第7話 呪いではなく
記憶は、切れ切れだった。
身体が持ち上がる感覚。誰かの舌打ち。幌の影。どれが先で、どれが後か、順序が繋がらない。
落ちきってはいなかったらしい。いや、落ちきれなかった、の方が近い。
最初にはっきり戻ってきたのは、車輪の軋みだった。
木と鉄が規則正しく鳴っている。その音の下で、濡れた土を踏む蹄の音が続いていた。雨音は、もうない。
ケインは目を開けた。
幌の隙間に、灰色の空が見えた。雲の流れと車体の揺れが噛み合って、馬車が動いているのだと遅れて理解が追いつく。
身体が重かった。指先は冷たいのに、脇腹と左腕だけが熱を持っている。起き上がろうとして、左腕に鈍い痛みが走った。
見ると、袖がまくられ、布が巻かれていた。
結び目は不揃いで、締め方もいくらか緩い。けれど、当てる位置は間違っていなかった。傷の上に布を厚く重ね、その上から別の布で留めてある。
上手くはない。けれど、丁寧だった。
「気がつきましたか」
声の方へ顔を向けると、アリアが座っていた。
荷台の反対側、壁に背を預けている。膝の上には畳んだ布と水袋。その向こうに、トマが横になっていた。太腿に布が巻かれ、浅い呼吸で眠っている。御者台にはギルの背中が見えた。こちらを振り返りはしない。
「……どれくらい、眠っていましたか」
「そう長くはありません。ギルが車輪を出して……街道に戻ったところです」
アリアは水袋を差し出した。
受け取るとき、彼女の手が目に入った。
指先に細かなささくれ。掌の付け根に、薄い胼胝。手綱か、桶の柄か。とにかく、従者に傅かれる側の手ではなかった。
水は冷たく、喉に染みた。
「魔獣は」
最初に出たのは、それだった。アリアは一瞬だけ驚いた顔をして、それから答えた。
「山へ帰りました。あなたが倒れたあと、一度も戻っていません。ギルがしばらく警戒していましたが、気配もないと」
「そうですか」
息を吐くと、脇腹が痛んだ。それでも、傷より先に聞くべきことが前へ出てくるのは、もう性分としか言いようがない。
「あなたを馬車まで運んだのは、ギルです」
アリアが付け加えた。御者台は動かない。
「泥の中に置いていくわけにもいかん」
前を向いたまま、ギルが言った。恩に着せる声ではない。事実を置いただけの声だった。
「……ありがとうございます」
警戒されている自覚はある。その相手に、意識のない身体を運ばせた。借りの作り方として、これほど据わりの悪いものもなかった。
「腕の布は、わたしが巻きました。あなたがトマに言っていた通りに。……合っていますか」
「合っています」
ケインは布の上から軽く押さえ、血が表まで抜けてきていないことだけ確かめた。
「ありがとうございました」
言ってから、礼の言葉がどこかぎこちなくなっているのに気づいた。
「結び目だけ、直したいんですが……片手では締められそうにありません。手を借りても?」
「どうぞ」
アリアは膝の布を置き、こちらへ寄った。
「今の結びをほどいて……そう。当て布は動かさないでください。上の布だけ、もう一周。……そこで引く。強すぎない程度に」
アリアが布を引いた。
「っ……もう少し、緩く。止血じゃなくて、固定なので」
「……ごめんなさい」
「いえ。加減は、やってみないと掴めません。……そう、それでいいです。布と腕の間に、指が一本すっと入るくらい。それより緩いとずれて、きついと指先の血が止まります」
加減を掴んだ手は、二度目から迷わなかった。一度見た手順が、ほとんどそのまま手に移っている。自分の処置に固執せず、正しい方を取る。それだけのことが、できない人間は案外多い。
結び終えると、アリアは自分の仕事を確かめるように布を見た。
「……人に手当てをしたのは、初めてです」
「僕は、されたのが久しぶりです」
口にしてから、久しぶりでは足りないと気づいた。誰かに傷を診てもらった記憶を、たどっても見つけられない。処置をして、礼を言われる。ずっとそちら側で生きてきた。逆側の座り心地は、正直、落ち着かなかった。
ケインは軽く息を整え、自分の状態を確かめた。
脇腹の傷。熱はまだ局所だけ。左腕、牙の痕。深いが、指は全部動く。骨まではやられていない。頭は、揺れる。血が足りていない揺れ方だ。
当分は、無理が利かない。
それを確かめてから、ケインはトマの方へ視線を移した。
「トマさんの傷を、見せてもらっていいですか」
