新月の日に従者たちは語る
テヴァ・ザイロンの許を去ったユストとイルサーシャはソフィを道案内役としてノエミリオの街へと足を進めた。ソフィが自ら進んでその役を買って出た訳ではない。ハガンに優しく諭された為である。無論、ソフィとしてもハガン以外の剣霊に関心があるのか、素直に首を縦に振っていた。
ノエミリオ諸島とは言うものの、人間が生活を営むのは中心に位置するノエミリオ本島のみであり、その数は四百名に満たない。六百年前、各地で日常的に起きていた争乱で住むべき土地を奪われた者、追われた者が流れ着いた地と伝わる一方、各地方の罪人の流刑地とも言われている。罪人にも種類がある。倫理や道徳に反した窃盗犯や殺人犯もさることながら、渦巻く潮流に疑問を投げ掛けた政治犯も当て嵌まる。どちらにせよ、歴史の表舞台から引き摺り下ろされた者たちには変わりない。だが、表舞台とは必ずしも華々しく誰もが羨む世界ではなかった。大陸で生きる多くの者、いや、大半の者たちはトウラドオク王朝の圧制に苦しみ、嘆いた。最後の王たるルウエ・トウラドオクが断頭台にその頭をもたげてから二百年の時が流れようとも、人々の心の奥底に染み付いた禍根は完全に拭いきれていないとユストは思いつつノエミリオの街へ辿り着くまでの景色を眺めていた。
「ねぇ、イルサーシャは何が得意なの?ハガンは風の吹き方で天気が判るんだよ。」
テヴァ・ザイロンの住居から街の門を潜るまでの所要時間は思っていたよりも早かった。煙草とマッチの購入の為に真っ先に雑貨屋に向かったユストの耳に剣霊に興味を抱く少女の純朴な疑問が届く。ノエミリオ市街地の門は木製である。これまで潜った市街地の門の全てが鋼鉄製であったためか、新鮮味を有しており、門の横で木箱を椅子代わりに腰を降ろして談笑に勤しんでいる憲兵たちがこの街の平和を象徴している。故に常に後ろを歩くユストが足早に雑貨屋に向かってもイルサーシャは特に気に留めず、声も掛けなかった。
「ん、我は…そうだな、動物の気持ちが判るぞ。」
「へぇ。何の動物が一番良く判るの?」
「そうだな、馬だ。」
「本当?あたし、大きくなったらお馬さんと一緒にいたいんだ。どうしたら気持ちが判るの?教えて?」
ユストが望む煙草の銘柄はヒスロー、彼の出生地である中央行政府にて製造されている品である。大陸より若干値が張るなと思いつつも、ここが僅かにも海を隔てた地と思えば目を瞑るしかない。むしろ遠く離れた地にてヒスローが買えるだけでも有り難い。何気なく返した剣霊の言葉が少女の興味を更に膨らませてしまい、慣れない問い掛けに対応を迫られた剣霊の様子をユストは代金を払いながら黙って聞いていた。
「教えろと言われても困る。その馬を見れば勝手に気持ちが伝わるのだ。」
盾の紋章が施された煙草の封を切り、手前にある一本の端を銜えながら手馴れた手付きでマッチを擦る。燃えさかる炎を銜えた端の反対側に近付け、ユストは目尻を柔らかに細くする。彼にとって至福の一時を揺らめく煙が物語り、その向こうでは珍しく少々困惑気味なイルサーシャの表情が覗えた。
「へぇ。そうなんだ。」
自らを生真面目に語る剣霊の回答は少女を残念な表情にさせた。もう少し気を利かせた事でも答えれば良いものをと思うものの、傍から見れば歳の離れた異国同士の二人が会話している様子はどの市街地でも見る事が可能な、心和む光景には違いなかった。
「実のところ、我はそなたたち人間の方が羨ましく思うぞ?」
「どうして?お馬さんの気持ちが判る方が全然いいよ?」
「まぁ、聞け。我はあの者たちの気持ちは読めても触れる事が出来ない。剣霊故に不可能なのだ。本来ならば我としても親しみを込めて触れ、あの者たちを労り、自らの心をも温めたい。人間にはそれが可能ではないか。」
陽光に照らされた白銀に輝く横髪を耳に掛けながらイルサーシャは語り、ソフィは黙って聞いていた。年端のいかない彼女には少々難しい内容なのかもしれないが、懸命に理解しようとしている雰囲気は見て取れる。幼い事もあるが、他の言葉を素直に受け入れられるのは心が裕福な証拠でもある。心が裕福であるには争いとは無縁の世界で初めて成せると言えよう。ノエミリオに流れた者たちは平和を知り、後世に伝えた。そしてその後世の者たちは先達を思いやり、平和の意味を理解し、大切にしている。
純朴なソフィの次なる質問に身構えているイルサーシャをそろそろ助けるかとユストは二口目の煙を鼻から出し終えつつ二人の許へと足を動かした。
ソフィが自宅の門を潜る姿を見届けた後、ユストとイルサーシャはノエミリオの街を巡り始めた。建て替える事無く、古来の建築物がそのまま使われている街並みは妙に落ち着いた雰囲気を醸し出している。年季を思わせる石畳の上を歩けば生活の場として不自由は感じそうに無い様子が覗えた。食料は近海で採れた海産物以外にも大陸から海運にて運び込まれた多種多様のものが店に並び、食材選びという喜ばしい悩みを実感出来る。剣霊協会の連絡所は見当たらなかった。この地に邪剣霊は縁が無いのであろう。あるいはハガンが既に狩りきったとも考えられる。
