第11話 手がかりは指先に
翌朝、ケインはふたたび牧場に立っていた。
牧夫に頼んで、桶を並べさせる。西の区とその周りで汲める水を、汲めるところから順に、一杯ずつ。羊に飲ませる水ではなく、確かめるための水だった。口に入るものと、身体に触れるものを、片端から潰していく——その手始めが、水だ。
派手な処置は何もない、と前の晩にアリアには断ってある。地味な一日になる。呪いなら、なぜ西の区にばかり倒れる羊が集まるのかを説明できない。中毒なら、その偏りこそが道しるべになる——ドルフから引き出したその一点を、今日は地図の上に落とす。
アリアが囲いへ回ると、ギルはそちらへ付いた。護衛の最優先は、領主の娘だ。ただ、囲いとケインの間くらいの位置を選んで、ときおり水桶の方へ目を寄越した。
牧夫の一人が、桶を提げて戻ってきた。若い男で、ケインとは目を合わせないまま、水を地面に置いて半歩下がる。露骨ではない。ただ、必要以上には近づかない。この牧場で、ケインが数日で慣れた距離だった。
「ありがとうございます」
礼を言うと、男は返事の代わりに顎を引いて、また一歩、間を取った。
ケインは桶の前に膝をついた。まず、匂い。次に、濁り。日の差す角度に桶を傾けて、底に沈む砂の様子を見る。動物に飲ませる水を確かめるときの、身体に染みついた順番だった。水は澄んでいた。匂いもない。少なくとも、鼻と目には。確かめるつもりで、指を浸した。
——腕を、拒絶が這い上がった。
指先から手首へ、あの感触が走った。森で棘の周りを濡らしていた黒い液に触れたときと、羊の首の黒い跡をなぞったときと、同じもの。皮膚の下を、逆立てられるような。
ケインは指を引いた。引いてから、自分の手を見た。濡れているだけの、何の変哲もない指だった。桶の水も、澄んだままだ。黒くない。濁ってもいない。
(……水が)
声には出さなかった。出せる形をしていなかった。
これまで、あの感触が来たのは、いつも見て分かるものからだった。棘の周りの黒い液。羊の首の黒い跡。犬舎で崩れた、黒い破片。目が先に「これは異物だ」と教えていて、指はその後を追っていた。だが今日は、逆だった。目は何も言わない。澄んだ水だと言い張っている。先に報せたのは、指の方だった。
もう一度、指を浸してみる。今度は、来る、と身構えてから。……来た。同じ場所に、同じだけ。気のせいでは、片づかない。
ふと、記憶が引っかかった。この領に着いた最初の頃、沢の水を手で掬ったことがある。冷たい水だった。あのとき、指は何も言わなかった。同じ沢の水のはずだ。なのに、この桶は——
(同じ、なのか)
ケインが澄んだ水を前に動かないでいると、若い牧夫が、間を取ったまま口を開いた。
「……いや。何か、悪い水ですかい」
露骨に不安がっているのではない。ただ、得体の知れない客分が、汲んできた水をじっと睨んでいる——それが気味悪い、という顔だった。
「まだ、分かりません」
ケインは正直に答えた。嘘はつきたくなかった。だが、今言えることは、まだ言葉になっていない。
「この水は、どこから汲んだものですか」
「……これも、と言われたんで」
牧夫は、桶を提げてきた方角へ首を向けた。牧場の西の外れ、囲いよりさらに山側の、低いところを流れる細い沢筋だという。
「使わねえ水まで、なんで要るのかは知りませんが」
羊に飲ませる水ではない、と男は付け加えた。飲み水は井戸から運ぶ。あの沢筋は水が澱んでいて、家畜には向かない。だから普段は、誰も汲まない。
ケインは、その言葉を覚えておくことにした。飲ませない水。澱んだ、低いところ。普段は、誰も汲まない。
まだ、意味は分からない。分からないまま、頭の隅の手帳に項目だけが増えていく。だが、今日増えた一つは、これまでと違った。羊からでも、ドルフの言葉からでもない。初めて、自分の指が寄越したものだった。
