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第1話 犬を助けた獣医

 深夜一時を少し過ぎていた。


 犬飼献は、冷めたコンビニ弁当の入った袋を片手に、人気のない歩道を歩いていた。


 今日も結局、日付が変わった。

 まあ、いつものことだ。


 頬に水滴が当たる。

 見上げると、街灯の輪の中で細い雨が斜めに降っていた。


 天気予報では夜半から崩れると言っていた気がするが、病院の中にいると、外の空模様などすぐに頭から抜け落ちる。


 今日も長い一日だった。


 雨粒を拭おうとした指先には、まだ消毒液の匂いが残っていた。その匂いで、ついさっきまで処置台の上にいた老犬のことを思い出す。


 閉院後、お泊まりの犬たちの様子を見て、ようやく買ってきた弁当を食べようかと思った矢先だった。

 静まり返った院内に、受付の電話が鳴った。


『コロが、コロが大変なんです……っ』


 受話器の向こうで、飼い主の女性は今にも泣き出しそうな声をしていた。

 普段は診察のたびに、コロの話を嬉しそうにして帰る人だった。


 献は弁当の蓋を開ける前に手を止め、すぐに病院へ連れてくるよう伝えた。

 電話を切ると同時に、処置室の明かりを入れ直し、必要になりそうな薬剤と器具を素早く確認する。


 十分もしないうちに、彼女はコロを抱えて駆け込んできた。


 コロは十五歳になる雑種の老犬だった。

 若い頃は診察台の上でも尻尾を振るような犬だったが、その夜は飼い主の腕の中でぐったりとしていた。


 呼吸は浅く、早い。

 歯茎の粘膜は血の気が薄く、わずかに青みを帯びていた。

 身体に触れると熱があり、弱い震えが指先を伝ってきた。


「先生、お願いします……!」


 切実な、祈るような声だった。


 献はコロの名前を優しく呼びながら、できるだけ刺激しないよう、慣れた手つきで処置台へ移した。


「大丈夫。しっかり」


 口から出たその言葉は、コロにも、飼い主にも向けたものだった。


 呼吸が少しでも楽になるよう姿勢を整え、聴診器を胸に当てる。

 心音は弱いが、まだ拾える。


 酸素を流し、体温を確認しながら、献は薬剤を注射器に吸い上げた。


「これが効けば、少し楽になるよ」


 コロにそう声をかけながら、献は処置を続けた。


 処置の合間に、飼い主へ短く状況を伝えた。

 何が危ないのか、今夜、何を見ておくべきなのか。

 専門用語を並べても、不安を増やすだけだ。必要なことだけを、できるだけ低く落ち着いた声で伝える。


 二時間後。

 コロの呼吸は完全ではないにせよ、少し落ち着いていた。


 張り詰めていた糸が切れたように、飼い主の女性が何度も深く頭を下げた。


「先生、本当に……本当に、ありがとうございました」


「助かったのは、この子がまだ帰りたがっていたからですよ。でも、まだ安心はできません。今夜はできるだけそばにいてあげてくださいね」


「はい……はい」


「飼い主さんが落ち着いている方が、コロも安心します。何か変だと思ったら、すぐ連絡してください」


 彼女は最後にもう一度頭を下げ、コロを抱きしめるようにして帰っていった。


 病院の鍵を閉めた時には、買った弁当はすっかり冷めていた。

 食べる気力も半分ほどなくなっていたが、捨てるのももったいない。献は結局、それを袋に戻して病院を出た。


 雨は少し強くなっている。


 献は足を止め、折りたたみ傘を開いた。安物の傘は骨が一本少し曲がっていて、開くたびにどこか頼りない音を立てる。買い替えようと思いながら、もう半年は使っていた。


 帰って一人でコンビニ弁当か。


 そう思うと、少しだけ笑えてくる。

 冷蔵庫には、昨日買ったまま手をつけていない惣菜がある。洗濯物も畳んでいない。シンクには朝のマグカップが置きっぱなしだ。誰かに怒られるわけでもないので、つい後回しにしてしまう。