「こういった平穏な街は良いものだな。」
左右に広がる街路樹が赤い化粧を施している中、ノエミリオ市街地に関心を寄せるイルサーシャの白銀の長い髪を通りすがりの者たちが珍しそうに眺めている。研ぎ澄まされた刃が放つ冷たい輝きに似た彼女が人智を凌駕する剣霊であると判ろうとも誰も厭忌の表情を浮かべなかった事にユストは気付いた。大陸の街では彼女を剣霊と知ると眉をひそめ、彼女と視線が合おうものなら咄嗟に顔を背ける。何ものをも斬り伏せる剣に狙いを定められたと思うのであろう。剣霊とは人間の魂が剣に移り込んだと言われており、剣霊自身も人間の記憶を語る。人間は気分で行動を変える。剣霊になろうともその名残りが見受けられるかもしれないと思えば、顔を背けるのは危険回避の本能が働いたと言えよう。
「そうか。君がそう感じるのも珍しいな。」
二本目の煙草に火を灯したユストの腕にイルサーシャの剣霊特有である冷たい手が重なった。新月を迎えたこの日は触れなくとも声で意思の疎通が出来る。彼女の行動はさしずめ先にソフィに語った内容に添っていた。
「我はこの街が気に入った。そなた、現役から退いたらノエミリオに住居を構えてはどうだ?」
「遠い先の話をされてもな…。」
突拍子も無い提案にユストは鼻で笑って応えた。
「なに、あと三十年そこそこであろう?その時になれば我の言葉に従ってこの平穏な街に住んで良かったと実感すると思うがな。」
「それはどうだろうね?」
「さてはテヴァ・ザイロンという先達が居るから遠慮しているのか?」
「彼は剣霊ではないんだ。その頃には人生を全うしているだろうね。」
果たしてイルサーシャの言うその時が訪れるかは疑問が生じる。剣を携える者は何時何処で命を落とすか判らないものである。剣霊が傍に立っていようともその現実は覆せない。結果的には助かったが、先の海難が良い例であるとユストは思った。だが、命の灯火が燃え尽きるか消えるかまでの間に希望や未来で胸を膨らませるのは自由であり、一時の安らぎを感じさせてくれる。今のイルサーシャは己の知らないところで安らぎを求めているのだろう。
「君の意見も判る。だが、愚生としてはノエミリオの平穏は彼らのものであり、彼らが育むべきだと実感している。その過程に紆余曲折は生じたものの、長い年月を費やして築き上げられたものだ。大陸出身の愚生が永住する場所ではないと思うよ。」
言葉を交わしつつもユストの視線は街並みをなぞる様に動いていた。剣霊が気に入った平穏な小さな街で宿を探すのは思っていたよりも困難であった。
「そこまで考えがあるなら強要はしない。だが、我が見る限り、この街の者たちはよそ者を拒むような狭量な人間には見えんのだがな。」
冷たい手の先にある華奢な指がつまらなそうに動いている。己の主張に賛同しない点と話半分のユストの態度に対する点が彼女の指を動かさせていた。
「まぁ、愚生としては三十年そこそこが過ぎようとも、こうして煙草を銜えて淹れたてのコーヒーを片手に君と話が出来れば構わないさ。だが、今は明日に備えるのが先だ。」
ユストはイルサーシャの手が添えられてない方の腕を動かし、風情溢れる建物を指差した。白く煤けた色合いの煉瓦がこの地を撫でる風の威力を表している。ノエミリオ観光協会所属を謳う宿の看板も壁面と同じく白く煤けていた。
「毎回思うのだが、良く言えば味のある宿が好きだな、ユストは。」
ユストが指差す方を眺めながらイルサーシャは思いついた事を率直に口にした。
「まぁ確かに好きだが、今回は選択肢が無い上での結果だと思ってもらいたいな。」
「ふうん。で、何て名の宿だ?」
「閑寂のさざ波とあるね。」
「名までもそなた好みだな。」
人間であれば呆れた溜息を漏らしているであろう表情を浮かべたイルサーシャはつまらなそうに動かしていた指でユストの腕を弾き、味のある宿へと先に歩き始めた。
両開きの深い色合いの扉の中程に括りつけられた取っ手は幾多の人間が触れたのだろうかと想像力をかきたてる艶光りを発している。右手で取っ手を掴み、手前に引く。宿のロビーの中は閑散としていた。ノエミリオを観光するのであれば夏季が適しているのであろう。四日に一度の定期便がその証拠である。ユストの靴音が物寂しげに響く中、採光用として設けられた窓の桟は細いながらも存在感を示すかの様に床に影を作りこんでいた。フロントと思われるカウンター越しでは読書を愉しんでいた宿の主が座っている。五十を超えたぐらいだろうか。身形の整った格好が彼の几帳面な性格と事業に対する誠実さを醸し出すのに一役を買っている。扉が開いた際に視線を二人に向け、軽く頭を下げた。
「いらっしゃい。外は寒いでしょう?今、暖炉に火を入れますので…。」
読み掛けの本に金属製の栞を挟む。ユストとイルサーシャが手ぶらとは言え、二人が宿を求めて足を踏み入れた客人であると理解している様子である。見慣れない顔の二人へ交互に視線を動かし、僅かながらにも感心の表情をたたえていた。
「お気遣い有難う。今から部屋は用意出来ますか?」
暖炉に火を入れるべく立ち上がろうとする宿の主を抑止しようとユストは自らの胸の前で手を広げた。
