その一閃、誰が為に
月が生まれ変わった翌日は清々しい朝を迎えた。手で掴む事が決して出来ない、柔らかな靄を纏った大気を肌で感じ、足元では寿命を全うしようとしている晩秋の草花がその先端に露で化粧をしている。大自然の織り成す光景は見る者を優しく包み込み、包み込まれたと実感できた者はささやかな幸福を覚えるであろう。落ち着いた足取りのユストもその一人であった。だが、今はささやかな幸福にいつまでも浸っている場合ではないとも彼は知っていた。
閑寂のさざ波の主が心配そうに二人を見送っていた様子を頭の中で思い返す。早朝とは言え、利用客を快く送り出す責務を宿の主として忠実に遂行していた。何も語らずに見せかけの笑顔でユストは不可解な金属で作られた部屋の鍵をカウンターに置き、受け取った閑寂のさざ波の主は二人が本当に朝の市場に顔を出しに行くのか訝しんでいた。手の脂がうっすらと滲み込んだ年季を感じさせる濃い色のカウンターが物静かに映えている。規則正しく時を刻む時計の音が寂しげに響く中、ユストは閑寂のさざなみの主の意図はいざ知らず普段通りに両手をポケットに入れて出入り口の扉へと踵を返した。市場は扉を出て右側ですよ、と念を押されたユストは一二秒立ち止まり、振り向きざまに鍵を返却した際に見せた笑顔と共に頷く。両開きの深い色合いの扉を開き、そして閉める。木と木の端が擦れる音を耳の奥で確認した後にユストは左に歩く様、イルサーシャに指示を与えた。
常に彼の前を歩くイルサーシャの足が止まった。閑寂のさざ波を出てから十五分ほど経過した程度であろうか。言うまでも無く目的地に到着した為である。西端の神殿へと続く橋梁の入り口にはテヴァ・ザイロンが語った様に誰もいない。野で暮らす犬猫や鳥ですらいない。今は市場が開かれている時間である。彼らはほんの僅かに気の利いた人間から水揚げから間もない魚を頂戴できた過去の経験からそちらに向かったのであろう。誰もいない方が良いとユストは思っていた。剣霊使いは行動に移す姿に対し人目をはばかる。その一つ一つの動きを注視され、分析されては困る。剣を携える者の行動を分析されるとは死とも直結しているからだ。
橋梁の入り口と思われる前には装飾が極力省かれた鋼鉄製の扉が設けられていた。扉の中央には南西自治国家の国章が刻印された錠前が律儀にも掛けられている。立ち入りを禁じる注意書きの立て札は見受けられない。威圧と薄気味悪さを感じさせる扉が立て札は無用と物語っていると良識のある者であれば直ぐに判断できる光景であった。だが雌雄を決する責務を遂行すべき人間と自尊心の屈折を許容出来ない剣は、ごく当り前な良識をためらいも無く踏み躙る。白銀の長い髪を朝方の風に揺らしながらイルサーシャの細い指が錠前の一部を弾いた。
「さて、行くかユスト。」
剣霊の可憐な指は対象となる物質を弾く事でその材質を計る。自らの刃で難無く切断が可能と知った彼女は脇という脇を密着させた四本の指を真っ直ぐに伸ばし、腕を振りかざした。丸過ぎず、また尖り過ぎずと絶妙な孤を描く剣霊の爪先が天を仰ぎ始める。狙いを定め終えた刃が振り下ろされようとしたその時、ユストは彼だけが触れれる腕を掴み、首を横に振った。
(手っ取り早いのは良いが、侵入の痕跡を残すのは考えものだよ。)
剣霊の中で契約者の声が響き、密着していた四本の指が自然な形を形成し始めた。ならば代案があるのかとイルサーシャが語るよりも先にユストの視線は頼りとする剣霊の不服そうな表情から鋼鉄製の扉の上部へと移っていた。全高にして二メートル半ほどであろうか。
「そなた、よじ登るつもりか?」
装飾の無いとは滑らかで手や足を掛ける部分が見当たらないとも言える。質素にして成すべき機能を全うする鋼鉄製の扉を前にユストはイルサーシャの腕を掴んでいた手を離し、自らの顎の先端に二本の指を当てた。錠前を掛ける部分の出っ張りはユストの胸元程度の高さにある。錠前は目測で幅十センチ厚み二センチ程度である。唯一の足場となるのはこの部分しかない。
「ここは素直に我の一閃に頼った方が良いのではないのか?誰も近寄らないのであれば不届きな侵入者がいたと知られるのも数年後かもしれんぞ。」
顎先に指を当てたままのユストに痺れを切らしたイルサーシャがうそぶいた。なるほど、彼女の言葉にも一理ある。無為な時の流れは気概を損ねる。気の短い剣霊の意見は悠長な契約者にふんぎりをつけさせた。
(錠前そのものではなく、錠前を固定している金具の根元を斬って貰えないか?)
