第2話 読めないギフト
ケイン・グレアムは、十五歳になった。
この国では、十五歳を迎えた者は成人として扱われる。
そして成人の日、神殿の水晶によって、生まれ持ったギフトを正式に鑑定される。
ギフト。
それは神から与えられた才能であり、その者の人生の行き先を決めるものだった。
農民の子に【豊穣】が出れば村の宝になり、商人の子に【算術】が出れば店の跡取りとして重宝される。騎士の家に【剛剣】や【疾槍】が出れば、その子は家の誇りとなる。ケインは、その例を何度も聞かされて育った。
そして、たとえそこまで届かずとも、【剣技】が出れば騎士としての道は開ける。
だから、地方騎士家グレアム家の三男であるケインにも、当然のように剣に関わるギフトが期待されていた。
いや。
期待、という言葉は少し違う。
「恥をかかせるな」
儀式の朝。
父バルド・グレアムがケインにかけた言葉は、それだけだった。
広い食堂の空気が、いつもより冷たい。
父は上座で黙々と食事を続けている。
長兄のレオンは背筋を伸ばしたまま、こちらを一瞥もしない。
次兄のダリオだけが、薄く笑いながらケインを見ていた。
「グレアムの血だ。最低でも【剣技】くらいは出るだろう」
レオンが低い声で言った。
グレアム家に生まれた以上、そうでなければならない。
剣を取れない者に、この家での居場所はない。
「逆に、これで変なものが出たら面白いけどな」
ダリオがパンをちぎりながら言う。
「ダリオ」
「冗談ですよ、父上」
叱られたダリオは肩をすくめた。
だが、その目は少しも反省していなかった。
ケインは何も言わなかった。
言えば、食堂の空気がさらに悪くなることを知っていたからだ。
昔からそうだった。
ケインが何かをしたわけではない。
騒いだことも、人を傷つけた覚えもなかった。
それでも、彼がそこにいるだけで、人は少しだけ顔をしかめた。
乳母は彼を抱くとすぐ別の者へ預け、使用人はケインの部屋の掃除を嫌がった。兄たちは同じ稽古場に立つだけで機嫌を悪くし、稽古が終わるころには、決まってケインのせいにした。
理由を訊いたことはある。何か悪いことをしたのなら謝りたかったし、直せるところがあるなら直したかった。けれど、返ってくる答えはいつも同じだった。
分からない。
ただ、何となく嫌だ。
何となく。
それは、刃物よりも扱いに困る言葉だった。
痛いのに、どこから刺されたのか分からない。
謝ればいいのか、黙っていればいいのか、それさえ分からない。
結局、ケインにできることは、人の顔色をうかがうことだけだった。
それでもケインは、今日だけは違うかもしれないと思っていた。
もし剣のギフトが出れば。
もし父が、ほんの少しでも自分を見てくれれば。
この居心地の悪さにも、何か意味があったのだと思えるかもしれない。
「ケイン」
父の声に、ケインは顔を上げた。
「はい」
「儀式では余計なことをするな。神官の指示に従い、水晶に手を置け。それだけでいい」
「……はい」
それだけでいい。
父にとって、自分に求めることは本当にそれだけなのだろう。
ケインは膝の上で、そっと拳を握った。
今日で、何かが変わる。
そう信じなければ、神殿まで歩くことさえできそうになかった。
食事が終わると、ケインは父たちの後に続いて屋敷を出た。
グレアム家の屋敷は、華やかではない。
厚い石壁と、剣を掲げた家紋。
庭に植えられている花でさえ、どこか飾りというより、整列させられているように見えた。
武門の家。
ケインは、この屋敷を見るたびにそう思う。
剣の腕は、思うように伸びなかった。
それでも訓練だけは休まなかった。以前よりは、少しはましになったはずだ。豆だらけの手だけが、そう思わせてくれた。
それがなければ、今日ここに立つこともできなかった。
屋敷の門を出ると、馬車は町外れの小さな神殿へ向かった。
