同郷の誼
テヴァ・ザイロンの住居の門を潜る前にイルサーシャがハガンに耳打ちをしていた。白銀の長い髪を垂らしたままの剣霊と烏の濡羽色の髪を無造作に結い上げた剣霊の後ろ姿は対照的であるが、共に剣としての誇りは互いに譲らないものを備えているのであろう。ハガンの白い項が動き、流麗な目尻が後ろを歩くユストを見つけて微笑を漏らした。
「まぁ、その様な事でしたらごゆっくりと。テヴァには我から申し伝えておきましょう。」
どうやらイルサーシャの耳打ちに対する回答の様である。何を囁いたのかは判りかねるが、ユストとイルサーシャ自身に関する事であると予測はつく。ハガンが漏らした微笑は微笑ましい事柄なのか、あるいは幾ばくかの嘲笑を含んでいたのか。どちらにせよ、ユストには肩をすくめて応えるしか術が無かった。
まるで散歩から帰ったかの如く軽やかな足取りで木造の離れに向けてイルサーシャが先に歩く。彼女には既にテヴァ・ザイロン邸の見取り図が頭の中にある。ユストは自らの故郷である中央行政府の建築様式とはまた一味違うノエミリオの建造物に関心を寄せつつゆっくりと足を動かしていた。
「さて、ユスト。」
扉の軋む音を耳にしたかと思えば矢継ぎ早にイルサーシャが口を開く。部屋の片隅には表面が乾き切って白茶けた簡素な椅子があった。何物をも切り裂く剣霊の人差し指がそこに腰を降ろす様に命令を下している。あくまでも命令であり、剣による人間への配慮ではない。抵抗を試みるべきではないなと肌で感じたユストは整然と畳まれた毛布の上へ脱いだコートを投げるなり、椅子へ腰を降ろした。そしていつもの様に足を組み、イルサーシャの出方を覗う。何かしらの尋問を行うのであれば足を組むなと普段の彼女なら語気を荒げる筈である。だが、彼女の緑色の瞳は穏やかであった。椅子を指差していた手がユストの肩に触れた時、扉を叩く音が聞こえた。
「構わんぞ。」
金属同士が擦れる音と共に扉が開く。外の日差しが大小二つの影を作り、部屋の奥へと伸びる。一つはハガンであり、残るはソフィであった。
「イルサーシャ、お湯を持って来たよ?」
少女は使い込まれた木製の桶を両手で抱えていた。中から湯気が沸き出ている。本来ならばハガンのみで良かったのであろう。だが、剣は湯気を嫌い、しかも華奢なハガンにはイルサーシャと同じく湯を張った桶を持ち続けるのは難儀なのであろうとユストは眺めていた。
「かたじけない。ユストの足元に置いてくれないか?」
「あとイルサーシャ、あなたの衣服が乾きましたから…。着慣れぬ我のものよりもこちらの方が落ち着くでしょう?」
「あぁ、助かる。正にそなたの言う通りだ。我にとって必要以上に行儀良くするのは些か窮屈であったからな。」
ハガンの腕には白地に黒の幾何学模様が走るイルサーシャのドレスが掛けられていた。足音も無く衣擦れの趣の有る音だけが木造の離れの中に遠慮気味に響く。
「ハガン、今更だが有難う。愚生のイルサーシャが世話になった。」
頭を下げるユストの首筋にハガンの視線は向けられていた。無論、協会から支給されたスカーフで隠されているが、剣霊という立場からしてみればそこに食痕があると教えているも同然である。涼しげな雰囲気を身に纏う行儀の良いハガンとて他の剣霊が何処に食痕を残すか興味が有るのだろう。ユスト自身もそれに気付き、僅かな間を置いて自らの左の首筋に右手を被せた。
「礼には及びませんわ。」
僅かに口の両端を持ち上げながらハガンは答え、改めて白銀の長い髪の剣霊をまじまじと眺めるソフィに共に部屋の外へ出るように促した。ソフィは親しきハガンの言葉に素直に従う。また後でね、と幼年期の少女らしい言葉を残して開け放たれた扉を閉めた。
ゆらめく湯気が晩秋の冷たく乾いた空気をしなやかに仕立て始めている。腰よりも高い位置に巻き付けていた帯を解いたイルサーシャはハガンの袷から着慣れたドレスの袖に腕を通す。背中のボタンには敢えて触れない。このボタンに触れて貰いたい者は唯一の者であり、その唯一の者自身も自らが触れるべきと理解していた。
「ユスト、顔を洗え。そなたの身だしなみを整えなければな。」
再びイルサーシャの方から沈黙を破った。身だしなみを整えるとは髭を剃る意味に他ならなかった。ユストは両手に嵌めていた手袋を外し、頬に掌を添える。確かにざらついている。剣霊使いは剣霊の剣体以外の刃物を手に出来ない。必ずしも手に出来ないという訳ではないが、それは剣霊の気分を大幅に損ねる覚悟が必要である。剃刀もその中の一つに数えられた。二人はこれからテヴァ・ザイロンという特殊番号を協会から与えられた剣霊使いと対面する。通常番号を持つユストと実力と経験を比べるものではない。ならば箔付けではないが、見た目だけでも整然とするべきであるとイルサーシャは考えていた。無論、彼女の思慮は自らの体面を保つ為でもある。剣が柄を握らせる人間のあらゆる面を管理するのは剣霊ならばこその常識と言えよう。
