第8話 壊れた土地
馬車は一度だけ休みを挟んで進んだ。ケインは揺れの中で眠りかけては、車輪が石を踏む音で目を覚ますことを繰り返した。血が足りない身体は、眠りの深さまで貸してくれないらしい。
丘をひとつ越える頃には雲が割れ、風の匂いが変わった。
木々の湿った匂いが薄れ、草と土の匂いが幌の中まで入ってくる。ケインは痛まない側の肘で身体を支え、幌の隙間から外を見た。
最初に見えたのは、柵だった。木の柵が緩い起伏に沿ってどこまでも続き、区切られた放牧地が丘の向こうまで連なっている。囲いの中では草が豊かに茂り、風が渡るたびに緑の面が波のようにうねった。傾きはじめた日が、柵の影を囲いの中へ長く倒している。
ただ、羊の数が、囲いの広さに釣り合っていなかった。
ケインは目を細めた。柵の横木には新しく差し替えられた跡があり、傾いだ杭は打ち直されている。壊れて捨てられた柵ではない。使う日のために、誰かが直し続けている柵だ。それなのに、広い囲いの隅に、数えるほどの羊がひと固まりになっているだけだ。柵が支えるはずの数と、いま中にいる数が、合っていない。
道が下りにかかると、干し草小屋がいくつか見えた。屋根も壁も残っているが、扉の前の草が伸びている。人の足が踏んでいない、ということだ。一棟は戸が半分開いたままで、中に積まれた干し草の嵩が、外からでも足りないと分かった。
——土地が痩せ、衰えている男爵領。
父の声が耳の奥で鳴った。あの日は、厄介払いの行き先の名でしかなかった。地図の上の一点。それがいま、風景になって目の前に広がっている。
痩せている、という言葉は正確ではない気がした。草は茂り、柵は生きている。土が死んでいるわけではない。ここにあるのは、飢えた土地ではなかった。器は残ったまま、中身だけが静かに減っていく——そういう土地だった。ゆっくり溜まっていく何かがあるなら、ゆっくり失われていくものもある。馬車の中で組み上げたものと、風景の質が合っていた。
村に近づくと、道の脇に人の姿がぽつぽつと現れた。畑を打つ老人、桶を運ぶ女。誰もが馬車に気づくと手を止め、頭を下げる。領主の家の馬車を見知っているらしい。ただ、その数が少なかった。家の数に対して、外にいる人間が足りない。戸を閉ざした家が、通りに歯抜けのように混じっていた。
「……昔は」
アリアが口を開いた。視線は、ケインと同じ方を向いている。
「この道が、羊で埋まる日があったそうです。市の日には、柵から柵へ移す群れで、馬車が半日止まったと……」
「見たことは?」
「小さい頃に、一度だけ。……覚えているのは、音です。何百という蹄と、鳴き声と、犬たちの声。うるさくて、耳を塞いだのを覚えています」
アリアは膝の上で指を組んだ。
「今は、静かでしょう」
静かだった。車輪と蹄の音のほかは、風が草を撫でる音しかしない。深夜の診察室の静けさなら、よく知っている。あちらは、朝になれば音が戻る。ここの静けさには、その当てがなかった。
幌の奥で、トマが身じろぎをして目を覚ました。外の景色に気づくと、ほっとしたように息を吐く。
「……戻って、これました」
誰にともなく呟いて、また目を閉じた。傷のせいだけではない疲れ方だった。
道が二股に分かれ、ギルは迷わず右を取った。やがて家並みが密になり、馬車は領の中心らしい集落へ入った。市を立てるための広場があり、石畳が敷かれ、面した建物の構えもそれなりに古い格を持っている。ただ、広場に組まれたままの空の露店台が、風に晒されて色を失っていた。集落を抜けた先、緩い高みに石造りの館が見えてくる。大きくはない。グレアムの屋敷と比べても構えは質素だが、館へ続く道の敷石だけは、丁寧に掃き清められていた。
「着きます」
御者台から、ギルが前を向いたまま言った。
ケインは左腕の包帯の結び目を確かめ、上着の埃を払えるだけ払った。招かれた客ではある。ただし、招いたのは娘であって、この館の主ではない。