神殿は、石造りの小さな建物だった。
王都の大神殿とは比べものにならない。
扉の上に神の印が刻まれているほかは、古びた燭台が二つ、入口の脇に置かれているだけだ。
馬車が止まると、レオンが先に降りた。
ダリオは退屈そうに首を鳴らし、父バルドは外套の裾を払って神官の前へ進む。
ケインは少し遅れて、馬車を降りた。
神殿の前には、すでに神官と数人の助祭が待っていた。
少し離れた道端には、町人の姿もある。
グレアム家の三男が成人儀式を受ける。
小さな町では、それだけで人の足を止める理由になった。
バルドが神官に短く頷く。
「待たせた」
「いえ。こちらこそ、本日はおめでとうございます」
神官は穏やかに頭を下げた。
その視線が、父からレオン、ダリオへと移る。
そして最後に、ケインを見た。
笑みが、一瞬だけ凍りつく。
いつもの反応だった。
初対面でも関係ない。
父も、兄たちも、使用人もそうだった。
そして、どうやら神官も例外ではないらしい。
最初は小さな違和感。
それが、いつの間にか嫌悪に変わる。
胸の奥が、少しだけ冷える。
「大丈夫か、ケイン。水晶に触れるだけだぞ。剣を振れと言われているわけじゃない」
隣に立ったダリオが、声を落として言った。
「……分かっています」
「ならいい。お前の場合、何もしていなくても失敗しそうに見えるからな」
笑っている。
励ましている声ではなかった。
「ダリオ。儀式の前だ」
レオンが短く言う。
「はいはい。分かってるよ、兄上」
ダリオは軽く肩をすくめ、一歩下がった。
神官が扉を開く。
中は静かだった。
石造りの床に簡素な長椅子が並び、壁には剣と秤をかたどった古い聖印が掛けられていた。長椅子には同じ年頃の少年少女が数人座り、その隣にはそれぞれの親が控えている。
今日は、ケインだけの成人儀式ではない。
この町で十五歳を迎えた者たちが、順に水晶へ手を置く日だった。
ただ、グレアム家はこの町の騎士家だ。
三男であるケインの番は、最初に回されていた。
奥の祭壇には、白い布をかけられた台座があった。
その上に、透明な水晶が置かれている。
大人の拳ほどの大きさの水晶だ。
光を受けて淡く輝いているだけなのに、ケインにはそれが、自分のすべてを裁くもののように見えた。
「本日は、成人の儀を執り行います」
神官の声が、狭い神殿に静かに響いた。
「水晶に触れた者は、己に与えられたギフトを知ることになります。儀式を終えた後は、本人もまた、その名を内に感じ取れるようになるでしょう」
長椅子に座る子どもたちが、わずかに背筋を伸ばす。
自分のギフトを知る。
それは、この国で生きる者にとって、人生の扉が開く瞬間だった。
父バルドは何も言わなかった。
レオンの表情は動かない。
さっきまで笑っていたダリオでさえ、この時だけは口を閉じている。
ケインは祭壇の前へ進んだ。
今日で、変わるかもしれない。
そう思うしかなかった。
「では、ケイン様」
神官が水晶の前を示す。
「右手をこちらへ。心を静かにして、水晶に触れてください」
ケインは小さく息を吸った。
父と兄たちの視線が背中に刺さる。
長椅子に座る少年少女や、その親たちの気配もある。
ここで【剣技】が出れば。
せめて、それだけでも出れば。
ケインは震えそうになる指を押さえ、水晶へ右手を伸ばした。指先が、水晶に触れる。
冷たい。
そう思った瞬間、水晶の奥に淡い光が灯った。白に近い光だった。ゆっくりと渦を巻き、中心へ集まっていく。
神官が小さく頷いた。
「問題ありません。水晶は、確かに反応しております」
その言葉に、ケインはほんの少しだけ息を吐いた。
反応した。
何もないわけではない。
自分にも、ギフトはある。
その事実だけで、胸の奥に小さな熱が生まれた。
光が収束し、水晶の内側に文字が浮かび上がった。ケインは目を凝らす。