「あぁ、お願いするよ。」
ユストはシャツの袖を捲り、桶に張られた湯へ両手を潜り込ませた。久々に自らの体温より温かい世界に触れ、満足と安堵が入り混じった溜息が思わず零れる。掬った湯が頬を撫で、眉の付け根から先端へ、鼻の先から脇へと左右の人差し指を這わせる。温かさを失った雫が潮の香りの名残りを口の脇へと運んだ。長い間潮風に身を晒していた結果である。イルサーシャも同じではないのかとユストは顎先に流れた水滴を気にせずに脇に立つ剣霊の顔へと視線を投げた。
「我なら平気だ。それよりも顔を拭いたら我の願いを聞いてくれないか?」
心地良い吸水性を期待出来そうな乳白色のタオルを差し出したイルサーシャの緑色の瞳はユストの思惑を読んでいた。
「百年香だ。早く百年香を焚いて欲しいのだ。あの香りが無いと我は落ち着かん。」
何かに怯える様なという表現がこの場合は適しているのだろうか。いらつく様子を醸し出しているのは単なる裏返しであるとユストは判っている。顔に付着する水分を拭い、毛布の上に投げたコートの裏ポケットからソノイの樹液による筒を取り出した。この中に百年香の香木が納められている。東部にのみ生息するミナエの木を百年もの間、湖に浸して作られる嗜好品であり、五百余年を知るイルサーシャが愛用する事により、その起源は遥か昔と思われる。原料の採取が限定される事と完成までの仕込みの期間を見る限りそれなりの高額な品ではあるものの、女性の大半は樹木の爽やかな香りよりも花の鮮やかな香りを好む。故に百年香を用いる時とは一般的に祭事か葬儀の際というのが今では定着していた。
「香皿の代わりにこれを使うしかないな。」
ユストは枝付きの燭台を手に取ると右端の蝋燭を抜き取り、百年香を差し込んだ。幸いな事にマッチも備え付けてある。慣れた手付きでマッチを擦り、香木の先端に近付ける。僅かに焦げる匂いがした後に緩やかに煙が昇り始め、白銀の長い髪をした剣霊が心待ちにしていた香りが広がった。剣霊は息をしない。だが、目を閉じて百年香を堪能するイルサーシャが鼻から深い溜息を漏らしたかの様にユストには見えた。
「火は消したか?」
「あぁ。消したよ。」
「どうやって消したのだ?」
おかしな事を聞く。燭台をイルサーシャの足元に置いたユストの顔が目を閉じたままのイルサーシャに向けられた。
「どうって、吹いてだが…上品に手で扇げば良かったのか?」
「ハガンは火を斬って消したぞ?あの者、剣霊の中でも凄腕の部類だ。」
イルサーシャの開かれた緑色の瞳が早く椅子に戻る様に促している。柔らかな趣を携えた目尻は百年香によるものが半分、残りはハガンには敵わないという苦渋の思いを吐き出した開放感によるものであろう。
「火を斬る?信じられないな。」
「我の目の前で炎が横にずれて消えた。ほんの僅かな間ではあったが、あれは錯角では無い。」
「そうか。君の言う通りなら確かに凄腕だな。ただ、愚生としては彼女の髪に目を奪われたよ。」
椅子に腰を降ろしたユストの後ろに立つイルサーシャの右の人差し指が頬に密着し、ゆっくりと一定の方向へと動く。離れてはまた密着し、同じ動作を繰り返す。暇を弄ぶユストは利き腕である左手を伸ばし、イルサーシャの髪の先端を摘み、指に巻き付けていた。
「その点なら、そなたの黒髪は陽に当たると幾分茶色掛かるが、彼女のは青光りする様がなかなか美しいと我も思った。」
「確かに色合いもそうだが、愚生が言いたいのは髪形だよ。剣霊は髪を束ねたり纏めたりするのは好まないと聞いているが?」
頬から下にずれ、喉許から下顎へ向けて動く。剃刀の代役を務める細い人差し指が協会から支給されたスカーフに触れた時、一瞬だがぴたりと息を潜める様に止まった。
「剣にとって刀身は誇りそのものであり、剣霊の髪も同様だ。まさかそなた、我にも同じ事をしろというのではなかろうな?」
「ものは試しと言うだろう?」
「よせ、変な考えは起こすな。今ここで手許が狂っても知らんぞ?」