ユストはイルサーシャの手を取り、斬るべき場所を示す。錆が浮き出ている。いたずらに潮風に舐められた鉄の末路を思わせる様相はイルサーシャの眉を僅かに動かした。
(これは斬るというよりも砕けるであろうな。)
(それで良いよ。経年による劣化で吹く風がもたらした結果、という事になるからね。)
ユストの手が離れ、イルサーシャは人差し指のみを示された場所に這わした。上から下へ、眉間に皺を寄せて力を込める訳でもなく、何食わぬ顔と共に自然と流れる様に動かす。酸化した金属片は音を立てる事無く、原型を留めずに崩壊し始めた。何物をも抗えさせない剣霊の刃が役目を終えると南西自治国家の国章が刻印された錠前は地を打ち、憐れな錠前に対し他国出身のユストは一瞥を与えた。
禁足地へと続く道が開かれた。一キロに及ぶという橋梁の下は静寂を装った海流同士がぶつかり合い、緩やかな渦を作り出している。温かな陽光の出迎えは皆無であり、依然として深い靄を纏っている。灰とも黒とも鮮明な区別が不可能な色合いの橋梁の表面は冷たく輝き、足を踏み入れようとする剣霊とその契約者を見つめていた。手招きを受けず、また拒絶されずの空間の先は見通せない。ユストの靴の踵が硬質な音を奏で、これまでに体感した覚えの無い硬さは次の足を動かさせるのに幾分の時間を要させた。
「今更だが、馬を使うという手段は思いつかなかったのか?」
ユストの前面を守るイルサーシャは振り返らずに口を動かす。未知の領域であり視界の悪い場所で後ろは向けない。幸い、橋梁の上では深い靄が滞留出来るほど風が緩やかな為、彼女は普段通りの平静な声で語った。しかし、異様な静けさの前で警戒心は解けない。流麗な目尻を細めたままの剣霊の右肩に契約者の利き手が添えられた。
(その考えはあったが、昨日街並みを歩いて君は馬を見掛けたか?)
(そう言われると見た覚えは確かに無いな。)
(さらに付け加えるなら、馬具を扱う店も見当たらなかったよ。)
(つまりノエミリオに馬は一頭も居ないと?)
(少なくとも移動手段としての馬は存在しない様だ。)
イルサーシャの右肩に触れた手が僅かな時だけ離れ、元の位置に戻る。煙草を銜え、マッチを擦る為であった。
(ではソフィの様な幼子が何処で馬を知ったのだ?)
(デルロアへ家族で赴いた際にでも遭遇したのだろう。幼子の純粋無垢な無い物ねだりだとすれば、君も合点がいくと愚生は思うけどね。)
吐き出した煙草の煙が靄と同化している。仮に馬が用意出来たとしても一気に駆け抜けるのは難しかったであろうとユストは考えていた。この橋梁を渡る者は常軌を逸してしまうと教えられた。人間のみならず他の動物にも当て嵌まるとなれば、結果として荷物にしかならない。制御不可能になった荷物は立ち竦み、最悪の場合は暴れ始め、堅強な前脚で襲い掛かる可能性も否めない。その様な為にイルサーシャの剣霊としての無情の刃を用いるのは気が引ける。動物たちの心の内、とりわけ馬については手に取る様に判ると語る彼女にとって、苦渋の選択を強いられる状況を作りたくなかった。苦渋の選択は真の敵と刃を交える時に行うべきである。
果たして常軌を逸するとは何を以てそうなるのか、とユストの中で疑問が徐々に膨らみ始めていた。前へ進む足は休める事無く動かし続けている。まだ半分にも到達していないと思われ、一向に晴れそうに無い深い靄が不安と憔悴をもたらそうとしている。吸えるか吸えないかまで短くなった煙草の先端が役目を終えんと明るくなり、ユストはいつもの様に鼻から煙を出した。当ても無く流れる煙が視界から消えるとほぼ同時にイルサーシャが口を開いた。
「なぁユスト、…寒くないか?」
気遣いにしては少々珍しい事を聞くものだなと僅かに口の両端を持ち上げるユストを見る事無くイルサーシャは言葉を続けた。
「我は寒いのだ…。」
ユストは自らの耳を疑った。前を歩く剣が寒いと口にした。剣霊に暑い寒いは関係無いと豪語してやまない者の肩が小さく震えている。寒さに対し体が反応しているのか、それとも寒さという概念に動揺しているのか。萎縮した弱々しい後ろ姿は何者にも侵されない矜持を頂く剣霊よりも恐怖に慄く年頃の女のそれとしか言い様が無い。煙草を捨てたユストはコートの前身頃を広げ、これまでに体験した事の無い体の反応に戸惑いを隠せない剣霊を包み込む。その際に触れた彼女の手は普段と変わらずの冷たさを有していた。
(すまない、ユスト…。)
(あぁ、構わないよ。)
見る者に畏怖を覚えさせる剣霊の眼光が内に秘める力を失っている。彼女の心身に恐怖を刻める程の何かが前を遮っているのか。緩やかであり雄大を語る波の音が遠退いた。聞こえるのは自らの踵が奏でる硬い音のみである。視力に意識の全てを集中する。身の危険を知った体と脳が耳ではなく、目で相手を補足しろと訴えている。側面や背後から敵が現る心配はないのかと自問するものの、ここは狭い橋梁である。全幅は六メートルを上回る程度、例えるならば一頭引きの馬車同士が難無くすれ違い可能な幅といえようか。背後は今まで歩いてきた道であり、何物にも遭遇しなかった。ならば前に集中するだけで良い。
(ユスト、気を抜くな。正面だ。)
剣霊の策敵能力は人間の比ではない。ユストが目を凝らしても深い靄の先は相変わらずである。重ねていた剣霊の手が強く握り返した。寒さで体が震えようとも彼女は自らの役目を忘れていなかった。
(数は?)