だが、読めなかった。
文字、なのだろうか。
丸みを帯びた、見慣れない記号が二つ。少なくとも、神殿で扱われる正式な文字には見えなかった。
神官の表情から、笑みが消えた。
「……これは」
その声は小さかった。
けれど、狭い神殿では十分すぎるほど響いた。
長椅子の方で、誰かが身じろぎする。
まだ何が起きたのかは分かっていない。
それでも、神官の沈黙が長すぎることだけは、誰の目にも明らかだった。
父が低く問う。
「何と出た」
神官はすぐには答えなかった。水晶に顔を近づけ、角度を変え、目を細め、もう一度じっと見つめる。しかし、そこに浮かぶものは変わらない。
けん。
誰も読めないその文字だけが、水晶の奥で静かに光っていた。
「神官」
バルドの声が、先ほどより低くなる。
「何のギフトだ」
「……しばらく、お待ちください」
神官の額に、薄く汗が浮かんだ。
この町で長く成人の儀を執り行ってきた神官だ。剣術系も、農耕系も、商才系も、まれに出る魔法系のギフトでさえ、見てきたはずだった。
その人が、水晶から目を離さない。
レオンがわずかに眉を寄せる。
ダリオは、最初だけ不思議そうに水晶を見ていた。
やがて、口元を押さえる。
笑いをこらえているのだと、ケインには分かった。
「……珍しいな」
ダリオが、誰にともなく呟く。
「こんなに読めないものが出るとは思わなかった」
「黙れ」
バルドが言った。
短い一言だった。
それだけで、ダリオは口を閉じた。
神殿の中に、ざわめきが広がり始める。
長椅子に座っていた少年の一人が、隣の母親に小声で何かを尋ねた。
母親は答えず、ただ気まずそうに視線を伏せる。
ケインは水晶を見つめたまま、動けなかった。
ある。
自分には、何かがある。
水晶は反応した。
何も持たずに生まれたわけではない。
そのはずなのに。
誰にも読めない。
その事実だけが、胸の奥に生まれた小さな熱を、ゆっくり冷ましていった。
「……いつまで黙っている」
バルドの声が、さらに低くなる。
「答えろ。それは、何のギフトだ」
神官は一度、唇を引き結んだ。
その顔には、先ほどまでの穏やかな笑みはない。
水晶を見つめる目だけが、困惑を隠せずに揺れていた。
「……水晶は、確かに反応しております」
「それは聞いた」
バルドの声に、神殿の空気がわずかに強張った。
神官は喉を鳴らす。
「ですが、表示された文字が、正規の神聖文字ではございません」
「読めない、ということか」
「……はい」
その一言で、長椅子の方が小さくざわめいた。
読めない。
水晶に浮かんだギフトが、読めない。
それが何を意味するのか、子どもたちにはまだ分からない。
けれど、大人たちは違った。
母親の一人が、そっと自分の子を引き寄せる。
助祭が気まずそうに目を伏せた。
ケインは、水晶から手を離せなかった。
離してしまえば、今にもその文字ごと消えてしまいそうな気がした。
「系統は」
レオンが初めて口を開いた。
「剣術系なのか」
神官は答えなかった。
答えられなかった。
レオンの眉間に、深い皺が刻まれる。
ダリオが小さく息を漏らした。
笑ったのか、驚いたのか、ケインには分からなかった。
「現時点では、系統不明と判断するほかありません」
神官の声は慎重だった。
慎重であることが、かえって残酷だった。
「剣術、槍術、盾術のいずれにも該当しません。農耕、商才、魔法の系統とも一致しない。少なくとも、私が知るどのギフト名とも異なります」
ケインは、うまく息ができなかった。水晶は確かに反応した。文字だって浮かんだ。何もないわけではないのだ——なら、これはギフトのはずで、そう思えば思うほど、誰ひとりそう見てくれないことだけが分からなかった。
「ランクは」
バルドが言った。
神官は、ほんのわずかに視線を伏せた。
「判定不能です」
