↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
41/44

第41話 山をやめれば

 西日が卓の半ばまで届いたころ、ゲルハルトは手を伸ばした。


 封蝋を確かめ、小刀を差し入れて紐を切る。中に入っていたのは、折りたたまれた一枚の紙だった。返書のような別紙の束はない。ゲルハルトはそれを開き、黙って目を通した。


 誰も口を挟まなかった。オスヴァルトも、書記も、箱の左右の随行も、卓の端のケインも、読み終わるのを待った。


 ゲルハルトは顔を上げた。


「読む。アリア、写しを一枚、頼む。原本は封と一緒に記録庫へ入れて、検討には写しを使う」


 アリアが新しい記録紙を引き寄せた。


「一つ。山への立入りの禁止を、領として正式に受け入れること。坑道跡と、その周りでの調べを、すべて止めること」


 アリアの筆が動く。ゲルハルトは、筆の音が止むまで待ってから、文面へ目を戻した。


「立入りの禁止そのものは、すでに命令として受けている。……これは、領の側から確約し直せ、という求めだな」


 オスヴァルトは答えなかった。ゲルハルトも、それ以上は求めずに続けた。


「二つ。十数年前の掘削の事業について、今後、記録の提示も、閲覧も、照会も求めないこと」


 声が、そこで止まった。ゲルハルトは目を上げないまま、同じ行を黙ってなぞり直している。アリアの筆が追いつき、書き終えても、間は続いた。


 ケインは、卓の向こうのオスヴァルトを見ていた。監察官は身動きひとつしない。止めもせず、促しもしない。ただ待っている。


 ゲルハルトは先へ進んだ。


「三つ。先の二つを書面で確約した場合、上納の遅れについて、期限の延長と、遅れへの加算の免除を認める。四つ。確約がない場合、査定は通常のとおり進め、上納の遅れは、領主の統治の問題として上位へ報告する。……以上だ」


 書面が卓へ戻った。その上で、ゲルハルトの指は二行目に残っている。箱の脇で、随行の一人が手元の控えへ短く筆を走らせた。西日は、もう卓の端から落ちかけていた。


 ゲルハルトはオスヴァルトを見た。


「これは、あなたの前で読んでよいものだったのか」


「中身は、私も知らされていません。お読みになるかどうかは、男爵のご判断です」


 オスヴァルトの答えは、いつもの速さだった。


「私が言いつかっているのは、二つだけです。ご回答は書面で受けること。期限は七日後——回復の計画と、同じ日であること」


「計画を出す日に、これへも答えろということか」


「はい」


「確約する場合、書面には何を書けばいい」


「定めは伺っていません。ご回答の形式も、男爵のご判断です」


 ゲルハルトは写し終えたアリアの手元を一度見て、頷いた。


「分かった。期限のうちに、書面で答える」


 オスヴァルトが一礼した。随行の二人が革張りの箱へ記録紙と筆記具を戻し、二つの鍵がそれぞれの手で掛けられる。一行は査定のあいだ、中心集落の宿に留まるという。扉の外で、ギルが道を空けるのが見えた。


 足音が遠ざかると、ゲルハルトはアリアへ言った。


「夜に、記録室へ。ドルフとオットーも呼んでくれ。それから——セヴラン祭司に、使いを出してほしい。写しを見てもらいたい」


「はい。夕食のあとに揃うよう、伝えます」


 執務室には、条件の紙と、写しの一枚が残った。



 夜、記録室の長卓に灯が二つ置かれた。


 ゲルハルトとアリア、ケイン、ドルフ、それにオットー。遅れて、外套の肩を夜気で冷やしたセヴランが入ってきた。使いを受けて、小神殿から上がってきたのだった。条件の写しがセヴランの前へ回され、祭司は座る前に一度、座ってからもう一度、上から下まで読んだ。


