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第9話 黒い跡

 朝の牧場でケインが最初にしたのは、倒れた羊に触れることではなかった。柵の外に膝をつき、羊たちが食んでいる牧草を一本抜いて、鼻先へ近づけることだった。

 

 青い匂いと、土の匂い。指で潰すと、汁が滲む。萎れても、変色してもいない。健やかな草に見える。

 

 それが、かえって引っかかった。

 

(草は元気だ。なのに、食っている方が倒れる)

 

 ここは領の西の外れ、森と山にいちばん近い牧場だと、来る道でアリアが言っていた。異変が最初に出た牧場。昨日、丘の上から見た「柵と数の合わない羊」の、その柵の前に、いま立っている。囲いは広く、草は豊かで、そのくせ羊の姿はまばらだった。囲いの向こうで、数人の牧夫が手を止め、こちらを——正しくは、ケインを見ている。目が合うと、逸れる。一人が、地面に唾を吐いて背を向けた。慣れた眺めだった。むしろ、屋敷の作法をまとった忌避より、こちらの方が扱いやすい。

 

 背後で、足音が止まった。

 

「……何をしてる」

 

 声は、頭の上から降ってきた。振り返ると、日に灼けた男が立っている。五十は越えているだろう。顔の皮が、風と陽で革のように厚くなっていた。左手の指が二本、根元から妙な角度に曲がったまま固まっている。骨が繋がりきる前に、また使われた指の曲がり方だった。何かに噛まれた古傷だろう、と見当をつけて、ケインは口には出さなかった。牧夫の手が語ることは多い。ただし、語らせるのは信用されてからだ。

 

「草を、見ていました」

 

「羊は、そっちだ」

 

 男は顎で囲いの中を示した。目は合わせてこない。合わせないが、逸らしてもいない。ケインの手元の草の一本を、じっと値踏みしている目だった。嫌っている目だ。それは分かる。ただ、嫌い方の置き場が、屋敷の使用人たちとも、昨日の男爵とも違っていた。どこが違うのかまでは、まだ言えなかった。


 

「ドルフ」

 

 アリアが荷馬車から降りて、間に入った。

 

「こちらがケイン。羊を診ていただくために、父の許しを得てお連れしました」

 

「聞いてます、アリア、様」


 据わりの悪い敬称の付け方だった。


 ドルフと呼ばれた男は、もう一度ケインを見て、鼻から短く息を抜いた。

 

「呪われた土地に、また妙なのが来た。……そう言う奴らも、いまさ」

 

「ドルフ」

 

「言うだけです。手は、貸します。領主様の娘さんが連れてきたんだ」

 

 拒む気はない、と言外に告げていた。歓迎する気もない、とも。ケインには、その距離の取り方に覚えがあった。グレアムの屋敷で向けられていた目より、いくらか正直なだけだ。

 

 少し離れた場所で、ギルが腕を組んで立っている。護衛の目は、羊にも牧夫にも向いていない。ケインの手元にだけ、据わっていた。

 

「触れても、構いませんか」

 

 ケインは、囲いの戸に手をかける前に聞いた。領の者や家畜に触れるときは、娘か牧夫頭を先に立てよ——男爵にそう言われている。ドルフは、その牧夫頭だ。

 

 ドルフの眉が寄った。

 

「いちいち断るのか」

 

「断ります。ここのやり方を、僕はまだ知りません」

 

「……好きにしろ。噛みゃしねえ。もう、そんな元気もねえ」

 

 最後の一言が羊に向けたものか、この土地に向けたものか、ケインには分からなかった。聞き返しはせず、囲いの戸を開けた。

 

 囲いの隅に、一頭が伏せていた。ほかの羊から離れ、首を地面に落としている。ケインは近づき、しゃがんで手を出す前に、まず全体を見た。毛の艶、姿勢、目の開き方。それから、低く声をかける。

 

「大丈夫。見るだけだ」

 

 言葉は通じない。それでも、声の高さと速さは、獣に伝わる。深夜の診察室で、何百回もそうしてきた。

 

 呼吸を数える。浅く、速い。脇腹の上下が忙しない。鼻先に手の甲を近づけると、吐く息は熱を持っていた。指で唇をめくり、歯茎を見る。血の気が薄い。乾いた白に、うっすらと青みが差している。あの夜、診察台の上で見たのと、同じ色の粘膜だった。


 耳の付け根と、後肢の内側に手を差し入れる。熱が、芯にこもっている。土に目を落とすと、この一頭の周りだけ糞が緩く、餌箱の干し草には口をつけた跡がまばらだった。食う気力が、落ちている。

