第4話 目覚めた獣医
指先を、何かが舐めていた。
温かくて、湿っていて、少しざらついた感触。
犬に舐められたときは、こんな感触がする。
雨の音がする。
その音に引き戻されるように、頬に当たる冷たさや、泥の匂いが遅れて戻ってきた。
血の匂いも混じっている。
献は、ゆっくり目を開けた。
濡れた白い鼻先が、指のすぐ近くにあった。
そこから少し視線をずらすと、白い前脚が見えた。
左の前脚の、骨のあたりに古い傷跡がある。
見覚えがあった。
車道にいた犬だ。
白い犬は、ゆっくり顔を上げた。
その顔を正面から見たとき、献は少しだけ言葉に迷った。
犬、と呼んでいいのか分からなかった。
狼に似ている。
けれど、野生の獣にしては目が静かすぎる。
片方の目は、淡い琥珀色。
もう片方は、夜の雨を映したような深い青。
見間違えるはずがない。
あの犬だ。
助かったのか。
胸の奥が、ほんの少し緩んだ。
よかった、と反射的に思ったあとで、別の違和感が追いついてくる。
おかしい。
目に入るものは、最後に見た景色とはまるで違っていた。
街灯の光はない。
濡れたアスファルトの照り返しもない。
代わりに、暗い木々の枝が空を細かく塞いでいた。枝の隙間に覗く空は、夜の色ではない。鉛色に、薄く明るんでいる。
雨粒が葉を叩き、落ちた水が首筋を伝っていく。
森だ。
そう思った途端、脇腹に鋭い痛みが走った。
「っ……」
身体を起こしかけたまま、献は動きを止めた。
息を吸うと腹の奥が重く沈み、視界の端が白くぼやける。
まずい。
反射的に、浅く呼吸をする。
吸う量を少しずつ絞りながら、痛みの場所を探った。
肋骨の下から脇腹にかけて痛む。
打った痛みだけではない。皮膚の表面が、濡れた布の下で妙に熱い。
献はゆっくり指を動かした。
感覚はある。
けれど、泥に汚れたその手は、見慣れた自分の手ではなかった。
細い。
指の節も、爪の形も違う。
若い、と思った。
いや、若いどころではない。
「……何だ、これ」
かすれた声が出た。
その声も違っていた。
三十四年使ってきた自分の声ではない。
考えようとしても、痛みと寒さでうまくまとまらなかった。
分からないことを考えていると、たぶん動けなくなる。
献は脇腹に触れた。
今は、確認が先だ。
外套の脇を探る。
雨を吸った布が肌に貼りつき、剥がしかけると、傷の縁で乾いた血が引き攣れた。
血だ。ただ、もう流れてはいない。黒っぽく固まって、布ごと傷に貼りついている。
布が裂けている。
その下に、斜めに走る傷があった。何か硬いものに引っかけられたような裂け方で、雨に洗われているせいか、出血の量が分かりにくい。
献は奥歯を噛んだ。
浅くはない。
ただ、今すぐ噴き出すような出血でもなさそうだった。
腹の痛みは打撲か。
内側までは分からない。分かるわけがない。器具もライトもなく、手は冷えて震えている。
それでも、呼吸はできる。
意識も、まだ途切れていない。
このまま雨の中にいれば、体温を持っていかれる。
傷を押さえて、動ける場所まで動く。
そこまで考えたところで、献は白い犬が指先のそばにいないことに気づいた。
少し離れた木の根元に立ち、森の奥を見ている。
その先に、黒い塊があった。
倒木かと思った。
泥と血にまみれた毛、大きすぎる胴。血は雨に洗われて、傷口の色は沈んでいた。死んで間もない死骸の色ではない。数刻——あるいは、もっと経っている。
猪のようだ。
ただ、献の知っている猪ではない。
牙が長い。
根元のあたりが黒く染まり、片方の目は白く濁っていた。倒れた身体の周りだけ、雨に叩かれた泥の色が濃い。
死んでいる。
首元が裂けていた。
噛み傷というには鋭すぎる。そこだけを正確に断たれたような傷だった。
地面は荒れている。
木の根がえぐれ、深く抉れた泥の跡には、もう雨水が溜まっていた。
戦った跡だ。
けれど、献には覚えがなかった。
少なくとも、自分があれを倒した感覚はない。
白い犬が、こちらを見た。
まさか、お前が。
そう言いかけて、献は口を閉じた。
聞いて答える相手ではない。
そもそも、犬に向かって何を確認しようとしているのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、ひとつ分かることがある。
