第10話 戻らない犬
夜明け前の牧場は、まだ色を持たなかった。空も、柵も、草も、青みがかった影の中に沈んでいる。東の稜線だけがかすかに白み、吐く息が薄い靄になって流れた。
ケインとアリアが着いたとき、ドルフはもう西の区の柵の前にいた。昨日と同じ場所に、昨日より濃い影で立っている。
「来たか」
それだけ言って、囲いの中へ顎をしゃくった。
羊たちが、動き出していた。夜の間ひと固まりになっていた群れがほどけ、一頭、また一頭と草地へ散っていく。ケインは柵に寄り、食べ方を見た。歩いて、止まって、食む。数口で顔を上げ、また歩く。囲いの中を広く使って、あちこちの草を少しずつ齧っていく。
「……選んでいますね」
「ん?」
「口をつける草を、選んでいます。一箇所に居着かない。羊は本来、そういう食べ方をするものですか」
「腹が減ってりゃ、目の前のを食う」ドルフは短く答えた。「あんなふうに歩き回るのは——」
言いかけて、ドルフも柵に手を置いた。目が、群れの動きを追い直している。
「……前は、あそこまで歩かなかった。気がする」
断定を避けた言い方だった。ただ、昨日までの「呪いだ」の一言とは、目の使い方が違う。見てから、言う。昨日までとは、口の開き方の順番が違っていた。
草が不味いのか、身体が厭がっているのか、ただの癖なのか。ケインにもまだ決められない。決められないものが、また一つ増えた。増えたことを、手帳代わりの頭の隅に書き留めておく。
群れの端で、一頭が立ち止まったまま動かなくなった。食べもせず、歩きもせず、ただ立っている。昨日診た伏せた羊より、一段手前の姿だった。ああやって、止まって、それから伏せるのだろう。
「あれも、そのうち落ちる」
ドルフが言った。問いではなかった。だからケインも、慰めでは返さなかった。
「順番が分かれば、止め方も探せます。今日も、聞かせてください。仕事の話を」
ドルフは答えず、柵から手を離した。離して、囲いに背を向けたまま、しばらく動かなかった。夜明けの光が稜線を越え、男の影が急に長くなった。
「……あいつは、羊を四十頭任せられる犬だった」
ケインは、口を開きかけて、やめた。
問いへの答えではなかった。誰に向けたのでもないのかもしれない。ただ、この男が初めて、聞かれてもいないことを自分から話し始めていた。
「朝に囲いを開けりゃ、群れを崩さず西の端まで運ぶ。日暮れにゃ一頭残らず連れて戻る。数を数える必要がなかった。あいつが連れてる群れは、あいつが数えてた」
過去の形で語られる犬の話を、ケインは黙って聞いた。羊を四十頭任せられる犬。それが、いなくなった——
昨日の立ち聞きが、耳の奥で重なった。また一頭、戻らねえ。
「……見せておくもんがある」
ドルフは囲いに背を向けたまま、牧場の外れ、山側の一角へ顎をしゃくった。低い屋根が、青い薄闇の中にうずくまっている。
「犬舎だ。今は、空だがな」
アリアは、囲いに残ると言った。朝に立ち止まったままだった一頭に、名を呼びながら近づいていくのが見えた。牧夫たちが番小屋へ移すのを、手伝うつもりらしい。領主の娘に囲いの中を歩かせて、ドルフは何も言わなかった。言っても聞かない相手だと、知っている顔だった。
ギルは一度アリアの方を見て、それからケインの後ろに付いた。囲いには牧夫が五人いる。得体の知れない客分の側が、手薄という判断らしかった。
犬舎は、思ったより大きかった。
石を腰の高さまで積み、その上に木の壁と低い屋根を載せた造りが、緩く弧を描いて並んでいる。 囲いというより、長屋だった。壁に沿って杭が等間隔に打たれ、それぞれに鎖が繋がれている。その鎖のどれもが地面に垂れたまま動かず、朝の光が屋根の下まで届き始めても、吠える声ひとつしなかった。
「……全部で、二十はいた」
ドルフが、いちばん手前の杭に手を置いた。ケインは並びを目でなぞった。数えるまでもなく、杭は二十より多い。垂れた鎖の数だけ、ここから犬が消えている。
「餌の時間にゃ、この谷中に声が響いた」
ケインは杭のひとつに屈み込んだ。鎖の輪が土に半分埋もれ、赤茶に錆びている。錆の乗り方が、雨の季節をいくつか越えた厚さだった。隣の杭の木肌には、深い歯形が並んでいる。囓ったというより、囓り続けた痕だ。何日も、何十日も。
「これは」
「山へ帰りたがった奴だ。異変の、はじめの頃な。……夜通し囓って、朝には血だらけの口で、それでも囓ってた」
