第42話 四つの請求
照合を明日に控えた夜、ケインは呼ばれて執務室へ上がった。
扉は細く開いていた。卓の上に灯りが一つ、帳面が三冊。ゲルハルトは椅子に座ったまま、開いた頁へ目を落としていた。脇に置かれた記録紙には、数字の列と、線で消した数字の列が並んでいる。
入れ違いに、ドルフが出てきた。
「呑んだ場合と、断った場合、両方の勘定です。呑めば、冬の人手はそのまま。断れば、二人減らして、春の種も一割削ることになります」
戸口でそれだけ言って、廊下を戻っていく。ケインが頭を下げると、ゲルハルトは頁から顔を上げ、一度だけ奥向きへ続く廊下の暗がりへ目をやってから、ケインを見た。
「夜に済まない。聞きたいことが一つある。——山の囲いは、いまどうなっている」
「保っています。縄と板は、先の風のあとに一度直しました。莢のある茎に変わりはなく、水路は流れています。経過を見る場所も、決めた日のとおりに回っています」
「危ないか」
「決めた線の外にいる限りは、危なくありません。中は……分かりません。調べていないので」
「分からないまま、か」
ゲルハルトは短く繰り返し、頷いた。それ以上は訊かず、帳面へ戻りかけて、付け加えた。
「明日、監察官が来たら、照合の前に私のところへ通してくれ。……先に済ませる話がある」
「伝えます」
ケインは頭を下げて、執務室を出た。廊下の窓の外は、月のない夜だった。
翌朝、オスヴァルトは書記を二人連れて来た。照合の初日で、記録室には帳面と受取の記録が積み上げてある。だがアリアは監察官を、先に執務室へ通した。
ゲルハルトは立って迎えた。卓には何も広げていない。
「伯爵への答えを決めた。書面は今日のうちに渡す。結論だけ、先に言っておく。——条件は呑まない」
オスヴァルトは、表情を変えずに聞いた。書記が筆を構える。
「理由は」
「一つだけだ。二番目の条件に、理由が書かれていない。一番目は、危険から人を遠ざけるためと読める。三番目と四番目は、取引の形だ。だが二番目だけは、何のための条件なのか、書面のどこからも読めない。理由の分からない条件を、領として、今後を縛る形で確約することはできない」
書記の筆が走る。オスヴァルトは書き終わるのを待って、確かめた。
「お断りの理由は、二番目の条件に理由の記載がないこと。それのみ、でよろしいですか」
「それのみだ」
「承りました。……では、査定は通常の手続きで進みます。上納の遅れは、統治の問題として上位へ報告されます。それも、お含みのうえと記します」
「含んでいる」
ゲルハルトの声は、昨夜の帳面の上と同じ低さだった。
「回復の計画は、期限のとおりに」
「出す。加算がある前提で、作り直させている」
「承りました。では、本日の照合は予定どおりに進めます」
オスヴァルトは一礼し、それ以上は何も足さなかった。説得の言葉も、惜しむ言葉もない。伝えるべきことを伝え、書き取るべきことを書き取って、監察官は照合の始まる記録室へ下りていった。
昼前、記録室の奥の卓で、請求書が作られ始めた。
ゲルハルト、アリア、ケイン。セヴランは朝のうちに使いを受けて、小神殿から上がってきていた。手前の卓では照合が続いていて、帳面をめくる音と、書記が数字を読み合わせる声が、仕切りの向こうから届いてくる。
「名目は、査定への協力とする」
ゲルハルトが言った。
「査定の項目には、神殿の勧告に反する山への立入りが入っている。立入りが妥当だったかを裁くには、そもそも立入りを禁じた命令に、どんな根拠があったかが要る。査定に答えるために必要な資料として、請求する。……これなら、拒む側に理由がない」
アリアが新しい記録紙を広げた。項目は四つ。
一つ。山への立入りを禁じる主家の命令について、発出の年月日、発出した者、根拠となった事実または判断。先にゲルハルトが書面で発した問いを、正式の請求に改める形だった。
「監察官が停止の文書に書いた理由と、混同されない書き方にします」
アリアが言った。停止の文書には、実務の理由が四つ並んでいた。原因の分からない過去の死亡。現在の異変。事故が起きたときの責任。査定の途中で新しい支出を起こさないこと。求めるのはそれらではなく、その上にある命令そのものの根拠だと、項目の脇に書き分けていく。
二つ。十数年前に領境の山で行われた掘削の事業について、事業の名称、目的、期間、責任者、従事した人員の記録。名称、と書いたところで、アリアの筆が一度浮いた。名前も知らない事業について、名前を訊くところから始めるしかない。
三つ。当該事業が終わった理由と、終わりに際して行われた処置の記録。
三つ目のところで、ケインは口を開いた。
「処置の記録は、形を決めて求められませんか。どこを、どの順で埋めて、上に何を被せたか。……僕たちには、いまの地形の略図があります。貰った記録がその略図と突き合わせられる形なら、書かれたことが本当かどうか、現場で確かめられます」
「逆に言えば、突き合わせられない記録が来たら、それも分かる、ということですね」
アリアが顔を上げた。ケインは頷いた。
「はい。記録は、貰って終わりではなくて、確かめられる形で貰うものなので」
処置の記録は、地形の略図と対照できる形で、という一句が、三つ目の項目へ書き加えられた。
四つ。当該事業に関して、事業の側に残る死亡または負傷の記録。
「理由は、こう付す」
