人物Xの祝福
…この貴賓席から一面見渡すことの出来るスタジアムのスタンドからは、今日一番の歓声が上がっていた。
ここに居ても分かる位に、ウインドウ越しにも確かに伝わってきていて…それは丁度今終わったばかりの試合が、どれだけの観衆を熱狂させたかがよく分かった。
そしてそれは、…彼女にとって、自分とあの人を繋ぐ鎖が切れたことを意味していた。
「…」
ロイヤル・ボックスの正面に張られたガラスの際に立つその人物の目は、眼下のグラウンドに最後まで立ち続ける事の出来た二機のヴァリアントの…その一機を捉えて離していない。
歓声を前に相方の白い一機が、パフォーマンスとも付かない中途半端なポーズなんかを取ったりしている中、
彼女の見つめる紅い防護カバーの一機は、両手に持つ二振りの曲刀をそのままに立ち尽くしている。
そしてガラスに映る彼女の瞳は、…満足した様な、そんな色だった。
「……」
ーー彼女が、彼女こそがジェイドを狙っていた人物だ。
仮に人物Xという名前で呼ぶ事にするが、彼女がジェイドの借金の権利者にして、ジェイドに借金を作らせた張本人でもある。
その素性の触りだけを述べるならば、20にも満たない年にして、卓越した技量で自らのファミリーを急成長させた、トリエステの暗黒街では知らぬ者の居ないーーそして同時に恐れられているーー存在。
そうなるにも複雑怪奇な経緯があったのだが、ともかく一度、無惨にも修羅道に飲まれてしまったかと見えた彼女だったが、天性のしぶとさを発揮して現在の地位を手に入れた事は事実である。
「………」
夭折した父の後を引き継いでのマフィア家業。
辛いことも、めげそうになることも一杯あった。
それでも挫けずに居られたのは…
そう思い、ガラス面に当てられた彼女の手が拳を作る。
「………、」
…軍に居た時の先輩。ずっと、ずっと想い続けている人…
そのジェイドがあの忌まわしい眼鏡へちょ糸瓜のお手つきになって、とっくの昔にこぶ付きになっている事ぐらい彼女も知っている。
しかし、それでも諦められないのだ。
だから…
…、
ーー屑人間としか形容できない元上司を抱き込んで、自分はあの人を陥れた。
軍を辞めて一年が経ったその日、彼女は実行に移したのだ。
…あの日の事は今でも覚えている。
早朝のその人の家で、押し掛けた借金取りと自分を前に、恐怖と戸惑いという軍では見たことも無かった表情のジェイドーーあれにはソそられたーーを前に、“取引”をした事。
…取り立ての猶予をするから、ランブル・ゲームの選手とさせて自分の手元に置いておけるようにした事。
だから、彼女はその人を駕篭の中の鳥にして、独り占めする事が出来た。
それは確かに幸福であった。どれだけの欺瞞と矛盾と暴力に満ちていようとも、人物Xはそれで満足だったのだ。
だが借金なんてのは紙の上だけの存在で、実は実在していない。
…そしてそれは、しばらくしてあの人も気付いていた筈だ。
「…………」
それでもあの人は、自らが陥れられたにも関わらず、正々堂々と向き合ってくれた。
こんな形でしか“好き”を表現できず、面と向かってその想い一つ伝えられない、こんな根性無しの自分に!
…ジェイドが向き合ったかどうかは分からないが、少なくとも人物Xはそう思っている。
そして彼女は、今日の試合で条件を出した。
始まりがあれば終わりもある。…それは諦めの様なものでもあった。
……今日、ジェイドは見事に勝利した。
あの人を繋ぐ鎖はこの日、絶たれたのだ。
「……………」
眼下の二機はゲートへと引き上げようとしていた。試合が終わり、スタンドの観客達も帰ろうとしている。
ジェイドはこの後、何処へ行くのだろうか?
自分を待つ主人と子供の元だろうか…そして、
「……………はあ」
自分も帰らなくては…と、人物Xも思いかける。
この後も“仕事”があるのだ。陰謀と闘争の空気が充満した、厭で厭でしょうがない自らの稼業の。
…最後に言い残すならば、そんな事を忘れさせてくれるランブルゲームの空気は嫌いじゃなかったが。
もうジェイドがこのグラウンドの上に帰ってくることは無いだろうし、自分もここを訪れる事は無くなるであろう。
しかし、
「………」
始まりがあれば終わりもある。しかし終わりの後には?
既に布石は打ってある。
慈善で自らが運営している孤児院には、しばらく前から一歳ちょうどの乳児が来たら自身に連絡するように命令してあるのだ。
そして連絡が来たならばその子を自身の養子にして、ーーあとはその時を待つ。
…親が狙えないのなら子を狙うまでよ、と言う考えであった。
「…これで諦めたとは思わないでくださいよ、先輩?」
上げられた彼女の顔は明るい。
ーー終わりは始まりなのだ。
それは自らの花道の、次の一歩を踏み出しただけに過ぎない。
* * *
母子二代に及ぶ壮大な愛の物語の始まり(何