桶は、六つ並んだ。
ケインは端から指を浸していった。井戸から汲んだ水。東の区を流れる沢の水。溜めてある雨水。羊が普段口をつける水は、どれも指に何も言わなかった。冷たいだけの、ただの水だ。——澱んだ沢筋の、あの一杯を除いて。
六つのうち、反応したのは一つ。それも、羊が飲まない水だった。ケインは手拭いで指を拭きながら、頭の中で一本、線を引いた。羊が口をつける水は、疑わなくていい。水を巡る半分が、これで片づいた。
残るは、草だ。
干し草を仕舞う小屋は、番小屋の隣にあった。アリアが、移した羊のそばに膝をついているのが見える。ギルはその戸口に立って、ケインが近づくと、視線だけをこちらへ寄越した。羊ではなく、ケインの手元へ。
ドルフは、小屋の中で干し草の束を検分していた。
「飼い方の違いを、聞かせてください」ケインは切り出した。「倒れた羊と、無事な羊で。餌、放牧の区、水の場所——同じでないところを、全部」
ドルフは、壁際に積んだ干し草の山へ顎をしゃくった。
「弱った奴には、刈った草をやる。歩いて食う力もねえからな。……そこの、西の区で刈ったやつだ。よく育つ。青々として、いい草だ」
ケインは、その束のひとつに手を伸ばした。乾いた茎の、青い匂い。掌でひと掴み分けて——指先に、来た。
二度目だった。今度は、水ではない。草だ。
ケインは表情を動かさずに、束を戻した。戻す手つきだけは、いつも通りに見えるよう気をつけた。ドルフにも、戸口のギルにも。
「西の区は、放牧にも使いますか」
「使う。だが、あの区の羊は、よく歩く」ドルフは怪訝な顔をした。「妙な食い方をしやがる。一箇所に居着かねえで、あっちこっち少しずつだ。あんたも、見ただろう」
見た。数日前の朝、柵の外から。選んで食べていた羊たちを。
あのとき決めかねたことに、いま一つの筋が通る。放牧に出た羊は、歩ける。口に合わない草があれば、避けて、別の草へ口を移す。羊にも、それくらいの選り好みはある。歩いて、選べるうちは。——だが、腹が満ちるほど草が豊かなわけでもない。まして刈られて、干されて、束にされてしまえば、どれも同じ枯れ草だ。羊に、選り分ける手立てはない。歩く力を失って小屋に伏せた羊ほど、その束を、避けようもなく食べていく。
弱った羊にこそ、西の区の草が、たっぷりと与えられていた。
ケインは、それを口にはしなかった。ドルフの差配だ。良かれと思って刈った草が、いちばん弱った羊の口へ運ばれていた——それを、この男に、今この場で告げる意味はない。
「いい草だと思うのが、普通です」
代わりに、そう言った。ドルフは眉を寄せたが、問い返しはしなかった。
「もう一つ。西の区より、さらに山側は。羊は行きますか」
「行かせねえ。柵で止めてる。足場が悪いからな」
ドルフは山の方へ目をやった。
「牧夫が刈り場まで上がるときにゃ、犬を連れて出る。羊より、犬の方がよほど、あの辺を歩く。……もっとも、連れて出られる犬が、めっきり減ったがな」
犬は、山側まで出る。羊は、行かせない。ケインは、その差を胸の内にとどめた。まだ、意味は分からない。ただ、犬と羊とで身体に起きたことが違っていたのと、歩いた場所が違っていたのは——どこかで繋がるかもしれない。繋がらないかもしれない。今は、置いておく。
「……手際がいいな」
戸口で、ギルが言った。褒め言葉の響きではなかった。得体の知れないものを、測りかねている声だった。
「慣れているだけです」
「何にだ」
ケインは、少し考えてから答えた。
「弱ったものを、見ることに」
ギルは、それきり黙った。何者だ、という問いの代わりに、別の何かを持て余しているような沈黙だった。
外へ出ると、牧夫が二人、刈りたての草を背負って戻ってきたところだった。青々とした、西の区の草。小屋の弱った羊のための、今日の分だ。