「用意するも何も。お二人は一ヶ月ぶりのお客人ですよ。」
閉じた本の変わりに使い込まれた台帳をカウンターの上に広げられた。最後の記入した者の日付は主の言葉通りに街路樹の色が変わる前であった。差し出された羽根ペンにインクを付け、ざらついた紙の上を滑らせる。言うまでも無くここにユスト・バレンタインと素性を明かす手掛かりを記す訳にはいかない。宿の主が読んでいた本の背表紙に一瞥を投げたユストはアウグスト・エッセルとその妻マリアと記した。本の著者の苗字と自らの父母の名を混ぜ合わせたその場凌ぎの偽名である。
「エッセル様でしたか。偶然にも私がここで読んでいた本もエッセルという人物が書いたものでして。」
ユストが記した名を見て解読までに一二秒ほど時間を有したのは中央行政府の綴りを用いたからである。時期外れの観光客であるエッセル夫妻の顔を見て宿の主は満足げに頷いた。
「失礼して、どの様な内容の本です?」
左の手に嵌めている手袋を外したユストは言われるが先に代金をカウンターに置くべくコートのポケットに手を入れていた。
「少し歳の離れた男女が駆け落ちをする恋愛ものです。家内が面白いと勧めるものの、良い年を迎えた男が同じような思いをするものかと半信半疑で読み始めたのですが、これがなかなかのめり込みまして。」
なるほど、という表情をユストは浮かべる。宿の主が出会い頭に二人に見せた素振りの意味が判った。本の内容に感化されたのか、時期外れの観光客はエッセルなる人物が描いた世界の住人と重ね合わせられたのであろう。荷物を持たずに佇むユストとイルサーシャがそう見られるのも無理もない。ましてや女の方は晩秋の中、軽装を決め込んでいる。両家の反対を押し切り、形振り構わず手を取り合って海を隔てたノエミリオまで流れ着いたのであろう、と主の頭の中で物語が構築され始めているのをユストは眺めていた。
「明日の早朝には出立するので先に代金を払いたいのですが…。」
不運な事にポケットの中には共通貨幣しかなかった。これでは宿の主の中で育まれている物語を更に飛躍させてしまう。どちらかが富豪の末裔と思われてしまうが、この場は愛想笑いで間を取り繕いつつ、引き返して両替商まで足を伸ばすのも億劫である。むしろ市街地を一通り歩いて両替商が見当たらなかった。
「どうした?」
掌に載せた共通銀貨に視線を落としているユストにイルサーシャが急かす様に声を掛ける。彼女が動けば百年香が辺りを彩る。その爽やかな香りは宿の主の鼻腔をくすぐり、端正な鼻筋を持つ彼女の横顔は駆け落ちを決め込む程の意志の強さを否応にも感じさせたに違いない。
「西部貨幣が底を尽きたのか。ならばそのまま払えば良いではないか。」
金に糸目を付けない台詞を嘯くイルサーシャは富豪の愛娘に思われたのだろうとユストは諦め顔と共に手の脂で汚れていない共通銀貨を渋々とカウンターの上に置いた。
「おや、これは…共通銀貨ですね?そうそう眼にする事の無い珍しい貨幣ですが、過去にこのノエミリオに渡ったばかりの剣霊使いがここに泊まった際、宿代として渡された覚えがあります。」
先程まで共に湯に浸かった好々爺の事を恐らく言っているのであろうとユストは思い、それはテヴァ・ザイロンの事だなとイルサーシャが半分得意気に語る前に彼女の手首を掴んで言葉を遮った。
「もしかして、お二人も剣霊と剣霊使い…ですか?」
「まさか。単なる時期外れの観光客に過ぎませんよ。」
観光客が手ぶらで宿を訪ねるものかと自らの苦し紛れの回答に辟易を覚えつつ、ユストは二人分の食事を頼み、釣り銭は食後のコーヒーを運んで来た際に受け取る旨を伝えた。
「畏まりました。それにしてもお連れ様は剣霊と肩を並べる程の美しい髪をされていますね?」
「ほぉ。髪が美しければ剣霊なのか?確かに髪は剣霊の誇りそのものだからな。」
おだてに弱いという彼女の悪い癖が姿を現した。満足げなイルサーシャは横髪を耳に掛けた。
「えぇ。実はこのノエミリオにはハガンという剣霊が住んでおりまして。彼女の髪の艶には男はもとより女も見入ってしまう程です。そういえば子供たちがノエミリオに新たな剣霊が二人も来ると騒いでいましたよ。」
「新たな剣霊ですか。彼らは恐らくデルロアからの定期便に乗って来るのでしょうね?因みにその便はデルロアへ折り返すのですか?」
「到着してから二十四時間後に出航する予定ですよ。この時期は乗客や荷物が殆ど乗っていない空荷状態でしょうけど。」
あと三日後にデルロアからの定期便が到着する。その間に西端の神殿で事を済ませられるのだろうか。インファンティラと剣戟を交えるのは僅かな時間であろう。僅かでなければ敗北は必至と考えるのが妥当である。しかし、西端の神殿までの道程はどうであろうか。一キロ程もある橋梁を何の障害も無く渡りきれるのか。橋梁の先に辿り着いたとしても先端の神殿の内部構造を把握するのに時間を有するかもしれない。過去に西端の神殿に足を踏み入れた者は精神に異常をきたしたとテヴァ・ザイロンは語った。インファンティラの許へ辿り着くまでの障害は果たして剣で払い除けられるものか、遠目に見た西端の神殿とは偽りの姿ではないのかとユストの中で様々な思惑が交差し始める。その行き着く先は想像で処理出来るものではない。一振りの剣に全てを託し、目で捉え、肌で感じ、揺るぎない思いで挑む。剣霊使いに出来る事は単純であり、時としてどことなく空虚な気持ちになる。思慮に耽る事でイルサーシャの手首を掴んだままの手の力が抜け始めている中、自然と細めていた剣霊使いの目に不可思議な物体が映った。