 最初に口を開いたのはドルフだった。


「先に、金の勘定から言っておきます」


 オットーが開いた帳面を、ドルフが指で押さえた。


「上納の遅れには、加算が付く決まりです。遅れた分へ上乗せして納める。これが消えるのは大きいです。期限が延びるなら、秋の収穫をまともな値で売ってから納められます。急いで売り叩かなくて済むでしょう」


「予備費は、工事でほとんど使い切った。加算まで払うとなれば、どこかの人手を削るしかない。冬の前に、誰かの仕事を切るということだ」


 ゲルハルトが言った。その勘定は、この場の全員が知っていた。


「村へ、これ以上の負担は頼めません」


 アリアが静かに言った。


「交代労働で、どの村にも借りがあります。賦役を増やす道は、ないものと考えてください」


「呑んじまえば、領は楽になります。正直な話、そちらに傾いてます。山はもう塞いだ。水も逃がした。これ以上あの山をつついて、何の得があるんです」


 ドルフの言い分は、乱暴なようで、筋が通っていた。


「期限のことも、言っておかなければなりません」


 アリアが手元の記録紙を開いた。


「回復の計画と、条件への回答は、同じ七日後です。そして計画の数字は、条件を呑むかどうかで変わります。加算があるかないかで、納めの順も、売る時期も変わりますから。……七日ぎりぎりまで迷えば、計画を二通り作ることになります。実際に使える日は、七日より短いと思ってください」


 オットーが、帳面の端へ日数を書き留めた。ゲルハルトは腕を組んだまま動かない。アリアが写しへ目を落とす。


「一つ目は、分かります。あの場所が危険なのは本当ですし、工事は終わっていて、いま調べを続ける差し迫った理由は、わたしたちの側にもありません」


 アリアの目が、写しの二行目で止まった。


「ただ……二つ目には、理由が書かれていません」


「理由なんぞ、どれにも書いてねぇでしょう」


「一つ目は、危険から人を守るためと読めます。三つ目と四つ目は、取引の形そのものです。でも二つ目だけは、何のためなのか、どう読んでも組み立てられません」


 ケインは、回ってきた写しを見ていた。


 山を調べた日々のことを思い出していた。旧い記録は、一枚もなかった。どこを掘ったのか。どこまで掘ったのか。なぜ埋め戻したのか。何も分からないまま、沢を下流から遡り、反応の出る境目を探し、歩数で距離を置き、輪郭だけの絵を描いて、地形から全部を起こし直した。滲み、窪み、東の縁。呼び名さえ、自分たちで付けるしかなかった。どこに口があるのかも知らないまま、埋め戻しの縁を測り、囲いの縄をどこへ張るかを決めるまで、幾日も危険のそばへ通った。


「……記録があれば、と思ったことなら、あります」


 ケインは言った。


「山を調べたとき、旧い記録は何もありませんでした。あれば、調べは何日も短くて済んだし、危険な場所へ近づく回数も減らせた。どこを掘ったのかが分かっていれば、囲う範囲を、最初から正しく引けたはずです」


 灯りの向こうで、セヴランが顔を上げた。ケインは続けた。


「人を山の危険から守りたいなら、旧い記録は、封じるものじゃありません。開くものです。一つ目が安全のための条件なら、二つ目は、安全に反している。同じ紙の中で、二つの条件が、逆を向いています」


「調べを続けたい、という話ではないのだな」


 ゲルハルトが訊いた。


「はい。いま調べを続ける理由は、僕にもありません。囲いはできていて、水は逃げています。……ただ、守るための条件だと言うなら、二つ目は形が逆だ、というだけです」


 ドルフが帳面から手を離し、写しを引き寄せて、二行目を読み直した。


「……守るためだってんなら、絵図の一枚も回してくるのが筋でしょうに」


 誰も答えなかった。ドルフは写しを卓へ戻し、今度は四行目を指で叩いた。


「それと、四つ目はただの脅しじゃありません。統治の問題と書かれた紙が、上に残る。それがあとで何に効いてくるかは、こっちからは見えません」


 アリアが続けた。


「もう一つ、あります。査定でわたしたちは、山の調べの記録まで、すべて提出します。向こうは、自分の側の記録を、照会することさえ許さない。……そういう形になっています」


