第12話 知識だけでは
黒い跡は、昨日の倍になっていた。
番小屋のいちばん奥。首の下の毛をかき分けた指の腹の下で、それは滲み出すように広がっていた。境界は昨日よりさらにぼやけ、どこまでが跡で、どこからが元の肌の色なのか、もう分からない。押しても、羊は痛がる素振りを見せなかった。痛みの段階を、とうに越えている。
ケインは羊の脇腹に手を当てた。呼吸は浅く、速い。鼻先に手をかざす。息の出入りは弱いが、ある。瞼をそっと引くと、粘膜の色が退いていた。昨日は、まだ薄紅を残していたのに。
「……ノラ」
番小屋の入り口で、若い牧夫が立ち止まっていた。昨日、山側の沢筋の水を汲んできた男だ。抱えた藁束を下ろすのも忘れた顔で、横たわった羊を見ている。
男は、誰にともなく言った。
「よく歩く奴で……伏せっちまってからも、俺が水をやりゃ、首だけは持ち上げたんだ」
男が呟いた。それきり、言葉が続かなかった。抱えた藁束を、下ろすでも置くでもなく、ただ抱え直した。
ケインは、できることを頭の中に並べた。
輸液。解毒剤。血の中身を映す道具。——どれも、ここにはない。手元にあるのは、湯と、藁と、乾いた布と、水差しだけ。
それだけで、やる。
ケインは膝をついたまま、牧夫を見上げた。
「まだ、間に合うかもしれません。手を貸してください」
牧夫が、我に返ったようにケインを見た。
「湯を。熱くしすぎず、人肌より少し上で。それと、乾いた布を、あるだけ持ってきてください」
牧夫が藁束を放り出して駆けていく。ケインはノラの身体の下へ手を差し入れ、冷えを確かめた。四肢の先が、氷のようだった。熱が、末端から逃げていく。
だが、冷えた脚から温めてはいけない。末端に溜まった冷たい血が一度に胴へ戻れば、心の臓が保たない。温めるのは、胴だ。
横たわったままでは、下側の肺が押し潰されて、息がいっそう浅くなる。半身を起こし、丸めた藁を胸の下に噛ませて、上体を高くしてやる。運ばれてきた湯に布を浸し、固く絞って、脇腹と胸——身体の芯に近いところへ、順に当てていく。冷えた身体を、内側から温め戻すように。手つきに、迷いはなかった。この手順だけは、身体が覚えている。
水を、と思って、やめた。弱った羊に口から流し込めば、気管へ入る。安全に水を送る管は、ここにはなかった。ケインは湿らせた布で、ノラの口の端をそっと拭うだけにした。舌が、力なくそれを舐める。
舐める力は、まだ残っていた。飲み下す動きも、ある。——ならば、腹の水がすべて尽きたわけではない。今すぐ渇きで倒れる段階ではない。そう、自分に言い聞かせた。焼け石に、水ですらない手当てだと、分かっていながら。
手は、休みなく動いた。動きながら、ケインの中では、別の声が冷たく告げていた。
これは、間に合わせだ。
毒を断って、一夜。新しい毒は、もう入っていない。それは正しい手だった。だが、身体にすでに溜まった分は、断ったからといって消えはしない。溜まった毒は、これから効く。曝露を止めた後にこそ、いちばん重い個体が出る。 ——それが分かっていて、来ると分かっていて、ケインは、来る前に備えをしなかった。断てば回復するだろうと、思い込んでいた。
昨日の朝、群れが少し軽そうに見えたとき。あれで足りると、どこかで思わなかったか。
病院なら、と考えかけて、やめた。輸液の一本でも繋げれば、この坂は緩められた。考えても、繋ぐ管が、ここにはない。
保温も、給水も、体位も、坂そのものは変えられない。稼いでいるのは、時間だけだ。その時間の中で、ノラの身体が自分の力で坂を登り返してくれるのを、待つしかない。登り返す力が、まだ残っていれば。
残っていなければ。
ふいに、別の夜が重なった。
診療台の上の、コロ。深夜の急患だった。あの夜も、命は坂を転がりかけていた。だが、あの夜の手の中には、薬があった。器具があった。血の数値を映す機械があり、足りないものを補う点滴があり、しくじっても正す手立てがあった。積み上げてきた医療の丸ごとが、背中にあった。だから、動けた。「大丈夫。しっかり」と、言ってやれた。
ここには、何もない。