声で、トマが目を覚ました。
ケインと目が合った瞬間、その肩がびくりと跳ねる。怯えとも、遠慮ともつかない強張りだった。見慣れた反応ではある。慣れたと言えるほど、平気になったこともないが。
ケインは視線を合わせすぎないよう、わずかに外した。
「布は剥がしません。上から見て、それから中を確かめます。することは、先に全部言います」
「……は、はい」
太腿の傷は、木片がかすめた裂け方だった。長さはあるが、深さは浅い。出血はほとんど止まりかけている。布の端を持ち上げ、傷口の周りに触れると、トマが息を詰めた。
「痛むのは今だけです。泥と木の欠片が残っていないか、確かめています」
傷の縁をなぞっていくと、指先が小さく硬いものに当たった。木屑がふたつ。浅い位置だ。布越しに摘まみ出し、水袋の栓を開ける。
「あ、あの……洗う、んですか」
トマが目を丸くした。傷は布で覆っておくものだと、顔に書いてある。
「泥が残ると、あとで膿みます。膿むと熱が出て、傷より熱の方が厄介になります。だから、先に流します」
言いながら、傷の周りへ少しずつ水を伝わせた。
必要なことだけを、順番に言う。それだけで、人の身体からは力みが抜けていく。犬も、猫も、人も、そこは変わらなかった。
「……もう、痛くない」
「ええ。あとは新しい布を当てて、上から留めます。はい、終わりです。上手でした」
「お、俺がですか」
「動かず我慢できるのは、立派な仕事です」
トマは戸惑ったように瞬きをして、それから視線を落とした。
「……俺、御者のくせに、馬車を溝に落として。アリア様を危ない目に遭わせて、その上、手当てまでしてもらって」
「雨の森道で車輪を取られるのは、御者の腕の話じゃありません。道の話です」
道に罪を着せる言い方になったが、事実は事実だ。あのぬかるみの質の悪さは、自分の足でよく知っている。
「あの……ケイン様」
「様は要りません」
「……ケイン、さん。ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
御者台のギルは、何も言わなかった。
ただ、会話の間、手綱を握る背中がこちらの声をずっと拾っているのは、気配で知れた。
処置を終えて水袋を返すと、アリアが居住まいを正した。
「……ケイン、と。そうお呼びしても?」
トマとのやり取りを、聞いていたらしい。
「はい。様も、さんも、要りません」
「では、ケイン。あなたに、聞いてほしい話があります」
膝の上で、指先が掌をなぞっている。
「ヴァンデンガルフの牧場が痩せ始めたのは、もう何年も前のことです。ただ——羊が倒れ始めたのは、三月ほど前から。最初はひと月に数頭でした。先月は、その倍。今月は、まだ半ばで先月に並びました」
声は落ち着いていた。数字で話す人だ、と思った。
「倒れた羊は、餌を残します。水も、あまり飲みません。番小屋の隅には、黒く乾いた吐瀉物がありました。それから——牧場の犬型魔獣が、次々と山へ戻って、帰ってきません。あなたが診てくれた、あの子のように」
アリアは一度言葉を切った。
「領民は、土地が呪われたと言い始めています」
呪い。
この世界にそれが実在するのかどうか、ケインには判断がつかない。ただ、目の前に並んだ話には、呪いと呼ぶ前に確かめられることが多すぎた。
「聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「最初に倒れたのは、どこの牧場ですか」
「西の、外れの牧場です。今日、わたしたちが見に行った場所です」
「他の牧場でも倒れていますか」
「……います。ただ、数は西が抜きん出ています」
「水は、牧場ごとに別ですか。井戸か、沢か」
「井戸と沢を使い分けています。どの区がどちらを使うかまでは……調べれば分かります」
アリアの指先が、また掌の上を動き始めていた。
「倒れるのは、年寄りの羊からですか。若いのも倒れますか」
「老いた羊から、だったと思います。確かめます」
「犬型魔獣が戻らなくなったのは、羊より前ですか。後ですか」
「……ほぼ同じ頃、だったはずです。これも、確かめます」
答えられないことを、答えられないと言う。そして確かめると言う。
頭の中で、聞いた話を並べ直す。
場所に偏りがある。進み方が緩い。老いた個体が先に落ちる。食欲の低下が先行する。急に燃え広がる病の形ではない。何かが、ゆっくり溜まっていく形だ。