ケインは、通りすがりに、その一束へ指を触れさせた。
来た。三度目だった。
足が、止まった。
偶然ではない。疲労でもない。指が拒んだものを、順に思い返す。森の棘を濡らしていた黒い液。羊の首の黒い跡。澱んだ沢筋の水。西の区の、干した草と、刈りたての草。形はばらばらだった。液体、病変、水、草。
なのに、指は同じ顔で拒んだ。まるで、それらの奥にある同じ一つを、見分けているみたいに。
その「一つ」が何なのか。そして、なぜ自分の指に、それが分かるのか。二つの問いが、初めて並んで立った。ケインは、どちらにもまだ答えなかった。刈りたての草を背負った牧夫が、怪訝な顔で自分を追い越していく。ケインは、動かないまま、濡れた指を見下ろしていた。
牧夫が刈りたての草を運び込んでいく間、ケインは井戸端に寄って、指を洗った。
冷たい水が、指先の感触を流していく。だが、記憶は流れない。二つの問いが、洗っても落ちずに残っていた。
一つ目は、まだ探しようがある。汚染だろうと当たりはついている。触れて反応するものを集めて、共通点を絞っていけばいい。獣医の仕事の延長だ。
だが、2つ目は違った。二つ目は、獣医の仕事ではない。
しゃがんだまま、ケインは自分の右手を、日にかざした。何の変哲もない、十五の少年の手だ。節くれだった大人の手ではない。この手が、澄んだ水と青い草の中から、目に見えない何かを選り分けている。理屈が、ない。
理屈のつかないものなら、昔から、この身に覚えがあった。
考えないように、してきたことだった。
成人の儀。神殿の水晶。そこに浮かんだ、役に立たない文字。判読不能、系統不明、欠陥ギフト。あの夜、あの森で、読めるようになった、ギフト。
そして、それより前から。物心つく前から、理由も言われずに向けられ続けた、あの薄い忌避。近づくと、皆が半歩下がる。何が悪いのかは、誰も言わない。ただ、何となく嫌だ、と。
欠陥だと言われたギフト。嫌われる体質。指先の、拒絶。
三つが、初めて、一列に並んだ。
「……この指は、何かを、拒んでる」
声が、ひとりでに漏れた。井戸端に、聞く者はいない。
言ってしまってから、ケインは慌てて、その言葉に手綱をかけた。早い。早すぎる。線が三つ並んだからといって、線が繋がっているとは限らない。指の反応と水晶の文字が同じものだという証は、まだ何一つない。忌避体質との関わりに至っては、思いつきの域を出ない。
仮説が三つ。検証できたのは、ゼロ。
獣医が、そういう飛躍をいちばん戒める。都合のいい一本の線に飛びついた瞬間、見落としが始まる。診断は、可能性を一つずつ潰した先にしか立たない。——分かっている。分かっているのに、三つの線が並んだ絵は、なかなか頭から消えなかった。
消えないなら、確かめるしかない。
確かめるには、どうすればいい。答えは、考えるより先に出ていた。指を、また汚染に触れさせればいい。反応する対象を増やし、しない対象と並べ、対応表を厚くしていく。この身体を、試薬にすればいい。反応が出るか出ないかで、汚染を判じる。——それが、いちばん速い。
立ち上がりかけて、ケインは、止まった。
今、自分は何を、当たり前のように決めた。
試薬というのは、反応するたびに、少しずつ変質するものだ。使えば減る。消える。壊れることもある。指に走るあの感触が、身体に何を残すのか、ケインは何も知らない。知らないまま、自分を試薬に使うと、ためらいもなく決めていた。
もし、この井戸端にいるのが自分ではなく、患者だったら。飼い主が「うちの犬を検査に使ってくれ、何が起きても構わない」と言ってきたら——ケインは、止める。獣医として、まず止める。危険の分からない検査に、命を差し出させはしない。
それを、自分の身体には、ひと呼吸も迷わずに許していた。
