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第6話 黒い棘

 犬型魔獣の牙は、まだケインの左腕に食い込んでいた。


 噛まれた場所が、脈に合わせて疼く。

 少しでも腕を引けば、傷口が広がる。


 分かっているのに、痛みに反応して腕を引きそうになる。


 ケインは奥歯を噛み、肩の力を抜いた。


「大丈夫。まだ何もしない」


 魔獣に向けた声だった。

 半分は、自分にも向けていた。


 アリアが、濡れた布と水袋を持って近づいてくる。


「アリア様、下がってください」


 ギルの声が鋭くなる。


 アリアが一歩進むと、ギルも同じだけ動いた。

 剣先は魔獣へ向けたまま、身体だけをアリアの前に半分かぶせる。


「近づきすぎません。あなたは、斬れる位置にいて」


「危険です」


「分かっています」


 アリアは短く答えた。


「だから、あなたは剣を下げないでください」


 水袋の口を開ける指が、一度だけ革紐を取り損ねた。

 それでも、アリアは魔獣から目を逸らさない。


 ギルは納得していない。

 だが、それ以上は止めなかった。


 ケインはそのやり取りを聞きながら、魔獣の首筋を見ていた。


 黒く固まった毛。

 雨に濡れているのに、そこだけほどけない。首を動かすたび、皮膚の奥が引きつるように震える。


「水を、少しだけ」


 ケインは右手を上げた。


「かけるんじゃなくて、布を濡らしてください。こすらないで。押さえるだけでいいです」


 アリアがうなずく。


 信用されたわけではない。それでも、アリアは目を逸らさなかった。

 