あの牙だ。
脇腹の裂け方。
腹の奥に残る鈍い痛み。
泥の中に倒れていた自分。
ばらばらに見えていたものが、嫌な形でつながっていく。
献は短く息を吐いた。
まず血を止める。
この雨の中で、これ以上身体を冷やすのもまずい。
危ない場所なら、動けるうちに離れるしかない。
理由を考えるのは、そのあとだ。
そう思って、献は身体を起こそうとした。
脇腹に力が入った瞬間、傷の奥が焼けるように痛んだ。
「ぐ……っ」
喉の奥から、情けない声が漏れる。
手をついた泥が、指の間に入り込んだ。
その冷たさに、別の感触が重なった。
石の床。
膝をついて、頭を下げている。
雨ではない冷たさが、薄い布越しに膝へ染みていた。
違う。
献は顔をしかめた。
今、自分は森にいる。
雨の中で、泥に手をついている。
なのに、目の奥に別の景色がちらついた。
白い布をかけられた台座。
その上に置かれた透明な水晶。
淡い光が、水晶の中心に集まっていく。
丸みを帯びた二つの文字が、そこに浮かんでいた。
神聖文字ではございません。
誰かの声がした。
穏やかな声だったはずなのに、その言葉だけで胸の奥が冷えていく。
判読不能。
系統不明。
ランク外。
実用性が確認できない以上、欠陥ギフトと判断される可能性が高いかと。
欠陥。
その言葉が落ちた瞬間、息の仕方が分からなくなるような感覚があった。
誰にも読まれなかった。
誰にも意味を与えられなかった。
けれど。
献には、読めた。
けん。
ひらがなだ。
あまりにも見慣れた二文字が、水晶の中に浮かんでいた。
意味はまだ分からない。
力なのか、名前なのか、それともただの音なのかも分からない。
それでも、この少年の中にあったものは、ちゃんと文字だった。
胸の奥が痛んだ。喜びでも、安心でもない。もっと遅すぎるものが、今さら届いたような痛みだった。
低い男の声がする。
恥をかかせるな。
石の床。
伏せた視界。
近くに立つ誰かの靴先。
情の話ではない。家の話だ。
別の声が続いた。
怒鳴り声ではなかった。だからこそ、言葉は逃げ場なく沈んでくる。
笑い声。
薄い笑み。
壊れた土地に、壊れたギフト。
顔は見えるようで、はっきりしない。
けれど、その声を聞いたときの痛みだけは妙に生々しかった。
父だ。
兄だ。
献が知っているはずのない相手を、身体がそう覚えていた。
古びた外套。
硬いパン。
小さな革袋。
刃の欠けた短剣。
屋敷の門が、背中の後ろで閉まる音。
帰る場所がなくなる音。
献は奥歯を噛んだ。
違う。
これは、自分の人生ではない。
犬飼献は獣医だった。
深夜の動物病院。消毒液の匂い。診察台の上で浅く息をする老犬。泣きそうな飼い主に、大丈夫です、と声をかけた。
覚えている。
雨の車道に白い犬がいた。
トラックのライトが近づいていた。
身体が勝手に動いた。
そこまでは、間違いなく自分の記憶だ。
けれど、もうひとつの記憶が消えない。
森道のぬかるみに足を取られる。
雨で坂は滑り、息だけが先に切れていく。
手にした短剣は軽すぎて、頼りにならない。
黒い毛の獣。
牙。
腹にぶつかる衝撃。
木の根元に叩きつけられる痛み。
泥の味。
もう一度、来る。
逃げなければ。
そう思ったのは、献ではない。それなのに、恐怖は残っていた。
自分の中にあったものが、何だったのか。
それくらいは、知りたかった。
言葉になりきらない未練が、雨よりも冷たく沈んでいる。
献は、泥に汚れた手を見た。
指の付け根に、豆の跡がある。
剣を握っていた手だ。
うまくなれなかったのかもしれない。
才能がなかったのかもしれない。
それでも、何もしてこなかった手ではない。
「……ケイン」
名前が、口からこぼれた。
呼んだ瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。
ケイン・グレアム。
その名は、頭で思い出したというより、身体の内側から浮かんできた。
知らない少年の名前。
この身体は、その名で呼ばれていた。
その名で見下ろされ、その名で追い出され、その名のまま森で倒れた。
そして、まだ動いている。
献は浅く息を吸った。
犬飼献だった自分は、ここにいる。
あの雨の夜、自分の人生がそこで途切れたことも、どこかで分かっていた。
