第3話 捨てられた三男
翌朝、ケインは父の執務室の扉を叩いた。
「入れ」
間を置かず、低い声が返ってきた。
その短い一言だけで、胸の奥が冷えた。
昨日の儀式から一晩が経っても、屋敷の空気は変わらなかった。いや、むしろ静かになっていた。
使用人たちは目を合わせない。
廊下ですれ違った者も、声をかけてこない。
いつものことだ。
そう思おうとして、うまくいかなかった。
ケインは一度だけ息を吸い、扉を開けた。
執務室には、父バルドがいた。
大きな机の向こうに座り、こちらを見る目には、昨日までかろうじて残っていた迷いさえない。
その脇には、長兄レオンが立っていた。
背筋を伸ばし、いつものように隙のない顔をしている。
反対側の壁にもたれているのは、次兄ダリオだった。
腕を組み、口元に薄い笑みを浮かべている。
そして、机の脇には旅支度がまとめられていた。
古びた外套と水袋、硬そうなパンを包んだ布。それから、刃の欠けた短剣。
もう、決まった後だった。
「ケイン」
バルドが名を呼んだ。
「はい」
声は、自分で思ったよりも小さかった。
バルドは、机の上にぽつりと置かれた小さな革袋へ視線を落とし、それから淡々と言った。
「お前を、今日限りでグレアム家から出す」
胸の奥で、何かが鈍く沈んだ。
驚きはなかった。
昨日の夜から、そうなるのだろうと思っていた。
けれど、思っていたことと、実際に父の口から告げられることは違った。
「成人の儀は終わった。お前はもう子供ではない」
バルドの声に怒りはなかった。
怒鳴られる方が、まだよかったのかもしれない。
不要なものを、不要だと判断する声だった。
「グレアム家は、代々剣をもって領主様に仕える家だ。だが、お前のギフトは判読不能。系統も分からん。神官が欠陥ギフトと断じた以上、家に置く理由はない」
ケインは拳を握った。
反論したい言葉はあった。
自分にも、まだ何かできるかもしれない。
判読不能でも、意味がないと決まったわけではない。
けれど、その言葉は喉の奥で止まった。
昨日、父は言った。
可能性で剣は振れん、と。
その言葉が、まだ胸の中に残っている。
「……僕は」
言いかけた瞬間、レオンが静かに口を開いた。
「昨日の儀には、領主家の使いも来ていた。神官の言葉も、すでに広まっているだろう」
「……兄上」
「判読不能のギフトを持つ弟を、グレアム家がいつまでも屋敷に置いている。その事実だけで、父上の判断まで疑われる」
その言い方が、かえって胸に刺さる。
「俺たちは、これからも剣で働かねばならない。余計な噂を抱えたままでは、任される役目も減る」
レオンは、そこで初めて少しだけ眉を寄せた。
「情の話ではない。家の話だ」
「はっ。兄上は優しいな」
壁にもたれていたダリオが、鼻で笑った。
「そんな回りくどく言わなくてもいいだろ。要するに、ケインは邪魔なんだよ。剣も振れない。ギフトも読めない。おまけに、そばにいるだけで気分が悪くなる」
ケインの肩が、わずかに揺れた。
そばにいるだけで。
それは、何度も向けられてきた目だった。
言葉にされなくても、知っていた。
「ダリオ」
バルドが低く名を呼んだ。
ダリオは肩をすくめた。
「事実でしょう、父上」
バルドは答えなかった。
その沈黙が、何よりの答えだった。
ケインは、握っていた拳から力を抜いた。
言い返したい言葉は、いくつもあった。
好きでこう生まれたわけではない。
剣の稽古を怠けたことも、誰かを困らせようとしたこともなかった。
けれど、そのどれもが、この部屋では意味を持たないことを、ケインはもう知っていた。
バルドが、机の上の革袋を指で押した。
「路銀だ。多くはないが、数日はもつ。外套、水袋、食料、護身用の短剣も用意した」
……用意した。
その言葉で、胸の奥がまた冷えた。
本当に、昨日の夜に決まったことではないのかもしれない。
成人の儀の結果を見る前から、こうなる可能性は考えられていたのだ。
「この近辺に残ることは許さん」
バルドは机の上の革袋から手を離した。
「街道を東へ進めば、ヴァンデンガルフ領がある。かつては牧畜で栄えたが、今は土地が痩せ、衰えている男爵領だ」
ケインは、その名を聞いたことがなかった。
「あそこなら、人手はいくらあっても足りんと聞く。拾われるかどうかは、お前次第だ」
