第36話 木剣を拾う
木剣が、乾いた音を立てて土へ落ちた。
ケインは空になった両手を見てから、正面のギルを見た。ギルの木剣は、ケインの右肩へ触れる寸前で止まっている。
「打たれたあとに止まるな」
「……はい」
落ちた木剣を拾い、両手で構え直す。守備兵が使っていた古いもので、握りには何人もの手で擦れた跡があった。
枝を振っているところを見つかってから、ギルは時折、仕事前の短い稽古へ付き合うようになった。教えてほしいと頼んだ覚えはない。古い木剣を渡され、肩を叩かれ、足を払われているうちに、そうなっていた。
ケインは切っ先をギルへ向けた。
「剣を見るな。俺を見ろ」
目を上げる。ギルの肩が動いた。そちらへ意識を取られたときには、木剣が下から跳ね上がっていた。
受けようとして、右足が先に下がる。重心が後ろへ逃げ、腕だけが残った。握りに衝撃が走り、木剣がまた土を転がった。
「踏み込む前から足が動いている。肩にも力が入りすぎだ」
「見るところが多いですね」
「相手は待たん」
「待っていただけると助かるんですが」
「なら、羊とやれ」
それでは剣を持つ意味がない。
息を吐き、木剣を拾う。構え方も足の送り方も、身体は覚えていた。だが、覚えていることと動けることは違う。十五年続けた型は残っていても、衰えた身体で相手を前にすれば、振り終えた次が続かなかった。
三度目に落とされた木剣へ手を伸ばしたところで、裏庭へ駆けてくる足音がした。
「ケインさん。牧場の方々が、もう門前に集まっています」
領館の使用人が、息を整えながら告げた。今日は領内を回る前に、昨日までに届いた相談を確かめることになっている。
「すぐ行きます」
ケインは木剣を拾い、壁際へ立てかけた。ギルは何も言わず、自分の木剣を腰の輪へ戻す。
続きの約束はしなかった。
ケインは手についた土を払い、ギルに一礼してから、使用人とともに門前へ向かった。
門前にはドルフのほかに、見覚えのない若者が立っていた。短く刈った薄茶の髪は寝癖のように跳ね、肩から提げた革袋には、折った紙が何枚も差し込まれている。
「外れ牧場で、北側の囲いを見ているニルスです。これを持ってきました」
差し出された紙には、餌の量を戻しても痩せたままの羊が二頭いると書かれていた。食欲はある。反芻もしている。立てなくなった家畜はいないが、二頭だけ腹の脇が薄く、背骨が触れやすい。
「糞は見ましたか」
「見ました。二頭とも、いつもより粒が小さくて、乾いています。水を飲むところは、昨日は見てません」
「では、今日確かめてもらえますか。飲んだ回数までは要りません。桶へ来るかと、口をつけているかを見てください」
ニルスは革袋から小さな紙を出した。書きつけようとして、ペンを持っていないことに気づき、ドルフを見る。
「見るのは、水だ」
「覚えました」
「ちゃんと書け」
ドルフが短い炭筆を渡した。ニルスは紙へ書きながら、ケインへ訊いた。
「次は、いつ来てもらえますか」
「明後日には行けると思います」
「では、明後日の朝——」
「思う、で組むのか」
ドルフがニルスではなく、ケインへ言った。
門番の詰め所にある机を借り、届いていた相談を広げた。外れ牧場の二頭。南原大牧では、水を替えた群れの食欲と乳量をもう一度見てほしいとある。沢中共同牧からは、以前の記録と同じ項目で比べたいという申し出が来ていた。水路の職人からも、次の雨のあとに下流の皿と布を回収するため、人手を頼みたいとの伝言がある。
「外れを朝から回れば、昼には戻れます。そのあと南原へ向かって、帰りに沢中へ寄れば——」
「南原で一晩泊まったのを忘れたか」
忘れてはいない。ただ、牛の状態を見るだけなら、前ほど時間はかからないはずだ。
「今回は処置が要らないと思うので」
「行ってみなけりゃ、分からんだろ」
「……そうですが」
ドルフは机の紙を、場所ごとに分けた。
「明後日は外れだ。二頭を見て、ほかの羊と水場も見る。南原はその次の日に出て、必要なら泊まる。沢中は別にしろ」
「下流の確認は」
「次の雨のあとだ。降る日まで決められるのか」
ニルスが炭筆を動かし、それぞれの日を書き留めていく。最後に紙を掲げた。
ケインは、そこに書かれた日を読み上げた。
「外れ牧場は、明後日……ということで」
「はい。お願いします。うちの頭は、ここでもこんな感じなんですね」
ケインは苦笑した。ニルスは憐れむような目をこちらへ向けながら、紙を革袋へ差し込んだ。
「昼には戻れ。男爵がお前に話があるそうだ」
ドルフに言われ、ニルスの手が止まった。
「悪い方ですか」
「働けって方だ」
「あ、悪い方ですね」
「おまえがそう言ったと伝えておく」
勘弁してくださいよと言いながら、ニルスは紙があふれかけた革袋に目をやった。
