第39話 いつもの仕事
木剣が手を離れるのは、今朝も変わらなかった。
土へ落ちる音を聞きながら、ケインは半歩下がった。ギルの間合いから外れ、相手の肩を見たまま腰を落とす。それから足元を探り、二度目で柄を掴んだ。
「拾うときも、俺を見ろ」
「はい」
「背を向けたら、拾った剣ごと斬られる」
構え直すより先に打ち込まれた。受けた木剣が手の中で跳ね、今度は落とさずに済んだ。だが、次の一撃で指が開いた。
「今日はそこまでだ」
ギルが木剣を下ろした。ケインは息を整え、落とした一本を拾う。回数は減っていない。落としたあと、立ち尽くすことだけがなくなった。
東の空は白み始めたばかりだった。領館が動き出す前のこの時間を、ケインは自分で稽古に充てている。診療や記録が増えてからは、そのぶん起きる時刻を早めた。今朝も、領館の鐘が鳴る前に木剣を握った。
ギルが木剣を腰の輪へ戻しながら言った。
「心が落ち着いてきたようだな」
「はい。先日、ゲルハルト様とアリア様に話ができて、少しすっきりしました。でも、どうして分かったんですか」
「剣は、人の心を写すものだからな」
そう言うと、ギルはケインの右手を見た。
「ただ、握りが甘いから剣を落とす。明日は握りから直すぞ」
「はい、お願いします」
木剣を軒下へ立てかけると、領館の鐘が鳴った。いつもの一日が始まる。
♢♢♢♢♢♢
朝食のあと、ケインはアリア、ギルとともに馬車へ乗った。南原は今日、もともと再訪する予定だった。水場を替えた群れの食欲と乳量を見直し、必要なら一泊する。そのための記録も荷に入っている。
南原へ着いたのは、昼が近くなってからだった。馬車が止まるより先に、ノラの世話をしていたエミルが小屋から駆けてきた。
「三日前に仔を産んだメルです。昨夜までは歩いていました。今朝、小屋へ行ったら倒れていて、起こそうとしても脚に力が入らなくて」
「難産でしたか? 仔牛は?」
「手は借りましたが、引くほどではありませんでした。仔牛は元気です」
アリアが馬車から降り、持参した束を開いた。
「メルは、南原で経過を追っている三頭のうちの一頭です。前回の報告では、食欲と反芻に変化はありません」
「出産の記録はありますか」
紙を二枚戻したところに、三日前の日付があった。母牛の名はメル。出産後に食欲あり。飲水あり。仔牛の吸乳あり。昨日の夕方から、家で使う分の搾乳を始める予定だと書かれている。
急に始まり、出産の直後で、乳の出が増えたあとに立てなくなった。頭に浮かんだ病名を、ケインはまだ口にしなかった。
ベルントが小屋の戸を開け、ケインたちをそのまま中へ通す。
牛は右側を下にして横たわっていた。頭だけが敷き藁の上に伸びている。腹が呼吸に合わせて浅く動き、鼻先には泡を含んだ涎が付いていた。
「いつから、この向きですか」
「見つけたときからです」
「先に起こします。胸を下にして、首を前へ。腹が張り始めています」
ギルがアリアを牛の脚が届かない側へ下げ、牧夫二人に立つ位置を示した。二人が身体を支え、ケインは頭と首を取る。牛の巨体を胸の上へ起こし、両側へ藁束を詰めた。左の腹は、すでに右より張っていた。指で弾くと、皮の奥から高い音が返る。
牛は首を保てず、また脇腹へ曲げようとした。耳の先が冷たい。歯の根元は白っぽく、脈は速いのに弱かった。胸へ耳を当てる。心音は遠く、脇腹から待っても腹の動く音が来ない。
「糞と尿は出ていますか」
「朝は、まだ何も」
「産んだあと、胎盤は出ましたか。悪い臭いのするものは」
「その日のうちに出ました。そのあと出ているものも、いつもと変わりません」