 ケインではなく、ケインが見ている場所を見ようとしている。


 腕も脇腹も痛い。

 できれば今すぐ横になりたかった。


 それでも、意識は落ちなかった。


 左腕を噛まれ、脇腹にも傷があり、雨で身体は冷えている。

 なのに、右手は動く。


 身体のどこかが、ぎりぎりで踏みとどまっていた。


 理由を考える余裕はない。


「大丈夫。触るだけだ」


 ケインは魔獣に声をかけた。


 魔獣の耳が動く。


 アリアが濡らした布を差し出した。

 ケインは右手でそれを受け取り、ゆっくりと魔獣の首筋へ近づける。


 真正面からは見ない。

 肩を落とし、手の甲を先に見せる。


 噛む力が、わずかに強くなった。


「っ……」


 息が詰まる。

 だが、腕は引かなかった。


 魔獣の喉が鳴った。


 ギルの剣先が、指一本分、上がる。

 次に噛む力が増せば、刃は振り下ろされる。


 ケインは右手を止めたまま、息だけを細く吐いた。


「分かってる。痛いんだよな」


 ケインは布を、黒く固まった毛の上にそっと当てた。


 水が毛の奥へ染みていく。

 泥なら、ほどける。

 血なら、色が変わる。


 けれど、その黒さはすぐには薄まらなかった。


 布を離すと、毛の奥から暗い雫がにじんだ。


 雨に打たれても、流れない。


 ケインは、喉の奥で息を止めた。


「……やっぱり、ただの傷じゃない」


 アリアの顔色が、わずかに変わった。


「血では、ないのですか」


「少なくとも、普通の血には見えません」


 ケインは布を握り直した。


 黒い雫は、雨に濡れても薄まらない。

 布に移った色も、赤ではなかった。墨を水で溶いたような黒さが、繊維の奥に絡みついている。


 嫌な感じだ。


 そう思った瞬間、胸の奥が小さくざわついた。


 魔獣が嫌なのではない。

 血が嫌なのでもない。


 この黒いものを、身体が拒んでいる。


 そんな感覚だった。


 ケインは息を浅く吸い、すぐに考えるのをやめた。

 今は、感覚の意味を探る時間ではない。


「もう少し濡らします。布を」


 アリアが新しい布の端を水で湿らせる。

 近づきかけたところで、ギルが肩で制した。


「そこまでです」


 アリアは足を止めた。

 ただ、水袋を持つ手だけを伸ばす。


「届きますか」


「届きます」


 ケインは濡れた布を受け取り、黒く固まった毛の上にそっと当てた。


 押さえる。

 待つ。

 こすらない。


 固まった毛を無理に剥がせば、皮膚ごと裂ける。痛みが強ければ、この魔獣は反射で噛む。そうなれば、ケインの左腕は裂け、ギルの剣も止まらない。


「大丈夫。ゆっくりやる」


 魔獣の喉が鳴った。


 低く、濁った音だった。

 けれど、さっきのように噛む力は増えない。


 ケインは布をずらした。

 黒く固まっていた毛の端が、水を含んでわずかにほどける。


 その下の皮膚が見えた。


 赤く腫れている。

 ただの傷なら、熱を持って腫れることはある。だが、その腫れ方はどこかおかしかった。


 皮膚の中心が、黒く沈んでいる。


 刺し口だ。


「……何か、入ってる」


 ギルの剣先が動いた。


「何がだ」


「まだ分かりません。木片か、棘か……」


 言いかけて、ケインは口を閉じた。


 木片なら、雨で色が変わる。

 腐った枝なら、柔らかく崩れる。


 けれど、皮膚の奥に見える黒い線は、水を弾いているように見えた。


 細い。

 だが、深い。


 毛の奥から、黒い棘の先のようなものが覗いていた。


 アリアが一歩近づこうとして、すぐに止まる。


「……見覚えがあるのですか」


 ケインは魔獣から目を離さずに尋ねた。


 アリアはすぐには答えなかった。

 水袋を握る指が、強くなる。


「牧場で倒れた羊にも、似た黒い跡がありました。ただ、ここまではっきり見たわけではありません」


「羊の、どこに」


「首の下です。毛に隠れていて……ただの汚れだと、牧夫は言っていました」


 馬車の陰で、トマが小さく呻いた。


 アリアの視線が、一瞬だけそちらへ揺れる。

 ケインもその音を聞いた。


 従者の傷も、後回しにしていいものではない。

 出血しているなら、早く見た方がいい。


 それでも、今この手を止めれば、魔獣の方が崩れる。


「トマさんは、動かさないでください」


 ケインは布を押さえたまま言った。


「押さえている布があるなら、そのままにしてください。何度もめくると、また血が出ます」


 アリアが小さくうなずいた。


「トマ、聞こえましたね。動かないで」


「……はい、アリア様」


 弱い返事があった。


 ケインは奥歯を噛んだ。


 この一頭だけではない。

 やはり、そういう話になってくる。


 だが、今ここで牧場の事情を聞いている余裕はない。


 ケインは、黒い棘の周囲を見た。


 皮膚は腫れ、毛は固まり、暗い液がにじんでいる。魔獣は首を動かすたびに痛みをかばっている。


 これが異物なら、抜かなければ刺激は続く。