ゲルハルトが言った。
「査定は、立入りの危険をどう見るかを含む。危険の評価には、過去にその場所で人がどう死に、どう傷ついたかの記録が要る。……こちらが知らないふりをする理由は、もうない」
四つ目を書き写すところで、アリアの筆が短く止まった。
彼女は山裾の礼拝所で、葬送の帳面を見ている。掘り仕事の頃合いに集まった数名分の死亡。熱病。転落。作業中の事故。説明の短すぎる欄。筆は、止まって、また動いた。項目の脇に、必要の理由が書き添えられていく。
「山裾の帳面は、礼拝所から動かしません」
セヴランが静かに言い添えた。
「あれは村の弔いの記録で、査定の道具ではありません。ここで求めるのは、事業の側に残っているはずの記録です」
ゲルハルトは、付属書の控えへ目をやった。
「神殿を巻き込む形になるが、いいのか」
「巻き込まれたのは、勧告が査定の根拠に使われたときからです。私はその使われ方を、正しに行くだけです」
セヴランの答えは、いつもの抑えた声のままだった。
ケインは、自分の調べの記録の束を思った。日ごとの頁の端には、分からないまま残した欄がある。誰が掘ったのか。どこまで掘ったのか。なぜ埋め戻したのか。四つの請求は、あの欄の空白を一つずつ埋めるためのものだった。自分たちが地形から起こし直したものの、元の形を書いた記録が、どこかにはある。二番目の条件は、それを求めるなと言っていた。
「神殿からも、一枚出します」
セヴランが言った。
セヴランは、持参した挟みから付属書の控えを出し、卓へ置いた。
「査定が、神殿の勧告に反する立入りを項目にしている以上、神殿側の見解も資料として揃っている必要があります。私は回答書の付属書に、この目で確かめた三つのこと——掘削と埋め戻しがあったこと、沈着物を辿って坑道跡を見つけたこと、工事が中を掘り返さず、水を外へ逃がすものであること——を、現認として署名しました。当初の勧告と、その後の付属書。両方を査定の資料とするよう、神殿の名で書面にして求めます。あわせて、過去の記録の提示、閲覧、照会を求めないことは神殿の勧告の内容ではないと、書面に明記します。古い勧告だけを根拠に裁かれるのは、神殿としても本意ではありませんので」
アリアが頷き、綴じる順を書き留めた。それから四つの項目を、上から順に読み上げる。ゲルハルトは目を閉じて聞き、二箇所だけ言葉を直させた。命令、を、御下命、に。求める、を、お願い申し上げる、に。求める中身は、変えなかった。
計画のことにも、短く触れた。
「回復の計画は、一通りで済むようになりました。加算がある前提で、期限までに仕上げます」
条件への回答のほうは、確約しない旨と理由の一文だけの、短い書面になった。
夕刻、清書された三通が執務室の卓に並んだ。条件への回答、資料の請求書、それに神殿の書面。ゲルハルトが二通に署名して男爵印を押し、神殿の書面にはセヴランが署名して小神殿の印を押した。封は、それぞれの蝋で閉じられた。伯爵家の赤とは、どちらも違う色だった。
オスヴァルトは照合を中座して上がってきた。回答の書面を先に読み、書記に受取日を書かせる。それから請求書を取り上げ、上から目を通していった。
一行目、二行目、三行目。目の動きは変わらない。
四行目で、止まった。
書記が、筆を持ったまま待っている。仕切りの向こうから、数字を読み合わせる声が続いていた。
やがて目は文面の終わりまで動き、オスヴァルトは請求書を卓へ置いた。受取日を書かせる。神殿の書面は最後に受け、これも読み終えてから、受取日だけを書かせた。異議の併記は、なかった。
「三通とも、伯爵家へ送ります。査定に必要な資料の請求として、手続きに不備はありません」
「頼む」
「……返答までの日数は、私には分かりません。行政の便の早さは、私の決めることではありませんので」
「承知している。待つのは、慣れた」
オスヴァルトは三通を書記の挟み板へ収めさせ、照合へ戻っていった。
日が落ちる前に、監察官の一行は中心集落の宿へ引き上げていった。書記の挟み板には、条件への回答と、四項目の請求書と、神殿の書面が収まっている。伯爵家への便は、随行の一騎が明日の朝に発つという。
見送りに出たケインは、門の前で、砂利を蹴る音が坂を下っていくのを聞いた。蹄の音は、じきに聞こえなくなった。
記録室では、照合の初日が終わろうとしていた。オットーが突き合わせの済んだ帳面へ札を移し、アリアが明日へ回す分を分けている。ハインツの受取の記録は届き、ヨルグの分は明日になるという。
アリアは最後に、三通の控えを綴じ、記録庫の棚へ運んだ。回答書の控え、条件の写し、問いの控え。その隣に、今日の三枚が並ぶ。出ていった紙の控えばかりが増えていく棚を、アリアはしばらく見てから、扉を閉めた。
ケインは離れへ戻り、明日の巡回の順を書き付けた。外れの牧場を朝に回し、南原は昼からでいい。書き付けた紙の隅には、三日前に打った点が残っている。ケインはその横へ、今日の日付だけを足した。
夕食の席で、ゲルハルトは照合の段取りと、週明けの上納帳の締めの話をした。マルタの伝えでは、イレーネの食欲は続いていて、卓へ並ぶ皿が一枚増えたという。ゲルハルトはそれを聞いて、一拍だけ手を止めた。断ったことには、誰も触れなかった。
食後、ケインが廊下で頭を下げると、ゲルハルトは短く言った。
「明日も、頼む」