それは困るとユストは鼻で笑う。ハガンの剣体とはどの様なものかと気になるのは剣を携える者なら無理もない。髪を結い上げても気にならない点からして薄い刀身なのであろうか。しかし、薄さを求めれば幅が生じる。幅広の剣では火を斬れない。どんなに高速な横薙ぎの一閃であろうと薄さが歪みを生じ、幅が広ければ一点を通過しきるのに時間が掛かる。そもそも高速の横薙ぎを繰り出すには限界がある。腕を振る速度以上の付加効力が働く為には何が必要なのか、とユストは指に巻きつけた白銀の髪をなじる。一方のイルサーシャは髭が付着した人差し指を乳白色のタオルに添わせた。髭というのは頭髪よりも色彩豊かなものである。淡い色の世界に黒と茶と金の三色が混じった。
「話題を変えないか、ユスト。」
理論ばかりが交差して明確な解答が見出せないユストの左の耳たぶを軽くなぞるイルサーシャの指が軽快に動いている。
「そうだね。」
「そなた、ミゼレレと第十三条を交わしてどうであった?」
ユストの後ろに立つイルサーシャには彼の表情は見えない。耳に触れている為に彼の喉が上下する感覚も判らなかった。
「…君もシェス・ロウに第十三条を適応したのだろう?」
「無論だ。あの状況下ではそうせざるを得なかった。故にミゼレレに血を与えたそなたを責めるつもりは毛頭ない。」
左から右へと細い指が移る。ユストの手が剃刀代わりの指の根元にある華奢な手首を掴んだ。
「ミゼレレの唇は…柔らかかったよ。」
「ほぉ。それだと我の唇は岩の様な硬さだと言っているようなものだぞ?」
手首を掴まれようとも細い指は成すべき役目を続行している。丁寧に且つ正確に動く様は動揺の欠片を感じさせない。イルサーシャは直情的な性格の持ち主だとユストは見ていたが、今回ばかりは彼の見識に些か狂いが生じている。或いは怒りが絶頂に達したあまりに彼女自身もどう出たら良いのか思いあぐんでいるのであろうか。
「まぁ良い。我の顔が近付いた時、シェス・ロウは閉じた目に力を込めて鼻を鳴らしてな。その可愛らしい仕草をミゼレレは毎回目の当たりにしては愉しんでいるのだろうと思ったのだ。」
「毎回、とは?」
鼻の下へ触れる手前でイルサーシャの指がぴたりと止まった。
「そうであろう?我とミゼレレの食痕は同じ部位にあるのを知らなかったとは言わせんぞ?」
「あぁ、そうだったね…。」
何かが食い違っている。毎回とはどの様な意味なのかユストは曇った窓を眺めながら答えを手繰り寄せ始めた。ユスト自身もそうであったが、イルサーシャも第十三条の具体的な行い方を知らなかった。第十三条とは剣霊帝の食事の摂り方を真似るとミゼレレは言った。だが、イルサーシャが行った第十三条は話の筋からして他の剣霊の食痕に口を着けたのであろう。果たしてどちらが正式であったのか。幼きシェス・ロウの教えが間違えていたのか。若年だからという理由で間違えを押し付けるのは正しくない。むしろ若年であるからこそ正直にイルサーシャに伝えたと考えられる。閉じた瞼の裏にミゼレレの顔が浮かぶ。端正な口は何かが抜け落ちたかの様に虚ろに開き、静寂を纏った瞳の奥では堰き止められた激流が今にも暴れださんと言わんばかりであった。あれは女にしか出来ない表情であり、欲求に心を支配された女の表情を男はそう易々と忘れられないものである。ミゼレレは嘘を吐いた。厳密に言えば、神剣霊に嘘を吐かせてしまった。その事実の確信は白銀の髪を巻き付けていた指を微動だにさせなくしていた。
「さて…、そろそろスカーフを取っても良いか?ミゼレレが口を着けた我の食痕がどうなったのか知りたいのだが…。」
鼻の下を数回なぞった人差し指は再び乳白色のタオルの上にあった。落ち着きを払ったイルサーシャの声は椅子の上で大人しくしているユストに聞こえる様に、また自らに言い聞かせている様な響きをしていた。
「ミゼレレの食痕はシェス・ロウの首全体に広がり、目にした誰もが痛々しく思わざるを得ない程、凄惨なものであった。そなたの首筋がその様になってしまったかと思うと我は気が気でないのだ。」
スカーフの結び目に触れようとする指が微かに震えている。いかに凄惨であったのかを言葉よりも体が示している。ためらいを隠しきれないイルサーシャの指にユストのそれが覆いかぶさった。
「愚生が解く。恐らく君の食痕はそのままだと思うが?」
「恐らくだと?そなた、何の根拠があってそこまで言い切れるのだ?」
語気を荒げるイルサーシャはユストとミゼレレの第十三条を知らない。目の前の剣霊に真実を説明出来ない剣霊使いはまだ見ぬ事実に多大な不安を抱く冷たい指を擦るしか出来なかった。
「すまん。そなたを責めるつもりはないと我自身で言っておきながらこの有様だ…。」