 ただし、抜けば暴れる。


 左腕に食い込む牙が、急に重く感じられた。


 最悪だな。


 口に出さなかっただけ、自分を褒めたい。


「抜きます」


 ギルの表情が険しくなった。


「できるのか」


「分かりません。でも、このまま残した方が危ない」


 雨の音が、やけに近かった。

 魔獣の荒い息。馬車の陰でトマが息を詰める音。アリアが水袋を握り直す気配。


 全部が、今は邪魔になるくらい近い。


「短剣を貸してください」


「渡すと思うか」


「僕がやります。どこを押さえるか、見ながらでないと危ない」


 ギルの目が細くなった。


「妙な動きをすれば、斬る」


「できれば、魔獣より後にしてください」


「冗談を言うな」


「冗談に聞こえたなら、僕もまだ大丈夫です」


 アリアが馬車へ振り返った。


「火打ち石は?」


「……荷台の右です。油布の袋と、一緒に」


 トマの掠れた声がした。


 アリアが取りに行く間も、ギルは動かなかった。

 剣先は魔獣へ向いたまま、下がらない。


「刃を炙ります。汚れを減らすためです」


 ケインが言うと、ギルは短剣を抜いた。


 油布に小さな火がつく。

 刃先が、その上にかざされた。


 赤くなるほどではない。

 それでも、泥に濡れた刃をそのまま使うよりはいい。


「もういいです」


 ギルは短剣の柄を、ケインの右手へ向けた。


 ケインはそれを受け取る。


 濡れた柄が、指の中で滑った。

 力を入れすぎれば、手元が狂う。緩めすぎれば落とす。


 厄介な重さだった。


「動くなよ」


 ギルの声が落ちる。


「僕に言ってますか。魔獣に言ってますか」


「両方だ」


「努力します」


 軽く返したつもりだった。

 けれど、自分の声は思ったより掠れていた。


 ケインは短剣を構え、黒い棘の根元へ近づける。


 刃を大きく入れない。

 切るのは毛と、固まった汚れだけだ。


 皮膚には、できるだけ触れない。


 魔獣の耳が伏せる。

 牙が左腕に食い込む。


「大丈夫。大丈夫だ」


 ケインは小さく声をかけた。


 大丈夫なわけがない。

 魔獣も。

 自分も。


 それでも、声を止めるよりはましだった。


 刃先で、黒く固まった毛を削る。


 ぬるり、と嫌な感触が伝わった。


 刃にまとわりついた黒いものが、雨に濡れても薄くならない。


 胸の奥が、またざわついた。


 嫌だ。


 今度は、はっきりしていた。


 ケインの感情というより、この身体の奥から浮かび上がってくる反応だった。


 この黒いものを、入れておくな。

 触れさせるな。

 広げるな。


 ケインは奥歯を噛んだ。


 分かった。

 でも、暴れるな。


 誰に言っているのか、自分でも分からない。


 刃先で毛を分けると、黒い棘の根元が見えた。


 細い。

 だが、表面だけではない。皮膚の下へ、斜めに潜っている。


 まっすぐ引けば、周りの肉を巻き込む。


「……少し、押さえます」


 ケインは短剣の柄を口にくわえ、右手の指で棘の周りを押さえた。


 魔獣の身体が、びくりと震える。


 ギルの剣先が上がった。


「待って」


 ケインはすぐに言った。


「まだ噛む力は変わってません」


「分かるのか」


「分かります」


 分かる、というより、読めなければ終わりだ。


 左腕の骨に響く圧が、さっきと同じところで止まっている。

 これ以上強くなれば、たぶん折れる。


 考えたくない。


 ケインは短剣を右手に戻し、刃を棘の根元へ当てた。


 浮かせる。


 皮膚と棘の間に、隙間を作る。


 獣医だった頃なら、助手が押さえていた。

 麻酔もあった。

 鉗子も、消毒液も、清潔なガーゼもあった。


 今は、雨と泥と、借りた短剣だけ。


 笑えない。


「……いくぞ」


 声は魔獣へ向けた。

 返事はない。


 ケインは刃先を動かした。


 黒い棘が、わずかに浮く。


 その瞬間、魔獣が跳ねた。


「ぐっ……!」


 左腕に牙が沈む。


 視界が白く弾けた。

 ギルが踏み込む気配がする。


「まだ!」


 ケインは叫んだ。


 自分でも驚くほど強い声だった。


 魔獣の身体は震えている。

 だが、首はまだこちらへ向いている。逃げようとしているのではない。痛みから逃げ場を探しているだけだ。


「まだ斬らないでください!」


 ギルの足が止まった。


 ケインは息を荒くしながら、棘を見た。


 少し浮いた。

 ほんの少しだ。


「アリアさん、声を」


 アリアが一瞬、息を止めた。


「声?」


「低く。何でもいいです。落ち着かせて」


 アリアは戸惑ったように魔獣を見た。

 だが、すぐに膝を浅く折り、視線を低くする。


「……大丈夫です」


 硬い声だった。


 それでも、声は震えていなかった。


「傷つけたいわけではありません。……だから、もう少しだけ」


 魔獣の耳が、動いた。