領館の中は、外より少しだけ暗かった。
窓は大きいのに、灯りの数が絞られている。廊下の燭台は二つ置きに空で、蝋の受け皿だけが残っていた。歩きながら、ケインは館の匂いを吸い込んだ。石と、古い織物と、微かな薬湯の匂い。どこかの部屋で、長く火を焚いている匂いだった。
通されたのは、謁見の間と呼ぶには小さな部屋だった。長机と、暖炉と、壁に古い盾がひとつ。その机の向こうに、男が立っていた。
五十絡みの男だった。仕立てのいい上着が、肩と腹の周りで余っている。かつてこの服が合っていた頃の身体を、ケインは勝手に想像した。今より二回りは大きかったはずだ。服だけが、その頃のまま残っている。
「父上。ただいま戻りました」
「……アリア。無事か」
男爵の目が娘を確かめ、トマの包帯に留まり、それから、ケインの上で止まった。
止まって、すぐに逸れた。
見慣れた動きだった。嫌悪、というほど強くはない。ただ、視線の置き場に困った者が、置かずに済む場所を探す動き。男爵は暖炉の方へ半歩身体を向け、そのままの角度で口を開いた。
「客人を連れたと、先触れにあった」
「はい。——ケイン。父の、ゲルハルト・ヴァンデンガルフです」
アリアは父への答えを、そのまま客人への紹介に繋げた。
「ケインと申します」
名は、自分の口からも重ねた。娘の客ではあっても、名乗りまで娘に負わせるわけにはいかない。
男爵は頷いた。頷いただけで、しばらく何も言わなかった。暖炉の薪が一度爆ぜて、その音が沈黙の長さを教えた。
「……家名は」
「名乗る家はありません」
即答できたのは、答えを森の中で捨ててきたからだ。男爵の眉が、僅かに動いた。
「ないのか。名乗らぬのか」
踏み込んできた。疲れた声のまま、しかし逃げ道を塞ぐ聞き方だった。ケインは一拍だけ間を置いた。嘘はつきたくない。全部を話す気もない。その狭い隙間で使える言葉を探していると——
「父上」
アリアが静かに割って入った。
「この方の素性を、わたしは聞いておりません。聞かないと決めました」
「……アリア」
「羊を診ていただくのに、要らないことだからです。トマの傷を診ていただくのにも、要りませんでした」
男爵が初めて、娘の顔を正面から見た。困惑が、疲れた顔の上をゆっくり通り過ぎていく。娘の判断を疑う顔ではなかった。娘がそういう判断をした、という事実だけを、ゆっくり呑み込んでいる顔だった。
「……客人の前で、親子で言い合うことでもないな」
男爵はそう言って、椅子を引いた。座る動きが重い。膝より先に、腰が疲れている座り方だった。
「座ってくれ。……立たせたままの話ではなさそうだ」
勧められた椅子に、ケインは礼を言って腰を下ろした。立って辞退できる血の量ではない。座ると、脇腹の痛みがひとつ場所を変えた。
アリアは座らなかった。父の机の前に立ち、話し始めた。ギルは入口の脇に、トマは壁際に控えている。
森での経緯。溝に落ちた馬車。現れた犬型の魔獣。それを前にケインが取った行動——武器ではなく声で距離を詰め、噛まれても腕を引かず、首筋の深手に処置を施したこと。処置のあと魔獣は山へ帰り、ケインは倒れたこと。トマの太腿の手当て。そして帰路の馬車で聞いた、羊の倒れ方についての問答。
アリアの話し方は、報告の型をしていた。時刻、場所、順序。感情を挟まず、自分の判断が入る箇所では「わたしは、そう見ました」と主語を立てる。数字で話す人は、報告でも数字の並べ方をするらしい。
ただ、棘のことは出なかった。省いたのか、後に回したのか。アリアの横顔からは読めなかった。
ゲルハルトは口を挟まなかったが、聞く姿勢には濃淡があった。魔獣、と娘が言ったとき、机の上の手が一度強く組まれた。倒れたケインをギルが運んだ件では、入口の脇へ短く視線を送った。ギルはそれを、僅かな低頭だけで受けた。娘が危地にいた時間の長さを、話の裏で数えている。聞いているのは領主だが、数えているのは父親だった。
「……トマ」