「今でも仕事し過ぎなんだけどなぁ」
誰に向けたわけでもなく、ぼそっとつぶやくと、今度こそ袋の口を締め、馬のつないである方へ走っていった。
ケインは残った日程を見た。一日に回れる場所は、思っていたより少ない。それでも、紙の上には次に行く日が残った。
その日の巡回を終えて領館へ戻ると、ケインは事務室へ通された。
昨日と同じ机に、記録が残っていた。新しく重い状態になった家畜の報告。回収できていない干し草。次の雨のあとに使う観察表。導水路と粘土被覆の補修箇所。イレーネと、アリアたちの観察記録もある。
ゲルハルトは一枚目を手元へ寄せた。
「昨日、この先の仕事について話すと言ったが……」
「はい」
「まず、これまでの働きには対価を払う。領内を回るのにかかった費用も、領で持つ」
ケインは口を開きかけた。ゲルハルトが、静かに先を続ける。
「断られても払う。領が頼み、お前が行った仕事だ」
以前、アリアにも似たようなことを言われた。働きに対価を払わせないのは、こちらの恥だと。
「分かりました」
答えると、ゲルハルトは次の紙へ手を移した。
「では、今後の話だ」
アリアが、牧場ごとに分けた報告を机へ並べた。食欲や反芻が戻らない家畜。飼料を替えたあとの乳量。水場を替えた群れの経過。次の雨に備えて置き直す受け材の位置。どの紙にも、次に確かめる欄が残っている。
「新たに重い状態になる家畜と、山から流れたものは減っています。ただ、止まったとは言えません」
アリアは、自分と両親の記録をその横へ置いた。
「お母様も回復しています。でも、食事を戻してよいわけではありません。わたしたちに症状が出ていない理由も、まだ分かっていません」
「はい。続けて見た方がいいと思います」
ゲルハルトが、机の上で手を組んだ。
「その『続けて』を、仕事として頼みたいのです」
ゲルハルトは、領内の家畜で状態の悪いものを診ること、各地から集まる症状と飼料や水場を照らし合わせること、工事後の変化を確かめることを一つずつ挙げた。調査のときに使った記録の見方も、領館と牧場へ残してほしいという。
「離れと食事は、これまでどおり用意する。領内を回る費用と、仕事に必要な物も領で持つ。そのうえで、決めた期日ごとに対価を払おう」
離れと食事に加えて、必要経費と定期的な対価まで示された。
ゲルハルトは、机に残った記録を見た。
「終わっていないものが、これだけある。私たちだけでは、また同じものを見落とすかもしれん」
そこで一度、言葉を切った。
「だから、ここにいてほしい」
滞在を許す、と言われたときとは違った。
ケインはすぐに返事ができなかった。外れ牧場の二頭。南原の群れ。沢中の記録。次の雨。目の前の紙には、診なければならないものがいくつも残っている。
必要とされている。それを嬉しいと思った。
同時に、今朝、自分が一日に三か所を回ろうとしたことも思い出した。
「僕一人では続きません」
口にしてから、断るための言葉ではないと気づいた。どうすれば残れるかを、もう考えている。
「家畜を診て、記録を比べることはできます。でも、毎日の変化を見るのは、そこで暮らしている人たちです。報告を集める人も、水路や石組みを見る人も要ります」
ゲルハルトはアリアを見た。アリアが頷き、事務室の扉を開ける。
廊下で待っていた者たちが、順に入ってきた。ドルフとニルス。工事で導水路を任されていた水路職人と、木組みを確かめていた石工頭。それに、昨日まで何度も記録を読み上げていた領館の書記だった。
「そのつもりで、集まってもらった」
ゲルハルトが書記へ顔を向ける。
「領館書記のオットーです。各地から届いた報告の清書と保管、仕事にかかった費用の記録を受け持ちます」
オットーはそう名乗り、抱えていた挟み板を胸の前へ戻した。声にも表情にも、昨日文書を読み上げていたときと変わりがない。
ゲルハルトが水路職人へ目を向けた。
「導水路と粘土のところは俺が見る。雨のあとは、詰まりと流れた跡もだ。ハインツだ」
続いて、石工頭が短く名乗った。
「ヨルグ。石と木組みを見る。直す人手が要るときは、先に領館へ知らせる」
「牧場の者には、俺から話す」
ドルフが言った。
「食わねえ、飲まねえ、反芻が減った。歩き方がおかしい。いつもと違えば書かせる。何を見りゃいいかは、あんたが決めろ」
「はい」
最後に残ったニルスが、周りを見回した。
「ニルスです。報告を運びます。外れ牧場の北側の囲いも——」
「そっちは減らす」
ドルフに遮られ、ニルスは目を瞬いた。
「減るんですか」
「増やされると思って来たのか」
「少し」
オットーが挟み板へ目を落としたまま言った。
「北側の囲いは、ほかの牧夫へ分けると聞いています。あなたが受け持つのは、朝の見回りだけです」