 言葉を理解したわけではない。

 音の調子に反応しただけかもしれない。


 それでいい。


 ケインは短剣を棘の下へ入れ直した。


 今度は引かない。

 棘の下から、外へ逃がす。


 入ってきた向きに逆らわず、ゆっくりと、戻す。


 黒い液が、根元からにじんだ。


 嫌だ。


 身体の奥が、強く拒む。


 ケインはその感覚を、右手の指先へ集めるように息を吐いた。


 拒むなら、これだけを拒め。


 黒い棘だけを。


 そう思った瞬間、右手の指先がかすかに熱を持った。


 何かが起きた。


 けれど、見ている余裕はない。


 棘が、ずるりと動いた。


 魔獣の喉から、潰れたような声が漏れる。


「あと少し」


 ケインは息を止めた。


「これで」


 短剣の刃先で支え、指で押さえ、黒い棘を逆らわず、外へ逃がしていく。


 一気に抜きたい衝動を抑える。


 急げ。

 でも、雑にするな。


 棘の先が、皮膚の外へ出る。


 黒い液が糸を引いた。

 雨に打たれても切れない。


 ケインは短剣の柄をもう一度口にくわえ、布を当てた。

 それから、右手の指先で棘をつまむ。


 ぬめる。

 滑る。


 逃げるな。


 右手の指先が、また熱くなった。


 ケインは、棘が入っていた向きに逆らわないよう、ゆっくりと引いた。


 黒い棘が、皮膚から抜けた。


 その瞬間、魔獣の身体から力が抜けた。


 牙も、左腕から離れる。


「ふぅ……」


 止めていた息が口から漏れる。


 ケインは棘を布の上へ置いた。


 細い黒い棘だった。


 木でも、骨でも、金属でもない。

 雨の中で、それは脈打っているように見えた。


 ギルの剣先が、魔獣から布の上へ移る。


 誰も、すぐには声を出さなかった。


 ケインも、言えなかった。


 左腕から血が落ちている。

 噛まれていた場所が、遅れて熱を持ち始める。


 それでも、ケインは魔獣を見た。


 魔獣の呼吸は、まだ荒い。

 だが、さっきまで首の奥で鳴っていた低い唸りは、もう聞こえなかった。


 耳の先だけが揺れた。


「……よし」


 声が掠れた。


「よく我慢した。もう、噛まなくていい」


 魔獣の目が、ゆっくりとケインを見る。


 怯えは、まだある。


 次の瞬間、魔獣は身をよじった。


 ギルの剣が上がる。


「待ってください!」


 ケインは反射で声を出した。


 魔獣は飛びかかってきたわけではなかった。

 泥を蹴り、ふらつきながら距離を取る。


 足元はまだ危うい。

 それでも、さっきまでの狂ったような動きではない。


 魔獣は一度だけ、こちらを振り返った。


 雨に濡れた耳が、小さく動く。


 それから、森の奥へ駆けていった。


 枝が揺れる。

 雨音の向こうで、足音が遠ざかる。


 ギルは剣を下ろさなかった。


「逃がしたぞ」


 低い声だった。


「また襲ってきたらどうする」


「たぶん、すぐには来ません」


「たぶん、か」


「はい」


 ケインは息を吐いた。


「確実とは、言えません」


 ギルの眉間に皺が寄る。


 当然だ。

 自分でも、ずいぶん頼りない答えだと思う。


 けれど、あの目はもう、痛みに焼かれてはいなかった。

 今すぐ誰かを噛み砕こうとする目ではない。


 そこまで考えたところで、左腕から血が落ちた。


 ぽたり、と泥に赤が混じる。


 アリアの視線が、そこへ落ちた。


「……その腕」


 言われて初めて、ケインは自分の左腕を見た。


 袖は裂け、噛まれた場所の周りが赤黒く濡れている。

 牙の跡は深い。血は雨に流されているのに、次から次へと滲んでくる。


 痛い。


 そう思った途端、今まで押し込めていた痛みが、一気に輪郭を持った。


「トマさんを……」


 ケインは馬車の方へ目を向けた。


「次は、トマさんを見ます」


「その腕でか」


 ギルの声が割り込んだ。


 ケインは答えようとした。


 大丈夫です。

 先に出血を確認しないと。

 噛み傷はあとでいい。


 そう言うつもりだった。


 けれど、口を開いた瞬間、視界の端が白くにじんだ。


 右手の指先に残っていた熱が、急に遠くなる。


 身体のどこかで、ぎりぎり張っていたものが緩んだ。


 まずい。


 そう思った時には、膝が泥に落ちていた。


「ケイン!」


 アリアの声が近づく。


 ギルが何かを言った。

 トマの掠れた声も聞こえた気がする。


 けれど、全部が雨音に混じって遠くなる。


 ケインは左腕を押さえようとして、うまく力が入らなかった。


 布の上の黒い棘が、雨に濡れている。


 小さく、黒く。


 まるでまだ、生きているみたいに。


 ケインはそれを見たまま、奥歯を噛んだ。


 まだ、倒れるわけにはいかない。


 そう思った。


 思っただけで、身体はもう動かなかった。

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