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第5話 獣を診る

 立ち上がった瞬間、視界が一度白くなった。


 膝が抜けそうになり、ケインは近くの木に手をついた。

 濡れた樹皮が、掌にざらつく。指先には泥と血が混じっていた。


 行くべきではない。


 そんなことは、考えるまでもなかった。


 脇腹は焼けるように痛む。傷に当てた布は、雨を吸って重くなっている。腹の奥も鈍く疼いていて、深く息を吸うたびに身体の内側を押されるような感覚があった。


 こんな状態で森を歩く。

 しかも、獣の声がした方へ。


 正気じゃない。


「……分かってるよ」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


 遠くで、また声がした。


 喉を削るような吠え声。

 犬に似ている。狼にも似ている。けれど、縄張りを主張する音ではなかった。


 吠えたあとに、息が詰まっている。


 痛みか、恐怖か。

 あるいは、その両方か。


 ケインは脇腹を押さえ直した。


 薬もない。

 器具もない。

 自分の身体の処置すら、まともにできていない。


 それでも、あの声を聞いたあとで、背を向ける方が難しかった。


 昔も、似たようなことがあった。


 診療時間に遅れそうな朝、路地の隅で、後ろ脚を引きずる猫を見つけた。

 予約は詰まっていた。


 通り過ぎて、三歩で戻った。


 ケインは短く息を吐き、声の方へ歩き出した。


 一歩ごとに、傷が熱を持つ。

 雨で冷えた身体の中で、脇腹の奥だけが妙に熱かった。


 おかしい。


 傷は浅くない。

 この雨と冷えなら、もっと指先が鈍ってもいい。出血だって、布一枚で大人しく収まるようなものではないはずだ。


 なのに、意識は落ちない。視界は時々白むが、完全には途切れない。足も、遅いながら前へ出る。


 若い身体だからか。

 それとも、死にかけて感覚がおかしくなっているのか。


 分からない。


 分からないことを考えている余裕もなかった。


 森の奥で、枝が折れる音がした。


 続いて、土を蹴る音。

 何か重いものが、濡れた下草を踏み分けている。


 ケインは木の陰に身を寄せながら進んだ。

 視線を低くし、足音をできるだけ殺す。獣を相手にするとき、真正面から近づくのはよくない。怯えているならなおさらだ。


 雨の向こうに、馬車の影が見えた。


 片方の車輪が泥に沈み、車体が斜めに傾いている。

 馬はつながれたまま、何度も首を振っていた。白く濁った息が雨の中に散っている。


 馬車のそばで、若い従者らしい男が座り込んでいた。

 片足を押さえ、顔を歪めている。轍の近くには、折れた木片が泥に半分埋もれていた。


 剣を持った男が、その前に立っている。

 視線は馬車ではなく、森の奥へ向いていた。


 そのさらに後ろに、濡れた外套をまとった少女が立っている。


 少女は逃げていなかった。


 顔色は悪い。

 けれど、目だけは森の奥から逸らしていない。


「下がってください、アリア様。近づいています」


 剣を持った男が言った。


 また、あの声がした。


 森の奥で、黒い影が動いた。


 地面に腹をこすりつけるような姿勢だった。


 泥に濡れた毛は長く、ところどころ束になって垂れている。首の周りには、切れかけた革紐のようなものが絡んでいた。


 だが、ただの犬ではない。


 肩から背にかけて、黒い角質のような突起がいくつも浮いている。

 前脚の爪は地面を裂くほど長く、呼吸のたびに、胸の奥で唸りが震えた。


 黒い影が顔を上げた。


 口元には泡が浮き、舌が横から少しはみ出している。目は血走っていたが、こちらを正しく見ているわけではない。焦点が合わず、雨の中で何か別のものを追っているようだった。