湯と、布と、水差し。十五の少年の、二本の手。それだけで、目の前の命が坂を落ちていくのを——ただ身体をさすってやりながら、見ているしかなかった。
ケインは、冷めた布を替えた。替えながら、自分が今していることを、正確に言葉にしないようにしていた。看取りの手当てと、治す手当ては、途中までは、同じ形をしている。自分がそのどちらをしているのか、ケインは、まだ決めたくなかった。
布を絞る手の甲に、日が差した。番小屋の戸口から差し込む光の角度が、さっきより高い。ひとしきり手を尽くすうちに、朝が進んでいた。
その光の中を、足音が幾つか、こちらへ近づいてくる。囲いの方から、低く言い交わす声も。何を話しているかまでは、聞こえなかった。
入ってきたのは、三人だった。
先頭は、年かさの牧夫。その後ろに二人。番小屋の奥で膝をついているケインを認めると、三人とも、足を止めた。ノラの姿を見て、誰かが短く息を吸う音がした。
「……また、一頭か」
年かさの牧夫が言った。ケインにではなく、隣の男に。
「西の草を止めろと言われて、止めた。止めて、これだ。昨日より、悪い」
声は低い。だが、狭い小屋の中では、伏せた羊の耳にも届くほど近い。ケインは布を絞る手を止めなかった。止めれば、聞いているのだと悟らせてしまう。
「草じゃねえんだ。草の話じゃ、ねえんだよ」
別の男が、囲いの外を顎で示した。
「別の区でも出た。西のもんを食ってねえ羊にまで、あの黒いのが。草を止めて、何が変わった」
ケインの手が、そこで一度だけ、止まった。
別の区。西の草を、食べていない羊。
ケインの中で、昨日引いたばかりの線が、ぐらついた。西の草は毒を持つ。それは、指で確かめた。だが——確かめたのは、そこまでだ。西の草だけが入り口だとは、指は、一度も言っていない。
指が拾えないほど薄い毒が、ほかの草にも。あるいは、水か、土か、別の道が。
考えは、そこで散った。疲れた頭は、可能性を一つずつ並べる根気が続かない。ただ、潰したと思った囲いの、その外側が、まだ暗いままだという感触だけが残った。
思っていたより、深い。
その考えに追いつく前に、年かさの牧夫が、一歩、前へ出た。
「あんたが来てから、悪くなった」
静かな声だった。怒鳴りではない。だからこそ、逃げ場がなかった。
「妙な水を睨んで、草を止めさせて。それで、一晩明けりゃ、この様だ。良くなるどころじゃねえ」
言い返せなかった。草を断った、その翌朝に倒れる。牧夫の目には、断ったせいで倒れたように映る。——だが、逆だ。断つより前に溜まった毒が、今、効いている。曝露を止めた翌朝にこそ、いちばん重い個体が出る。それを、一晩しか見ていないこの男たちに、どう伝えればいい。
伝えたところで、と、頭のどこかが醒めた声を出した。
この男たちは、理屈でケインを疑っているのではない。虫が好かないから、疑う理屈を探しているだけだ。順番が、羊と同じで、逆になっている。——それが、昔から、この身に起きることだった。近づくと、皆が半歩下がる。理由は、誰も言えない。
だから、言い返さなかった。
恨む気にも、なれなかった。理由もなく人に嫌われる——この、物心つく前からの質は、恨んだところで、直しようがない。ただ——厄介だ、とは思った。人の命がかかっている場所で、自分がいるというだけで、疑いに燃料がくべられていく、それが。
「原因は、一つではないかもしれません」
ケインは、顔を上げずに言った。
「西の草は、断って正しかった。新しく入る毒は、それで減っています。ですが、すでに身体に溜まった毒は、草を断っても、しばらくは効き続けます。だから今、いちばん重い個体が出ている。——増えているのは、僕が来たからでも、草を止めたからでもありません。止めるのが、遅かったからです」
言いながら、その最後の一言が、自分の胸に返ってくるのが分かった。遅かった。それは、牧夫を宥めるための方便ではなく、たった今、自分で自分に突きつけたばかりの後悔だった。
牧夫たちは、黙った。納得したのではない。ケインの言葉が、自分たちの知っている言葉——呪い、祟り、罰——のどれとも違っていて、返す言葉に詰まっただけだ。沈黙は、不信のまま、ただ行き場をなくして、小屋の中に淀んだ。