 

 弱り方に、覚えがあった。急に倒れたのではない。じわじわと、底が抜けるように落ちてきた弱り方だ。世界が変わっても、弱った命の見方までは変わらなかった。

 

 首の下の毛を、指でかき分ける。


 そこに、黒い跡があった。

 

 皮膚の下に、墨を一滴落としたような黒ずみが沈んでいる。輪郭は滲んで、どこまでが跡で、どこからが健やかな皮膚か、境目が曖昧だった。押しても、盛り上がりはない。羊は身じろぎもしなかった。押されて痛む類のものでは、ないらしい。

 

 そして——刺し口がない。

 

 森で抜いた、あの棘。犬型の魔獣の首筋に打ち込まれていた、黒い液を纏った異物。あれの周りにも、黒い染みが広がっていた。似ている。ぱっと見れば、同じものに見えるだろう。だが、あれには刺し口があった。外から何かが入った痕が、確かに。この羊の黒い跡には、それがない。皮膚は破れていない。刺さったのではなく、内側から滲み出したように、黒が沈んでいる。

 

(似ている。……だが、別物だ)

 

 同じ「黒」でも、入り方が違う。入り方が違えば、正体も違うかもしれない。ケインは結論を留めた。似て非なるものを一緒くたにするのが、誤診の入口だ。

 

 黒い跡に、指の腹をそっと当てる。正体の分からないものに、本当は素手で触れたくもない。ただ、布越しでは、皮膚の下の様子が読めなかった。

 

 当てた指先が、ひとりでに離れたがった。

 

 熱くはない。痛くもない。ただ、触れていること自体を、身体の奥のどこかが厭がっているような——昨夜、左腕の牙の痕が疼いたときと、どこか似た感触だった。

 

 ケインは指を離し、握って、開いた。指先は、なんともない。血が足りないせいだろう。昨日の今日で、無理に立ち回っている身体だ。そう片づけて、羊の背に手を戻した。——片づけたはずの感触が、指の腹に、まだ薄く残っていた。手のひらの下で、浅い呼吸が続いている。

 

「頑張ってるな。もういいよ」

 

 毛並みをひとつ撫でて、立ち上がった。診るだけなら、これ以上この子を煩わせる理由はない。柵の外で、ドルフがこちらを見ていた。いつから見ていたのか、腕を組んだまま、身動きせずに。

 

「……羊の扱いは、知ってるようだな」

 

「羊は、慣れていません」

 

 嘘ではない。触った数なら、この男の千分の一もない。ドルフの眉が寄る。

 

「そうは見えねえけどな」

 

「弱った生き物の触り方なら、慣れています。羊に慣れていないだけです」

 

 ドルフは何か言いかけて、やめた。代わりに、囲いの反対側を顎で示した。

 

「……向こうに、まだ落ちてねえのがいる。見るなら、比べろ」

 

 言われるより先に、そうするつもりだった。だが、この男の口から出たことに、意味があった。ケインは頷いて、囲いの奥へ歩き出した。

 

 比べる相手の羊は、囲いの奥で草を食んでいた。近づいても、顔を上げて一瞥をくれただけで、逃げも警戒もしない。呼吸は深く、静かだった。唇をめくると、歯茎は薄紅で、湿っている。首の下をかき分けても、黒い跡はない。触れた指先も、なんともなかった。

 

 同じ囲いの、同じ群れ。片方は落ち、片方は平気でいる。

 

(同じ、とは限らない)

 

 この二頭が、本当に同じものを食い、同じ水を飲んできたのか。それを確かめないまま、羊の当たり外れで片づけるのは早い。ケインは立ち上がった。聞くべき相手は、羊ではなかった。

 

「いくつか、伺っても」

 

「羊にか」

 

「あなたにです。羊が話せるなら、そうしています」

 

 ドルフは鼻を鳴らした。笑ったのかどうかは、読めなかった。

 

「いつからです。こうなる羊が、出始めたのは」

 

「……去年の、秋の終わりごろだ。最初は一頭。年寄りの雌だった。歳のせいだと思ってた」

 

「今は、何頭目ですか」

 

「数えてねえ」

 

 即答だった。数えていない、のではない。数えたくない、という答え方だった。ケインは、そこは追わなかった。

 

「倒れる順番に、決まりはありますか。歳の順とか、囲いの端の一頭からとか」

 

「……順番?」

 

 ドルフが、初めて言葉に詰まった。

 