(気配が二つだ。向こうも我たちに気付いている。)
(人間か、それ以外かは判らないか?)
(判らん。だが、まもなく見える筈だ。)
イルサーシャはコートの前身頃から払い除ける様に身を乗り出した。視界の悪い中で不意打ちに対応する為であり、その様相は萎縮していた心身を奮起させている様にユストには見えた。それで良い。至高の誇りを頂く剣霊の憐憫を誘う姿は不似合いであり、出来うるならば見たくはない。
彼女の言葉通りに二つの影が深い靄の中に浮かんだ。形からして人間であろう。戦意は感じられない。感じられないとは持っていない事を意味する訳ではない。隠している可能性が充分に考えられる。動物や魔物は戦意や闘争心を剥き出しにして挑むが、人間はこれを隠して事に当たる厄介な生き物でもある。近付くにつれて二つの影はそれぞれの体の線を形成し始めた。一つは華奢であり研ぎ澄まされた刃の如く涼しげな雰囲気を纏っている。もう片方は無駄を削ぎ落とした逞しい線を成し、数多の戦渦を潜り抜けた勇ましさを醸し出していた。男と女、いや剣霊とその使い手に他ならない。ユストとイルサーシャの足が止り、向こうが先に言葉を発した。
「お二人とも遅かったですね。」
少々の若さは否めないが、落ち着きのある響きは剣霊のものであり、つい先日聞いた声色だった。
「ハガンとテヴァ・ザイロン…ではないか?」
「ではないか、とはなんとも間の抜けた答え様ですわ。イルサーシャ、称号を未だ名乗れないあなたらしいと言えばそれまでですけど。」
棘のある言い草にイルサーシャは反論が出来ず、むしろ呆気に取られていた。姿は別として内面はハガンの生来備え持っていると思われる品の良さを微塵も感じられない。戦いを前にして昂ぶる心がそうしているのか、と眉をひそめるユストにテヴァ・ザイロンが声を掛けた。
「良いではないか、愚生殿。儂と違ってそなたは単なる通常番号の二流程度に過ぎないのだ。その様な者が携える剣霊は多少いびつでも問題なかろう。」
「いびつで済めばまだ御の字ですわ。我が見るに彼女は刀身が少し長いだけの単なるじゃじゃ馬にしか思えません。」
燃える炎を切り裂くというハガンの流麗な目尻が二人を侮蔑せんと細くなる。一方のテヴァ・ザイロンは顎鬚を詰りながら口元に笑みを見せている。
「おい、ハガン、黙って聴いていれば…。」
歯軋りが聞こえそうな苛立ちを隠せないイルサーシャが右の耳からぶら下がるピアスに手を掛けようとし、ユストがそれを止めた。
(待て、様子がおかしい。)
(そなた、馬鹿にされて腹立たしくないのか?我は既に怒りの絶頂に達したのだ。)
(…だが事実でもあるよ。ここは黙って堪えろ。)
(事実だと?ユスト、そなたまで我をいびつなじゃじゃ馬と言うか?)
