第37話 家名の欄
木剣を握る手の内を、昨日までよりわずかに緩めた。
正面に立つギルの肩が動く。遅れて剣を追えば間に合わない。ケインは腕ではなく、相手の身体を見た。
踏み込んできた木剣を受ける。乾いた音が朝の裏庭に響き、次の一撃で、ケインの木剣は土の上を転がった。
「左足を残すな。身体が逃げている」
「はい」
拾い上げ、足の位置を直す。落とした回数は、昨日と変わらない。それでも、打たれたあとに立ち尽くすことは減った。手を離れた木剣へすぐに歩き、構え直す。
次は、左足を半歩だけ前へ戻して受けた。木剣はまた手を離れたが、身体までは後ろへ流れなかった。土へ落ちた音が止む前に拾い、元の位置へ戻る。
ギルはケインの足元を一度見て、木剣を構え直した。
もう一度向かい合ったところで、裏庭へ通じる角から声がした。
「ケイン様」
小神殿から来た使いが、建物の陰で足を止めていた。稽古の最中と見て、近づくのを控えていたらしい。
ギルが木剣を下ろす。ケインも呼吸を整えながら、使いへ向き直った。
「セヴラン祭司が、時間のあるときに小神殿へ来てほしいとのことです。急ぎではない、と」
「分かりました。朝の仕事を終えたら伺います」
使いは一礼して戻っていった。
用件までは告げられなかった。急ぎでないなら、先にこちらを終えてよい。
ケインは木剣を構え直した。
「あと一度、お願いします」
「一度で済めばな」
ギルの木剣が上がる。
結局、そのあとも二度、木剣を落とした。
稽古を終えると、ケインは井戸で顔と首筋の汗を洗った。それから朝食を取り、届いていた報告に目を通し、急ぎの処置が必要な家畜がいないことを確かめた。出かける前に今日の行き先を伝え、ようやく屋敷を出る。
小神殿へ向かう坂を下りながらも、ケインは呼び出しの理由を深く考えてはいなかった。
小神殿の奥にある部屋へ通されると、セヴランは机の向こうから椅子を示した。
「リーデンの小神殿から、照会への返答が届きました」
それだけ言って、机の上の紙をケインの側へ向ける。
一枚は、見覚えのある写しだった。再鑑定の日、水晶に現れた表示を小神殿の神官が図形として書き取り、記録に綴じたものだ。
その隣には、別の紙が置かれていた。紙も筆跡も違う。だが、そこに並ぶ二つの形は同じだった。丸みを帯びた線の曲がりも、向きも違わない。
ケインには、二枚とも「けん」と読めた。
同じ表示が残っていたこと自体は、不思議ではなかった。十五のときに水晶へ出たものと、ここで再び出たものが同じだということは、ケイン自身が知っている。
セヴランは、もう一枚の紙を二つの写しの下へ置いた。
「リーデンの小神殿に残る原本を、先方の祭司が確認しています。こちらは、その返答書です」
鑑定を受けた年と場所。十五歳の男子。系統不明、ランク外。儀式を担当した神官の所見。
上から追っていた視線が、本人名の欄で止まる。そこにはケインとあった。
その下に、所属家の欄がある。
グレアム。
目は次の欄へ進まなかった。家を出た日から、自分で書くことも、人に告げることもなかった名が、春の記録には残っていた。ケインという本人名のすぐ下に、今も切り離されずにある。
セヴランの指が、返答書の年と場所を順に示した。
「今年の春、リーデンの町外れにある小神殿で、成人の儀を受けた十五歳の男子。名はケイン。当時の所属はグレアム家。年齢も時期も場所も、あなたから伺った話と一致します」
指が、所属家の欄へ戻る。
「あなたですか」
返答書には、似た記録、可能性あり、とは書かれていない。
ケインは膝の上で組んでいた指を解いた。
「はい。僕です」
セヴランは返答書から顔を上げた。
「家を追われたことと、その理由は、前に伺いました。ですが、家の名までは伺っていませんでしたね」
「名乗らないと決めていたからです」
返答書には、追放のことは記されていない。春の時点で所属していた家の名が、一つの欄に残っているだけだ。
ケインは、その欄を見たまま口を開いた。
「グレアム家は、リーデンで領主に剣をもって仕える騎士家です。僕は、その家の三男として、十五年育ちました」
「グレアム家では、剣に関わるギフトを持たない者に、家に残る価値はありません。少なくとも、父はそう判断しました」
「判読不能のギフトを持つ僕を家に置けば、父の判断まで疑われる。兄からは、そう言われました。成人の儀の翌朝、父から、今日限りで家を出すと告げられました。グレアムの名を頼るなとも。それで、この領へ来てからは名乗っていません」
セヴランがすでに知っていた追放の経緯に、初めてグレアムという家名が結びついた。
家を出されたあとも、春の記録から所属家の欄は消えなかった。家名申告なし、と記されたこちらの再鑑定記録へ、今、その名が届いていた。
セヴランは返答書の上に指を置いた。
「これから記録へ加えることを、先に説明します」
セヴランは、二枚の表示のうち、こちらの小神殿で作られた方を手前へ引いた。
「再鑑定の記録には、ケイン、家名申告なし、とあります。これは消しません。再鑑定を受けた時点では、実際に申告されていなかったからです」
紙の端を指で押さえたまま、その下の余白を示す。
「末尾へ日付を加え、照会先の原本と表示が一致したこと、当時の所属家がグレアム家であったことを追記します。最初の記録を書き替えるのではなく、その後に何が確認できたかを残します」