「これは?」
時期外れの観光客用にとカウンターの上に艶の無い金属で作られた細長い長方体が置かれた。イルサーシャの中指の先端から手首まで程度の長さを有しており、等辺を持つ断面は彼女の小指より一回り細いといった具合か。部屋の鍵だと教えられてユストは言うまでも無く、イルサーシャも怪訝な表情を驚きと関心の色へと変化させた。鍵といえば真鍮か黄銅によるもので柄の部分に凝った装飾を施しているという認識がある。緑と銀と黒が混ざり合った様な色合いの細長い長方体の表面は窓から差し込む光りを滑らかに受け止めている。ユストは共通銀貨を載せていた素手で直方体に触れた。触り心地は鉄よりも幾分ざらついているのが指の腹から伝わる。二本の指で持ち上げると共に彼は眉を動かした。
「イル…、いやマリア、手を広げてごらん?」
誰の事だと首を傾げるイルサーシャはユストの視線が台帳に向けて投げられている事に気付き、何も言わずに彼の言葉に従った。傷一つ無い剣霊の掌に鍵と言われた細長い直方体が落とされる。金属と金属が触れ合う短い響きに宿の主は気付かなかった。
「ほぉ…見た目よりも重いな。」
「切れるか?」
「判らん。切れたとしても刃こぼれの覚悟が必要な硬度だと思うぞ?」
広げた掌をそのままに目の高さまで持って行く。先端部に細かな溝が施され、この部分が鍵としての機能を果たしているのであろう。
「この鍵に関心を示すのはお二人が大陸から来た証拠です。この辺りでは至る所でこの金属片は出土します。古代文明の遺産と言われていますが、ノエミリオに来た記念品として最適ですよ。」
古代文明となれば歴史的価値を考察するべきではないのかとユストは思った。だが、剣霊でも斬る事に躊躇させる硬度の物体は今ある人間の手で解明は困難を極めるであろう。いわばユストがそう思う以前に科学から匙を投げられてしまった物質と定義するべきか。
「これは…只の鉄では有りませんね?」
「えぇ。鉄が軟らかくなる温度でも何の変化を起こしません。しかも雨に晒されるどころか潮水に浸かっていても錆びないのです。」
「錆を知らない金属となると、西端の神殿に掛かる橋の素材も実のところ、これではないのか?」
置時計の秒針が規則正しく動く中、イルサーシャの何気ない一言が宿の主の表情を曇らせた。
「もしや早朝に出るとは西端の神殿へ向かおうとでも…?いけません、取り返しのつかない事になりますよ?」
西端の神殿についてはこのノエミリオに住む者ならば誰もが知り、部外者には隠しておきたい汚点と思われる。観光で成り立つ地域に禁足地と認定された未踏の地が存在する。そこに魅力を感じるのは命知らずを自負する者、自らの名を歴史に刻みたい者に過ぎない。このノエミリオにとって今はその様な者は遠慮して貰いたい筈である。誰もが平穏を望み、維持しようとしている。宿の主が顔を曇らせ、取り返しのつかない事と語った。それはユストとイルサーシャの身を案じると共にノエミリオで暮らす者たちの日常に狂いを生じさせる事も示唆しているとユストは読み取った。
「いえ、朝の市場へ顔を出そうと思っていたところですよ。遺構の謎を明かすよりも新鮮な魚の方が日々の活力になりますから。二人とも内陸育ちなものなので。」
時期外れの観光客らしく朝の市場に期待を寄せる笑みを伴いながらユストはイルサーシャの肩に手を置いた。
「そ、そうだな。どんな美味い魚が食べれるか楽しみだ。」
この際、演技の下手具合を追及するよりも一般人の前で自らを我と表現しなかった点を評価するべきであろう。口角を上にしたままのユストは演技下手の剣霊の肩に置いたままの手に力を入れ、歩く様に促す。
「あ、お二人様の部屋は左の一番奥でございます。」
イルサーシャの肩に触れていない方の手を挙げてユストは歩調を乱す事無く宿の主に謝意を示した。
指定された部屋まで続く廊下は乳白色の石をモザイク貼りした凝った造りをしていた。石と石との間に隙間は無く、手間の掛け様が覗える。所々に石が欠損して窪みが見受けられるが、それはこの宿の歴史を表現しており、悪い気はしなかった。宿の主の言葉通りに左奥の部屋の扉の前に立つ。取っ手の下に鍵穴がある。イルサーシャが手に握り締めていた細長い直方体を差し込む。吸い込まれる様に、とはいかないものの、抵抗無く納まった具合は彼女に感心の表情を作らせ、同時に疑問を生じさせた。
「この鍵は今の技術では作れないのであろう?ならば他の部屋もこの鍵で開くのではないのか?」
「愚生もそれは思った。だが、各部屋毎に鍵穴の大きさが違う様だ。」
「そなた、歩きながら鍵穴を見比べていたのか?」
「まぁね。」