その名前を、ただの借り物みたいに扱う気にはなれなかった。
「……ケイン・グレアム」
もう一度、声に出した。
かすれた、若い声だった。
けれど今度は、さっきほど遠く感じなかった。
「そうか」
雨の音に混じって、自分の声が落ちる。
「俺は、ケイン・グレアムなんだ……」
犬飼献という名前は消えていない。
けれど、その名を口にした瞬間、この身体のどこかが、少しだけ息をつけた気がした。
白い犬が、森の奥へ顔を向けた。
雨音に紛れて、耳の先だけがわずかに動く。
何かを聞いている。
「……待て」
呼び止めたつもりだった。
けれど、声は喉の奥でこすれただけで、雨にすぐ消えた。
白い犬はこちらを見た。
淡い琥珀色の目と、深い青の目。
その二つが、ほんの短い間だけ献を映していた。
吠えもしない。
近づいてもこない。
ただ、見ている。
聞きたいことは、いくらでもあった。
なのに、どれも声にならない。
白い犬は、ゆっくり身をひるがえした。
左の前脚だけ、ほんの少し体重の乗り方が浅い。
それでも歩き方に迷いはなかった。
「お前、脚……」
言いかけて、献は口を閉じた。
今それを心配している場合か。
そう思ったのに、視線はどうしてもその前脚を追ってしまう。
白い犬は一度だけ振り返った。
次の瞬間、白い姿は木々の間に紛れた。
雨の中で白だけが残り、すぐにそれも薄れていく。
痛みが、遅れて戻ってきた。
「……まず、血だな」
声に出すと、少しだけ頭がはっきりした。
献は外套の裂けたあたりを探った。
布は雨を吸って重く、指先がうまく動かない。手は冷えているし、身体も震えている。
腰の革袋。
硬いパンを包んでいた布。
刃の欠けた短剣。
そこまで思い浮かんでから、献は手を止めた。
この身体の持ち物を、自然に思い出している。
ケインの記憶だ。
そう思うと胸がまた少し痛んだが、今は助かった。
何があるか分からないまま探るよりはましだった。
献は震える指で、パンを包んでいた布を引き出した。
雨で湿っている。清潔とはとても言えない。
けれど、選べる状況ではない。
そのまま傷に当てるには汚れすぎている。
献は外套の内側をまさぐり、まだ泥の少ない布地を探して重ねた。
それを脇腹に当てる。
「っ……」
痛みで息が止まりかけた。
それでも手を離さなかった。
押さえる。
強すぎず、弱すぎず。
起き上がろうとした時に、固まっていた傷が開いたのだろう。
ぬるい感触が指の下で広がっていくのは分かった。
まずいな。
献は奥歯を噛んだ。
このままここにいると、血より先に寒さで動けなくなるかもしれない。
雨を避けられる場所を探す必要がある。木の根元でも、岩陰でもいい。できれば魔獣の死骸から離れたい。
血の匂いは、別の獣を呼ぶ。
そう考えたところで、森の奥から声がした。
獣の吠え声だった。
献は息を止めた。
低く、引き裂くような声。
犬に似ている。狼にも似ている。
けれど、ただの威嚇ではなかった。
もう一度、声が響く。
雨の向こうで、何かが暴れている。
枝が折れる音。土を蹴る音。短く息を詰まらせるような鳴き声。
怒っている。
最初はそう思った。
けれど、違う。
あれは、痛いときの声だ。
喉の奥が詰まって、息がうまく抜けていない。
吠えているのに、吠えきれていない。
興奮しているだけなら、もっと声に力が乗る。
献は、脇腹を押さえたまま顔を上げた。
身体は重い。
少し動くだけで、脇腹の奥が熱を持つ。
けれど、耳がその声を追ってしまう。
呼吸の乱れを聞き分けようとしてしまう。
どこが痛むのか、なぜ暴れているのか、考えてしまう。
「……犬、か?」
返事はない。
ただ、また声がした。
今度はさっきより短く、苦しそうだった。
献は泥に手をついた。
立てるか。
分からない。
行って何ができる。
それも分からない。
薬もない。
器具もない。
自分の身体でさえ、まともに動かない。
それでも、獣医として何を聞き逃してはいけないかだけは、身体が覚えていた。
ケイン・グレアムは、雨の中でゆっくり膝に力を入れた。
本日は第4話までお読みいただき、ありがとうございました。
明日からは毎日20時10分に更新予定です。面白いと思っていただけましたら、フォローや評価で応援いただけると励みになります。