「あんた、呪い祓いに来たんじゃねえのか。呪いに、順番なんぞあるかよ」

 

「順番があるなら、それは呪いではない、という話です。順番があるものには、理由があります」

 

 ドルフは黙った。目だけが、ケインの顔の上をしばらく動いていた。値踏みの目だ。ただ、朝に草の一本へ向けられていたものより、値踏みの中身が変わっている。やがて、渋々といった調子で口が開いた。

 

「……強いて言や、西からだ。沢に近い区の群れが、先に落ちる」

 

 最初の手がかりだった。ケインは頭の中に、まだ半分も見ていない牧場の地図を広げ、西の端に印を置いた。

 

「餌は。区ごとに変えていますか」

 

「変えてねえ。同じ干し草だ。……刈る場所は、区によって違うがな」

 

「西の区の干し草は、どこの草です」

 

「西の刈り場だ。沢沿いの。近いからな、運ぶ手間がねえ」

 

「水は。井戸ですか、沢ですか」

 

「それも区による。近い方から引く。西は、沢だ」

 

「落ちにくい区は、どこですか」

 

「東と、北の高い方だ。あっちは井戸の水で、草も別の刈り場から運んでる」

 

 質問が、羊追いと草刈りと水汲みの言葉で進んでいった。祈祷の話でも、呪い祓いの口上でもない。区割り、刈り場、水の引き口——ドルフが毎日使っているはずの言葉だけで、ケインは聞いた。ぞんざいだった相槌に、いつのまにか中身が乗り始めていた。

 

「西の区は、沢の水と、沢沿いの草。東と北は、井戸の水と、別の刈り場の草。……そういうことですね」

 

「そうだ。西はいい草が育つ。水が近いからな。だから、弱った羊ほど西へ回す。いい草を食わせて、太らせてやろうと——」

 

 ドルフの口が、止まった。

 

 自分の言葉の意味に、遅れて追いついた顔だった。

 

「……弱った羊を、西に回す」

 

「ええ」

 

「西の羊から、落ちる」

 

 ドルフは、それきり答えなかった。答えられなかった、の方が近い。革のような顔から、血の気が引いていくのが分かった。良かれと思って続けてきた差配が、逆を向いていたのかもしれない——その考えが、いま初めてこの男の中に入り込んだように見えた。

 

「まだ、決まったわけではありません」

 

 ケインは、間を置かずに言った。

 

「今のは、話の筋が通るというだけです。西の草が悪いのか、水が悪いのか、それとも別の何かなのか。確かめるまでは、誰のせいとも言えない。あなたのせいだと決まったわけでも、ありません」

 

「……慰めか」

 

「手順です。原因が分かる前に犯人を決めるのが、いちばん危ない。生き物を診るときも、同じでした」

 

 ドルフは何も言わず、囲いの中の羊たちへ目を戻した。曲がった二本の指が、柵の横木を強く掴んでいた。

 

 傍らで聞いていたアリアが、口を開いた。

 

「ケイン。今の話を、わたしにも分かるように」

 

 報告を求める口ぶりだった。ケインは、頭の中の地図を言葉に直す。

 

「倒れる羊が、西に偏っている。今日分かったのは、それだけです」

 

「それだけ、ですか」

 

「それが、大きいんです。呪いなら——」

 

 言いかけたケインより先に、アリアの指先が手のひらの上を動き始めていた。ゆっくりなぞって、止まる。

 

「……呪いなら、西だけを選ぶ理由が要る」

 

「ええ」

 

「土地を丸ごと呪うのでも、一頭ずつ祟るのでもなく、囲いの区割りに合わせて祟る呪い。……考えにくい、ですね。でも中毒なら、西に毒の元があるだけで、全部の辻褄が合う」

 

 数字で話す人は、偏りの意味を掴むのも早い。ケインは頷いた。

 

「偏りは、呪いには邪魔ですが、中毒には道しるべです。西の何が悪いのか——草か、水か、土か。偏っているものを探していけば、原因に辿り着けます」

 

「呪いは、払えない」

 

「僕には、払えません。でも、原因なら、探せます」

 

 昼を回ってから、四人は西の区へ入った。ドルフが先に立ち、ギルは一歩引いて従いてくる。

 

 問題の区は、囲いのいちばん奥、緩い斜面が沢へ下るあたりにあった。柵の向こうに残る羊は、もう数えるほどしかいない。倒れた羊は番小屋の脇へ移してあるとドルフは言った。倒れる前の羊が過ごす場所を、ケインは見ておきたかった。

 

 沢は細いが、水は絶えず流れていた。上流に板と石で組んだ引き口があり、そこから浅い溝が斜面を渡って、区の水飲み場まで水を運んでいる。ケインは引き口の縁にしゃがみ、流れをのぞき込んだ。濁ってはいない。すくって匂いを嗅いでも、ふつうの沢の水だ。手のひらの水を、しばらく見た。指先は、なんともない。

 

(水は白、か?)