話が終わると、ゲルハルトは従者を呼んだ。壁際に控えていたトマが、足を引きながら進み出る。
「傷を、見せてくれるか」
「は、はい」
ゲルハルトが顎で椅子を示し、トマは浅く腰かけて太腿の布をずらした。ケインの巻いた当て布が現れる。ゲルハルトは身を屈め、布の重ね方と留め方を、思いのほか長く見た。
「痛むか」
「歩けば、少し。ですが、昨日より軽いくらいで……その、洗っていただいたので」
「洗った?」
ゲルハルトの視線が、初めて自分からケインの方を向いた。向いて、また僅かに角度が逸れる。それでも、今度は言葉が続いた。
「傷は、布で覆っておくものだろう」
「泥が残ると膿みます。膿めば熱が出ます。この方の傷は浅かったので、洗って塞ぐ方が早く歩けるようになります」
ケインは必要なことだけを答えた。ゲルハルトはしばらく黙り、それから娘を見た。
「……お前の見立ては」
「羊を診ていただきたい、と考えています。この方は帰路の問答だけで、倒れる羊の偏りと、餌と水の違いを聞き分けました。呪い祓いではありません。原因を、順序立てて探せる方です」
「見てもいないのに、原因が分かるものか」
「分かりません」
答えたのはケインだった。ゲルハルトの眉が動く。
「僕はまだ、羊も牧場も見ていません。馬車の中で立てたのは仮説です。外れているかもしれない。確かめるには、見るしかありません」
部屋が、少しの間だけ静かになった。暖炉の薪が崩れる音がした。
「……呪いなら、と言った者は大勢いた。祈祷師も、旅の治癒師も。皆、見る前から答えを持ってきた」
ゲルハルトの声は、誰に向けたものか分かりにくかった。机の上の自分の手を見ている。
「答えを持ってこなかったのは、お前が初めてだ」
褒め言葉の形はしていなかった。帳簿の残高を読み上げる声だった。ゲルハルトは背を起こし、椅子に深く沈み直した。
「娘の客分として、当面の滞在を許す。牧場への同行も、娘の裁量に任せる。……ただし」
言葉が一度切れた。逸れていた視線が、努力の跡の見える速さで、ケインの上に戻ってくる。
「領の者や家畜に触れるときは、必ず娘か牧夫頭を先に立てよ。素性の知れん者を、快く思わん者もいる」
「承知しました。順序は守ります」
「……そうか」
それきり、ゲルハルトは視線を暖炉へ戻した。灯りを一つ落とすように、会話がそこで閉じた。
アリアが一歩進み出る。
「報酬の件を、決めさせてください」
「要りません」
考えるより先に、口が動いていた。
「寝る場所と食事をいただけるなら、それで」
「いけません」
アリアの声は、静かなまま硬くなった。
「働きに対価を払わせないのは、こちらの恥です。あなたの手当てには値があります。トマの脚にも、これから診ていただく羊の一頭一頭にも。それを無償で受け取れば、この家は施しで領を治めることになります」
筋の通し方が、こちらの断り方より一枚上だった。施しを受けるのはケインではなく、払わずに済ませるヴァンデンガルフ家の方だ——そう言われては、断る言葉が立たない。
「……では、成果が出たぶんだけ」
「金額は、父と決めます。成果の判定は、わたしがします」
言い切って、アリアは父を見た。ゲルハルトは目を閉じるように頷いた。承認というより、娘の裁量という置き場に戻した頷き方だった。
受け取ることが、また一つ増えた。運ばれたこと、手当てのこと、滞在の場所、そして対価。借りの帳面ばかりが埋まっていく。返す欄を埋めるものは、まだ仮説一つしかなかった。
部屋へ案内したのは、年配の女の使用人だった。
廊下を先に立って歩く間、女は一度もこちらを振り返らなかった。部屋の扉を開け、中へ入らず、廊下側から灯りの位置と水差しの場所を告げる。視線は最後まで、ケインの胸の高さより上に来なかった。
「湯を、お持ちしました。……お食事は、後ほど」
「ありがとうございます」
礼を言うと、女は小さく頭を下げて去った。足音が、規則正しく遠ざかっていく。