細長い直方体の受け口は真鍮製であった。見知らぬ物体の大きさに合わせて作られたものと思われる。差し込んだ鍵を引き抜き、蝶番の向きに従って部屋の扉を手前に引く。何も特別な世界を望んでいる訳ではない。横になる場所と心落ち着かせる空間があれば良いだけである。備え付けの椅子の背もたれにユストは脱いだコートを掛け、暖炉と煙草に火を灯す。椅子と揃いのテーブルの表面をなぞれば数ヶ月の間、利用客に恵まれなかった部屋とは言え、毎日清掃を怠っていない様子が覗えた。気兼ねなく振舞える中、煙草の煙を安堵の溜息と共に吐き出しながら椅子に座り、部屋全体を眺めている内に食事が用意された。樫をくり抜いて作られた器に盛られていたのは近海で採れたと思われる魚をすり身にして丸めたものと数種の根菜を煮込んだ粥である。これがノエミリオの伝統的料理なのか、あるいはこの閑寂のさざ波独自の料理なのかは判りかねるが、しつこくない味付けにユストは満足を覚えた。
「イルサーシャ、君も食事を摂るかい?」
宿の主が何も知らずに剣霊の分として用意された器に手を伸ばしたユストはベッドの傍らに腰を降ろして匙が動く様子を眺めていたイルサーシャに声を掛けた。
「そうだな。我はともかく、こやつらが腹が減ったと先程からうるさくてな。明日の事を思えば、多少のご機嫌取りも必要だと思うぞ?」
イルサーシャは組んでいた脚を入れ替え、短く笑いながら長い白銀の髪の隙間から見え隠れするピアスを軽く弾く。
「明日か…。」
まだ星が煌いていた時間にミゼレレは食事の時の会話は人間にしか出来ないと語った。この会話も今日この時を以て最後となるかもしれない。器と同じく樫で作られた匙で掬った麦粥が食欲を掻き立てる湯気をユストは見つめていた。
「一つ君に聞きたいのだが。」
「何だ?」
何を今更畏まってと言わんばかりの表情の剣霊はベッドの端から暖炉の脇へと移動した。剣霊に暑い寒いの概念は無い。ただ剣である以上、冴え渡る刃を持つ刀身は熱を発する事無く外気よりも冷たい。契約者に触れる手に少しでも温かさを持たせようという彼女なりの配慮であった。
「仮に同じ立場の者が二体いたら、互いにどういった行動をとるだろうか?」
ユストはこの手の想定話が好きであるとイルサーシャは熟知している。
「自らを弱い者と謙虚にしているのであれば、まずは相手を理解しようと手を差し伸べる。自らは強い者と驕るのであれば少しでも先に相手より優位に立とうと争う。簡単な話だと我は思うが。」
暖炉に両手をかざしたイルサーシャは次の質問を発しようとしているユストがためらっている様子を知った。樫の匙の上に放置したままの麦粥を口に運んだユストは数回咀嚼して呑み込む。その一連の動作は彼の中で生じたわだかまりも共に呑み込んだ様に思えた。
「では…その二体が神と言われる存在ならば…?」
どうやらここからが本題の入り口と思われる。左の眉を僅かに上下させた後にイルサーシャは暖炉にかざしていた手をそのままに口を開いた。
「いがみ合うであろうな。」
「何故そう思う?」
「神とは信仰の対象だ。信仰とは崇拝の継続を意味し、信仰の対象である者は己が常に最上であり、己を凌駕するものを認めてはならないと理解している。いがみ合うといえば神剣霊が最も身近な例であろうに。」
「なるほどね。」
自らの剣霊の持論に関心を示したユストは麦粥を掬う匙をテーブルに置き、両方の手を交差させた上に髭を剃ってから数時間経過した顎を乗せた。
「ただ、剣霊帝様とミゼレレはともかく、インファンティラに関しては誰も崇拝していないと愚生は思うが?」
「いや、している。正しく言うなれば、してしまったのだ。」
暖炉の中で薪が弾け、火の粉がかざしている白い手の甲に降り注ぐ。人間であれば軽度の火傷を患うものの、剣霊には縁の無い話である。むしろ手首から先を覆う衣服に穴が開かなくて良かったとイルサーシャは感じていた。
「してしまった、とは?」
「先のトオラドオクの城でインファンティラと刃を交えた者は彼女の力に慄いた。ユストにル・ゾルゾア、そして我も同様だ。」
「ならばインファンティラの力を認めなければ問題は無いとでも?」
「それは無理な話だ。思考という予測ではなく、行動の結果がインファンティラを認めているからな。」
今回はイルサーシャが描いていた思慮がユストの疑問を難無く覆い尽くした。自慢げではないが短く鼻で笑ったイルサーシャは充分に温まった両手をユストのそれぞれの肩に置いた。
「手の動きが止まったままだぞ?話も良いが温かい内に粥を平らげるのが先だと我は思うが。」
熱されようとも剣霊の手は百年香の香りを纏っている。人肌以上の熱に反応した香りは普段の爽やかさよりも熟成された香木の濃厚な匂いを嗅ぐ者に思わせ、剣としてではなく、女としての魅力を引き出していた。