「それなら、悪くない方でした」
「そうか」
ゲルハルトが答えた。
「今のは忘れてください」
ニルスはすぐに頭を下げた。ゲルハルトは何も言わず、次の話へ進めた。
牧夫が日々の様子を見て、ニルスが報告を集める。オットーが記録として残し、アリアが地域や飼料、水場ごとに分ける。ハインツとヨルグは山と水路の変化を確かめる。ケインは重い家畜を診て、集まった記録をアリアと照らし合わせる。工事や費用、立入制限を決めるのはゲルハルトだった。
「記録は、わたしがまとめます」
アリアが、自分と両親の観察表へ手を置いた。
「判断に必要なものを、一緒に選んでください。わたしの記録も続けます」
不安がなくなったわけではない。それでもアリアは、確かめられる側だけでなく、これから確かめていく側に立っていた。
ケインは、集まった顔を順に見た。自分の手から離せない仕事はある。だが、すべてを自分の手に持つ必要はなかった。
「分かりました。その仕事を引き受けます」
ゲルハルトが確かめるようにケインを見た。
「残ってくれる、と考えていいか」
「はい。少なくとも、今ある仕事を次へ渡せるようになるまでは」
顔合わせを終えると、ドルフたちはそれぞれの仕事へ戻っていった。オットーだけが新しい予定表を机に残し、挟み板を抱えて部屋を出た。
アリアとケインは、門前で決めた日程から書き始めた。明後日は外れ牧場。その翌日は南原大牧へ向かい、必要なら一泊する。沢中共同牧は別の日に取り、次の雨が降れば、受け材を回収して前の結果と比べる。
毎朝、領館へ届いた症例報告をオットーがまとめる。ケインとアリアが目を通すのは朝食のあと。イレーネと、アリア、ゲルハルトの観察記録も、決めた日ごとに同じ席で確かめる。
空いていたのは、日の出から朝食までの欄だった。
ケインはそこへ、受け材の準備と書きかけた。
「朝は、ギルとの稽古ではないのですか」
ペンが止まった。
「仕事が増えましたから」
「続けるための予定を決めているのに、最初にケインの時間を消すのですか」
ケインは窓の外へ目を向けた。ここから裏庭は見えない。壁際へ置いてきた木剣の、何人もの手で擦れた握りを思い出した。
剣の才は伸びなかった。それでも、この身体は十五年、朝の稽古をやめなかった。献だった頃も、急患が入れば昼食を遅らせ、記録が残れば帰る時間を後ろへずらした。自分のための時間から削る方が、考えずに済んだ。
予定表へ視線を戻す。
受け材の準備を横線で消し、朝食後の欄へ移した。空いた早朝の欄に、小さく書く。
稽古。
アリアは表を確かめ、その下へ一日の最初の仕事を書き入れた。
「では、朝食のあとから始めましょう」
「はい」
翌朝、ケインが裏庭へ出ると、ギルはすでに待っていた。
昨日の木剣は、壁際に立てかけられたままだった。朝露で濡れないよう、軒の下へ少し移されている。
「遅い」
空は白み始めたばかりで、朝食まではまだ時間がある。
「昨日と同じ時刻だと思いますが」
「俺より遅い」
それを遅刻と呼ぶのは、少し無理がある。
ケインは木剣を取り、昨日と同じように正面へ構えた。肩から力を抜き、木剣ではなくギルを見る。足を送る前に身体が傾かないよう、重心を残す。
ギルの肩が動いた。
受けた木剣が跳ね、握りから外れた。土へ落ちる音も、昨日とほとんど同じだった。
「打たれたあとに止まるな」
同じ指摘だった。急にできるようにはならない。
ケインは足元の木剣を拾った。土を払い、握り直す。
「もう一度お願いします」
「言われなくても、そのつもりだ」
ギルが木剣を構えた。ケインも、もう一度正面へ切っ先を向けた。
♢♢♢♢♢♢
中心集落の小神殿へ、西方からの返答が届いた。
セヴランは封に押されたリーデンの小神殿の印を確かめ、机の上で開いた。入っていたのは原本ではない。照会された記録を原本で確認したという返答書と、必要な箇所を書き写した紙だった。
鑑定の年と場所。十五歳の男子。本人の名と、当時所属していた家。判読できなかった表示の写し。系統不明、ランク外という判定と、儀式を担当した神官の所見。
セヴランは、再鑑定の記録に綴じた図形の写しを出した。返答に添えられたものと、机の上へ並べる。
二つの形の並びも、丸みを帯びた線の曲がりも同じだった。年齢と鑑定の時期、場所も、ケイン本人から聞いた話と一致する。
返答書の本人名には、ケインとあった。
その下の所属家を読み、セヴランの手が止まった。
グレアム家。
セヴランは椅子から立ち、窓の外へ目を向けた。集落の屋根の向こう、坂を上った先に領館がある。
すぐには部屋を出なかった。返答書を再鑑定の記録へ重ね、その脇へ新しい紙を一枚置く。ペンを取ったまま、最初の宛名は書かなかった。
返答書には、ケイン・グレアムと記されていた。