ドルフの声は平坦だった。平坦さの分だけ、重かった。
「繋いだのが、間違いだったのかもしれねえ。放した家の犬は山へ消えた。繋いだ家の犬は——ああなった。どっちが正しかったのか、いまだに分からねえ」
聞かれてもいない話が、続いた。この領の犬型魔獣は、代々人の手で馴らされてきたこと。羊を追い、夜を守り、名を付けられ、家の中で寝る犬もいたこと。ドルフ自身、この左手を噛んだ犬を恨まなかったこと——「俺の不手際だ。発情期の雄の囲いに、考えなしに入った」——曲がった二本の指を、初めて自分から見せながら、そう言った。
それから、と息を吐いて、ドルフは犬舎の奥へ目をやった。
「異変が来た。山へ帰る奴、群れを襲う奴。……手に負えなくなった犬を、飼い主が殺せるわけがねえ。だから、頼まれた。殺してくれと頼まれて、殺した家もある。……うちの、ことだがな」
最後の一言は、聞き取れないほど低かった。ケインは相槌を打たなかった。打てる相槌が、なかった。深夜の診察室で、治る見込みのない子の飼い主に、選択肢を並べた夜のことを思い出していた。選ばせる側も、選ぶ側も、あの部屋では誰も声が出なかった。世界が違っても、その沈黙の質は同じらしかった。
ケインは立ち上がり、犬舎の並びを端まで歩いた。空の鎖、空の鎖、歯形の杭。そして、西の端まで来たとき、足が止まった。
そこだけ、鎖がなかった。
杭は立っている。だが、繋がれているはずの鎖が、根元の留め金ごと消えていた。杭の周りの土が、深く掘り返されている。
「……ここの犬が、一昨日から戻らないんですね」
ドルフの眉が、動いた。
「聞いてたのか」
「昨日の帰り際に、偶然。盗み聞きの形になりました。すみません」
「……別に、隠しちゃいねえ」
ドルフは西の端の杭まで来て、掘り返された土を睨んだ。ケインも、改めて地面に屈んだ。
土の乱れ方が、尋常ではなかった。杭の周りを中心に、掘って、蹴って、のたうった跡が幾重にも重なっている。壁際に目を移すと、壁と地面の隙間に、身体の半分を押し込もうとしたような擦れた痕があった。木肌には爪の痕。浅く、何度も、同じ場所を掻いている。
「……妙ですね」
「何がだ」
「山へ帰りたがった犬は、外へ向かって囓った。あの杭のように。でも、この子は先に、壁の下へ潜ろうとしています。狭くて、暗い場所へ。——痛みの強い動物が、よくやる行動です。身体のどこかが急に痛み出したとき、獣は暗がりに潜ろうとする」
言いながら、記憶が勝手に符合を並べていく。夜の犬舎。急に来る激痛。のたうつ痕。そして、あの晩から、戻らない。——森で診た、あの子の焦点の合わない目を、思い出していた。
「痛みで、暴れた。暴れて、杭ごと抜けて、出て行った——ここまでは、痕の通りです。何の痛みかは、痕からは読めません」
頭の中には既に一つの形が浮かんでいた。口には、しなかった。森で、あの子の首から抜いたものと同じ何かが、この子にも——それを言うには、証が何もない。
ドルフは長いこと、壁の下の擦れた痕を見ていた。それから、独り言のように呟いた。
「……戻らねえ犬ってのは、みんな、こうなのか」
ケインは、すぐには答えなかった。
「分かりません。ただ、この子は、夜までは普通だったはずです。普通でなければ、誰かが気づいて繋いだままにしません。それが、一晩で——もし、僕が森で診た子と同じ何かなら、この子も今、山のどこかで苦しんでいることになります」
空の杭の穴に、朝の光が斜めに差し込んでいた。ドルフは何も言わず、その穴を長いこと見下ろしていた。
犬舎を出る間際、ケインは足を止めた。
入口に近い杭のひとつに、鎖ではなく、革紐が結わえてあった。編んだ革の、幅の広い紐だ。使い込まれて、飴色になっている。
「これは、鎖ではないんですね」
「……そいつの場所は、鎖が要らなかった」
ドルフの声が、半歩遅れて返ってきた。
「賢い犬でな。繋ぐのは形だけだ。紐でも、外れりゃ勝手に戻ってくる。甥っ子の犬だ。ソロといった」
名が出た。この犬舎で、初めて名で呼ばれた一頭だった。
「四十頭、任せられた?」
「……ああ。今朝の話は、そいつのことだ」
ケインは杭の革紐に触れた。幅の広い、編んだ革。指の腹で編み目をなぞった瞬間、記憶の中の一枚が、そこに重なった。
森の泥の中。狂乱した犬型魔獣の、首。牙をかわしながら押さえたあの首筋に、毛に埋もれて、何かが絡んでいた——処置に必死で、意識の隅にしか残っていない。だが、あった。幅の広い、編んだ革。切れかけて、垂れていた……。