「へえ、いいじゃないか」
ダリオが楽しそうに笑った。
「壊れた土地に、壊れたギフト。似合いだと思うぜ、ケイン」
レオンは何も言わなかった。
否定もしなかった。
ケインは机の脇の短剣を見た。
刃はところどころ欠け、柄の革も擦り切れている。
それでも、渡されるだけましなのだろう。
そう思ってしまう自分が、ひどく惨めだった。
「ケイン」
バルドが、最後の確認のように名を呼んだ。
「向こうでグレアムの名を頼るな。お前は今日、家を出る。拾われるなら拾われろ。無理なら、どこへなりとも行け」
父の声に、情はなかった。
ケインは深く息を吸った。喉の奥が詰まり、視界が少しだけ揺れる。
それでも、涙は出なかった。
泣いたところで、何も変わらないことを、もう知っていた。
「……分かりました」
それだけを言って、ケインは頭を下げた。しばらく動けなかった。
誰かが何かを言うのを、どこかで待っていたのかもしれない。
だが、父も兄たちも黙っていた。
もう話すことはない。
そう告げられているのと同じだった。
ケインは顔を上げ、机の脇にまとめられた荷物へ手を伸ばした。
古びた外套は、何年も前に誰かが使っていたものらしく、肩のあたりが少し擦り切れていた。水袋は硬く、パンを包んだ布からは乾いた粉の匂いがする。
最後に、刃の欠けた短剣を取った。
騎士家の子として剣を習ってきた。
けれど、いま手にしているのは、まともな剣ですらない。
それでもケインは、黙って腰に差した。
それから、机の上の革袋を取った。バルドは、こちらを見なかった。
「失礼します」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
バルドは頷かない。
レオンも何も言わない。
ダリオだけが、つまらなそうに鼻を鳴らした。
ケインはもう一度だけ頭を下げ、執務室を出た。
扉を閉める音が、やけに大きく聞こえた。
廊下には、朝の光が差し込んでいた。
磨かれた床も、壁に飾られた古い盾も、昨日までと何も変わらない。
変わったのは、自分だけだった。
部屋に戻る必要はなかった。
持ち出すものなど、ほとんどない。机の引き出しに残した木剣も、読みかけの剣術書も、もう自分のものではない気がした。
ケインは、そのまま玄関へ向かった。
途中、使用人がひとり、廊下の端に立っていた。
年配の女中だった。幼い頃から屋敷にいる者で、ケインも名前を知っている。
目が合った。
女中はすぐに視線を落とし、道を譲った。
「……お世話になりました」
ケインがそう言うと、女中の肩が小さく跳ねた。
けれど返事はなかった。
責める気にはなれなかった。
声をかければ、自分まで何かを背負わされる。そう思わせるものが、ケインにはあるのだろう。
昔から、ずっと。
玄関の扉を開けると、冷たい朝の空気が頬に触れた。
空は曇っていた。
雨はまだ降っていない。
庭を抜け、門へ向かう。
稽古場の方から、木剣の打ち合う音が聞こえた。誰かが朝稽古をしているのだろう。そこに自分が混ざることは、もうない。
ケインは一度だけ振り返った。
グレアム家の屋敷が、そこにあった。
好きな場所ではなかった。
けれど、帰る場所ではあった。
それが今、ただの建物に変わっていく。
門番はケインを見ると、何かを言いかけて、やめた。
代わりに、門を開ける。
ケインは外へ出た。背後で門が閉まった。
思っていたより、ずっと軽い音だった。
街道に出てから、ケインはしばらく黙って歩いた。
外套の前を合わせ、革袋を肩にかけ直す。路銀は多くなく、食料も水も数日分。それでも、何もないよりはましだった。
街道には、荷馬車の轍が残っていた。朝の冷えた空気の中、遠くで鳥の声がする。
歩きながら、ケインは父の言葉を思い出していた。
この近辺に残ることは許さん。
グレアム家の名が届く場所に、もう自分の居場所はない。
そう言われたのだ。
昼前、小さな村に着いた。
街道沿いにある、木造の家が数軒並ぶだけの村だった。旅人相手の小さな店と、馬を休ませるための囲いがある。
ケインは店の前で足を止めた。
水袋はまだ空ではない。
だが、この先の道を考えれば、少しでも補充しておきたかった。
「すみません」