「追放されたことも、書くのですか」
「書きません」
返事に間はなかった。
「神殿が確認したのは、成人の儀と、その日に記録された所属です。あなたが翌日家を追われたことは、神殿の原本にも今回の返答書にもありません。今ここで伺った話を、鑑定の記録へ混ぜる理由もありません」
ケインは頷いた。セヴランは、追放の真偽ではなく、鑑定記録の対象かどうかを判断していた。
セヴランは次に、返答書を指した。
「照会した結果は、地方中枢神殿へ報告します。こちらから照会を出し、別の管轄にある原本を確認させた以上、返答を受け取って終わりにはできません。照会条件、届いた回答、こちらの再鑑定記録と一致した箇所を記します」
「表示については」
「二度の表示が同じ形であったことまでです」
セヴランの指が、丸みを帯びた二つの形の脇で止まる。
「何を意味するかは書きません。既知の神聖文字に該当せず、現時点では判読できない。その記録を変える根拠は、今回の返答にもありません」
机の上には、ケインには読める二文字が二つ並んでいる。だが、その読みを口にはしなかった。読めることと、それが何の力を示すか説明できることは、同じではない。
「報告は、どこまで伝わりますか」
「まず地方中枢神殿です。誰にでも見せる記録ではありませんが、必要な職務に就く者が照会すれば、確認できる記録になります」
グレアム家との関係は、確認済みの事実として神殿の記録に残る。
「もう一つあります」
セヴランは返答書からケインへ視線を移した。
「ゲルハルト様には、この返答についてお伝えする必要があります。あなたは今、この領で家畜の診療だけでなく、各地の報告や山の工事後の確認にも関わっている。神殿の記録から家名が確認されたことを、領主が外から知らされる形にはできません」
領館でゲルハルトの前に引き受けた仕事が、今度は別の重さを持った。保護を受けているだけだった頃とは違う。今は、領内の記録がケインのところへ集まり、診るべき家畜を選ぶ判断にも関わっている。
ゲルハルトは、ケインがここで何を見て、何をしてきたかを見たうえで役目を置いた。家名より、現在の働きを先に評価した。その判断が外から問われるなら、知らなかった家名までゲルハルト一人に受けさせるわけにはいかなかった。
「ゲルハルト様には、僕から話します」
セヴランは、ケインの顔をまっすぐ見た。
「報告をしないでほしい、という意味ではありませんね」
「違います。神殿の報告は、必要なとおりにしてください。ただ、ゲルハルト様が報告書で初めて知る前に、僕の口から話したいんです」
「分かりました。明日の朝までは、領館への説明も、報告書の提出も待ちます。それまでにお話しください」
「ありがとうございます」
「譲ったのは、順番だけです」
「読めないというのは、存在しないという意味ではありません。まだ調べ終えていない、ということです。ですが、調べ終えていないものを、分かったこととして書くわけにもいきません」
それは慰めではなく、これから作る記録の方針だった。
「そのうえで伺います。山の比較を終えた今、あなた自身は、この表示をどのようなギフトだと考えていますか」
ケインは右手を開いた。掌には何も返ってこない。
「犬型魔獣と羊、狐型魔獣への処置では、害のあるものを拒み、身体へ広がるものを堰き止めました。山の泥では、条件を揃えれば、押し返し方の粗いものと細かいものを分けられた。拒むことと、分けることは、同じ右手から来ています。関係はあると思います。でも、同じ働きだとは、まだ言い切れません」
拒むことと、分けること。ケインの中では、それぞれに当てはまる読み方が生まれている。だが、それは確かめられた作用の名前ではない。二つの文字から、自分が意味を拾っただけだった。
「ギフトの名は、まだ定められないということですね」
「はい」
「今の話は、今回の照会結果には加えません。右手の反応と山での比較は、それぞれの記録に残っています。鑑定の記録へ移せば、表示の意味まで神殿が確認したように読まれかねない」
「分かりました」
セヴランはようやくペンを取り、まだ何も書かれていない紙へ向けた。
ケインは椅子から立った。机の上には、書かれるものと、書かれないものが分けて残されている。
一礼して部屋を出る。扉を閉める前に、ペン先が紙を擦る音が聞こえた。
♢♢♢♢♢♢
廊下から足音が消えるまで、セヴランは最初の一行だけを書いた。
地方中枢神殿。返答書の脇へ置いたまま、宛名を書けずにいた紙へ、今度は迷わず記した。
再鑑定の記録を左へ置く。リーデンからの返答書を右へ。そのあいだに、二枚の表示の写しを並べた。二つの形は同じだった。それ以上の意味は、どの紙にも書かれていない。
照会した日、返答を受けた日、本人名、当時の所属家。返答書で一つずつ確かめ、報告用の紙へ移す。二度の表示については、形が一致した、とだけ書いた。
所属家の次の行で、ペンが止まった。父と兄の言葉も、追放された朝のことも書かない。セヴランが照会して確かめた事実ではなかった。
右手を使った処置の聴取記録と、自分も立ち会った山の比較記録は、机の端へ分けて置いた。どちらも消しはしない。ただ、この報告へは移さない。
書かないものは、書くものより多かった。




