種類がある。この骸は五体満足のままであり、人間もしくは邪剣霊の斬撃による骨の損傷や切断は見受けられない。鈍器を用いれば骨に打痕もしくは粉砕の形跡がある。獣に襲われた場合、強靭な顎で噛み千切られるか狂猛な爪で裂かれるかなどで衣服は破れ、骨は散在する。しかも調査団が派遣されたのはごく最近ではないものの、遥か遠い昔の出来事ではないと聞いている。この骸が静かに語り続けている敵の正体とは、とユストは杖の様に突いたままの白銀の長剣の刀身に視線を投げた。薄闇の彼方に気配は感じられない。そもそも敵の存在は剣霊であるハガンが先に気付く筈である。その彼女の目許は涼しさを保ち続けている。釈然としないまま、折っていた膝を元に戻そうとした時、ユストはある異変を知った。立ち上がれない。折った足に蔦が絡まり、動きを封じ込められていた。

「どうやら先手を取られたようだな、愚生殿。儂も動けんよ。」

 険しい顔を崩さないテヴァ・ザイロンは足元を指で示した。ユストと同じく蔦が絡まり、微細な音すら立てずに上へと這っている。

「焦って手で引きちぎろうとしてはいかん。腕を持っていかれてしまうぞ。」

 テヴァ・ザイロンの咄嗟の判断に間違いは無い。腕の自由を失っては剣を扱えなくなる。だが、このまま黙って蔦が絡まる様子を見守り続けろと言うのか。

「ハガン、そなたは動ける様だな?」

 冷静さを保つ中で初めて的確な状況把握が可能になる。その理を知っているテヴァ・ザイロンの老練な視線はこれまで共に戦い続けてきた剣霊の足元を捉えていた。

「えぇ。御指示を。」

「そなたの全力を以て、このわずらわしい蔦を薙ぎ払うのだ。」

 頷きや返事をせずにハガンは腰を落とすのと同時に右の掌を左の腰の脇に添えた。その姿は佩いている剣を鞘から抜かんとしている様にユストには映った。万物を超越した剣速を誇る刹那の剣霊のゆったりとした構えは見る者の視線を釘付けにし、閉じた目の先にある流麗な目尻に力が込められている。この蔓延る蔦をどの様に斬るのか彼女の中で表象が描かれているのであろう。

「お二人とも今しばらくは決して動かないで下さい。」

 彼女の瑞々しい唇は言葉を発した後に真横に結ばれた。開かれた目の中にある淡い褐色の瞳は女のものではない、剣霊のみが持つ凄まじき瞳である。右手が迷いの無い一閃を描いた。大振りな横薙ぎはハガンの体を半回転させ、片膝を着かせた。勢いによる風圧によるものか、無造作に結い上げた髪が乱れ、髪留めが床を打つ。薄闇の中で烏の濡羽を思わせる長い髪が艶やかな色を放つと共に蔦が弾ける音が響いた。

 足に絡まっている蔦の巻きつく力がおさまった。哀れな蔦に触れたユストの指は乾燥しきった感触を教えてくれる。先程、西端の神殿に入る前にハガンの斬撃は大気を切り、真空を作り出すと語った。行き場を失った鋭利な大気が蔦を刻んだのだろうか。いや、違った。ハガンの全力による一閃は蔦の周囲のみに真空を作り出し、急激な気圧の変化は蔦の内部において水分が反応して気化となり、内側から破裂させたのである。剣霊がその身を用いる時は相手を確実に死へと至らしめる。煌く刃は相手の肉体を削ぎ、活動能力を著しく低下させて死の奈落へと蹴落とす。しかし、ハガンという剣霊は自らの刃を汚す事無く、しかも予想だにしない技を有している。孤高の絶技が繰り出された余韻が薄暗い空間と相まって調査団の一員のものと思われる骸の白い表面を際立たせていた。

「ユスト・バレンタイン、の技をくれぐれも公にしないで下さいね。」

 落ちた髪留めを拾うハガンの髪はしなやかな孤を描いていた。直剣よりも曲剣の方が抜きざまの速度は乗る。ほぼ真っ直ぐに近い孤を有する烏の濡羽色の髪を見つめたままユストは落ち着いて頷いた。

