表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
42/44

第42話 四つの請求

 照合を明日に控えた夜、ケインは呼ばれて執務室へ上がった。


 扉は細く開いていた。卓の上に灯りが一つ、帳面が三冊。ゲルハルトは椅子に座ったまま、開いた頁へ目を落としていた。脇に置かれた記録紙には、数字の列と、線で消した数字の列が並んでいる。


 入れ違いに、ドルフが出てきた。


「呑んだ場合と、断った場合、両方の勘定です。呑めば、冬の人手はそのまま。断れば、二人減らして、春の種も一割削ることになります」


 戸口でそれだけ言って、廊下を戻っていく。ケインが頭を下げると、ゲルハルトは頁から顔を上げ、一度だけ奥向きへ続く廊下の暗がりへ目をやってから、ケインを見た。


「夜に済まない。聞きたいことが一つある。——山の囲いは、いまどうなっている」


「保っています。縄と板は、先の風のあとに一度直しました。莢のある茎に変わりはなく、水路は流れています。経過を見る場所も、決めた日のとおりに回っています」


「危ないか」


「決めた線の外にいる限りは、危なくありません。中は……分かりません。調べていないので」


「分からないまま、か」


 ゲルハルトは短く繰り返し、頷いた。それ以上は訊かず、帳面へ戻りかけて、付け加えた。


「明日、監察官が来たら、照合の前に私のところへ通してくれ。……先に済ませる話がある」


「伝えます」


 ケインは頭を下げて、執務室を出た。廊下の窓の外は、月のない夜だった。



 翌朝、オスヴァルトは書記を二人連れて来た。照合の初日で、記録室には帳面と受取の記録が積み上げてある。だがアリアは監察官を、先に執務室へ通した。


 ゲルハルトは立って迎えた。卓には何も広げていない。


「伯爵への答えを決めた。書面は今日のうちに渡す。結論だけ、先に言っておく。——条件は呑まない」


 オスヴァルトは、表情を変えずに聞いた。書記が筆を構える。


「理由は」


「一つだけだ。二番目の条件に、理由が書かれていない。一番目は、危険から人を遠ざけるためと読める。三番目と四番目は、取引の形だ。だが二番目だけは、何のための条件なのか、書面のどこからも読めない。理由の分からない条件を、領として、今後を縛る形で確約することはできない」


 書記の筆が走る。オスヴァルトは書き終わるのを待って、確かめた。


「お断りの理由は、二番目の条件に理由の記載がないこと。それのみ、でよろしいですか」


「それのみだ」


「承りました。……では、査定は通常の手続きで進みます。上納の遅れは、統治の問題として上位へ報告されます。それも、お含みのうえと記します」


「含んでいる」


 ゲルハルトの声は、昨夜の帳面の上と同じ低さだった。


「回復の計画は、期限のとおりに」


「出す。加算がある前提で、作り直させている」


「承りました。では、本日の照合は予定どおりに進めます」


 オスヴァルトは一礼し、それ以上は何も足さなかった。説得の言葉も、惜しむ言葉もない。伝えるべきことを伝え、書き取るべきことを書き取って、監察官は照合の始まる記録室へ下りていった。



 昼前、記録室の奥の卓で、請求書が作られ始めた。


 ゲルハルト、アリア、ケイン。セヴランは朝のうちに使いを受けて、小神殿から上がってきていた。手前の卓では照合が続いていて、帳面をめくる音と、書記が数字を読み合わせる声が、仕切りの向こうから届いてくる。


「名目は、査定への協力とする」


 ゲルハルトが言った。


「査定の項目には、神殿の勧告に反する山への立入りが入っている。立入りが妥当だったかを裁くには、そもそも立入りを禁じた命令に、どんな根拠があったかが要る。査定に答えるために必要な資料として、請求する。……これなら、拒む側に理由がない」


 アリアが新しい記録紙を広げた。項目は四つ。


 一つ。山への立入りを禁じる主家の命令について、発出の年月日、発出した者、根拠となった事実または判断。先にゲルハルトが書面で発した問いを、正式の請求に改める形だった。


「監察官が停止の文書に書いた理由と、混同されない書き方にします」


 アリアが言った。停止の文書には、実務の理由が四つ並んでいた。原因の分からない過去の死亡。現在の異変。事故が起きたときの責任。査定の途中で新しい支出を起こさないこと。求めるのはそれらではなく、その上にある命令そのものの根拠だと、項目の脇に書き分けていく。


 二つ。十数年前に領境の山で行われた掘削の事業について、事業の名称、目的、期間、責任者、従事した人員の記録。名称、と書いたところで、アリアの筆が一度浮いた。名前も知らない事業について、名前を訊くところから始めるしかない。


 三つ。当該事業が終わった理由と、終わりに際して行われた処置の記録。


 三つ目のところで、ケインは口を開いた。


「処置の記録は、形を決めて求められませんか。どこを、どの順で埋めて、上に何を被せたか。……僕たちには、いまの地形の略図があります。貰った記録がその略図と突き合わせられる形なら、書かれたことが本当かどうか、現場で確かめられます」


「逆に言えば、突き合わせられない記録が来たら、それも分かる、ということですね」


 アリアが顔を上げた。ケインは頷いた。


「はい。記録は、貰って終わりではなくて、確かめられる形で貰うものなので」


 処置の記録は、地形の略図と対照できる形で、という一句が、三つ目の項目へ書き加えられた。


 四つ。当該事業に関して、事業の側に残る死亡または負傷の記録。


「理由は、こう付す」


 ゲルハルトが言った。


「査定は、立入りの危険をどう見るかを含む。危険の評価には、過去にその場所で人がどう死に、どう傷ついたかの記録が要る。……こちらが知らないふりをする理由は、もうない」