神殿の奥で、誰かが息をのんだ。
バルドはしばらく黙っていた。
怒鳴らない。
顔色も変えない。
ただ、水晶に浮かぶ読めない文字を見て、それからケインを見た。
その目に、昨日まであったわずかな期待は、もう残っていなかった。
「つまり」
バルドが静かに言う。
「グレアムの役には立たない、ということだな」
ケインの喉が詰まった。
「父上、僕は――」
「黙れ」
短い一言だった。
ケインの言葉は、それだけで途切れた。
神官が慌てて口を開く。
「バルド様。ギフトが存在しないわけではございません。水晶の反応から見ても、何らかの力が宿っている可能性は――」
「可能性で剣は振れん」
バルドは神官を見なかった。
「戦場で、読めない力は使えない。家名を背負う者に、判定不能のギフトなどあってはならん」
神官は何も言えなくなった。
その沈黙が、判決のように神殿へ落ちる。
やがて神官は、苦しげに息を吐いた。
「……正式な記録上は、判読不能。系統不明。ランク外として扱うことになります」
ランク外。
その言葉が、ケインの中で乾いた音を立てた。
神官は続ける。
「実用性が確認できない以上、欠陥ギフトと判断される可能性が高いかと」
欠陥。
誰かが小さく囁いたが、それが誰の声だったのか、ケインには分からなかった。ただその言葉だけが、神殿の床を這うように広がっていった。
欠陥ギフト。
欠陥。
ケインは水晶を見つめた。奥では、まだあの文字が光っている。
けん。
誰にも意味を与えられないまま。
それだけが、まるでケイン自身のように、静かにそこに残っていた。
「……ケイン様の鑑定は、以上となります」
神官の声は、ひどく重かった。
ケインはゆっくりと水晶から手を離した。
指先の冷たさだけが残る。
水晶の奥に浮かんでいた文字は、光を失うように薄れていった。
次に呼ばれるはずの少年が、長椅子の上で身を固くしている。
その母親も、何を言えばいいのか分からない顔をしていた。
欠陥ギフト。
その言葉だけが、まだ神殿の中に残っている気がした。
「帰るぞ」
バルドが言った。
それだけだった。
神官に礼を述べることもなく、町人の視線を気にする素振りも見せず、父は出口へ向かう。
レオンは無言でその後に続いた。
ダリオは一度だけケインを振り返り、何か言いたげに口元を歪めたが、父の背を見て黙った。
ケインも歩き出す。
足音が、やけに大きく聞こえた。
神殿の外に出ると、朝の光が眩しかった。
来たときと同じ町外れの道を、同じ馬車で戻る。
乗っている顔ぶれも変わらない。
それなのに、ケインを見る目だけが違っていた。
いや、違う。
隠さなくなっただけだ。
帰りの馬車の中で、誰も口を開かなかった。
レオンは窓の外を見ている。ダリオでさえ、今は笑わなかった。バルドは正面を向いたまま、ケインなど最初から乗っていないかのように沈黙していた。
屋敷に戻ってからも、同じだった。
使用人たちは遠巻きに頭を下げる。
誰も、ケインの顔を見ようとはしない。
食堂へ向かう兄たちの背を見ながら、ケインは自分だけが廊下に置き去りにされたような気がした。
「ケイン」
父の声がした。
ケインは足を止める。
バルドは振り返らなかった。
「明朝、話がある」
それだけ言って、父は奥へ歩いていった。
ケインはしばらく、その場に立ち尽くした。
怒鳴られたわけではない。
殴られたわけでもない。
けれど、分かってしまった。
今日、水晶に映ったのは、ギフトだけではなかったのだ。
父の目も、兄たちの沈黙も。
使用人たちが視線を逸らす理由さえ、今なら分かる気がした。
欠陥。
その言葉が、胸の奥に沈んでいく。
ケインは拳を握ろうとして、やめた。
力を入れたところで、何も変わらない。
明朝、話がある。
自分は今日、失敗したのではない。完全に見限られたのだ。




