第38話 自分の口から
午後の陽光が小神殿を後にしたケインの身体を優しく包んでいた。
寂れた領地と言われてはいても、午後の中心集落はそれなりの活気に満ちていた。戸口の陰で女たちが繕い物を広げ、桶を提げた子どもが井戸の方へ駆けていく。工房からは、途切れながら木槌の音がする。ケインはその中を、領館へ続く坂の方へ歩いた。
どう切り出すかを、歩きながら考えた。伝える事実は決まっている。決まっていないのは順番だった。家名から言うか。照会から言うか。追放から言うか。並べ替えるたびに、どれかが言い訳のように聞こえた。
辻で、南原から用足しに出てきていた牧夫に呼び止められた。あの牛の食いが戻った、と礼を言われた。頭を下げる相手の後ろを、藁を積んだ荷車が通り過ぎていく。ケインは礼を返し、次に見に行く日を伝えた。
牧夫は用足しの続きへ戻っていった。やり取りのあいだ、呼ばれた名は、ケイン、だけだった。この領へ来てから、その先を問われたことはない。ゲルハルトも、アリアも、一度も問わなかった。
問われる前に、自分から言う。決めたのは小神殿の机の前だが、決めただけでは言葉にならない。順番に迷ったら、起きた順で話す。飼い主への説明と同じだと思うことにした。坂を上りきるまでに、最初の一言だけが決まった。
領館に着くと、ゲルハルトは領内へ出ていた。戻りは夕方になるという。
待つと決めると、時間は急に長くなった。離れへ戻り、今日の記録の束を開いたが、同じ欄を三度読んでいることに気づいて手を止めた。祭司の猶予は明日の朝まである。それを使い切る気は、最初からなかった。窓の外で、庭の影が伸びていく。
廊下の窓が西日で色を変えたころ、ゲルハルトが戻ったと使用人が知らせに来た。ケインは記録の束を置いて離れを出た。
執務室の扉を叩くと、入るように、と中から声がした。ゲルハルトは戻ったばかりらしく、留守のあいだに届いた記録紙をまとめて繰っていた。顔を上げ、入口のケインを見る。
「どうした。急ぎか」
「時間をいただけますか。仕事の話ではありません」
紙を繰る手が緩んだ。ゲルハルトは何も訊かず、机の前の椅子を目で示した。
「アリア様にも、聞いていただきたいことです。呼んでいただけますか」
ゲルハルトは廊下へ声をかけ、使用人にアリアを呼ばせた。待つあいだは残りの紙へ目を戻したが、新しい問いは挟まなかった。
ケインは勧められた椅子には掛けず、机の前に立って待った。
アリアが来た。呼ばれた理由を仕事と思ったのだろう、脇に観察表を挟んでいる。立ったままのケインと、紙から目を上げたゲルハルトを順に見て、何も訊かずに扉を閉めた。
ケインは二人が揃ったのを確かめて、口を開いた。前置きは短くした。
「今日、セヴラン祭司と小神殿でお会いしました。神殿に届いた照会への返答を、見せてもらいました。その紙に、僕の名前と、僕の家の名前が載っていました」
ゲルハルトの手が止まった。
繰りかけの紙の上で、指が動かないままになる。アリアが観察表を抱え直し、布の擦れる音がした。
ゲルハルトが口を開くより先に、ケインは続けた。
「祭司は、明日の朝まで報告を待ってくれています。領館への説明も、僕が先に済ませるまで待つと。……ですから、僕の口から、最初にお話しさせてください」
「僕の家は、西のリーデンという町で、領主に剣をもって仕える騎士家です。家の名は、グレアム。僕は、その家の三男として育ちました」
ゲルハルトは、手の中の紙を机へ置いた。何も言わない。目だけがケインへ向いている。
「兄二人は、グレアム家の息子らしく、剣の才が与えられ、父も期待を寄せていましたが、僕はそうではありませんでした」
うつむきながらも、はっきりとした口調でケインは続けた。
「グレアムの屋敷では、夜明け前から稽古が始まります。僕は誰より早く庭へ出て、人並みには打ち込みました。それでも、上達らしい上達もせず、できたのは手の豆くらいでした。だから長兄からは憐憫を、次兄からは嘲笑を受けてきました」
ゲルハルトの視線が、ケインの手へ一度下りた。いままた稽古で固くなり直した掌を、ケインは開かずにおいた。
「それに加えて、なぜか家の中では、僕と長く目を合わせる者はいませんでした。使用人は用件だけを言って下がる。廊下ですれ違っても、声はかからない。理由を訊いたことはありますが、答えられる者はいませんでした」
言い方に、恨みは乗せなかった。乗せるほどのものが、もう残っていない。ゲルハルトも、口を挟まずにいる。