その落差に、初めて気づいた。気づいたことに、うっすら寒気がした。だが——寒気を覚えてなお、決定そのものは、揺らがなかった。ほかに手がない、というのは本当だ。この領で目に見えない毒を判じられるのは、今のところ、この指だけだ。
ケインは、濡れた右手を握った。握って、開いた。
迷いのなさは、変わらない。ただ、それが少し、怖くなっただけだった。
その日の残りを、ケインは草に費やした。
西の区で刈った草。東の区で刈った草。去年の古い干し草。指を触れては、拭い、また触れる。反応するのは、西の区の草だけだった。それも、区の全部ではない。山側に寄った、低い一帯で刈られた束にだけ、あの拒絶が来る。
日が傾く頃には、ケインの手の中に、一枚の見取り図ができていた。指が拒んだ場所に、印を落としていった牧場の地図。印は、水路には沿っていなかった。今朝、指を拒んだあの澱み水も、羊は口にしない。毒は、羊が飲むものの中にはなかった。印が寄っているのは、西の区の低いところ——羊が、草を食む場所だけだった。
毒は、水から入っているのではない。草から、口へ入っている。——それだけは、言える形になった。
なぜその一帯の草だけが毒を持つのか。それは、まだ分からない。だが、分からなくてもいい。その草さえ食べさせなければ、少なくとも、新しい毒が入るのは防げる。
囲いへ戻ると、アリアが柵の内で待っていた。ケインが図を広げると、灰青の目が、地図の上を一度だけ辿り、ある一点で動かなくなった。
「これは」
「反応のあった場所です。西の区の、この低い一帯……」
ケインは、印の寄った一帯を指した。
「毒があるのは、ここで刈った草です。飲み水ではありません。——お願いがあります。この一帯の草を、今日から全部、止めてください。放牧も、干し草も。特に、小屋に伏せている羊に、この束を与えるのを、今すぐ」
アリアは、すぐには頷かなかった。ケインが「反応」とだけ言って、その中身を言わなかったことに、気づいた顔だった。以前の彼女なら、そこを問い質したかもしれない。今日は、問わなかった。
「……根拠を、皆には訊かれます。ドルフにも」
「呪いのせいだ、と言うより、まだましな根拠を用意します。倒れた羊が、この一帯の草を食べていた記録。それは、数えれば出ます」
アリアは、図をもう一度見下ろした。それから、顔を上げた。
「分かりました。止めます。——あなたが『止めろ』と言うのなら、まず止めて、根拠は後で数えます」
その一言の速さに、ケインは少し、面食らった。信じられたのだ、と気づくのに、半拍かかった。
草を断つ。ただ、それだけの一手だった。薬もない、器具もない。できたのは、羊の口から毒を遠ざけることだけ。派手さのかけらもない。だが、蓄積を止めなければ、その先の手当ては何も効かない。断つのが、最初だ。
その晩、ケインは離れの窓から、暗い牧場の方角を見ていた。今日断った草は、明日から羊の身体に入らない。入らなければ、身体は、自分の力で坂を登り返せるはずだ。——はずだ、と、もう一度胸の内で繰り返してから、ケインは窓を離れた。
♢♢♢♢♢♢
翌朝の牧場は、昨日より、少しだけ明るかった。
草を断って一夜。群れは、囲いの中で散っていた。歩いて、止まって、食む。ケインが柵に寄ると、昨日まで重かった羊たちの動きに、わずかな軽さが戻っているように見えた。気のせいかもしれない。だが、悪くはない、朝だった。
番小屋へ回った。伏せた羊たちの水を替え、藁を足す。呼吸を、一頭ずつ確かめていく。落ちていない。少なくとも、昨日より悪い個体は——
いた。
いちばん奥。昨日まで、四本の脚で立てていた一頭が、横たわっていた。
ケインは屈み込んだ。首の下の毛をかき分ける。黒い跡が、広がっていた。草を断ったのに。口から毒を、遠ざけたのに。