(いいから二人の言動を注意深く観察するんだ。)
寒いと口にしていた剣霊が燃えんばかりの憤りを露にしている。イルサーシャの怒りの原因は何か。彼女が抱く矜持を踏み躙られたからではない。新月の日に初めて出会って以来、彼女の中で生じていたハガンに対する劣等感を言い当てられた為であろうとユストは読んだ。では何故その劣等感を逆撫でする様な言葉をハガンは発したのか。テヴァ・ザイロンも然り。真の強き者は弱き者を侮辱しない。彼とて剣霊協会から特殊番号を与えられる実力と品性を兼ね備えた、剣を携える者の頂点の筈である。だがユストの想いを嘲笑うかの様に好々爺の口元はいやらしく歪んだままであった。
「怒りで己を奮い立たせれば我に敵うとでも?小賢しいにも程がありますわ。その様な事だから契約者の利き腕の指を失わせる事態に陥らせてしまったのでしょうね。」
吐き捨てる様に語るハガンの言葉はユストの眉間に皺を寄らせた。右指の事を言われた為ではない。何故右指の事を知っているのかである。イルサーシャが事細かに話したとは考え難い。ユストの剣を振るうべき者の目がテヴァ・ザイロンを捉える。彼の剣霊障とは如何なるものか。そして何故笑うのか。何故笑みを絶やさないのか。それは剣霊障の反動だと知った時、ユストはイルサーシャにある指示を与えた。
「ハガン、そなたの言う通り確かに我は剣霊としてまだまだの小物だ。ところで、小物の我とその契約者である二流のユストの願いを一つ聞いてもらえないだろうか?」
「どうぞ。あなたの願いなど幾らでも。」
「そうか。受け入れてくれて有難い。」
「我とあなたの実力の違いを見せ付ける良い機会ですわ。」
言葉の内容は別として目を細めたまま両手を体の前で重ねているハガンの姿は昨日見た品の良さが滲み出ている。ピアスに触れようとしていたイルサーシャの右腕が下がり、彼女の細い手首を掴んでいたユストの手はしなやかな肩へと移っていた。
「実はユストがハガンに達ての願いがあるというのだが、果たして本当に叶えられるものなのか我は不安でな…。」
「何を勿体ぶっているのです?早く願いとやらを言いなさいな。」
ハガンの手は相変わらず体の前で重なっている。やはり、とユストは自らの予測が外れていなかったと確信した。
「では…。」
ためらっている様子を見せるイルサーシャが一歩横に動き、ユストも同じ行動を取る。イルサーシャの位置は彼女から見てハガンとテヴァ・ザイロンが重なっていた。
「ハガン、そなたの髪飾りを外して欲しい。」
ハガンの細めていた目が見開き、涼しげな雰囲気が消え失せる。その僅かな隙を見逃さなかったユストはイルサーシャの肩に据えている手に力を入た。白銀の長い髪がなびき、百年香の匂いが嗅覚をくすぐる。押し出されたイルサーシャの手刀がハガンの胸を経て、テヴァ・ザイロンの心臓を刺し貫いた。この場にいる四名の表情に変化は無かった。むしろ表情を作る余裕が無い短い時間で勝敗を喫した。静かに目を閉じたユストが手を元の位置に戻す様にとイルサーシャに指示を出す。刃と刃が擦れる耳障りな音は鳴らず、血潮が吹き出る音は聞こえない。閉じた目をそのままにユストは煙草を銜え、火を灯した。吐き出す煙の緩やかな流れは勝利の実感ではなく、安堵を意味していた。
剣霊の何物にも屈しない刺突撃の対象は幻覚であった。彼らは互いに持つ劣等感の産物だとイルサーシャに説明をし、それを知ったきっかけはテヴァ・ザイロンに剣霊障の兆候が見受けられない点だとユストは語った。
(なるほど。テヴァ・ザイロンの剣霊障は笑う事か。そなた、それをよく見抜いたな。)
(新月の日は普段出来なくなった事に執着する。剣霊使いと呼ばれる者の誰もが抱く衝動だよ。)
(特殊番号を付与された者でもその例に漏れないという事か…。で、ハガンの髪飾りの件については?)
(愚生は結い上げたハガンの髪が解けた姿を知らない。)
(あぁ、それなら我も知らんぞ?)
(つまり、彼女の刀身が君と同じく真っ直ぐなのかあるいは孤を描いているのか、愚生と君は判らない。判らないという事実が幻覚であるハガンの動きを抑制した。)
(ほぉ。言い換えればハガンが髪を結っているのは刀身を隠す為とでも?)
(その件だが、刀身を人目に晒さないのに手っ取り早いのは?)
二人の間のみで行える会話に僅かな沈黙が生じ、ユストの煙草の先端が音を立てた。
「まさか、あの者は鞘付きの剣霊か?」
音にして発した言葉は彼女の驚きを表現していた。剣霊の実体である剣体は鞘を持たないと伝えられている。現にイルサーシャを含めてこれまで遭遇した剣霊に鞘を持つ者は見受けられなかった。
(恐らく。中央で兵役に就いていた頃、鞘から抜きざまの斬撃は速度と威力が最も優れると教わった覚えが有る。確かにそれなりの腕も必要だが、ハガンとテヴァ・ザイロンはそれを唯一無二へと昇華させたと考えてもおかしくないだろう。)
感心の表情を見せていたイルサーシャは何かを思い出したのか、会話の為に掴んでいるユストの腕を弾いた。
(ところでそなた、常日頃から我をいびつなじゃじゃ馬だと思っているのだな?)