「父からは、努力が足りないと言われてきました。剣も人からの対応も、僕が未熟だからだと、考えていたのだと思います。母だけは、そんな僕にも優しく接してくれていました。剣だけが生きる道ではないって何度も言われたことを覚えています。その母も僕が八歳のときに病で亡くしてしまいましたが……」
ケインは少しだけ言葉に詰まった。
「この春、リーデンの小神殿で成人の儀を受けました。父にはその日の朝、恥をかかせるなと言われました。でも残念ながら、水晶に出た表示は、神官の誰にも読めないものでした。どの系統にも当てはまらず、等級もつけられない。神殿の記録には、判読不能、系統不明、ランク外と残っています」
アリアは静かに聞いていた。この結果を、彼女は前から知っている。ケインが祭司の前で明かしたとき、隣にいたのも彼女だった。観察表を胸に抱えたまま、いまはケインではなく、父の方を見ている。
「儀式の翌朝、父に呼ばれて、家を出るように言われました。欠陥ギフトである以上、家に置く理由はない、グレアムの名は頼るな、と。父は、そう判断しました」
一度、言葉が切れた。ゲルハルトは待った。
「執務室へ入ったときには、旅支度が机の脇にまとめてありました。古い外套と水袋、パンを包んだ布、刃の欠けた短剣。僕が何を言っても変わらないところまで、進んでいました。……驚きは、しませんでした」
可能性で剣は振れん。儀式の日に父が言った言葉は、口にしなかった。
ケインは息を一つ置いた。ここから先は、言葉を選びながら話すと決めてある。森で起きたことのうち、確かめられた事実だけを並べる。覚えていない、とは言わない。
「家を出て、西の森を歩いているあいだに、魔獣に襲われました。傷を負ったまま歩いていて、雨で立ち往生していたアリア様たちの馬車に行き合いました。そこから先は、お二人がご存じのとおりです」
話し終えるまで、長くはかからなかった。十五年ぶんにしては、短い報告だった。
「セヴラン祭司は、巡察の職務として、僕の鑑定の記録をリーデンの小神殿へ照会していました。今日見せてもらった返答書には、儀式の年と場所、僕の名前、それから当時の所属家として、グレアムの名が載っていました。祭司はその結果を、地方中枢神殿へ報告します。ゲルハルト様がそれを、僕以外の誰かから聞く形にはしたくありませんでした」
ゲルハルトは、最後まで一度も口を挟まなかった。机の上で手を組んだまま、聞き終えても、すぐには動かなかった。
窓の外で、日はまた一段低くなっていた。
沈黙を破ったのは、ゲルハルトだった。最初の問いは、追放についてではなかった。
「その返答書は、この先どこへ行く」
「祭司が報告書を書き、地方中枢神殿へ送ります。照会の条件と、届いた回答と、こちらの再鑑定の記録に一致した箇所が載ります」
「神殿の記録には、何が書かれるのか知っているか」
「再鑑定の記録に、追記が入ります。もとの記録は消さずに、末尾へ日付と、リーデンの原本と表示が一致したこと、当時の所属家がグレアム家であったことが書かれます。追放されたことは、書かれません。神殿が確認した事実ではないから、と」
表示の扱いと、誰が読める記録になるのかも、ゲルハルトは順に確かめた。書かれるのは、二度の表示が同じ形だったというところまでで、意味には触れないこと。誰にでも見せる記録ではないが、必要な職務に就いた者が照会すれば確認できること。ケインは、セヴランから聞いたとおりに答えた。
ゲルハルトは頷かず、机の一点を見たまま、答えを順に収めていくようだった。家畜の報告を聞くときと、同じ顔だった。なぜ黙っていた、という問いを、ケインはどこかで身構えていた。その問いは、来なかった。
「提出は、いつだ」
「明日の朝です。祭司は、僕がお二人へ話すのを待ってから出すと言っています」
アリアは口を挟まないまま、父の横顔を見ていた。
ゲルハルトはそこで初めて、机からケインへ目を戻した。
「一つだけ訊く」
短い間があった。
「戻る気はあるか」
答えは、決まっていた。それでも、声になるまでに一拍かかった。
「ありません」
言ってから、ケインは自分の右手へ目を落とした。今朝も木剣を握った掌だ。豆の位置は、あの屋敷の稽古場で固まった場所と、ほとんど変わらない。十五年は、手の中に残っている。戻る場所には、残っていない。
「そうか」