店先にいた男が、ケインを見た。
ただの旅人を見る目だったのは、ほんの一瞬だった。
男の眉間に皺が寄り、足が半歩、後ろへ下がる。
「……何しに来た」
「水を分けてもらえませんか。代金は払います」
男はじっとケインを見た。
それから、井戸の方を顎で示した。
「水ならそこだ。勝手に汲め」
「ありがとうございます」
ケインは頭を下げた。
男は返事をしなかった。
井戸へ向かう間も、店先から視線を感じた。敵意というほど強くはない。けれど、好意でもない。
近づきたくない。
関わりたくない。
そういう目だった。
ケインは水袋に水を詰め、店先に戻った。
硬貨を一枚差し出すと、男は顔をしかめた。
「いらん」
「でも」
「いらんと言った。早く行け」
ケインは硬貨を握りしめたまま、少しだけ立ち尽くした。
まただ。
理由は分からない。
けれど、向けられる目だけは昔から変わらず、慣れた痛みが胸の奥に沈んでいく。
「……ありがとうございました」
そう言って、ケインは村を出た。
背中に、誰かの視線が刺さっている気がした。
村を出たあとも、ケインは街道を歩き続けた。
昼を過ぎる頃には、空の色が少しずつ重くなっていた。朝には遠くで聞こえていた鳥の声も、いつの間にか途切れている。
次の村までは、そう遠くないはずだった。
けれど、道を尋ねようとしても、まともに答えてくれる者はいなかった。荷馬車の御者は目をそらし、畑のそばにいた老人は、ケインが近づく前に家の中へ入ってしまった。
結局、ケインは街道沿いの古びた宿にたどり着くまで、ほとんど足を止められなかった。
宿の扉を開けると、湿った木の匂いがした。
中には数人の客がいた。
暖炉のそばで酒を飲んでいる男たちが、ちらりとこちらを見る。
その視線に、歓迎の色はなかった。
「泊まりたいのですが」
ケインがそう言うと、帳場にいた女将は一瞬だけ顔をこわばらせた。
「部屋はないよ」
「……そうですか」
奥から、客の笑い声が聞こえていた。
空きがないようには見えなかった。
けれど、問い返す気にはなれなかった。
「少しだけ、雨を避けさせてもらうことは」
「悪いね」
言葉だけは謝っていた。
だが女将の手は、すでに扉の方を示している。
「次の村へ行くなら、街道をそのまま行くしかないね。ただ、あの曲がりの先でずいぶん遠回りになる」
「……ほかに道があるんですか」
「地元の者が使う森道がある。この先、街道が大きく曲がる手前に細い道があるから、そこを入ればいい」
「その道で、次の村へ?」
「抜けられるよ。迷わなければね」
迷わなければ。
その言葉が少し気になった。
けれど、ほかに行く場所はなかった。
ケインは小さく頭を下げ、宿を出た。
外に出た瞬間、頬に冷たいものが当たった。
雨だった。
街道を進むうちに、細かった雨脚は少しずつ強くなっていく。
外套の肩が重くなり、靴の底に泥が絡みついた。日が傾くにつれて、道の先も見えにくくなる。
やがて、女将に言われた森道の入口が見えた。
街道は大きく回り込むように続いている。
その脇に、森へ入る細い道があった。
荷馬車の轍はない。
だが、人が通った跡はかすかに残っている。
ケインは足を止めた。
森に入るべきではない。
それくらいは分かっていた。
けれど、街道を進めば、次の村に着く前に夜になるかもしれない。
戻ったところで、あの宿に入れてもらえるとも思えなかった。
雨は、弱まる気配を見せなかった。
ケインは濡れた外套の前を握りしめ、森の影へ足を踏み入れた。
森の中は、街道よりも暗かった。
木々の枝が空を覆い、雨の音が葉の上で細かく弾けている。足元の土はすでにぬかるみ、踏み出すたびに靴が沈んだ。
女将は、迷わなければ日が落ちる前に抜けられると言っていた。
だが、森道は思っていたよりも細かった。人が通った跡はあるものの、雨に打たれ、泥に崩れ、どこまでが道なのか分かりにくい。
ケインは水袋を押さえながら、慎重に進んだ。濡れた外套が肩に貼りつき、革袋の紐が食い込み、足の疲れも少しずつ重くなっていく。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
森の中で夜を迎える。
その危険くらいは、ケインにも分かる。
しばらく進むと、道が二つに分かれていた。