ケインは顔を上げた。
「呪いではなく、中毒の可能性があります」
馬車の軋みだけが、しばらく続いた。
「食べる物か、飲む水に原因があるなら、今の話は全部説明がつきます。場所の偏りも、進み方の遅さも、弱い個体から倒れる順番も」
「……中毒」
「ただ、僕はまだ何も見ていません。羊も、牧場も、水も。見てもいないのに、これ以上は言えません。外れているかもしれない」
御者台で、ギルが初めて振り返った。
疑う目ではなかった。聞き逃すまいとする目だった。視線が合うと、ギルは何も言わずに前へ向き直った。
アリアの指先が、掌の上で止まっていた。
「わたしは、アリア・ヴァンデンガルフといいます。あの牧場のある領の、領主の娘です」
名乗りは、招きの前に置かれた。相手の素性を聞かないまま、自分の素性だけを先に差し出す順番だった。
「ケイン。ヴァンデンガルフに、来ていただけますか」
まっすぐな言い方だった。
「父に、正式に話を通します。牧場も、記録も、あなたが見たいものは全部見られるようにします。……原因を探せる人を、ずっと探していました」
行く当てなど、最初からない。断る理由を探す方が難しい話だった。
それでも、返事の前に一拍だけ、胸の奥で古い声が疼いた。
街道を東へ進めば、ヴァンデンガルフ領がある。
父の声だ。土地が痩せ、衰えている男爵領。厄介払いの行き先として告げられた名前が、いま、迎え入れる側の声で呼んでいる。
壊れた土地に、壊れたギフト。似合いだと思うぜ、ケイン。
ダリオの笑いまで、ついでに浮かんだ。
……そうかもな、とケインは思う。
ただし、意味は逆だ。壊れているなら、診るところから始められる。直せるかどうかは、診てからの話だ。それは獣医だった頃から、何ひとつ変わっていない順番だった。
「行きます」
短く答えると、アリアの肩から、ほんのわずかに力が抜けた。
「ありがとう」
「礼は、原因が見つかってからにしてください」
「では、そのときにもう一度言います」
言い切る速さに、少し笑いそうになった。この人は、そういう人らしい。
アリアは、それきり何も訊かなかった。
どこで手当てを覚えたのか。なぜ雨の森に一人でいたのか。名乗らなかった家名のことも。訊かれれば答えに詰まる問いは、いくらでもあったはずだ。
「……訊かないんですか」
つい、こちらから言ってしまった。アリアはかすかに首を傾げ、それから静かに答えた。
「羊を診てもらうのに、要らないことです。話したくなったら、話してください」
線の引き方が、綺麗な人だった。
御者台のギルが、小さく息を吐いた気がした。主の線引きに納得しかねている者の息だった。それでも、口には出さない。
馬車が石を踏み、荷台が揺れた。
その拍子に、ケインは思い出した。
「……そういえば、棘は」
「布ごと、預かっている」
ギルが御者台から答えた。荷台の隅、道具袋の上に、あの布包みが置かれていた。
ケインは包みを引き寄せた。素手では触らない。布の端を持ち、膝の上でゆっくりと開く。
黒い砂だった。
棘の形は、どこにもなかった。細かい粒がひと握り、布の窪みに溜まっているだけだ。雨に濡れていたはずなのに、粒は乾いて、さらさらと布の織り目を流れた。
「……棘は? 崩れて、いる……?」
アリアが息を呑み、トマは布包みから身を引いた。
「確かに、棘のまま包んだ……」
ギルの声に、初めて硬さ以外のものが混じった。手綱を握る手は、そのままだった。
ケインは布の端で寄せ、崩れる感触を確かめてから、布を元通りに包み直した。
嘘をついている者は、この場にいない。抜いたときには確かに形があった。脈打つようにさえ見えた。それが、半日ももたずに崩れた。
生き物の組織なら、こうは崩れない。鉱物なら、なおさら崩れない。
あれは、何だったのか。
証拠は手の中で砂になり、問いだけが残った。
包みを結び直し、置き場所に迷った。ギルが回収したものだ。勝手に懐へ入れていいものでもない。
「持っていろ。抜いたのは、お前だ」
迷いを背中で読んだような声だった。
押しつけられたのか、預けられたのか。判じかねる言い方だったが、ケインは包みを懐へ収めた。砂になってもなお、素手で触る気にはなれなかった。
馬車は軋みながら、東へ進んでいく。
幌の隙間の空は、まだ灰色のままだった。