 帳簿を突き合わせるときと同じ声だった。


 セヴランが言った。


「記録を出せ、という求めなら、職務でいくらでも受けてきました。いまのこの査定も、そうです。……その逆は、初めて見ました」


 ケインは、アリアたちのやり取りを聞きながら、写しの一行目と二行目を並べて見ていた。向きは逆に見える二つの条件が、同じ一つのことを禁じている。これから知ることと、すでに書かれたこと——山の中身を知る道が、両側から塞がれている。


 条件を書いた側は、記録に何があるかを知っている。


 ケインは口には出さず、手元の記録紙の隅へ、小さく点を打った。


 ゲルハルトは、セヴランへ顔を向けた。


「神殿として、一つ目を呑むことに障りはあるか」


「立入りを控えること自体は、当初の勧告と同じ内容です。障りはありません」


 間を置かずに、セヴランは続けた。


「二つ目は、神殿の求めたことではありません。これは、はっきり申し上げておきます」


 ゲルハルトは頷き、長いあいだ写しを見ていた。


「呑めば、楽になる。それは、そのとおりだ。呑まない理由を、私はまだ、言葉にできん」


 卓の灯が一つ、芯を短くして暗くなった。オットーが立って、灯りを直す。


「……だが、答える前に、確かめておくことが一つある」


 ゲルハルトは写しを畳んだ。何を確かめるのかは、言わなかった。アリアが何かを問いかけて、やめた。


 散会になると、セヴランは夜道を小神殿へ下りていった。ケインは写しを記録庫へ運び、回答書の控えの隣へ収めた。棚の上で、伯爵家から来た紙と、領から出ていった紙の控えが、同じ紐で括られて並んでいる。


 灯りを消す前に、ケインは写しの四行を、もう一度だけ見た。



 翌朝、オスヴァルトは書記を一人連れて領館へ来た。明後日に始まる帳簿の照合に使う部屋と、写しを作る段取りを決めるためだった。ハインツからは、受取の記録が二日で揃うという返事が届いており、アリアはその日付を照合の日程へ書き足した。ヨルグからは、まだない。


 部屋割りと立ち会いの順が決まると、ゲルハルトはオスヴァルトを執務室へ招いた。アリアとケインが同席する。ケインは、条件の写しと、照合の部屋の一覧を持たされていた。


「条件は、預かった。期限までに、こちらの答えを書面で出す」


「承りました」


「そのうえで、一つ、正式に訊いておきたい」


 ゲルハルトは、用意していた一枚の紙を卓へ置いた。文面は昨夜のうちに清書され、末尾にはゲルハルトの署名と男爵印がある。短い問いが、二行に分けて書かれていた。


「山への立入りを禁じる命令は、そもそも、何を根拠に出されたものか。この領は、あの命令について、根拠の説明を、これまで一度も受けていない。神殿の勧告とは別に、主家の命令として、説明のないまま今日まで来ている。それを、正式に問う」


 オスヴァルトは、卓の上の書面を見た。二行の文面を読むには長すぎる時間、視線はそこにあった。


 答えるまでに、間があった。ケインの知る限り、この男の返答に間が空いたのは、初めてだった。


「……根拠は、私にも知らされていません。命令を文書にしたときも、いまも、です」


「あなたに問うているのではない。伯爵家に問うている。この紙を、上へ届けてもらいたい」


「……この問いへの答えを、条件へのご回答の前提になさいますか」


「しない。期限は期限として守る。問いは、問いとして残す」


「お預かりします」


 オスヴァルトは紙を取り上げ、両手で書記の挟み板へ渡した。


「いつ、どのような形で返答が来るかは、私には分かりません」


「それでいい。預けたことは、こちらの控えにも書いておく」


 回答書が、参加者の記録が上っていったのと同じ道を、今度はこちらからの問いが上っていく。挟み板の留め金が鳴る音が、朝の執務室に短く残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。