ケインは足を止めた。
そんなことは、女将から聞いていない。
右は、木の根が張り出した細い坂。
左は、少し下るように続くぬかるんだ道。
どちらが正しいのか、分からない。
ケインは足元を見た。
雨に流されて、足跡も轍もほとんど残っていない。
戻るべきか。
そう思ったが、振り返っても、来た道でさえ雨と薄暗さの中に沈み始めていた。
迷っている時間はない。
ケインは、少しでも水はけのよさそうな右の坂へ足を踏み出した。
その直後、濡れた木の根に足を取られた。
「っ」
膝をつきかけ、慌てて近くの幹に手をつく。掌に濡れた樹皮の感触が広がった。
短剣が腰で揺れる。
こんなものを持っていても、何かが出たら役に立つのだろうか。
そう考えた瞬間だった。
雨音の奥に、低い唸りが混じった。
ケインは息を止めた。
さっきまで聞こえていた森の気配が、急に遠ざかったように感じる。雨は変わらず降っているのに、耳の奥だけが妙に静かだった。
腰の短剣に手を伸ばす。
茂みの向こうで、何かが動いた。泥を踏む重い音と、荒い息が、ゆっくり近づいてくる。
指が短剣の柄に触れた瞬間、茂みが大きく揺れた。
ぬたり、と黒い毛並みが雨の中に現れる。
猪に似ていた。
だが、普通の猪ではない。
大きすぎる体を覆う毛は、泥と血でまだらに固まっていた。口元からは泡混じりの唾液が垂れ、根元から黒く染まった牙が左右に突き出している。
片方の目は、白く濁っていた。
ケインは短剣を抜いた。
手が震えている。
獣が、こちらを見た。
逃げなければ。
そう思った時には、もう遅かった。
黒い獣が、地面を蹴った。
ケインは横へ飛ぼうとした。だが、濡れた木の根を踏んだ足が滑り、体勢が崩れる。
次の瞬間、硬い衝撃が腹を打った。
「がっ……!」
体が宙に浮き、背中から木の根元に叩きつけられる。肺の中の空気が押し出され、痛みより先に呼吸が奪われた。
ケインは泥の上で咳き込みながら、震える手で地面を掴んだ。短剣はまだ手の中にある。けれど、柄を握る指に力が入らない。
獣が低く唸る。
雨に濡れた黒い体が、ゆっくりとこちらへ向きを変えた。
ケインは肘をつき、体を起こそうとした。腹の奥に焼けるような痛みが走り、視界がぐらりと揺れる。
それでも、立たなければ終わる。
短剣を杖のように地面へ突き立て、どうにか片膝をつく。泥が膝に染み込み、冷たさが皮膚の奥まで入ってきた。
獣の蹄が、地面を掻く。
ケインは短剣を構えた。
いや、構えたつもりだった。
腕は震え、刃先は獣の胸ではなく、雨に濡れた地面を向いている。
黒い獣が、また突っ込んできた。
避けようとした足は動かず、黒く染まった牙が脇腹を裂いた。
熱いものが体の内側からこぼれ、すぐに雨の冷たさに奪われていく。ケインは声を出すこともできず、その場に崩れ落ちた。
泥の匂いが鼻先に迫る。雨の音は遠く、獣の足音だけが妙にはっきり聞こえた。
ケインは短剣を握ろうとした。
けれど、指はもう動かなかった。
黒い影は、倒れたケインの横を通り過ぎていく。
やがて茂みが揺れ、重い足音は森の奥へ消えた。
寒さが、遅れて体の芯に入り込んでくる。
痛みはあるはずなのに、少しずつ遠ざかっていく。
自分は、ここで死ぬのだ。
不思議と、そのことだけは分かった。
雨の冷たさだけが、まだ頬に残っていた。
ケインは目を開けようとしたが、視界は暗く滲み、木々の影も空の色も判然としなかった。胸の奥で浅い呼吸が引っかかっている。体はもう、ほとんど動かなかった。
父の顔が浮かんだ。
次に、兄たちの顔。
そして、水晶に浮かんだ文字。
けん。
あれは、何だったのだろう。
欠陥ギフトだと断じられ、判読不能で、ランク外だと言われた。
それでも、あの文字が何だったのかだけは、誰にも分からなかった。
自分の中にあったものが何なのか。
それくらいは、知りたかった。
泥の中で、指先がわずかに動いた。
何かを掴もうとしたのか、誰かに届こうとしたのか。
自分でも分からないまま、指は濡れた土をかすっただけだった。
寒さも痛みも、少しずつ遠ざかっていく。
怖いというより、ただ空っぽだった。
こんなふうに終わるのか。
ケイン・グレアムの意識は、そこで途切れた。
森に、雨の音だけが残る。
……。
そのはずだった。