(まぁ…いびつかどうかはともかく、元気なのは良い事だよ。それと…。)
(それと?)
(愚生は君が望む様に早く一流にならないといけないね。)
誰にも聞こえない溜息と共に煙草の煙が静かに掻き消えた。目的地に達し得ない気だるさと次なる敵に対する警戒が入り混じり、足取りが徐々に重くなりつつある。ノエミリオの街からどれほどの距離に至ったのか。空を見上げても太陽の姿は深い靄を経て厚い雲に覆われている。正確な位置が判断不可能となれば前に進むしかない。果たして本当に前に進んでいるのだろうか、とユストの中で不安が膨らみ始める中、イルサーシャが再び立ち止まった。
「やめろ、こちらに来るな…。」
剣霊が動揺を露にし、慄いている。しっかりと前を向いてはいるものの、助けを求めるか如く空を泳ぐ女らしい手がこの時ばかりは弱々しく映った。イルサーシャの後ろに位置するユストは一歩前に進み彼女の腹を抱え込む様に利き腕である左腕を廻した。震える体と心を落ち着かせ、もしもの時は剣体に戻る指示を与える為に他ならない。
(しっかりしろ、イルサーシャ。新たな敵か?)
弱々しく冷たい手が彼女なりの最大の力で頼れる肩を掴んだ。
(戦渦に巻き込まれた者たちが我の名を呼びながら、傷付いた腕を伸ばして近付いてくる。助けてくれ、守ってくれと我に縋り来るのだ。)
(戦渦、とは?)
(判らん。我はこの光景を知らない。そして我は見たくない。体の中から見たくないと言っている…。)
イルサーシャの中で自らの失われた記憶が蘇ろうとしている。戦渦に巻き込まれた住人とはマナエグナの民なのだろうか。目の前に大きな影が見え始め、ユストの視線は相対する者の動きを正確に読み解く剣を携える者のそれとなった。音が聞こえる。剣霊の名を呼ぶ複数の声ではない。規律の正しさのみが奏でられる複数の靴の音はユストに懐かしさを覚えさせ、その数は片手で数えられる程度では済まないと知った時、イルサーシャの腰に当てる手に力が入った。恐らく三桁は下るまい。小さかった音が聞く者を威圧せんと大きくなるにつれて、大きな影は個々の輪郭を形成し、ユストに表情を与える。深い灰色の軍服に身を包んだ兵士達が一斉に剣の柄に手を掛けた。その動作は彼らの左胸に誇らしげに縫い付けられている青紫の薔薇を模した紋章を歪ませた。
(ユスト、そなたも見えるか…?)
(はっきりと見えるよ。)
見えている敵の姿は異なっていたが、ユストは肩を掴む冷たい手の上に右手を重ねながら答えた。
(我は剣霊だ。剣霊は斬る事しか出来ない。だが我にあの者たちは斬れない。救いを求めるあの者たちを斬る訳にはいかないのだ…。)
ユストはイルサーシャの過去の全てを知らず、イルサーシャもユストのこれまでの全てを聞かされていない。イルサーシャの緑色の瞳が映し出す世界とユストが目の当たりにしている光景は違う。強いて共通点を挙げるならば、それぞれが内に秘める後ろめたさが具現化したと言えるのか。
(君の従者たちを使う。君は剣体に戻るんだ。)
(駄目だ、我はこやつらに何と指示を与えれば良いのか判らん。しかもだ、我の従者たちがそなたの言葉に応じると思っているのか?)
(応じなくても応じてもらう。これは戦いだ。)
(戦い、だと?)