その後、常に横に置くべき剣霊の勧めに従って二杯目の麦粥の器を空にしたユストは食後のコーヒーを片手に煙草の煙を揺らしながら愛剣を磨いた。どれほどの時間を費やすのかと剣体に戻る前のイルサーシャは問い掛け、ユストは三十分と答えた。緑色の瞳を穏やかに細めながら十五分で済ませろと注文を付けてくる。今日は新月の日である。少しでも会話を愉しみたいのはお互いに理解している。多少の理不尽もこの日に限り目を瞑れた。努力してみると短く応じたユストは最後の一口を終えた煙草をテーブルの脇に置かれたの石製の灰皿に押し付けた。落ち着いた色合いもさることながら、見る者に感慨深い世界を思わせる縞模様からしてメノウ製であろう。
白銀の刀身を持つ直剣はその身を二匹の黒蛇を絡ませて守らせている為なのか、目立つ汚れは見受けられなかった。昨晩、第十三条が適応されている間にシェス・ロウが磨いたとも思われる。だが仕上げはこの剣に命を託した者が行わなければならない。先の雑貨屋で煙草と共に購入した鹿革を用いて上下ではなく、細かな円を描きながら磨く。薬を擦り込む様に、愛情を植え付ける様に、そして自らの中で膨らむ疑問を直視するかの如く腕を動かす。
崇拝とは人間以外の何かを敬うのが全てではない、人間以外の何かを畏れるのも同じ行為だとイルサーシャは語った。その言葉が意味する事が真理であると断言まではいかないものの、間違いではないともユストは感じていた。マナエグナの民が崇拝していたのであろうイルセリアとイルイザリムは争い、その結果として敬虔なる者たちを滅亡への道程へ導いてしまったのか。またこの二神とイルサーシャの関係はどのようなものであったのか。滑らかな鹿革が二匹の黒蛇の頭を撫で、互いに絡ませている胴を拭き上げる。
「君達が見つめていたのは何だろうか…。」
思わず言葉が漏れてしまった。刀身の中央に走る血抜きの付け根に頭をもたげる二匹の黒蛇は当然ながら何も答えない。造形とはいえども何物をも捉えんと言わんばかりの鋭い眼差しは緩やかに流れる歴史の変遷をどの様に見つめていたのかと、結論を見出せない想像と共にユストは柄の末端に位置する尾に親指の腹を沿わせる。生死を左右する剣の手入れは終わった。二杯目のコーヒーで喉を潤す。味に文句は無いが温かくも冷たくも無い。イルサーシャの要望よりも五分ほど多く時間を要していた。
刀身を丁寧に磨かれた事で少し体が軽くなった気がするイルサーシャは語った。満足げな剣霊は白銀の長い髪に手櫛を入れながらユストに横になる様にと勧めた。彼女が食事を始める為である。皺の無いベッドシーツの上に仰向けになったユストの上に剣霊が惜しみも無い馬乗りの態を晒す。首元を覆う協会から支給されたスカーフを解き始める。彼女の食痕が露になった。剣霊のしなやかな指が赤黒く腫上がった契約者の証を優しく撫でる。血を摂取する申し訳無さが半分であり、残りは食事という生理的欲求の昂ぶりを抑制しているかの様な指の動きは毎度変わる事は無かった。ユストは水鳥の羽を詰めた枕に沈んだ頭を右へと傾けて顎を上にする。少しでも食事がし易い様にと彼なりの気遣いである。半開きにした剣霊の口が近付き、視界から消えた。首筋に冷たいものが走り、白銀の長い髪が鼻の直ぐ脇を撫で、百年香が食事を始めた事を知らせてくれる。久々にまともな場所で横になれた。そう思うと体から力が徐々に抜け、イルサーシャの頭に添えた手をあやす様に動かす事も億劫になりつつあった。ユストの胸の上に置かれた剣霊の手は未だに暖炉にかざしていた際の熱を有しており、彼の閉じた目に安らぎを与える。四股の筋肉が弛緩し始めている様子が判る。新月の日に許された会話を愉しみたいイルサーシャには悪いが、少し眠りに就こうとユストは思った。衣擦れの音が小さくなり、時を刻む置時計の規則正しい音は聞こえなくなった。
眠りに就いてからどれほどの時が経過したのかは判らない。懐かしい声がユストの耳の奥を撫でた。一つではない、二つである。幼少時から、いや、この世に生を受けて自我の確立を実感した時から耳にしていた声である。
「起きろ、ユスト。」
「起きなさい、ユスト。」
二つの声を最後に聞いて五年以上は経過している。その頃よりも若干の若さを纏っていた。何もかもに対して興味を実感し、幸福を謳歌していたあの時代に毎日耳にしていた二つの声。訝しむよりも先に懐かしさを優先させたユストは声の指示に従って目を開いた。眠りから覚めて間もない為なのか、周囲の景色が霞んでいる。だがイルサーシャの姿は鮮明に映っていた。いつもの様にユストの胸に横顔を密着させて目を閉じている。剣霊のか細い肩に手を伸ばし、数回揺さぶったが反応は無い。
「彼女なら寝ている。」
「彼女には寝てもらったのよ。」
剣霊は眠らないとイルサーシャは日々語っていたが、この霞んだ世界では適応されないのか。白銀の長い髪から周囲に再び視線を移す。先程まで剣体となったイルサーシャを磨いていた際に腰を降ろしていた椅子には若かりしアウグスト・バレンタインの姿があり、眠っているというイルサーシャのつま先の横では同じく若かりしマリア・バレンタインが脚を揃えて座っていた。
「何を驚いている、ユスト、お前が呼んだのだ。」
「変な顔をしているわ、ユスト、あなたが求めたのに。」
アウグスト・バレンタインのはっきりと見て取れるズボンの折り目は、国家銀行の行員の誇りであり、家庭の幸福を築き続けている栄誉を示しており、マリア・バレンタインの品の良い趣は一家を影で支えている良妻ぶりが手に取る様に判る。若かりしユストが常に見てきた父母の姿に変わりはなかった。