 四つ目を書き写すところで、アリアの筆が短く止まった。


 彼女は山裾の礼拝所で、葬送の帳面を見ている。掘り仕事の頃合いに集まった数名分の死亡。熱病。転落。作業中の事故。説明の短すぎる欄。筆は、止まって、また動いた。項目の脇に、必要の理由が書き添えられていく。


「山裾の帳面は、礼拝所から動かしません」


 セヴランが静かに言い添えた。


「あれは村の弔いの記録で、査定の道具ではありません。ここで求めるのは、事業の側に残っているはずの記録です」


 ゲルハルトは、付属書の控えへ目をやった。


「神殿を巻き込む形になるが、いいのか」


「巻き込まれたのは、勧告が査定の根拠に使われたときからです。私はその使われ方を、正しに行くだけです」


 セヴランの答えは、いつもの抑えた声のままだった。


 ケインは、自分の調べの記録の束を思った。日ごとの頁の端には、分からないまま残した欄がある。誰が掘ったのか。どこまで掘ったのか。なぜ埋め戻したのか。四つの請求は、あの欄の空白を一つずつ埋めるためのものだった。自分たちが地形から起こし直したものの、元の形を書いた記録が、どこかにはある。二番目の条件は、それを求めるなと言っていた。


「神殿からも、一枚出します」


 セヴランが言った。


 セヴランは、持参した挟みから付属書の控えを出し、卓へ置いた。


「査定が、神殿の勧告に反する立入りを項目にしている以上、神殿側の見解も資料として揃っている必要があります。私は回答書の付属書に、この目で確かめた三つのこと——掘削と埋め戻しがあったこと、沈着物を辿って坑道跡を見つけたこと、工事が中を掘り返さず、水を外へ逃がすものであること——を、現認として署名しました。当初の勧告と、その後の付属書。両方を査定の資料とするよう、神殿の名で書面にして求めます。あわせて、過去の記録の提示、閲覧、照会を求めないことは神殿の勧告の内容ではないと、書面に明記します。古い勧告だけを根拠に裁かれるのは、神殿としても本意ではありませんので」


 アリアが頷き、綴じる順を書き留めた。それから四つの項目を、上から順に読み上げる。ゲルハルトは目を閉じて聞き、二箇所だけ言葉を直させた。命令、を、御下命(ごかめい)、に。求める、を、お願い申し上げる、に。求める中身は、変えなかった。


 計画のことにも、短く触れた。


「回復の計画は、一通りで済むようになりました。加算がある前提で、期限までに仕上げます」



 条件への回答のほうは、確約しない旨と理由の一文だけの、短い書面になった。


 夕刻、清書された三通が執務室の卓に並んだ。条件への回答、資料の請求書、それに神殿の書面。ゲルハルトが二通に署名して男爵印を押し、神殿の書面にはセヴランが署名して小神殿の印を押した。封は、それぞれの蝋で閉じられた。伯爵家の赤とは、どちらも違う色だった。


 オスヴァルトは照合を中座して上がってきた。回答の書面を先に読み、書記に受取日を書かせる。それから請求書を取り上げ、上から目を通していった。


 一行目、二行目、三行目。目の動きは変わらない。


 四行目で、止まった。


 書記が、筆を持ったまま待っている。仕切りの向こうから、数字を読み合わせる声が続いていた。


 やがて目は文面の終わりまで動き、オスヴァルトは請求書を卓へ置いた。受取日を書かせる。神殿の書面は最後に受け、これも読み終えてから、受取日だけを書かせた。異議の併記は、なかった。


「三通とも、伯爵家へ送ります。査定に必要な資料の請求として、手続きに不備はありません」


「頼む」


「……返答までの日数は、私には分かりません。行政の便の早さは、私の決めることではありませんので」


「承知している。待つのは、慣れた」


 オスヴァルトは三通を書記の挟み板へ収めさせ、照合へ戻っていった。



 日が落ちる前に、監察官の一行は中心集落の宿へ引き上げていった。書記の挟み板には、条件への回答と、四項目の請求書と、神殿の書面が収まっている。伯爵家への便は、随行の一騎が明日の朝に発つという。


 見送りに出たケインは、門の前で、砂利を蹴る音が坂を下っていくのを聞いた。蹄の音は、じきに聞こえなくなった。


 記録室では、照合の初日が終わろうとしていた。オットーが突き合わせの済んだ帳面へ札を移し、アリアが明日へ回す分を分けている。ハインツの受取の記録は届き、ヨルグの分は明日になるという。


 アリアは最後に、三通の控えを綴じ、記録庫の棚へ運んだ。回答書の控え、条件の写し、問いの控え。その隣に、今日の三枚が並ぶ。出ていった紙の控えばかりが増えていく棚を、アリアはしばらく見てから、扉を閉めた。


 ケインは離れへ戻り、明日の巡回の順を書き付けた。外れの牧場を朝に回し、南原は昼からでいい。書き付けた紙の隅には、三日前に打った点が残っている。ケインはその横へ、今日の日付だけを足した。


 夕食の席で、ゲルハルトは照合の段取りと、週明けの上納帳の締めの話をした。マルタの伝えでは、イレーネの食欲は続いていて、卓へ並ぶ皿が一枚増えたという。ゲルハルトはそれを聞いて、一拍だけ手を止めた。断ったことには、誰も触れなかった。


 食後、ケインが廊下で頭を下げると、ゲルハルトは短く言った。


「明日も、頼む」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