(あぁ、過去との戦いだ。)
ユストの手がイルサーシャの腰を叩き、剣霊の麗しき霊体は孤高の剣体へと姿を変える。兵士達は柄に手を掛けた剣を抜き始めた。これまでに幾度と無く耳にしても慣れない甲高い音がユストを包み込む。この音を聞いて高揚を覚えるか、恐怖を感じるかは個々によって異なる。だがユストは冷静を保つ。切先を伏せたユストは柄頭に右手を添え、片膝を着いた。意識を集中させる為に目を閉じ、頭を下げると共に音を発さない口が動く。
イルセリアの従者たる二体の守護する者よ、異国の者の願いを聞き入れ給え。
我が剣霊を加護する二体の黒蛇よ、我ことユスト・バレンタインの言葉に耳を傾け給え。
幽暗を越えし悲哀を望みし黒蛇よ、あらゆる血肉の苦痛の貪る黒蛇よ、我が剣霊に道を示し、我に道を開き給え。
万物を締め砕く強躯を持つ悲哀の黒蛇よ、虞無き無情の牙顎を有する苦痛の黒蛇よ、我が剣に澱む陰暗を打ち負かし、我自身に留まる苦悩を取り除き給え。
兵士達の抜かれた剣が定める狙いは只一つ。互いが持つ矜持が激突しようとしている。祖国の変貌を受け入れられなかった無念は自らへの憤りへと変化し、誰にもぶつけられない憤りが精神を蝕もうとしている。彼らの歩調が早くなった。距離が縮まり、心拍が早くなるのを感じつつもユストの閉じた目はそのままであった。薄暗い靄の中でも不気味に煌く刀身に自らの姿が映り込んでいるのが判る。その姿は歪んでいるに違いない。唯一触れる事を許された柄を握る左手に力を込め、最後の祈りを捧げた。
イルサーシャの魂魄を守りしソロウとペインよ、愚生の中で蠢くゲルハルステンの亡霊を喰らい尽くせ。
床を突く切先を中心として青白い光が放射状に広がり始めた。強大な黒蛇の尾が剣を振りかざした兵士達を薙ぎ払い、底知れない漆黒の闇を持つ黒蛇の顎が立ち向かう兵士達を銜え、呑み込む。目を閉ざしたユストの周りを数多の音が包み込んだ。剣が無残にも折れる音、かつて自らも纏っていた軍服が引き裂かれる音、そして自らと同じ立場であった兵士達の骨が砕け散る音。ユストの表情は変化しない。剣を掴む左手も動かさず、俯き気味の横顔は静寂を保ち続けていた。
過去とは懐かしむ為にある。だがそれを引き摺ってはならない。今という時が見えなくなる。今とは人間に辛く圧し掛かる。その辛さを忘れたいが為に人間の心の弱い部分は過去に慰めて貰おうと試みる。全ての音が収まった事を知ったユストは目を開けた。深い靄は依然として晴れず、とても静かで寂しげな景色は変わらない。立ち上がり、手にする直剣の血抜きに絡み付く二匹の黒蛇に視線を落とす。澄んだ刀身に映る彼の姿は歪んでいなかった。
ユストはイルサーシャを霊体に戻らさせずに足を前へと動かした。それには理由がある。この深い靄の世界は踏み入れた者に潜む心の陰暗を幻覚として映し込ませ、精神に攻撃を仕向けた。目の当たりにした幻覚は個々によって異なる。あの時、イルサーシャは明らかに戦意を喪失していた。ユストの肩を掴む手が細かく震えていたのが何よりもの証拠と見るべきであろう。戦意を喪失した者を奮い立たせるには時間が掛かり、今はそれに費やす状況ではないと判断していた。何故なら、ユスト自身もえもいえぬ悪寒を感じ始めていたからである。肉体が寒さを訴えているのではなく、肉体の内なる魂が縮み上がっていると言えようか。劣弱な意識に苛まれ、後ろ髪を引かれる思いに襲い掛かられた。心を裸にされたという思いが悪寒を催しているだろうかとユストは思いつつも前へと進む。足を止めてはならない。止めれば立ち往生は免れない。単なる立ち往生ではない、生命と精神が立ち往生する。腕を垂らし、重くなる足取りは彼の中である予測が芽生え始めている事を示唆していた。二つの心の陰暗には打ち勝ったが、もしこの二つが同時に襲い掛かる可能性があるとすれば、それはある形を以て次の戦いに必ず仕掛けて来る。イルサーシャの剣体を握り締める左手に否応にも力が入った。
目的地である西端の神殿の影は見えない。だが、間もなくその一部が朧気ながらにも見え始める頃であろうと思うと共に新たな影がユストの前に現れた。輪郭からして女の影である。
ユストの予測は外れておらず、敵となる対象を事前に読み取っていた。己の中を冷静に見つめればこの靄の中で敵として遭遇する相手は判る。相手は神剣霊と崇められる存在であると。
「お待ちしていましたよ、ユスト・バレンタイン。」
聞く者の脳を刺激し、心を撫でる神剣霊の声は目を逸らす事を決して許さない。大地の意思が織り成した剣霊の姿は深い靄の中でこれまでに見た事の無い存在感を示している。緩やかな風に身を任せている薄緑色の髪の下にあるミゼレレの表情は淋しさと悲しみが融合した柔らかさを保っていた。