乳房を触る。張ってはいるが、熱を持った硬い区画はない。乳頭から少量を搾って白い布へ受けても、血や塊は混じらなかった。四肢を上から下までたどり、腫れ、熱、骨のずれを探す。後肢を曲げ伸ばししても、片側だけに強い抵抗はない。出産時の神経損傷や骨盤の損傷は残るが、昨夜まで普通に歩いていた経過とは合いにくい。
「立たせようとしたとき、脚はどうなりましたか」
「前脚は突いたんですが、後ろがついてこなくて」
ケインは牛の目の前で指を動かした。目は追う。呼びかければ耳の根元が動く。だが、頭を上げ続ける力がない。
「産んだのは、これで何度目ですか」
「四度目です。いちばん乳を出す牛です」
出産から三日。四産目。よく乳を出す牛。急な起立不能。冷たい耳、弱い脈、止まった腹。
ケインは乳熱を疑った。血の中のカルシウムが、乳へ移る速さに補充が追いついていない。前世なら、血管を取り、心臓の音を聞きながらカルシウム液をゆっくり入れる。正しく処置できれば、立つまでに何時間もかからないことが多い。
ここには、その液も、針もない。
ケインはベルントとエミルへ向き直った。
「診た所見から、乳熱を疑っています。産んだあと、乳へ出ていく分に身体の補いが追いつかず、筋肉を動かす力が落ちている状態です。このまま待つことはできません」
♢♢♢♢♢♢
「何をすればいいですか」
エミルが訊いた。
「口からは何も飲ませないでください。今の状態では、うまく呑み込めず、肺へ入るおそれがあります。別の方法を使います」
仔牛も別の囲いへ移し、乳を吸わせない。
ケインは乳房を見た。
獣医だった頃には使わなかった方法がある。薬が普及するより前に、乳熱の牛を立たせるために使われた古い方法。乳房へ空気を入れて内側から圧をかけ、乳の分泌を抑える。身体が自分で持ち直すまでの時間を作るための処置だった。
効果はある。だが、乳房へ汚れを入れれば、今度は乳房炎を起こす。
「細い管はありますか。乳頭の口へ入る太さで、内側が空洞のものです。それから小さなふいご。湯を多く沸かしてください。清潔な布も」
牧夫たちが走った。搾乳小屋から、仔羊へ乳を飲ませるための細い管が出てきた。木管の先へ、磨いた鳥の羽軸を継いで使うものだった。替えの羽軸も何本かある。ふいごは炉へ風を送る大きなものしかなく、代わりに革袋の口へ細い筒を付けた道具が運ばれた。
ケインは鍋の湯が沸くまで待ち、管と羽軸を沈めた。革袋から送る空気は、折り重ねた清潔な布を通す。乳頭と手も、冷ました湯で丁寧に洗った。
「今から、乳房へ空気を入れます」
ケインはベルントとエミルの双方へ説明した。
「本来なら、足りないものを血へ直接補います。ですが、ここにはその薬も、血へ入れる道具もありません。代わりに、乳の出方を一時的に抑え、身体が持ち直す時間を作ります。うまくいけば、脚へ力が戻ります。ただし、乳房の中へ汚れが入れば、熱を持って腫れ、乳が出なくなることがあります。今できる中では助かる見込みが高い方法ですが、安全ではありません」
「やらなければ」
「腹がさらに張り、頭を支えられなくなります。そうなれば、長くはもちません」
ベルントは横たわるメルを見た。仔牛の鳴き声が、板壁の向こうから聞こえる。
「やってくれ。助けてやってくれ」
ケインは頷いた。
最初の乳頭から少量だけ乳を搾り、もう一度先を洗った。煮沸した羽軸を冷まし、入口へ傷をつけないよう浅く入れる。ギルが牛の後肢を見張る位置につき、アリアが革袋を押した。空気が布を通り、細い管を抜ける。
「ゆっくりです。止めて」
乳房へ手を当て、張りを確かめる。一度に入れない。区画を変えるたび、羽軸を湯へ戻し、別のものと替えた。四つを終えるまでに、ケインの背へ汗が流れた。