震えていた指先がぬくもりを見出したかの様に静かになる。ゆらめく百年香の煙が猛る剣霊の心を優しく包み込み始めていた。
「第十三条はあくまでも仮の食事であり、新たな食痕が残る事は無いとミゼレレは教えてくれたよ。」
イルサーシャが人間であれば短くも重い溜息を漏らすで有ろう中、ユストは受け売りの言葉そのままに黙々とスカーフを解き始めた。首筋に二重に巻かれた布が広がり一重となり、ただ独りの剣霊のみ見る事を許させる首筋が露になった。人間の目は真後ろの様子は覗えない。だが、背中で感じ取るのは可能である。自らの食痕が以前と変わらぬままと知ったイルサーシャが安堵の表情を作っているのをユストは判っていた。
「動くな。最後の仕上げだ。」
一通り剃り上げた筈だがとユストが訝しむと同時に左右の首筋に冷たいものが走る。イルサーシャの両腕が絡み付き、百年香の匂いを纏わせた長い髪がユストの横顔に近付き、彼女の手癖である横髪を耳に掛ける仕草をユストの耳で行った。
「ユスト、そなたに買ってもらったショールはぼろきれの様になり、薔薇の切花は海の藻屑と化してしまった。すまないと思っている。」
「また買えば済む話だ。気にする必要は無いよ。」
「だが、ユストは買えん。いかほどの大金を用意しようとも命を落としたそなたは戻って来ない。だから今後は我から離れるな。我もそなたから離れない。この様な思い、二度としたくないからな。」
あぁ、と何気なく短い返事をするユストの顎先に全てを切り刻む冷たい手が添えられた。横を向く様にと剣霊にしてみれば最大限の力を込め、誰も触れられない唇がユストの口を覆った。顎先に添えた手が横に移動し、剃り上げたばかりの頬を撫でる。契約者の体温を確かめるかの様に、体温を奪い取ろうとしているかの様に細い指の先端が密着しながら動いている。お互いの鼻の先端が数回交わった後、満足を覚えた剣霊の唇が離れた。
「これで最後の仕上げは終わりだ。我の唇もなかなか柔らかいであろう?」
切れ長の目尻が優しさを保ちつつ細くなり、緑色の瞳は愛しき対象者を捉えている。ユストはイルサーシャの問いには答えず、黙って親指の腹で自らの唇を拭った。確かにこの様な思いは二度としたくない。ユストは自らに言い聞かせた。
百年香の香木が燃え尽きるまで残り僅かであった。
これから面会をするテヴァ・ザイロンなる人物についてユストがあれこれと思考を巡らすのは無理もない話である。相手は剣霊協会から特殊番号を与えられる程の実力者であり、いわばユストとは実力もさることながら経験も雲泥の差である点は認めざるを得ない。では果たして特殊番号を与えられた者の性格とはどの様なものであろうか。気難しいのか、寛容なのか、頑固なのか、温順なのかと様々な予測が脳裏を掠め始める。木造の離れを後にし、家主が待つ母屋へと向かう最中、扉の前で佇むソフィの姿が二人の目に飛び込んだ。
「ソフィ、そこで何をしているのだ?」
特に暇を弄ばしていた訳でも無さそうである。幼年期の者にとって男女の区別無く、目の前には興味の対象が満ち溢れている。地に落ちている一本の枝を手に取れば、無限の想像力を働かせて一時間は過ごせる。だが、ソフィは一本の枝よりも数時間前に出会った一振りの剣の方が魅力に溢れている事を知っていた。
「これから大事なお話があるから外で遊んでいなさいってハガンに言われたんだ。」
除け者にされたという概念は端から持っていない様子であり、素直で飲み込みが早い性格なのであろう。ハガンから借りた袷ではなく本来の衣服に身を包んだイルサーシャの姿をソフィは物珍しそうに見つめていた。
「大事な話、か。ところで外にいるままだと体が冷えるだろう?愚生たちが出てきた離れの方に入ったらどうだ?」
普段と同じくイルサーシャの後ろを歩くユストが膝を地に着けてソフィに風に身を晒さないようにと言葉を掛ける。ようやく肩まで伸びた栗色の髪が彼女の可愛らしさに一役買っており、ユストは優しく目尻を細くした。
「今日は昨日よりも暖かくなるから大丈夫だよ?」
「そうなのかい?どうしてなのか愚生に教えてくれないか?」
「これだよ。」
ソフィの小さな指がある一点を示した。白い花が一輪咲いている。五角形の茎が特徴的な多年草、死人草である。地中は勿論、人間の亡骸にも根を這わせて養分を摂取する生命力が逞しい植物は、生息地を選ばないのであろう。縁起の良い代物ではないが、赤い花を咲かせていないのが唯一の救いだろうか。
「昨日よりお花を開くのが早かったの。本当なら毎日遅くなるんだよ。」