ケインは、紐から手を離した。
「ドルフさん。ソロがいなくなったのは、いつですか」
「三日前だ。昼までは群れに付いてた。俺がこの目で見てる。夕方、群れだけが戻った。あいつは、群れを置いて消えたことなんか一度もねえ」
「その次の日の昼、僕は森で犬型の魔獣に会っています。ここから南西の、馬車道の森です」
ドルフの目が、初めて真っ直ぐケインを向いた。
「……それが、あんたが診たって犬か」
「首に、これと同じ紐が絡んでいました。幅も、編み方も、同じです。切れかけて、垂れていた」
沈黙が落ちた。ドルフは杭の革紐を解き、曲がった指の手で、編み目を長いこと撫でていた。それから、絞るように言った。
「……ソロが、羊を襲ったのか」
「襲われかけたのは、僕たちの方です。羊は、その場にいませんでした」
ケインは、あの日の一部始終を話した。順序を守って、脚色をせずに。溝に落ちた馬車。現れた一頭。焦点の合わない目、口元の泡、普通ではない挙動。声をかけながら距離を詰めたこと。腕を噛まれたこと——ドルフの視線が一瞬ケインの左腕の包帯へ動いた——首筋に打ち込まれていた、黒い棘のこと。
「棘?」
「木でも骨でもない、黒い棘です。周りの毛が黒い液で濡れていました。抜いたら、あの子の目が戻った。牙を抜いて、僕を離して、山へ帰りました」
入口の脇で、ギルが小さく身動きした。制止は、来なかった。黙認の形の、承認だった。
「……抜いたのか。あの状態の犬の首から。素手でか」
「鉗子——挟む道具がなかったので。ほかに方法が」
「そういうことを聞いてんじゃねえ」
ドルフは吐き捨てて、革紐を握り込んだ。怒りの形をしていたが、怒りではなかった。行き場のない何かが、いちばん近い形を借りただけだった。
「三日前の昼までは、いつも通りだった。夕方に消えて、次の日の昼には——あんたの言う、その様か」
「一晩です」
ケインは頷いた。
「一晩で、あそこまで行った。羊とは違います。羊は、月をかけてゆっくり落ちていく。食いが細って、痩せて、黒い跡が滲んで。ソロは違う。前の日まで健康だった身体が、一晩で裏返った。棘が刺さって、一晩で」
言葉にしながら、頭の中で二枚の絵が並んでいく。ゆっくり沈む羊と、一晩で裏返った犬。同じ黒でも、時間の流れ方がまるで違う。
「……戻ってくると思うか」
ドルフの声は、低かった。問いの形をした、祈りに近い何かだった。安請け合いは、できない。この男に対しては、してはいけない。
「分かりません」
ケインは、そう答えた。
「棘が抜けた後の目は、まともでした。僕の腕を噛んだことを、覚えているような目でした。ただ、あの子の身体に何が残っているのか、僕には分からない。棘は抜けても、入った何かが全部抜けたとは限らない」
「……そうか」
「ひとつだけ、言えることがあります」
ドルフが顔を上げた。
「あの子は、狂っていたのではありません。痛みから、逃げ場を探していただけです。逃げ場のない痛みは、生き物をあんなふうにします。それは、狂うこととは違う」
ドルフは何も言わなかった。ただ、握り込んでいた革紐を、ゆっくりと開いて、杭に結わえ直した。元あった通りに、丁寧に。戻ってきた犬が、自分の場所を間違えないように。
犬舎からの戻り道、ドルフは黙って歩いていた。杭から解いた革紐は、結わえ直したはずなのに、いつのまにかまた手の中にあった。
「……分からねえのは」
囲いが見えてきたあたりで、ドルフが口を開いた。
「羊とソロが、同じ何かにやられてるんなら、なんで羊は倒れて、ソロは暴れた? 同じ黒いもんが出てるんだろう、どっちも」
いい問いだった。夜明けからずっと、ケインの頭にもあった問いだ。
「僕にも、分かりません。だから、分けることにしました。羊にやられているものと、ソロを狂わせたものは、別物かもしれない——そう考える方が、さっき話した違いに、全部辻褄が合います」
「……色が同じなのは、偶然か」
「そこも、分かりません。根は同じで、入り方だけが違うのかもしれない。まったくの別物が、たまたま黒いだけかもしれない。ただ、ひとつだけ言えるのは——治し方を探すなら、分けて探すべきだ、ということです。月をかけて溜まった毒と、一晩で回った毒に、同じ手当てが効くとは思えません。一緒くたにした瞬間、両方を間違えます」
「呪い祓いなら、一回で済むがな」
「ええ。呪いは、便利です」