管を抜き、幅のある清潔な布で乳頭の根元を軽く留める。強く縛らない。
「日が西へ傾き始めたら外してください。外したあと、熱や腫れ、乳の変化がないか確かめます」
アリアが、布を外す目安と、そのあとに確かめる項目を書いた。
待っているあいだも、することはあった。腹の張りを確かめ、呼吸を数え、脈に触れる。身体の重みで脚の筋肉と神経を傷めないよう、敷き藁を足す。頭が落ちれば支え直す。短い間を置くたびに、左右の耳と脈、腹の音を記録した。
最初に変わったのは耳だった。
「さっきより、冷たくありません」
アリアが自分でも触れてから言った。
ケインは胸へ耳を当てた。心音はまだ速い。だが、一つ一つの音が近くなっている。腹の奥で、短い音が一度した。
メルが首を持ち上げた。
「起こすぞ」
牧夫が腰へ手を回そうとする。
「まだ引き上げないでください。自分で前脚を出すか見ます」
メルは前脚を胸の下へ寄せた。鼻先を突き出し、肩を起こす。後肢の蹄が藁を掻いた。
一度、腰が浮いた。
次の瞬間、後肢が外へ滑った。巨体が傾き、牧夫たちの腕へ落ちる。ケインは頭を抱えて床への衝突を避けた。
「押さえ込まないで。胸の姿勢へ戻します」
牛の息が荒い。だが、目は先ほどより開いていた。
「立てなかった……」
「立とうとしました」
ケインは後肢をもう一度触った。左右とも曲げる力が戻り始めている。片側だけの麻痺ではない。処置への反応も、考えた病気と合う。
「次はこちらから立たせません。力が戻るまで待ちます。床の藁をどけて、滑らない土を出してください」
アリアは新しく作った欄へ、耳の温度、脈、腹の音、頭を落とした回数を書き込んでいく。ケインはその横で、変化を一つずつ見た。
メルが鼻先を水桶へ伸ばした。ケインは桶を近づけたが、口へは流さなかった。牛は自分で水を舐め、二口、三口と飲んだ。
しばらくして、前脚が再び胸の下へ入った。
今度は誰も手を出さなかった。
メルは頭を低く伸ばし、前半身を持ち上げた。後肢の一方が土を踏む。腰が揺れ、膝が一度落ちた。もう一方の蹄が前へ出る。
四本の脚が、身体の下に揃った。
エミルが息を吐いた。
「立った……」
メルはまだ脚を震わせている。ケインはすぐには近づかず、立ったことをアリアへ告げた。
「今日は搾らず、仔牛もまだ戻さないでください。自分で水を飲み、草を食べるところまで見ます。布を外したあとの熱、腫れ、乳の変化も記録します。今夜また倒れるかもしれません」
♢♢♢♢♢♢
日が西へ傾くまでに、メルは水を飲み、ひとつかみの草を食べた。ケインは南原へ泊まることにした。夜半までの観察を牧夫へ任せきりにはできない。
メルが立っていられるのを確かめてから、ケインたちは隣の区画へ移った。本来、今日診るはずだったノラが、餌箱へ首を入れている。
アリアは持参した記録の束から、ノラの紙を抜いた。黒い跡の位置、食べた草の量、水を飲んだ回数、反芻、排便、乳量、立っていられた時間が、日ごとに並んでいる。
ケインが近づくと、ノラは餌箱から顔を上げた。脇腹の毛を分ける。黒い跡はまだ見えたが、以前はどこまでが跡か決められなかった縁が、今は毛の下に細く収まっている。
首の皮をつまむと、すぐに戻った。口の中も湿っている。脈を取り、腹の音を待つあいだ、ノラは立ったまま草を噛んでいた。やがて一度呑み込み、またゆっくりと顎を動かし始める。
アリアは今日の欄へ、食欲、飲水、反芻、立位と書き入れ、黒い跡の縁が狭くなっていることを添えた。
アリアとギルは先に領館へ戻り、明日の巡回を組み直す。馬車へ乗る前、アリアは記録紙をケインへ見せた。