「それはさておき、とした事が不覚でした。まさか植物が襲い掛かるとは…。」

 実際にハガンに向けて蔦は攻撃を仕掛けなかった。ユストとテヴァ・ザイロンに対しハガンが明確に異なる点を挙げるのであれば、生命の有無である。剣霊は呼吸とは無縁であり、絶え間なく鼓動を奏でる心臓を持たず、四股を動かす為の体温の保有はおろか、動かした際の熱を発しない。視覚を有さない植物が捕食対象を捉える為にはこれらの要素に敏感に反応するしかないのでは、とユストは見ていた。

「恐らく吐く息でこやつらは感知したのだろう。どうも光は端から苦手であったようだな。」

 テヴァ・ザイロンは説明と共に白い鬚を蓄えた顎で出入り口の方をしゃくった。確かに出入り口周辺には蔦が絡まず、境界線を越える事無く所狭しと床に這っていた。ここで言う境界線とは陽光の届く範囲である。蔦を形成していた組織が粉末となり、西端の神殿内の床を打つユストとテヴァ・ザイロンの靴の音が響き始めた。甲高くも無く低過ぎずも無く、来訪者を拒む様な硬く冷たい音の先に目的地は在り得るのかと不安と焦慮が折り重なった感情が圧し掛かり始めている。来訪者たちは神殿内に施された彫刻や造形は勿論の事、蔦の残骸に視線を落とさずに前へと進む。所々で先の調査団の同僚と思われる骸とユストは目を合わせたが、既に彼に表情を与えるまでには至らなかった。ユストがようやく眉間に皺を寄せたのは西端の神殿の最深部がその姿を現し始めた時であった。

 床に模様が描かれ、中心に台座と思しき存在がある。神殿と言われるだけに崇拝の対象に敬虔の顕れを捧げる為の台座か。ユストの膝ほどの高さを有する六角形の台座は仄かな青白い輝きを脈打つ様に発している。まるで西端の神殿が生きているかの様な不可解な光景はユストの左腕に警戒心を与えたが、力を込めさせたのは違う理由がある。台座の後ろに女が立っていた。脈打つ輝きが彼女の様相を来訪者たちに伝える。あらゆる事象を拒まんと漆黒の長い髪は彼女の身を包み、高潔な白い肌を守っている。身に纏うドレスが奏でる赤黒い世界は生命の息吹と終焉を見る者に思わせる。大地を語る神剣霊の中で新たな生命を生み出す為に遣わされたと伝えられる次姉は閉じていた紫色の瞳をユストの前に見せた。間髪入れずにハガンが飛び込みざまに左から右へと横薙ぎの斬撃を繰り出す。腕の動きを視覚で追って回避を行うのはほぼ不可能と思われる彼女の一閃が乾いた音をユストの耳に届けた。創造の剣霊インファンティラは親指と人差し指の二本でハガンの整った指先を掴み、刹那の動きを止めていた。

「再びに挑むか。そもそもは過去に敗れたそなたたちを招いた覚えは無いのだが。」

 万物を圧倒する力の片鱗を見せ、万物を服従させる声にハガンは屈せず、流麗な目尻を更に細くさせた。

「敗れた訳ではありません、狩るべき対象を討ち漏らしただけの事ですわ。」

 自らに言い聞かせる様に語るハガンの一閃を繰り出した腕が細かく震えている。彼女が持つ不倒の精神と鋭利な刃がインファンティラに押さえ込まれようとしていた。

「狩るべき対象か。大地を汚す事しか出来ぬ人間らしい考え方だな。その愚かしい考え方故にを凌駕するもままならないとその身に刻むべきではないのか?」

 目の前のハガンに短い失笑を与えた後にインファンティラの紫色の瞳がテヴァ・ザイロンを捉える。笑う事が出来ない彼の顔が激痛に耐える表情を作り上げた。敵う筈も無い者に付けられた傷が生みの親と再会し、歓喜の声を上げたかの様にテヴァ・ザイロンの体を蝕み始めたに違いない。堪らずに片膝を床に付けた老剣士の前を庇う様にユストはインファンティラの前に立ちはだかった。