「親父殿とお袋殿、なのか…?」
頼みとなる剣霊の肩に置いた手をそのままにユストは口を開いた。手から伝わる剣霊の冷たい感覚は感じられない。二人が語る様に寝ているかの如く温かい。
「まさか。真の姿で現れた方が良かったのか?」
「冗談が上手いのね。何度もあなたと会っているのに。」
「真の姿…?会っている…?まさかお二人は…?」
身動きしないイルサーシャの横髪を耳に掛ける。彼女の耳からぶら下がっているべき存在は見当たらなかった。
「そうだ。」
「そうよ。」
アウグスト・バレンタインは頼れる腕を組みつつ微笑を漏らし、マリア・バレンタインは右の斜め後ろで一つに束ねた自慢の黒髪を体の手前に手繰り寄せながら優しく微笑む。ユストが長年目の当たりにしてきた二人の癖を父母を象る存在たちは忠実に再現していた。
「ユストよ、お前はイルセリアに興味を示した。故に姿を現したのだ。」
「ユスト、あなたがイルセリアに関心を抱いた。だからこうして会いに来たのよ。」
霞んだ世界の中でユストの父母を象る存在は柔らかな眼差しをしている。彼の思惑が間違っていないのであれば、この二人は何もかもを睥睨しているイルサーシャの従者であろう。
「教えて欲しい。イルセリアとは?そしてお二人はイルセリアとはどの様な関係なのか?」
イルサーシャの頭を押さえながらユストはシャツ一枚姿の上半身を起こした。寝ているという剣霊は目を覚まさず、その身の動きに抵抗すらしなかった。
「イルセリアはマナエグナが望みし神であり、我らはイルセリアの僕に過ぎないのだよ。」
「イルセリアはマナエグナを見守る神なのよ。わたしたちはイルセリアのお供をしているだけ。」
今、自らがいる場は現実なのか、それとも現実とはかけ離れた世界なのかとユストは備え付けの机の上に置かれた置時計に目を凝らす。歪んだ視界の中で時計の針は単純でありつつも正確を要求される役割を果たしていなかった。
「つまり、イルサーシャが、彼女がイルセリアなのか?」
父はイルセリアの僕と語り、母はイルセリアの共をしていると口にした。イルサーシャも両耳の先に居座る二匹の存在を自らの従者だと教えてくれた。この二つの事柄を組み合わるとなればユストの発言はごく自然であり、誰もが違和感を抱かないであろう。だが、息子の問い掛けを耳にした父母は肯定も否定もせずに黙っている。核心を突く内容に触れてしまったのだろうかとユストが思いきや、アウグスト・バレンタインはたまらずに高らかに笑い、マリア・バレンタインも手で口を覆いながら笑いを零し始めた。
「ユスト、お前はいつからそんな戯言が上手くなったんだ。」
「ユスト、あなたの発想にはいつも驚かされるわ。」
霞む世界の中、二人の嘲笑は止まらない。一方のユストは憮然とする事無く、イルサーシャの頭を支える手に力が入るのを感じつつ黙って二人に視線を合わせていた。
「彼女はマナエグナの巫女に過ぎないのだよ。」
「そう、巫女という響きの生贄なのよ。」
アウグスト・バレンタインは身を預けている椅子から立ち上がり、マリア・バレンタインは僅かに上半身を屈めてから楽にしていた身をベッドから離した。
「とはいえ、彼女はイルセリアのお気に入りでな。」
「イルセリアはわたしたちに彼女を守れと命じられたのよ。」
「そして、イルセリアが目を掛けた彼女はユスト、お前をたいそう大事にしている。」
「彼女の喜びは同時にイルセリアの喜びでもあるのよ。」
「無論、その逆も然りだ。」
「ユスト、あなたも彼女の様にイルセリアに全てを捧げなければならないのよ。」
ユストにとって偉大であり超えられない存在である父の指がイルサーシャの右耳に触れ、愛情の何たるかを優しく諭し続けてくれた母の指がイルサーシャの左耳を詰った。依然としてイルサーシャは緑色の瞳に闇を与えたままであり、ユスト以外の者が触れても剣霊が有する無情の刃は効力を成さなかった。
「穏やかな寝顔だ。未来永劫を知る剣霊にしては良く出来た表情だな。」
「健やかな寝顔だわ。マナエグナの巫女であった頃もこの様な顔をしていたのよ。」
まるで愛しい我が子の深い寝息を確かめる様に、そして自らが発した言葉を実感する様に耳に触れた二人の指が動く。寝ているという剣霊はいつもの様に呼吸をしていない。本当に寝ているのか判断はしかねるが、絶妙な長さを有する彼女の睫毛は微動だにせず、閉じた唇はいびつな孤を描かずに一文字に結ばれていた。
「そろそろ時間だ。また会おう、ユスト。彼女を頼んだぞ。」
「ごきげんよう、ユスト。彼女を大切にしなさいね。」
「彼女はお前の剣だ。常にそうして抱き締めているのだぞ。」
「剣である彼女を抱き締める手を緩めたら駄目よ。彼女が悲しむわ。」
「あぁ、悲しませたら許さん。その時はお前の中を流れる血を全て吸い尽くすまでだ。」
「そうね。血だけというのは面倒だから、骨と肉も一緒に頂こうかしら。」
「ユストの心臓は我が頂こう。」
「でしたらわたしはユストの肝臓と左右のふくらはぎを頂戴しましょう。」