その淀みを割って、戸口から、別の足音が入ってきた。
ドルフだった。
ドルフは、ちらとノラを見て、それから、ケインの手元を見た。湿った布。丸めた藁。休みなく動いている、その手。——ひととおり見て、何も言わなかった。
ドルフは、ケインの向かいに、無言で膝をついた。
そして、暴れる力もなく横たわったノラの、後ろ脚の付け根に手を回し、身体が滑らないように、押さえた。処置をする者が手を動かしやすいよう、羊の体を、そこで支える手だった。牧夫の手だ。何十年、羊を押さえてきたか分からない、太くて、節くれだった手。
「……ドルフさん」
年かさの牧夫が、咎めるような声を出した。あんたまで、こいつに、と。
「草を止めてから」
ドルフは、ノラを押さえたまま、顔も上げずに言った。
「羊が、妙な食い方をするのは、前から見てた。一箇所に居着かねえで、あっちこっち少しずつ食う。……草を止めろと言われて、やっと分かった。あいつら、西の草を、避けて歩いてやがったんだ」
訛りのある、ぶっきらぼうな言葉だった。
「呪いなら、羊が草を選べる道理がねえ。選べるってことは、毒があるってことだ。毒なら、断ちゃ、いつかは減る。……理屈は、俺には分からん。だが、羊の歩き方は、嘘をつかねえ」
誰も、言い返さなかった。
ドルフは、そこで初めて、ケインを見た。
「で。今、こいつに、何をしてやれる」
礼でも、詫びでもない。仕事の言葉だった。原理を問わず、目の前で何ができるかだけを問う声。ケインは、その問いに、正直に答えるしかなかった。
「……止められません。この子が、自分の力で持ち直すのを、待つしかない。僕にできるのは、その間、身体を、少しでも楽にしてやることだけです」
できることの、あまりの少なさ。それを、この男の前で、隠す気にはなれなかった。
ドルフは、少しの間、黙っていた。それから、押さえる手に、わずかに力を込めた。
「なら、押さえる手は、要るな」
それだけ言って、また口を閉じた。
三人の牧夫は、いつの間にか、番小屋を出ていた。淀んだ沈黙も、一緒に連れて出たようだった。残ったのは、羊の浅い息と、湯の湯気と、二人分の、静かな手だけだった。
外の光が、また少し、傾いた。ノラの息は、深くも浅くもならないまま、続いていた。持ちこたえている、とも言えたし、坂の途中で、ただ止まっているだけ、とも言えた。
日が暮れかけた頃、囲いの方から、アリアが番小屋へ入ってきた。
「——まだ、ここに」
言いかけて、アリアは、ケインの顔を見て、口をつぐんだ。朝からずっと同じ場所に膝をついている男の、その膝の下に落ちた影の濃さを、見たのだろう。
「わたしにも、手伝わせてください」
いつものケインなら、断っていた。働きに対価を払わせるのも、令嬢に羊の世話をさせるのも、筋ではない、と。断る言葉は、いくつも用意できた。
だが、その晩は、断らなかった。
断る言葉を選ぶだけの力が、もう、残っていなかった。
「……水を、替えてもらえますか。ぬるくなったら、すぐに」
アリアは、頷いた。ドレスの袖を、迷いなく捲り上げて。
夜が、番小屋に満ちていた。
吊るした灯りの油が、じりじりと減っていく。その細い炎のほかに、光はない。囲いの羊たちは、とうに寝静まっていた。起きているのは、この小屋の者たちと、ノラだけだった。
夜が更けても、アリアは、下がろうとしなかった。布を絞る手を止めず、ケインが「もう休んでください」と言っても、「まだ、替える布があります」と取り合わない。
折れさせたのは、ドルフだった。
「お嬢様」
低い声だった。
「ここから先は、見ていて気持ちのいいもんじゃねえ。……それに、あんたが倒れたら、こいつが、二人抱えることになる」
顎で、ケインをしゃくる。アリアは、その言葉に、ケインの顔を見た。朝からずっと、同じ場所に膝をついている、その顔を。しばらく、見ていた。
「……何かあれば、すぐに呼んでください」
念を押して、アリアは下がった。戸口の外に、ギルの影が待っていた。
残ったのは、ケインと、ドルフと、羊の浅い息だけになった。
やれることは、もう、やり尽くしていた。