「なるほど。ソフィはお花の見方をハガンに教わったのかな?」
「うん。あたしだけじゃないよ。友達のみんなが知っているよ。」
ノエミリオの子供たちはハガンを通じて自然の読み取り方を教わっている。恐らく夜になれば星を見て時間は然る事ながら後々の天気までも理解してしまうのであろう。ユストはノエミリオ諸島一帯を海を隔てた文明や文化、技術とは縁の無い地域と見ていたが、自然と共に生きる術に於いては大陸のあらゆる地域を凌いでいる。まだ見ぬ子の言葉に耳を傾ける様な表情をユストはしているものの、内心では舌を巻いていた。
「ねぇ、大事なお話に行かないの?」
「あぁ、そうだったね。」
ユストは折っていた膝を元の位置に戻し、テヴァ・ザイロンの待つ母屋の扉の取っ手に手を掛けた。一方のイルサーシャは手持ち無沙汰ささながら左右のピアスを交互になじりつつ親子程の歳の離れた二人の遣り取りを眺めていた。
母屋とは言えども離れより僅かに広い程度の造りであるのは外見から判断可能であった。違うのは離れで使われているものより幾分耐久性に優れた材料である点と手が触れる箇所には手の脂が滲み込んでいる点である。つまりここは日々の生活の場に他ならない。剣霊使いは一箇所に留まらないという定石から鑑みればテヴァ・ザイロンは引退もしくは隠居という立場なのだろうとユストは思った。
居間へと通じる短い通路を歩きながら両手に嵌めた手袋を外し、コートの左右のポケットに捻り込む。次にコートを脱ぎ、襟の中央を摘みながら縦に折りたたみ、腰にあたる部分を剣技の為にある左腕に掛ける。
「イルサーシャ、今回は愚生の右後ろだ。」
ユストの落ち着いた声は剣霊の立ち位置を指示するものであった。剣を握る手は何も嵌めず、剣を振る腕に重りを載せ、剣そのものは利き腕から最も遠い位置に留まらせる。剣を携える者として、剣霊使いが行う最上位の敬意の払い方である。
居間と通路を隔てる木製の扉は外の出入り口のそれと比べれば薄く、明瞭な色をしている。ユストが打ったノック音は軽快に響き、どうぞと内側で待っていたであろう老人の声がほんの僅かな時のずれを要して耳に届く。磨耗しきった扉の取っ手を握り、趣深い音を奏でながら薄い扉は開いた。
「よく来られた。」
窓に背を向ける様に置かれた肘掛付きの椅子にテヴァ・ザイロンは腰を降ろしていた。顎鬚を蓄えた彼の風貌は逆光と相まってか、年季を経て得た威厳と格調を更に昇華している。肘掛け付きの椅子は彼と同い年と思わせる程、質素な形をし、時の流れを経た色合いをしていた。彼の左側に立つハガンが肘掛に手を置いてこちらに視線を送りつつ何か囁いている。恐らく対面する二人についてであろう。
「はじめまして、テヴァ・ザイロン卿。協会より七十二代目を拝命し者、ユスト・バレンタインと申します。後ろに控えているのは愚生と契約を結んだ剣霊イルサーシャです。」
言葉の後に頭を下げるユストを後ろから物珍しげに眺めていたイルサーシャは彼の左の小指が小刻みに動いている事に気付いた。テヴァ・ザイロンとハガンの位置からは見えない小指がイルサーシャに対して愚生に倣えと語っている。剣が易々と頭を下げるのは如何なものかと思いつつも、今ここで反論を展開しても何も生まれない。ユストの体面を保つのも自らの役目と知っていたイルサーシャはスカートの両端を摘んで軽く持ち上げた。
「我はイルサーシャだ。テヴァ・ザイロン、そなたの剣霊であるハガンに我はいろいろと世話になった。この場を借りて改めて礼を言わせて貰うぞ。」
「あら、そのような事、御気にせずとも良いのに。」
態度はともかく、口調は相変わらずぶっきら棒なイルサーシャに閉口していたユストの表情を知ったハガンが間を取り繕おうとする。この場の主であるテヴァ・ザイロンは顎鬚を二本の指で擦りながら笑みをたたえつつ目の前に立つ二人を交互に眺めていた。
「構わんよ。お主たちがここに来るのは協会から知らせを受けていたのでな。ところで愚生殿はどの部隊に所属していたのかね?」
下げていた頭を元の位置に戻したユストは想いもよらぬ問い掛けに眉を動かした。大半は愚生という一人称を耳にして何処の出身なのかと聞かれるものであるが、今回は違った。数歩踏み込んだ質問を受けた。老人特有の枯れてはいるものの小声でも良く通るテヴァ・ザイロンの声はユストの虚を突いていた。
「儂は何か変な事でも言ったかね?」
「いえ…。初めての問い掛けに戸惑いを覚えていたところです。」
「愚生殿の倍を生きているから、年の功と言っても差し支えないであろうな。」