 牙が見えた。


 だが、ケインの目は牙ではなく、その足元に向いていた。



 ♢♢♢♢♢♢



 戻るだけのはずだった。


 アリア・ヴァンデンガルフは、濡れた外套の袖を握りしめていた。


 外れの牧場で倒れた羊を確認し、番小屋に残っていた水桶と飼料を見て、領館へ戻る。

 それだけの予定だった。


 でも、雨は思っていたより強かった。


 森道の土は緩み、馬車の片輪が泥に深く沈んだ。

 従者のトマが車輪を押そうとして、足を滑らせる。馬が怯えて身をよじった拍子に、折れた木片が太腿をかすめた。


 深くは切れていない。

 そう思いたかった。


 けれど、トマは立てなかった。

 押さえた指の間から、赤い色が雨ににじんでいる。


「アリア様、馬車へお戻りください」


 護衛のギルが言った。


 いつもより硬い。

 剣を抜いたまま、森の奥から目を離していない。


「戻っても、馬車は動きません」


「それでも、ここに立っているよりはましです」


 ギルの言うことは正しい。


 護衛は一人。

 トマは負傷し、馬も落ち着かない。


 ここで魔獣が出れば、守りきれない。


 ただ、足は動かなかった。


 森の奥から聞こえる声が、耳に残っている。


 犬型魔獣の声だった。


 ヴァンデンガルフ領では、犬型魔獣を牧場の見張りや羊追いに使う家もある。

 普通の犬より力が強く、人に慣れればよく働く。昔は、領の牧場には必ず一、二頭はいたと聞いている。


 でも、今は違う。


 倒れていた羊の目。

 手つかずの餌。

 番小屋の隅にこびりついた、黒く乾いた吐瀉物。


 昨日から戻らない一頭の名を、牧夫は何度も呼んでいた。


 また、森の奥で唸り声がした。


 怒りだけなら、まだ分かりやすかった。


 けれど、あれは違う。

 そう聞こえてしまう。


 アリアは、自分の甘さを知っていた。


 目の前で人が傷ついている。

 馬は怯えている。

 ギルはすでに剣を構えている。


 その状況で、魔獣を殺したくないなどと簡単に言えるほど、自分は何も知らないわけではない。


 けれど、殺せば終わるのか。


 倒れた羊。

 戻らない犬型魔獣。

 黒く乾いた吐瀉物。


 そのどれもが、雨の中で頭から離れなかった。


「アリア様」


 ギルが短く呼んだ。


 森の奥で、黒い影が動く。


 アリアは息を呑んだ。


 長い毛は泥に濡れ、身体に張りついていた。

 異様に伸びた爪が地面を掻き、肩から背にかけて、黒い突起がいくつも浮いている。


 犬型魔獣だった。


 けれど、アリアが知っている姿ではない。


 もっと背筋を伸ばし、人の声に耳を向ける生き物だったはずだ。

 少なくとも、こんなふうに地面に腹を近づけ、苦しそうに唸るものではなかった。


「駄目です」


 ギルが剣を握り直した。


「これ以上近づけば、斬ります」


 そうするしかない。


 アリアは分かっていた。

 それでも、返事ができなかった。


 その時だった。


「待ってください」


 雨の向こうから、かすれた声がした。


 ギルが振り向く。

 アリアもそちらを見た。


 木の陰に、少年が立っていた。


 泥だらけだった。

 顔色は悪く、片手で脇腹を押さえている。立っているだけでも苦しそうなのに、その目だけは妙に落ち着いていた。


 少年は、ギルの剣にほとんど目を向けなかった。

 アリアにも、助けを求めてこない。


 見ているのは、犬型魔獣だった。


 それも、牙ではない。

 足元と、首のあたり。


 まるで、そこに答えがあると知っているみたいに。


「殺さないでください」


 少年は、もう一度言った。


 雨の中で、その声だけが不思議とはっきり聞こえた。


「たぶん、襲おうとしてるんじゃありません」


「下がれ」


 ギルは短く告げた。

 剣先は犬型魔獣へ向いたまま、少年の方へは視線だけを動かす。


「邪魔をすれば、巻き込まれる」


 少年は、ギルを見なかった。

 犬型魔獣の足元と、首のあたりを見たまま、浅く息を吸う。


「近づけさせないようにしてる。痛い場所を、守ってるんです」



 ♢♢♢♢♢♢



「近づけさせないようにしてる。痛い場所を、守ってるんです」


 言ってから、ケインは少しだけ息を詰めた。


 声を出すだけで、脇腹の奥が熱くなる。

 傷に当てた布の下で、ぬるいものがまた広がった気がした。


 ギルと呼ばれた男の剣先は、犬型魔獣に向いたままだ。

 今の自分は、泥と血にまみれた見知らぬ少年でしかない。


「下がれと言った」


 怒鳴ってはいない。けれど、逆らえば斬る、という硬さがある。


 ケインは一歩も近づかなかった。


 代わりに、犬型魔獣を見る。


 正面からではない。

 視線を少し外し、相手の肩と足元を見る。


 前脚をつく。

 肩が沈む。

 首の横が引きつる。

 そのたびに唸り声が濁る。


 やはり、そこだ。


 右の肩から首にかけて、痛みがある。