温めた。体位を変えた。口を湿らせた。——それ以上、手立てがない。あとは、ノラの身体が坂を登り返すのを、待つしかない。待つ、という手当ての、なんと長いことか。ケインは、いつしか、動かす当てのなくなった右手を、ノラの首の下へ——黒い跡の上へ、そっと伏せていた。
温めるためではなかった。さするためでも、脈を診るためでもない。ただ、そこに、手を置いていたかった。何もできない手を、せめて、いちばん悪いところに。
どれくらい、そうしていたか。
ふと、掌の下で、ノラの息が、深くなった気がした。
気のせいだ、と思った。夜通しの疲れが、見せた幻。ケインは、しかし、獣医の癖で、それを聞き流せなかった。確かめずにいられない。——手を、そっと離してみた。
息が、浅くなった。
もう一度、黒い跡の上に、掌を伏せる。
……深くなる。
ケインは、手を止めた。鼓動が、嫌な速さで鳴りはじめる。当てる。深い。離す。浅い。当てる。深い。——何度繰り返しても、同じだった。掌の下でだけ、ノラの呼吸が、ひと息ぶん、楽になる。
昼のあいだ、ずっと触れていた。さすり、温め、支えてきた。なのに、こんなことは、一度もなかった。違うのは——今、手が、動いていないこと。同じ場所に、黒い跡の上に、伏せて、止まっていること。それだけだ。
指先が、熱い。
凍えた小屋の中で、その一点だけが、身のうちのどこにも見当たらない熱を、持っていた。あの夜と、同じだ。森で、黒い棘を抜いた、あの夜と。あのときも、右手のこの指先が、こうして熱かった。
だが、意味は、分からない。何が起きているのか、ケイン自身が、いちばん分かっていなかった。
分からない。分からないが——手を、離せなかった。
離せば、この子の息が、浅くなる。ただ、それだけが、確かだった。理屈も、名前も、何もない。掌の下で楽になる呼吸と、離せば失われるそれと。目の前の、その一点の事実に、ケインの手は、縫い留められていた。
だから、当て続けた。
当て続けるうちに、身体の芯から、何かが、抜けていくのが分かった。
指先の熱は、そのままだ。だが、その熱を灯しておくために、身体のどこかが、薪をくべ続けているような——冷えが、末端から、いつもと逆の順で這い上がってくる。視界の縁が、時おり、暗くなる。膝をついた足の感覚が、遠い。
喉が渇いた。ひどく、渇いた。だが、水差しへ手を伸ばせば、この手を、離すことになる。
伸ばさなかった。
どれほどの時が過ぎたのか。灯りの油は尽きかけ、番小屋の隙間から、青白いものが差し込みはじめていた。夜明けだ。ケインの意識は、そのころには、もう、まともに保っていなかった。掌の下の呼吸と、自分の呼吸の、どちらを数えているのかも、曖昧だった。
膝が、崩れた。
支えを失った上体が、ぐらりと傾ぐ。とっさに、左手を地面につく。それでも、右手だけは——黒い跡の上から、離さなかった。離してはいけない、という思いだけが、抜け落ちかけた意識の底に、残っていた。
「……おい」
太い手が、ケインの肩を掴んだ。
ドルフだった。いつのまにか、羊を支えるのを止め、ケインの顔を、覗き込んでいる。日に焼けた顔が、灯りの残りの中で、険しく歪んでいた。
「あんた、そっちが先に死ぬぞ」
ぞんざいな声だった。だが、その声には、これまでケインが聞いたことのない色が、混じっていた。
そっちが、先に死ぬ。
その言葉が、朦朧とした頭の中を、ゆっくりと、転がっていった。ケインは、それを、うまく掴めなかった。誰が。何を。先に、死ぬ。——羊を助けようとしている自分が、羊より先に。その理屈が、遠すぎて、像を結ばない。
ただ、ドルフの言葉は、ひとつのことを、外から名指ししていた。
ケインが、いま、自分の身を、勘定に入れていないこと。
その一点だけが、掴めないまま、胸の底に、小さな錘のように落ちた。ケインは、答えられなかった。答える代わりに、まだ、黒い跡の上に、手を置いていた。
置いた手の、その下。
霞んだ視界の、いちばん端で、ケインは、見た。
黒い跡の——その周縁が。
滲むように広がっていた、あの縁が。
ほんの、僅かに。
薄くなっていた。