一般的な見解であれば彼は単なる好々爺で済まされるかもしれない。だが、笑みを崩さないテヴァ・ザイロンの目は笑っていなかった。剣を携える者特有の目付きは同じ匂いを持つ者だけが判る。穏やかな水面の様であり、一度暴れれば全てを呑み込む威圧感を有している。
「愚生は…近衛として六年御仕えしました。」
ユストが過去を語った。彼は故郷であるゲルハルステンに於ける兵役時代を滅多に語らない。過去に固執する人間ではないが、イルサーシャは契約を結んだ剣霊として血で得た情報では判っているものの、本人の口から聞く事の出来なかった過去を、目の前の好々爺はいとも容易く口を割らせた。自らが聞き出せなかった情報を引き出せた事に対し、この老人やるではないかと感嘆の念を送った。
「なるほどな。」
テヴァ・ザイロンは顎鬚を詰る指の動きを止めた。彼の短い言葉は五年前の政変と、その中に身を置いていたユストの今日までを推し量った結果であろう。返す言葉も無く黙って立ったままのユストの視線は目の前の老人の口元に注がれていた。何故笑みを絶やさないでいるのか。久々に自分以外の剣を携えるものに出会えて嬉しいのか、それとも政変で追われた身に対する憐憫の情がそうしているのか。利き腕に掛けたコートが徐々に重く圧し掛かり、握る拳の中が汗ばみ始めていた。
「ミゼレレ殿はともかく、愚生殿と銀髪のお嬢さんがインファンティラと刃を交えずに無事で何よりだ。」
「そのミゼレレの件ですが、シェス・ロウは何処に…?」
久々に首を動かした感覚をユストは覚えた。調度品が最低限に抑えられている部屋に神剣霊の愛を一身に受けた少年の姿は見当たらなかった。
「彼なら奥の部屋で霊体返りの儀を始めたところですわ。」
霊体返りの儀とは不慮で霊体を保てなくなった剣霊の剣体に三日三晩連続して食事を与える。食事を与える契約者は食痕に剣体の切先を添えたまま不眠不休で事に当たり、その姿を何人にも見られてはならない。親しみを込めて語りかけても頼みとなる剣が返事をしない孤独の中、流れる血が体温を奪い、体力を削り取る。果たしてミゼレレが霊体を保つ為に必要な血の量はいざ知らず、成人を迎えたものですら酷な儀式に十二歳のシェス・ロウは挑んだ。いや、挑まざるを得なかった。彼はれっきとした剣霊使いである。母親の様に慕った剣霊の教えをここで終わらせる訳にはいかず、小さかろうと頼り無かろうと自らの手で閉ざされた道を切り開かなければならない。これを試練や宿命といった表現で片付けるのであれば、その起因は自らであるとユストはハガンが言葉を終えると同時に噛み締めていた。
「愚生殿は生真面目で優しい男だ。五年前のあの日も、今と同じ表情をしていたのであろうな。」
「それは…判りかねます。」
「そうかな?剣を握ろうと握らまいと、人間の内にある本質は変わらんよ。」
テヴァ・ザイロンは両方の肘掛に手を突いて立ち上がった。一般の者であれば歳を感じさせない彼の立ち姿に関心を覚えるであろう。だが、それよりもユストとイルサーシャの二人の関心は腰から下げている剣霊協会から支給されたスカーフに否応にも視線を運ばせる。黄金色の生地に黒で刺繍が施された、ユストが首に巻いているものと真逆の仕様を持つスカーフはテヴァ・ザイロンが特殊番号を与えられた剣霊使いであると改めて認識させた。
「さて、ここで長々と話をしても埒が明かん。中庭で共に湯に浸からんかね、愚生殿?」
「湯に浸かる、ですか?」
「左様。もてなしの茶の代わりだと思えば良い。古傷に効用がある湯だ。」
突拍子も無い誘いは再びユストの虚を突いた。下手な勘繰りなど入れる隙は無い。
「判りました。御付き合いします。」
「そう緊張しなくても良いぞ。久々にゲルハルステンの空気を感じさせる若者に会えて儂は嬉しいのだ。」
幾度と無く剣を振りかざしたであろう手を腰の後ろで組みながらテヴァ・ザイロンは中庭へ通じると思われる扉の前へと足を進める。遅れまいとユストも老剣士の後を追う。その場にいる二振りの剣は一方は笑みをたため、もう一方は怪訝な表情を露にしていた。
「なぁハガン、ゲルハルステンの空気とやらはテヴァ・ザイロンにとってそれほど嬉しいものなのか?」
表情だけではなく言葉にしてイルサーシャは老剣士が発した内容を彼が信頼を置く剣に疑問をぶつけた。老剣士の笑みと同じく、ハガンの柔らかな表情は彼女が剣霊であるのを忘れさせるくらい温かなものが漂っていた。
「えぇ。テヴァはゲルハルステン出身ですから。彼がユスト・バレンタインを湯に誘ったのはさしずめ同郷の誼といったところでしょうか。ともあれ、テヴァがあの様に喜ぶ姿を我は知りません。」