 犬型魔獣が唸った。

 黒い突起の浮いた背が、波打つように震える。


 ギルの手に力が入る。


「来るぞ」


「まだです」


 ケインは反射的に言っていた。


 ギルの視線がこちらへ刺さる。

 まずい、と思った。


 自分は指揮を取れる立場ではない。

 魔獣の種類も、この異常の原因も、今のケインには分からない。


 けれど、今の一歩は攻撃前の踏み込みではなかった。

 体重を逃がしただけだ。痛む方の脚に乗せられず、バランスを崩しかけた。


 犬型魔獣が吠えた。


 馬が大きく首を振り、車体が軋む。

 座り込んでいた従者が短く呻いた。


 その音に反応して、犬型魔獣の頭が跳ねる。

 牙が剥き出しになった。


「音を立てないで」


「お前が黙れ」


 ギルが鋭く返す。


 危険な獣を前に、正体不明の少年が横から口を出している。

 普通なら邪魔でしかない。


 ケインは奥歯を噛んだ。


 黒い獣は、まだ飛びかかってこない。

 唸りながら、首を低くしている。

 逃げたいのに、逃げられない。


 馬車も、人も、剣も、雨音も近すぎる。


 逃げ場を奪っている。


「剣を、少し下げてください」


 言った瞬間、ギルの眉が動いた。


「何を言っている」


「振り上げたままだと、余計に噛みます。逃げ道も、塞がないでください」


「逃がす気か」


「逃げられると思わせるんです。そうしないと、来ます」


 ギルは答えなかった。


 剣は下がらない。

 下げられるわけがない。


 けれど、アリアが小さく息を吸う気配がした。


「……ギル」


「なりません」


 即答だった。


「正体も分からぬ者に、任せられません」


「分かっています」


 アリアの声は震えていなかった。


「けれど、今の動きは……襲うためのものには見えませんでした」


 ギルが、わずかに沈黙した。


 ケインはアリアを見なかった。

 見ている余裕がない。


 呼吸がまた変わった。


 短い。

 浅い。

 吠える前に、喉の奥で詰まる。


 ケインはゆっくり息を吐いた。


「大丈夫」


 声は、自分で思ったより小さかった。


「こっちは、噛まないよ」


 耳が動いた。


 ほんの一瞬だった。


 唸り声が消えたわけではない。

 牙も引っ込んでいない。

 目の焦点もまだ合っていない。


 けれど、黒い獣の視線が、雨の中でケインに引っかかった。


 敵を見る目ではなかった。

 従ったわけでもない。


 声か。

 匂いか。

 この身体か。


 分からない。


 でも、止まった。


 その一瞬で、ケインは首筋を見た。


 長い毛の奥。

 肩の付け根に近いところ。


 そこだけ、毛の流れが乱れていた。

 雨に濡れているのに、黒く固まった毛がほどけない。


 首を動かすたび、そのあたりだけ小さく引きつる。


「……そこか」


 小さく漏れた声に、黒い獣の瞳がぎょろりと動いた。


 次の瞬間、喉の奥から、吠え声とも悲鳴ともつかない音が漏れた。


「……首の横です」


 ケインは、犬型魔獣から目を離さずに言った。


「そこに、何かある」


 ギルの剣先は魔獣に向いたままだ。


「見えるのか」


「はっきりとは。でも、動かすたびにそこだけ引きつっています。毛も固まってる」


「近づく気か」


「はい」


 ギルが短く息を吐いた。


「噛まれるぞ」


「でしょうね」


 自分で言って、少し嫌になった。


 正直、噛まれたくはない。

 犬にも猫にも、馬にも牛にも噛まれたことはある。引っかかれたことも、蹴られたこともある。


 だから平気だ、とはならない。


 痛いものは痛い。


 それでも、ケインは目を逸らせなかった。


 背に浮いた黒い突起は、さっきよりも濃く見えた。雨に濡れているのに、そこだけ油を塗ったような鈍い光を返している。


 爪が、泥を掻く。


 普通に伸びた爪ではない。

 肉ごと押し広げられたように、根元が黒く腫れている。


 何がそうさせているのかは分からない。

 けれど、これはただの怪我でも、ただの衰弱でもない。


「このまま放っておくと、まずいと思います」


 アリアがこちらを見た。


「まずい、とは?」


「まだ反応があります。声にも、動きにも。こちらを見ています。でも、あの黒い突起と爪の変化が進めば……」


 その先は、うまく言葉にならなかった。


 確証はない。

 現場で確証を待っていたら、間に合わないことがある。


「ならば、なおさら斬るべきだ」


「この一頭は、それで終わります」


「それで十分だ」


「今は」


 ギルの目が鋭くなった。


 ケインは犬型魔獣の首筋を見たまま、続けた。


「でも、この一頭だけを斬っても、たぶん終わりません」


 アリアの指が、濡れた外套を握った。


 その反応だけで、ケインには分かった。


 やはり、もう起きているのだ。


 この一頭だけの話ではない。


 犬型魔獣が唸った。