 家に帰っても、誰かが起きて待っているわけではなかった。

 それでも玄関を開けたら、たぶんいつものように小さく「ただいま」と言う。


 染みついた癖というのは、案外しぶとい。


 寂しいかと訊かれれば、まあ、否定はできない。

 けれど、感傷に浸っている暇は、この仕事にはなかった。


 泥のように疲れて眠りについても、急患の電話一本で身体が勝手に跳ね起きる。


 そんな暮らしを、自分で選んで続けてきた。

 それでも、辞めたいと思ったことはなかった。


 その時——。

 アスファルトに反射する街灯の光の隙間で、白いものが揺れた。


 最初は、風に転がされたビニール袋かと思った。

 だが、違った。


 車道の真ん中に、犬がいた。


 さすがにこの時間だ。車の通りは少ないが、ゼロではない。


 献は足を止めた。


 こんな時間に。

 こんな雨の中で。

 しかも、よりによって車道の真ん中に。


 白い犬だった。

 いや、そう見えただけかもしれない。濡れた路面の照り返しを浴びて、その輪郭だけが街灯の中でぼんやりと浮いて見えた。


 献の目は、迷うより先に、その犬の身体を見ていた。


 首輪はない。痩せ方はひどくない。野良にしては毛並みが荒れていないが、不思議と飼い犬らしさもない。


 左前脚、橈骨のあたりに古い傷がある。出血は見えない。

 体重のかけ方は少し浅いが、立ててはいる。


 ただ、問題はそこではない。

 車道の真ん中から動こうとしないことだった。


 献はコンビニの袋をそっと足元に置いた。傘を左手に持ち替え、右手を低い位置で軽く振る。

 真正面から目を合わせすぎないよう、少しだけ視線を外した。


「大丈夫。怖くないよ。こっちにおいで」


 声はできるだけ低く、ゆっくり出した。怯えた犬に大声をかけても逆効果だ。逃げる方向を間違えれば、余計に危ない。


 犬がこちらを向いた。


 その瞬間、献は息を止めた。


 左右で色の違う目だった。片方は淡い琥珀色で、もう片方は夜の雨を映したような深い青に見えた。街灯の加減かもしれない。けれど、その目は妙に澄んでいて、ただの迷い犬とは思えなかった。


 犬は吠えなかった。威嚇も、逃走の素振りも見せない。

 ただ、じっと献を見つめ返していた。


「そこは危ない。ゆっくりでいい。こっちにおいで」


 献は一歩だけ近づいた。


 その時、遠くからエンジン音がした。


 雨粒がヘッドライトに照らされ、白い線になって流れる。濡れた路面に光が伸びた。コンビニの配送トラックだ。速度はそこまで出ていない。けれど、雨の夜道で、車道の真ん中に立つ犬を避けるには遅すぎる。


 だが、犬は動かなかった。


 ライトを浴びても、固まったままだった。怯えているのか、何かを待っているのか。どちらにせよ、あのままでは避けられない。


 距離を見て、速度を見て、犬の位置を見る。


 間に合う。


 ……犬だけなら。


 献は傘を投げ捨て、車道へ飛び出した。


 トラックのクラクションが夜を裂いた。濡れたアスファルトを蹴る足が滑りかける。それでも献は犬の身体に手を伸ばし、歩道側へ押し出した。


 犬の身体が、歩道側へ弾かれるように転がった。


 軽い。


 そう思った直後、視界が白く焼けた。


 衝撃は、音より先に来た気がした。身体が浮き、世界がひっくり返る。呼吸ができない。どこかで金属の軋む音がして、誰かの叫び声が遠くに聞こえた。


 気づくと、献は濡れたアスファルトの上に倒れていた。


 投げ捨てた傘が、道路の端で裏返っている。

 歩道には、さっき自分で置いたコンビニ袋がそのまま残っていた。

 冷めた弁当は、もう食べられそうになかった。


 痛みはあった。けれど、それがどこから来ているのか分からない。


 犬は——。


 あの白い犬は、無事か。


 目だけを動かそうとして、うまくいかなかった。声を出そうとしても、喉から空気が漏れるだけだった。


 その時、冷え切った頬に、温かく湿った感触が触れた。


 犬だった。


 逃げずに、そこにいた。

 四本の脚で、ちゃんと立っていた。


 献はどうにか目を動かした。白い毛並みがすぐ近くにある。左前脚は、しっかりと路面を踏みしめていた。古い傷はある。けれど、少なくとも今の事故で折れた様子はない。


「ケガ、してない、な……」


 声になっていたかどうかは分からなかった。


 犬は答えない。ただ、左右で色の違う目で、じっと献を見下ろしていた。


「大丈夫、そうだな……」


 掠れた呟きに応えるように、ざらついた舌が、献の指先を舐めた。


 それは、診察台の上の犬が、助けを求めて手を舐める時の感触に似ていた。


 歩けるなら、大丈夫だ。


 ——よかった。


 最後は、音になっていなかった。


 指先から、雨とは違う温かさが広がった。


 白い犬の輪郭が、街灯の光の中で少しだけ揺れた。

 左右で色の違う目だけが、最後まで献を見ていた。


 犬飼献の意識は、そこで途切れた。

本日は第4話まで順次公開します。

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