「あなたがこうして無事にここまで来れてなによりです。今少し、我と共に時を過ごしませんか。」
ユストは手にする直剣の切先をミゼレレの正面に据えた。相手は幻覚であり、ユストの内面が産み出した敵である。ミゼレレの攻撃手段は一度見ている。彼女は大気を操り雷を生成すると脳裏が描いた瞬間、ユストの腕に激痛が迸った。以前と同じく雷の直剣がユストの腕を貫き、切先を地に食込ませていた。不覚にも膝を折らざるを得ないユストを愛でる様にミゼレレが見つめている。普段であれば心地の良さを与えてくれる衣擦れの音を放ちながら神剣霊は動けなくなった剣霊使いに近付いた。
「どうして人間は大地の声に耳を傾けないのでしょう?ユスト・バレンタイン、あなたは大地の意思たる我を理解出来る稀有な人間だと見ていましたが、残念です。」
雷の直剣が貫いた部分から血は流れていない。心の暗部を曝け出さんと言わんばかりに眩く輝く直剣の柄頭にミゼレレの千年を知る指が触れた。
「あなたの腕を傷付けずにこの剣を引き抜けるのは我のみです。無理に動かせば腕の組織は破壊され、その先にある手は機能を失うでしょう。無論、今後は剣を握る必要は無いのですけどね。」
剣を握る必要は無いとはどの様な事なのか。奥歯を噛み締め、激痛に耐え続けるユストの視線がミゼレレの本意を探す。
「我は疲れを感じました。姉たちの諍いに挟まれ、人間たちは大地の導きに従わず各々が勝手に振舞う。剣霊として我の使命を全うするには時期尚早であったのかもしれません。ならば本来の姿に戻り、人間の変わり行く様を静かに見つめようと思うのです。ただ、心残りなのは我はあなたを知ってしまった。願わくば、あなたを取り込んで本来の姿に戻りたいと我の中で欲が生じてしまい、これに抗えなくなったのです。これからの永劫を我は孤独を忘れ、剣体となった我を抱き締めているだけであなたは人間が得られない悠久の時の流れを見て感じられる。双方にとって素晴らしい事ではありませんか。」
雷の直剣の柄頭に触れる指が動いた。光り輝く切先がおもむろに橋梁へ沈み込み、ユストは苦痛のあまり口を開ける。音無き声は誰にも聞こえず、肩で息をする姿はミゼレレの哀れみを語る瞳を更に細めさせた。
「痛みとは耐えるものではありません。耐えて得るのはほんの僅かな満足であり愚かな行為だとあなたは存じている筈です。そう、痛みとは今ある状況を改善すべく、最良の手段へと行動を移す様にと自らに教える感覚です。聡明なあなたならまず何をするべきか判ると思いますが。」
ミゼレレが彼女の考えに賛同し、イルサーシャの剣体を放棄しろと勧告している。相手は幻覚であり、幻覚の指示は飲めないとユストが思うと同時にミゼレレの指は直剣を更に橋梁に食込ませた。幻覚であろうとも神剣霊はユストの心を読み取れる。開いたままの口の端から涎が垂れた。額から流れ出た汗が鼻筋を通り、鼻の先で雫を作っている。
「その強情なところがあなたの魅力なのかもしれません。ですが、何事も度が過ぎると心身を滅ぼすのが人間の常。ここは我の考えに従って貰えないでしょうか。」
打開策が浮かばない。先の様に二匹の黒蛇の力を利用するにしても相手が悪い。大地の意思である神剣霊の前では彼らは無力であった。幻覚といえども心の内を読まれては彼らへの祈りを阻止されてしまう。左腕の感覚が薄れ、頼みとしてきた剣を握る力が失い掛けている。このまま幻覚の言葉に従わなければならないのか。指と指の間隔が開き、白銀の直剣が持つ長い刀身が傾いた。
「そろそろ限界の様ですね。意地の悪い話ですが、人間の必死な表情は剣霊をも凌ぐ美しさを感じます。あなたのその様な顔をもっと眺めていたいと思っていたところですよ。」
微笑をたたえる麗しい唇に剣の柄頭に触れていない方の人差し指が添えられた。それだ、とユストは気付き、左手を楽にする。完全に傾いたイルサーシャの剣体が地に落ちる直前にユストのもう片方の手が動いた。指を二本欠損していようとも掴む事は出来る。三本の指が絡まる黒蛇を模した柄を握り、左下から右上へと白銀の切先が動いた。死に物狂いの切り上げはミゼレレを模した幻覚を斬り、三本の指のみでは絞り込めない為に白銀の直剣はそのまま空へ軌跡を描いた。