「ほぉ。となると、テヴァ・ザイロンも若かりし頃は愚生殿だったのか?」
「いや、儂はそなたの愚生殿と違って兵役に就いておらん。力を求めただけのならず者は愚生とは言わんのだよ、銀髪のお嬢さん。」
テヴァ・ザイロンの言葉からして、どうやら自らを愚生と名乗るのはゲルハルステンの軍隊に所属する者特有の言い回しの様である。なるほど、とイルサーシャは思い、ハガンからユストの背中へと視線を移す。兵役時代の彼の背中は今と同じであったのだろうか。形や見てくれの話ではない。背負っているものについてである。イルサーシャにしてみれば考えたくは無いが、軍隊に属していた以上、彼女とは違う剣を振るう機会は有ったであろう。何を想い描き、何を信じて疑わずに剣の柄を握り締め、またその剣を丁寧に磨いていたのか。またその表情は如何なるものであったのか。次々と湧き上がる想像は彼女の首を横に振らせた。剣が嫉妬を覚え、そのぶつける場所のない感情の顕れを眺めていたもう一振りの剣は視線を横に逸らした。
丁寧に且つ整然と並べられた石組みの中で湯が溢れていた。湧き出る鉱泉は湯気を発し、見る者の心身を温めてくれる。テヴァ・ザイロンがこのノエミリオに住居を構えたのは鉱泉による湯治が目的であるとユストに語り、それは同時に現役から引退している事も示唆していた。では何故湯治が必要なのかと疑問が生じる。衣服を脱いだテヴァ・ザイロンは老齢にも拘らず引き締まった肉体の持ち主であった。彼の肌が滑らかなのか細かな皺が走っているのか、湯気が揺らめく中では判らない。判るのは至る所に残る裂傷の名残りであり、その凄惨な有様はユストとイルサーシャの目を僅かに開かせた。
「湯に浸かると傷の痛みが治まるのですか?」
水に濡れて濃い色となった石組みの縁に腕を掛け、脚を伸ばして楽な姿勢をしたいところを我慢しているユストが月並みな表現でテヴァ・ザイロンに問い掛ける。
「確かに治まる。温かいと傷が喜び、静かになるのだよ。」
「喜ぶ、のですか?」
「この傷のほとんどはインファンティラに付けられたものでな…。」
左の二の腕に刻まれた傷を擦りながらテヴァ・ザイロンから特殊番号について説明が始まった。剣の技量、肉体のしなやかさ、精神力の強靭さ、そして自らの横に置く剣霊との間に他が立ち入る隙の無い信頼を得ている者が協会の推挙により剣霊帝より特殊番号を与えられるという。特殊番号を拝命した者の使命は唯一つ、インファンティラの討伐である。だが、歴代の特殊番号を拝命した者は全て同じ方法で打ち負かされ、命を落とし、信頼の限りを尽くした剣霊は二体を除いて残りは尽く剣体を塵と化されてしまった。同じ方法とは目の前を注意深く観察すれば自ずと理解できる。インファンティラの華麗で冷酷な指が作り上げた傷は生命を与えられたかの様に自らの存在感を見る者にに誇示していた。
「インファンティラの斬撃による傷は生きておる。生命を保とうと儂の体温を奪うのだよ。」
傷を擦る腕が動く度に軽やかで丸みのある音を水面が奏でていた。通常であれば裂傷は熱を産む。だがこの老剣士の言葉が正しいのであれば、インファンティラが放つ一撃は痕跡を負った者の熱を奪う。テヴァ・ザイロンの湯治の目的は傷を癒す為ではなかった。熱を欲する傷と共存せざるを得ない状況に対処する為であった。果たしてその様な体で剣を使いこなせるのであろうかとユストが疑問と懸念の狭間に思いを巡らせると同時に、一向に笑みを崩さないテヴァ・ザイロンが再び口を開いた。
「儂はもう剣を満足に振れん。ハガンには悪いが振れても中途半端な一撃が良いところだ。」
「テヴァ、もうこれ以上は自らを語らぬ方が良いかと。」
剣を携える者が身の上を語るべきではない。ましてや苦渋を舐めさせられた思いを吐露するのは止めるべきである。あるいは敗北と逃走という自らの恥を露呈された剣霊の居ても立ってもいられない思いによるものであろうか。湯気に当たるわけにはいかないと、石組みからやや離れて二人の会話を黙って聞いていたものの、一歩踏み出したハガンの麗しい声はテヴァ・ザイロンの男らしい眉を、そしてユストの落ち着きをはらった視線を動かした。
「そのインファンティラだが、あの者は我とユストに西端の神殿にて待つと文字を残したのだ。その西端の神殿とは如何なるものか教えて欲しいのだが。」
ハガンのとなりで佇んでいたイルサーシャは冷静であり、ハガンの肩に手を添えていた。肌と肌が触れなければ金属同士が放つ耳に纏わりつく音は防げる。そして同じ立場にある者の手は昂ぶる感情に身を寄せ始めていた者の心を穏やかにさせた。