 

 いや、と思い直す。一度すくって何もなかった、というだけだ。朝と夕で水が変わることもある。雨のあとで変わることもある。白と決めるのは、まだ早い。

 

 水の脇の斜面には、刈り取られた株が列をなして残っていた。西の刈り場。ここの草を干して、弱った羊に食わせてきた。ケインは屈んで、株の間の土に触れた。湿っている。沢が近いから、というだけでは足りない湿り方に思えた。土が水を含んでいるのではなく、抱え込んでいるような。

 

(水か、草か、土か。……それとも、一つではないのか)

 

 まだ、どれとも決められない。決められないまま、全部を疑いの列に残しておく。早く犯人を一人に絞りたがることが、いちばんの遠回りになる。

 

 振り返ると、ドルフが柵の杭に手を置いて、区の全体を眺めていた。

 

「……ここは、爺さんの代からのいい刈り場だ」

 

 問わず語りだった。

 

「水が近くて、草の伸びが早え。刈っても刈っても追いつくのは、この領でここだけだった。だから、いい草の場所だと、ずっとそう思ってきた」

 

「いい刈り場だったのは、本当だと思います」

 

 ケインは立ち上がって、土を払った。

 

「変わったとすれば、場所ではなく、いつからかです。去年の秋より前、ここの草で羊が落ちたことは」

 

「……ねえ。一度も」

 

「なら、この場所が悪いんじゃない。この場所に、何かが起きたんです」

 

 ドルフは答えなかった。杭に手を置いたまま、刈り場の斜面を端から端まで、ゆっくり見渡した。爺さんの代からの土地を、検分し直すような目だった。


「ケイン」

 

 アリアの声がした。振り返ると、荷馬車の方を指している。

 

「今日は、ここまでにします。あなたの顔色で決めました。異論は聞きません」

 

 言われて初めて、日の傾きに気づいた。異論は、なかった。正確には、言いかけて、自分の足の重さが先に答えた。

 

 血の足りない身体で、朝から歩き通しだ。歩いた分だけ、頭の中の地図は埋まった。西の区、沢の引き口、刈り場、湿った土。倒れた羊に触れたのは二頭きりで、派手なことは何もしていない。それでも、朝には呪いの一言で片づいていた話が、いまは、確かめれば答えの出る問いに変わっている。謎の輪郭が、昨日より狭い。

 

 帰り支度の荷馬車の前で、ケインはドルフに礼を言った。案内と、答えてくれたことへの。

 

 ドルフは、それには答えなかった。荷台に道具を積む手を止めず、前を向いたまま、こう言った。

 

「明日は、日が昇る前に来い。西の区は、朝いちばんに羊が動く。食い方を見たけりゃ、その前だ」

 

 礼は返さない。代わりに、明日の刻限を、聞かれる前に自分から口にする。それがこの男の返事なのだと、ケインは受け取った。

 

「日が昇る前に」

 

 短く復唱して、頷いた。

 

 ギルが馬を検め、アリアが荷台の覆いを直している間、ケインは番小屋の壁に背を預けて息を整えていた。芯まで疲れた身体は、立っているだけで足の裏から重さが染みてくる。目を閉じかけたとき、小屋の反対側から、低い声が届いた。

 

 ドルフだ。誰かと話している。声を潜めているのに、疲れた耳には、かえってよく通った。

 

「……ああ。昨日から、また一頭、戻らねえ」

 

 相手の声は聞き取れない。ドルフの声だけが、途切れながら続く。

 

「西の犬舎の方だ。……鎖が、外れてた」

 

 ケインは目を開けた。

 

 羊の話ではなかった。戻らない、と言った。犬だ。この土地で人に馴らされてきた、犬型の魔獣。その一頭が、山へ帰ったか、消えたか。

 

 ——「また」

 

 戻らないのは、今日が初めてではない。そして、一頭でもない。

 

 包帯の下で、左腕の牙の痕が、脈に合わせて疼き始めていた。布の上から手を当てると、疼きは、逃げるように薄れていった。

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