ゲルハルトは、それ以上を訊かなかった。追放の是非も、父親の判断も、口にしなかった。代わりに、机の上の紙を脇へ寄せ、椅子から立った。
「では、こちらで書いておくものがある」
記録室の窓は東向きで、この時刻にはもう暗かった。アリアが燭台に灯を入れ、卓の上を空ける。ゲルハルトは廊下で使用人を呼び止め、二つ言いつけた。ドルフがまだ領館にいるなら記録室へ。それから、提出のときに領館へ残した、山の回答書の控えを記録庫から。
ドルフは、夕方の報告を届けに来ていたらしい。すぐに現れ、戸口から室内を一度見回して、黙って卓の端に着いた。
「書き付けを一枚作る」
ゲルハルトが言った。運ばれてきた回答書の控えを、卓の中央へ置く。
「作法はこれと同じだ。誰が何を頼み、誰が何をして、誰が責任を持つか。書くのはそこまでだ」
アリアが新しい紙を広げ、ペンを取った。清書は彼女の役目になっている。
ゲルハルトが挙げ、アリアが書き並べていく。家畜の診療。各地の症例と、飼料や水場との突き合わせ。工事のあとの経過の確認。記録の取り方と見方の引き継ぎ。それらを、領主の依頼として引き受けていること。領家が滞在を認めていること。
山の調査と遮断の工事のことは、新しく書き起こさなかった。どの範囲を調べ、どの工事を行い、責任がどこにあるか。すでに署名のある回答書が答えている。アリアは控えの日付と表題を引いて、一行で結んだ。
ケインは、卓の斜め向かいからそれを見ていた。診療。突き合わせ。経過の確認。引き継ぎ。引き受けると答えた仕事が、灯りの下で、自分の名の下に一行ずつ並んでいく。ペン先の音が、行の数だけ続いた。
「決めた日の巡回だけですかい。夜中の呼び出しが抜けてます」
ドルフが言った。
「入れる」
ゲルハルトが答え、アリアが行を足した。急な求めに応じる診療。
「引き継ぎは、相手も書いた方がいい。オットーと、牧場の者。誰に教えるのか分からねえ引き継ぎは、続きません」
アリアがまた行を直す。ドルフはそれ以上は言わなかった。項目を目で数え、足りない分だけを短く足させていた。
「これは、誰に出すもんですかい」
最後にドルフが訊いた。
「誰にも出さん。訊かれたときに、紙で答える。口で答えるより速くて、変わらん」
ゲルハルトの答えは短かった。ドルフは頷きもせず、卓の紙へ目を戻した。
アリアが日付と表題を書き入れ、清書を終えて、紙の向きを変えて卓の中央へ滑らせた。ゲルハルトは行を目で追い、末尾に署名して、男爵印を押した。それから、紙をケインの前へ回す。
「お前もだ」
ケインはペンを受け取った。並んだ項目の下、当主の署名の隣に、ケイン、と書いた。
その先に、欄はなかった。
インクが乾くのを待って、書き付けは回答書の控えとともに記録庫へ収めることになった。ドルフが先に席を立ち、灯りを一つ持って出ていく。窓の外は、もう夜の色だった。
離れへ戻るころには、領館の窓の灯りも半分は落ちていた。
ケインは机に灯りを置き、椅子へ座った。いつもなら今日の記録を広げる時間だが、読みかけの束は夕方のうちに紐を結び直してある。ほかに、机へ載せるものはなかった。
今日はもう、診るものも、測るものもない。手が空くと、昼間の執務室が戻ってきた。言い残したことがないかを、癖で探してしまう。診察のあとに、伝え忘れた注意がないかを数えるのと同じだった。見つからないことを確かめて、それでも探すのをやめるまでには、間があった。
戸が叩かれた。アリアだった。挟み板を胸に抱えて、部屋へは深く入らず、戸口の近くで開いた。
「明日の段取りを、決めさせてください」
明日の巡回の順。神殿の用で今日から延ばしてもらった、外れ牧場の二頭を朝いちばんでよいか。届いた報告のうち、先に見る牧場。母の観察記録を、決めた日のとおりに続けてよいか。イレーネの回復は続いていて、観察の欄はいまは小さな揺れを追うものになっている。
「外れは、朝いちばんに行きます。あとは、報告の重い順で。観察は、いまのままで続けてください」
アリアが書き込む。ペンの音が二度して、挟み板が閉じた。仕事の話のあいだ、素性のことは一度も出なかった。
アリアは戸口へ戻り、そこで半分だけ振り返った。
「……話してくださって、ありがとうございました。これからも、よろしくお願いします」
おやすみなさい、と続けて、扉は静かに閉まった。
ケインは机へ向き直った。
灯りの輪の中に、何も載っていない机の面がある。
ケインは、しばらくそのまま座っていた。