「ほう。マナエグナの血に認められし黒髪の男よ、今回は頼みとする剣霊を端から剣として扱おうというのか。非力な人間にしてその度胸、少しは買ってやろう。」

 ユストの左手に握られた白銀の直剣に合わせていたインファンティラの視線が敏速に動いた。右手の動きを封じ込まれようともハガンの戦意は挫かれていなかった。空いている左手が動き、淡い桃色の裾がなびく。ハガンは刺突の構えをとったが、動きを止めた。厳密には止めざるを得ない状況に陥ってしまった。刹那を語る剣霊が微動だに出来ない理由はインファンティラが空いている指の先をハガンの額の中央に添えた為である。

「どうだ、狩るべき対象に命を握られた気分は?そなた、剣霊の中でも屈指の実力を有しているようだが、所詮人間の意思によるもの。大地のそれには遠く及ばんと知るが良かろう。」

 インファンティラが少しでも指先に力を込めればハガンの身は崩壊する。例え自らの剣でなかろうとも、剣が折れてはならない。折れた剣とはなんとも惨めであり、これ以上の悲愴感をユストは知らず、また見たくはないと思った。白銀の直剣を握る左手が動いた。台座から発する仄かな光を撥ね返している白銀の刀身が下から上へと煌く。インファンティラの脇を狙った切上げが繰り出され、左腕に走った衝撃が手応えを教えてくれる。だが、次の攻撃へと移る構えを忘れたかの様にユストの目は見開いたままとなった。

「双方共に哀れだな。」

 インファンティラの神剣霊然とした言葉の響きが終わると共にハガンの腕を彩る淡い桃色の袖が揺らめきながら床に落ちた。床に描かれた模様が無念を伴った袖で覆われる。ユストの斬撃をインファンティラは二本の指で捕えていたハガンの腕を動かして食い止めていた。

「…の身でしたら平気です。それよりも、あなたの剣であるイルサーシャの方は大丈夫ですか?」

 ハガンは涼しげな目許に闇を与えたまま歯を喰いしばっていた。イルサーシャよりも背が低く、先程見た垂らした髪の長さから判断するに、剣としての重量はハガンの方が軽いと思われる。加えて男女の腕力の差は歴然であり、強いて言うなれば剣を扱う者と剣として扱われる者の激突は剣の損傷を気にするよりも一撃必殺を信条とする剣霊と剣霊使いの矜持に深いひびを刻んでしまった。

「さて…余興は終わりだ。」

 インファンティラは冷酷な微笑と共に刹那の手刀を捕らえている二本の指を動かし、ハガンはよろめいた。ユストの斬撃の衝撃がまだ残っているか、おぼつかない足取りのまま、テヴァ・ザイロンを背中にして片手を床に着けた。項垂れたままでありたい顔をインファンティラへ向けるのがやっとという状況であろう。

 余興は終わったとインファンティラは語った。思えば大地の意思を語るインファンティラは刹那を語るハガンの攻撃を軽々と受け止め、ハガンの契約者たるテヴァ・ザイロンを見つめ、ユストの斬撃を受け流しただけである。彼女からは何も仕掛けていない。如何なる攻撃を繰り出すのかとユストは白銀の直剣を自らの体の前に斜めに構えた。攻防どちらにでも対応できる構えである。鋭利な切先の奥でインファンティラの先程までハガンを摘んでいた指が動いた。神剣霊のみが発する凄まじい殺気は感じられない。

「そなた、これが何か判るか?」

 動いた白い指が台座と思しき物体の上部に触れた。問い掛けに応えるべく、ユストは構えを崩さずに首を短く横へと振った。

「そなたたち人間が作り出したものだ。そう、遥か昔の人間だ。」

 遥か昔の人間とは、この西端の神殿を建造した個人を指している訳では無さそうである。訝しむユストの表情を読んだインファンティラは鼻で笑うと彼女の言うところの人間が作り出したものに触れている再び白い指を動かした。仄かな青白い輝きが力強いものとなる。辛うじて保ち続けていた鼓動が息吹を吹き返したかの様に、本来のあるべき姿を誇示せんと青白い輝きは閃光と変化した。