部屋は簡素だが、整えられていた。寝台の敷布は洗い立てで、皺の伸ばし方に手間の跡がある。卓の上の水差し、畳まれた替えの布。そして、運ばれてきた湯は——桶に手を入れると、指先が驚くほどの温かさだった。
沸かし直したばかりの湯だ。
ケインは桶の縁に手を置いたまま、しばらく動かなかった。
グレアムの屋敷を思い出していた。あの家で、ケインの部屋の掃除は嫌がられた。順番は必ず最後に回され、湯は運ばれる頃には冷め、使用人たちは用が済めば口も利かずに去った。誰かに命じられたわけでもないのに、皆がそうした。同じだ、と思いかけて、手の中の温かさが、その考えを止めた。
違う。
目は合わせない。長居もしない。それでも、湯は熱いまま運ばれてくる。敷布は皺ひとつなく張られている。嫌うことと、仕事を尽くすことが、この館では別の棚に置かれている。
嫌われることには慣れている。だが、嫌われながら丁寧に扱われるのは、初めてだった。ケインの十五年にも、献の三十四年にも、この組み合わせの記憶はない。
忌避と善意は、両立するらしい。
壊れた土地、とダリオは言った。だが、空の囲いの柵を直し続ける手があり、嫌う相手の湯を熱いまま運ぶ手がある。手を尽くすことをやめていない土地を、壊れていると呼ぶのは——たぶん、間違いだ。
傷んだ服を替えるついでに、脇腹の傷を検めた。縁の赤みが、思ったより浅い。膿の気配も、熱の広がりもない。丸一日でこの落ち着き方は、経過が良すぎる。若い身体だから、なのだろうか。腕の布を確かめ終えた頃、扉が叩かれた。
「アリアです。少し、よろしいですか」
開けると、アリアは廊下に立ったまま、盆を持っていた。湯気の立つ椀がひとつ。
「厨房に寄ったら、先に持っていけと。……傷は」
「落ち着いています。ご心配なく」
塞がってはいない。ただ、悪化もしていない。患者の家族に使う言い方が、口をついて出た。
盆を受け取りながら、ケインは聞くと決めていたことを口にした。
「ひとつ、伺っても。——謁見で、棘の話をされませんでしたね」
アリアの視線が、一瞬だけケインの懐のあたりへ動いた。布包みの在り処を、正確に覚えている目だった。
「父に話せるのは、わたしが確かめられることだけです」
答えは、用意されていたように淀みなかった。
「あの棘は、もう砂です。お見せできるものが、何もありません。見せられないものの話は——この領では、呪いの噂と同じ棚に入ります。そうなれば、あなたの調べの邪魔にしかならない」
「僕も、同じ判断をしました」
言うと、アリアは瞬きをした。
「懐にあるのに、出しませんでした。あれが何なのか、今の僕には言えることが何もない。言えないものを領主の前に置けば、話の芯が『羊』から『得体の知れないもの』に移ります」
「……では、あれが何か分かったときは」
「そのときは、あなたから男爵に。順序は守れと、言われたばかりですから」
アリアの口元が、ほんの僅かに緩んだ。報告の型が一枚だけ剥がれた顔だった。
「明日の朝、牧場へ。ドルフという牧夫頭に引き合わせます。……気難しい人です」
「気難しい人の方が、話が早いこともあります」
「そうであることを祈ります。では、おやすみなさい」
扉が閉まり、足音が遠ざかった。
椀の中身は麦の粥だった。塩気は薄いが、腹の底から温まる。冷めた飯を食い慣れた男には、湯気というだけで御馳走だった。
食べ終えて灯りを落としかけたとき、窓の外で、声がした。
遠い。牧場のある方角だ。犬の遠吠えに似て、それより低く、尾を引く。あの犬型魔獣か。それとも、別の一頭か。声は一度きりで、夜はまた静かになった。
耳を澄ませたまま、ケインは気づいた。
包帯の下で、左腕の牙の痕が、かすかに疼いている。傷の痛みとは違う。脈に合わせて、奥の方が鈍く鳴るような疼き方だった。
疲労だろう、と結論を置きかけて、置き切れなかった。
布の上から手を当てる。疼きは、逃げるように薄れた。
窓の外の闇は、もう何も言わなかった。