ドルフは、鼻から短く息を抜いた。昨日と同じ音だったが、昨日と同じ意味ではないように聞こえた。
♢♢♢♢♢♢
帰りの荷馬車は、来た時より軽く跳ねた。朝から立ち通しだった身体に、その揺れは骨まで響いた。
アリアは、羊の移送の顛末を短く報告した。立ち止まっていた一頭は番小屋に移し、藁を厚くした。名はハナ。昨日ケインが診た伏せた羊——ミルと、同じ年の生まれだという。そこまで言って、アリアは付け加えた。
「……すみません。診立ての役に立つ話では、ありませんでした」
「立ちます」
ケインは言った。
「同じ年の生まれなら、育ちの履歴も重なる。続けて落ちた二頭に共通の履歴があるなら、それは手がかりの形をしています。名前と一緒に、そういう話も聞かせてください」
「……そういう聞き方を、するのですね」
それから、しばらく車輪の音だけが続いた。口を開いたのは、アリアの方だった。
「ケイン。ひとつ、伺っても」
「どうぞ」
「あなたは、魔獣が怖くないのですか。森でも、昨日の牧場でも、今日の犬舎でも——あなたは魔獣を、危ないもののようには話しません。具合の悪い患者の話を、するように話します」
ケインは、少し考えた。正直に答えると決めるまでに、車輪が石をふたつ踏んだ。
「怖いですよ」
左腕の包帯に、目を落とす。
「噛まれた瞬間は、腕を持っていかれると思いました。今もあの牙を思い出すと、傷の奥が冷えます」
「でも、あなたは腕を引かなかった」
「怖い相手と、診る相手は、両立します。怖さは消さなくていい——牙の届く範囲を測るのは、怖さの仕事ですから」
アリアは答えず、灰青の目でケインを見ていた。ケインが見ている場所を、見ようとする目だった。やがて、静かに言った。
「この領の者は、皆、怖がることに疲れています。怖いから、呪いと呼んで、目を逸らして。……怖いままで見る人が、必要だったのだと思います」
馬車が、緩い坂にかかった。
♢♢♢♢♢♢
荷馬車が牧場を出る間際、ケインは一人、犬舎を訪れていた。
確かめ忘れたことが一つある——西の端の、あの杭の周り。明るいうちに、掘り返された土の範囲と壁の擦れた痕の高さを目に入れておきたかった。明日ドルフに聞くことの、下書きになる。
夕暮れの犬舎は、朝より暗く、朝より静かだった。西の端に屈み、ケインは土の乱れを端からなぞり直した。掘った跡、蹴った跡、のたうった跡。朝に読んだ通りの——
手が、止まった。
のたうった跡の重なりの底、掘り返された土の間に、黒いものが埋もれていた。
小指の先ほどの、細い破片。ケインは息を詰めて、顔を近づけた。見間違えようがなかった。あの夜、ソロの首から抜いたものと、同じ質感。同じ黒。ただし、形が崩れかけている。先端は既に砂の粒に還りかけ、輪郭が滲んでいた。
(……あった)
証が、ここにある。この子にも、刺さっていた。刺さって、暴れて——暴れた拍子に、抜け落ちたのか。
破片の端に、指の腹をそっと触れさせた。触れた指先に、あの拒絶感が走った。羊の黒い跡のときと、同じ感触。
そして、触れた場所から、崩れた。
砂の粒が指の腹を滑り、土の色に紛れていく。ケインは慌てて指を引いたが、破片はもう半分になっていた。残った半分も、輪郭の滲みが進んでいるように見えた。
拾えない。持ち帰れない。ソロの棘と、同じだ。
ケインはしばらく、動かなかった。頭の中で、言うべきか、言わざるべきかの帳簿が開いている。ドルフに見せるか——見せる頃には、砂だ。アリアに話すか——話せば、あの人は父に伝える筋を考え始める。見せられないものの話は、呪いの噂と同じ棚に入る。それは、アリア自身の言葉だった。
(まだだ)
まだ、話せる形をしていない。棘が何なのか、なぜ崩れるのか、なぜ犬ばかりなのか——調べて、言える形にしてからだ。患者の家族に、確定前の病名は言わない。それと同じ順序だった。
荷馬車の方から、声が届いた。ギルだ。馬車の準備ができたらしい。
「今、行きます」
ケインは立ち上がり、最後に一度だけ、土に紛れた黒い砂の名残を見下ろした。それから、上着の上から、懐の布包みに触れた。ソロの棘の、砂。同じものが、いま二つになった。片方は懐に、片方は土に。
どちらも、まだ何も語らない。
帰り道の荷台で、ケインは目を閉じた。疲れた身体の芯で、今日一日の断片が沈んでいく。ソロという名の犬。結わえ直された革紐。壁の下の爪痕。崩れた棘。
包帯の下の疼きは、今夜は、静かだった。