 インファンティラが動かした指は光の世界を織り成し、周囲を飲み込んだ。


 眩惑という現象から開放されつつある。視覚のみならず聴覚まで一時的に機能を奪われた感覚は攻防の構えを保つユストの両脚の筋肉に緊張を走らせた。身動きできない中、インファンティラのあらゆる事象を拒み破壊する手刀が襲い掛かる可能性は否めない。右か、左か、正面か。目より先に耳がユストに状況を教えてくれる。風の音が強い。彼の頬に辛く当たる風は花の芳しい香りを届けた。西端の神殿の内部に花は咲いておらず、風を感じる事も無かった。何処に移動したのか。再び風がユストの黒い髪を掬う。剣を携える者としての勘が身の危険を知らせた。だが、構えていた直剣を動かすよりも先にインファンティラの紫色の瞳がユストの眼前を覆った。

「遅い。」

 冷たき視線と脳を揺さぶる声が勝利を宣言した。神剣霊の次姉の左手による刺突撃が音を発しない剣霊使いの右肩に食い込んだ。迸る激痛に耐えつつ、手にする直剣で反撃をするにもあまりの至近距離で威力を発揮するどころか振りきれない。突き刺した指先がユストの体内でほくそ笑み、貫かれた肩の内部は異物に抵抗せんと熱を持ち始めた。いや、熱を放っているのはインファンティラの方であった。剣霊の体は研ぎ澄まされた刃の如く何者をも受け付けない孤高の冷たさを持っている筈である。だがインファンティラの指先はこの定石を逸脱している。インファンティラという剣の真の姿とは、と疑問を感じつつもユストは膝から崩れた。項垂れたユストの視界に名の知れない純白の花たちが映り、吹く風に身を任せている。彼が右肩から血を流し、命の灯火が大きく揺らめいている場所は西端の神殿の内部ではなかった。

至天してんその。大地の導きに従わなかった遥か昔の人間が空の上に作り上げた空間だ。」

 空気が冷たい。剣霊の肌の様に冷たい。地上とは異なる空気は耳を疑うインファンティラの言葉の内容を真実へと導いた。流れる血が二の腕を通り過ぎ、シャツの袖口を鮮やかな色へと染め上げつつある。直剣を握り締めたままの左手を傷付いた肩口に当てる。この場で屈するのかと不安と恐怖が入り交ざった感情を不本意にも芽生えさせていたユストの頭上ではインファンティラが不気味な程静かにしている視線を落としていた。

「顔を上げろ。折角だ、と話をしようではないか。」

 流血による体力の消耗を否めないユストは神剣霊の言葉に抗っているかの様に返事をしない。可憐な名の知れない純白の花とユストの顔の間に鮮血で染め上げられたインファンティラの指先が割って入った。

「大地の意思の前で人間に権利が有ると思っているのか?」

 ユストの程よく尖った男らしい顎に血染めの指の腹が添えられた。

「上を向け。の目を見ろ。」

 顎に触れている血染めの指が動き、新たな血を欲している。顎先の脂肪にインファンティラの指が沈むとうっすらと血が流れた。動く指に抵抗を与えず、促される様にユストは彼女の言葉に従う。下手に抵抗すれば顎先を割られ、顎骨を経て舌を縦に割かれる。人間を卑下する切れ長の目尻の先で爛と輝くインファンティラの瞳は誰も触れてはならない孤高の色をしていた。顎先に切られたという痛みは走っていない。先程肩を貫かれた際に知った熱をユストは再び感じていた。自らの血の熱ではなく、インファンティラの指が発する熱。それは温かく、例えるならば女の体温を有していた。

「そなたが生を受ける遥か以前に人間はこの大地を蝕み始めた。人間は探究心やら向上心と態の良い表現するが、たち大地の意思からすれば単なる欲の塊にしか過ぎん。欲とは目的の為なら如何なる対象をも傷付け、汚し、顧みない。黒髪の男よ、そなたは紛れも無くその様な人間の末裔だ。剣霊となりしマナエグナの小娘を脇に立たせ、そなたは何を望む?己の言葉での問いに答えろ。」