「剣に愛されし男、とインファンティラが記したそうだな。理由は知らんが、愚生殿はあの者にとって余程倒し甲斐があるのであろう。」
「その点については何とお答えするべきか考えあぐむばかりです。」
晩秋の空気に晒されて冷え始めていた両肩に交互に手で擦り込む様に湯を掛ける。波打つ水面に映る自らの姿をユストは見つめていた。
「よろしい。後ろを見たまえ、愚生殿。」
何も答えずにユストはテヴァ・ザイロンの言葉に従った。小さな島が霧を纏っている。誰の目に触れない様にと、あるいは人間が足を踏み入れるのを思い迷う様にと神秘的な景色を構築していた。どちらにせよ、探究心が僅かでも有している者であれば、その小さな島に魅力を感じずにはいられないであろう。流れる霧の隙間から石造りと思われる建造物の一部が露出した。凝らした目に映る建造物こそインファンティラが再戦の地として選んだ西端の神殿に違いない。しなやかな白い腕から繰り出す万物を圧倒する斬撃が脳裏を過ぎり、見た者を吸い込まんといわんばかりに妖しく輝き、戦意を挫かせる紫色の瞳を思い描く。必要以上に眉間に力が入り、凝らした目がさらに細くなるのをユストは感じていた。
「あの霧に隠れた建物が西端の神殿とは理解したが、やはり彼の地までは海路であろうか?」
船を利用する事にイルサーシャが己の内を漏らした。海難に陥ってから一日すら経過していない状況であり、彼女がしたたかな剣霊であろうとも二の足を踏むのも無理も無い。
「船はいらんよ。橋が架かっておる。」
顎鬚を二本の指で詰るテヴァ・ザイロンが西端の神殿の詳細について語り始めた。剣霊帝が地上に現れる以前から西端の神殿は存在し、いわば有史以前の遺構と言える。その距離はノエミリオ本島よりも真西に約一キロ先であり、一本の細い橋梁が架けられている。橋梁とは木造あるいは石組みが一般的であるが、この西端の神殿へを続く橋梁は剥き出しの金属で造られていた。鉄ではない。鉄は雨風に、ましてや海水に弱い。今の技術力で錆に打ち勝つ金属は作り出せていないという。金属の表面に塗装を施す事で防錆処理が可能ではあるものの、一キロの全長全てに、ましてや海中に埋まる橋脚に施すのは技術先進国を誇る東部帝政国家の総力を尽くしても到底無理な話である。果たして有史以前の人間が作り上げたものなのか、あるいは神殿と称している様に神の慈恵が形となったものなのか。過去に三度に渡り調査団が派遣された。考古学者を主に建築家や軍人で構成された一行が無事に帰還した例は無い。何かと遭遇して争った形跡は見当たらないが、精神に異常をきたしていた。謎の解明を求めた者たちは真実を持ち帰らずに他には理解し難い夢想を語る者となってしまった。誰一人とてその経緯や工法について明確な解答が不可能な橋梁は現在では国家の名に於いて禁足地に指定されている。
「禁足地となると警備が厳重ではないのか?目的を果たす以前に憲兵や自警団の厄介者になるのは避けたいものだが…。」
「銀髪のお嬢さんの思惑はもっともだ。だが考えてみたまえ、わざわざ自らすすんで自我の崩壊を招く場所に赴く者はおらん。警備に当たるべき者すら気味悪がって誰も近寄らないのが現状だ。」
「なるほどな。さてどうする、ユスト?」
「あぁ、今更後には引けないだろう?」
「我は剣である以上、そなたの肉体を守る事は可能だが、心まで同じ様に守れるとは保障しかねる。それでも彼の地へ行くのか?」
「君が横にいてくれれば問題ないよ。」
イルサーシャは横髪を耳に掛けつつ僅かに微笑を漏らした。判りきっていた回答をユストに求め、彼がそれに応えた為であろう。ユストは依然として一点から視線を動かしていない。眉間に寄せた皺もそのままである。彼の目は獲物に狙いを定める獣のそれではない。静かな水面を保つ世界の下で様々な思いがぶつかり合い、せめぎ合っている者が携える目である。それ故に自らの契約者にしたのだと彼女は思いつつも、果たしてユストの期待に応えられるであろうかと一抹の不安が過ぎる。横にいれば良いとユストは言ったが、人間の心とは不思議なほど強く、想像以上に脆い。しかし剣が先に弱音を吐く訳にはいかない。ユストに倣い、イルサーシャの切れ長な目尻を伴った緑色の瞳が西端の神殿に向けられる。先程まで霧の隙間から一部を覗かせていた神殿は再び濃い霧の中に姿を消した。
それはこれから迎え入れる者を嘲笑うかの様な光景であった。