 首の横の毛が、また小さく引きつる。

 痛みの場所を見られたと分かったのか、濁った目がケインに向いた。


 ケインは、ゆっくり片手を上げた。


 手のひらを見せる。

 指を曲げない。

 掴みにいく形を作らない。


「大丈夫」


 短く言う。


「見るだけだ。すぐには触らない」


「少年」


 ギルの声が飛んだ。


「それ以上は――」


 言葉が終わる前に、黒い影が跳ねた。


 避ける余裕はなかった。


 左腕に、熱い痛みが食い込む。


「ぐっ……!」


 牙が肉を挟んだ。

 骨まではいっていない。だが、浅くもない。


 反射的に腕を引きそうになり、ケインは歯を食いしばった。


 引くな。


 引けば裂ける。

 相手も、もっと噛み込む。


 ギルが踏み込む気配がした。


「……斬るな」


 ケインは、喉の奥から押し出した。


 叫びたかった。

 けれど、叫べば終わる。


 犬型魔獣の牙が、腕に食い込んだまま震えている。


 怒りだけではない。


 怖い。

 痛い。

 近づくな。


 そう言っている。


 口で言えるわけがないから、牙で言っている。


「怖くないよ」


 ケインは囁くように言った。


「噛んでいい。……いや、よくはないけど」


 自分でも何を言っているのかと思った。

 だが、声を止める方がまずい。


 犬型魔獣の目が、近くにあった。


 血走り、濁り、焦点の揺れた目。

 それでも、完全には壊れていない。


 ケインを見ている。


「でも、触るだけだ。傷を見るだけ」


 噛まれた腕が熱い。

 雨の冷たさが、そこだけ遠い。


「だから、それ以上は噛むな」


 牙に、もう一度力が入った。


「うっ」


 ケインは息を詰めた。


 次の瞬間、噛む力がわずかに止まった。


 緩んだ、とは言えない。

 放したわけでもない。


 ただ、それ以上は深く入ってこなかった。


 ギルの剣が、雨の中で止まっている。


 アリアも動かなかった。


 喉から、細い音が漏れた。

 唸り声の奥に、かすれた息が混じる。


 ケインは、ゆっくり膝を折った。


 噛まれた腕はそのまま。

 視線は合わせすぎない。

 肩を落とし、身体を小さくする。


「そうだ。いい。もう噛んでるからな。そこは譲るよ」


 痛みで、声が少し震えた。


「少しだけ我慢しろ。僕も我慢してるんだから」


 犬型魔獣の耳が、かすかに動いた。


 アリアが、息を吸う音がした。


「……ギル」


「危険です」


「分かっています。でも、まだ噛み砕いてはいません」


 アリアはケインに問いかけた。


「あなたは、本当に見られるのですか」


 ケインは、牙の食い込んだ腕を見た。

 血が雨に混じり、袖を重くしている。


「見ます。ここまで噛まれたので」


 アリアが一瞬だけ目を見開いた。


 ギルは顔をしかめた。


 黒い獣はまだ腕を放さない。


 ケインは続けた。


「ただ、準備が要ります。水。できるだけきれいな布。火を移せるもの。それと、短剣を一本」


「短剣?」


 ギルの声が硬くなる。


「斬るんじゃありません。刺さっているものがあるなら、抜くためです。固まった毛や皮膚を少し開く必要があるかもしれない」


「そんなことをすれば暴れる」


「だから、今しかないんです」


 ケインは犬型魔獣の首筋を見た。


 黒く固まった毛の奥。

 そこから、雨に流れない暗い雫がにじんでいる。


「まだ僕の声に反応しているうちに」


 アリアは黙った。


 雨が落ちる。

 馬が小さく鼻を鳴らす。

 トマの荒い息が、馬車の陰から聞こえた。


 長くは待てない。


 アリアは、濡れた外套の前を握りしめたまま、ゆっくりとうなずいた。


「……一度だけです」


「アリア様」


「危険だと判断したら、ギル、その時は迷わず斬ってください」


 ギルはしばらく答えなかった。


 剣先は下げない。

 ただ、踏み込むために前へ置いていた足を、半歩だけ引いた。


「……承知しました」


「ありがとう」


 アリアはそう言って、ケインを見る。


「名前を、聞かせてください」


「……ケイン、です」


 家名は続けなかった。

 頼るなと言われた名だ。名乗る理由も、もうなかった。


 アリアは小さくうなずいた。


「ケイン。一度だけ、あなたに任せます」


 ケインはうなずいた。


 礼を言う余裕はなかった。

 腕も脇腹も痛い。正直、今すぐ横になりたかった。


 噛み込む力は、それ以上強くならない。


 まだ、間に合うかもしれない。


 ケインは噛まれた腕を引かないまま、声をかけ続けた。


「よし。いい。……いい子って言うには、だいぶ大きいけどな」


 犬型魔獣の喉が、雨の中でかすかに震えた。


 その首筋で、黒く固まった毛の奥が、雨とは違う濡れ方をしていた。

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