 指の先端で溜まりつつある血が雫となり、名の知れない純白の花の上に落ちた。

(愚生が望むのは契約を結びし剣霊が求める安寧の世界。それ以上も以下も無い。)

 右肩の激痛を堪えるユストの目はまだ空虚を纏っていない。直剣の柄を握る左手に力が込められた。目下のインファンティラに斬りかかる為ではなく、己の意志を自ら噛み締める行動である。インファンティラ自身も神剣霊よろしく彼の心境を読み取っていたのか、手袋越しの左手の骨が軋む音を耳にしても微動だにしなかった。

「ほぉ。安寧の世界とは如何なるものか?」

(人間が剣霊を拒まず、剣霊の力を行使する必要の無い世界だ。)

「自らを欲とは無縁の様に語るが、果たしてどうかな?」

 顎下に添えられた指が密着し、顎と共に動く。厳密には顎の方が鋭利な指に合わせて上へと動いていた。

「そなた、実の姉たちですら知らぬ妹の表情を目の当たりにしたそうだな。その様な者が自らの剣の矜持を思いやるとは些か説得力に欠けるのではないのか?」

(確かにそうかもしれない。だが、ミゼレレは…あなたの妹は、今ある世界とその世界を築く人間一人一人を大事にし、命の儚さを語り、その命が燃え尽きる毎に彼女は深い哀れみの色を瞳に映す。彼女は身と行動を以て愚生にそれを教えてくれた。愚生の剣霊はあなたの妹と違って人間味を帯びてはいるものの、剣として馳せる思いの行き着く先は同じだと思っている。)

「行き着く先だと?」

 ユストの誰にも聞こえない言葉にインファンティラは眉間に僅かに力を入れた。

(そうだ。剣とは破壊や暴力の為ではない、只守る為だけに、これの為だけに存在すると…。)

「そうか、そなたはそう捉えたか。」

 全てを切り裂く指が顎から離れた。インファンティラは刃を納めたのだろうか。一難去ったと案じたいユストの喉が上下に動く。不気味な沈黙の中で頬を撫でる冷たい風が肌を刺し、青々と澄み渡る空がユストの視界に飛び込んでくる。至天の園とインファンティラは言った。景色を眺め、堪能する余裕が生まれたのか、ユストの口元が僅かに緩んだ。

 あぁ、とても綺麗だ。有史以前の人間が作り上げた世界も悪くない。

 己の中での呟く衝動は平穏の先を知らせる為ではない。苦難の迎合を予知する無意識の行動であった。次の瞬間、柔らかにしていた口元は苦痛の色を表した。

「人間風情故に痴れ事をほざくか。の妹の、大地の情を身に受けたと調子に乗るのも大概にしろ。」

 インファンティラの無情を如実に語る五本の細い指がユストの右肩を鷲掴みにした。黒いコートの上に剣霊の指が映る。無情の白い指が生暖かい血の色で化粧をし始めていた。

「この手でそなたを切り刻むつもりであったが、気が変わった。更なる屈辱と後悔を与えてやろう。」

 これ以上の冷酷さを誰にも達し得させない勢いのインファンティラはユストの肩を掴んだまま踵を返した。怒りに身を任せる事無く、落ち着きを払った足取りで神剣霊は歩き出す。彼女が纏う赤黒いドレスの裾が緩やかに波を打ち、その先では抵抗出来ずに引き摺られるユストの姿があった。名の知れぬ純白の花々がユストに押し潰され、薄汚れ、血で染まる。息苦しさは流血による体力の消耗を知らせている為なのか、あるいは空の上と言う高高度による酸素の希薄が原因なのかは判らない。