天をも貫く一閃は深い靄を切り裂き、陽の柔らかな光が注がれる。ミゼレレを模した幻覚は消え、腕に突き刺さる雷の直剣も塵と化した。自らの中で渦巻く陰暗を克服した。だが、頼みとなる白銀の刃を持つ直剣を飛ばしてしまった。両手を橋梁に着けたままのユストは顔を上げる。触れていなければ剣体から霊体へと戻れとイルサーシャに指示も出せない。彼女を再びこの手に握らなくてはと両脚に力を込めて立ち上がるも雷の衝撃が未だ残っているのか、体が鉛で出来ているかの様に重い。投げ出された直剣が着地するのは得体の知れぬ金属製の橋梁の上か、さもなくば緩やかに渦を巻く大海原か。橋梁に叩きつけられた場合、損傷を免れるとは考え難いが、海面へ落ちた場合は喪失となる。出来うるなら橋梁の上に落ちてくれと願う事しか出来ない自らを歯がゆく思いながらユストは歩むべき先に視線を移した。そこには先程イルサーシャの刺突撃を受けたはずのハガンとテヴァ・ザイロンがユストを見つめていた。
「案ずるな、愚生殿。」
硬い表情のテヴァ・ザイロンが発する擦れた低い声は頼りになる男のそれであり、剣の扱いを知る者のそれでもある。白銀の直剣が切先を下にしてテヴァ・ザイロンのすぐ脇に落下しようとしていた。彼の前に立つハガンが右腕で空に向かって孤を描く。彼女特有の刹那の速度ではなく、ユストの目でも追える緩やかな速度である。その上にある白銀の直剣は落下速度を失い、最後はテヴァ・ザイロンの両方の掌に血抜き部分を挟み込まれていた。
「見事な剣だな。銀髪のお嬢さんは少々気の強いところが見受けられたが、この剣体を見れば誰もその様な性格に文句は言えまい。」
わざわざ柄ではなく血抜き部分に触れて受け止めたのは柄を握るのは契約者のみであると知る老練の剣霊使いによる心使いと言えよう。彼らは幻覚ではない、本物の剣霊と剣霊使いである。
「実はお二人がインファンティラと刃を交えると聞いて、我たちも協会の指示を全うすべくこの地へ足を進めたのです。」
まだ痺れを感じる左腕を伸ばしてイルサーシャの剣体をテヴァ・ザイロンから受け取るユストにハガンが説明をする。なるほど、彼らが与えられた指示とはインファンティラの討伐である。後進にあたるユストの身を案じてなのか、あるいは討つべき対象の最期を見届ける為なのかを確かめるのは無粋であろう。だが、この橋梁へどの様に侵入したのだろうか、とユストが思うと共に彼の表情を読み取ったテヴァ・ザイロンが口を開いた。
「特殊番号を背負うと愚生殿と違って正面から挑むのが億劫でな。」
数多くの難事を潜り抜けた皺の走る指が示した先では簡素な木造の舟が島に打ち揚げられていた。海流同士がぶつかり合う海の上で思い通りに舟を進めるのは困難なのではとユストは思ったが、目の前の老人とその剣霊の実力と才知はユストの上である。ハガンが海に向かって腕を振れば海流はぶつかり合うのを抑止され、テヴァ・ザイロンは難無く舟を漕いでここへ一時間前に辿り着いたという。剣霊の斬撃は何物を以ても拒む事を許さないのは今まで幾度となく体験している。しかし、海を斬ったとしても相手は水である。水は如何様にも流れる。流れる水の勢いを止めるには動きを遮る何かが必要ではないのか、とハガンの先程の腕の動きを思い返す。あのゆっくりとした動作は何を斬ったのか。何も無かった。いや、見えない物、空気を斬ったと判った時、両手を体の前で重ねているハガンの涼しげな目尻に趣の色が淡く挿した。
「そう、刹那を語る我の斬撃は大気を斬れるのです。その軌跡は真空となり、急速に元に戻ろうとする大気は真空と摩擦を起こし、弾き返される。今、あなたが手にするイルサーシャの剣体が宙を落下する際もこの手段を取ったに過ぎません。余計な事をしたでしょうか?」
剣霊障により音による会話が困難なユストは首を二回横に振り、ハガンに謝意を表した。
「本来ならば我の技は秘密にしておかなければならないのですが、なにしろイルサーシャの剣体を見てしまいました。鍔を持たず、二匹の黒蛇に守られた白銀の直剣とは、類稀な力を秘めた佇まいを感じますね。それとあともう一つ…。」
名も無き風が髪を結い上げたハガンを彩る後れ毛を踊らせ、汚れを知らない項に大気をも斬る指が添えられた。
「ユスト・バレンタイン、あなたの剣を放り投げる覚悟で繰り出した斜め上への切り上げですが、我にはとてつもなく凄まじいものとして映りました。その一閃、誰の為に放たれたのでしょうか?」
ユストはハガンの問いに答えず、煙草に火を灯す。たとえこの喉が音を発しようとも上手く説明する事は難しいと彼は思った。苦肉の策と言えばそれまでだが、唯一理解しているのは自らの為だけではない。銜え煙草のまま鼻から煙を出すユストの視線が利き手に握られた白銀の直剣に落ち、その優しげな趣は剣を携える者でも出来るのかと項に指を添えたままのハガンに感じさせた。
剣霊使いが纏うコートの裾が風になびき、剣霊が嗜む百年香の爽やかな香りが剣体であろうとも彼女を包み込んでいた。