メルの紙には、処置、脈、耳、腹の音、飲水、姿勢の欄が増えていた。同じ項目を、処置の前後で横に比べられる。ノラの経過は、以前から使っている紙に続けてあった。
「メルの経過は、この形で続けます」
「ノラの記録とは分けてください」
「はい」
アリアはノラの紙を束へ戻し、メルの紙を挟んだ板と、ペン、インク、予備の紙をケインへ渡した。
「明朝、迎えを出します。それまでに変化があれば、先に使いを」
「お願いします」
馬車が出たあと、ケインは小屋へ戻った。メルは立ったまま、仔牛のいる板壁へ鼻を寄せていた。
♢♢♢♢♢♢
翌朝、メルは自分の脚で立っていた。
夜半に一度、胸を下にして休んだが、そのあとも人の手を借りずに立ち上がったと、壁の紙に線が引かれている。水は夜のうちに三度飲み、草も少しずつ減った。敷き藁には糞が落ちていた。
ケインは耳に触れ、脈を取り、腹の音を待った。耳の先まで温かい。脈は昨日よりゆっくりで、一つずつ強く触れる。脇腹の奥では、間を置きながらも腹の動く音が続いていた。メルは口へ戻した草を、ゆっくりと噛んでいる。
乳頭を留めた布は、日が西へ傾き始めたところで外されている。乳房の四つの区画を触っても、熱を持ったところや硬く腫れたところはなかった。メルは嫌がらず、後肢で腹を蹴ろうともしない。
「もう、仔牛を戻していいですか」
エミルが訊いた。板壁の向こうでは、別の牛の乳を飲ませてもらった仔牛が、母牛の声に応えている。
「まだです。日が高くなったら、乳を搾るときと同じように乳頭を扱って、残っている空気をゆっくり抜いてください。そのときに出た乳は使わず、量と状態を記録してください」
ケインは、四つの区画を一つずつ確かめるよう念を押した。
「そのあともメルが倒れず、水と草を取り続けて、乳房に熱や腫れが出なければ、夕方に仔牛を戻してください。戻したあとも乳房を見てください」
「分かりました」
ケインは記録紙の最後へ、再転倒なし、飲水三回、排便あり、反芻あり、と書き足した。乳熱の疑い。その下に、処置への反応はあったが、再発と乳房炎の観察を続ける、と記した。
今日から確かめる項目を別の紙へ写し、エミルへ渡した。
迎えの馬車が着くと、ベルントは畜舎の前まで出てきた。
「今度は、何を見ればいい」
ケインはエミルへ渡した紙の項目を、もう一度ベルントにも示した。ベルントは最後まで聞き、紙をエミルへ戻す。
「書かれたとおりに見ろ。変わったら、すぐ使いを出せ」
「はい」
馬車が南原を出るとき、メルは餌箱へ鼻を入れていた。
領館へ戻ったのは、昼を過ぎてからだった。ケインは南原の記録をアリアへ渡し、オットーがまとめた朝の報告に目を通した。急ぎのものはない。明日回る牧場を一つ入れ替え、南原から次の知らせが来るまでは、もとの予定へ戻すことにした。
♢♢♢♢♢♢
南原から戻って、一週間ほどが過ぎた。
そのあいだも、朝には木剣を握り、朝食のあとには届いた記録を読んだ。決めた牧場を回り、食欲の戻らない羊を診て、水場を替えた牛の乳量を確かめた。診たことと、次に確かめることを紙へ残し、一日の仕事を終えた。
南原から届く紙によれば、メルは順調に回復していた。水と草を自分で取り、横になったあとも自力で立ち上がっている。翌日の夕方には仔牛を母牛のところへ戻した。搾った乳の量は、食べた草の量と並べて記録されていた。
その日の午後、ケインは近くの牧場への巡回を終え、領館へ戻った。馬車を降りたところで、街道から蹄の音が聞こえた。
一頭ではない。街道の坂を、揃った速さで上ってくる。
門番が目の上へ手をかざした。先頭の騎手が掲げる細長い旗を見て、顔をしかめる。
「レーナー監察官だ」
前に来たときは、あれほどの数ではなかった。