 朦朧とし始めている視線の先にハガンとテヴァ・ザイロンが映った。二人は微動だにしていない。テヴァ・ザイロンは体を蝕む傷跡が動きを抑制していると思われる。一方のハガンはユストの斬撃、言うなればイルサーシャの刃を食い止めた衝撃がまだ残っているのか、あるいはインファンティラの圧倒的な力を見せ付けられて戦慄を覚えてしまったのか。二人に助けを乞うにも到底無理な状況である。頼みとなるイルサーシャを霊体に戻したとしても一瞬で勝敗は決するであろう。男をも難無く引き摺る女の力、人間を無力化させる大地の力の前でイルサーシャは何も出来ないとユストは受け止めていた。

「ここがそなたの墓場となる場所だ。」

 至天の園の中央と思われる空間に辿り着いた。獅子らしき生物を象った石像がある。爽やかな青空の下で暗い色をした石像は雄々しさを誇示している。らしきと表現したのは逞しき肉体には尾が三本あり、精悍な顔には目が左右の上にさらに一つ、合わせて三つの瞳が彫られている為である。来訪者の歓迎よりも拒絶を思わせる雰囲気は恐らくこの至天の園の守り神として造られたのであろうとユストは思った。

「左様、人間は想いを形に表す。ではその人間の中で渦巻く血はどうだ?血はどの様な想いを描くか見せてやろう。」

 インファンティラの指が掴んでいたユストの肩を離れ、石像の喉元をなぞる。暗い色の石はユストの血を欲していたかの様に、表面に弾き返す事無く吸い込んだ。三つの瞳がインファンティラと同じく紫色の輝きを携え、驚愕の眼差しを向けるユストを見据えた。

「生物の血には他を屈服させ、他を凌駕しろと本人すら気付かぬ情報が詰まっている。剣霊が人間の血を摂るのはこれらを自らに蓄える為だ。剣とは守る為にあるとそなたは語ったな?では守る為には、剣の尊厳を冒されぬ為には何を行えば良い?対話による解決は幾度と無く試したが結局は暴力によって人間の歴史は全て築き上げられたとそなたは存じている筈だ。」

 石像の喉元を撫でた指がそのまま上へと動く。頬に五本の赤い筋が僅かな時間だけ走り、直ぐに吸い込まれる様に、その独特な色を残す事無く消えた。

「そなたが手に持つマナエグナの小娘もその歴史とやらに巻き込まれた、ほんの一欠片だ。これから先、歴史がどの様に描かれようがには関心は無い。だが、人間の歴史が長くなるにつれて大地が穢れに穢れる。まぁ、ここまで話せばそなたとての本意が理解出来よう。」

 ユストの血を得て生命を吹き込まれた獅子らしき石像は満身創痍の獲物を前に高ぶる感情を抑えきれないのかの如く三本の尾をしならせている。先程なぞった方とは逆の頬に手を伸ばしたインファンティラの仕草はイルサーシャが実体化した二匹の従者を労う姿をユストに思い起こさせた。

 イルサーシャか。彼女の為にもここで朽ちる訳にはいかない。

 震える両足に力を込め、愛剣を至天の園の床に突き立てたユストは立ち上がった。

「黒髪の男よ、命を絶たれる前に何か言い残す言葉はあるか?」

 血が流れる右肩を押さえずに切先を獅子らしき石像へと向けたユストにインファンティラが余裕の嘯きを漏らす。触れてなかろうと神剣霊はユストの心の声を読み取れる。右腕を垂らしたままの剣霊使いの口が動き、音無き声を発した。

 妹と違ってよく喋る姉だ。

 無情の風圧が直剣を構えたユストの黒いコートの裾を切り、名の知れない純白の花弁が散った。眉間に力を込めたインファンティラの右腕は抜き様の剣の様に空を斬っていた。

「そなた…自らの血で死を迎える事に苦悩と恥を覚えろ。」

 大地の意思を語る神剣霊が猛り、鋭利な爪を持つ獅子らしき石像の前脚が動く。剣霊使いは臆せずに構えた直剣の切先に意識を集中している。光を吸収する白銀の刀身が鈍い輝きを放ち、血抜きに部分に絡まる二匹の黒蛇は柄を握る者の意志の様に対峙する敵への睥睨を保ち続けている。

 柔らかな青を彩る空の下、至天の園にて互いの矜持を掛けた命の遣り取りが始まろうとしていた。


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