「さて、脳はどうしたものか。」
「そこは半分ずつが良いと思うの。」
威圧感溢れる内容をにこやかに語るユストの父母は共に空いている手をイルサーシャの頬に添えた。数十年前の光景はこの様なものだったのだろうか。その時は目の前のイルサーシャの代わりに自らがその位置にいた。当時から薄々は気付いていたが、幸に溢れた家族だった。
「少し待って欲しい、愚生はまだ聞きたい事が…。」
「ユスト、それは次の機会だ。」
「楽しみは温存するものよ、ユスト。」
イルサーシャの頬を撫でていた二人の掌が言葉を遮るようにユストの面前を覆う。姿形は彼の知る父母であったが、触れる掌から伝わる体温は全く別であり、冷たくも温かくも無い。父母を懐かしむ要素としては残念でありつつも、目の前の存在が自らが覚えている父母とは異なっていて良かったという安堵を同時に感じる中、霞んだ世界は霧に覆われる様にして視界から消え、意識が遠退いた。
目を開けば経年によって浮き出た天井のしみが出迎えてくれた。依然としてベッドの上で横になっていた事をユストは知り、力が抜けていた腕を動かす。胸の上に手を当てようとしたが、その場は白銀の長い髪を持つ剣霊の頭が既に陣取っていた。
「目が覚めたか?そなた、これまでに無いほど熟睡していたぞ?」
居心地の良い場所と言わんばかりに充足感を堪能している口元をそのままにイルサーシャは楽にしている脚の位置を入れ替える。柔らかな肌触りと適切な保温能力を提供している羊の毛を用いた毛布が波を打ち、その奥では火が消えてからだいぶ時間が経過している暖炉が静かに佇んでいた。
「熟睡か。そうだったのかもしれないな。」
「あぁ。そなたが寝返りをしないものだから、我はずっとこのままの姿勢で居られて満足していたところだ。」
「そうか、君が満ち足りた時間を過ごせてなによりだよ。」
ユストは伸ばした掌をイルサーシャの項に当て、逆撫でする様に白銀の長い髪に手櫛を入れ始めた。
「そなたとて体が休まって気力を養えたのであろう?熟睡とはどの様なものか剣霊の我としては吟味したいものだな。」
霞んだ世界に於けるイルサーシャの様相を思い返したユストは苦笑を漏らし、彼女の髪を数本摘み上げて自らの上唇へと近付けた。当然ではあるが、数本であろうとも微かにも百年香の香りを漂わせている。霞んだ世界では彼女の愛する香りを実感する機会が無かったと思えば、あれは夢であったと信じたい。それにしても夢にしては出来過ぎた内容だったとユストは感じていた。イルセリアの詳細については聞けず、イルイザリムに於いては名前すら出なかった。生前のイルサーシャはマナエグナの民が構築する世界で巫女と位置付けられ、彼女を含めたマナエグナの民が崇拝していた対象からは生贄と断言されてしまった。彼女が巫女として育んだ敬虔とは何であろうか。そもそも彼女は生贄と解って巫女の道を歩んだのか。またはマナエグナの掟やら慣例に沿って歩まされたのか。そして彼女が剣霊となった理由を彼らは知っているのだろうか。教えを乞おうにもまた次の機会と軽くあしらわれた。果たして次の機会にめぐり合えるのかと思うと摘み上げた髪を弄ぶ動きがゆっくりとなり、やがて潤滑油が切れた仕掛けの如く動きを止めた。
「その様子だと、夢とやらを反芻しているな?どの様な内容だったのか我に聞かせてもばちは当たらないと思うが。」
ユストの注意を引こうとしてなのか、落ち着いた声色でイルサーシャはうそぶいた。巫女と称され生贄と呼ばれた存在がばちを語るのかと皮肉を感じるのと同時に、ユストは眉間に皺を寄せた。厳密には声を出そうとした結果がそうさせていたのである。剣霊使いの声帯は振動せず、白銀の長い髪の剣霊が望む声は薄闇を纏う部屋に響かなかった。
長くも短くも無い一日が終わり、剣霊障に思い悩む日々が始まった。だがこれが普段の姿であり、死を迎えるまで共にする煩いだと深く理解している。同時に西端の神殿で待ち受けるインファンティラと雌雄を決すべき時が差し迫っている事もユストは知った。
「早いものだな、月が生まれ変わるのも。少々心残りだが、覚えていたら次の機会にでも聞かせてくれ。」
諦め口調のイルサーシャは白い手をユストの喉へ伸ばした。全てを切り裂く指の先端が露になったままの食痕をなぞる。奇しくもこちらの世界でも次の機会という言葉を最後に聞く羽目となった。声による返事は言うまでも無く、首を縦にも振らないユストはイルサーシャを胸の上からベッドへと移し、立ち上がった。厚い生地ではあるが遮光性がいまひとつ物足りないカーテンの向こうは仄かに明るい。見えるか見えないかの月が瞬く星々の輝きに混ざって恥ずかしそうにしているに違いない。寝起きの渇いた喉を潤す為に残しておいたコーヒーを求めてテーブルの上へ視線を移す。彼に至福の一時を与える飲み物が注がれた白磁のカップの横で妖しく黒光りする物体があった。鎌首をもたげた黒蛇と自らの尾に噛み付く黒蛇の眼差しはユストを貫こうとしている。一方のユストは彼らに一瞥を投げただけで、何事も無かった様に喉を潤し始めた。
月が生まれ変わる日は終わりを告げた。




